第4話 りんごは赤い。空は青い。

 月曜日に例の女性と出会ってから、私は残り四日間の登校日を夢現ゆめうつつに過ごしていた。

 公園で絵を描いていると確かにそう言っていた。考えるまでもなく、あの女性が私をとりこにした絵の作者で間違いない。そう考えると、居ても立っても居られなかった私は、雨にも負けず風にも負けず、放課後になると毎日公園へ足を運び、敷地内を隅々まで探し回った。しかし、画家の女性には会えなかった。火曜日も水曜日も木曜日も金曜日も会えなかった。天気が悪かった日もあったがすべてではない。時間が悪かったのだろうか。他に公園なんてないから場所は合っているはず。もしかして、体調を崩していたりして……。

 そんなふうにモヤモヤとした思考を巡らせながら授業を受けていたものだから、幾度となく先生に注意され恥をかいた。

 そして、土曜日の正午過ぎ。夏休み初日である今日。私は再び公園に来ている。五度目ともなると、公園までの道のりが早くも馴染なじみあるものに感じられた。

 生憎あいにくなことに、空はその大部分が浅葱鼠あさぎねずに染まった雲におおわれていた。時々、雲のわずかな隙間からちらりと顔をのぞかせる太陽の光が、今日の薄暗さに慣れた私の視覚を刺激して、その度に私は目を細める。

 もしも、今日がただの週末であれば、私は憂鬱ゆううつで仕方がなかっただろうが、今日こそは画家の女性に会えるだろうという期待が心を明るくしてくれている。

 ちょうど公園の中心に位置する池の近くまで来たとき、私の視界をなにか、ゆらりふわりとただようものが横切った。と思うと、次々に量を増やしたそれは、私の目の前を風に流されながら行き来している。まるで、首都圏のスクランブル交差点の光景のようだ。

 それは無数のシャボン玉だった。

 どこかで見たシーンだとデジャブを感じながら、周囲を見回すと、少し離れたベンチのところにシャボン玉の発生源を見つけた。小さな男の子とその母親であろう女性が楽しそうに笑っていた。

 改めて、前に進もうと視線を正面へ戻そうとする途中、ふとシャボン玉達の隙間から丘の上に立つ人影が見えた。

 その一瞬に確信できた。その人影は、間違いなくあの女性である。月曜日にギャラリーで出会ったときと似たテイストの衣服を身に着けていたからだ。

 私は反射的に女性の元へ駆け出した。シャボン玉をき分けて、遊歩道かられて、丘の緩やかな傾斜を一気に駆け上がった。

 女性がこちらに気付かなければ、背後から驚かしてみようかなんてことを咄嗟とっさに思いついたが、時すでに遅し、嬉々ききとして駆け出した私の近づいてくる足音に女性が気付かないわけはなく、軽く息を切らした私のことを女性は不思議そうに見つめていた。

「あはは……。こんにちは。来ちゃいました」

 少し恥ずかしくなって、苦笑い気味に挨拶あいさつをする。

「……なんだ。誰かと思ったら、君だったんだ」

 女性は右手に絵筆を持ったまま、状況がうまく理解できていないのか、一瞬間をおいてから口を開いた。

 私をあの時の女子高生として無事認識してもらえたようだ。夏休みなので、わざわざいつもの制服を着る必要はない。今日の私は私服だった。ハイウエストのロングスカートにシンプルなTシャツをタックインしたコーディネート。女子高生の代名詞ともいえる制服姿ではない私に気付いてもらえるか不安だった。

彩葉いろはといいます。私の名前。このまえは自己紹介できなかったから」

「あー、そっか。イロハね。来てくれてありがとう。まさか本当に来てくれるなんて思わなかったな。わたしはあい

 気を取り直して自己紹介をした。女性は少し微笑ほほえむと、同じように名前を教えてくれた。

「アイさんっていうんだ……。あ、いや、ごめんなさいっ。突然来て、邪魔しちゃいましたよね? 私は静かにしてるんで、気にせず作業の続きを」

 私がぺこぺことせわしなく頭を下げながら言うと、アイさんは大丈夫と言わんばかりに優しく笑って見せた。

「いいよ。そもそもあの時に場所を教えたのはわたしだし……、絵の方はちょうど行きづまってたところだからね」

 アイさんは、今、行き詰っていると言った。あれほどの素敵な作品を描く人が……、スランプというやつだろうか。いや、ただ構想を練っているだけに違いない。

 アイさんの正面には木製のイーゼルがあり、キャンバスを張った木製パネルが固定されている。

 キャンバスにはなにも描かれていなかった。

 分かりやすい行き詰り方だった。まるで、課題の読書感想文がなかなか書けなくて、困り果てて頭を抱えているときの私のようだ。

「行き詰っているとは……どの辺が。いや、どうして」

 私なんかが気易く踏み込んではいけないことだと、心の中では分かっていたが、疑問を持った瞬間には、それが質問となって口から飛び出していた。また悪いくせが出てしまったが、後悔しても仕方がない。

