#4 故郷の記憶


本日のELIOは、特に大きな事件もなく平和そのものであった。中枢や事務部門は情報整理に追われているため、いつも通りの慌ただしさであったが、防衛職員は自主訓練をしたり、職員専用カフェテラスでお茶を楽しんだりして、穏やかな午後を過ごしている。医療職員も同様に暇を持て余していた。

唯一、研究職員だけは異彩を放つが如く、自身の着手している実験に没頭していた。彼らは基本的に研究ばかりしていて、休みたい時に休むので、周りの変化にはあまり関心がなかったのである。


「わぁ、今日もいつも通りだなぁ」


そんな職員達の様子を見ながら、ウルリは通路を歩いていく。彼も一応防衛部門に所属しているのだが、その肩書きは特別職員であり、取り分けて組織全体に関わるような仕事はしていなかった。つまりは非常勤なのである。細い繋がりしか持っていない彼は、暇を持て余し、今の状況に興味を示さない一人であった。


「おーい、遊びにきたぞー!」


そう言って、ウルリはとある部屋に入る。その部屋は山積みになった書類がそこかしこに置かれ、高級そうなコンピューターがデスクを陣取り、何か怪しげな液体がぼこぼこと泡立つ実験設備まで整った一室であった。


「おーい。ディグ?そっちにいるのか?」


彼は人気のない部屋を突っ切って、さらに奥へと進んだ。奥にはセキュリティパネルのついた扉があった。それは部屋の主の本当の自室の入口であり、職員寮のように寝泊まりできるスペースがその先にあった。

普段、就寝時間以外にセキュリティが働いていることはない。それはつまり、ウルリにも部屋の出入りができるということである。彼がセンサーへ近づくと、センサーは瞬時に反応し、扉を開いた。

姿を現したその部屋は、仕事場の散らかりようが不本意に形成されたものだと思わせるが如く、きちんと整頓されていた。棚の本は巻数順に並べられ、机の上の文房具は一箇所に纏められ、ベッドは使われた形跡がないかの如くしわがない。

ベッドサイドのテーブルの上にディグの使っている携帯電話が置かれていたが、肝心の本人の姿はどこにもなかった。


「あれっ。ここにもいないのか...どこにいったんだろ?」


ウルリは部屋の中を覗き込んで、残念そうに呟いた。宛が外れたので、彼は速やかに部屋から退散しようとする。

その時、ディグの携帯電話が聞いたことのない音を発して、ウルリは肩を叩かれたように驚き、足を止めた。


「なっ、なんだ?」


画面を見てみると、ウルリには読めないが恐らく名前を示す文字と、中央に受話器のボタンが表示されていた。


「もしかして電話かな?」


そう呟くと、彼は勝手に受話器ボタンをプッシュする。画面が瞬時に通話画面に変わり、通話時間を示すカウントが始まった。それを手に取って耳に当ててみると、まるで聞いたことのない言葉と声が、怒涛に流れ出してきた。


「え?な、何これ」


思わず耳から離すが、相手は構わずに喋り続けている。

気味が悪くなり、ウルリはベッドに携帯電話を投げ捨てると、その上から枕を置いて封印した。耳を近づけると、まだ喋り声が聞こえてくる。


「な、なんだろう。まさか、呪いの電話かな...怖いなぁ」

「おい、そこで何やってんだ」

「ひゃ!?」


不意に声をかけられ、ウルリは飛び上がる。部屋の入口に、怪訝そうな顔をしたディグが立っていた。


「また抜け出してきたのか。どこまで記録を更新するつもりなんだ?」

「い、いや、そんなつもりはないんだよ!」


ウルリは慌てて両手を突き出し弁明しようとするが、ディグは嘆息し、呆れ果てた様子で見据えてきた。


「一体どんなつもりで来たっていうんだ。退屈だっていう以外の言い訳があるのか?」

「うぐっ...えーと、そ、それは~」


先手を打たれ、たじろぐウルリ。しかし認めないつもりなのか、ふいと目を逸らして言葉を探している。

そんな中、ディグはベッドの中央に移動している枕に気づいた。


「なんでこんなところに枕を動かしたんだ?」

「そ、それはたぶん、枕がそうしたかったからじゃないかなぁ??」

「生き物じゃないんだから、勝手に動かないだろ。...ついでに俺の携帯も見当たらないし」

「いやいやほら、ロボットは勝手に動くじゃない。あと人工知能とか!」

「枕にそんなもの搭載して何の得があるんだよ」

「えー...ね、寝相の激しい場合とかにほら、しゅっと、しゅっと移動する枕っていうか」


ジェスチャーを交えて謎の説明を始めるウルリ。

それを見せられたディグは、やれやれとため息を吐いた。


「はぁ。もうバレてるんだから諦めろよ」

「オ、オレは何も言ってないぞ!」

「見りゃわかるし、嘘が下手くそすぎるよ」

「あ!ちょ、それ取っちゃだめー!」


枕に手をかけるディグを、飛びかかって止めようとするウルリ。しかしそれは簡単に回避され、あっさりと封印を解かれてしまった。


「だああ~止められなかった~...ディグが呪われてしまう~」

「なんだよ呪いって」

「今、変な電話がかかってきてるんだ~...うわああ」

「勝手に出るなよ」


ウルリに言われて、画面を見る。まだ通話の状態になっていて、カウントを見るに三分も繋がっているようだった。


「一体どこの誰が...」


そう言いかけた矢先、羅列された文字を見るなりディグは顔色を変えた。

すぐに携帯電話を耳に当て、会話を始める。彼の発する言葉はまたしてもウルリにはわからず、ディグが一度部屋を出ていくまで、立ち上がることも忘れて、終始疑問符を浮かべていた。

