クラウド

 父親の事務所に着いた紗枝はインターホンを押し、ドアスコープの形をした網膜スキャン用の小型カメラを覗いた。

 扉は静かに開いた、父との待ち合わせには事務所を使う事とが多かった、何かと急用の多い父親とはその方が待ちぼうけを食わずに済んだ。

 事務所はあくまでもカモフラージュで本部は其の地下に構えていた。

「網膜スキャンなんて、ほんとに大げさな会社」

 実際には逆であった、外見は一般企業を模しては居るが仮にも国家機関であるもっとセキュリティーは厳しくて良い位であった、しかし其れではかえって目立つと室長の文雄が網膜スキャンだけに留めた、尤も此処に侵入しても重要なデータも、それ程ではない物も全てのデータは地下三十メートルに有る施設のクラウド・サーバーに保管されており研究所員でも限られた者以外は直接サーバーに触れる事はおろか見る事すら出来ない。

 仮に此のビルに侵入を果したとしても、侵入と同時に全ての接続は遮断され機密事項は愚かネットワークに接続する事すら叶わなくなる。

 ようは此のビルに侵入するのは無駄と言う事であった。

 研究員の人選等は全て文雄に一任されており紗枝には第三セクターの企業でアルバイト程度に伝えていたが実際には正式に研究員補佐として登録されている、流石に研究員としては憚られたので補佐として申請した。


 はじめは文雄も国家秘密機関で有る自分の組織に娘を関係させる事に躊躇したが此の侭にしておくには紗枝の能力が高すぎた。

 成人すれば紗枝が情報処理分野に何らかの形で携わるのは間違いが無い、仮に敵対する組織が紗枝の能力に目を付ければ厄介な事に成る、其れならば今の内から手元に置いておけば紗枝を守る事も出来る。

