#3 秘密の冒険

地球外生命体調査機関は、いつ何時であっても、人々の平和を守るために活動する。主に通報を受けて出動することが多いが、たまに町民自らが足を運んで、EBE関連のオブジェクトを持ち込むこともあった。

EBE関連のオブジェクトとは、彼らEBEが残した肉体の一部だったり、その力の影響を受けた物体だったりする。強い力を持つEBEは特に、影響の定着を起こしやすい。外生はそういったものを彼らに繋がる証拠品として、積極的に回収しているのだ。

オブジェクトの処遇は、一階の受付で手続きが行われ、個室にて持ち主から事情を聞き、受け渡しされるか否かを決める。その時行われる簡単な検査で、何事も異常の見当たらない物品はそのまま返却されるのだが、今回のケースではそうはいかなかった。

そこは一般人向けの応接室。

ディグの前に、小さな箱が一つ置かれている。テーブルを挟んで向かい側のソファには、若い青年が座っている。その箱は彼の持ち込みの品であった。


「どうもこんにちは。担当のエレメントリと申します」

「ど、どうも。よろしくお願いします」

「こちらが今回、あなたが持ち込まれたもので間違いないでしょうか」

「は、はい...」


青年はたどたどしく答える。

その箱は三センチ平方の、木製の小物入れらしかった。綺麗な細工が施されており、プラスチック製の宝石がキラキラと輝いている。


「異常性に気づかれたのはいつ頃でしょうか?」

「いつ頃...というか、本当に最近のことなんですけど...うまく説明できるかどうか」

「構いません。仰ってください」


ディグに促され、青年は静かに語った。


「その箱、一週間くらい前に店長が仕入れたんです。同じものはまだ、在庫があると思います。他の規格と同じで、小さい女の子がおもちゃの宝石を入れておいたりするようなものなんです。でも...この箱だけは、開けるとおかしな事が起こるんですよ」

「おかしな事、というのは?」

「なんというか、あの、俺うっかりおっことしちゃったんですよ、それ。そしたら店長が受け止めてくれて...でもその時、箱が開いてしまってたらしくて」


青年は肩を摩る。


「消えちゃったんです。店長。ぱあっと、光に包まれて...」

「なるほど、分かりました」


ディグは近くにいた職員を呼び、簡易検査用の道具を持ってきてもらうことにした。

しかし、これらの検査ではその異常性を見つけることができなかった。つまりは、それは何の変哲もない木箱だということを示していた。


「ど、どうですか?何かわかりましたか」


青年は心配そうに覗き込んでくる。彼の憔悴しきった顔と脈打つ心音から、箱の異常性が嘘ではないとディグは思った。おそらくであるが、何かの影響を受けているものだと推測する。それがEBEのものかどうかは、現時点では判断しようがなかったが。


「...もっと精密な検査が必要でしょう。そのためにも、こちらで回収させていただきますが、よろしいですか?」

「も、もちろん...持って帰るのも、気味が悪いですから」



「...んで、これがその箱?」


パイプテーブルの上に置かれたそれを、興味深そうに眺めるウルリ。その横では、クロナが警戒した様子で彼の腕にしがみついている。


「せっかく可愛い箱なのに、人が消えるなんて、怖いです...」

「開けなければ大丈夫らしい。...勝手に触らないでよ」

「はーい」


ウルリは空返事をして、指先で箱の角をつついた。その様子に、ディグは溜息を吐く。

ウルリから箱を奪い取ると、彼は大きな箱にそれを収め、引き出しの中に入れた。そのままきっちりと鍵をかける。


「大事な研究資料なんだから、引き出しを壊そうとするなよ、ウルリ」

「え?なんで名指し?」

「お前が一番やりかねないからだよ」


釘を刺され、ぐっと押し黙るウルリ。その様子を見るに、本当にやる気だったらしい。

彼はぶつくさと何か呟くと、ふんと鼻を鳴らした。


「そんなことしないぜ。だって机なんか壊したことないしー」

「それを聞いて安心したよ。俺は今から研究部門の方に、機材を借りに行ってくるけど、絶対変な気を起こすんじゃないぞ」


「はいよー」

ディグに念を押され、ウルリは当然とばかりに頷いた。ディグは最後まで心配そうにしていたが、PHSの呼び出しに応じ、そのまま出て行った。


「さーて、やるか」


ソファを飛び降り、呆気に取られるクロナを振り払って引き出しに近づくウルリ。徐ろに取っ手を掴むと、力任せに引き出そうとした。が、すぐに後ろからクロナが飛びついてくる。


「だ!ダメですよ!なぜ早速約束を破ろうとしているんですか!」

「いやいや、ほら、本当に鍵がかかっているか確かめないと」

「ダメですってば!壊したら怒られちゃいます!」


必死の形相で止めようとするクロナ。小さな身体ではウルリの片腕しか抑えられていない。しかし、その様子を見て流石にウルリも申し訳なく思ったのか、唸り声を漏らす。


「うーん、それじゃあ...壊さない方法でやればいい。壊さなきゃいいだろ?」

「え?そ、そんなことできないでしょう。何を言っているんですか」

「クロナ、お前の力が役に立つ時が来たぞ!」

「ええ!?まさか...ボクにピッキング紛いのことをさせようと...?」

「お前の能力で、ちょっぴり時間を戻したら、鍵が開くんじゃないかなと思うんだ。できないか?」

「わ、わかりません。そんな使い方はしたことないですから...」

「でも、こないだオレの怪我を治したよな。あれと同じことをすればいいんだよ!」

「ええ〜?」


ウルリに促され、クロナは引き出しの前に押し出される。最初は抵抗していたが、ウルリが頼み込むと、漸く彼は折れた。


「じゃあ、1回だけですよ。開けたらすぐ閉めますからね!」


そう言うと、クロナは意識を集中させる。差し伸べた手を引き出しに当て、すうっと息を吐くと、鍵穴の奥でガチャリという音が聞こえた。


「よくやった!」


ウルリはすぐさま手を伸ばし、引き出しを開けた。クロナの制止も間に合わず、豪快な音を立て、引き出しは中のものをさらけ出した。


「やったぜ」

「ちょ、ちょっと何やってるんですか!すぐ閉める約束だったじゃないですか!」

「オレは約束した覚えないけど?」

「も~!それ返してください!」

「うわっ」


クロナは約束を無下にされた怒りから、ウルリに飛びかかった。珍しく放たれるその怒りに、ウルリは驚愕し、思わず手に持っていたものを取り落としてしまう。


「あっ」


という間に、大きな箱は床に衝突。中から小さな箱が飛び出した。その箱はかたりと音を立て、意図せずして未知の中身を開放していた。

瞬間、二人を眩い光が包み込む。強い目に見えない力がその身体を掴むと、ぐいっと箱の中へ引き込んでしまう。ほとんど刹那の出来事で、二人は叫ぶ暇もなかった。

箱は引き込み終えると、再びかたりと音を立ててその蓋を閉じた。



ウルリが目を覚ますと、そこは外であった。

頭上には雲一つない真っ青な空が広がり、見たことのない姿の鳥のようなものが飛んでいる。不意に爽やかな風が吹き、水場に波紋を作ると、木のように背の高いフキの群れを揺らしていった。

ウルリが横たわっていたのは、小さな島の上であった。すぐ側ではクロナが、同じように倒れていた。


「おい、大丈夫か!」


ウルリは飛び起きて、クロナの元に寄った。

肩を揺らすと、彼は小さく唸り声を漏らす。


「あ、あれ...ウルリさん?...ここは?」


虚ろな目で見上げるクロナ。起きがけで頭が回っていないようだった。そろそろと周りを見渡しては、目を擦っている。


「なんか、外っぽい。さっきまでいた場所じゃないぞ…」


ウルリもきょろきょろと視線を飛ばす。

その時、微かに背後で物音がした。クロナは思わず声を上げ、ウルリにしがみつく。


「だ、誰だ!なんだ?!」


ウルリは意を決して、フキの林に向かって叫ぶ。すると、ガサガサという草をかき分ける音が、徐々に近づいてきた。

身構えるウルリ。しかし音は途中で掻き消え、代わりに上空へ向かって何かが飛び出した。それは鋭利な槍を携えて、二人を目掛けて飛びかかってきた。

咄嗟にクロナを突き飛ばし、ウルリはその反対方向へ飛ぶ。刹那、彼が立っていた場所に槍が深々と突き刺された。ウルリは四つん這いで着地し、すぐさま攻撃に転じた。地面を蹴り、高く跳躍すると、槍使いの頭に渾身の殴打を食らわせた。

弾け飛ぶ鎧。それはごわんと音を立てて地面を転がり、水の中へ落ちていく。鎧を失ったことで、その正体が顕になる。

それは異形の頭だった。角を生やし獣のような剛毛を顔いっぱいに蓄えた、醜悪な姿だった。人間だと思って殴り飛ばしたつもりのウルリは、その姿に一瞬たじろいだ。それは戦闘においては、大きな隙であった。

