#5 イレギュラーアカウント

その日ディグが部屋に戻ってくると、携帯電話片手にデスクの上にどっかりと座る男の姿があった。驚くほど無作法なその男は、話しかけられるまでしばらくディグの存在に気づいていなかった。


「ちょっと、何してるんですか」

「おぉ、待ってたぜ博士」


画面から視線を外さずそう言った男は、代わりに空いている方の片手をヒラヒラと降った。その姿に、ディグは溜息をつく。この男にそんな態度を取られるのは、過去に一度や二度ではなかったから。


「一体なんの用ですか?永久さん」


言いたいことをぐっと飲み込んで、ディグは男の方に向かった。男はそこで初めて視線を向け、ウエストポーチから一枚のメモ用紙を取り出した。


「なんの用かって、俺が大切な自分の時間を割いてまでこんな所にやってくる理由なんて一つしかないだろう」

「情報…ってことでいいんですよね」

「当然だろう?」


男はにっこりと笑った。目をぎゅっと閉じて作られた笑顔は人懐こいものであったが、ディグにはそれが裏があるように見えて仕方がなかった。


「で、どんな内容なんですか?」

「ちょいまち。幾ら付き合い長いからってタダじゃ教えられんな」

「それくらいもうわかってますよ。買うこと前提で聞いたんですから」

「そう仏頂面するない。いつもみたいにからかっただけじゃないかぁ」


ディグは肩を竦めた。大の大人がごねる姿はちょっとしたデジャブであった。


「それはいいから、さっさと本題を」

「あんた日本人よりせっかちだなぁ。はいはいっと…」


いちいち癪に障る言い方をしつつ、男はメモ用紙を広げた。


「あんた、二重人格って知ってるか?」

「あぁ、何度か出会ったことがあります」

「さっすが博士。実は隣町で面白い事件があってねぇ」


永久という男はにこにこと笑みを湛え、目でメモを読み進める。


「先日からそいつらが大量発生してるんだ。それだけじゃなんの不思議もないが、そいつらは共通して『同じ人格』を持ってるのさ。名乗る名前はバラバラだけどね」

「…同じ人格を持つ、ねぇ」


ディグは顎に手を当てる。


「それは集団心理ってのを超えてる。誰かの別の人格が存在していて、そいつが入り込んだって印象だったよ」

「だった…って、接触したんですか?」

「元ライターだからね。取材を取り付けるのは難しくない」


永久は偉そうに胸を張った。


「だが、同じ相手にもう一度同じ取材はできなかったな。時間が経つと人格って消えるのか?」

「いや…そんなことはないです。ハードディスクみたいに、断片でも残るはず…」


妙だな、とディグは思った。

その違和感は彼に腑に落ちない嫌らしさを生んだ。


(高確率でEBEが関連しているだろうな。でも彼らが、こんな意味の無い事件を起こす意図が見えない…)


レギュラーな事件では、異変の後に大抵被害者が現れている。そして内容によって失踪事件か殺人事件に二分されていく。被害者が発見される前に阻止できるケースもあるが、それは発生の予兆が明確だったものに限られる。

しかし事前情報がほぼなく、既に大規模に発生している人格形成事件など、永久が情報を持ってこなければ、被害者が現れる以外に知り得る手段がないはずだった。


「あぁ、考えてるねぇ博士。犯人の目星はついてるが、素直に喜べないって顔してる」

「喜ばしい事件なんてないですよ…。それより、永久さんは何ともないんですか?」

「何ともって?」

「この事件は感染症のように伝播しています。それも急速に、大規模に…。接触しただけで拡散するかもしれないでしょう」

「いや、その点は大丈夫。接触するだけじゃ問題ない。仮にしてたとしても、それはオリジナルより遥かに劣化してるはずだぜ。コピーのコピーはオリジナル以上の性能なんか出やしない」

「…それもそうですね」


その時、奥の部屋から鉄板の落下する派手な衝突音が二人の会話を突き破った。

一斉にその方向を見ると、自動ドアの向こうから一人の少年が飛び出してきた。


「おーっす!おはよー!部屋にこもるの飽きたから来ちゃった!」


ウルリは明るく弾けるような笑顔を見せた。大声がビリビリと部屋中に反響する。

それに対し、ディグは呆れたように額を抑え、永久は少し驚いたような顔をしていた。


「あれっ。あんた誰だ?」

「お前こそ誰だよ。なんだ今の派手な音は」

「うちの弟がダクトを壊した音です」


ディグはやれやれと嘆息する。


「あんた弟なんていたのか。それにしては似てないなぁ…異母兄弟ってやつ?」

「なんだなんだ、お前は一体誰なんだ!」


ウルリは、近寄ってくる永久に対し警戒心を剥き出した。永久の飄々とした態度に触発されて今にも飛びかかりそうだったので、ディグがその間に割って入る。


「気にするな、ただの情報屋だから」

「そうだぞ。至極健全でリーズナブルな情報屋だ」

「嘘ばっかし…」

「へぇ、情報屋さんかぁ。何を売ってんの?」

「情報を売ってるの。彼は永久逸人、割高で良心的じゃないし平気で嘘をつく、信用ならない人間だよ」

「おい待て、それじゃいいところはひとつもないじゃないか!」

「情報は信頼してますよ」

「なんか…大変だなぁ」


ウルリは愛想笑いを浮かべる。しかしすぐに気持ちを切り替えて、快活な声を永久にかけた。


「ま、いいや。オレはウルリって言うんだ!よろしく!」

「あーこれはどうも。…日系人か?」

「あんたも似たようなものでしょう」

「いやいや、俺は染めてるだけだよ。これカラコンだし…」

「それはさておき、調査の準備を進めないとね。これ以上わけのわからない情報屋に振り回されるわけにはいかないし」


ディグは永久の言い分を無視して、財布から数枚の紙幣を取り出した。永久はそれを受け取ると嬉しそうに言った。


「まいどあり。今後ともよろしくな〜」


途端に、永久の姿は風のように素早く消えていった。その背中を見送りつつ、ディグは再び嘆息した。


「あいつ、何しに来たんだ?」


最後まで状況を把握しきれなかったウルリは首を傾ける。


「またふらっと来るだろうし、その時にでも聞いたらいいよ」

「そっかー。でもなんか面白そうな感じだったし、また会うのが楽しみだな!」

「一癖も二癖もあるけどね」


ディグはそう言って肩を竦めた。



永久が持ってきた情報はあまりにも少なく、未だ育ちたての苗木のようなものだった。それでも現地調査の必要性を感じたディグは外出許可の書類を作成することにしたのだが、そこからが大変だった。


「えぇーっ!なんで!?」


状況を全く鑑みない大声が、オフィス中に広がった。その声を聞いた周囲の職員は、ある者は驚き顔を引き攣らせ、またある者はヒソヒソと話を交わした。


「ちょっと、大声出さない。皆仕事してるんだから」


ディグが強く言い聞かせるが、尚もウルリはごねた。

ELIOの特別職員であるウルリは防衛部門に所属している。そこは主にEBEの戦闘と捕獲を担当し、最も前線に立つ部所であった。それゆえ現地調査が多く外出も頻繁に行っているわけだが、ウルリの場合外に出ることを許されていなかった。それこそ特別職員である所以なのだが、彼は納得していなかった。