「いいです、いいです、答えなくて。出会ったばっかの人間に、そんなこと教える必要ないですよ。聞かなかったことにしてください」

 私は不躾ぶしつけな質問をあわてて取り消そうとした。

 ところが、アイさんは嫌な顔一つせずに滔々とうとうと語りだした。

「色が見えなくなる病気なんだよね。わたし、絵を描いているくせに色が分からないの。あのギャラリーでわたしの絵を観たとき感じたでしょ? 自分の知っている色と違うって」

「ああ、確かに……。だけど、べつに、それが変だとは思わなかったです。こういう作風もあるんだなって、むしろ、その色使いに魅力を感じたと言いますか……とにかく、素敵だと思います」

 突然の問いかけに慌てていたせいで、ぎのお世辞のような返答になってしまったが、これは紛れもない事実であり嘘じゃない。思ったことをそのまま伝えると、アイさんは面食らったように、ほんの一瞬だけ言葉に詰まっていたが、すぐに続きを話し始める。

「やっぱり君おもしろいな。わたしのギャラリーに二回も来てくれている時点で、変わった子だなとは思ってたけどさ。わたしの絵を観て君みたいな感想を持ってくれる人はまれ。世間の色彩感覚は、わたしの色を許してはくれないんだよ」

「――そんな」

 嘘だ。と続けようとしたが、アイさんの真剣な眼差しに制止された。

「りんごは赤い。空は青い。誰かにとってのあたりまえの色は、みんなにとっても当たり前の色で、実際それが正しいとされるんだからしょうがないよね」

 私は黙って続く言葉に耳を傾ける。

「わたしが色を失い始めたのは高校生のころ。真剣に絵を描くことに向き合い始めたのもそのころからなんだ」

 アイさんはゆっくりと一度まばたきをすると、落ち着いた声音こわねで語り始めた。

「描き始めたばかりのころは、只々楽しくって、まわりの反応なんてそこまで気にしたことなかった。ま、そのころは作品を見せる相手なんて両親くらいだし、批判にさらされることなんてないから楽しくて当然だよね。それに、いつも厳しい父さんが、わたしの絵をほめてくれたことがすごいうれしかったんだ」

 アイさんは私ではなく、どこか遠くを見るようにして話を続ける。

「それで、高校を卒業してから、大学には行かずに絵を描き続けたわたしは、ある時、一番仲のいい友人にわたしの作品を見せてみたんだ。あのギャラリーに飾ってあるあの作品をね。そしたら、その友人はたった一言、変わってるね、と言ったんだ。目の覚める一言だったよ。まさかそんなこと言われるなんて思いもしなかった。その言葉を聞いてから現在まで、自分の色を考えすぎるあまりに、見失って、わたしの作品作りは停滞しているってわけ。たとえ描き始めることができても、その作品が完成することはない。そんな呪いのようなものを引きずっているの」

 一通り話し終えたのか、アイさんは呼吸を整えるように一息ついた。

「そうなんですか……」

 気の利いた言葉なんて一つも出てこなかった。



 それから長い沈黙が続いた。

 公園のあちこちから聞こえる楽しそうな声が、段々と少なくなっていくことに時間の経過を感じた。

 にぎやかだった公園が静まり返るころには、曇天どんてんも相まって辺りは薄暗くなってきた。しかし、街灯に灯りが点くにはまだ早い時間だ。

「だいぶ暗くなっちゃいましたね」

 私の隣でキャンバスに向かうアイさんに声をかける。

 少しは作業が進んだのかと画面を覗くと、相変わらずそこにはなにも描かれていなかった。さっきの話から察することもできたが、アイさんの言う行き詰まりというのは、私が思う以上に深刻なものであるようだ。

 長い沈黙の間、私は考えていた。そんなにも正しい色を使うことが大事なのだろうか? と。アイさんの絵が批判されたのは、アイさんの色使いが悪いのではなく、それを鑑賞する側に問題があるのではないか。凝り固まった自身の感性を押し付けることに何の意味があるか、それはコンビニやファミレスでくだらないクレームをつける客と同じに思える。