しばらくしてディグが戻ってくる。通話を終えた様子だが、どこか浮かない顔色をしていた。


「どうだった?」


それを見て、ウルリは不安そうに声をかける。


「どうもしないよ」


ディグが素っ気ない言葉を返した。携帯電話をテーブルに置き、困ったように頭を掻いている。


「結構長いこと電話してきてたけど、相手の人は知り合いだったのか?」

「いや...まぁ...」


珍しく言葉を濁すディグに、ウルリの興味は益々惹かれていった。床を這って、その足元にまとわりつき、話を追求する。


「なぁ、あの声、女の子だよな。そうだろ?」

「まぁ」

「知り合いってことは...ま、まさか彼女!?」

「違うよ」

「オレというものがありながら!」

「だから違うってば。何言ってるんだお前は」


しつこく食い下がるウルリ。弱みに触れたと確信して、ここぞとばかりにはやし立てている。対するディグは、不機嫌そうに顔をしかめた。


「あんまり詮索すると、夕飯作らないよ」

「え!?い、いや~詮索だなんて、そんなわけないじゃないか!ほら、ただの、知的好奇心ってやつだよあははは」


途端にウルリは手の平を返した。知識欲を満たすことより、今晩お腹を満たすことの方が大事なようである。挙げ句の果てには、必死の形相で「冗談だから!冗談だから許して!ねぇ?」と、潤んだ瞳でディグの足にすがりいていた。

その様子に、ディグは再び嘆息した。うまく話をはぐらかした彼であったが、胸中は全く穏やかでなかった。


「...今回も諦めてくれるといいけど」


ディグは辟易して呟いた。



それから数日後。

ディグは何事も無かったように平常運転していた。いつも通り与えられた仕事をこなし、いつも通り急患に対応し、そしていつも通り仕事を押し付けられては、時間を惜しまず捌いていた。

ウルリもいつも通り寮を抜け出して、ディグの仕事ぶりを眺めながらソファに寝転がっていた。やがて退屈を極めたらしく、今は部屋をうろうろ歩き回っている。


「なぁなぁ、ちょっと休憩しない?なんかして遊ばない?」


ディグが座っている椅子の背もたれに寄りかかり、ウルリは話しかけた。彼はディグの髪の毛を触ったり、椅子を揺らしたりして反応を待っている。ディグは返事をする代わりにウルリの手を払いのけた。ウルリはもう一度ちょっかいを出そうと試みるが、それに答えるように、ディグがキーボードを叩く手を止め、リストロックを決めてきた。


「ぎゃー!いでででで!!」


激痛で床に崩れ落ちるウルリ。ディグは手を離すと、それに一瞥もくれず仕事に戻った。


「いってぇぇ...何すんだよ!手が取れるかと思ったじゃないか!」


憤慨したウルリは、反撃として椅子の高さを変えるレバーに手をかけようとした。するとそれを見越していたとばかりに上からお菓子の箱が差し出された。


「え、くれるのか?やったー!」


激情が一変、ウルリは嬉しそうにそれを受け取った。仕返しすることも忘れて、お菓子を食べる。その隙にディグは完成したデータを取り出し、部屋を出ていってしまった。


「あ!どこ行くんだ?オレも行くよ!」


お菓子をしっかり食べ終え、ウルリは後を追った。



まるで迷路のように複雑な通路は、ウルリを目標の元へ追いつかせてはくれなかった。曲がり角が多く、そこら中に部屋があるため、見失ってしまうとなかなか探し出せないのだ。

出遅れたウルリは完全にディグを見失い、仕方なく部屋の一つ一つを覗き込みながら追いかけた。この辺りはほとんど職員の仕事場になっていて、同じような部屋が幾つもある。勤務中の職員達は、ウルリが部屋を覗き込むと、みんな一様に驚いていた。


「あれ?どこに行ったんだろう」


どの部屋に入っても、ディグは見つからなかった。そうしているうちに、ウルリは一階のエントランスホールにまでやってきていた。


「さすがにここにはいないかぁ」


諦めて道を戻ろうとした時、受付の方が何やら騒がしいことに気づいた。何やら外から来た少女が、受付嬢と揉めているようである。


「ですからそれは、アポイントを取っていただいてないと...」

「事前に取ってますよ!会わせてもらえばわかります!」

「連絡記録はありませんでしたが...」

「嘘!直接連絡したもの、絶対にあるはずです!」


声を荒らげる少女。自らの主張を貫き通して一向に引き下がらないので、受付嬢はすっかり困り果ててしまっていた。


「一体どうしたんだ?」


と、ウルリは躊躇なくその会話に割って入る。すると、第三者の登場に気づいた受付嬢が驚いた様な顔をする。少女の方も、受付嬢が気づいたことに気づいて、こちらを振り向く。