しかし思わぬ反撃に驚いたのか、槍使いはよろよろと体勢を崩す。槍を置き去りにしたまま外套を翻し、フキの林の中に逃げ込んだ。


「あっ!待てっ!」


ウルリは追いかけようとするが、周囲から続々と刃の擦れる音が巻き起こり始め、彼の足が止まる。


「来るなら来い!相手になってやる!」


牙を見せ、威嚇するウルリ。それに応じるかのように、姿を現す異形の群れ。彼らはそれぞれの得物を手に、

二人に向かって前進してきた。


「うわっ...この数はちょっとやばいかも」

「ウ、ウルリさん!」


血相を変えたウルリを見て、好機とばかりに雄叫びを上げる異形達。得物を掲げ、水しぶきを上げて、一心不乱に駆けてきた。

だが、その直後、異形達の足は止まった。いや、正確には、限りなく遅くなっていた。

クロナが能力を使ったのだ。ウルリは集中していて動けない彼を背中に乗せると、獣の姿に変化した。そしてその四つ足の筋肉で島から飛び出し、逃げ去っていった。



「び、びっくりした~。なんなんだよあれ」


そう、息を吐きながら叫ぶウルリ。気になって後ろを振り返るが、敵の姿はなく、なんとか振り切れたようだった。


「すごくおっかない人でしたね...」


ウルリの首にしがみつきながらクロナが言う。能力を使って、より一掃疲労が増しているようだった。


「いや、あれは人間じゃなさそうだ。例えば、ほら、ゲームとかに出てくるモンスターみたいだった」

「ゲーム?ゲームってなんですか?...うわっ」


予告無く元に戻るウルリ。そのせいで、クロナはずるりと振り落とされてしまう。地面に転がった彼に詫びながら、ウルリは手を差し伸べた。


「掃石がよくやってるやつだよ。あの箱の。ゲーム...ボーズだかなんだか...あー、忘れちゃったなぁ」

「あんなのが出てくるなんて、怖いですね、ゲームって...」

「まぁ助かったんだしいいじゃない。お手柄だったぜクロナ」

「あ、ありがとうございます」


服を着直したウルリは、クロナに手を差し伸べた。その手を取って、立ち上がるクロナ。まだ息は切らしているものの、なんとか動けるらしい。


「...でもここはどこなんだろう」


辺りはまた景色を変えていた。フキの群生地を抜けるため、脇目もふらず走り続けたため、どうやって来たのかさえわからなくなっていた。

とにかく背後には岩肌の見える険しい道、そして正面には、見渡す限りの大草原が広がっていた。


「どうしたものかなぁ。またあいつらが出てきたらどうする?」

「ど、どうするってボクに言われても...」

「頼りにならないなぁ!あーあ、ディグがいればなぁ」


ウルリとクロナはとりあえず、草原の方へ行くことにした。

見晴らし良く、変わった花が咲き乱れていたが、いつ敵に襲われるかわからない恐怖で、それらを楽しんでいる余裕はなかった。二人は先ほどより挙動不審になりながら、道無き道を進んだ。

すると、クロナが前方から何かが迫ってくるのに気づく。またあの異形達なのではと、彼はウルリの手をぎゅっと掴む。しかし、今度の来訪者は様子が違っていた。

それは馬に跨り、白銀の鎧を纏った、まさに騎士という出で立ちをしていた。鋭く手入れされた槍を携え、馬を軽快に走らせている。道を開けようとウルリ達は動いたが、騎士は二人の前にゆっくりと馬を留めた。

騎士は二人をまじまじと見据えると、もっていた得物を突きつけてきた。


「ひっ!」


短い悲鳴を上げて怯えるクロナ。ウルリはその前に立ち塞がり、騎士を睨みつける。


「なんだよ!オレ達はあいつらの仲間じゃないぞ!」


そう言うと、騎士はくぐもった声で返してきた。


「証拠はあるか?見れば見るほど奇妙な風体...貴様らを通すわけにはいかん」

「なら、オレだって黙っちゃいないぞ」


言うが早いか、ウルリは突き出された槍を掴み、ぐいと引っ張った。その力は騎士の握力を凌ぐものであった。槍はウルリによって奪い取られ、遠く後方へ投げ捨てられた。

しかし、すぐさま騎士は腰の剣を抜き取ると、槍を放り捨てて隙を生んでいたウルリの頚部に切っ先を宛がった。


「ぐっ...」


少しでも動けば傷がつきそうな、ギリギリの辺りで剣が止まっている。ウルリはその場から一歩も動くことができない。隙を伺おうにも、騎士の射抜くような視線は、彼のどのような挙動も逃すまいとしていた。


「すごい力だが...無駄が多い。それでは奴らにも適うまい」

「な、なんだとー!?お前あいつらと戦ったことあんのか!」

「ある。貴様よりは、遥かに場数を踏んでいるつもりだ」


そう言うと、騎士は剣を仕舞った。

その動きはしなやかで、気品すら感じられた。


「私は子供を手にかけるほど堕ちたつもりはない。今回は見逃してやる、早く立ち去れ」


騎士は小声で何かを呟く。すると、遠くに転がっていた槍が浮き上がり、まっすぐ飛んでその手に収まった。


「す、すげーなんだ今の...」


目を丸くして、素直な感想を漏らすウルリ。それはクロナも同じだった。

その、あまりにも呆気に取られた表情に違和感を感じたのか、騎士は怪訝そうに言った。


「なんだ、貴様ら魔法も教わっていないのか?」

「魔法...?今の、魔法なのか!?すげー!オレ初めて見たよ!」

「ま、魔法ってなんですか?どんな力なのですか?」


思い思いの反応を見せる二人に、騎士は困惑した様子だった。やがて唸り声を上げ、何かを考え込んでしまう。

ウルリは騎士に向かって叫ぶ。


「なぁ、もう一回やってくれよ!びゅーんって戻ってくるやつ!かっこよかった!」

「ま、待て待て。その様子からすると...貴様らは異界人か?」

「異界人?そうなのかな、クロナ?」

「ボクに言われても...」

「魔法を見てその反応をするのは、ここでは生まれてまもない赤子か異界人だけだ。なるほど、その風体にも納得がいく」


騎士は馬から降りると、二人に向き直った。


「な、なんだよ」


ウルリはたじろいだ。先ほどの一悶着で、彼の心に騎士に対する警戒心が芽生えていた。


「そう身構えるな、もう私は貴様らを敵だとは思っていない。それより、ここは夜になると異形共が蔓延るようになる...生き延びたいのであれば、馬に乗れ」


ウルリとクロナは顔を見合わせた。


異界人と知るやいなや、騎士の態度は変わっていた。鋭い口調は変わらなかったが、少なくとも敵意はないように思える。


「ど、どうしましょうか、ウルリさん」


クロナは心配そうに見上げる。

が、対するウルリは既に馬に登っていた。


「おー!高い!すげー高い!」

「ちょ!ウルリさん!受け入れるの早くないですか!?」

「クロナも乗れよ。お前馬に乗るの初めてだろ?オレも初めてだけど!」

「わわっ!」


腕を掴まれ、釣り上げられるクロナ。しかし登る筋力がないのか、しばらく宙吊りの状態になってしまう。そこへ騎士が腕を貸し、彼を馬の上に押し上げた。


「あ、ありがとうございます...」


助けられて、小さく頭を下げるクロナ。騎士は二人が乗ったことを確認すると、馬の前に回って手綱を引いた。馬はそれに応じて、ゆっくりと歩き始める。


「おおー!動いた!すごい見晴らし!」

「もう、ウルリさんったら緊張感に欠けるんだから...」

「ずっと気張るなんて疲れるじゃないか。それより、見ろよ!あそこになんかいるぞ!」

「あれは野生種のベルスベートだ。気性は穏やかだが、怒らせると危険だ...」


牛のような生き物が、草を食んでいる。よく見ると辺りに何頭かいて、一斉に食事をしていた。


「そういえば、腹が減ったなぁ...。食べる前に出てきちゃったもんな」

「ウルリさんがあんなことするからですよ...自業自得です」

「都につけば食事もできる。草原を抜けるまで我慢しろ」

「えっ、おごってくれるのか?!」


途端に目を輝かせるウルリ。それに対し、騎士は、


「弱者に施しをするのも、我らの務めだからな」

「か、カッコイイ~!!」


ウルリはすっかり警戒心を失っていた。その後ろでクロナは、呆れたと言わんばかりに嘆息していた。



やがて前方に巨大な建造物の山が姿を現した。壁が四方を取り囲み、その角には塔が建っている。中央にはその壁よりも高く、雄大な巨大な城が構えており、ひと目見てそれが騎士のいう都であるとわかった。

巨大な架け橋が三人のために降りてきて、都への道を作る。門を抜けると、城下町の溢れる活気が出迎えた。


「うわぁ...!すごい賑わいだ」


ウルリは感嘆の声を上げる。クロナも辺りを見回しては驚いている様子である。

騎士が馬を引いて入ってくると、それに気づいた町の人々がわっと歓声を挙げた。


「騎士様!騎士様だ!」

「ああ、無事にお戻りになられた!」

「騎士様、敵は、退けられたのですか!」


矢継ぎ早の質問が騎士の元に集まる。騎士は足を止め、彼らに向かって言った。


「外に敵の影はなかった。ここにいる限り、我らが守る。安心して生きろ」


そう告げると、またもや民衆から歓声が沸いた。ウルリもクロナも、呆気に取られてそれを見る。


「すげーなぁ。まぁ、カッコイイもんな、騎士って」


民衆の歓迎から抜けた後に、ウルリが呟く。ゲームやアニメでしか見たことのない風景に、彼は終始胸を踊らせていた。対するクロナはというと、未知の場所にいるという恐怖感が強く、素直に楽しめてはいないようだった。


「馬から降りろ」


騎士から指示され、従う二人。クロナが苦戦していると、またもや無言で手を貸してくれた。

目の前の扉を開くと、そこは典型的な酒場の洋装をした店であった。来客のベルが鳴るなり、他の利用者が何人か視線を向けてくる。


「おう、いらっしゃ...ああ、フェミルタか?!よく来たな!」


奥のカウンターにいた、大柄の男が声を発する。よく通る銅鑼声は、壁にかけられた食器をカタカタと揺らす医療があった。

フェミルタというらしい騎士は、ウルリとクロナの背中を押して、カウンター席に座るよう促した。


「なんだ、このおちびさん二人組は。まさかあんたの子供じゃないだろうな?」

「冗談は好かん。草原で拾ったのだ。どうやら異界人らしい」


異界人、という言葉を聞いて、男が眉をひそめる。利用者達の中からも、こちらに視線を送る者が増えた。


「……ふーん、なるほど、確かにそうらしい。こっちの坊主はからくりのように見えるが...」

「か、からくりじゃありません。人間です、一応...」


クロナが小声で抗議する。


「腹を空かせているようなのでな。何か食わせてやりたいのだが」

「おう、そういうことなら任せときな。魔法は苦手だが、料理の腕には自信がある」


男はそう言うと、歯を見せて笑った。



数分後、目の前には豪勢な料理が並べられていた。見たことのない彩りの穀物に、変わった形の野菜、そしてその中央を大きな輪切り肉が占めていた。躊躇するクロナに対して、ウルリはすぐに食べ始めた。珍しいスパイスと爽やかな野菜の香りが食欲を更に増進し、気づけば皿に乗った半分以上が綺麗に食べ尽くされていた。