「オレも一緒に連れてってよー!邪魔しないからさぁ!」

「そう言われても…お前の外出許可をもらうのは難しいんだよ。手続きが異様にあるし」

「なんでだよ!」

「それは…」


言葉に詰まるディグ。

理由を知らないわけではない。ウルリは過去に何度か傷害事件を起こしており、その防止のためELIOの監視下に置かれているのだ。最下層の特別収容室で隠されるように住まわされているのも、自由に出歩くことを許されていないのも、全てはこういう意図のためだった。野放しにしておく方が危険なのである。

だが、それを話した所でウルリが納得するとは到底思えず、寧ろややこしくなる気がして、ディグは沈黙してしまった。

しかしそれとは裏腹に、ウルリは更に詰め寄ってくる。


「オレ絶対大人しくしてるからさぁ、お願い!オレも外に出てみたいんだよ!」

「それは…簡単じゃないんだよ」

「だからなんで??」

「うーん…なんて説明したらいいかな」

「おや二人とも、なにか揉めているのかな」


ディグが言葉を探していると、二人の間に割って入るように長身の男性が話しかけてきた。二人は一斉に見上げる。

立っていたのは穏やかな笑顔を見せる、赤い髪の男性。仕立ての良さそうなお洒落なスーツを来て、白い革靴を履いている。


「あっ…崇峯所長。こんにちは」


ディグは彼に向き直り頭を下げた。その反応は周囲の職員達も同様で、遠くからはざわつく声もあった。

崇峯はELIOの最高司令官にして所長を務めている。つまり、ここで一番偉い人なのである。

ディグが挨拶をすると、崇峯はころころ笑いながら答えた。


「エレメントリくん、こんにちは。それと、アートゥームくんだったっけ?こんにちは」

「おっす!」

「こら。こんにちは、だろ」

「はは、構わないよ。こういうところが彼らしいし」

「で、お前は誰だ?」

「こらこら…」


ウルリのぞんざいな物言いに慌ててディグが注意する。


「そうだね、彼には面識がなかったよね。はじめましてアートゥームくん。僕の名前は崇峯。よろしくね」

「おー、なんかわからないけどよろしく!」

「やれやれ…」


ぐっと握手を交わす二人の間で、ディグは溜息をついた。


「ところで…所長はどうしてここに?」

「ああ、それはね。アポ無しで侵入している輩がいると聞いて、事情調査をしていたところなんだ」

「しょ、所長自らですか」

「上司たるもの、部下に任せっきりでは見本にもならないからね」


ディグは、崇峯の言う輩が永久を指していると察し、引きつった笑みを浮かべた。


「君達はなにか知らないかな?」

「そ、そうですね…」

「そんなことより!お前偉いやつなんだよな、オレの外出許可ってどうやって出るか教えてくれよ!」


ディグの言葉を遮り、ウルリは声を張り上げた。崇峯は驚いた様子で彼の方を見る。


「外出許可?…あぁ、君のはちょっと手続きが複雑でね、出せないことはないんだけど」

「よーし、それなら出してくれよ!このままじゃ念願の外に出られないんだ!」

「え?いいよ」


思ったよりあっさりと答える崇峯。目を丸くするディグを他所に、彼は懐から印鑑を取り出すと、カウンターの置くから書類を引っ張り出してきた。


「えっとこれでいいかな?外出許可書状…本当は一枚じゃ足りないんだけど、僕の判子があれば十分のはずだよ」

「えー!ほんと?ありがと崇峯っ!」


ウルリは歓喜の声を上げ、崇峯に飛びついた。その光景には周囲の職員も目を丸くした。


「はは、いいよいいよ。君もずっと内側暮らしじゃ退屈だったろう?遊びに行くついでに行ってらっしゃい」

「さっすが偉い人はよくわかってるなぁ!」

「遊びに行くわけじゃないんですけど…」

「さぁ!これでオレも外出許可が出たぞ。これからどこ行くんだ?」

「はぁ…お気楽な人達ばっかし」


崇峯の追求を逃れられたのはよかったが、代わりに厄介な連れができてしまった。予想だにしない展開に、ディグは深く深く息を吐いた。



ELIO日本支部は大都市の中心に立地している。交通機関は充実し、徒歩だけでも様々な施設に辿り着けた。隣町に行くにしても、数々のルートがあった。

ディグは電子地図を開いた。既に日が傾き始めていたため、暗くならないうちに向かいたかった。


「なぁ、それで、何で行くんだ?」


ウルリが腕にしがみつき、ひょいと画面を覗き込む。振り払う時間も惜しかったので、ディグはそのまま会話した。


「ええと…残された時間を考えると歩きは現実的じゃないね。バスか電車か…」

「オレ電車がいいな!切符買ってみたい」

「じゃあそうするか」


意見に流されるまま、二人は近くの駅に向かった。

大都市の駅なので外観はとても大きく、美しかった。だがそれ相応に人通りは多く、うっかりしているとはぐれてしまいそうだった。ディグはしっかりとウルリの腕を掴んで引っ張っていった。


「おいおい、もっとゆっくり歩こうよ。はぐれたりなんかしないからさぁ!」


ウルリが文句を言うが、無視する。

黙々と足早に進むと、前方に巨大な改札口が現れた。隣には同じくらい大きな券売機がある。


「ほら、切符買うのは任せるから。買いたかったんだろ」

「うん!」


先程の不機嫌な顔が嘘のように切り替わり、ウルリは瞳をキラキラさせていた。ディグからお金を受け取ると、徐にICカード挿入口に突っ込んだ。


「ちょっと、そこじゃないだろ。ほら、ここに書いてる」

「ディグは黙ってて!オレに任せてくれるんでしょ?」

「そうは言ったけど…そこに入れたら絶対に買えないぞ」

「え、なんで?お金入れるとこじゃないの?」

「だからそう言ってるじゃないか。ほら、混んできたから俺が買うよ」


結局ウルリからお金を取り返し、ディグは淡々とスイッチを押した。

発券の音が聞こえ、券売機の下から2枚の切符が排出される。ウルリがまたも不機嫌になるかと思ったが、切符が出てきたことに興奮して喜んでいるようだった。


「す、すげぇ!切符が出てきた!」

「駅を出るまでなくさないでね。ほら、改札を通るよ」


切符を通す時でさえ、ウルリは感動していた。わくわくしながら階段を駆け上がり、ホームにて電車が来るのを待つ。使い慣れた人々からすれば何気ないことなのだが、彼にとっては全てが新しかった。


「電車の中では騒がないこと、暴れるのもダメ。他の人に迷惑のかからないようにするんだよ、いいね?」

「そんなのいつもやってるじゃん。大丈夫大丈夫」


今更ながら、崇峯がウルリの外出許可をあっさり出したことを恨めしく思った。ウルリの危険性を知り、同時に理解者でもある数少ない人間ではあるが、それにしては配慮が足りな過ぎる気がした。主にディグへの配慮が。

しかしここまで来たからには後に戻れないことも事実。ディグはなんとか被害を最小限に抑えるべく、ウルリに言い聞かせた。


「外と中とは違うんだよ。お前のことを知らない相手ばかりなんだ。頼むから大人しくしててくれ」

「わ、わかったよぉ。そんな怖い顔しないでくれよ…」


ディグの気迫を感じ取り、ウルリはこくこくと頷いていた。ウルリだって普段から素行が悪いわけではない。あまり常識を知らないからこそ道を踏み外しても気づかないだけなのだ。それを正してやることがディグの本来の仕事の一つでもあった。