それはウルリと同年代くらいの、異国の少女であった。綺麗なプラチナブロンドをサイドテールにして、大きな緑色の髪留めを付けている。

彼女はウルリが会話に混ざってくるなり、鋭く睨みつけてきた。その顔を見たウルリは一瞬気圧されたが、どこか見覚えがあるような気がして怪訝の声を上げる。


「あれっ。お前、どこかで会ったことあるか?」

「ないわよ。日本に来るの、初めてだもの。なんなの?」


鋭い口調で返す少女。見た目に似合わず性格はキツめのようで、その勢いでウルリをたじろがせた。


「あーいや、それならいいんだけど」


苦笑してウルリは言う。


「ところで、さっきから何を揉めていたんだ?」

「あら、盗み聞きしてたの?モラルがないわね~」

「も、もらる?」

「あたし、人に会いに来たの。海を越えて、やっとここまで来たのよ。でもこの人が会わせてくれないの」

「何度も申し上げますが、ちゃんとしたアポイントがないとお通しできないんです」

「だから取ったと言ってるじゃないですか。電話したもの!」

「電話ねぇ...」


数日前のことを思い出しながら、ウルリが呟く。


「それならもう一回電話してみたら?そんで本人を呼び出せばいいんじゃん」

「それくらい試したわよ。でも非通知になってて繋がらないの」

「うーん、それじゃ、直接会いに行く?相手がもしオレの知り合いだったら、だけど」

「あら、本当?」


少女は手を合わせて、初めて笑顔をみせる。


「連れていってくれるの?嬉しい!」

「そ、そんな、ダメですよ。規則ですから...」

「遠いところからせっかく来たんだから、いいじゃないか!」

「そうよ!本当に遠いところから来たのよ!」

「えぇ...」


謎の理屈を掲げられ、唖然とする受付嬢。それを余所に、ウルリは少女との会話を進める。


「それじゃあよろしくお願いするわ。黒髪の人!」

「オレのことは、ウルリでいいよ!ところで、その人の名前は何ていうんだ?」

「ディグよ。ディグ・エレメントリ」

「えっ。あ、あいつ?」


予期していなかったワードを提示され、思わず耳を疑うウルリ。その様子に少女はすぐに食いついた。


「知っているの?!」

「う、うん。だってオレの兄貴だよ」

「兄...?嘘でしょ、あたし以外に兄弟はいないわよ」

「ええ?」


突然告白された事実に、ウルリは目を丸くした。


「お、お前ディグのきょうだいなのか?本当に?」

「ここまで来てどうして嘘をいうのよ。あんたこそ訂正しなさい!」

「いやいや、オレのが本当だから!」


口論が勃発し、エントランス中の視線が二人に集まる。両者互いの主張を一歩も譲らず、その騒ぎは先程の揉め具合よりも酷い状態であった。


「おいおいなんなんだこの騒ぎは?」


と、野次馬の群れを掻き分けて、掃石が面白そうに首を突っ込んできた。手にはコーヒーと、テイクアウトの紙袋を持っている。


「あっ掃石!聞いてくれよ!」

「うぉう。なんで腰巾着がこんなところにいるんだ。さてはまた脱走してきたな~?」

「それはもう聞いた!それよりこっちのが重大な話なんだ!」

「はいはい、一体なんだというんだね」

「こいつ、ディグのきょうだいだって言うんだ。信じられるか?!」

「ほほう」


言われて掃石は、指し示された少女を見た。彼女は腕を組み、鼻を鳴らしている。掃石はしばらくはコーヒーを飲みながらぼんやり見つめていたが、やがて彼は声を唸らせる。


「なるほど、確かに似ている気もするなぁ」

「ま、マジかよ。どのへんがだ??」

「目元とか、鼻?髪の毛と瞳の色も同じだし、似てるかもなぁ」

「そうかなぁ~...」

「当然よ。だって血の繋がりがあるもの」


少女は得意げに笑った。


「あんたなんか、髪の毛の色も目の色も、顔の作りだって似てないわよ。さぁ、観念して嘘を認めなさい!」

「ぐぬぬ...!」


悔しいが、返す言葉がない。証拠でもない限り、圧倒的不利である。ウルリはギリギリと歯を鳴らした。

その時、彼は人混みの向こうに、ちらっと見覚えのある姿を捉えた。

先程ウルリが通ってきた通路から、ディグがやってきたのである。エントランスホールで起こっている騒ぎを聞きつけ、様子見に来たのだろう。彼はできあがった人だかりに驚き、何事かと首を傾げていた。


「おーい!ディグー!ここだー!」


僥倖とばかりにウルリは大声を上げた。人だかりから目立つため、ぴょんぴょんジャンプする。彼の脚力は常人より強く、助走なしでも人の頭より高くジャンプできた。ディグは自身に向けられた声と合わせてそれに気づいた。

この時、反応したのは彼だけではなかった。


「えっ?まさか、そこにいるの?」


少女は野次馬を押し退け、ウルリの視線が向けられている方へ走った。人混みを抜けると、少女とディグはばったり顔を合わせた。


「ファム!?なんでここに...」

「きゃー!会いたかったわ、お兄ちゃん!」


愕然とするディグの言葉を遮って、少女は彼に抱きついた。ディグは慌てて振り払おうとするが、背中に回った手はがっちりと結ばれていて離れない。その様子をただ呆然と眺めるウルリと掃石。


「おい...お前、なんでここにいるんだ。来るなって言ったじゃないか」

「あらそうだったかしら?うふふ。お兄ちゃんが家を出てから、ずーっと寂しかったわ~!」


そう言って頬をすり寄せる少女。兄妹にしては熱烈なスキンシップに、さらに言えば二人のその温度差に、本当に血の繋がりがあるのかと疑問になってくる光景である。

だが、自分そっちのけで展開していく状況に焦燥してきたウルリには、そんなことまで考える脳みそはなかった。彼はずかずか間に割って入ると、そのままディグから少女を引き剥がした。


「ちょっと何するのよ!」

「そっちこそ、勝手にそういうことするな!」

「あら、兄妹なんだから、それくらい普通でしょ」

「なんだと?じゃあ!」

「じゃあじゃないよ。やめて」


ファムに感化され、ディグに飛びかかるウルリ。しかしあっさりかわされてしまった。

勢い余って床に思いきり額をぶつけるが、そんなウルリには目もくれず、ディグとファムは口論を続けている。


「もう、勝手に来たら父さん達が心配するだろう。学校だって、まだ長期休暇に入ってないだろ」

「実は、パパもママも、快く承諾してくれたの!学校にもちゃーんと連絡してあるわ」

「なんで許すかな……とにかく、ここにいても構ってやれないよ。俺にはやらないといけない仕事があるし...」

「あたしが構ってあげるから大丈夫!なんなら手伝いもするから、気にしないで」

「いや、でも」

「もしかして...しばらく会わないうちに、あたしのことが嫌いになったの?」

「や、そうじゃなくて...」

「じゃあいいじゃない。絶対迷惑はかけないから、安心して!」


ディグが反論する隙も与えず、ファムはそう言って大きく胸を張った。ディグが言葉を失っていると、横に掃石がやってくる。


「おいディグ。なんだか面白いことになったな?」

「全然面白くないですよ…」


肘でつついてくる掃石に、彼は肩を落として言った。



突然押しかけるようにやってきた少女ファム・エレメントリは、普段のウルリ以上にしつこくディグに付き添っていた。

デスクワーク中には彼の横顔をじっと眺めていたり、手が止まったと思ったら話しかけたり。席を立つたびにどこへ行くのか、何をしに行くのかを根掘り葉掘り質問している。

相手がウルリだった場合、ディグは容赦なく関節技を決めにいけるのだが、妹とはいえ少女には手を上げる気にならない。そのため、どうしても鬱陶しい時には、言葉でわからせる他なかった。それでもファムは全く動じない様子で、むしろ会話を交わせて嬉しいようだった。

