第3話 旨味で殴りつけて

 琴田ことださんはまだ少し迷っている様で、嬉しそうな顔をしながらも受け入れることをできず、小さく俯いてしまう。


 返事がもらえない佐古さこさんは徐々に不安げな表情に移り変わって行く。


「琴田……?」


 そう恐る恐る問い掛けた時、佳鳴かなるは佐古さんの前にほのかに湯気の上がる小さな湯呑みを置いた。


「どうぞ」


「え?」


 佐古さんは困惑した様な顔を佳鳴に見せる。佳鳴はにっこりと微笑んだ。


「よろしければ飲んでみてください」


 佐古さんは戸惑いながらも湯呑みを両手で持ち上げ、熱いのでふぅふぅと息を吹き掛けてこくりと口を付けた。


「ん?」


 佐古さんは一瞬顔をしかめ、だがもっと飲みたいのかまた息を吹いて、今度はもう少し多めに湯呑みを傾ける。そして「ふぅ」と心地よさげな息を吐いた。


「凄く、なんて言ったら良いのかな。優しい味ってこういうのを言うのかなぁ。柔らかで安心する味って言うか。えっと、これはなんですか?」


「昆布とかつおのお出汁だしです。千隼ちはやが、弟が取ったものなんですよ」


 琴田さんが彼氏さんをお連れすると聞いていたので、お出汁を取った時に少し分けて置いていたのだ。


 これまでお醤油しょうゆの強い味のものを食べてこられたのなら、お出汁の美味しさをご存知無いのかも知れない。ならそれを知っていただくのはどうだろうかと、佳鳴と千隼は思ったのだ。


「出汁、ですか」


 佐古さんは聞いてもぴんと来ないのか、目を丸くして小首を傾げた。


「佐古さん、普段お料理はされますか?」


「いえ、全然。実家にいるので母親に任せっきりで」


「このお出汁は、ほとんどの和食のベースになるものです。煮物やお味噌汁に必要不可欠なんですよ。もちろん材料によっては昆布だけかつおだけってあるんですけど、まずはこうしてお出汁を取るんです」


「へぇ、そうなんですね」


 佐古さんは興味深げに身を乗り出す。


「はい。ここにお砂糖ですとかみりんですとかお醤油ですとか、そういうもので調味をします。お出汁の濃度はご家庭やお店によって変わってくるかと思いますけど、当店ではお出汁を効かせたお料理にしたいので、たっぷりの昆布とかつおを使います」


「へぇ〜」


 佐古さんは今度は感心した様に目を開いた。琴田さんも隣で話に聞き入り、こくこくと頷いている。


「昆布とかつおには、たっぷりの旨味成分が含まれているんですよ。イノシン酸やグルタミン酸などですね。それに調味料で味わいを足して、お肉やお野菜からもさらに旨味が出ます。それが素材同士、互いに旨味を補い合うんですね。そうして料理はできあがるんです。なのでそれぞれの旨味を活かすために、当店ではお醤油などはそう多くは入れないんですよ。お出汁や素材の旨味を出してあげるために。佐古さん、お出汁はいかがでした? 美味しいと感じられましたか?」


「あ、はい。醤油は入ってないんですよね?」


「はい。一滴も入っていませんよ。お塩なども入れていません」


「ですよね。あの、美味しいと思いました。これが旨味ってものなんですね」


 佐古さんは目を輝かせて、湯呑みを両手で包み込む。そして半分ほど残って冷め始めているそれを一気に飲み干した。そして苦笑しつつ目を伏せる。


「俺、醤油でその旨味を殺しちゃっていたんですね」


 その通りである。しかし佳鳴ははっきりとはそう言わず、笑顔を浮かべるにとどめた。


「どうしても醤油の味が好きで、足りないとどうしても物足りないって思うんですけど、出汁そのものの味を知っちゃったら、もったいないって思っちゃいます。俺、皆と同じ味付けのものが食べられる様になりたいです。ちゃんと旨味を感じて食べたいです」


