夜遊び

 俺は顔がバレないようにフードのあるダウンコートを着てマスクを付けた。

「そんなのいらねぇってば」

 そう小倉は最後まで言ったけれど、保身のためにどうしても付けておきたかった。

 それにマスクをつけていないと、これから深夜のコンビニに行くということだけでワクワクしている自分の表情を小倉に見られてバカにされたくなかったという気持ちもあった。

 家を出るのはかなり緊張していたけれど、一度玄関を出てしまうとその後はどうということはなかった。いつも夜の10時くらいまでは塾帰りに外を歩くわけだし、たった2・3時間で世界が劇的に変わることはないだろうと思えたからだ。

 でもそれは少し違った。

 いつもより明らかに空気が冷たく澄んでいて、吸い込むと肺の中から指先まで全身を浄化してくれるような気がした。

 気持ちが落ち着いてくると、周囲を見渡す余裕が出てくる。

不思議なことに、少し時間帯が違うだけでいつも見ているはずの風景も本当に違ったもののように感じた。カラフルな色のLEDがグラデーションで光っている自動販売機も、道端に立っている電柱も、ブロック塀に貼ってある選挙のポスターですら。

それに静かだった。皆が寝静まって俺たちだけが起きているような、そんな静けさがあった。

 ここは、なんて居心地がいいのだろう。

 誰にも怒られることもなく、誰の機嫌を伺うでもなく、誰の指図を受けるわけでもない、ただただ静寂さと闇が広がっているこの世界に愛おしさすら感じる。

 夜はこんなに魅力的だったんだと、俺は新しい発見をした気持ちがしていた。

 そんな中を歩いていると、灰色の上品そうな猫が俺たちの前を横切った。

 俺が少しびっくりすると、小倉が「あいつはここん家の猫だな、いつもこの時間に出歩いてる」と教えてくれた。

 そこは門構えがしっかりした大きな家だった。猫は駐車スペースに続くフェンスの下の狭い空間を通って中に入って行った。

 俺は猫の行方を見るためにしゃがみ込む。

「あいつが夜中に出歩いてること、飼い主は知ってるのかな」

 俺がそう言うと、小倉はポケットに手を入れて突っ立ったまま白い息を吐いて興味なさそうに「さぁ、どうだろうな」と言った。

 フェンスの向こうから猫がこちらを振り向いた。俺たちのことを警戒しているのか、あるいはさよならを言いたいのか。小さく鳴くと家の中に入って行った。

 俺たちはまたコンビニに向けて歩き出した。

 一緒に歩いてみてわかったことだが、小倉はこの町のいろんなことを知っていた。

 駐車場に止まっている車の車種とか、アニメキャラの抱き枕カバーが干してあったとか、あそこの犬はずっと昼寝をしているとか、あの家は毎日のように子どもの泣き声が聞こえてくるとか、ボケた婆さんが一人暮らしをしているとか、とにかく色々なことを知っていた。

 それに比べて俺はいつも下ばかりを見て歩いていたように思う。無意識のうちに頭の中を空っぽにしていて、歩くという行為を移動するということと同義だと考えていた。

「見ろよあれ、やっぱかっこいいよな、スープラだ」

 小倉が指差した先にはツヤツヤとした白色のボディを月明かりに輝かせるスポーツカーがあった。

 俺がきょとんとしていると、意外そうな顔で「トヨタのスポーツカー。有名なやつなんだけど、知らない?」と少し解説してくれた。

 俺は車の名前なんて何一つ知らないので、そんな当たり前のことのように言われても困った。

「やっぱいいよなぁ車は、カッコいい。人間が作ったとは思えない」

 小倉はその後しばらくスポーツカーについて語ってくれた。

「F1の車のタイヤはカーブで溶けることでわざとスピードを落とすんだ」とか「たぶんあの車、1000万円はすると思うぜ」とか、俺の知識が全く無いことを考慮してわかりやすく話してくれた。

 車の話をする小倉の目からは、熱意のようなものを感じた。

 そうこうしているうちに、俺たちは白色のどぎつい照明が眩しいコンビニに着いた。

 自動ドアが開いて中に入ると、レジには大学生くらいの女の人がコンビニの制服を着て立っていた。やや茶色に染めた髪を後ろで括っていて、柔和な顔立ちの人だ。タブレット端末を操作していて、店に入って来た俺たちを見てコンビニ店員とは思えない落ち着いた声で「いらっしゃいませ」と言った。

 小倉は本当に堂々とした態度で陳列棚の間を動いて、パンとおにぎりを手に取った。俺はその後ろをついて歩いた。

「お、これやばくね」

 ふいに窓際にある成人向け雑誌を手に取った小倉は、それを開いて俺に見せてきた。

「やめろって」

 俺は焦ってそれを奪い取って元の場所に戻した。

「んだよ真面目だな」

 そう言われて少しカチンときた。

「真面目じゃない。嫌なんだよ、こういう絡みが」

「ふ〜ん」

 品定めをするような目で俺を見てから「まぁいっか」とレジに向かったので俺は少しほっとした。

「しょうちゃん、今日は友達も連れてきたの? いい加減にしないとまた補導されちゃうよ」

 レジに商品を持って行くと、さっきの店員さんがそう言った。

 補導、という言葉に俺の心臓はドキリとする。

「今日はこいつの家に泊まんだよ」

「あらそうなの」

 なぜか嬉しそうな顔をした店員さんは商品を袋に詰めながら

「だめよ、あなたも不良の遊びに付き合っちゃ」

 と優しい口調で忠告する。

 俺は眩しい照明に照らされた店員さんに見らて、また心臓がドキリとするのを感じた。

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