丘で待つ

丹花水ゆ

丘で待つ

目覚める。窓の外を眺めると丁度暁で、少しずつ草の露がきらめき始めていた。草原の丘にあるので、早朝の気温は大変低くなる。老体にはもちろん堪えるし、若くても身震いしてしまうだろう。それでも店は開けなくてはならない。加えて、本日は下の町へ材料の買い出しに行かなくてはならない。老いた体に鞭を入れ、どうにかベッドから立ち上がる。

「おはよう、レノン。今日も麗しゅう。」

名を呼ばれると、我が家に何十年も居座り続ける老猫はいまだに黒光りする体をくねらせた。あくびを一度してそのまま起きてくるかと思いきや、寒かったのかそのままもぐりこんでしまった。それを見て苦笑すると身支度を整えて、馬屋へと向かった。

「おはよう、ジャック。今日も壮健そうで何よりだ。」

頭をなでると、鼻息を少し荒くしてこすりつけてくる。水と干し草を与えると、桶に顔を突っ込んでもそもそと食べ始めた。食べる姿は何度見ても愛でたくなるものだ。

「さぁ、買い出しに行こうか。」

小さな荷馬車を朝食の終えたジャックに着けると、御者台から手綱を振るった。ジャックは動き始め、ゆっくりと坂道を下っていく。早朝の丘は近くの海から上がってきた霧が立ち込めている。視界の悪い道を下りていくと、だんだんと潮の香りが増してきた。下り続けると、やがて視界が開けて小さな港町が見えてきた。


「おはようございます!」

町の入り口あたりで休憩していた貿易船の乗組員から声をかけられた。早朝の市に間に合うよう、いつも夜遅くにほかの港から荷を運んでいるのだ。

「あぁ、おはよう。今日も良い品は入荷しているかい?」

「もちろんです!もう市場に並んでいると思いますよ!」

「そうかい、お疲れ様。さっそく買いに行ってくるよ。」

「あ、ちょっと待ってくだせい!」

港の市場に行こうと手綱を握り直したところで再び呼び止められた。

「なんだね。珍品でもあったのかね。」

「いえね、あなたを訪ねてきた爺さんが一人いるんですよ。まだ市場で待っているとは思うんですがね、早く会いたいからってうちの船に乗せてきたんですよ。」

「そうか、わかった。ありがとう。」

今度こそ手綱を握り直し、市場へと向かった。その爺さんとやらに心当たりがあるかというとないが、何となく想像はつく。どうせ、どこぞの国のお偉いさんか金持ちだろう。料理の大会などから離れて何十年と経つが、未だに訪れてくる者はいる。

「まぁ、材料を新しく仕入れるところだったからちょうど良いか。」

市場につくと、その爺さんを探すより前に品を見始めた。主婦たちの目利きだって決して悪いものではないし、他にも料理人はいる。取られる前に買わねばならない。

「これを二袋と、あとその野菜を三束おくれ。」

「まいど!いつもご贔屓に、ありがとうございます!」

「なに、良い品がそろっていたのさ。」

「そう言えば、先生を探していた老人が先ほど訪ねてきましたよ。」

「あぁ、聞いているよ。その老人はどっちに向かったのかね。それから、先生と呼ぶな。」

「これは失敬。老人はあちらに向かわれましたよ。」

指をさす方向は魚を扱う店が集まるところ。買う順番としても同じ方向だ。

「そうか、助かったよ。」

「へい、またどうぞ!」

荷を乗せた荷馬車をガタゴトと鳴らしながら、次は魚を買い求めに行った。

「らっしゃい、先生!今日はこの魚なんかどうです?なかなか獲れませんよ?」

「先生と呼ぶなと言っただろう。確かに久しぶりだな。これを二尾もらおうか。坊や、どれが良いかの?」

坊やと呼ばれた少年は突然の指名に驚いていたが、悩みあぐねた挙句ようやく顔を上げて二尾を指さした。

「これと……、これなんてどうでしょうか?」

「正解だ、坊や。目利きもだいぶできるようになったな。」

「本当に!これならもうそろそろ店も任せることもできますよ!」

父親のごつごつした手の下で少年は恥ずかしそうに顔を赤らめた。少年には父親が漁でいないときなどに目利きの仕方などを教えていた。できるようになったことは私にとってもうれしいことだ。

