第3話 まさかの出来事
翌日の土曜日。煮物屋さんはいつもの様に18時に開店した。
今日のメインは
お揚げと椎茸から出る旨味がお出汁に滲み、具材をまとめ上げる。蓮根は乱切りにしたことで表面積が広くなり、特徴的な穴にもお出汁が絡んで、しゃくっとした歯ごたえの中に
椎茸にもしっかりと含められ、噛むとじわりと旨味が
小鉢のひとつはめんまの
そのめんまを海苔と和えるのだ。コンロで炙って香ばしくなった海苔をばりばりとちぎり、めんまに加えてしっかりと絡まる様に混ぜる。
味の沁みた歯ごたえの良いめんまにまとうごま油の風味と、ほのかに磯が香る海苔が良く合うのだ。
小鉢のもうひとつはブロッコリのタルタル和えだ。
タルタルソースは自家製である。潰した茹で卵にみじん切りにしたたくあんを合わせ、マヨネーズと少量の
程よい甘みと酸味を兼ね備えたタルタルがブロッコリを包み込み、その爽やかさを引き立てるのだ。
「今日も美味しいわ〜」
「本当にねぇ〜。週末の煮物屋さんのこの特別感って何なのかしらねぇ〜」
長らく煮物屋さんの常連さんでいてくださるおふたりは、生ビールを導入してからも1杯目の飲み物を変えられなかった。麦焼酎とウィスキーの銘柄こそ日によって違うが、根っからお好きなのだろう。
今日は
まだ開店して間も無いので、お客さまは門又さんと榊さんのおふたりだった。なので
やがて少しずつ席も埋まって行く。ほとんどは地元にお住まいの常連さんだ。
初めてのお客さまが来られたのは、まだ席に空きがある時だった。ドアからいちばん近いところが空いていたので、そのお客さまはそこに腰を下ろした。
若い男性だった。清潔感のある身なりをされている。背はすらりと高かった。かなり細身で「ひょろり」と言う表現がぴったりである。
「いらっしゃいませ」
対応したのは千隼だった。おしぼりをお渡しし、この煮物屋さんの注文方法をお伝えする。
佳鳴は他のお客さまとお話をしていたので、そちらは千隼に任せた。
しかし間も無く、がしゃーん! と何かが壊れる様な派手な音が店内に響いた。
その瞬間、程よく騒がしかった店内に
佳鳴は一瞬何が起こったのかわからなかった。だがその様子を見て、千隼がお客さまに殴られたのだと把握した。
「千隼!?」
佳鳴が悲鳴に似た声を上げ、客席からも「きゃあ!」「ハヤさん!」と声が上がると、男性は走って店を出て行った。佳鳴は慌てて千隼に駆け寄る。
「どうしたの? 何があったの?」
何か失礼でもあったのだろうか。だが千隼がお客さまに手を出させるほどの
千隼は「判らない」とぽつりと漏らす。
「本当にいきなりだったんだ。
「どういうことなのかしら」
「本当に判らない。何なんだろう。辰野さんの話が出てたから、関わりがあるのかも知れないけど」
佳鳴も千隼も戸惑うしか無い。自分たちに危害を加えられる心当たりは全く無かった。
「店長さん、ハヤさん、警察呼ぶ?」
門又さんが腰を浮かせてスマートフォンを振る。警察への届けは必要だろう。だが辰野さんが関係あるのかも知れないとのことだし、ここに警察官が来ると他のお客さまを巻き込んでしまう。迷惑を掛けてしまうことはできない。
「いえ、後で交番に行こうと思います。お騒がせしてしまって申し訳無いです」
「ううん、それよりハヤさん大丈夫なの?」
「痛みがありますけど、まぁ何とか」
千隼は苦笑しながらそう言うが、頬の筋肉が動いて痛みが出たのか「つ」と顔をしかめた。
「千隼、病院に行っておいで。今日は土曜日だから、深夜外来やってるところ」
「市民病院だったらやってるかな。ちょっと調べて行って来る。診断書書いてもらわないとな」
「うん。これ、一応暴行事件だからね」
「そう言葉にすると重いな」
千隼は苦笑いを浮かべると姿勢を正した。
「皆さま申し訳ありません。少し外します」
千隼が客席に頭を下げる。
「大丈夫だから」
「ちゃんと
「ありがとうございます。じゃあ姉ちゃん行って来る」
「行ってらっしゃい。気を付けて」
千隼が客席に頭を下げながら出て行くと、どこからともなく「はぁ〜」と大きな溜め息が
「びっくりしたぁ。一体何があったの?」
門又さんの言葉に、佳鳴も「さぁ……。本当に判らなくて」と首を傾げるしか無かった。不安はあったがそれをお客さまに気取られるわけにはいかない。佳鳴は笑みを浮かべた。
「それよりご迷惑をお掛けしてしまって申し訳ありません。皆さまにお飲み物1杯ずつサービスさせていただきますので」
「良いわよ、そんなの。気にしないで」
「そうよぉ〜」
門又さんと榊さんがおっしゃると、他のお客さまからもご辞退のお声が上がる。
「いいえ、せめてもの気持ちですので」
佳鳴は言いながらペンを取り、お客さまそれぞれの伝票からいちばん高い飲み物1杯分に打ち消し線を引いた。
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