「おう、すごい食べっぷりだ。異界人でこうがっつく奴は初めてだよ」


と、大柄の男は感心した声を漏らす。


「美味いなこれ!おっさんが作ったとは思えないぜ!」

「だはは!言うねえガキんちょ!俺はモルデってんだ。こう見えてまだ三十代だぜ?」

「そうか!なぁおっさん、この肉は何の肉なんだ?」

「おいおい歳には興味なしかよ。そいつはラトーパっつう獣の肉だよ。今朝仕入れたばっかりの上物だぜ?フェミルタに感謝しろよ!」

「私は、お前に任せると言ったのだが」


鎧を外さないまま、フェミルタが淡々と告げる。クロナはそれを見上げて、訝しそうに口を挟む。


「あのぅ、フェミルタさん?鎧、外さないんですか...?」

「どこにいようと、警戒を怠るわけにはいかん。貴様らが変な気を起こさんとも限らんからな」

「は、はぁ...」


鎧の下から有無を言わさぬ視線を浴びせられ、クロナは縮こまった。


「よぅ、異界人!ようこそ王都へ」


突然、陽気な男がウルリとクロナの間に割って入ってきた。彼は指先で、くいっと帽子のつばを押し上げる。


「王都...?ここのことか?」

「そうとも。魔法の国レビリンダーシュの中央...地上で最も栄えている場所さ」

「へぇ、聞いたことのない場所だなぁ」

「異界人はみんなそう言うのさ。まぁ、こっちだって、君達の元いた場所のことを聞いたってわからないしね」

「さっき、魔法の国って言いましたけど、魔法って何なのですか?」

「ふふふ、魔法とはこういうものさ」


陽気な男が被っていた帽子を放り投げる。すると、帽子はふわふわと、まるで鳥のように羽ばたいて上昇し始めた。あちらではコップの水が飛び出して蛇のようにうねり、こちらでは椅子が縦横無尽に駆け回っている。


「これが魔法さ、坊や」


ぱちんと指を鳴らすと、帽子は陽気な男の頭に戻ってきた。クロナはその光景に思わず言葉を失った。


「す、すごい...!」

「ありがとう、ありがとう。でも、こんなのは初歩の初歩。優れた使い手は、炎や冷気を自在に操り、空をも飛べるのさ」


ウルリはきらきらと目を輝かせ、クロナはぱちぱちと喝采の拍手を送る。陽気な男は、恭しく帽子を取っておじきをした。


「オレ達も、教えてもらったらできるようになるのか?」

「いやぁ、こればっかりは血筋の問題だ。魔法使いの血筋ってものが必要なんだよ。君達には残念だけど、教えても無駄だろう」

「なんだぁ...魔法を使えるようになって、ディグをびっくりさせようと思ったのに...って、あー!!」


がっかりと肩を落としたかと思うと、ウルリはすぐさま顔を上げ、びっくりするような大声を発した。


「ど、どうしたんですか?ウルリさん」


至近距離にいたクロナが目を白黒させて問う。


「どうしたんだじゃないよ!早く帰らないとディグに怒られる!」

「わぁっ!?」


そう言うと、ウルリはクロナの手を引いて、慌てて走り出した。扉を開けようと手をかけた瞬間、その手のすぐ傍を白い刃がドンと貫いた。見上げると、フェミルタが剣を抜いていた。


「おい、邪魔するなよ!急いでるんだ!」

「どこへ行く気だ。右も左もわからんくせに」

「ぐっ。そ、それは...」

「外は危ないと言ったはずだ。生きて帰りたいと思うなら、私に従え」

「お、おいっ。フェミルタ、相手は子供だぞっ」

「黙れ。こういう人間は言っても聞かん」


フェミルタは、後方で叫ぶモルデに一瞥もくれず言い放つ。


「確かに...一理ありますね」

「おいっ」


納得だと言わんばかりに頷くクロナに、ウルリは抗議の声を上げた。しかし、刃が額に向けられていることに気づくと、彼の表情が一瞬で強ばった。


「油断、奔放。人の話すら聞くこともしない。貴様を育てた人間は、余程ろくでなしのようだ」

「...なんだって?」


空気が変わる。ウルリは、冷たく張り詰めた表情に変わった。フェミルタの一言は、ウルリの楽観的な思想を打ち消すトリガーとなった。

彼は素手で切っ先を掴む。皮膚が切れ、血が流れるが、意に介さない。その瞳は、既に正気ではなかった。

店中の客や、モルデ、フェミルタすらも、その目に恐怖を沸き上がらせた。

瞬間、ばきっという破砕音が発生、剣がへし折られ、フェミルタの鎧の端が吹き飛んだ。がしゃん、と鎧の欠片が壁に跳ね返る。


「ディグは、ろくでなしじゃないぞ!」


ウルリの怒声が響き渡る。利用客達は口を閉ざし、固唾を飲む。モルデは絶句し、その様子から視線を外すこともできなかった。

フェミルタは押し黙り、憤るウルリを見下ろしていた。その表情は欠けた鎧の隙間から僅かに伺えたが、ほとんど変化しているようには見えなかった。折れた剣を掲げると、溜息を吐く。


「...どうやら貴様は、厄介な奴だが、戦士の素質があるようだ」


剣を仕舞って、フェミルタは続ける。


「非礼を詫びる。貴様の大切な人を、私は激情に任せて侮辱してしまった」

「それじゃ、もう二度とあんなこと言うな!わかったか?」

「了承した」

「なら、いいや!ごめんなー、剣折っちゃって」

「構わん。当然の報いだ」


ウルリは再び元の調子に戻り、からからと笑った。しかし店中に広がった、冷たい雰囲気は、そう簡単に溶けることは無かった。すると、その雰囲気を断ち切るかのように、モルデがカウンターを乗り越えて声をかけてきた。


「おーい!乱闘騒ぎになるかと思ったじゃないか!やるならやるといえ!」

「あ、ごめんおっさん!でも、本気で戦うつもりはなかったから、安心してくれよ!」

「いや、めちゃくちゃ怖かったですよウルリさん...」


ずっと手を握られていたクロナは、カタカタと震えていた。


「魔法の剣を折りやがった…」

「なんなんだあの子供は」


モルデの発言を皮切りに、ざわつく声が大きくなる。それは彼に対する恐怖のざわつきではなく、むしろ賞賛するような意味合いを含んでいた。


「おい、もしかしたら、あの子ならやってくれるんじゃないか...?」

「まだ子供だぞ。それは酷じゃないか」

「しかし、魔法で鍛えられたフェミルタの剣を折った者が過去にいたか?」

「そうだ。しかも魔法を使わずに!」


声は大きくなり、次第に彼らはウルリ達の元へ集まってきた。怪訝そうにそれを見上げるウルリとクロナ。民衆を制し、フェミルタが言う。


「...ウルリ、と言ったか。まだまだ青いが、力だけは賞賛に値する」

「ほほう。...オレ、褒められてるのか?」

「半々だと思います」


ウルリから投げかけられた問答に、クロナが耳打ちした。フェミルタは続ける。


「その力を見込んで、我が騎士団と共に、魔王を討伐する協力を要請したいのだが」

「ええ?魔王だって?魔王がいるのか?」


ウルリは興奮気味に食いついた。


「オレ、一度魔王に会ってみたかったんだよなぁ~。いいよ!一緒に魔王のところに行こう!」

「ちょっ、ウルリさん!?」

「断っておくが、常に死がつきまとう。危険な戦いになるぞ」


フェミルタは、目を輝かせているウルリに厳しい言葉を浴びせた。安易に了承するものではない、と念を押しているようだった。

しかしウルリは、満面の笑みを湛えて答える。


「おう!そういうのは既に経験済みだ!」

「ほう...」


心なしか、フェミルタは笑っているようだった。


「ならば共に向かおう。我らの平和を取り戻すために」


民衆の中からわあっと歓声が上がる。同時に、扉が開け放たれ、光が差し込んできた。光はフェミルタの鎧に反射して、その姿をより神々しく変えた。


「...なんだか大変なことになっちゃいましたけど、大丈夫ですかね」


心配そうに言うクロナ。顔を合わせて、ウルリは楽観的に答える。


「なんとかなるさ!たぶん」

「うわぁ、す、すごく不安...」


クロナは、からからと笑うウルリの隣で嘆息する。ディグの苦労がどのようなものか、彼は身に染みて理解した。

二人はフェミルタに連れられ、遠くに力強くたたずむ王城に向かって歩き出した。あるいは不安、あるいは冒険心を胸に満たして。



王都の中央にそびえ立つ城は、見た目の美しさよりも敵の襲撃に備えている、まるで要塞のようなものだった。鉄の門を抜けると、フェミルタと同じような鎧を身につけた騎士達が行き交い、訓練し、技を磨いていた。

騎士達はフェミルタの姿を捉えると、手を止め、敬礼をする。その様子から、フェミルタのここでの立場が伺える。

フェミルタは同様の敬礼を交わすと、塔の一つに足を運んだ。中央の城より少し離れたところにあるその塔は、多くの騎士達の屯所でもあった。

映画でしか見たことのなかった光景が、目の前に広がっている。そのことにすっかりウルリは興奮していた。


「うわぁ、すごい数!これみんな騎士団の人?」

「いや、ここにいる者達はまだ見習いだ。騎士団に所属する者は厳格な審査によって選ばれる」

「あんなに強そうなのに、見習いなんだ...」


ウルリは、傍を悠々と通り過ぎる屈強な騎士に視線を向けながら言った。


「騎士に必要なものは力の強さだけではない。心身共に鍛え、風格を備えることが重要なのだ」

「へぇー」


フェミルタに連れられ、ウルリとクロナは階段を上がり、大きな部屋に通される。


そこにはたくさんの武器が立てかけられ、よく磨かれた鎧が並んでいる。中央には、三人の騎士が椅子に腰掛けて、テーブルを囲んでいた。


「フェミルタ!待っていたぞ」


手前に掛けていた騎士が立ち上がる。彼は墨のように黒い髪をした、太陽のように明るい笑顔の印象的な男性だった。フェミルタが敬礼をすると、それに応じる。


「定期巡回、君だけ帰りが遅かったから心配していたんだ」

「ヘリオール。すまない、落し物を拾っていたのでな」

「...その子達かい?」


奥にいた騎士が、ゆらゆらした足取りでやってくる。こちらは鬱屈そうな顔をした、細身の男性。死霊のような風体に怯えて、クロナはウルリの背中に隠れた。


「おいセレンス、お前の面のせいでビビっちまってるぞ」


最後の一人が、低く唸るような声で言う。浅黒い肌の、熊のように体の大きな男性が、セレンスという細身の男性を押しのけて前に出てくる。彼が歩く度に床は軋み、その迫力たるや、セレンスに声をかけられた時以上にクロナは恐怖した。僅かに様子を伺おうと出していた頭も、完全に隠して、ウルリにしがみついた。