電車に揺られること10分ほど。

街の景色は変わり、電車は緑の多い住宅地へと入っていく。少し田舎っぽいが、ベッドタウンといえば聞こえがいいだろう。

先程の言葉が効いたのか、ウルリは予想より大人しかった。時折窓の外に興奮することはあったが、普段より抑え気味だった。

車内アナウンスを聞き、二人は目的地で降車した。隣町の駅は、目の前に小さな、しかし綺麗なロータリーがあった。まだ夕刻前だからか人影は疎らである。


「なぁ、これからどうするんだ?バスも乗るのか?」

「いや、これ以上行く先に検討付けてないから、この辺で聞き込みをしようかと思ってるよ」

「ほー。なんだか探偵みたいだな!」

「言っとくけどお前は単独行動はしないで…」


言いかけた矢先、ウルリの姿は忽然となくなっていた。その直後、明るい声色が遠くから届いてきた。


「なぁ、ちょっと、聞きたいことがあるんだけどー」


そう言ってウルリは、通りすがりのサラリーマンに声をかけていた。サラリーマンは呆気に取られた様子で足を止めている。


「最近ここいらで変な事件が起きてるらしいんだけど、おっさん知ってる?」

「えっ…へ、変な事件?」

「あーあの、突然話しかけたりしてすみません。気にしないでください」


ディグは慌ててそこに介入した。


「こら、単独行動するなって」

「え?目の届く範囲にはいたろ?」

「そういう問題じゃなくて…」

「変な事件、ですか…」


サラリーマンはなにか思い当たる節があるのか、目を泳がせていた。


「そういえば聞いたことがあります。近所でその…豹変したっていう人の話」

「ご存知なんですか?」

「ええ、まぁ…」

「詳しく聞かせていただいてもいいですか?こう見えて一応、俺達はELIOに務めている職員でして」

「あぁ、あの!知ってますよ。よくテレビで見てます!」


ELIOの名称を聞いた途端、サラリーマンは声を上げた。まるで偶然番組の撮影に映りこんだ時のような、やや興奮気味の反応だ。


「こんな事件にも捜査をしているってことはアレですか?これも宇宙人関連ということなんですか?」

「まだそこまで検討は付いていないんですけどね。でも、可能性は高いです」

「そうですかぁ…もしそうだとしたら早く解決してもらいたいですね」

「それじゃあ情報提供をしてもらえますか?」

「はい、もちろん。俺でよければ」


サラリーマンは快く返事をした。一応、ディグはELIOの職員証を提示し、彼に話を頼んだ。


「大体一昨日くらいのことだったですかね。コンビニに行こうと思って家を出たんですよ。そしたら、向かいの方から誰かが揉めてるような声が聞こえたんです。なんとなく聞いたことあるような声だなぁと思って、コンビニもその方向でしたし行ってみたんです。そしたら家の前で怒ってるんですよ、中学生くらいの子に。その人は私の知り合いだったんで、どうしたんですかって聞いてみたんです。するとどうも、中学生の子がその人にひどい悪口を言ったみたいで、カンカンに怒ってたんですよね」

「…それだけ?ただそいつが喧嘩売っただけじゃんか」

「いやそれがね。その人が言うにはその中学生の子って普段とても大人しい子で、優等生タイプっていうんですかね。悪口なんか言わない子なんですよ」

「なるほど。取り憑かれたのはその子か」


ディグが零した言葉に、サラリーマンはぴくりと眉をひそめた。


「これってやはり、宇宙人か何かの仕業なんですか?他人を乗っ取って、地球を支配したりとかするんでしょうか…」

「いや、それはないでしょう。関連性はありますが、数日経って元に戻ったという報告があるので」


そう返すと、サラリーマンはほんの少しだけ不機嫌な顔をした。


「…その程度で考えているのか?組織の人間ってのは」

「他の関連事件と比べれば比較的穏やかなものだと思いますよ。勿論早急な解決を考えていますので、心配しないでください」

「そうですか、ありがとうございます」


サラリーマンはやけに無愛想な態度でお礼の言葉を述べた。ディグはその明らかな変わりようを怪しんだが、呼び止める間もなく男は踵を返し足早に去っていってしまう。


「なんだ?あいつ急に態度が変わったな」


それはウルリも気づいたようだった。ディグは追求しようと駆け出すが、サラリーマンは追ってくることをわかっていたらしく既に全力疾走していた。


「まずいな…ウルリ、行ってくれ」

「お!任せろ!」


言われるなり、ウルリは圧巻のスピードで先に走っていたディグをあっさりと追い越した。そのまま逃げ去るサラリーマンの背中に追いつき、ぐいとシャツを掴んだ。


「うわぁっ!な、何するんですか!?」


仰向けに引き倒されたサラリーマンは、ひどく狼狽した様子で叫んだ。


「怪しいから捕まえたまでだ!」

「な、何言ってるんですか!私が何をしたっていうんですか?!」

「とぼけるなよ!ネタはもう上がっているのだ!」


ウルリは目を輝かせながら振り返った。


「ディグ!捕まえたぞ!どうする?」


まるで命令通り獲物を捕まえてきた犬のように、ウルリは褒めてくれオーラを出しながら叫んだ。

しかしディグは、サラリーマンの様子を見るなり静かに首を振った。


「いや…その人はもう無関係だ。離してあげてくれ」

「え?ど、どういうこと?」


考えの追いつかないウルリは頭の中いっぱいに疑問符を浮かべた。それをよそに、ディグはサラリーマンに詫びを入れながら手を差し伸べる。


「すみません、うちの弟が。どうやら背中に蝉が付いていたみたいで」

「あ…そ、そうなんですか。あんまりな力で引っ張られたものですから驚きましたよ」


サラリーマンも困惑した様子で返した。転倒させられたにも関わらず怒った様子がなく、どうやら彼は広い心の持ち主のようである。ディグはすかさず、サラリーマンに声をかけた。


「お詫びのついでで申し訳ないんですが、一つ聞いてもいいですか?」

「は、はい」

「あなた、先程全力疾走してましたが、どうかしたんですか?」

「いえ、あの……私、走ってましたか?」

「や、気のせいならいいんです。わざわざ答えてくださってありがとうございます」


ディグは丁寧に頭を下げ、道を譲った。サラリーマンはまだ理解し難いようで、おずおずと二人の元から離れていく。


「なになに、どうしたんだよ?何が起こったんだ?」


ウルリはディグの肩を叩く。


「さっき捕まえろって言ったのに、なんですぐ逃がしたんだ?」

「厳密には捕まえろとは言っていないけど。明らかに様子がおかしかっただろ」

「だから捕まえたんだろ?」

「逃げ出された時はね。でもお前が捕まえた時にはもう、あの人は元の人格に戻っていたんだよ」

「んん?つまりそれって、あいつ話の途中から別人格になってて、捕まった時はそうじゃなくなってたってこと?」


ウルリがなんとか情報を整理すると、その通りだと言わんばかりにディグは頷いた。


「もしくは最初から別人格だったかもしれないけどね」

「なんか…厄介そうだなぁ。捕まえても逃げられるんだろ?どうするのさ」

「相手がEBEなら、見つけることはそう難しくないと思う」

「え?なんでだ?」

「お前、自分の特技くらい覚えときなよ」


目をぱちくりさせるウルリに対して、ディグは苦笑いをこぼした。


「お前の力で見つけ出すんだよ。そうすれば闇雲に聞き込みするより遥かに効率がいいからね」

「あー、なるほどな!言われてみればそうだ!」

「もう、しっかりしてくれよ」

「わはは、もう大丈夫!任せとけ!」


そう言った途端、ウルリはキョロキョロと周囲を見渡し始めた。彼のEBE探知能力は距離が限られているが、かなり広範囲にアンテナを張ることができた。

しばらく辺りを見回した後、ウルリはわたわたと慌て出した。


「どうした?ウルリ」

「た、大変だぞディグっ!あっちもこっちからも気配がするんだ!」

「落ち着いて。一際強い気配を見つけるんだ」

「えーと、えーと……あっ。なんかこっちの方のが強そうだ!こっち行くぞー!」


なんとか方向を決め、二人は調査を再開する。



ウルリの道案内で辿り着いたのは市街地だった。決して大きくはないが、それなりに賑わい、人が行き交っている。ウルリはずっと全方向から気配を感じていた。事件と無関係のEBEに反応している可能性もあるが、これだけ密集しているのは明らかに異常だった。