 何よりこの分野においては技術の変化が目まぐるしく少しでも早いうちから実務に就かせた方がよい。

 最初は未成年である事が問題にされ上層部も難色を示していたが、目の前で防衛省のコンピュータをハッキングしてみせると断る事は出来なかった。

 扉の奥には幾つかの部屋があり紗枝は一番奥の扉をノックした。

「どうぞ」父親の声がした。

 父親のデスクの前には真理子が立って居て何かを相談していた。

「真理ネェまだ帰らなかったの?」

 土曜日なので既に帰宅しているだろうと思っていた真理子がまだ研究室に残って居た事に紗枝は喜んだ。

 真理子は紗枝の十歳年上の研究員で紗枝は実の姉のように慕っていた。

 真理子も紗枝の事を実の妹以上に可愛がった。

「何よ悪かったわね、直ぐ帰るから」

「やだ、一緒にご飯に行こう」

「嫌よ面倒くさい」多少S気味の真理子が紗枝をからかうのは何時もの事だ、紗枝も真理子にかまわれて、甘える事が好きだった。

「何でよ、真理ネェのバカ」

「あんたの方がバカでしょ、私はこう見えても天下の東大卒よ」

「バカでも良いから、一緒に行こうよ」

 普段は紗枝も自分の立場を弁えておりふざけた態度や言動をする事はないが、父親と真理子だけの時はその箍を外していた。

 真理子たちもその事は分かっていたし紗枝の事を信用しているので好きなようにさせていた。

「ねぇ、お父さん室長命令で連れて行って」

 一見娘には厳しく接しているように振舞っているが、その実は娘には親バカ丸出しで娘のおねだりを断れたためしがない。

「真理子君申し訳ありませんがお願いできませんか、杏奈も会いたがっていましたし」

 紗枝の母親の杏奈も真理子とは仲が良かった。

「杏奈さんがそう言っているなら行きます」

 実際には杏奈からさそいのメールがあり其の為に残っていたのだが。

「なによ、あたしの為じゃないの」

「杏奈さんからメールがあったの、あんたは連絡くれなかったじゃない」

「なによ、始めから行く予定だったんじゃない」

「お父さんも知ってたの」

「いや今初めて聞いたよ」


「ところで母さんから聞いたんだけど、変なアプリが有るんだって」

「うんライブ壁紙なんだけど、変な声が聞こえたような気がしたの」

「どれ、見せてごん」

「気味が悪いからアンインストールしちゃった」

「お前自分の立場を分かっているのか、もしウィルスだったら如何するんだ、どんな些細な事でも其の手の事は報告しなくちゃいけないと言ったはずだよ」

「ごめんなさい」

 父親に言われて初めて気が付いた、そうだ何で父に相談しなかったんだろう、端くれだが自分もこの研究室の一員のはずだ、此れは明らかな失態だった。

「別に今話しているから良いでしょう、室長」

 真理子が助け舟を出してくれた、何時も紗枝が何かしくじると必ず助けてくれた。

 文雄もそれ以上追及するのをやめた。

「今後は気をつけなさい、で其のアプリはまだマーケットに登録されているのか」

「多分登録されていると思います」

「真理子君テスト用のスマートフォンを一台持ってきて頂けませんか」

「ルートダッシュして有るもので良いですが」

「お願いします」

 文雄は真理子が持ってきた携帯にライブ壁紙をインストールするとデバック用のコンピュータにつなぎ、逆アッセンブルをかけアプリからソースファイルを抽出してウィルス保管用のフォルダーにアップロードしながらインターフォンを取った。

「はい」

 落ち着いた低い声がインターフォンのスピーカから流れた。

「神木君いまDR1に対象のソースをアップロードしました、スマートフォン用のアプリだそうです解析してください」

 何も言わずにインターフォンが切れた。

「相変わらず無愛想な野郎だぜ」

 真理子が男の様な口調でなじった。

「真理ネェ神木さんの事嫌いなの」

「別にそんなこと無いけどたまにムカつくだけ」

 神木はこの研究所ではトップのハッカーだ、愛想は悪いが正義感の強い男だった、真理子は言葉とは逆に十分な好意を持っていた。

「ふぅーん好きなんだ、神木さんかっこ良いもんねぇ」

「あたしをからかおうって言うの、一億年早い、そう言う生意気な事言う娘はお仕置きだ」

 真理子は紗枝の胸を鷲掴みにして揉んだ。

「やめてぇー」

「私があんなオタク崩れ好きな訳ないだろ」

 紗枝は身悶えて部屋中を逃げ回った、暫し二人のおふざけが続き文雄が辟易としているとドアがノックされた。

「どうぞ」

 神木だった。

「神木君どうしまた」

「室長、先ほどのアプリですが少し気になるところがあります」

 紗枝は急に不安になった、何時もの神木なら全てを終わらせてから室長に報告する、途中での報告なんて余程の事だ。

 紗枝は真理子の腕にしがみつき離さなかった。

「このアプリ何処から入手しました?」

 文雄は紗枝の方に向き直ると優しく諭すように言った。

「紗枝、説明しなさい」

 紗枝は今までの経緯を全て話した。

「室長、少し調べたいので、マーケットサーバーへの侵入許可を申請してください」

「分かりました理由は如何しますか明確な理由が無いと許可まで時間が掛かりますよ」

「理由はウィルス発見とでもしておいてください、なるべく早くお願いします、其れと危険レベルをDR3に昇格して措いてください」

「深刻なのですか」

「まだ分かりません」

「紗枝に何か有りますか」

「実害が出ていなくともバックグランドで何をやっているか分からないので、念の為に別の携帯を使用したほうが良いでしょう」

「紗枝、分かったか」

 既に紗枝は冷静さを取り戻していた。

「はい、分かりました此方の携帯の使用は止めます、室長も真理子さんも連絡はBの方にお願いします」

 状況によって話し方を変えるのは如何やらこの親子の癖のようだった、紗枝も神木が加わってから話し方を変えていた。 

「現時点で判明したことですが、まず外部のサーバーにアクセスしてそこからテキストとサウンドファイルをダウンロードしています、通常使用でサウンドを使用している所は無いと言う事ですので紗枝さんが言っていた犬が喋ると言うのはこのファイルを使用しているのでしょう、ダウンロード先サーバーのIPとファイル名はプッシュされているようです、プッシュしているサーバー自体は商用ですので踏み台にされているだけでしょう、恐らく実際のデータは別のサーバーが送っていると思われます」