「ははは!ノグ、君の体の大きさも逆効果なようだぞ」


熊の男の背中を叩いて、ヘリオールは言う。


彼は背中に隠れてしまったクロナに、「驚かせてすまなかったね」と優しく声をかけた。


「お前らが騎士団か?」

「そうだよ。レビリンダーシュ国王直属、通称天空の騎士団だ!」

「...通称じゃなくて、お前の自称だろうヘリオール。誰もそう呼んでいないよ」

「セレンス。君にはユーモアが足りないね?もっと物語を読みたまえ。幸せになれるぞ!」

「...嫌だよ...」


うんざりしたように顔をしかめるセレンス。一方で、ウルリは「すげぇ!カッコイイ!」と賛同していた。ポジティブな波長が合ったらしい。


「改めて自己紹介しよう。俺はヘリオール。こっちの愛想のない奴はセレンス、剣術は達人級だ。そしてそっちの大男はノグ、力は騎士団随一さ」

「オレはウルリ!後ろのはクロナだよ。よろしくな!」


差し出された手をしっかりと掴んで、握手を交わす。


「あんなにたくさんいる中から選ばれるなんて、すごい四人なんだなぁ」

「元々は、こんなに少なくなかったんだけどね」

「そうなのか?」


ヘリオールは困ったように笑う。


「これは...話してもいいのかな、フェミルタ?」

「構わん。子供とはいえ、相当の修羅場をくぐり抜けているようだ」

「そうだぞ話せ」

「ウルリさん上から過ぎます…」


フェミルタの言葉を受けて、ヘリオールは了承した。彼は踵を返し、窓辺へと向かっていく。


「魔王のことはもう聞いているか?」

「あぁ、うん。名前だけなら」

「強い魔力を持ち、それで鍛えられた身体は不死に近い。我々ですら手を煩わす異形の軍勢を無尽蔵に生み出す技を使うんだ」

「それ、チートじゃん…?」

「あれが見えるか?」


シャッとカーテンが引かれる。窓の向こう、ずっと向こうに、暗雲を頂いた禍々しい建造物が、霞んで見える。


「あれは魔王の城。異形を生み出し、ここへ差し向けているんだ」

「うわ、見るからに悪そう」

「異形達は人民を攫い、流通を麻痺させ、たくさんの仲間の命を奪った...俺達騎士団がこんなに少ないのは、そういうことだ」

「みんな戦って死んじゃったのか...」


騎士達はみんな、暗い面持ちに変わる。優秀な彼らが揃ってこのような顔を見せるのは、それだけ相手が規格外の存在だということだろう。


「だから、フェミルタ。正直、俺はその子供を見た時から疑問に思っている。君ともあろう人間が、この子達を戦線に立たせるっていうのか?」


ヘリオールの口調が鋭くなる。それは、フェミルタへの信用がないわけではないが、極めて認め難いといった語気を含ませていた。

それに対し、フェミルタは、凛とした態度を崩さないまま告げる。


「決意は聞いている。私も信じられなかったが…これを見ろ」


そう言うと、腰の剣を抜いてヘリオールに見せる。それを見た彼は、剣の有様に絶句していた。中腹から切っ先を失った剣。それを掲げて、フェミルタが続ける。


「国一の鍛冶に作らせ、魔法で鍛えた剣がこのざまだった。恐ろしい話だが、この子供は、そういう力を持っているのだ」

「...信じ難いね。だけど、それを見せられては、納得せざるを得ないだろう」


平静を装うセレンスだが、声が微かに震えている。


「魔法の無効化か、それとも魔力を凌駕するほどのパワーだったのか...すげぇな」


ノグも顔を引き攣らせて感心している。


「今から鍛えれば、魔王討伐はより現実的なものとなろう。総力を上げて訓練を行うのだ」

「応!!」


フェミルタの一声に、勇ましく敬礼をして答える騎士達。強い意思の炎が、それぞれの瞳に灯る。


「か、カッコイイ...!」


キラキラと目を輝かせるウルリ。

次の瞬間、その首根っこをフェミルタが掴む。そのままずるずると引きずって、部屋を出ようとした。


「なっ...なん、なんだよ!?」

「今から始める。訓練舎へ急ぐのだ」

「はぁ!?訓練なんてやりたくないよ!」

「黙れ。何の苦労もせず魔王が倒せるのなら、我々もとうにそうしている」

「ちょ、ちょっと待って!クロナは!?」

「用があるのは貴様だけだ」

「うわーっ!嫌だー!」


じたばたと暴れるウルリ。しかし頭を完全にホールドされ、抜け出すことができない。なす術なく、彼は部屋の外へ引きずられていった。

その様子を、唖然とした様子で見守っていた騎士達と、クロナ。


「...本当に大丈夫なのかな」


セレンスがぼそりと呟く。

クロナも、口にしないまでも、同じことを考えていた。



屯所の傍にある訓練舎では、たくさんの騎士達が集まり、様々な訓練を行っていた。格闘術や剣術、筋トレのようなこともしている。時としてペアを組み、お互いの力を見せ合い、測る対人戦も行っていて、その白熱した空気は城下町の活気とも引けをとらないだろう。

一際目を引くのは、多くの人だかりを作っているウルリとフェミルタの対戦であった。練習用の剣を手に、向かい合っている。


「何をしている。動け」


痺れを切らしたフェミルタからの厳しい言葉が飛んでくる。騎士はウルリの行動を待っていた。彼が何かしない限りは、反撃をしないつもりなのだ。しかし、当のウルリは、応じようとしなかった。というより、剣の重みに翻弄されているようだった。練習用とはいえ、実際の剣と違って刃がないだけで、重みは同じものだった。手練たフェミルタでちょうど良い長さのそれは、使い慣れていないウルリにとっては足枷でしかなかったのだ。


「こ、これめちゃくちゃ重いんだけど!持つのがやっとなんだけど!」

「鍛え方が足りんのだ。さぁ走れ!向かって来い!」

「だから無理だって~!」


珍しく弱音を吐くウルリ。運動は得意だが、ものを教わったり、練習したりするようなことは大の苦手だった。剣の切っ先を地面につけて休もうとすると、すぐにフェミルタの激が飛んできた。


「甘えるな!切っ先は常に相手を捉えろ!貴様はそれで三度は死んでいるぞ!」

「うぐぐ...」


そんなスパルタ訓練を、クロナはやきもきしながら見守っていた。早々に戦力外認定されてしまった彼は、屯所で待機するように指示されていたのだが、独りでいる恐怖とウルリへの心配からついてきたのである。


「ウルリさん、大丈夫ですか?」

「正直やめたい...」

「無駄口を叩くな!」


とうとうフェミルタが動いた。風のように駆け、一瞬のうちにウルリとの間合いを詰める。ウルリは咄嗟に剣を掲げて盾にすると、そこへ強い衝撃が起こった。鋭く繰り出されたフェミルタの剣擊は重く、ガードしたもののウルリは剣を取り落としてしまった。


「悪くない反応だが、剣を落とすようでは守れていないことと変わらん!」

「オレ、剣なんか使ったことないんだよ~!」

「だからこそ!今鍛えるのだ!」

「横暴だ~!」


ウルリは這って逃げ出す。フェミルタがそれを追う。クロナと共に様子を見ていたヘリオール達は、どうしたものかと顔を見合わせる。


「あいつすっかり逃げ腰だな。あの気迫を見せられちゃ仕方ねぇと思うが」

「フェミルタは天才だが、教えるのは苦手だからなぁ」

「...どうする?止めるかい」

「そうだなぁ。あれじゃ可哀想だ」

「あ、あの、ボクも行きます...!」


ヘリオールは騎士達の人だかりを分けて、最前列に出る。そこでは逃げ回るウルリと、彼を捕まえようとするフェミルタの追いかけっこが繰り広げられていた。


「逃げ足が早くとも戦いにならんぞ!」

「捕まらなきゃどうということもないだろ!」

「おーい、二人共。もうそれくらいでやめにしないか?」

「何を言う。まだまだこれからではないか」

「オ、オレはもういいよ」

「甘やかしてしまっては、いつまでも成長せんぞ」

「まぁまぁ、君の気持ちもわからんでもないさ。しかし、俺が思うに、そのやり方ではだめだ」


ヘリオールは二人の間に割って入り、ウルリに向かって話しかける。


「ウルリ。君の得意なことはなんだい」

「オレ、そっちの剣じゃなくて、こっちの拳なら自信あるよ!」

「ははは!なるほど。それなら、俺にみせてくれないか?」


言うと、ヘリオールは鎧を外して静かに構えた。典型的な、格闘の臨戦態勢である。


「い、いいのか?オレ、細かい手加減とかできないよ」

「受ける覚悟はあるさ」

「それなら、遠慮なく...」


ウルリは息を整えると、真っ直ぐに駆け出す。そしてヘリオールの目の前で低く跳躍し、両の手を使って殴打を繰り出した。

一撃目はヘリオールの頬を掠め、続く二擊目は受け流される。しかしウルリは怯まずに、地面に片手を着き、そのまま身体を捻って鋭い蹴りを放った。瞬時に、蹴りを両腕でガードするヘリオール。威力は殺したが勢いは殺せず、踏ん張りがきかず後方へと押しやられた。そこへ追い打ちのように飛びかかるウルリだったが、全てガードされてしまう。


「なかなかいい動きじゃないか!素晴らしい!」


ヘリオールは攻撃を受けながら感嘆の声を上げる。


「よしよし、やめだ!君の実力はよく分かった!」

「まだまだぁ!一撃食らわせてやる!」


ウルリはすっかり熱くなってしまい、ヘリオールの言葉を無視して、さらに攻め続けようとした。やれやれと嘆息すると、ヘリオールは拳を受け流してウルリの腕を掴み、突進してきた勢いに乗せて、彼を地面に引き倒した。


