第3話 山頂というより登頂
熊よけの鈴がチリンチリン鳴っている。一人で登ったらと想像すると、幽霊か僧侶が後ろから近づいていると思えるような恐ろしい音に聞こえた。そのことを桜井に告げると「わかる〜」と理解を示してくれたことが純粋に樫野はうれしかった。自分の感覚が自分だけのものではないことを知るのは、自分が認められた、ということではないだろうか。
右側に斜めに突き刺さった草木の生い茂る急峻な崖を通った。通れる足の幅がつま先からかかとの幅くらいしかなかった。
「マジかこれ! 落ちたらタダじゃ済まねぇじゃん」
「大怪我するね」自明のことのように桜井が言った。「樫野くん気をつけよう」
登山初心者のため樫野にはわからなかったが、標高が低い山といっても、危険な箇所は幾つかあった。この次の崖がそれだった。眼下には岩に張り付くようにしてハイマツの木々があった。ここは登山道が広かったとはいえ、足を踏み外したら自由落下である。
「もうすぐで山頂だよ」
さすがの経験者、桜井は急な登山道に設けられたロープをつかむと先頭切ってすいすい登って行った。彼女が登り切ってから樫野も登った。桜井は見かけよりもずっとタフでパワフルだった。途中で何度も彼女に休憩を頼んでペースダウンした。
「ゴメンな、桜井」
初心者向けとはいうものの、まったく経験のない登山に太ももの疲労がハンパなく、息も切れ、背中のリュックもわずらわしかった。それに比べて桜井はたくましい。まだ脚を残しているのか、ベテランの修験者のように軽々と登って行く。
「いいよ。もうちょっとゆっくり行こうよ」
肩で息しているうちに、森だった視界が開け、まだどこまでも続く山並みが広がった。
「うわぁ…スゴいね〜」
あまり感情を表に出すことのない樫野だが、この時は本当に感動した。
すでに下山を始めた登山者とすれ違った。
「こんにちは〜」
桜井が挨拶をしたので、樫野も同様に挨拶した。
山頂で昼食を取った。
「ジャジャーン」
とくに意味のない効果音をつけて樫野はバスケットを開いた。手作りのサンドウィッチだった。約束通り二人分作ってきた。
「ありがとう樫野くん。おいしそうだね〜」
「コンビニとどっちがおいしそう?」
「樫野くんに決まってるじゃん」
「言うね〜」
「ホントだって!」
「好きなの選んで」
バスケットを差し出した。
「じゃあ、コレ! いっただきまーす」
桜井はハムとチーズとレタスの挟んだサンドウィッチを選んだ。
「おいしぃ〜」
「ありがとぅ〜登頂した達成感があるから、なおのことイケるね〜」
タマゴサンドの味付けといい、ツナサンドのツナのマヨネーズと塩こしょうの絶妙な加減といい、樫野も満足行く出来栄えだった。
「いいね〜魂が洗われていくようだ」
樫野は青空を独り占めするように思い切り両手を掲げた。
「汚れていたの?」
桜井が樫野の顔をのぞき込むようにした。
「こんなに気持ちいいってことは汚れていたに違いないね。なにせ外の空気を吸うことなく、家に閉じこもっていたんだからねぇ」
外へ連れ出してくれてありがとう、と桜井に礼を言った。山頂でも二人でツーショット写真を撮った。
いつの間にか他の登山客はいなくなっていた。先ほどまで快晴だった空にいつの間にか薄い雲が忍び寄ってきた。
「ヤバい。樫野くんそろそろ下山しよう」
桜井が急いで荷造りを始めたのを見て、樫野もバスケットをしまい、リュックをふたたび背負った。
「どうしたの?」
「雨雲が近づいてる。天候が変わったんだと思う」
「天気予報では晴れだって言ってたけど?」
「いま夏だからね、ところにより雷雨になる、とも言ってたよ」
「そこまでは見てなかったなぁ」
のんきに言っている場合ではなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます