第3話 アクセントカラー

「――はあ」

 気だるげな、私の口から、ため息一つ。

 なんてことない一日、なんてことない教室で、なんてことない授業の数々を、なんてことない私は、なんてことないように過ごした。

 勉強なんて退屈だ。私の無彩色むさいしょくな青春にビビッドないろどりを。何度そう思ったか、数えることなんてできない。

 大人は皆そろいもそろって、勉強は大切だから後悔しないようにできるうちにしておけと言うけれど、その言葉で勉強の大切さに気付く者がどのくらいいるかなんて考えるまでもない。そんなもの無駄だ。私のような勉強嫌いが、外部からの干渉で勉強好きになるなんてありえないのだから。物事の好き嫌いなんて、結局は自己の視点から決まるものでしかない。

 そういう私も大人になったら同じように若者たちを言諭いいさとしているのだろうか。そうやって自身の過去を後悔しているだけの自分を反面教師に仕立て上げ、さぞ自分が若者を気に掛ける良い大人であるかのように振舞っているのだろうか。だとしたら、吐き気がする。

 放課後の教室は、部活動に向かう者や帰り支度をする者、友人同士で駄弁だべる者達によって活気に包まれていた。これほどまでに教室が賑やかになるのは、昼休みと放課後くらいなものだ。

 とりわけ今日の教室は、夏休み前最終週がもたらす高揚感もあって一層騒がしかった。

 そんな喧騒けんそうに包まれながら、勉強が云々うんぬんと考えながら帰り支度をしていた私は、リュックサックの口を閉じると教室の外へ歩を進める。

 すでに私の脳内ナビは、昨日のギャラリーを目的地に設定していた。

「今日はなにか手掛かりをつかめるといいな」

 先ほどよりも騒がしさを増した教室を背にして、自分にだけ聞こえるようにつぶやいた。

 私の通う高校と例のギャラリーは、最寄り駅で言うと駅三つ分の距離がある。自転車で向かうとすると、少なくとも三十分ほどはかかってしまう。特に自転車をこぐことがになるというわけではないが、昨日見た感じだとギャラリー周辺に自転車を停めておけそうな場所はなさそうだったので、今日は一度家へ帰って自転車を置いてから電車で向かうことにした。



 四両編成の車窓しゃそうを十分ほど眺めて着いたのはギャラリーの最寄り駅。改札を出ると、昨日見たばかりの景色になぜか懐かしさを感じた。

 ここは中心市街地というわけではないのもあり、駅の利用客はかなりまばらだ。人ごみを苦手とする私にとってありがたいことこの上ない。

 駅の東口を出て、早足気味にギャラリーを目指す。

 駅から歩いておよそ十分。昨日と同じ道をたどって、道を挟んだギャラリーの向かいまで来たとき、ギャラリーのあるビルの地下スペースへとつながる階段を、ゆっくりと下っていく女性の姿が見えた。どうにもその女性のことが気になる。ただ自分と目的地を同じくしているだけのその女性に、私はとても興味をそそられた。それは私だけではなく、他の通行人たちもその女性のことを珍しいものを見るような目で見ていた。

 目を奪われるのも当然だろう。

 ちょうど肩に触れるくらいの長さの色素の薄い髪は、太陽の光を反射して七色のつやを見せている。

 和洋折衷わようせっちゅうを体現したような不思議な魅力をかもし出す着こなし。

 背が高く、姿勢もよいので、遠目にも存在感が感じられる。

 私の位置からでは後ろ姿しか見えなかったし、道を挟んだ反対側というのもあり距離があった。それでも、あの女性が魅力的な人物であろうことはうかがえる。それと同時に、彼女があの絵の作者なのではないかという考えが頭をよぎった。いささか短絡的ではあるが、あの女性の装いと雰囲気を見たときの感覚が、あの絵を観たときの感覚に似ていたのだ。

 あの女性を追いかけるようにして、私は急ぎ足で歩道橋を渡ると、ギャラリーへの階段を駆け下りた。

 ギャラリーの中は閑散かんさんとしていて、正面の壁には、私を良い意味でおかしくしてくれた大きな絵が、昨日と変わらぬ姿で飾られている。昨日来たときは私以外にも二、三人の見物人がいたが、今日は私以外に誰もいなかった。そう、誰もいなかった。