「どあっ!」


背中から地面に打ち付けられたウルリ。その頭上で、ヘリオールは笑った。


「はははは!元気が有り余っているのはいいことだが、やめと言ったらやめるのが決まりだぞ?」

「くっそ~...全部受け切られた...」

「いやいや、こっちも冷や汗をかいたさ。見たまえ、殴られたところがアザになっているし、最初は頭を吹き飛ばされるとさえ思ったんだぞ」


ヘリオールはウルリに手を差し伸べた。その手を掴み、立ち上がるウルリだったが、納得がいっていないようだった。


「フェミルタの言う通り、君は強い力を持っているようだ。速さも動きも申し分ない...しかし、隙が多すぎる。闇雲に攻撃している感じも否めないし、もう少し技を出すタイミングを見極め、相手の動きを読むようにしたまえ。勿体無いぞ」

「うーん、そんなのいつも気にしてないよ」

「それは、これから気にしていけばいい。君には素質がある、すぐに身につくさ」

ヘリオールのアドバイスと、彼に敗北した悔しさを受けて、ウルリは闘争心を燃やした。

「よーし!次からは負けないからな!」

「その意気だ!俺はいつでも相手になるぞ!」


二人が熱い言葉を交わした、その瞬間であった。


「敵襲ー!皆の者配置につけー!」


城中に響き渡る緊急の号令。場にいるすべての騎士達は血相を変え、それぞれの装備を手早く身につけると訓練舎を出て行った。

フェミルタ、ヘリオール、セレンス、ノグも同様に飛び出し、号令をかけ続ける一兵卒に向かって叫ぶ。


「状況は!」

「南西より異形の軍勢が迫っております!」

「クソッ!俺は先に前線に出るぜ!」

「ノグ!できるだけ草原中腹で迎え撃て、王都へ入れさせるな!」


ノグは拳を掲げて返事を示すと、大きな馬に飛び乗り、走り去った。


「セレンス、銃撃部隊を引き連れ、援護に回れ!」

「...了解」

「ヘリオールは万が一のため、城下町に備えよ!」

「応!」


フェミルタは次々に指示を出し、屯所の騎士達を動かした。誰も彼も、その命令に異論を唱えることなく従い、王城の門を駆け抜けていく。

遥か彼方からは、禍々しい城から吐き出される濁流の如き異形の群れが、真っ直ぐに王都を目指していた。得物を手に地を駆ける者、黒い馬のような獣に跨る者、様々であったが、すべて一様に血走った目をして、城を睨みつけている。

ノグ率いる第一陣は開け放たれた城下の門から飛び出し、雄叫びを上げて敵の先陣と衝突する。その後を追ってきたセレンスらは、ノグ達の後援に従事した。


「ウルリ!クロナ!」


フェミルタは二人に振り返って言う。


「貴様らは屯所の騎士団の部屋に隠れていろ。今すぐに」

「待ってよ、オレも行く!」

「だめだ。...衛兵!」


フェミルタが命じると、二人の兵士が立ちはだかった。兵士達はウルリを羽交い締めにし、そのまま連れていく。


「おい!おいこら、フェミルタ!オレの力が必要だとか言ってたじゃないか!なんでこんなことすんだよー!」

「付け焼き刃の助けはまだいらん。貴様はその友人を守っていろ」


そう言い置くと、フェミルタは馬を走らせた。白銀の鎧はあっという間に兵士達の波に飲まれていく。


「ばかやろー!うそつきー!戻ってこーい!!」


抵抗しながら叫ぶウルリ。兵士達は意に介さず、屯所へと引きずっていく。困惑したクロナは、ウルリとフェミルタ、双方を見やって動けないでいた。そこへ兵士の一人が近づき、彼の手を引いて屯所へと走った。



騎士団の部屋からは、戦争の様子がよく見えた。黒と白の軍勢が互いに入り交じり、激しい戦いを繰り広げている。

ウルリはそれをじっと眺めていた。

クロナはというと、ずっとテーブルの下に隠れている。ぶるぶると震え、祈るように手を握りしめている。


「クロナ、心配するなよ。あいつらは強いから!」


そう、ウルリは声をかけた。少しでもクロナを元気づけようと、彼なりにした配慮である。クロナは顔を上げるが、その表情は恐怖に塗れている。ウルリは窓辺から離れ、そっと肩を抱いた。


「大丈夫、大丈夫だ。目を閉じて開けたら、全部終わって...?」


肩を撫でる、ウルリの手が止まる。その目線の先には、今までなかったはずの人影があった。それは足元を隠すほどの長い、黒いローブを纏っていて、片膝をついて、テーブルの下を覗き込んできた。


「うわっ!」


ウルリは驚愕の声を上げた。その声に驚いたクロナはぎゅっと目を閉じ、悲鳴を上げてウルリに抱きつく。

テーブルを覗き込んできたそいつは、顔にどす黒く錆びた、歪な仮面を付けていた。ローブの隙間から白く骨ばった、気味の悪い手を伸ばし、ゆっくりと二人に差し向けてくる。

ウルリは咄嗟にクロナをテーブルの反対側へと押しやった。自身もすぐに四つん這いになって這い出し、その存在に対して臨戦態勢をとった。

だが、気がつくとそこには誰もいなかった。


「あ、あれ?」


気が動転したのも束の間、背後で悲鳴が上がり、ウルリは慌てて振り返る。

そこには、仮面の存在が佇んでいた。まるで荷物でも扱うかのように、クロナを小脇に抱えている。泣きながら抵抗する彼を微塵にも気に止めていないようだった。

ウルリは、クロナを助けようと飛びかかる。しかし、その拳が仮面の存在とぶつかる瞬間、異様な感覚に覆われた。煙か、霧のようになって、仮面の存在は掻き消えていた。繰り出された拳は空を切り、仮面の存在の腹だった場所を、虚しく殴り抜いていた。


「クロナっ!ど、どこいったんだ!?」


着地し、辺りを見回すが、煙が消失すると共に、クロナの泣き声も途切れてしまった。静寂した部屋の中、焦燥に駆られてウルリは叫ぶ。


「おーい!どこだー!」


テーブルや椅子をひっくり返し、鎧や武器を叩きつけて、彼は探した。しかし、姿が見つからないどころか、返事さえない。

完全に一人になった。薄々悟り始めるが、それを認めたくないゆえに、ウルリはクロナを探し続けた。



凱旋を終えたフェミルタは、ものの散乱した悲惨な状態の部屋に戻り、絶句した。


「何があったのだ!?」


ものの山の中で項垂れるウルリの傍に向かい、フェミルタは叫ぶ。

ウルリは顔色を蒼白させ、今にも泣きそうな表情をしていた。


「ここで何があった。...もう一人は?」

「そ、そこにいないか?それとも、どこにもいないのか?」

「落ち着いて話せ」


フェミルタはゆっくりと、強く言った。

ウルリはしばらく挙動不審だったが、辺りを見回し、この有様を見ると、認め難い事実を観念したように飲み込んだ。


「大変なことになった…クロナが、なんか悪そうなやつに連れていかれたんだ!」

「どのような見た目だったか、覚えているか?」

「う、うん。変な仮面をつけて、黒い服だった」

「仮面...そうか」


フェミルタは声を震わせる。それは恐怖ではなく、内に燃え上がる憤怒によるものであった。


「フェミルタ!ウルリ達は無事か!?」


少し遅れて、ヘリオール達が到着する。彼らは部屋を見るなり、瞬時に状況を理解した。


「不覚...!まさかここまで侵入を許すとは!」

「軍勢は門前で抑えていた!来られるはずがねぇ!」

「...魔王の仕業だ」


フェミルタが言う。その名を聞いた瞬間、ヘリオール達は凍りついた。


「奴はここまで入り込む術を身につけていたのだろう。恐らくは、直接この国を落とすために来たのだ」

「ちくしょう!」


ノグは怒りを顕にして、椅子を蹴り飛ばした。予想外の危機的状況に、他の騎士達は沈黙していた。

その時、ふつふつと決意を固めていたウルリは沈黙を破って大声を上げた。


「よーし!じゃあ今度こそオレの出番だな!魔王のいるところに行くぞ!そしてクロナを取り返すんだ!」

「な、何を言い出すんだ君は!」

「文句あっか!」

「いや、そうでなくて、君は魔王を倒せると思っているのか?」

「そんなの知らない。でもクロナを助けなきゃ!」

「確かにあの子一人では危険だ。早急に向かわねばならん」

「フェミルタまで...!どうしたんだ急に」


ヘリオールは顔を引き攣らせる。


「どうもしない。弱者を助けるのが騎士だ」

「やっぱり、かっこいい…!」


羨望の眼差しを向けるウルリ。しかし、次にフェミルタから放たれた言葉は、彼の表情を一変させた。


「貴様はここで待て。私一人で行く」

「あ!?なんでだよ!」

「貴様のように声のうるさい奴がいては、すぐに見つかってしまうのだ」

「オレは所構わず大声なんか出さないぞ!」

「激情に囚われやすいのも難点だ」

「ぐぅ...」


ウルリは何も言い返せず、歯を食いしばる。


「貴様は来るべきに備えて訓練に励め。そうすれば必ず、魔王を倒す力を身につけられるはずだ。...期待しているぞ」


そう言うと、フェミルタは、止めるヘリオール達を振り切り、部屋を出ようとする。


「...だったら!」


ぽつりと、ウルリが言葉を漏らす。フェミルタは振り返らなかったが、その足を止める。


「だったら今期待しろ!ばかやろー!オレは絶対行くからな。クロナはオレの弟だし、家族なんだ!ディグがいないから、代わりに守ってやんなきゃいけないんだ。お前も守れって言ったじゃないか!だからオレは行く!以上!」


そう叫ぶと、ウルリは窓辺に向かって走り出した。


「何を...っ!?」


ヘリオールが言いかけた瞬間、ウルリは窓を開け放し、その縁に足をかける。その行為が何を示すのか直感した騎士達は、あるいは声を発し、あるいは手を伸ばして、彼を引き止めようとした。