「アプリ側からIPを取得できないのですか」

「此方からはプルできないようです」

「元のサーバーは特定でき無いと言う事ですね」

「今のところはまだですが、プッシュしてくればつかまえます」

「しかし所在を隠すためとはいえずいぶん面倒な事をしますね」

「ええ、目的はまだ分かりませんが確かに偏執的では有りますね」

「危なそうなロジックは見つかりましたか」

「いいえ特に、ロジックを隠蔽している所もありませんし、ダウンロードしたテキストを表示しているんですがごく短時間で、この長さでは使用者は視認出来ません、後はサウンドを鳴らしているだけで他に不審なところはありません、ファイルの内容がわからないとこれ以上の事は・・・・」

 流石だ十分程度で其処まで分かっているとは、夜までには全て解析が終わるだろう。

「杏奈に聞こえなかったのは、周波数のせいですか」

「恐らく」

「モスキートって事」と真理子

「たぶんね」

「でもあたしも聞こえ無い事の方が多く有りました」

「確かにモスキートなら紗枝の年齢で聴こえないと言うのも変ですね」

「其処はもっと解析して見ないとはっきりした事は言えませんが、別のロジックが有るのだと思います」

「でも態々其の周波数を使うと言う事は若い子を狙っていると言う事よね」

「雪希さんはこの壁紙を見た後にアプリをインストールして変になったと言っていたよね」

 神木も雪希の事は二、三度会ったことがあるので知っていた。

「はい」

「雪希さんの携帯ハックしても良いかな」

「そんな必要ありません、私が話せば携帯くらい見せてくれます」

「そおじゃ後で頼むかもしれないから、その心算でいて」

「分かりました」

「神木君引き続き解析をお願いします」

「分かりました夜までに終わらせます」

「申し訳ありませんがこの後予定が入っているんです」

「何か有れば連絡します」

 神木は部屋を後にした。

「モスキートが聞えないなんて紗枝もおばさんになったわね」

「ひどい、まだ十七よ真理ネェと違うんだから」

「そんな事を言っても良いのかな」

「後にしなさい」

 また一騒ぎ起こりそうだったので文雄が窘めた。


 待ち合わせ場所には既に杏奈が着いていた。

「もお、遅いわよ」

「御免、帰り際にバタバタしてしまって」

「真理ちゃん、紗枝、買い物行こう、あなたは罰として荷物持ちよ」

「罰って何時もじゃないですか」

「男がぶつぶつ文句言わない」

「ハイハイ」

「ハイは一回」

 真理子と紗枝はお互いを見合わせて苦笑いをした。

「本当に仲がお宜しい事で」

 

 食事も済んで文雄がそろそろ帰るきっかけを探し始めたころ神木から電話が入った。

「そうですか分かりました」

「杏奈すまないけど研究室に戻りたいんだ」

「紗枝は如何する」

「私も戻ります」

 自分の事でもある、戻らない訳には行かない。

「真理子君はどうしますか」

「駄目よ、真理ちゃんは私に付き合うの、どうせ貴方たちは今日は遅くなるんでしょ、土曜の夜に私一人で待ってろって言うの」

「良いでしょ真理ちゃん」

「全然、私はそんなに仕事熱心じゃありませんから」

 文雄と紗枝は杏奈たちと別れると研究室へ急いだ。

「お父さん、何か嫌な感じがするの、雪希に知らせたい」

「紗枝の気持ちは分かるけど、神木君の報告を待つんだ」

 研究所に着いた二人は自分の部屋には寄らずに直接神木の部屋へ向かった。

「神木君、如何ですか」

「元サーバーを捕まえました、此方は個人所有のサーバーですが許可申請はどうしますか」

「今まで通り事後報告で良いでしょう」

「では、始めます」

 神木はサーバーに侵入した。

 この手の個人所有のサーバーはフリーのOSを使用している事が多い。

 このサーバーも例外ではなかった。

 外部からは管理者権限でログインは出来ない様になっているので先ず一般ユーザーでログインする、その後管理者権限でログインするのでパスワードは2通り必要に成る。

 神木は既にパスワードを2つとも解析していた。

 つまり二人が到着する前に既に侵入を果していたと言う事だ。

「神木君、今度からは侵入前に僕に連絡してください」 

「申し訳ありません、無駄な時間を取らせたくなかったので」

「お気遣いは無用です」

「ありました」

 暫くサーバーを探っていた神木が目的のファイルを見つけた。

「内容は」

「今再生します」

「何も聞こえませんね、紗枝は如何だ」

「うん、ハッキリじゃないけど何か言っている」

「神木君は如何ですか」

「いえ僕も聞こえません」

「周波数を変えて見てもらえますか」

「分かりました」

「聞こえましたね」

 今度は文雄にも聞こえた。

 内容はアプリケーションのダウンロード先とインストール手順を言っていた

テキストの内容も同じものを文章にしたものだった。

「ダウンロード出来ますか」

「今やって居ます」

「神木君、君の意見は」

「おそらく暗示を掛けてインストールさせようとしているのでしょう、全員は無理でも何人かは誘導されるのではないですか、アプリ自体は目的のアプリをインストールする為だけで本体は此方でしょう」