ディグも久しぶりに会えて嬉しい...などとはちっとも思わなかった。なぜなら、彼が日本に来て以降、彼女からの電話やメールがずっと届いていたのだ。それがあまりにもしつこかったため、ほとほとうんざりしていたのである。


「あっ、お兄ちゃん。今度はどこに行くの?」

「いちいち教えてられないよ」

「あら、じゃあいいわよ。ついてくから」

「もう...手洗いだよ。ついてくるのはやめてくれ」


もう一度「本当にやめて」と強く言い、立ち上がりかけたファムを止める。

ディグは疲れきった顔で部屋を出ようとした。その背中をウルリが追う。


「どうした?」

「オレもトイレに行くんだよ。男同士なんだから、気にならないだろ?」

「えぇ...」


ウルリも、ファムが来てからディグへの執着が顕著になっていた。彼女がいない時には、彼が競うようにアプローチしてくるのである。両名の隙を伺う行動に、ディグのプライバシーは失われたも同然であった。


「頼むから一人にしてくれよ。二人に見張られてるようで全然落ち着かない...」

「オレは別に見張ってるつもりはないよ!ただ、あいつがいるから遠慮して、タイミングをずらしてるだけだ!」

「遠慮なんかせずに自分の部屋に帰ったら?そうすればあたしのことを気にしなくて済むわよ」

「え?そうか?...って、そしたらお前はディグと二人きりになるじゃんか!騙そうとするな!」

「騙してなんかいないわよ。あんたの頭が弱いんじゃないの~?」

「なにをー!?」

「...もう、いい加減にしてくれないかな!」


今にも取っ組み合いそうな勢いの二人に、雷を落としたような衝撃が走る。ディグが珍しく大きな声を上げたのである。


「本当にやめてくれないかな、つきまとうのも、喧嘩するのも」


ディグは嘆息し、二人を睨む。


「一緒にいてくれるのは嬉しいけど、ちょっと鬱陶しいよ。さっきも言ったけど俺は仕事をやらないといけないから、その時は集中させてほしい」

「で、でもその間、待ってなきゃいけないんでしょ?嫌よそんなの!」

「仕事を早く切り上げたらその分構ってやれるから」

「う、うー...」


口を尖らせるファム。しかし、初めて聞くディグの厳しい口調に緊張しているらしく、反論しなかった。その横でウルリも同じ駄々を捏ねていたが、ディグにまたもやリストロックをかけられそうになり、萎縮してしまった。


「それと、もっと仲良くしてくれないか?近くで聞いてて良い気持ちにはならないし」

「ええっ?やだよ。こいつオレのこと馬鹿にするもん」

「あたしだって嫌よ。馬鹿が移るわ」

「じゃあ国に帰ればー?」

「あら、帰らないわよ。ここに住むつもりで来たんだからね」

「はぁ?嘘だろ!?そんなの聞いてないぞ!」

「あんたに教えるつもりなんかなかったもの。ほらほら、嫌ならあんたこそ帰ったらどうかしら?邪魔だから~」

「む、むかつくー!」

「やめろってだから」


怒って掴みかかろうとするウルリを阻止するディグ。しかしファムの方も挑発を止めず、部屋は益々険悪な空気に包まれた。


「ディグくん、忙しいところお邪魔するわよ」


その時、部屋の扉が開いてメアがやってきた。彼女は軽く肩で息をしていた。見たところ、どうやら急ぎの用事があるらしい。

ウルリとファム、二人分の刺すような視線を受けてメアはたじろいたが、落ち着いて言葉を続ける。


「さっきEBEとの戦闘事件があって、負傷者が搬送されてきているの。手伝ってもらってもいいかしら?」

「あ、はい。大丈夫です」

「...言っておいて何だけど、本当に大丈夫?大変なら他の人を探すけれど」

「いえ。ちょうどここから離れたいと思っていたところですから」


そう言うと、ディグはメアの前を横切って足早に部屋を出ていった。ウルリとファムはそれに一言も言う間もなかった。

メアは困惑していたが、呆然とする二人に対してなんとか笑顔を作って頭を下げると、踵を返して行った。

あっという間に二人きりになる。コンピューターの可動音や換気扇の回る音が、静寂に響き渡る。

数秒間電池の切れたように惚けていたウルリとファムだったが、漸く状況を読み込めたのかバッと同時に顔を見合わせ、対立した。


「もう!あんたのせいで、ディグと一緒にいられる時間がなくなるじゃない!どうして邪魔するのよ!」

「邪魔なんかしてないよ!お前の方が邪魔してるんだろーが!」

「はぁ?信じられない!そんなわけないでしょ!」


止める人間がいなくなり、二人の口論は益々白熱していく。罪を押し付け合いながら、最終的に睨み合うと、ファムはそっぽを向いて拗ねた。

そのまま彼女は、肩を怒らせて部屋を出ようとする。慌ててウルリはその腕を掴んで止めようとするが、手を強く叩かれて払われる。


「何よ、触らないでよ!」

「いや、そうじゃなくて、お前どこに行くんだよ?」

「もちろんディグのところに決まってるでしょ。あんたと待ってるよりはいいもの」

「あのさぁ、ここは迷路みたいになってるんだぞ。オレでも時々迷うのに、お前が行ったら帰ってこれないよ」

「あたしは迷ったりなんかしないわ。方向音痴くん」

ファムはまたも挑発の言葉を放った。ウルリが背後で憤っている隙に、彼女は部屋を飛び出していった。

「あー!おいっ!待てよ悪口女!」


遅れてウルリが走り出す。彼はデジャブを感じながらも、怒りを顕にした。



十五分ほどさ迷って、ウルリは漸く医療部門の施設にたどり着いた。そこはメアの言った通り包帯を身につけた職員が大勢集まっていて、医療職員は午前中のゆったりした雰囲気も忘れて駆け回っていた。