だが、ヘリオールの手は空を掴み、ウルリは遥か下方へと落ちていった。


「直ちに衛兵と救急部隊を急行させろ!!」


騎士達は狼狽を隠せぬ表情で、部屋の外に号令をかけた。彼らは慌ただしく下の階層へ降りていくが、ただ一人、フェミルタだけは動かなかった。


「確かに、私は守れと言っていたな...」


嘆息し、フェミルタは呟く。

騎士は立てかけてあった、鋭く輝く剣と槍を手に取ると、その部屋を後にする。

駆け回る兵士を避けて、馬を連れ出すと、それに跨って力強く走らせた。その時、騎士の頭の鎧が転げ落ちた。それは吊り橋にぶつかり、跳ね上がると、堀の底へ沈んでいった。



草原を駆ける一匹の獣。しなやかな手足を伸ばして、ぐんぐん加速しながら、ある場所を目指していた。

前方にそびえ立つ、禍々しい暗黒の城。魔王の居城と恐れられる魔法の建造物である。

獣はそこに囚われた兄弟を助けるため、ひたすら走り続けていた。


「...けど、めちゃくちゃ遠いなぁ!」


ひぃひぃ息を切らして、獣は聞き覚えのある声を吐き出した。確かに、魔王の城は前方にある。それも手を伸ばせそうなほど、近くにあるように見えているのである。しかし、どれだけ走っても、その分離れていっているような気がした。


「このままじゃ日が暮れちゃうぞ...夜は危ないって、言ってたしなぁ」


獣は頑張って足を動かすが、そのスピードは疲れのせいでどんどん落ちている。

その時、後方から、何かが地面を打ち鳴らして迫ってきた。振り返ると、白い馬と、その上に跨った白銀の鎧の騎士が、槍を掲げて追いかけてきていた。


「うわわわ!?」


獣は慌てて飛び退くが、疲れているせいで足がもつれ、転んでしまう。

その頭へ差し向けられる槍の切っ先。獣は思わず叫び声をあげた。


「...?貴様、ウルリか?」


そう言って、騎士は槍を引っ込める。獣は目を丸くして、騎士を見上げた。


「な、なんでオレの名前を知ってるんだ。お前は誰なんだ?」

「そのような耳に障る声を出す奴は一人しか思いつかん。姿は違えど、態度は変わらんようだな」

「だから、お前は誰なんだってば」

「フェミルタだ」

「えっ!?...マジ?」


そこにいるのは、薄い翠緑の長髪を靡かせた女性だった。整った顔立ちを凛と引き締め、強い意志に燃える瞳でウルリを見下ろしている。

その声色に聞き覚えがあったウルリは、それだけに、尚更驚いた。


「マジか...ずっと男だと思ってた...」

「よく言われる」

「な、なんでこんなとこにいるんだ?オレを連れ戻しに来たのか?」

「そんなわけなかろう。魔王の城に向かう途中だ」


フェミルタは前方の城を見据える。


「あの城には魔法がかかっていて、それを打ち破らねばたどり着くことはできん。貴様はその術を知らんだろう。でなければ、こんなところで息を切らすことなどない」

「ぐっ...お、お前は、その魔法を破る方法ってのを知っているのか?」

「当然だ。過去に一度、攻めたことがあるからな…だが、それをすると魔王に勘づかれる。危険も増すが…」

「構うな!やれ!」


いつの間にか元に戻っていたウルリが、フェミルタの言葉を遮り、城に向かって指をさす。その迷いのなさは無謀と言わざるを得なかったが、フェミルタはその言葉から、不思議と勇気を与えられた気がした。


「了承した」


槍を向け、何かを呟く。すると、切っ先から電が走り、魔王の城へ飛んでいく。電は何か透明な壁のようなものに突き当たり、激しい閃光を撒き散らした。

思わず目を覆うウルリ。瞬間、見えない壁はガラガラと打ち砕かれた。


「す、すげー...」

「乗れ、ウルリ。一気にここを駆け抜けるぞ」


フェミルタに促され、馬に飛び乗るウルリ。大きく嘶いた白馬は、大地を力強く蹴り、走り出した。



険しい崖に守られるかのように、暗黒の城は建っていた。王城と対照的に建造物としての美しさを重視したデザインのようだ。しかし、牙を露わにした恐ろしい悪魔の像や、呪詛の彫り込み細工は、お世辞にも良い趣味とはいえなかった。

開門されたままのアーチをくぐり、ウルリとフェミルタは城の広間へと侵入した。


「油断するな。奴らがどこから現れても不思議ではない」


フェミルタは周囲を警戒した。豪勢なシャンデリアが釣り下がっているにも関わらず薄暗いその部屋は、今にも何かが起こりそうな空気で充満していた。


「よし、オレはあの部屋を調べてくるよ!」

「おい!勝手に進むな!」


ウルリは馬から飛び降りると、フェミルタの制止を振り切って部屋の一つに直行した。

きっちりと閉じられた扉を蹴り飛ばし、その内部へと侵入する。そこは、外観に比べると、意外にも普通の部屋だった。

天蓋のついた大きな寝台に、アンティーク調の家具が数点。床には埃の被った絨毯が敷かれていて、誰かがいた形跡もない。


「どうやらこっちじゃないみたいだ」


と、部屋を一望するなり彼は、そこに何もないと判断してすぐに踵を返した。追いかけてきたフェミルタと入れ違いになるのも無視して広間に戻ってくる。


「何をしている?」

「クロナのにおいがするんだ。あいつ変わった金属のにおいがするから、間違いないと思ったんだけど...」


床に鼻を押し付けながらウルリが答える。

彼は四つん這いになって、その場に残る微かな手がかりを探した。

その時、奥の部屋から異形の群れが現れた。各々は侵入者を排除しようと得物を抱え、鬨の声を上げる。


「うわ!どうしよう!?」


ウルリは後ずさり、フェミルタを見上げた。

彼女は槍を構え、前に出てくる。


「戦うしかあるまい。貴様は...」


言いかけて、フェミルタは嘆息した。戦闘と聞いて、敵を見据え、既に臨戦態勢を取っているウルリを見て、彼女は悟ったように肩をすくめる。


「...好きにするがいい。ただし、奴らは弱点を突かん限り消えることがないぞ」

「弱点ってどこなんだ?」

「奴らの胴体に、魔王が付与した魔力の核がある。そこを狙えばよいが、生半可な力では外殻すら壊せんぞ」

「なるほど!弱点さえわかれば、もう怖くないぜ」


ウルリは突撃した。武器を振り回し威嚇する異形達。次の瞬間、ウルリの身体が膨れ上がり、力強い獣人の姿に変化した。異形達は一瞬驚くが、侵攻の足は止まらない。彼らは束になり、その攻撃を受け止めようとした。

だが、その威勢は、ウルリが放なった打撃によってあっさりと打ち砕かれた。異形の身の丈を優に越す、壁のような拳。数体の異形達がそれに直撃し、本物の壁へと無惨に叩きつけられる。同時に、その衝撃で城全体が震えた。


「...胴を狙えと言ったはずだったのだが」


唖然とした様子でフェミルタが言う。

傍に着地きてきたウルリは得意げな顔をする。


「こうすれば弱点も何も無いだろう?」

「教えてやった意味がまるでないではないか。そも、何なのだ?先程から。貴様のその姿は...変化の技は、才のある使い手でも使いこなすことが困難なのだぞ」

「何ぶつぶつ言ってんだ?そんなことより、においの方向が変わったみたいだ!」


フェミルタの質問を無視して、上を指すウルリ。遥か上の階層、恐らくシャンデリアと同じくらいの高さに、黒いローブを纏った仮面の存在がいた。それは、クロナを脇に抱えて、最上階の出口から出て行こうとしているところだった。


「見つけたぞ!あそこだ!」


そう叫ぶと、仮面の存在が気づいたように振り返った。

何か呟くと、その指先から熱線が走った。それはシャンデリアを吊っているロープに当たって、まるでレーザーカッターのように焼き切った。自重の支えを失ったシャンデリアは真っ直ぐに広間へと落ちていく。


「退けーっ!!」


フェミルタの号令が響く。彼女は馬を走らせ、ウルリは後方へ飛び退き、壁に身を寄せた。異形達は機械の如く追いかけてきたが、予想通り落下したシャンデリアに押し潰されてしまった。衝撃で後方に備えていた異形達も吹き飛んでいく。


「何かの怪人みたいなことしやがって!でももう逃がさないぞ!」


ウルリは防御を解くと、螺旋階段を駆け上がっていく。背後でフェミルタが何か叫ぶが、彼は一心不乱に目的に向かって突き進んでいた。


階段を登り切ると、待っていたかのように仮面の存在が佇んでいた。そこは一階の広間よりも広く、歪な銅像があちこちに並んだ、言うなればRPGの決戦の場として相応しいフィールドであった。


「ああっ!ウルリさん!助けに来てくれたんですね!」


意識を取り戻したクロナが感極まった声を上げる。


「うえ~ん!もうダメかと思いましたー!」

「オレが来たからには安心しろクロナ!そいつをさっさとやっつけて、ディグのところへ帰るぞ!」


ウルリは駆け出し、仮面の存在に向かって飛びかかった。

鋭い刺突が胴体を捉える。しかし、斬り裂いた場所は気づくと煙状になっており、彼の手は虚空を揺るがしたに過ぎなかった。

仮面の存在はローブを翻し、ウルリの顔の前に手のひらを突き出した。彼が驚く暇もなく、熱く凝縮されたエネルギー弾が瞬時に生成される。それは無慈悲な威力をもって獣人を吹き飛ばした。


「うわーっ!」


像をなぎ倒し、転げる巨体。それを追って続け様に光弾が放たれるが、ウルリは咄嗟に身体のサイズを縮小し、それを躱す。


「あああ生きてるっ!?あ、あぶねー!」


像の裏に隠れて、手足がついているか確認する。左肩がズキズキと痛むが、幸いそれ以上の怪我はしなかったようだ。エネルギーが発射される瞬間、反射的に彼は僅かに身体を逸らしていたのだ。訓練は苦手なウルリだが、いざ実戦の時には持ち前の運と野生の勘で窮地を切り抜けることができた。