「100%の効果が無い無差別な方が都合が良かったのでしょう原因の特定が難しくなる、或いは本当の目的を隠す為かもしれない」

「しかし何故直接此方をインストールさせないのでしょう」 

「くそ、素人のサーバーは此れだから」

「如何しました」

「こいつシステム設定時のログしかとっていません、此れだとこの先を辿るのは無理です」

「これ以上は無理と言う事ですか」

「いえ多少時間は掛かりますがやってみます」

「お願いします」

「今日はお二人とも帰ってください」

「神木君も適当な所で切り上げてください、この案件は長くなるような気がします最初から飛ばし過ぎると息切れしてしまいますよ」

「分かりました今日は片づけてまた月曜から取り掛かります」

 恐らく神木は月曜まで此処に居るだろうと文雄と紗枝は思った、そして月曜の朝には何らかの結果を出しているだろう。

 神木が一度始めた事を中断する事は無い、結論が出なければ端末の火が消される事は無い。

 そして神木は必ず結果を出す。

「室長、雪希にゲームを止める様に言っても良いですか」

「そうですね、神木君どう思いますか」

「ええ、実態が分からないうちはあまり大袈裟にするべきでは無いと思いますが、雪希さんなら大丈夫でしょう」

「紗枝、雪希さんに忠告して下さい、只し神木君が言うようにあまり騒ぎが大きく成らない様にお願いします」

「分かりました、取り敢えずメールを入れて帰ってから電話で話します」

「そうして下さい」

「では神木君私たちはお先に失礼します」

「お疲れ様でした」


 紗枝は家に着くと雪希に電話を入れた。

「はい」

 電話に出た声は普段の雪希とは別人の様に聞こえた。

「メール見てくれた、昼間に言ってたアプリなんだけどもうやってるの」

「何それ」

「恋人育成ゲームが有るって言ってたじゃない」

「あぁあれ」

「アンインストールした方が良いかなと思って」

「別に如何でも良いでしょ」

「雪希何か怒っているの」

「関係ないでしょ」

「ねぇ如何したの何か有ったの変だよ」

「関係ないって言ってるでしょ」

「何よ人が心配して言ってるのに関係ないって本当にそう思って居るの」

「だから其れが大きなお世話だって言ってるの、誰が何時心配してくれって言った」

 取り付く島もなく電話を切られた。

「如何したの」

 電話の声を聞いた母親が心配して声をかけてきた。

「うん、大丈夫ちょっと雪希と」

「雪希ちゃんと喧嘩したの、貴女に何を言ったの」

「何も言ってないよ、前に言っていたアプリの事で少し話しただけ」

「また貴女余計な事を言ったんじゃないの」

「違うってば」

「明日会って謝りなさいよ」

 雪希の事をよく知っている母親は悪いのは紗枝だと決めつけている。

 日頃の行いを見れば至極真っ当な意見なので紗枝は反論をしなかった、ただ電話では売り言葉に買い言葉で怒鳴ってしまったが紗枝自身は喧嘩をしたとは思って居なかった。

 其れよりも雪希の事が気に成るのでもう一度電話をして見たが携帯にも家電にも雪希が出る事は無かった。

 雪希があの程度の事で怒りを露わにした事は一度も無かった、その事が酷く気に成ったし、アプリの事も話さなければ成らないと思い、自分が悪いとは思って居なかったが「ごめんね」とメールを入れて見たが返信されてくる事は無かった。

 翌日の日曜日は母親に言われたように謝るかどうかは別として兎に角雪希に直接会って話そうと思い家の近所まで行ってみたが如何しても玄関のチャイムを押すことが出来ずに結局雪希に会わずに帰ってきてしまった。

  

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