その中で、ディグも忙しそうに救急の手伝いをしていた。腕を負傷した職員に対し、その傷口に消毒薬を塗布し、包帯を宛がっている。

ウルリは彼の方へ歩み寄りながら、きょろきょろと周りを見回した。


「ウルリ。一体何しに来たんだ」


それに気づいたディグが驚いたような声を上げる。ウルリは周りを見ながら彼に話しかけた。


「すごい怪我人だなぁ。強いEBEと戦ったのか?」

「第三級レベルだと聞いているよ。そんなことより」

「そんなことより!そう、あの悪口女はまだ来てないのか?」

「悪口女?」


ディグの言葉を遮ってウルリが叫ぶ。初めて聞くワードに首を傾げたディグであったが、やがてそれが指す意味を推測する。


「悪口女って、まさかファムのことか?」

「そうだよ!見た?!」

「いや、見てないけど…」

「そっか...てことは、あいつ迷子になったな。ざまーみろ」

「部屋で待たなかったのか?二人して。本当に手のかかる...」

「オレは迷子にならなかったから偉いだろ?」

「そういう問題じゃ...」


ディグが言いかけた時、急に施設内が騒がしくなった。入り口で職員達が激しく入れ替わり、軽傷の者は然ることながら、処置をされた職員すらその負傷を厭わず部屋を出ていく。

異様な雰囲気に戸惑う二人であったが、そこへメアと掃石が駆けてきた。


「何かあったんですか?」

「何かあったなんてもんじゃないよ。さっきの戦闘でEBEの影響を受けた武装職員が暴れているんだ」

「なんだって!」

「敵に寄生能力があったらしくてさ。今、一階で応戦しているそうだ」

「一階か...」


顔を見合わせるディグとウルリ。嫌な予感が、言葉を交わさずとも共有される。


「あの、さっきの女の子はどこにいるの?」

「もしかしたら、巻き込まれてるかも...!すぐ行かないと!」


ウルリは焦りの色を見せると、誰よりも早く駆け出した。


「お、おい!お前の戦闘許可は出てないぞ!」


掃石は彼に向かって叫ぶが、返事がないどころか、人の波に飲まれて既に姿が見えなくなっていた。


「あ~...あいつまた怒られるぞ」

「掃石さん、俺の許可と一緒にあいつの分も出しといてください」


そう言うと、ディグはポケットから拳銃を取り出して弾を装填する。彼のポケットに入っているのは薬や包帯だけではないようだ。


「お前はいいかもしれないけど...あいつのは、出したところで通るかどうかわからんぞ」

「その時は大人しく怒られます」


彼は平然と告げると、ウルリの後を追いかけた。



その頃、ファムはどこかの通路を歩いていた。清掃の行き届いた、清潔感溢れる真っ白な通路。不規則な感覚で観葉植物が設置されていて、無機質な空間にアクセントを加えている。しかしそこに彼女以外の人影はなかった。開きっぱなしの扉から除く部屋もがらんどうになっていて、どこかもの寂しかった。


「誰もいないわね…使われてない部屋なのかしら?」


自分は道を間違えていないはず。そう心の中で言い聞かせながら、ファムは歩き続けた。

その頑固さは、彼女をどんどん危険な状況に落とし込んでいく。やがて、本当に使われていないように埃まみれた部屋が続々と姿を現した。

それを見て、一抹の不安をよぎらせた時。ある部屋の奥に、頭を抱えて蹲る人の姿を見つけた。

やっと誰かいた。ファムはそう思って、ほっと胸を撫で下ろす。


「あのーちょっといいかしら?」


完全に油断して声をかける。そんなファムに返ってきたのは、思い切り振り抜かれた腕であった。


「きゃあ!」


驚き、尻餅をつく。そのお陰で結果的に不意打ちを避けるが、彼女の頭上を掠めた腕はよく見ると人間のものではなかった。

植物の根のような、あるいは血管のような細い縄状のものが、幾つも絡み合ってそれを形成している。それは生き物のように波打ち、脈打って、気味の悪さを何倍にも引き上げていた。

呻き声と共に晒されるその頭は、最早人のそれではなく、蠢く縄状のものに覆い尽くされて巨大な歪な球体に変わり果てていた。

強烈な存在感を見せつけられ、ファムは絶叫した。無我夢中でその場から逃げ出し、助けを求めながら通路を駆けた。


「誰かっ!誰かいないの!?ここに化け物がいるわよ!どうなってるのー!」


背後からあの異様な気配がついてくるのを感じ、ファムは焦燥感を覚える。何とか振り切ろうと速度を上げるが、その最中何度もつまずき壁にもぶつかってしまう。痛みと恐怖でどんどん疲れ果てていった彼女は、曲がり角から姿を現す何者かにも気づかず思い切り体当たりした。


「どあーっ!」

「きゃあー!」


二人は同時に叫び、床に転がった。


「いったーい!何なのよもう!」

「そっちこそなんだよ!思いっきりぶつかってきやがって、オレに恨みでもあるのかっ!」

「あら...誰かと思ったら、あんただったの。何してるのよこんなところで」


ぶつかった相手がウルリだと分かると、ファムは元の態度に戻った。先ほどまで恐怖に打ちひしがられていたとは思えない切り替えの速さである。

ウルリはその様子に少しムッとしたが、今は緊急事態。言い返したい気持ちをぐっと飲み込んで、彼はファムに言った。


「今、敵が暴れてて施設の中が危険なことになってるんだ!早くここから逃げよう!」

「な、何言ってるのよ。方向音痴の案内じゃ余計に不安よ!」

「お前が言うな!ほら、駄々こねてないで立って、行くぞ!」

「駄々捏ねてなんかないわよ!失礼ねぇ!」

「あー!おいっ!勝手に行くなよ!」


ファムはウルリを置いて走り出す。しかし角を曲がったところで、彼女は顔を引き攣らせた。


「嘘でしょ...こっちにもいるじゃないの」


後ずさるファムに向かって、先ほど見たものと同じ姿の化け物がゾンビの如く足を引きずり迫っていた。

知らず知らずのうちに、二人は挟み込まれていたのだった。

意識せず背中合わせになり、ファムとウルリは凍った表情で話した。


「何やってんのよ...わざわざ化け物を引き連れて来て、馬鹿じゃないの?」

「ぜ、全然気づかなかった...いつからいたんだろう」

「あんた本当に馬鹿なのね!ばーかばーか!」

「う、うるさいなぁ!」


ファムが悪態をついたところで、化け物達が行動を開始する。腕を伸ばし、二人を捕まえようと向かってきた。

ウルリは敵の間合いに突っ込むと、その腕を跳躍でかわし、反対側へ着地する。そして振り向きざまに回し蹴りを食らわせた。衝撃への踏ん張りが効かず、化け物は壁に打ち付けられる。