「うう……次はどっちだろ……むむむ」

「大丈夫か?しんどいなら休んでいいよ」

「いや!オレは休まないぞ!活躍して、もっと外に出してもらえるようになるんだ!」


そう息巻くウルリ。目的にずれが生じていたが、ディグは敢えて何も言わなかった。


「でもさー、なんかおかしいんだよ」

「どうおかしいんだ?」

「一番強い気配を追ってるんだけど、どうも地面にいない気がするんだ。なんかこう、斜め?の方から気配がするんだよ」

「斜め……?」


ウルリは指をさした。それは斜めと言うより、明らかに空を指していた。


「ってことは、犯人は空にいるってことか」

「え!?な、なんでわかるんだよ!?」

「お前、自分がどこを指さしてるのかわかってる?」

「あっ。ほんとだ」


照れ隠しにウルリは頭をかいた。その時、ディグは上空に黒い影を見た。それは一瞬だったが、明らかに生物の様相をした何かだった。


「ウルリ、あのビルに行こう」

「えっ?もしかして見つけたの!?」

「逃げられる前に急ごう」

「う、うん!」


二人は駆け足になり、眼前の高層ビルに向かった。誰でも立ち入り可能な、言うなればショッピングモールのような場所だった。エレベーターのボタンを叩き、最上階を目指す。幸い頂上への直通運転があり、ドアの開閉時間にやきもきすることはなかった。

最上階は展望台で、町を360°見渡せる作りになっていた。


「ウルリ、気配はある?」

「おう!この上だ!今日一番強く感じるぞ!」


ウルリは関係者以外立ち入り禁止のドアを蹴り上け、真っ直ぐに気配の方向へ駆けた。ディグもなるべく人目を気にしながら、それに続く。もうひとつ扉を開けると、酷く平坦で金網が貼られた無機質な広場に出た。換気扇やら謎のパイプ、タンクなどが乱立している。ウルリはビシッと人差し指を向けて叫んだ。


「見つけたぞ!そこにいる!」


その言葉に応じて、ディグは拳銃を構えた。だが、彼の指示を聞く前にウルリは走り出していた。止めるまもなく彼は物陰に突っ込み、ガタガタと激しい物音を立てた。


「ウルリ!勝手に行動するなよ!」


ディグが慌てつつも慎重に後を追う。

しかし、銃口を向けた物陰の先にはウルリしかいなかった。


「これは……まさか逃げられた?」

「うう、やっと捕まえたと思ったのに!」


ウルリが悔しそうな声を上げる。


「くっそー!次は捕まえてやる!」

「待ってよウルリ。お前、そいつを見たか?」

「ああ!なんかすげーヤバそうなやつだったぞ!早く捕まえないとやばい気がする!」

「そうか……次はどっちかわかる?」

「どっち?あ、えっと……こっちだ」


問いかけられ、少し悩んだ素振りを見せたウルリはパッと指を向けた。ディグはウルリに示される方を見た。

その瞬間、ウルリは目の色を変え、彼の背中に向かって右の拳を振りかぶった。だが、それを察知したディグは素早くウルリの顎下に銃口を向け、彼の行動を抑止する。


「っ……!な、なんの冗談だよ?」

「それはこっちの台詞。お前ウルリじゃないな」

「お、お前こそ、変な冗談はやめろよ!オレにそんなもの向けるなんてひどいぞ!」

「だったら今しがた自分がやった行動の意味を説明してくれるか?」

「……ふん、こんなもので俺を止めたつもりか?あんた、何も分かってないな」


突然、ウルリの口調が変わった。それはデジャブを感じさせる、聞き覚えのある調子。先程出会ったサラリーマンと同じ態度だと、ディグは直感した。


「まさか、ウルリを人質にしたと思っているのか?」

「察しがいいじゃねーか。そうさ、大事な弟をあんたは撃てるか?無理に決まってる。言っとくが俺を撃てば、こいつは死ぬぜ」


ディグは銃口を下げた。それを見て、ウルリはにやりと笑う。


「そうそう、素直でよろしい。あんたがもっと素直にするなら、こいつを無傷で解放してやってもいいぜ」

「どんな要求だ?」

「そうさなぁ。まずは武器を捨てな」


指示に従い、ディグは拳銃を置く。隠していた近距離戦用のナイフも外し、丸腰の状態となる。


「よし。それじゃ、その拳銃をこっちに寄越せ」


ディグは足で拳銃を蹴飛ばし、ウルリの足元にやる。彼がそれを拾おうと屈んだ瞬間、ディグは走った。ウルリが驚きに身を強ばらせた隙をついて、その鳩尾に一発入れ、そのまま服を掴んで勢いよく前方に引き倒した。痛みに顔をしかめるウルリ。だがディグは容赦せず、彼の腕をホールドして動けなくしてしまった。


「ち、ちくしょう!俺はお前の弟だぞ!」

「悪いけど、これは訓練でよくやってることなんだよ。ウルリを倒せたのはこれが初めてだけど」

「ぐっ……」

「さぁ、いろいろと話を聞かせてもらうよ。言っとくけど、事件が解決するまでは逃げてもどこまでも追いかけるからね」


ディグは珍しく凄みのある目をしていた。ウルリに手を出された怒りが少なからず現れていたのだ。それに気圧されたのか、ウルリに取り憑く何かは唾を飲み込んだ。


「喋らないのなら喋らせるよ」

「は?どうやって。武器の脅しは効かねーぞ」

「やりようはいくらでもある」

「っ!?」


ディグはホールドした腕の関節を可動範囲外へと動かし始めた。すると関節は悲鳴を上げ、強い激痛にてSOSを発した。


「ぎゃぁぁああ!!やめっ…やめろ!いだっ……だだだだだ!!」

「話すと約束しない限りはやめないからね」

「お、鬼か……ぐあぁっ!!」

「あれ、ウルリならこれくらい平気なはずなんだけどな。もしかして身体が固いの?」

「そ、そんなんどうでもい…いでででで!!」


ウルリは痛みで激しくのたうち回った。これだけの暴れようなら、いつものウルリなら床にヒビのひとつやふたつ入れていたことだろう。だが、今ウルリの中にいる存在にはそれすらできないようだった。


「く、くそっ……こうなったら」


ウルリはボソリと呟く。直後、背後で物音が立つ。それは常人なら気づけないほど小さな物音だったが、ディグにはしっかり聞こえていた。彼は反射的に拳銃を拾い上げ、音のした方へ銃口を向けた。だが勢い余って一発撃ってしまう。


「うわっ!」


それに驚く声があった。ディグのものでも、ウルリのものでもない。明らかに第三者が漏らしたものだ。

よく見ると、物陰にいたのは自分と同年代くらいの少年だった。黒い髪に緑色の目をして、白い服を着ている。特に人目を引くのはその浅黒い肌で、少なくとも日本人ではないことが推察された。