「威力は大したことないけど、落っことされたらまずいなぁ…」


舞う砂埃に身を隠しながら、どう攻めようか思案する。しかし元々策を考えるタイプではないために、思いつくのは不意打ちや正面突破といったお粗末なものばかり。

そうしているうちにも、魔王の攻め手は緩まず、手のひらから異形達を生み出すと、彼らに襲いかからせてきた。

殺気を感じて像の裏から飛び出すウルリ。そのコンマ数秒後、異形達の得物が身体を掠める。獣人化するが、大きな身体は格好の的となる。異形達を縁から叩き落とす隙に、魔王の光弾が直撃する。威力が思ったほどではないとはいえ、食らい続けていてはいずれ体力が底を突く。本命に向かって反撃することもままならず、強いられる防衛戦に彼は焦燥していた。


「くそー!なんかめんどくさくなってきたぞ!」

「ウルリ!」


背後から声をかけられる。剣を携えたフェミルタが、息を切らして立っていた。彼女は剣で光弾を跳ね返し、飛びかかってくる異形を斬り伏せて対応している。


「す、すげー」

「クロナはまだ救出できていないのか?」

「やろうとしてるさ!でもあいつは攻撃しようとしても煙みたいになって、当たらないんだ!」

「恐らく不死の技であろう。看破せねば、我々の勝利はない」

「こんな時でも冷静だなぁ、フェミルタは...」


はたと、ウルリは言葉を切る。自分の言葉を反芻し、やがて思いついたように話し出した。


「なぁ!あいつを凍らせたりできないか?!」

「なんだと?」

「氷の魔法だよ!あるんだろ?そういう魔法」

「ないことはないが...」

「ならやってくれ!」


ウルリはそう叫んで、舞い上がる土埃を突っ切り、魔王の前に飛び出した。左右から異形達が挟撃してくるが、獣人の腕で受け止め、弾き返す。そこへ見計らったように光弾の連撃が飛んでくる。衝撃が彼を吹き飛ばそうと押し寄せてくるが、足を踏ん張らせ、構うことなく進み続けた。

魔王は怯まず突っ込んでくるウルリに一瞬気圧されていた。そのため、煙状になって回避することが遅れてしまう。

その刹那、青白い閃光が魔王の足元に着弾する。眩く瞬くと、水晶のように透き通った氷が花開き、魔王の身体を覆い尽くした。


「うわわわー!」


氷の手が届く直前、ウルリはクロナを魔王の手から奪い取る。魔王は二人に向かって手を伸ばし、光弾を放つ。光弾はウルリ達のすぐ後ろに当たり、衝撃と共に粉塵を巻き上げた。

魔王はすぐに熱い炎を生成し、氷を溶かそうと試みた。しかしその隙に、フェミルタは素早く間合いを詰め、剣を振るった。

洗練された一太刀は真っ直ぐに魔王を捉え、氷ごと両断。魔王は断末魔の悲鳴を上げることもなく、二つに分かれる。氷漬けの半身がぐらりと傾き、ゆっくりと倒れていく。その際、一筋の歪みもない滑面が太陽に煌めいた。

氷が重い音を立てて床に転がった直後、魔王の亡骸は砂のようにさらさらと溶けた。後には、仮面とローブだけが残されていた。


「や、やっつけたんですか…?」


クロナが、目を白黒させて言う。それは傍にいるウルリも同じだった。普通の人間とは異なる幕引きに、魔王が本当に倒されたのか半信半疑だったのだ。


「倒したんなら、ゲームだったら宝箱が出るとか、何かしらイベントが起こるもんだけど...」

「案ずるな。魔王は...」


剣を鞘に納め、振り返るフェミルタ。表情に変化はなかったが、その語気には不吉な意味を含んでいなかった。

彼女が結果を伝えようとした、その瞬間。

激しい揺れが、突如として三人を襲った。バキバキという嫌な音があちこちで巻き起こり、周囲に佇んでいた像は尽く倒れていく。あまりの振動に立っていられず這いつくばるが、その床が、予告もなくガラガラと音を立てて崩れ落ちた。


「どあーっ!!」

「なんということだ...!城が...!」


瓦礫と共に、崩落する城の中へと落ちていく。魔王が倒されたことを受けて、城の魔法が解けたのである。城は魔力の支えを失ってまたたく間に老朽化し、脆い箇所から砕け散り、大地に沈んでいた。


「イ、イベントが発生したってことは、つまりそういうことだよな!?」

「言ってる場合ですか~っ!このままじゃ死んじゃいますよ!!」

「結果は相討ちか...これで平和が戻るのなら仕方あるまい」

「あ、諦めないでください!魔法でなんとかできないのですか?!」

「悪いが、私の専門外だ...」


フェミルタは渋い顔で告げる。

瓦礫だらけの地面は、もうすぐそこに迫っていた。


「そうだ!」


ウルリはクロナに向かって叫んだ。


「クロナ!お前の力で、落ちる速度を遅くするんだ!」

「ええ!?で、でも間に合うかどうか…」

「いいから早く!」


ウルリに怒鳴られ、慌ててクロナは意識を集中した。

時間の波動が、落下速度よりも早く脈打つ。瞬間、まるで一時停止をかけられたかのように、三人の身体は宙に留まっていた。そこからゆっくりと、数ミリずつ重力に従って落ちていく。鼻先には、崩壊の衝撃で鋭利に形を変えた瓦礫が待っていた。もしここにクロナがいなければ、誰も助からなかっただろう。

瓦礫の上に降り立ち、驚愕の表情を浮かべてフェミルタは辺りを見回した。


「これは、どういう状況なのだ...」


混乱の色を隠さず、しかし冷静に彼女は呟く。自分の近くの欠片が、未だゆっくりとスローモーションで動いている光景。それがあまりにも異様で、現実で起こっているとは、彼女には信じ難かった。


「ふぅ、なんとか間に合ったみたいだな!」


と、安堵の息を吐くウルリ。彼は、傍でぎゅっと目をつぶったままのクロナの背中をぽんぽんと叩いた。


「もう大丈夫だぜ?目を開けても」

「ほ、本当ですか?」


恐る恐る目を開けるクロナ。同時に集中力が途切れ、周りに漂っていた瓦礫の欠片は元の速度を取り戻した。


「み、みなさん無事ですか?」

「見ての通りだ。まさか貴様が高度な技の使い手だとは知らなかった…」

「そ、それはよかったです!...ところで、あなたは誰なのですか?」

「私はフェミルタだ」

「え!?そ、そうなのですか?」

「クロナも気づかなかったみたいだな!」


ウルリはからからと笑い声を上げた。


「さて、魔王も倒したし、これで一件落着だな!あとは帰るだけだ!」

「...とはいえ、どうやって帰ればいいんでしょう?」

「それは、まぁ、アレだ!なるようになれだ」

「えぇ...」


どこまでも楽観的なウルリに、クロナは顔を引き攣らせた。その時である。


「それはこの私が教えよう!」


元気のよい声が瓦礫の山の向こうから発生する。突然響き渡ったその声に、思わず身構える三人。


「だ、誰だ!?」

「私だ!」

「だから誰なんだよ!」

「私は店長だ!」

「て、店長??」


瓦礫を登って姿を現したのは、エプロンを身につけ、チェックのシャツにジーンズというとてもラフな格好をした男だった。


「ちなみに何の店長?」

「三丁目でアンティークショップを営んでいるよ。知らないかね?」

「いや、ぜーんぜん」

「ウルリさん、もしかするとこの人、箱の中に消えたっていう人じゃないですか?」


クロナが耳打ちすると、聞こえていたのか、店長がその通りだと言わんばかりに頷いた。


「三日くらい前、店員くんがうっかり落としたのを拾ったら、こんなところに来てしまっていてね。こう見えて私は無類のゲーム好きで、ずっと魔王を倒すため旅をしていたのさ」

「おっさん、一人で旅してたのか!?敵に襲われなかったのか?」

「もちろん。だが幸い、趣味で嗜んでいた空手が通用したようだ」


そう言って、鋭い正拳突きを披露する店長。確かにその動きは並の使い手ではなさそうだったが、趣味のレベルでもない気がした。


「ところが、肝心の魔王には適わなくて、ここに捕まっていたのさ…」

「城が崩れた時、偶然ボクの力の範囲内にいたから、助かったんですね」


クロナはそう推察した。


「ところで、おっさん。さっき何を教えてくれるって言ったんだ?」

「それはもちろん、我々の世界に戻る方法に決まっているじゃないか」

「ほ、本当に?」


同時に声を上げるウルリとクロナ。店長は爽やかな笑みを浮かべて頷いた。


「実は捕まっていた時、見張りの怪物から盗み聞いたんだ。“魔法の箱を開ければ異世界に飛ぶ”。私は、我々をここへ飛ばした箱と同じものが、ここにあるのだと思う。それを使えば、元の世界に戻ることができるはずだ」

「なるほど!じゃあその箱を探そう!どこにあるんだ?!」

「...たぶん、埋まっているんじゃないですかね」


そう言ってクロナは、辺りを見回す。そこは無数の瓦礫が積み上がった山。手のひらサイズの小さな箱を探すのは、骨が折れそうだった。


「ちょっといいか?」


フェミルタが口を挟む。


「少し待ってくれるのであれば、我ら騎士団と兵士総出で捜索を手伝ってやれるのだが」

「ほ、本当!?助かるよフェミルタ!」

「ならば、すぐ招集しよう。もう既に、魔王の城の崩落に気づいて向かってきているはずだ」


そう言うと、フェミルタは片手を天に向けてかざした。瞬間、手のひらから白い鳥の形をしたエネルギーが放出され、矢の如きスピードで飛び去っていった。

飛び去った方向には、彼女の思った通り、馬を走らせるたくさんの騎士達の姿があった。



日が落ちそうになった頃、瓦礫の中から件の箱が発掘された。

錆びた金具のついた、木製の小さな箱。兵士からそれを受け取ったウルリは、改めて胸を撫で下ろした。


「あ~よかった。これで戻れるよ!ありがとう!」

「礼を言いたいのは我々の方だ。貴様達のお陰で、レビリンダーシュに平和が戻ったのだ。その恩はとても返しきれん」


フェミルタの後ろでは、騎士や兵士達が、わっと声を上げた。誰も彼も歓喜に満ち溢れ、みんな口々に感謝の言葉を述べている。


「...もしまた戻ってくるようなことがあれば、僕らは歓迎するよ」


そう言うのは、フェミルタの左側に立っていたセレンス。彼の陰鬱だった表情は、どこか嬉しそうな様子を含んでいる。


「まさか本当にやり遂げちまうとはな。ただの生意気なガキだと思ってたのによ」


ノグが感嘆の声を上げる。豪胆そうな佇まいだが、それとは裏腹に、目の端から一筋の涙が流れていた。

その横でヘリオールが、ぐすぐすと涙を零しながら言った。


「別れは惜しいが、仕方ない。我々は、君達との出会いは決して忘れないぞ!また共に鍛錬に励む機会を楽しみにしている!」

「ああ!オレ達も忘れないよ!な、クロナ!」

「もちろんです!みなさんが助けてくれたお陰で、ボク達も帰ることができるのですから」


釣られて涙を零すクロナ。たった数時間の出来事にも関わらず、矢継ぎ早に起こった騒動は二人にとって忘れられそうにない大冒険だった。楽しかったことも危険だったことも、過ぎ去ってしまえばすべていい思い出になる。