その間にもう一体の化け物は、悲鳴を上げているファムの方へ迫っていた。彼女はすっかり立ち竦んでいるようで、反撃の兆しも見せていない。鈍足な化け物にとって格好の標的であった。

そこへ急行してきたウルリが立ちはだかり、躊躇なく球体を殴り飛ばす。まともに食らった球体は大きくよろめき倒れた。


「ほらっ。今のうちだ!」

「う、うん」


頭を恐怖に支配されているためか、ファムが初めて素直に返事をする。

二人は走り去るが、化け物はすぐに身を起こし、その後を追いかけた。



医療部門の施設に向けて走り続けたウルリとファムだったが、角を曲がり続けるうちに自分のいる位置がわからなくなってきていた。さらに悪いことに、寄生した体に馴染んだのか速度をつけてきた化け物達が背後にぴったりと追走し、どんどん見覚えのない場所へ二人を追い込んでいた。


「ちょ、ちょっと!ここはどこなの?」


慌ててファムが声を上げる。

二人は大きなガラス製の構造物が立ち並んだ、不気味な雰囲気の部屋を横切っていた。そこは研究部門の施設で、深い地下層に位置している場所である。逃げることに必死になるあまり、道を間違えてしまったのだ。


「もしかして迷ったんじゃないでしょうね!」

「し、仕方ないだろ!追いかけられてんだから!道なんか気にしてられないよ!」

「馬鹿!こういう時こそ気にしなさいよーっ!」


叫びながら走る二人。

その時、床に張り巡っていたコードに足を取られ、ファムが転倒した。ウルリはすぐに足を止め引き返そうとするが、追いついた化け物が腕を鞭のように飛ばして、ファムに駆け寄ろうとする彼を突き飛ばした。


「うわっ!」


ガラスチューブの一つに突っ込まされ、派手に破片が飛び散る。中に入っていた透明な液体が解放され、瞬時に辺りを水浸しにした。


「うぐぐ、いってぇ~...うぇ、なんだこの水。ガラスも刺さったし...いてて」


口に入ったものを吐き出し、ウルリは破片の中から起き上がった。慎重に腕に刺さった破片を取り除き、舐めて止血する。

その間にも、化け物達は床に蹲るファムを取り囲み、今にも襲いかかろうとしていた。ウルリは慌てて向かおうとするのだが、それに気づいた化け物の一体が腕を伸ばして牽制してきた。縄状の肉体を細かく分裂させ、本当の縄のようにウルリの身体へ絡みつき、押さえ込んだ。


「ちょ、ちょっと何やってんのよ!早く助けにきなさいよ!」

「そう言われても...!」


四肢を完全にホールドされ、まさに手も足も出ない状態だった。それだけに留まらず、徐々にきつく締めあげられている。首にかけられた縄状の腕は彼の気道を閉塞し、呼吸困難に陥らせた。

化け物はファムにも襲いかかり、無防備な喉元をくびりあげようとした。

その時、二つの銃声が部屋中に響いた。

一つはファムを襲う化け物の腕を撃ち落とし、そしてもう一つはウルリを押さえつけている化け物の胸に当たった。

着弾すると同時に小規模な爆発が発生し、周囲の細胞を抉り飛ばす。化け物の痛覚が刺激され、鋭い悲鳴が空気を震わせる。ファムに伸びかけていた腕は慌てて退散し、ウルリを捕まえていた腕も振りほどかれる。

間一髪で解放された二人は、部屋の入口に人影を見た。


「二人とも、大丈夫か?」


そこにはディグが、拳銃を構えて立っていた。


「お兄ちゃんっ!」

「ディグーっ!」


ウルリとファムは同時に歓喜の声を上げた。


「その様子なら大丈夫そうだね」


そう言うと、ディグは化け物達に向けて二発、発砲した。避けようと跳躍する化け物だったが、それを狙い済ましたかのように後続の銃弾が襲いかかる。五発の弾丸が当たり、五発の爆発が発生。一瞬で一体の身体を四散させた。

もう一体は天井に張り付き、恐れおののいて闇に身を隠した。その間にウルリとファムは、銃弾を装填するディグの元へ駆け寄った。


「はぁ~助かったよ、ありがとう!」

「どういたしまして。ったく、どうしてこうややこしい所に来てるんだよ」

「それが聞いてよ!そいつ道を間違えたのよ!信じられる?」

「最初に迷ってたのはそっちじゃないか!」

「はいはい静かに」


ディグは軽く流すと、背負っていたもう一つの銃を装備し、セーフティを外す。見た目はライフルだが、こちらも対EBE用として研究部門が特別な改造を施したものである。


「うわ、ごっつい銃。それ使うのか?」

「使うよ。ウルリ、手伝って」

「えっ?」


化け物は闇の中で攻撃のタイミングを伺っていた。ガラスチューブの陰に身を隠しつつ、反撃されない距離を保っている。暗がりに乗ずれば、そう簡単に狙われないと考えたのである。人間に寄生したことで、浅知恵を付けたようだ。

しかしそれは、化け物側の致命的な誤算であった。突然、目の前のガラスチューブが爆散する。水飛沫と共に飛散する破片。それに驚いた化け物は、思わず天井から落下した。


「床に落ちたぞ!チャンスだ!」


向こうから声が聞こえてくる。それに答えるように、二発目の銃弾が化け物に命中する。球体に突き刺さった弾はコンマ数秒を経て爆発した。球体が吹き飛ぶと、中から半分以上損傷した脳が顕になる。コントロールを失った肉体はぴくぴくと痙攣し、やがて動かなくなった。