「お前が本体だな」


ディグは全てを察して、改めて少年に向かって銃口を突きつけた。


「ま、待て待て。あんた仮に人の形をしたもんを撃つ気か?正気じゃないぞ」

「最初から撃つ気はない。行動次第では撃つけど」

「へぇ……それじゃ、何したら撃ってくるんだい」

「変な動きをみせたら」

「わかったわかった。もう何もしないよ」


少年は両手を上げ、やれやれと言わんばかりに大きな溜め息を吐いた。聞く人が聞けば腹が立つほど露骨な溜息だったが、ディグは毅然としたまま少年を睨みつけた。


「あ、あれっ?オレ、どーなってんだ?」


足元から聞こえたその声は、怪訝な顔をするウルリのものだった。オッドアイをぱちくりさせ、自分の上にいるディグと目の前の少年とを見比べている。


「ん!?誰だお前は!」

「今回の事件の犯人。油断するなよ、あいつは人間を操れるEBEらしい」

「な、なんだってー!?」


ディグから解放されたウルリは、勢いよく少年に掴みかかっていった。


「よーし!今度こそ捕まえたぞ、観念しろ!」

「おい、耳元ででかい声を出すなよ。ちゃんと聞こえてるからさ」

「大きい声出してるわけじゃないぞ!オレはいつもこんなんだから!」


ウルリは得意げに鼻を鳴らした。


「それじゃ、いろいろ聞かせてもらおーか。ちなみにお前には黙秘権があるぞ!」

「事情聴取で黙秘権があるのか。それ何かと混ざってないか?」

「ウルリ、あとは俺がやるよ。そいつから離れて」

「なんだい。人間のくせに、俺に適うと思ってんのか?」

「さっきめちゃくちゃ負けてたよね」

「お、俺が苦手なのは戦闘だけだ!言っとくが、本気を出せばあんたら二人まとめてここから突き落とすことだって簡単なんだぞ」

「それじゃあ、なんでやらないんだ?」


そうディグが言うと、痛いところを突かれたのか少年は苦い顔をした。


「……推察するに、操るには条件があるんだね」

「くっそ、このインテリ人間め……」

「ふふん、弱点があるのならお前なんかもう怖くないからな!」

「言うねバカ人間。確かに概ねこいつの言う通りだが、あんただけならいつでも操れるからな。せいぜい寝首掻かれねーように警戒してろ」

「ええ?なんで急に強気なんだ?」

「そんなことより、さっさと解放してくれよ。俺だって最初からこんなことするつもりなんてなかったんだからさぁ」


少年はふてぶてしい態度を取った。渦中の主要人物であるにも関わらず、めんどくさいから早くしてくれと言う始末。彼のいまいち読めない行動にディグは眉をひそめた。


「個人的に聞きたいんだけど、どうしてこの事件を起こしたんだ?」

「だから事件なんか起こすつもりなんてなかったんだよ。偶今回あんたらが騒ぎ出しただけで、こういうことは普段からやってんだ。調べてわかってんだろ?別に傷害を犯したわけじゃないし、罪に問われる筋合いないっての」


少年の言うことは一理あった。ディグは再び、永久との会話で感じた違和感を思い出していた。


「本当に偶なのか……?」

「どうした?ディグ」

「いや、すごく引っかかるんだよ。普段からやってると言ったけど、どのくらい続けてるんだ?」

「あんたらが生まれる前からずっとさ」

「だったら、どうして今それが発覚したのかな。こんな大規模な人格形成事件、気づかない方がおかしいよ」

「あー、勘違いをしているな。確かに俺は昔からやってると言ったが、こんなに大量の人間に取り憑いたのは今回が初めてだ」

「……なるほど、合点がいったよ」


ディグは頭の中に集まった情報を整理し、少年に向き直った。


「お前、嘘をついているね」

「は?なんだよ。いつついたって言うんだ」

「本当は何か目的があるんだろう?素直なふりをして、大事なことを隠してる。そんな感じがするんだ」

「あー?大して付き合いも長くねーあんたになんでそんなこと言われなきゃいけないんだよ」

「ちゃんと話してくれない?邪な考えじゃないって証明してくれたら、次からこういうことが起きても君を追わなくて済むんだ」

「……」


ディグの言葉に、少年はしばらく黙り込む。やがて肩を竦め、観念したように口を開いた。


「実は友人を探してんだよ」

「友人?」

「あぁ、厄介でめんどくさい奴だがな。ある日突然、出かけたっきり帰って来ない。別に心配なわけじゃないんだが」

「なんだよ、人探しかぁ。でも、それでなんで人間を操ってたんだ?話聞いて回るだけでもいいんじゃないか?」

「俺はただ人間を操ってるわけじゃない。中に入ることで、そいつが持ってる記憶の情報が全部わかるのさ。人間と話すよりその方が都合がいいんだよ」

「へぇー!お前、すごいんだなぁ!」

「そ、そうか?」


ウルリが目を輝かせて言うと、少年は心做しかちょっと嬉しそうな顔をした。


「それならさぁ、俺もその人探し手伝ってやるよ!そしたらもっと効率がいいんじゃないかな!」

「足でまといが増えるの間違いだろ。余計なことすんな」

「オレはウルリ!こっちはディグ!お前はなんて言うんだ?」

「なんだこいつ。聞いちゃいねーな」

「ウルリはこういう奴だから」


ディグは少年の言葉に強く共感した。


「俺はまぁ、適当にダリアでいいよ。できれば早めに忘れてくれ」

「おう!わかった!じゃ、まずはどっから探す?」

「あんたらとは探さないよ」

「ええ!?そ、そんな言い方ないだろっ!せっかく協力してやるって言ってるのに!」

「人間の力なんか要らない。それに、あいつは……いや、なんでもない。それより、早く解放してくれないか?急いでんだよ」

「……うん、大体事情はわかった。被害者が出ない限りは、君のことは黙認しておくよ」

「あぁ、そいつは助かる。あんたは物分りがいいな」


ディグがダリアから離れると、彼はふわりと宙に舞い上がった。


「もう二度と会わないことを願ってる。じゃあな」


そう言って、ダリアは飛び去っていった。

ウルリはビルの端まで駆け、その姿を見送った。


「うわーっ!あいつ空も飛べるんだ!すごいなーっ」

「あんなEBEもいるんだね。興味深いな……」


ディグはしみじみ独りごちた。

普段化け物じみたEBEばかりを相手にしてきただけに、人間型の、それも会話が成立するようなEBEに出会ったのは新鮮だった。そもそも、このようなEBEに出会えること自体が稀なのだ。

基本、EBE達は知性があるほど危険とされている。しかし、あの少年のEBEは噂に聞くほど危うい感じはしなかった。


「ウルリ、そろそろ帰ろうか」

「え?事件は?どうなったんだ?」

「もう解決したよ。これ以上何か起こることはないと思う」

「ええ!?じゃ、オレの外出もこれでおしまいってこと?もっと色んなとこ行きたかったなぁ〜!」


ウルリは口を尖らせたが、ディグに引きずられて渋々帰還した。



一方その頃。隣町の中心部にある大きな駅に、垢抜けた少女が降り立った。

カジュアルなお出かけスタイルに身を包んだファムである。ディグとウルリが外出したと聞いて、自分も買い物に出かけようと思い立ったのだ。この町に来るのは全くの初めてだったが、携帯電話に備わった最新のナビゲーションのおかげで、ここまでは迷うことなく辿り着くことが出来た。