 りんごが赤くある必要はあるか、空が青い必要はあるか……。世界中を探せば、緑のりんごだって、黄色の空だって、どっかの誰かが描いているだろうし、幼稚園児がお絵かきの時間にピンクの象やウサギを描いていることは珍しくない。なぜ、そういった類稀たぐいまれなる感性が、世間一般の共通意識に迎合する必要があろうか。いや、ない。

 私は芸術なんてこれっぽっちも分からない。けど、少し考えればわかることだ。誰かには、その誰かにしか作れないものがある。自分以外の誰かの作品に対して、自分の目線から評価を下すのはきっと愚かなことだ。たとえ、技術的に自分が勝っていたとしてもだ。仮に、その誰かの作品を百パーセント隅から隅まで寸分違わず、それを描く作者の感情までをも再現することができるのなら、そうして初めて作者と同じ目線に立って、その作品について語ることができるようになるのではないか? 自分の方がうまく描けると言って、百二十パーセント、オリジナルを超えて自己顕示欲を満たそうものなら、それは再現とは言えないと思う。まったく別の作品だ。オリジナルを批判する権利なんか無い。

「わたしは帰るけど、君はどうする?」

 隣に立つ私に問いかけて、アイさんは片づけを始める。

「あ、じゃあ、私も帰ります。今日はありがとうございました。私が隣にいてやりづらかったですよね」

「や、気にしないで。君のせいじゃないよ。いつものことだから」

 私の視線がキャンバスに向いているのに気が付いたのだろう。私に気を遣うようにそう言った。

 アイさんは手早く道具を片付けると、荷物を担いで歩き出した。どうやって持ち運んでいるのか疑問だったイーゼルやらイスは折り畳み式だったようだ。非常にコンパクトにまとめられて、大きめサイズのトートバッグに画材と共にしまわれた。木製パネルはアルタートケースで持ち運んでいるらしい。

 私もアイさんの隣に並ぼうと、少し早歩きで後を追う。

 空を見上げても、そこには単調なねずみ色の雲が所狭ところせましと浮かんでいるだけだった。空が明るければ、二人の空気も明るくなっただろうに、ただ前を向いて歩くアイさんの横で、私は少し気まずさを感じながら黙って歩いた。

 公園の門のところまで来ると、アイさんが足を止めて私のほうへと向き直る。

「君はどうやってここまで来たの? わたしは家近いからこのまま歩くけど……」

 アイさんは私に問いかけながら、駅へ向かう私が進むべき道とは反対方向の道を指さしている。

 どうやら、ここでお別れのようだ。

「電車で来たので、ここで……」

「そ、じゃあ、気を付けてね」

「はい。――また来ます」

 また来ると告げた瞬間、気のせいだろうか、アイさんが少し笑顔になったように見えた。



 公園前でアイさんと別れてから駅に向かう途中、私は書店に立ち寄ることにした。絵を描くために必要なものを買うためだ。

 アイさんが描けないのなら、私が彼女の世界を描けるようになってやる。彼女の中にある魅力的な世界を二人で形にして、たくさんの人に受け入れてもらうんだ。と意気込んでみたものの、私の画力は皆無なので、まずは自分でなにかしら描いたものをアイさんに添削してもらうことで実力を伸ばしていこうと考えたのだ。

 あのギャラリーの作品を見たときから、絵を描くことに興味を持ち始めていたのだが、今日のアイさんの話を聞いて心に決めた。私も絵を描こうと。

 書店の小さな画材コーナー。とりあえず、さまざまな硬さの鉛筆、スケッチブック、水彩絵の具など分かる範囲で使いそうなものを買いそろえると、私の財布はだいぶ寂しくなってしまった。



 駅に着いて改札を通ると、タイミングよく電車がホームに入ってきた。

 その電車に乗ってから家に着くまで、私は絵を描くことばかり考えていた。はたして、私はどれだけ頑張れるだろうか。どれだけ絵に向き合えるだろうか。うまくいくかどうかなんて分からないが、今の私はとにかくやる気で満ちあふれていた。

 家へ着いた私は晩御飯や風呂など必要なことは素早く済ませると、不思議そうに見つめてくる母を無視して自室に引きこもった。

 ここから私は絵の道を歩き始める。自室の机の上にスケッチブックを開いて、新品の鉛筆を握った。

 ――初めてのモチーフには赤いリンゴを。

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眩暈がするほどに色彩は淡く 山岸アオ @Ao_Y

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