 佐古さんは笑顔で言うと、そのまま琴田さんに向き直る。琴田さんは泣きそうな顔をしていた。


「だからさ、琴田、俺と一緒になって、俺に旨いご飯作ってくれよ。俺も旨いご飯作れる様にがんばるよ。最初は醤油多めに入れてしまうかも知れないけど、そうならない様に頑張る。琴田、俺にご飯作りを教えてくれる? 一緒に食べてくれる?」


 琴田さんはじんわりと涙を浮かべて「うん!」と満面の笑みで頷く。


「一緒に美味しいご飯食べようね」


「ああ」


 そうしてふたりは仲睦まじく微笑み合った。


 すると周りから拍手喝采かっさいが起きた。他の常連さんだ。


「おおー、良かったなぁ」


「おめでとう!」


「お幸せにね!」


 方々からそんな声も上がる。琴田さんは両手で口を押さえて、佐古さんは頭を掻いて照れ笑いをしてしまう。「ふふ」「へへ」と小さな笑みがこぼれた。


 琴田さんと佐古さんは「ありがとうございます」とあちらこちらにぺこぺこと頭を下げ、佳鳴と千早に「店長さん、ハヤさん」と向き直った。


「本当にありがとうございます。お陰で佐古くんと美味しいご飯を食べることができそうです」


「はい。本当にありがとうございます。琴田が言ってくれたから、出汁の味を知ることができたから、俺は自分の味覚がおかしいってことを知って、直そうって思えました。少しずつかも知れませんけど、これから頑張ります」


 そして目の前の、お醤油を足した煮物を見て「あ」と声を上げた。


「こ、琴田、これ」


 佐古さんが恐る恐る言うと、琴田さんは呆れた様に苦笑いを浮かべる。


「仕方無いなぁ。足しちゃったものは仕方が無いもんね」


「やった。ありがとう」


 佐古さんは嬉しそうに顔を輝かせると、冷めてしまった煮物に箸を伸ばす。そして口に放り込むと「ん」と顔をしかめてしまう。


「あれ?」


「どうしたの?」


「なんかしょっぱいというか……出汁の旨味を感じないって言うか」


「そりゃあこんだけ醤油を足しちゃったらねぇ」


「出汁の旨さを知っちゃったからかなぁ、こんなに旨味を殺しちゃってたのかぁ。醤油の味が強いだけのって、結構きつい」


「お出汁飲んだだけでこんなに変わるものなの?」


 琴田さんが驚いて声を上げた。千隼はくすりと笑う。


「大丈夫ですよ。リカバリしてみましょうね」


「い、いけますか?」


「はい。一旦お下げしますね」


 千隼は煮物を引き上げるとかぶの葉以外を片手鍋に移し、お出汁を足して火に掛けた。沸いたら砂糖と日本酒を加え、少し煮込んでやる。


「あー、小鉢の方に醤油足さなくて良かったよ」


「本当ね」


 佐古さんが心底安心した様に言い、琴田さんは小さく笑って応える。


 仕上げにかぶの葉を入れたら温める様にさっと煮て、新たに仕上げた煮物を新しい器に盛り付けた。


「はい、お待たせしました」


 リカバリした煮物は、ちゃんと普段煮物屋さんでお出しする色に戻っていた。ふわりと立ち上がるお出汁の香りに、佐古さんは鼻をひくつかせた。


「凄い良い香りがする気がする」


「気がするんじゃ無いよ。するの」


「そうだな」


 佐古さんは琴田さんの少しからかう様なせりふに口角を上げると、鶏団子をはむっと食べた。じっくりと噛んで行く。


「さっきいただいたお出汁の味を思い出してね。しっかりと旨味を感じれると思うよ」


「うん。出汁を意識すると、凄く旨いって感じる。凄いなぁ、団子も甘く感じる」


「鶏肉って甘みがしっかりあるもんね」


「鶏肉にも旨味成分たっぷりですよ。美味しいと思っていただけて良かったです」


「はい。ありがとうございます。これからもちゃんとしっかり味わって食べようと思います」


 佐古さんは言うとにこにこと煮物を食べ、琴田さんも嬉しそうににっこりと微笑んだ。

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