中心部はよく発展していて、大型のショッピングモールや娯楽施設、高層ビルが幾つも並んでいる。ディグとウルリが登ったビルも近くにあるのだが、ファムがそれに気付くことは無かった。


「ええと、こっちでいいのかしら。せっかくだからお兄ちゃん達にもお土産を買ってあげたいのよね」


彼女が求めているのは、この国でしか売られていない限定スイーツだ。画面に映し出されるのは見るからに甘そうな、可愛らしい見た目のケーキ各種。巷では非常に有名で人気らしく、検索するとSNS映えする写真が幾つもヒットした。


「それにしても、すごい場所ねぇ……実家とは大違いだわ。うちの近所には山と森しか無かったものね」


ファムはリュックを背負い直し、軽快な足取りで道を進んだ。浮き上がる気持ちが自然と足元に出ているのだ。


「ねぇねぇ、君。ちょっといい?」


信号が変わるのを待っていると、不意に声をかけられた。振り向くと、数人の高校生か大学生くらいのグループが彼女の傍に寄ってきた。


「なんですか?」

「君、可愛いね〜。外国の人?あ、ジャパニーズ、オーケー?」

「別に、通じてますけど」


ファムは素っ気なく答える。それは所謂ナンパというやつだった。気がつくと既に彼らに囲まれていて、彼女が移動しようとすると手を掴んで引き止めてきた。


「ちょっと、離してよ!」

「今暇でしょ?俺達と遊ばない?」

「いやよ!暇じゃないもの」

「そう言わずにさぁ」


手を振りほどこうとするが、男達は離してくれなかった。何を言い返しても大丈夫、怖くないからと言うだけで、聞く耳も持ってくれない。

ファムは助けを求めて声を上げようとしたが、その前に新しい声が割り込んできた。


「やめてやれよ、そういうの」


ぶっきらぼうな口調で仲裁してきたのは、長身痩躯の少年。光の無い緑色の目をした、浅黒い肌の人物だった。


「なんだお前。この子の知り合い?」

「えー、こんな陰キャが知り合いなわけないだろ。絶対ないわ」

「それで気が済むんなら幾らでも言っとけ。その代わり、さっさと家に帰って課題でもしてろ」

「あ?んだよ、てめぇ。気取ってんのか」


グループの一人が、少年の襟首を掴む。ファムは息を飲んだ。だが、少年は顔色ひとつ変えないまま、じっと男の方を見ている。


「殴るなら早くしろ。それとも意気地がないか?人間を殴るのは心地のいいものじゃないぞ」

「ケイ、やめとけ!」


男が右手に拳を作ったところで、仲間の一人が声を上げた。彼は一瞬我に返った様な顔をした。直後、目の色が変わり、少年を拘束していた手をぱっと離すと、まるで機械のように踵を返して行った。


「……ケイ?」

「行くぞ。なんか相手にすんのがめんどくさくなってきた」


男はどうやらリーダー格だったらしく、彼が引くと周囲の仲間達も立ち去った。ファムは瞬きつつ、その姿を唖然としながら見送った。


「な、なんだったのよ……?」

「どうやら気が変わったらしい。良かったじゃねーかよ」

「まぁ、面倒に巻き込まれなかったのは良かったけど。って、あなた誰よ?」

「ただの通りすがり」


神経を逆なでするかのような、上から目線の態度で少年は答えた。おおらかな方の気性ではないファムはこれに一瞬苛立ちを感じたが、それでも彼が助けてくれたことは変わりようのない事実。一呼吸置いて、彼に向き直る。


「そ、そうなのね〜。まぁ、とりあえずはありがと。ここは初めて来るから、助かったわ」


そう言って、ファムは砕けた調子で笑顔を浮かべた。すると少年は一瞬だけ驚いた表情をした。だがすぐに元の渋い顔に戻り、ふいと視線を外してしまう。


「なによ?」

「別に。それより、急いでるんだろ。さっさといけば?」

「急いではいないわよ」

「暇じゃないって言ったくせに」

「あれは言葉のあやで言ったの。それより、あなたは今暇なの?」

「俺?なんでそんなこと聞くんだよ」

「助けてもらったから、お返しができたらなって。忙しいかしら」


ファムは少年の顔を覗き込んだ。彼は手で顔を隠し、ますますそっぽを向いてしまう。ファムが辛抱強く待っていると、最終的に小さく、一度だけ頷いた。



紆余曲折あってファムは当初の目的であるカフェに到着した。幸運なことに、少年はこの辺りのことに詳しかった。道に迷いかけたところ、目的地に着けたのは彼のおかげによるところが大きかった。


「また助けられちゃうとは思わなかったわ。本当にありがとねー」

「あんた、実は方向音痴なんじゃないの?なんで地図があって道がわからないんだよ……」

「だってここ、建物が多すぎるんだもの。目印が多すぎるの!地元じゃ太陽の位置で方向を見てたからさぁ」

「どこの国の人だよ」

「それはさておき、ほらっ!好きなの選んでよ。お礼にご馳走するから!」


ファムはテーブルの上のメニューを広げた。そこには色鮮やかで可愛らしい、様々なスイーツの写真が所狭しと並んでいた。それを目の当たりにした彼女は綺麗な宝石を見つけたように目を輝かせ、頬を緩めた。


「きゃ〜!かわいー!美味しそう!えええ、どれにしよっかな〜迷う〜!」

「おい、まさか全部頼むとか言い出さねぇだろうな」

「そんなこと言わないわ。食べきれないってわかってて、なんで頼むのよ?」

「それを聞いて安心した」


少年は腕を組んで、椅子にもたれかかった。


「あ、あたし時間かかるから先に選んでね」

「あんたがそれを独占してるんだろ」

「そういえばそうね。はいっ、どうぞ」

「なんでまだ持ってんだよ。全部渡せよ」

「こうしたら二人で見られるでしょ?」

「ふたっ……いるか?その効率」

「効率とかじゃなくて、あたしも見たいからこうしてるのよ」


ファムは断固としてメニューの片方を手放さない。少年は困惑した様子で額に手を当てたが、やがて渋々反対側の方を持った。


「んー、どれにしようかな。やっぱり限定のこれかなぁ〜」

「俺はあんたと同じのでいいよ」

「あら、そう?それじゃ……すいませーん」


ファムはメニューを指さしながら店員に注文する。念願のスイーツとのドリンクセットを二つずつ選んで、満足そうに身体を揺らした。


「うーん、楽しみね〜。今日頑張って来たかいがあったわ」

「呑気なもんだねぇ。それで幸せになれるのが羨ましいぜ」


少年は水を飲む。喉が渇いているのか、彼の方のコップは水の減りが早かった。ふと、ファムは思い出したように言う。


「ねぇ、あなた名前はなんていうの?」


その言葉を聞いて、少年の水を飲む動きが止まる。


「あたしはファムっていうの」

「……自己紹介しろってか?」

「だってその方が話しやすいじゃない」

「今後二度と会わないかもしれないのに、教える意味があるか?」

「自己紹介するために、次会うか会わないかって考える方が無駄だと思うわよ」


少年は目を丸くした。ファムの言葉に思うところがあったのか、口元に手を当てて考える仕草をする。やがて小さく「確かに」と呟いて、彼は顔を上げた。


「俺はダリア。言っとくが本名じゃないぞ」

「何よそれ。まぁ、深くは聞かないでおくわ」


ファムはくすくす笑った。少年は見た目のインパクトが強いが、話してみると意外となんでもないように感じた。終始こちらに高圧的な態度を取っているのも、ただのブラフなのかもしれない。