化け物が事切れた後、暗闇からディグが現れる。きちんと生体反応がないことを確認すると、手元のPHSを弄った。


「もしもし。こちらエレメントリですが、ターゲットを二体討伐しました。他の戦線への援護は必要ですか?...はい、了解です。戻ります」


連絡を終えて振り返ると、興奮した様子のウルリと、無残な姿になった化け物を呆然と見下ろすファムが付いてきていた。


「すげー!ちゃんと当たってるなぁ!見えなかったのに!」

「半分はお前のお陰だよ。EBEの位置がわかるのは、今のところお前にしかできないから」

「そ、そうか?えへへー」


照れるウルリ。そんな彼を押しのけて、ファムが前に出てくる。彼女は泣きじゃくりながらディグに抱きついた。


「こら、まだセーフティかけてないんだから危ないよ」

「うえ~ん!怖かったよ~!!」


脅威が去って箍が外れたのか、ファムはわんわん泣いた。科学溶液を被り全身がずぶ濡れになったウルリのように、ディグのシャツを水浸しにする勢いであった。この様子では突き放すこともできないので、ディグはとりあえず彼女の頭を撫でた。今までなじられていたウルリも、その号泣ぶりにさすがに動揺していた。


「とっ...ところでさ、オレ達がここにいるってどうやってわかったんだ?一言も言ってないのに」

「お前がつけている首輪には、GPSがついてるんだよ。研究部門の知り合いに頼んで遠隔始動してもらったんだ」

「おわー...そういえばそうだったっけ?」

「そうだよ。もう...よく見たらお前、ずぶ濡れじゃないか。それ早く洗濯しないと、色移りするぞ」

「あれ?オレじゃなくて、オレの服の心配してる?」

「とりあえず、お前の寮に行こう。ここから近いし」


ファムにしがみつかれたまま、ディグは部屋を後にした。ウルリも顔についた科学溶液を拭いつつ、その背中をついていった。



地下の隔離寮につくと、ウルリはすぐに服を脱がされ、風呂場に押し込められた。研究部門が扱っている開発溶液は優秀なものが多いが、ただ唯一の難点として着色の恐れがあった。薬品はこうあるべき、という謎の主張により、大量の着色料が使われているからである。この着色料自体も研究部門開発なので混ぜた薬品の効果を落とさず、人体には安全であるのだが、代償として服の線維に深刻なダメージを与えるのだった。

ウルリがいない間、ファムはディグに手当を受けていた。漸く落ち着いたようで、たどたどしいながらも会話することはできた。


「ありがとう...お兄ちゃん。助けに来てくれて」

「ウルリが先に行ってくれたから、間に合ったよ。あいつも助けてくれただろ?後でちゃんとお礼を言って」

「ええ?」

「嫌そうな顔をしない。EBEを倒せたのだって、あいつのおかげなんだぞ」

「んー...確かにちょっとは助けてくれたけど、ほとんど振り回されてばっかりだったわよ」

「それは...まぁ、そういう奴だから」


それはディグも納得せざるを得なかった。


「それにしても、皆さん無事で良かったですね...!揃って来られた時はびっくりしましたよ!」


そう言って笑うのは、二人の傍で救急箱を抱えたクロナ。彼は今日一日ずっとここにいたのだ。勝手に出歩かないようディグに言われていたので、大人しく過ごしていたのである。同じように誰かさんも言い付けられているはずなのだが、ルールに対する認識が両者でかなり差があるようだ。

ファムもクロナも初対面時は身構えていたが、すぐに打ち解けていた。ウルリに対して辛辣な態度を取り続けてきた彼女だが、本当はそこまで意地の悪い少女ではない。しかし気の強さゆえに、何か反抗的なことを言われるとつい熱くなってしまうのだ。だからこそ、従順で大人しいクロナとは口論になることがなく、スムーズに会話ができたのである。


「あんたのところまで来てなくて良かったわね。すごく不気味で、ものすごい勢いで追いかけてきたもの」

「ええっ!怖い!」

「もう大丈夫よ。ディグがやっつけてくれたから!」

「あとウルリもね」

「なになに?呼んだ?」


呼ばれたのを聞きつけて、クロナの背後の扉からウルリが出てくる。奥の部屋は彼の寝室であるが、さらにもう一つ奥にバストイレがあるのだ。


「やだっ!あんた裸じゃないの!」

「裸じゃないよ!下は履いてるから!ほらっ!」

「上も着てこいよ。あと髪の毛も乾かして」

「えー」


二人から非難され、ウルリは渋々戻っていった。ファムは信じられないといった様子で頬に手を当てている。


「ずっと思ってたけど、あの子って粗暴よねぇ。男の子ってそういうものなのかしら...」

「でも、優しい人ですよ。ボクが危険な目にあった時、真っ先に助けに来てくれましたから」

「うーん...」


ファムは唸り声を漏らす。

確かに一人さ迷っていたところへ一番最初にやってきたのはウルリであったし、化け物に挟撃された時も彼が応戦した。それ以外の行動が抜けていただけで、彼も功労者といって間違いないだろう。


「まだ何か不満があるのか?」

「不満っていうか...そうね...」


ファムはむむむ、と唸ると、言葉を続けた。


「不満はないわ。むしろ感謝しなくちゃいけないのも分かってる。でも、だけどね、あたし本当にお兄ちゃんに会うのを楽しみにしてたのよ。最近ろくすっぽ返事もしてくれないし...本当に、寂しかったから...。いずれは家に帰らないといけないし、その間だけでも、帰っても後悔しないように、ずっと一緒にいようって思ってた。でもあいつったら、そうしようとしたら邪魔してくるのよ。だからつい熱くなっちゃって...」


ディグは、涙声を混じえて語られるファムの話を静かに聞いていた。傍ではクロナまで釣られて泣いていた。


「あいつに、そうやって素直に言ってやれば良かったんじゃないか?あいつ他人の感情を深く考えるタイプじゃないから、ちゃんと言ってやらないとわからないと思うぞ」

「そ...そんなの言えないわよ。散々あいつのこと馬鹿にしてきたし、今更そんなこと言ったらあたしが馬鹿にされちゃう...」

「馬鹿にしないよ。もししてきたら、俺が言ってやるから」

「うー...」


その時、再びウルリが戻ってくる。今度はちゃんと服を着ているが、頭をまだ乾かしていないようだった。


「ん?なんだよ。みんなしてこっち見て」


ドライヤーを片手に怪訝そうな声を出すウルリ。先ほどの話の内容は聞いていないらしかった。ディグはファムを促すが、彼女は必死に首を振っている。仕方なく、彼はウルリを呼んだ。