「だはは!家に帰ったらしっかり休むんだぞ、そしてたらふく飯を食え!」


騎士達と共に駆けつけていたモルデが、ウルリとクロナの背中を叩く。


「おっさん!来てたのか!」

「おうよ。英雄の凱旋は賑やかな方がいいだろう?」

「へへ、そうだな!」


ウルリは満面の笑みで返した。

城のあった場所の中心、瓦礫を動かして平らなスペースが作られているところへ、ウルリとクロナ、店長は集まった。背後からは感謝の言葉の他に、すすり泣くような声も聞こえてくる。


「なんだか、こうされると、余計に寂しくなりますね…」

「いろいろあったもんなぁ」

「出会いと別れは付き物さ。私だって何度か経験してきたが、未だに慣れてない。しかし、私達にも待っている人がいる。戻らなくては、今度はその人に寂しい思いをさせてしまうよ」

「...うん、そうだな」


ウルリは箱を手のひらに乗せ、もう片方の手で蓋を摘んだ。

その時、群衆の中からフェミルタが歩いてきた。


「なんだよ?お前もお別れの挨拶?」

「いいや。貴様に渡しておきたいものがあるだけだ」


そう言ってフェミルタは、銀色に輝くものを二つ手渡した。


「これは?」

「レビリンダーシュ騎士団員に与えられる勲章だ。これからも名誉ある働きを期待している」

「わー、ありがとう!」

「もう一つ、帰ったら箱を開けてみろ。絶対とは言わんが...我々のことを忘れる前に一度だけ開けて欲しいのだ」

「わかった、そうするよ!本当にありがとな、フェミルタ!厳しくて怖かったけど!」


フェミルタは、ふっと笑みを零した。ただの一度も示したことのなかった顔を、最後に見せたのである。

彼女は颯爽と踵を返した。ウルリが手を振って声をかけても、一度も振り返ることなく、騎士達の中に消えていった。


「じゃあ、またな!」


そう言うと、彼は箱を開いた...。



気がつくと、ウルリは見覚えのある天井を見ていた。身体を起こし見回すと、そこは彼がいつも入り浸っている、ディグの自室であった。


「おお、本当に帰ってこれたんだ...」


傍で横たわっていたクロナも、そして店長も目を覚ます。まだ夢見心地なのか、ぼんやりした表情だった。


「なぁ!オレ達ちゃんと帰れたぞ!やったー!」

「ほ、本当に戻れたんですね…!よ、よかったぁ~!」


がっしりと抱き合うウルリとクロナ。その様子を見て、店長が快活な声で笑う。


「いやぁ、本当に良かったよ。私も年甲斐もなくはしゃいでしまった!しかし、余韻に浸っている暇はない...店員くんが心配しているだろうから、これから戻るとするよ」

「そっかぁ、そうだな!また今度、おっさんの店に行くよ!そしたらおっさんが、本当は何者なのか教えてくれ」

「私はアンティークショップを営む敏腕店長さ!それでは諸君、また会おう!」


店長は軽快な足取りで部屋を出て行った。その笑い声は部屋からも離れてなお、微かに聞こえてきた。


「...っていうけど、只者じゃなさそうなんだよなぁ」


ウルリが、唖然とした顔で呟いた。

その数秒後、店長が消えていった方から、誰かが歩いてくる音がした。それは部屋の前に着くなり、驚愕した様子でこちらを見据えてくる。


「...二人共、何をしているんだ」


そう言ったのは、幾つかの機材を抱えたディグであった。彼は部屋の有様を見ておおよそ察しが付いたようで、機材を下ろすと無言でウルリの頭を叩いた。


「いってー!な、何すんだよ!」

「何すんだ、はこっちの台詞だよ。十分も経たないうちに約束破るんだから...」

「じゅ、十分?オレ、十分で帰ってきたのか?」


ウルリは困惑してクロナの方を見る。


「い、いえ、日が暮れるまでずっと向こうにいましたよ?」

「何を言ってるんだ。今はまだ十時だよ。日が暮れるのは八時間後のことだ」

「あ、あれれ?」


クロナも首を傾げ、ウルリと顔を見合わせた。



「...つまり、お前達は異世界に行ってきたって言いたいのか?」


ソファに腰かけ、ディグが言った。彼の前のパイプテーブルには、例の小箱が置かれ、その奥のソファにウルリとクロナが座っている。二人の前には、入れたての紅茶が一つずつ、湯気を揺らしていた。


「店長消失の真相がそれで、依頼人は信じるかな」

「だ、大丈夫じゃないですかね。店長さんも帰ってきましたし...自分で説明しているんじゃないですかね?」

「...もしかして、俺が通路ですれ違ったのは店長だったのか?」

「ボクらも信じ難かったですけど、本人はそう言ってました」

「そうか...」


一瞬のすれ違いであったが、軽やかなステップを踏みながらものすごい勢いで走り去っていったその姿を、ディグは嫌でも覚えていた。


「あの様子じゃあPTSD対策はしなくていいね」

「ボクもそう思います」


クロナもあの快活な声を思い出して、苦笑した。


「あっ。そういえば、まだ箱を開けてなかったな!今開けちゃおうぜ」


ウルリは思い出したように告げ、箱へと手を伸ばす。しかし、それはひょいとディグに奪われた。


「な、なんだよー!返せよ!約束なんだから開けなくちゃ!」

「開けてまた飛ばされたらどうする。どうやら武器の概念があるようだし、安全な場所ではないんだろ」

「魔王を倒したんだから大丈夫だって!」


ウルリはテーブルを乗り越え、ディグの座っているソファに渡った。そこで小箱を巡って小さな戦争が勃発する。しかし、数秒後にはウルリが関節技を決められた状態でホールドされていた。


「いててて!いいじゃんかー!今開けたってー!」

「安全性が確かめられたらな」

「くそー!あ、マジで痛い!痛いやめて!」


暴れると共に、なんとか抜け出そうと思い、ウルリは瞬間的に身体を変化させた。膨張する筋肉にディグの腕は払いのけられ、その拍子に小箱を取り落とした。


「あっ」


かたーん、と床に投げ出される箱。 ころころと転がった後、その蓋がぱかりと開かれて、中身が顕にされた。

しかし、今度は何も起こらない。


「...あ、あれ?」


ソファに伏せていたクロナが、 おずおずと頭を上げる。


「何も、起こらないな」

「ん?あれは...」


開いた箱の中に、何かが入っている。

それは四つ折りにされた羊皮紙のようだった。箱とそれを拾い上げ、ディグが戻ってくる。


「どうやら効力が切れたらしい。この羊皮紙は何か関係があるのか...」

「見せて!」


そう言うと、ウルリはディグから羊皮紙を奪い取った。広げてみると、そこには謎の文字らしきものが羅列していた。縦にしても横にしても、その文字はウルリには読めなかった。


「な、なんだこれ。読めねー」

「何て書いてあるんでしょう?」

「恐らく手紙だと思うよ」

「よ、読めるのか?ディグ」

「うーん」


横から眺め、唸り声を漏らすディグ。あまり自信はないという様子だが。


「同じではないけど、古いケルト系言語に近い。...解読してみるか」

「やった!さすがディグ!」

「その代わり、今度こそ大人しく待っててくれよ」


ディグは奥の本棚から幾つか本を選んで持ってきた。それは分厚い辞書らしいが、表紙からしてもウルリとクロナには読めなかった。

ペンとメモ用紙を準備して、二人分の視線を受けながら、ディグは作業を開始した。



その約一時間後、彼のペンは止まった。


「おっ。終わったか?」


ひょこっとウルリがソファの後ろから出てくる。待つことを早々に我慢できなくなった彼は、部屋の中をずっと歩き回っていた。


「まぁ、大体。文章の繋がりから推測した箇所もあるけど」

「早速読んでみましょう!」


ウルリはディグから紙を受け取るが、彼は見るなり「ごめん、やっぱり読んで」と恥ずかしそうに返した。そこには、ウルリには読めない難しい漢字が含まれていたのである。


「えーと...『黒髪の子供。無鉄砲で奔放で人の話を聞かないところを今すぐ治せ』」

「...本当にそんなことが書いてあんのか?」

「書いてあるから読んだんだけど」


ディグはさらりと言い放った。


「『緑の髪の子供は、大人になるまでに勇気を身につけろ。くれぐれも黒髪の奴のようにはなるな』だって」

「フェミルタさん、ボクらにお手紙を書いてくれてたんですね」


クロナは、感極まって声を震わせる。ディグの横では、ウルリが不貞腐れた顔をしていた。


「もっと書きようがあっただろ!全然嬉しくないよ!」

「まぁ、それだけ迷惑をかけてお世話になったってことなんだろ。これからはそう言われないように弁えることだね」

「納得いかねー!」


ウルリの不服の声が部屋に響き渡る。

それは夢の中のような時間だったが、ウルリとクロナにとっては確かな現実だった。それを今一度証明しようとするように、テーブルの上に置かれた二つの勲章が、ライトに反射してキラリと輝いた。

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