「ダリアさんはどこの国から来たの?見るからにここの人じゃないわよねー」

「どこだと思う?」

「もう、あたしが聞いてるのよ。ちゃんと答えてよ」

「さぁなぁ。住み始めて随分立つから、元々どこから来たかなんて忘れたよ」

「絶対嘘ね。生まれた場所を忘れるなんて有り得ないわ」

「長いこと生きてると、不要なことはどんどん忘れていくもんなのさ」

「何それ。あたしとそんなに変わらない歳でしょ」

「いやいや、あんたよりずっと歳上だよ。これは嘘じゃない」


ダリアは少しだけ表情を弛め、含みのある笑みを零した。それが意味する所をファムは理解できず、何かが燻るような感覚が残った。しかし二人の前に注文した料理が運ばれてきた瞬間、そんなことはどうでも良くなってしまった。


「お待たせしました。選べる特製スイーツとドリンクのセットです」


テーブルの上に並べられたそれは、ふわふわの生クリームをふんだんに使い、色鮮やかなフルーツとチョコレートソースでデコレーションされた三段重ねのパンケーキ。出来立ててまだ温かいのか、傍のバニラアイスクリームが緩やかに蕩けている。


「ううーっ!来たきた!すっごく美味しそう〜!」

「うわ……思ったよりでかいな」

「早く食べましょ!アイスが溶けちゃうわ!」


ファムは早速フォークを手に取り、スイーツを堪能する。口に入れると、ほとんど咀嚼の必要がなく溶けていくような食感だった。強い甘みのクリームとフルーツの酸味が絶妙で、ファムはいくらでも食べられる気がした。


「うーん、美味しいー!ほら、あなたも食べてみてよ。すごく美味しいわよ!」

「あー、うん。食ってるよ。美味いと思う」


ダリアは愛想笑いを浮かべて言った。


「美味しいって感じるのは幸せなことよね。そう思わない?」

「なんだそりゃ。宗教かよ」

「違うわよ、感覚の問題」

「余計訳が分からない」

「要するにフィーリングよ!幸せって思ったら幸せなのよ!」

「それ、一歩間違えたら悪徳宗教と変わらない発想だぞ」

「ふーん。なるほど、ダリアさんは頭が固いからそういう考え方しかできないのね」

「そういうあんたは、浅はか過ぎるからそんな考えができるんだ」

「なんですって?」


ムッと、ファムが額にしわをよせる。ダリアは嘲笑して、フォークを回した。


「俺に言わせりゃ、幸せなんて受け手の妄想に過ぎない。要はタチの悪い思い込みだ。独りよがりだ。それをあんたら人間は他人に押し付けている。よく考えない奴ほどそうするのさ」


彼はフォークをパンケーキに突き刺した。貫通した切っ先が、皿に到達する音が立つ。

それは不信と懐疑に塗れた言葉だった。聞き手を突き放し、一方的な価値観で弁ずられた自論である。優しく言ってもきつい冗談だ。

相手次第では口論も起こりかねない極めて感情的な台詞だったが、ファムは不機嫌になるどころか頭に疑問符を浮かべていた。


「はぁ?何を言ってるのよ。意味がわからないわ」

「なっ!?」

「そんな難しいことを考えるより、美味しいものを食べる方がよっぽどいいと思うわ」


ダリアの話を一蹴し、パンケーキを食べ続けるファム。彼は渾身の思考をあっさり流された衝撃のあまり、しばらく言葉を失っていた。が、すぐに我に返り、ファムを睨みつけた。


「あのなぁ、人が重要な話をしてんだからもうちょっと考えろよ」

「いやよ。だってその話、あなたの中で既に完結してるんだもん。そこにあたしが何か言ったって意味ないでしょ」

「うーん……まぁ、そうかも……」


ファムに諭され、押し黙るダリア。


「さぁ、もうこの話はおしまい。早く食べましょ?」

「……うん」


その後、料理を平らげるまで二人の間にろくな会話はなかった。しばし流れる沈黙の間。それを息苦しく感じたのは、意外にもダリアの方だった。彼は様子を伺うように時折ファムを見る。しかし、彼女が顔をあげると、さっとそっぽを向いた。


「……なに?」

「なんでもない」

「そう」


それが沈黙の間に交わされた唯一の会話である。

やがて食器が綺麗になり、食事を終えたファムは満面の笑みで手を合わせた。


「ふう、ご馳走様!思ったより美味しかったわね!」

「そうだな」

「ここまで付き合ってくれてありがとね。あたし、そろそろ帰ろうと思うわ」

「おう、気をつけて帰れよ」


ダリアの態度は先程よりしおらしくなっていた。その様子の変化にファムも気づいてはいたが、深く気に止めることはなかった。

お土産を忘れずに買い、店を出る。外は既に日が落ちかけ、オレンジ色の斜陽が町を染めていた。


「あー、もうこんな時間。ふふっ、楽しい時って時間を忘れるのよね」

「た、楽しかったのか?俺といて」

「楽しかったわよ?もう少し意味のわかる話をしてくれたら、もっと良かったけどね」

「……気をつけとく」


ファムはダリアと別れ、歩道を進む。さすがに帰りはわかると、胸を張って。彼はその背中に惜しむような視線を向けていたが、やがて表情が強ばり大きく口を開けて叫んだ。


それはあまりにも突然のことで、誰もが予想していなかった。ビルの合間から巨体を揺らして現れた化け物の存在に、全ての生き物は身を凍らせた。

複数の触手を持つ、爛れた赤黒い皮膚をした、おぞましい化け物。それは人々の正気度を失わせる十分な威光を放っていた。触手の一つが厄災のように降りかかると、建物は容易く崩れ落ちた。

飛び交う瓦礫と悲鳴。町の中心部は、一気に地獄と化した。

ファムの立っている場所にも、いくつものガラスの破片が飛び散ってくる。咄嗟に躍り出たダリアは、彼女を引っ張り化け物がいる方向と逆方向へ連れ出した。


「大丈夫か!?」

「う、うん、なんとか……!あ、あれはなんなの……!?」

「知らねぇよ!とにかく逃げるぞ!」

「わ、わかったわ」


二人は阿鼻叫喚の歩道を駆け抜ける。辺りは瓦礫と煙に包まれ、不快な鉄の臭いがじわじわと漂ってくる。ファムは胸のむかつく臭いに咳き込んだ。


「ど、どこに行ったらいいの?」

「なるべく距離を取れる方だ。気づかれてなきゃ振り切れるが……」


その時、目の前に壊れた車が落ちてきた。ファムが悲鳴を上げる。その口を、慌ててダリアが塞いだ。


「な、何っ……!」

「静かにしろ」


そういう彼の声は震えていた。その理由を、同じ前方を見たファムは思い知る。

すぐ近くを悠然と通り過ぎる化け物の姿。山のように大きく蠢く肉の塊は、叫びたくなるような腐臭を吐き出して進んでいた。

幸い、化け物はこちらに気づいていないようだった。赤黒いどろどろした体液を噴き出しながら、明後日の方向へずるずる這っている。このまま何もしなければ、やり過ごすことができたかもしれない。