「おい、ファムが大事な話があるって。お前に」

「ちょっっ!やだ!ないないない!そんなのない!やだー!」

「え?ど、どっちなんだ?」

「大事な話がある」

「ちょーっ!!」


ファムはディグの口を塞ごうとするが、逆に両手を掴まれて抵抗できなくなってしまった。大声で喚く彼女に、ウルリはただならぬ様子を感じて後ずさった。


「いいから観念しなさい」

「うう、やだよー...」

「だから、何が嫌なんだよ。わけわかんない...」

「仕方ないなぁ。...ファムはお前のことが嫌いで、悪口を言っていたわけじゃないんだ」

「え?そうなのか?」


ウルリはファムの方を見るが、彼女はがっくりと項垂れていて、表情が分からない。しかしどういうわけか、耳の先まで真っ赤に染まっていた。


「そうなんだよ。でも、俺とお前が一緒にいるとファムは入りづらいみたいで、つい口をついて出てしまったらしい」

「えー!それならそうと言ってくれればよかったのに!しなくていい喧嘩だったんじゃん!」

「そういうことだね」


ウルリは愕然と叫んだ。自分も買い言葉をしてしまっただけに、深く後悔している様子だった。すぐに謝ろうとしたが、それをディグに止められる。


「その前に、ファムからお礼と、謝罪があるってさ」

「え!?な、なんで謝罪もしなきゃいけないの?」

「悪いと思ってるんだろ」

「お、思ってるけど...なんであたしが先なのよ!」

「先に言ったんだろ?」

「うう。わ、わかったわよ」


ファムは覚悟を決めて、ウルリに向き直った。


「...あたしのこと、助けてくれてありがとう。それと、悪かったわよ。酷いこと言って」


終始目を泳がせて一息に言い放つファム。「これでいいでしょ?」と、最後にそう言ってそっぽを向いた。

対してウルリは、一瞬何が起こったのか分からないといったような顔をした。数秒間脳の中で必死に反芻して、漸くその言葉を飲み込めたようだった。


「あー、うん。いいよ!オレはもう怒ってないから!こっちこそ、悪口女とかいってごめんな!」


と、彼は率直に返した。他人の感情を深く読み取らない分、他人の感情の影響は簡単に受ける。それがウルリである。

言い終えたファムは、すぐにディグにしがみつき顔を隠した。心配そうに覗き込もうとするウルリであったが、鋭い裏拳が彼の頬を掠めた。


「うおっ!なにすんだよ!」

「こっちに来ないでよ!見ないで!」

「はぁ、なんで?」

「それはー...」

「いやーっ!」


ファムが悲鳴を上げて崩れ落ちる。さすがに可哀想だったので、ディグは黙った。


「なぁ、なんでなんだ?オレ、悪いことをしたのか?」

「うーん...ウルリはもうちょっと、デリカシーを身につけた方がいいよ」


苦笑して答えるディグ。感情を読み取らないということは、配慮に欠けているとも言える。仲の良い同性ならまだしも、今日あったばかりの、しかも異性に対してはつらいところであった。

ウルリは言葉の意味がわからず、疑問符を飛ばし続けていた。


「そ...そういえばお兄ちゃん。こいつお兄ちゃんと兄弟だって言ってたけど本当なの?」


顔色を元に戻したファムは、話題を逸らすべく最初にしていた口論のことを持ち出した。


「あっ。お前、まだ疑ってたのか!」

「そりゃそうよ。どう見ても似てないし...」

「あー、それは本当だよ」

「...えっ?」


ファムとクロナが同時に声を上げる。


「え?ほ、本当にそうなの?」

「うん、戸籍上だけど。あいつ爺さんの養子なんだよ」

「よ、養子?なんで?おじいちゃんそんなこと一言も言ってなかったわよ??」

「...寡黙な人だったからねぇ」


言われて、今度はファムが頭を抱えて混乱する。ディグが言うこととはいえ、突然過ぎて信じ難かったのだ。

そこへクロナが口を挟んでくる。


「あ、あの、ウルリさんがディグさんのおじいさんの養子だとすると、どういうことですか??」

「爺さんの息子ってことだから、俺の父さんと同じ親等...叔父さんに当たるかな」

「お、おじさん!?」

「オレ、おっさんだったのか...!」

「おっさんではないけど。でも歳は俺の方が上だし、爺さんもお前を弟だって言ってたから、みんなには兄弟って言ってる」

「ふ、複雑なお家ですね…」

「オレも兄弟のがしっくりくるなぁ。おっさんよりいいや!」


ウルリは笑った。クロナも無理矢理納得したようだった。しかし、ファムはまだ気持ちの整理がつかないらしく、何かをぶつぶつ呟いている。


「じゃあ...あんたがディグの兄弟だとして、あたしの何になるの?兄?弟?」

「ん、どっちになるんだ?ディグ」

「ファムもウルリも十五歳だったよな?どっちが上ってこともないんじゃないかな」

「そんな!そこははっきりさせておかないとだめよお兄ちゃん!」

「そうだぞ!いざという時に困ることになるぞ!」

「えぇ...」


二人に詰め寄られ困惑するディグ。初めて意見を合わせてきたのはいいが、厄介が二倍になったようにも思える。言葉に詰まっていると、ファムもウルリも業を煮やして飛びかかってきた。


「ちょっと、二人とも落ち着いて」

「落ち着いてられるかってのよ!こいつの上か下かで、あたしの人生が大きく変わるんだから!」

「そうだぞ!オレ達じゃ絶対決められないから、ディグが決めてくれ!」

「はぁ...なんでこうなるかなぁ

ファムをかわし 、ウルリにダブルロックを食らわせるディグ。しばらくは阿鼻叫喚としていたが、いつしか目的を忘れ、悲鳴は笑いに変わり、互いにじゃれ合って、隔離寮では今月一番の盛り上がりとなった。

ディグに前途多難を予想させた軋轢は、予想通り一悶着を終え、漸く笑い合えるまでに回復していた。このままの状態が続けばいいと、そう切に思うのだが、これからどうなっていくかはウルリとファムの気持ち次第であった。

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