【性加害】ジャニーズと山下達郎、それぞれの自己愛と自己対象【イデオロギーバカ】
かつて日本のロックファンにとって、アイドルは天敵であった。
音楽家なら自分で曲くらい書け。自作できない、演奏もできないくせに何ででかい顔をしているの。しかもそれがロックよりも売れているときた。一体どういうことよ?
しかし、こうした『自作自演至上主義』といったものが存在するのは、どうも日本だけらしい。
海外では例えば、ホイットニー・ヒューストン、セリーヌ・デュオン、或いはリンダ・ロンシュッタットに対して、『こいつらは自作しないからシンガーソングライターより格下だぜ』などと言う奇特な者は恐らく存在しないだろう。
日本のアイドルの問題は、自作自演云々ではなく、歌がド下手なことにある。海外では、そもそも碌に歌えもしない人間が何で歌手をやってるの?という疑問を抱くらしい。
しかし、我が国のアイドルの場合、その稚拙な歌唱力が逆にアイドルとしての魅力として認識され人気を博しているという、誠に想定外の状況であろう。
そうした『自作自演至上主義』といったモノが見直されてきたのは、恐らくSMAPあたりからではないかと思う。
ハイクオリティな楽曲によって、ロックファンの間でも、アイドルもカッコいいじゃん、これもアリじゃん、といった空気に変化していったように思う。
楽曲だけではなく、本人たちのイメージも、それまでのジャニーズアイドルとは違っていた。
これは優秀な作家陣と共に、飯島マネージャーの手腕によるところが大きいと思う。
ジャニー喜多川のセンスは良くも悪くもゲイ特有の裏返ったもので、ノンケには理解し難い部分があったが、SMAPは等身大な親しみやすいイメージで、男性にも広く受け入れられたように思う。
それに伴ってか、現在では、松田聖子や中森明菜の歌唱力も正当に評価されるようになってきている。
とは言うものの、『アイドル』と『アーティスト』の地位がいきなり逆転する訳でもなく、その点が今後も変わることはないであろう。
このような状況であるからして、山下達郎がジャニーズ事務所とジャニー喜多川に忖度するような態度を取ったことは、ロックファンにとっては二重の意味で裏切りと見做されたことであろう。
彼は『長いモノに巻かれている訳ではない』と述べている。しかし、J-Popを代表するアーティストである山下達郎にとって、ジャニーズは『長いもの』なのか?楽曲を提供している山下の方がジャニーズより下の存在なのか?長年にわたる性的虐待という犯罪行為とその隠蔽が疑われるアイドル事務所にそこまで気を遣う必要があるのか?ファンでなくとも彼の発言に対する疑問は尽きない。
ロックとアイドルを明確に区別するモノがあるとすれば、それは反体制、反骨精神といった精神性、或いはそのイメージであろう。
かつてロックは、不良の音楽とも言われていた。しかし、決して優等生ではなくても、弱者に対しては共感を示し、体制の腐敗や社会悪に対しては臆することなく声を挙げる。それが音楽の本質に関係するかどうかは別としても、少なくともそのようなイメージをファンはアーティストに求めていた。
アーティストの存在理由があるとすれば、それはリスナーの代弁者として、或いはそうしたイメージ故であろう。
山下はJ-popを代表するアーティストであると同時に、その良心を体現する存在、人格者であると見做されてきたはずである。
そうしたイメージが一夜にして吹き飛んでしまった。
山下は以前から、『自分は元々裏方の人間』『自分では歌わなくてもいい』というような発言をしているようだ(掲示板で拾ったネタ)。
であれば、彼にとっては自作自演よりも、プロの作曲家が曲を提供して、パフォーマーがそれを歌うというような形態こそが、ポップシンガーとしてのあるべき姿なのかもしれない。ジャニーズはその理想形ということであろうか。
そうなると『政治的発言はしたくない』という彼のスタンスも、理解出来ないことはない。
ところが、その『政治的発言をしない』という彼の発言をきっかけにして、新たな政治的分断が引き起こされたことは、実に皮肉な話である。
