第5話 通報というより捜索
僕はケーサツに電話をしようか迷ったが、雨も降っているし、上空では雷鳴も聞こえるし、消防が来るまで何もせずにここでポツンと立っているのも癪な上に、桜井を放置しておくのもかわいそうなので、自分で桜井を探すことにした。
まずもう少しだけ下山した。あの沢はまだ下の方を登っている時にも見かけた。ということは下であの沢を見つけたら、桜井のところにたどり着けるかもしれない。頼む。生きていてくれ。
ぬかるみに足を取られながらも、一緒に登山へ行くと言った時の笑顔を思い出して、歩を進めた。あるいは、彼女がこうした災難に遭ったのは、素人の僕と一緒に来たからかもしれない、と後悔しつつの前進だった。
転がり落ちた時にあちこちをしたたか打ったため、軽い擦り傷はあったが、それよりも足をひねったのか、立ち上がることが困難だった。
雨は無情にも降り続けている。樫野くんは無事に下山しただろうか。初めての登山がこのような迷惑をかける形になり、わたしは本当に申し訳なく思っている。もし次に誘うことがあるとしたら、彼は応じてくれるだろうか。ぶるっと震えた。寒かった。夏とはいえ、雨が降ったら体感はぐっと下がるし、水分を含んだ服から体温が奪われていく。こうして遭難に遭ったことは初めてだった。樫野くんと登山に行けたことで浮かれすぎていたのかもしれない。いいところを見せようと張り切りすぎていたことも。
「ツッ!」
立ち上がろうとしたら、やっぱりすねが痛かった。消防を呼ぶべきかと思ったが、もしかしたら樫野くんがすでに呼んでくれているかもしれないし、彼が正確な居場所を知るために助けに来てくれるかもしれないという淡い期待があった。
わたしは天を仰ぎ、顔に雨を浴びた。ぶるっと震えた。雨宿りになりそうな針葉樹を見つけると這って行った。
登山道から外れた斜面を笹やぶを蹴散らしながら大股で下って行った。ぶ厚い茎に足を取られて転がり落ちて行く。泥に顔面から突っ込んだ。手も足も髪もレインコートも泥だらけだった。こんなことになるならレインコートを借りなければよかったと後悔した。桜井のやさしさが雨水を受けるより熱く身にしみた。
桜井の名前を叫び、その姿を探すうちに彼女のことがどんどん好きになっていった。
『絶対にアイツを見つけてやる』
もはや僕自身が遭難することも考えずに彼女が転がり落ちた場所に当てをつけて探した。登る時、小川程度だった沢が激流になっていた。樫野は激流に触れていない大岩にジャンプして対岸へ渡った。
「桜井ぃぃぃ!!」
雲霧が立ち込める中、精いっぱいの声で好きになった子の名前を呼んだ。
手頃の岩に寄りかかっていつの間にか体育座りで縮こまっていた。雷鳴で目が覚めた。いよいよ本格的にヤバイことになってきたようだ。雨音をシャットアウトして、雷鳴に耳を澄ませた。ぶるっと身震いした。スマホを取り出し、『119』をプッシュしようとしたら、次第に小さくなった雷鳴に混じって、わたしの名前を呼ぶ声がした。
わたしはすねが痛いのも忘れて上体を起こすと、その声に応えた。
「わッたッしッはッここでぇぇぇすッ!! ここにいまぁぁぁぁすッ!!」
誰だろうか。樫野くんが通報して駆けつけてくれた消防官だろうか。わたしは何度も叫んで居場所を報せた。
「見ーつけた」
いきなり後ろから声をかけられて、わたしは飛び上がった。樫野くんだった。
わたしは遭難していたことも忘れて、くすっと笑った。
「なにその見つけ方。怖いよ」
樫野くんもびしょ濡れで泥だらけだった。両手のひらを差し出し雨水をためると彼は思い出したようにゴシゴシと顔を洗って泥を落とした。
「ありがとう。これ返すよ。桜井の方がダメージ大きそうだし」
彼はレインコートを返してくれた。その時にわたしは立ち上がろうとしてよろめいた。彼が手を取ってくれた。
「なんだ、桜井、足を怪我してるのか?」
わたしは岩に腰を下ろしてレインコートを着て丸まった。
「僕の肩を貸して下山しよっか?」
「それじゃ迷惑をかける。ゴメン、消防呼んでもらっていい?」
救助が来るまでの間、わたしたちは明るいことばで励ましあった。窮地を共にして乗り越えたからだろうか。樫野くんは不器用な手つきでわたしの許しを得てからわたしを抱きしめてくれた。レインコート越しなのでお世辞にも抱きしめられている感は薄かったけれど、わたしはこう言った。
「いちいちわたしの許可を取らなくてもいいよ」
誰にも心を許したことのないわたしから発したとは思えないことばだった。わたしは樫野くんのことが好きになっていた。
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