しかし、非情にもその希望は失われる。すぐ近くで転がっていた車が爆発音を発したのだ。それに驚いたファムが、思わず声を出してしまった。

化け物は動きをとめた。


「走れ!」

「きゃ!」


ダリアはファムを引っ張り、道を駆け上がった。振り返らずとも、化け物がゆっくりとこちらを捕捉するのが感覚で分かった。

刹那、背後で生じた激しい地鳴りが二人を吹き飛ばす。そこには巨大な赤黒い触手がめり込んでいた。

化け物は見た目より素早い動きで、滑るように追いかけてきていた。


「くそっ…!ファムは……!?」


舞い上がる砂埃に視界を奪われてしまう。空からは再び、大木のような触手が振り下ろされようとしていた。ダリアは横へ飛び、それを回避する。またもめり込んだ風圧で身体が吹き飛ばされる。近くのショーケースに突っ込み、盛大にガラスを散らす。


「ぐっ……うう」


人間なら立ち上がれないような大怪我を負いながらも、ダリアは動いていた。全身に鋭利なガラスが突き刺さり、所々肉芽抉れ、肌から赤黒い液体がこぼれ落ちているにも関わらず、である。満身創痍を引きずって、連れの姿を必死に探す。

ファムは、そう遠くない場所に倒れていた。大きな怪我はしていないようだが、恐怖心ですっかり硬直していた。そこへ無慈悲な攻撃が、今まさに行われようとしていたところだった。

ダリアは咄嗟に飛び出し、ファムを突き飛ばす。直後に巨大な腕が舞い降り、彼の身体をその下敷きにした。


「ダリアさん!!」


それはきっと目を覆いたくなるような惨状。しかしそれ以上にその身を案じ、ファムは駆け寄っていた。ダリアの半身は確実に潰されている状態だった。触手が退けば、粉々になった身体が確認できるだろう。血とも泥ともつかない不思議な、しかし気味の悪い臭いがしている。


「うそ……嘘でしょ」


ファムはその場に崩れ落ちた。今の状況も忘れて、彼に縋り付く。すると、ダリアの口から黒い液体と咳が吐き出された。驚くことに、彼はまだ生きていた。肉から骨が突き出し、内臓の殆どを潰されているにも関わらず。


「ファム!早く逃げろ!せっかくの時間稼ぎを無駄にするな!」

「そ、そんな、放っておけないわよ!」

「俺は大丈夫だ!こんな目には何度も遭ってる!あんたは1回でも死んだら終わりなんだぞ!」

「そんなこと言われたって!」


ファムは喚いた。身体の震えが止まらない。足は鉛のように重く、動きたいと思っても一向に言う事を聞かなかった。彼女は唯一動かせる瞳で、訴えかけるようにダリアの方を見た。彼はそれに応えたくて、手を伸ばした。

頭上には既に、死が迫っていた。


重く降りかかる衝撃。それは強い風圧であり、周囲の脆弱なものを吹き飛ばす。だが、先程よりも威力は弱くなっていた。

ファムはまだ意識があることを不思議に思い、恐る恐る目を開く。

一人の男性がいる。彼は片手を触手に向かって伸ばしていた。いや、正確には、押し止めていた。足元には衝撃の威力を物語るかの如く、八方へ亀裂が伸びている。しかし男性はその威力に潰されることなく平然と立っていた。


「二人とも、大丈夫かい?」


かけられた声はとても優しく、自信に満ち、頼もしいものだった。ファムは彼の灰色の瞳と目が合う。そこで緊張の糸が切れたらしく、彼女は意識を失った。


「待ってて、すぐ助けてあげるからね」


そう言うと、男性は触手を掴み直し、根元から力任せに引きちぎった。この世の生物とは思えない悲痛な絶叫のようなものが町に響き渡った。それはビリビリと建物を揺らすほどで、窓という窓のガラスが激しい振動により破壊された。

化け物は腕をもがれた怒りを露わにし、男性に襲いかかろうとした。しかし、彼が一瞥を向けると、化け物は突然躊躇うような動きに変わった。その隙に、男性はダリアを潰している触手も引きちぎってしまった。それがかなり効いたのか、化け物はずるずると後退していった。


「どうやら諦めてくれたみたいだね。やぁ、よかったよかった」


男性は朗らかな調子で言った。それを見上げるダリアは。


「おいっ!あんた今までどこにいたんだよ!!」


安堵の表情の後、物凄い剣幕で彼を怒鳴りつけた。それに驚いた男性は、目を白黒させて汗を飛ばす。


「ご、ごめんね〜!実はちょっと異世界旅行しててね。練習中に失敗しちゃって、なかなか帰って来れなくてさぁ」

「ったく、あんたが出てきたのが今のタイミングじゃなかったら張り倒してたぞ」

「だからごめんってば。あ、この子は大丈夫かな?さっき突然倒れちゃったけど……」

「あー、気絶してるだけだ。心配ねーよ」

「それならよかった。守りきれなかったのかと思って焦っちゃったよ」


男性はファムを優しく抱きかかえる。


「きみは平気……だよね」

「当たり前だろ。見ての通りだ」


そう言う彼の身体は、いつの間にか全ての怪我が癒えていた。下半身も酷い有様だったにも関わらず、問題なく動いているように見える。


「それじゃ、この子どうしよっか?きみの知り合い?」

「……いや、全然知らん。直にELIOの奴らが来ると思うから、その辺に放置しといていいんじゃねぇかな」

「確かに、あの人達にぼく達のことがバレたらまずいもんね」


男性はファムをなるべく崩れていない道に寝かせ、静かに離れた。

遠くからサイレンと武装した人々が近づいてくる。その喧騒に気づいてファムが目を覚ます頃には、彼女は瓦礫の山の中で一人になっていた。


「あ、あれ?どうなってるの?あたし、生きてるの……?」


ファムは状況が飲み込めずただ混乱するばかり。そこへよく見知った人物が駆け寄ってきた。


「ファム、無事か!?」

「あ、お兄ちゃん!どうしてここに?」

「それはこっちの台詞だよ。さっきここに大型EBEが現れたんだ。怪我は?」

「あたしは平気よ!助けてくれた人がいるみたいなの。誰かはわからなかったけど……って、そういえば!」


ファムは突然思い出したように立ち上がり、バタバタと周囲を見回した。


「あれ!?い、いない。どこ行ったのかしら……!」

「いないって、何を探してるんだ?」

「ダリアさんよ。あたしを庇ったせいで酷い怪我をしてるはずなんだけど…!」

「え?お前、そいつに会ったのか?」


ディグが眉をひそめた。それは彼にも聞き覚えのある名前だったから。


「お兄ちゃん、知ってるの?」

「知ってるも何も、昼に会って……」

「あたしもさっき会ったばかりよ。いろいろと助けてもらったの。意味のわからない話ばっかりするけど」

「そうなのか?」


ファムが頷くのを見て、ディグは口元に手を当てて考え込んだ。

EBEは未だ謎の多い生命体だ。人間の考えの及ばない思考をしていても不思議ではない。しかしあのEBEは、明らかに異質に感じた。敵と言っていいのか味方と見ていいのか、はっきりした答えを出すにはかなりの時間を要するだろう。


「……とりあえず、今度会ったら、お礼をしないといけないな」

「あら、お兄ちゃんも助けてもらってたの?」

「まあね」


怪訝そうな顔をするファムに対して、ディグは微かに笑いかけた。

考えるほどに思うところは幾らでも出てくるが、これらのことは妹を保護してもらった謝礼の後で考えても遅くはないだろう。だから一先ずは、妹の無事を喜ぶことにした。

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