第2話 登山というよりハイキング
天気良好。風無し雲無し忘れ物無し。
昼食は二人分を樫野が用意するとの約束で、バスターミナル駅ではペットボトルの清涼飲料水を二本購入し、バスを乗り継いで天上沼岳の登山口へ向かっていった。乗客はみな、ザックを持ち、服装も明らかに登山者のそれだった。
国道を右へ逸れてから、明らかに木々が多くなり、樫野は辺境へ入っていく気分になった。そして、中途半端なところでバスは止まった。
「ここから先は、登山口までは歩かないといけないの」
申し訳なさそうに桜井は言った。隣を車が一台通っていった。どうやら車だったらまだもう少し奥へ行けるようだ。
「でも晴れて良かったね」
「うん」
「日焼け止めクリームは塗った?」
「塗ったよ。SPF40のもの」
「あれ塗りすぎたら、顔真っ白になって面白いよね」
「舞妓さんみたいにね」
桜井の背負うザックは樫野のそれよりも大きかった。登山シューズもずいぶん使い込んでいるのか、明らかに新品でありデザインも洗練された樫野のそれより、頼りがいのありそうなグレーの無骨なデザインだった。多くの女子は選ばないデザインだろうと樫野は思った。彼女に興味を持った。不思議だった。高校へ入り、ほとんど興味のなかった女子が中間テストの世界史Bの点数がまったく同じという結果だけで、接点ができて話すようになる。
熊よけの鈴がチリンチリン鳴った。カラカラカラという音の鈴もあった。樫野と桜井はおしゃべりしながら歩いているので、真剣な顔で突き進む高齢者グループはストックをさしながらどんどん進み、離れていった。
「土曜日なのにこんなに朝早く起きたのは久しぶりだよー」
樫野は大きく伸びをした。空気もおいしかった。木の葉の緑も目の保養になった。森林浴というのだろうか。小鳥のさえずりも耳に心地良かった。
「これが目的でもいいくらいだよね」
樫野が言うと桜井が強気に言った。
「樫野くん、まだ登山の面白さを知らない。森林浴もたしかにいいけど、汗かいて登って、登頂した時の達成感を知ってほしい」
「ここはまだ序の口ってわけだね」
「うん。ほら、早く登りたい、って体がうずうずしてこない?」
「ゴメン、それはまだわからん」
「私はもう走り出したいくらいだよ」
どこからともなく水のせせらぎが聞こえてきた。広いスペースがあった。そこに二、三台車が止まっていた。そのすぐ隣を川が流れている。近づいたら、意外と轟音だった。
登山ポストがあった。
桜井が自分と樫野の名前を書いた。
「樫野くん住所は?」
住所は樫野が自分で書いた。
「これは遭難した時のアレかい?」
「そう」
すでに何人かの名前があった。住所を見たら、市内だけではなく各地域から来ているようだ。登山はマイノリティな趣味だと樫野は思っていたが、自分が知らないだけで、愛好者はけっこういるらしい。
「だけど、ここは低い山だし、登山道もしっかりしているし、それでも山をなめちゃいけないけど、よっぽどのことがない限りだいじょうぶだと思うよ」
「一応、さっきチョコ買っておいたよ。同じ量だと一番カロリー高いんだろ?」
「そうだね。わたしも買ったよ」
「だけど、気温が上がったら溶けそうだね」
癒しの森林浴はここまで。
樫野と桜井は緩やかな傾斜を登っていった。川の轟音が小さくなった。気がつくと聞こえなくなった。
「あ、エゾリス」
桜井はとっさに口にしたが、
「え? どこどこ?」
「ゴメン。もうやぶに消えちゃった」
「エゾリスからしたら、なかなか処世術に秀でている、ってことだね」
「うん。簡単に動きのとろい人間にシャッターチャンスを与えるようじゃ生き残れないよね」
身近ではなかなか見られない花を見つけて、樫野はデジカメに収めた。念のためデジカメを持ってきたのが良かった。スマホで撮ろうとしたら、桜井にやめた方がいいと言われたからだ。
「スマホは、通信手段だから。万一の時に連絡を取れるようにするために写真を撮ってバッテリーを消耗するのは厳禁」
「なるほど。そういえばそうだ。素人はダメですね〜」
樫野からしたらなにもかもがめずらしかった。大木にできたうろ、大木に寄生するねじ曲がった木々、杖みたいな形をした枯れ木、小鳥のさえずり、苔むした大岩、倒木に申し訳なさげに生えた新芽など。いちいちデジカメを取り出し、写真に収めたのだが、桜井はそういうことにはもう慣れているのか一度もしなかった。
「桜井にはもうめずらしくもなんともないの?」
「ん? なにが?」
「花とか木とか?」
「どういうこと?」
「僕ばっかり写真に写してさー」
「ゴメン、わたし、登山中は写真を撮らない主義なんだよね」
「ふうん、なんでなの?」
「ステキな景色はこの目だけに収めて体で受け止めるから。写真撮って景色に浸る時間をムダにしたくないの」
「…ああゴメンな。ペース乱して」
樫野は写真を撮ることは桜井の気に入らないことなのかなと思ったが、彼女は焦ったように必死で否定した。
「ううん、イヤ、いいのよ。樫野くんは登山初めてだしね。べつに写真を撮る人を否定しているわけではないの。それはそれでいいと思う」
「僕の方こそゴメン。イヤミで言ったわけじゃないんだ」
二人で謝り合戦になっておかしな空気になったが、細い沢を渡り、つづら折りに登った先で視界が開けた時に、樫野はおかしな空気を忘れて立ち尽くした。
思わず声がもれた。
「うわあ…なにここ」
「ここが中腹の沼。通称、『逆さ沼』。今日は天気がいいし、風もないからよく見られると思うよ。ほら見て」
桜井が指差した沼を見たら、その奥にある針葉樹の森が逆さに映り込んでいた。沼には水草も生えており、そばに木を削って作ったベンチがあり、二人はそこで休憩を取った。近くには小屋もあった。
「あの小屋なに?」
「どっかの大学が昔使っていた小屋って話を聞いたことがあるよ」
「風情があるね。森の中に小屋がぽんって。童話の世界みたい。水面に映る針葉樹も素晴らしい」
桜井はニヤニヤしていた。
「なに、どうしたの?」
「イヤ、ありがとう樫野くん」
樫野には桜井から礼を言われる心当たりがなかった。
「僕、なにかやった?」
「一緒に登山へ行ってくれてありがとう」
「そんなことで?」
「そんなことじゃないよ。今までこうゆう喜びを共有できる人がいなかったから、うれしいの」
そういうモンかな、と樫野は思った。そういうものかもしれない。樫野にも趣味であるお菓子作りを共有できる人はいないからだ。まだお菓子作りを始めた頃、会心の作ができても、その歓喜を理解してくれる人が母親以外にいなかった。高校へ入り、挨拶代わりにクッキーをクラスメイトに食べてもらうことで、多少は虚しさが解消されたが、どちらかというと一緒にお菓子作りを語り合える友達がほしいのかもしれない。ほしいのだろう。
「写真撮っていい?」
桜井がスマホを手にした。
「あれ? スマホで写真はバッテリーの関係でダメなんじゃなかったっけ? それに、写真は撮らない主義なんじゃ…」
「基本はね。でもスマホは予備バッテリーを持ってきてるし、せっかく一緒に来ているんだから二人で写真撮りたいじゃない」
針葉樹の映り込んだ沼を背景にツーショットで写真を撮った。
「後で僕にも送ってね」
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