第3話 負けられない戦いが、そこにはあったりなかったりする。(2)

     ◇◇◇


 ピンポーン、と。ボタンを押すと甲高いベルの音が鳴った。


 人の家の呼び鈴を鳴らして、それから玄関が開けられるまでの時間がこんなにも長く感じられるのは、なんでなんだろう。そんないつも思うようなことを考えていると家の奥から「はーい」という声が聴こえてきて、数秒で扉が開かれる。


「いらっしゃーい。あら、佑斗くんったらいい男になったわねぇ。どうぞ、入ってはいって」

「こんにちは。お久しぶりです。お邪魔します」


 昔、確かに会ったことがあるんだろうけれどしっかりとは思い出せない、同年代のお母さんあるあるを感じながら挨拶をして、靴から準備されていたスリッパへと履き替える。


 今日は、前々から話に出ていた家庭教師の初日。勤め先は家から自転車で五分くらいの立派な一軒家だった。


 学校が終わって一旦家で着替えを済まして、それからすぐに向かったので今はまだ五時半。辺りは明るくて、ちょうど生徒の女の子も帰ったばかりらしかった。


「烏龍茶とオレンジジュース、どっちがいいかしら?」

「烏龍茶でお願いします」


 案内されたリビングの椅子に座ると、お母さんは生徒ちゃんの名前を呼んで飲み物を準備し始める。二階からはばたばたと少し慌ただしい足音が聴こえてきて、それからすぐにどこか見覚えのある可愛らしい女の子が私服で降りてきた。


「あら陽菜ひな。制服でも良いって言ったのに、わざわざ着替えてきたの?」

「そういう気分だったの!」


 そういう水着でもあるんじゃないかというくらいに短いデニムのショートパンツを大きめの白いティーシャツで隠すように着こなしている少女は、からかうように言われて鼻を鳴らす。


 高橋陽菜たかはしひな。母さんから名前を聞いただけだといまいち頭に浮かばなかったけれど、実際に再会してみてようやく思い出せた。


 俺や琴葉と保育園が同じで、小学校低学年くらいまでは俺と琴葉に交じって時々遊んでいた二個下の女の子。あのころに比べるとだいぶ雰囲気も変わっているけれど、小さいときからトレードマークだった少し茶色い癖っ毛は健在で、セミロングの髪は毛先がくるっと丸まっていた。


「えっと、お久しぶりです。ゆ……ゆうちゃん!」

「久しぶり、陽菜ちゃん」


 それこそ十年ぶりくらいにちゃん付けで呼ばれたのがなんだかくすぐったくて、無意識に鼻の下を丸めた人差し指の腹でなぞる。


「陽菜、さすがにそのゆうちゃんっていうのはどうなのかしら。ほら、もう佑斗くんも高校生なんだし」


 一方、陽菜ちゃんのお母さんはなんとも言えない表情で、ちらほらと俺に視線を振りながら言った。


 俺はまあ、新鮮な感じがして悪い気はしないけども。


「うーん……確かに敬語なのにゆうちゃん呼びってなんか変な感じもするか。じゃあ、学生らしく『先輩』とかどうでしょう。佑斗先輩っ」

「ま、まあ陽菜ちゃんがそれでいいなら」


 軽く上目遣いで俺を呼ぶ彼女に、軽くたじろいでしまう。なんというか、距離感を一気に詰めてこられる感じというか、琴葉が時折見せるあざとさとはまた種類の違った、小悪魔的なあざとさというか、そういう上手く言い表せない感じが慣れない。


「あと私のことは呼び捨てで大丈夫ですよ、佑斗先輩」

「分かった。じゃあ、とりあえず高校受験までよろしく、陽菜」


 それからはメッセージアプリの連絡先を交換したり、志望校が俺と同じ高校だという話を聞いたり、それなのに成績は正直あまり振るっていないということを打ち明けられたりと、とにかく現状とこれからについてを話し合い、それから軽く中学校の課題を手伝った。


「佑斗くん。もう七時半だし、うちでご飯食べていくでしょ?」

「あ、はい。……え?」


 気がつくと高橋家に来てからもう二時間あまりが過ぎていて、陽菜の母さんの言葉に流れで返事をして、それから間抜けな声で訊き返してしまった。


「いいじゃないですか、佑斗先輩。どうせだし一緒に夕飯食べましょうよ!」

「まあ、そう言ってもらえるならお言葉に甘えて……」


 ここまで言われて断るのも逆に申し訳ないので、素直に従うことにする。


「やった。じゃあ早く勉強道具片付けないとですねっ」


 結局、夕飯を食べ終わった後も昔話なんかに花が咲いて、家に帰ったのは九時を回ってからだった。

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