第4話 下山というよりサバイバル

 登りの二倍くらいのペースで速さで下山した。地面に足をつけるたびに衝撃でガクンとなったが、頂上で休憩していたためか、体力はいくぶん回復していた。身近な木を手すり代わりにして桜井の後に続いてどんどん下っていく。

「ゴメンね、ペース速すぎて」

 桜井が首だけで振り返った。

「いいよ。これくらいついて行ける。桜井さんはスゴイね。迷いなく足場を見つけてひょいひょいと」

「わたしは慣れてるから。わたしの方こそゴメンね。山頂でゆっくりしすぎた。他の登山者の人は、雨が来るとだいぶ前に思ったみたいだね」

 登山中に見かけた感動的な景色も、急ぎの下山ではほとんど目に入らなかった。

「うわッ」

 樫野は登山道に埋まった岩に足をついた時、誤って足を滑らせて尻から滑り台のように転倒した。

「わッ」

 樫野の驚きの声を受けてビックリしたのか、桜井も同様の声を上げた。

「だいじょうぶ? 樫野くん」

 仰向けになった樫野の手を取り、ファウルをしたサッカー選手が相手選手の手を取るように助け起こした。

「ありがとう桜井さん」

 その引き上げる力が思いの外強く、樫野は軟弱な自分を恥じた。

「気をつけてね。下山する時の方が足元を間違えやすいからね」

「重ね重ね迷惑かけるね。スマン」

「そんなことないよ。だって樫野くん初めてだもん」

 下山しても前を行く登山者はすでに一人もいなかった。登ってくる人も。しばらく下っていると森は灰色に包まれた。ポツポツと音がした。雨が降り始めたのだ。

「ヤバイ。レインコート持ってきてねえ」

 桜井は手頃な岩を見つけるとザックを降ろして中からレインコートを取り出した。

「樫野くんこれ使って」

 樫野は目を剥いた。

「使ってって。二着持ってきてるの?」

「ううん、これだけ」

「じゃあ君が使いなよ」

「イヤ。樫野くん使って。わたしの判断ミスだから。まさか雨に打たれるとは思わなかったし、天気予報で雷雨の可能性があったことを見ないようにしていたから

「見ないようにしていた? どういう意味?」

「樫野くんとどうしても山に行きたかったから雨が降らないように天に祈っていたの。午前中のうちに下山しなくちゃとも考えていたんだけど、樫野くんとの時間があまりに楽しくて山頂に長居しちゃった。だからわたしのせいだから、使って」

 頑固なまでに押し付けてくるので、軽々しく拒否もできず、樫野はレインコートを受け取った。

 梢に遮られているのでわかりにくいが、けっこうな雨が降り出したようだ。梢や笹やぶに打ち付ける雨音はポツポツではなく、ボツボツに変わった。

「やっぱりレインコート返そうか?」

「ううん、いらない」

 桜井の髪はツヤツヤになり、海藻のようにほおにべったり張り付いた。雲の中にいるのか、白い靄に覆われている。登って来た時の森林浴とはまったく別の世界にいるようだった。沢だったところは水量が増え、道を遮る川になり、谷底へ落ちている。上流ではかなりの量の雨がいっぺんに降ったようだ。

「わたしが先に行くね」

 桜井は手近にあった木の枝をつかみながら、急流を横断していった。

 ところが、枝がポキリと折れて、拠り所を失った桜井は沢に流され、急斜面を転がり落ちていった。

「桜井ー!!」

 出来うる限りの声を張り上げても返事はなかった。


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