「見つけたぞ!ようやくだ!」

背後から急に大声が聞こえ、振り向くと杖を突いたシルクハットの老人がにらむような厳しい表情でこちらに向かってきた。目の前に来ると、こつんと杖を鳴らして立ち止まる。

「どちら様かな。」

「忘れているのも無理はないか。もう何十年も顔を合わせていない。」

「冗談だ。もちろん、覚えているとも。忘れるわけがあるまい。」

冗談だという言葉にシルクハットの老人は目を大きく見開いて驚いた。

「あなたから冗談が聞けるなんて思いも寄らなかった。やはり、何十年もして変わったのだな。」

「で、私に何の用かな?店ならまだ開店はせんぞ。」

「そうではないことは分かっていよう。いや、もちろんそれもあるが。そうではなく復帰の話だ。」

「であろうな。何度も誘いを断ってきたのでいい加減直接来るとは思っていた。だが、断る。私は戻らない。話はそれだけかな?まだ買うものがあるのでお先に失礼するよ。」

「待たんか!まだ話は終わっとらんぞ!」

後ろからこつんこつんと音が追いかけてきていたが、買い物も残っていたので気にせず歩き続けた。やがて買い物を終えて振り返るとまだ老人はついてきていた。

「あなたのこういうところは変わらんな。材料は確実に自分の目で確かめる。変わったのは他の者にも助言するところか。」

「店に行くなら乗って行くか?」

「悪いな。助かるよ。」

肩で息をしていたのでさすがにかわいそうに思ったので、荷台に座らせてそのまま帰路に就いた。


二人で荷馬車に乗って坂道をゆっくりと上がって行く。その間に老人は自分のことについて語っていた。

「わしは幼い頃にあなたを初めて大会で見たとき、料理人になりたいと強く思った。あなたが最年少で優勝したときの大会をたまたま見に来ていたのだ。それ以来、わしはあなたを目指して死に物狂いで腕を磨いてきた。だから、初めて大会で顔を合わせたときにはとても嬉しかった。やっと、同じ舞台に立てた。負けたけども大会後のインタビューでわしをライバルと呼んでくれたこと。あの時のことをわしは忘れない。あれを胸にいつまでも秘めて大会には臨んできた。たからこそ、あなたが突然失踪して自惚れかもしれないが半身を失ったような喪失感に苛まれた。」

「それは……済まなかったな。あの時は腕も振るわず、どうにも創作意欲も湧かない時期だった。」

ジャックが少し疲れを見せたので、一度馬車を止める。その間に二人とも強張った尻を立ち上がってほぐした。

「だが、料理をやめてはいなかったのだな。それを確認することができてわしは大変嬉しく思う。今、レストランを持っているのだが、そこの上客があなたの話をしていたのだ。あの味が忘れられずお忍びで行ったが、味が変わっていて驚いたと。だが、また機会があれば是非とも行きたいと言っておったよ。」

「そうか、ならよかった。」

「その上客から場所を聞き出して、こうしてやって来たのだ。年甲斐もなくそぞろになってしまってな。」

老人は少年のように笑いながら、再び荷馬車に腰を下ろした。私も御者台に腰を下ろし、手綱を振るう。それからしばらく無言のまま上り、店へ着いた。老人を店に通し、荷物を炊事場へ運ぶ。その後、ジャックを馬屋へと繋いで水と餌を与えた。店に戻ると老人が包丁を手にとって眺めていた。

「道具はきちんと手入れされているし、しっかりと使い込まれている。さすがだな。」

「料理人ならば当たり前だろう。」

老人は包丁を元に戻すと手前のテーブル席に着いた。すると我が家の居候がテーブルに上り、物珍しそうに早朝の客人の前に座った。

「飼い猫かね?」

「いや、居候だ。ここを建ててしばらくしてから来たのだが、そのまま居ついてしまった。おそらく荷馬車の中に紛れていたのだろうと思って何度も町に返してきてもまた帰ってくるので、もうあきらめた。妻は喜んでいたがな。」