松尾清が共産党のシンパだったらしく、SNS上で左翼が彼の援護に回ると、その一点に反発する形で、本来は女性蔑視、反LGBTQを信条とするはずの保守派が、ジャニオタと共に山下を擁護するという、かなり珍妙な光景が見られた。
ここ最近、映画でも描かれているが、エルヴィスやアレサ・フランクリンも、当初は政治的発言を避けていた。しかし、世相の変化や自身の影響力を鑑みて、そうした発言に踏み切った。自身の信条も大事だろうが、時にはそうした臨機応変な対応が必要になることもあるだろう。
そもそも、この性的虐待の問題というのは、右左に関係なく、高度に政治的な問題という訳でもない。これはあくまで人道問題であり、『戦争反対』とか『暴力反対』といったレベルの話だ。幾らジャニーズとの関係が深いとはいっても、幾らでも言い様はあるはずである。今回の山下の態度は、ヒトラーや毛沢東だっていいことしたから悪事は帳消しですよ、と述べているのと大して変わらない。
アメリカの精神科医コフートは、自己対象という概念を提唱した。
ごく簡単に言えば、心の拠り所のようなもので、その対象とは、人間だったり、モノだったり、概念だったり、人それぞれである。
元々は自己愛性パーソナリティ障害に顕著な特徴の一つであるとしていたが、コフートは後に、自己対象とは誰にとっても重要なものであるとして、その範囲を普遍的なレベルにまで拡大した。
未だにプーチンとロシアをエクストリーム擁護している人々がいるが、これも自己愛と自己対象を原因とする防衛機制であると言える。自己対象とは、謂わば自身の一部であり、それを否定することは自己否定と同義である。自己愛性PDでなくとも、それは容易なことではない。
山下は、ジャニー喜多川とは個人的にも親しいと言われる。
彼にとっては、ジャニー喜多川と彼の事務所が重要な自己対象の一部なのであろう。
そして、ジャニオタにとっても、事務所とそのタレントたちは強力な自己対象である。その半生を捧げてきたアイドルの存在を否定することは、自身の人生を否定するように思えてしまう。彼女らが抵抗せざるを得ないのも致し方ないことなのかもしれない。
結局のところ、誰も彼もが過剰な自己愛に振り回されている状態だ。
しかし、ジャニオタはともかくとして、音楽に対しては人一倍のこだわりがあり、職人とまで呼ばれる山下が、何故、ジャニーズの音楽をそこまで賞賛するのか、音楽ファンからすると、やはり首を傾げざるを得ないのである。アイドルとして容認するのと、プロの音楽家の一員として評価するのとでは次元が違う話である。
事務所側に何か弱みでも握られているのではないかとも勘繰ってしまう。そのための忖度だろうか。
或いは、山下自身が、そこまでジャニー喜多川とジャニーズの音楽に本心から傾倒しているとすると、もしかしたら、そこに『弱み』の一端があるのかもしれない。中森明菜に対する発言も気になるところだ。
我が国の音楽メディアでは、昔からはっぴいえんど、ナイアガラ、そして山下達郎のフォロワーが主流派を占めていた。
音楽雑誌は彼らの『リマスター』『○周年記念盤』特集だけで年間ローテーションを組んでいる。
最近のシティポップに関する書籍では、必ず大瀧詠一の名前がブッ込んであるが、そもそも彼がシティポップであれば、死語同然だったシティポップが今更ブームになる訳がない。
今回の騒動で、最もダメージを受けているのは、そうした、南青山辺りでのたくっているような、それら界隈のフォロワーのライターや業界人くずれの一団ではないだろうか。
折角のシティポップブームにも水を差された形だ。毎月、ナイアガラと山下達郎とはっぴいえんどで回していたローテーションが破綻してしまう。
ジャニーズ事務所は会見で、ジャニー喜多川による性加害の事実を認めた。
これを受けて山下達郎は今後どうするつもりなのか、注目したいところである。
敬称略
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