第3話 まさかの出来事

 翌日の土曜日。煮物屋さんはいつもの様に18時に開店した。


 今日のメインは海老えびとお揚げと蓮根れんこん椎茸しいたけの煮物である。彩りは塩茹でしたちんげん菜で添えた。


 お揚げと椎茸から出る旨味がお出汁に滲み、具材をまとめ上げる。蓮根は乱切りにしたことで表面積が広くなり、特徴的な穴にもお出汁が絡んで、しゃくっとした歯ごたえの中に滋味じみが広がる。


 椎茸にもしっかりと含められ、噛むとじわりと旨味がにじみ出る。臭みをしっかりと拭い、ぷりっと仕上がった海老もその味わいをまとっていて、口の中で風味とともに弾けるのだ。


 小鉢のひとつはめんまの海苔のり和えである。めんまは水煮のものを用意した。それに中華スープをベースとした味を含ませる。みりんやお醤油なども使い、仕上げにごま油をまとわせた。


 そのめんまを海苔と和えるのだ。コンロで炙って香ばしくなった海苔をばりばりとちぎり、めんまに加えてしっかりと絡まる様に混ぜる。


 味の沁みた歯ごたえの良いめんまにまとうごま油の風味と、ほのかに磯が香る海苔が良く合うのだ。


 小鉢のもうひとつはブロッコリのタルタル和えだ。


 タルタルソースは自家製である。潰した茹で卵にみじん切りにしたたくあんを合わせ、マヨネーズと少量の辛子からしを混ぜ合わせる。それを蒸したブロッコリと和えるのである。


 程よい甘みと酸味を兼ね備えたタルタルがブロッコリを包み込み、その爽やかさを引き立てるのだ。


「今日も美味しいわ〜」


 門又かどまたさんがブロッコリを口に放り込み、じっくりと味わう。おなじみの麦焼酎の水割りを傾けた。


「本当にねぇ〜。週末の煮物屋さんのこの特別感って何なのかしらねぇ〜」


 さかきさんもくい、とハイボールを口に含んだ。


 長らく煮物屋さんの常連さんでいてくださるおふたりは、生ビールを導入してからも1杯目の飲み物を変えられなかった。麦焼酎とウィスキーの銘柄こそ日によって違うが、根っからお好きなのだろう。


 今日は山形やまがたさんが来られていなかった。最近ではすっかりとトリオの様になっていたのだが、急ぎの仕事があるとのことで、来られたとしても少し遅い時間になりそうだということだ。


 まだ開店して間も無いので、お客さまは門又さんと榊さんのおふたりだった。なので佳鳴かなる千隼ちはやにも余裕がある。おふたりと世間話などをしながら、片付けなどのできることをした。


 やがて少しずつ席も埋まって行く。ほとんどは地元にお住まいの常連さんだ。


 初めてのお客さまが来られたのは、まだ席に空きがある時だった。ドアからいちばん近いところが空いていたので、そのお客さまはそこに腰を下ろした。


 若い男性だった。清潔感のある身なりをされている。背はすらりと高かった。かなり細身で「ひょろり」と言う表現がぴったりである。


「いらっしゃいませ」


 対応したのは千隼だった。おしぼりをお渡しし、この煮物屋さんの注文方法をお伝えする。


 佳鳴は他のお客さまとお話をしていたので、そちらは千隼に任せた。


 しかし間も無く、がしゃーん! と何かが壊れる様な派手な音が店内に響いた。


 その瞬間、程よく騒がしかった店内に静寂せいじゃくが満ちた。皆さんの視線がさまよい、やがて背面の食器棚にもたれ、左の頬を押さえて呆然とする千隼と、立ち上がってこぶしを突き付ける男性の元に集まった。


 佳鳴は一瞬何が起こったのかわからなかった。だがその様子を見て、千隼がお客さまに殴られたのだと把握した。


「千隼!?」


 佳鳴が悲鳴に似た声を上げ、客席からも「きゃあ!」「ハヤさん!」と声が上がると、男性は走って店を出て行った。佳鳴は慌てて千隼に駆け寄る。


「どうしたの? 何があったの?」


 何か失礼でもあったのだろうか。だが千隼がお客さまに手を出させるほどの粗相そそうをするとは思えない。そんな間も無かったはずだ。


 千隼は「判らない」とぽつりと漏らす。


「本当にいきなりだったんだ。辰野たつのさんの紹介で来たって言って、俺にここの店員かって聞いて来たからそうだって。で、毎週金曜日に会ってるかって言うから、そうだって答えたら殴られた」


「どういうことなのかしら」


「本当に判らない。何なんだろう。辰野さんの話が出てたから、関わりがあるのかも知れないけど」


 佳鳴も千隼も戸惑うしか無い。自分たちに危害を加えられる心当たりは全く無かった。


「店長さん、ハヤさん、警察呼ぶ?」


 門又さんが腰を浮かせてスマートフォンを振る。警察への届けは必要だろう。だが辰野さんが関係あるのかも知れないとのことだし、ここに警察官が来ると他のお客さまを巻き込んでしまう。迷惑を掛けてしまうことはできない。


「いえ、後で交番に行こうと思います。お騒がせしてしまって申し訳無いです」


「ううん、それよりハヤさん大丈夫なの?」


「痛みがありますけど、まぁ何とか」


 千隼は苦笑しながらそう言うが、頬の筋肉が動いて痛みが出たのか「つ」と顔をしかめた。


「千隼、病院に行っておいで。今日は土曜日だから、深夜外来やってるところ」


「市民病院だったらやってるかな。ちょっと調べて行って来る。診断書書いてもらわないとな」


「うん。これ、一応暴行事件だからね」


「そう言葉にすると重いな」


 千隼は苦笑いを浮かべると姿勢を正した。


「皆さま申し訳ありません。少し外します」


 千隼が客席に頭を下げる。


「大丈夫だから」


「ちゃんとてもらって治療してもらって」


「ありがとうございます。じゃあ姉ちゃん行って来る」


「行ってらっしゃい。気を付けて」


 千隼が客席に頭を下げながら出て行くと、どこからともなく「はぁ〜」と大きな溜め息がれた。


「びっくりしたぁ。一体何があったの?」


 門又さんの言葉に、佳鳴も「さぁ……。本当に判らなくて」と首を傾げるしか無かった。不安はあったがそれをお客さまに気取られるわけにはいかない。佳鳴は笑みを浮かべた。


「それよりご迷惑をお掛けしてしまって申し訳ありません。皆さまにお飲み物1杯ずつサービスさせていただきますので」


「良いわよ、そんなの。気にしないで」


「そうよぉ〜」


 門又さんと榊さんがおっしゃると、他のお客さまからもご辞退のお声が上がる。


「いいえ、せめてもの気持ちですので」


 佳鳴は言いながらペンを取り、お客さまそれぞれの伝票からいちばん高い飲み物1杯分に打ち消し線を引いた。

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