「ふむ、良い毛並みだ。良いものを食しておるのだろう。」

老人は黒い毛並みを撫でまわしているがレノンは特に意に介していないようだ。

「さて、少し裏の川に行ってくる。すぐ戻る。」

「まだ材料調達するのか。どれ、わしもついて行こう。」

レノンを抱えたまま川に行こうとしたが、嫌がって部屋の奥に行ってしまったので代わりに魚籠を老人に抱かせた。釣り竿を二本、倉庫から出すと二人並んで川へ降りて行った。


岸辺に立つと適当な場所に座って、竿を振る。たまにかかるが、狙いの魚ではないので逃がすということを繰り返す。彼のことは先ほど聞いたので、その間に代わりに自分のことについて話した。

「私の家はすごく貧しかった。父と母、それから妹と弟の五人でつつましやかに暮らしていた。親たちはいつも遅くまで働いていたから、家のことは私が全てやっていた。だから、自慢ではないが誰かに手ほどきを受けたことも料理学校に行ったことも、コンテストに出るようになるまで全くなかった。」

「そうなのか。てっきり、料理学校に行っていたものだとばかり。」

またかかったが、狙いの魚ではなかった。逃がして、再び竿を振るう。

「金がなかったからな。だが、料理人になるという夢はあった。それを親に打ち明けると、なんとコンテストに出てみようと言い出してな。費用を必死に工面してくれた。初めてのコンテストではもちろん入賞できなかったが何回か出るうちに賞も取れるようになった。」

「そして、優勝するようになったのか。素晴らしいな。」

「賞を取るようになってから、料理学校に行くようになった。審査員長が私のためにと申しでてくれたのだ。」

「そうだったのか……。おっと!」

今度は老人の方の竿がしなった。年寄りが二人でウンウンと唸りながらようやく引き上げたが、またも違う魚である。大きくもあり、せっかくだが逃した。

「ある程度すると店を持つようになったし、そもそも優勝金があったので家計は良くなった。妹と弟も大きくなって手が掛からなくなった。その頃からだ、振るわなくなったのは。一時期はもう料理人を辞めようとも思ったほどだ。そんな時、コンクールで彼女と出会った。彼女は一般抽選の審査委員だった。そして、痛烈に批判を浴びせられた。」

「なんと!批判とな。何と言われたのだ?」

「さぁ、もう何年も前のことだから記憶にない。しかし、あなたの料理は鋭すぎて口が切れるようだった、と言われたのは今でも覚えている。」

「怒らなかったのか?」

「もちろん、言い返した。お前になにが分かると。そうしたら何と返ってきたと思う?分かる、だ!」

思い出し笑いを大声でしながら話すと、彼もつられて笑い出した。しばらくすると笑い疲れて竿を握り直した。

「その時はさんざん言い合いをした。久しぶりに感情が動いたよ。後になって怒りは収まったが、彼女のことがなぜか頭に残ってこれまた集中できなかった。ついには彼女のことを調べてしまって。彼女の家はレストランを経営していると分かり、そこに乗り込んでやった。」

「それも意外だ。あの頃こそそんなことをする方だとは露ほども思わなかったぞ。」

「若気の至りさ。彼女はその店でウェイターをしていたからすぐに見つけることができた。だが、キッチンが見えたときにそちらにくぎ付けにされた。そこで調理していたのはなんと私のあこがれの料理人だったのさ。コンクールで何度も優勝するほどの腕だったが、もう何年も前に引退していた。席に案内されてもそちらばかり見ていたら、彼女が彼を連れてきた。そして、急に娘が失礼したと謝罪してきた。さすがに驚いてしまってこちらもしどろもどろだ。」

