それでも彼女は善人であると

 マルヤマトイとは同じクラス同じ選択科目同じ部活同じ帰り道だというのに喋ったことなど一度もなかった。僕が彼女を苦手としていたからだ。嘘だ。話す口実も度胸も何もかもがなかっただけだ。彼女のことをあまり得意としていなかったのは事実だが。話したこともないのに得意不得意で語ることなど馬鹿らしい、と友人は言う。僕は彼が羨ましい。少なくとも、人の目を見て会話することができるから。それ以外はそうでもない。


「アビキョウカンジゴクくん、聞いてる?」


 僕は彼女の目が嫌いだ。苦手、ではない。嫌いだ。怖いから。怖いものは何だって嫌だ。怖いものからは逃げるべきだ。世の中には可愛いものだけ溢れていれば良いのに人はどうして恐怖などという感情に気が付いたのか。知らぬ存ぜぬを貫いて、見たいものだけ見ていれば幸せだったはずなのに。

 さて、僕の持たない能力のひとつに目力というものがある。目力が強い人というのは得てしてどこか自信があるようだ。少なくとも僕の接してきた目力強き者たちは皆、自信有りげに生活を営んでいる。

 彼女の目は、それはそれは強かった。直視したことがないのでどういった形をしているだとかどういう色なのだとかは全くもって分からないけど、それはそれはそれはもう強力なもので、僕は密かに魔眼と呼んでいる。恐らく彼女に魔の能力はない。普通にいい人なのだ、マルヤマトイという少女は。

 僕が無視を決め込み手元の本に目を落としていると彼女は僕の机を蹴飛ばし……蹴飛ばして揺らしてきた。いや、こんなことではいい人の立場は揺らいだりしない。机を蹴飛ばすことといい人は同居する。蹴飛ばすイコールいい人ではない。蹴飛ばすことはそりゃあ、悪だ。彼女はいい人であるが、机を蹴る。それだけのことだ。たまにはそんな気分もあるだろう。僕だって時々紙くずをゴミ箱に力いっぱい投げ入れて外す。同じようなものだ。同じようなものか?


 そしてマルヤマトイは僕の机を持ち上げて、換気のために開け放していた窓から外へと投げ捨てた。


 思わず、身体ごと外を向く。冷静気取りは慣れたものだが、僕は元来小心者で臆病だ。放課後になれば誰も戻ってくることはない……とは言い切れないがまあ、ひと気が少ない教室に残って本を読んでいたときにマルヤマトイがわざわざ音を立てて扉を開け放して来たときだって、生唾を飲み込み椅子と一体化して隠れようと目論んだほどには気が小さい。失敗した結果がこれだ。

 え、いや、何で机を捨てたの? というか、阿鼻叫喚地獄って僕の名前のつもりか? 今さらも今さらでさすがにそこはもう、どうでもいい。


「ふへ」


 彼女は、気の抜けた声ともため息ともつけるような音と共に微笑んでいた。半濁音混ざりのぷへ、とも聞こえたような気がするがどちらでも良いことだ。

 それはそれはそれはそれはとても満足そうな表情で、机を投げ捨ててさえいなければ、もしかしたらほんの数パーセント程度は惚れていたかもしれないという感情が一瞬よぎる程度にはやり遂げた感のある、これ以上はないというほどに心晴れやかな感情だった。前日は土砂降り、グラウンドはぬかるんでいる。僕の教科書やノート、ペンケースは無事だろうか。怒号が聞こえる。そりゃそうだ。ひと気がないだけで人はいる。ましてや階下は職員室だ。すぐにでも教職員が駆けつけてくるに違いない。


「さて、アビキョウカンジゴクくん。話そうじゃないか。本も捨てるね貰うね」


 図書室で借りた本であることが前提でなくても他人から本を奪い取って外へと投げ捨てるような人間が善であって良いのだろうか? いいや、善だね。そうとでも思わないと、ただの危険人物じゃないか。僕は死ぬ。相対した時点で死んでいる。死んでないだろう? ほら、善だ。


「ようやく目が合ったね。それじゃあアビキョウカンジゴクくん。私と友達になろうじゃないか」


 超。


 嫌だ。


[了]

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