「彼女は何か言っていたかね。」

「彼女も言い過ぎてしまったと言っていた。そのお詫びにと彼の料理を頂いた。」

「当然美味だったのであろうな。さぞ彼女の舌は肥えていたのではないか?」

「あぁ、確かに彼の料理をいつも食べていたら舌も肥えるというものだと納得できる。しかし、彼の料理を食べてそれは間違いだと理解した。それほどまでに彼の料理は美味であることはもちろんのこと、優しかったのだ。彼女があの時言っていたことはこのことかと。その後何度もレストランに通い、二人と話す中で私が料理を始めたきっかけを思い出すことができた。私は兄弟たちのために料理を始めたのだ。捨てられていた料理本を参考に初めてオムレツを作った。小さなオムレツだったが、家族みんなでつつきあって食べた。今の自分はあの時の皆の嬉しそうな顔を忘れて、ただ作っているだけ。それはつまらなくもなるだろう。そのあたりからだ、自分の料理も変化したのは。聞けば彼も同じような経緯で優しくなったのだと言う。」

そこで一度詰まってしまった。当然だ。年を取ってもこういう感情はあるものだ。

「そして、話す中で惹かれた私は彼女に求婚をした。」

「ほほう、なんと求婚したのだね?」

「それこそ言えない。あの時はどうかしていた。」

「良いではないか。何を言ったとしてももう時効であろう。」

他人事だからと言って楽しそうにしている。腹立たしく、恥ずかしいだけだというのに。後でこやつにも言わせてやると心の中で思いつつ、深呼吸をして覚悟を決める。

「……。私の料理の味見をしてくれないか、ぶれないようにずっと隣で、と……。笑うな!」

「笑ってなどおらぬ。ほほえましく思ったのだ。」

「どちらも変わらない。おっと!」

そして今度こそ目当ての魚が釣れた。なかなかに大きく脂ものっているようだ。

「何を狙っていたのかと思えば、やはり鮭か。それこそ市場で買えばよいものを。」

「この時期のこの川で獲れるものはかなり状態が好ましいのだ。ならば余計に新鮮なものが欲しいというもの。さぁ、戻ろう。レノンが待ちくたびれている。」

魚籠に鮭を入れて、二人でえっちらえっちら坂を上ってゆく。


家に着くとレノンが近づいてきた。鳴き声から察するに腹が減ったのだろう。もう日が大きく傾いている。長い時間川辺で話し込んでしまったようだ。

「二人ともあと少し待て。すぐ調理するからな。」

二人とも料理する間、カウンター席からずっと眺めていた。時折、彼女は予想通り尻に敷くタイプで本当に味には口うるさく言ってきたことや老人の息子の話などの会話を交えつつ料理は完成へと向かった。

「さぁ、できたぞ。席に着け。」

全員テーブル席に着き、料理も出そろった。そして、クロッシュを取りお披露目する。

「これは鮭のムニエルか。確か、初めて優勝した時もこれを作っておったな。まさか、優勝するなんて誰一人予想だにしていおらんかった。」

「であろうな。私もだ。」

「ふっ。では、冷める前にいただくよ。」

鮭が切り崩されて、老人の口へと運ばれる。口で咀嚼した途端に、老人の表情が一変した。

「なるほど。これが優しいか……。確かに驚いた。しかし、大変美味だ。何年もあなたの料理を口にしていなかったとはいえ、また腕を上げたな。」

「おほめにあずかり大変光栄だ。」

また二人笑いあった。レノンも今日も変わらず美味しいというように甘く鳴いた。

「今日は泊まっていくのか?」

「世話になっても良いか。」

「時間がかかったのは私のせいだしな。泊まるなら、秘蔵のボトルも開けるとしよう。」

「それは楽しみだ。」

その夜は珍しく丘の上のレストランが遅くまで騒がしかった。笑い声と楽しそうに昔を語る声が響いた。朝になると老人はシルクハット被り、自分の場所へと帰っていった。来た時とは違い、とてもすがすがしい表情をして。レノンとともにそれを見送ると、今日も仕込みを始めるのであった。

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