「あーれ、さっきのお姉さんは……。どこいったんだろ。たしかにここに入っていったはずなのに」

 何度見回しても、この空間には私一人であることを再認識させられるだけで、この不思議な現状にただ頭をひねるしかなかった。

 何の根拠もないけれど、作者ではなかったとしても、あの女性ならなにか知っていてもおかしくないと期待していただけに少し残念だ。

 女性の行き先を考えたところで仕方ないと思い、大きな絵に視線を移す。昨日は後に模試が控えていたのと、自分以外の人がいたことから、近くまで寄ってじっくり観ることは叶わなかったが、今なら私しかいない。いわば貸し切り状態だ。

 近づいて観てみると、遠くから概観するのとは違った面白さがある。

 近くだからこそ気付ける細かい描き込みに感動する。逆に遠景や小物は描き込みが少なかったり、シルエットだけのものもあったりすることにも気が付く。しかし、シルエットだけでもそれがなにであるか理解できてしまうのだからとても不思議である。人間の脳が、自身の経験や知識から無意識に補完しているのだろうか。

「ほーん、意外と手抜きなところもあるんだ」

 また私の悪いくせが出てしまった。たしかにそうは思ったが、人の作品に対してなんと失礼なことだろう。周りに人がいないのだから、気にする必要もないはずだが、私はあわてて両手で口をおおった。

「違う」

 突然、き通っていてしんのある声が、静かなギャラリーの空気をふるわせた。

 私は、心臓が飛び跳ねているのを感じながら、恐る恐る声のしたほうに身体を向ける。

 絵に夢中で気が付かなかったようだ。私の右横五メートルほどの壁際に、あの女性が立っていた。

 透き通るように白い肌。青白磁せいはくじの髪が透明感をさらに引き立てている。目鼻顔立ちは整っていて、なんといっても露草色つゆくさいろの瞳が目をく。やはり背は高く、百五十センチ強ある私より頭一つ分は高いだろうか。遠目でも感じてはいたが、こうして向き合うとその女性の不思議な雰囲気に空気が変わる。

 彼女の雰囲気に取りつかれてそうになった私は、ハッとして女性の背後に視線を移した。先ほど見回したときには見落としてしまっていたようだが、そこにはどうやら扉があるように見える。鍵穴とその下に格納式のドアノブが隠れているらしい。鍵が必要ということは、スタッフオンリーの倉庫や事務所のような部屋だろうか。ということは、その部屋から出てきたであろうその女性は、やはりギャラリーに関係がある人物であると考えて問題ないということだ。あとは、彼女がこの絵の作者であることを願うばかりだ。

「手抜きじゃない。それだけは言っておく」

 女性はたった一言指摘して去ろうとする。

 たしかに彼女からすれば、部屋から出ると場違いな女子高生が絵を凝視しながら、テキトーなことを呟いているのだから、口を挟みたくもなるだろう。

 怒っているのだろうか。だとしたら、せめて謝罪だけでもしなければ。

「その、すみませんでした。そんな、馬鹿にするとか、そういうつもりで言ったわけじゃないんです。なんていうか、その、こんなすごい絵でもあまり描き込まずにシルエットだけみたいな部分もあったりするんだなーって、昨日遠目で見てた時は気付かなかったけれど、てっきり絵が上手な人は隅々まで細かく描いてると思ってて……」

 自分でも何を言っているのか分からないくらいに、早口でまくしたててしまった。

 しかし、こちらを振り返った女性は、落ち着いた様子で、一拍ほど間を空けてから口を開いた。

「そう、昨日も来てくれたんだ。ありがとう。こんなつまらない場所」

 私はたしかに謝ったはずなのに、なぜだか感謝されてしまった。なんとなく優しい声色だと感じた。

「それじゃ、わたしは夕食の買い出しがあるから」

 女性は表情を変えることなくそう告げると、再び外の階段へ向かって歩き出す。

「あ、あのー……。またここに来れば、あなたに会えますか?」

 まったくの偶然ではあるものの、せっかく出会えた作者らしき女性。この機を逃すわけにはいかないので、私は一歩踏み出し、離れていく女性の背中に向けて質問を投げた。

「毎日ではないけど、たいてい午後は、この近くの公園で絵を描いてる」

 もう女性が振り返ることはなかったが、まるで脳内に直接語り掛けているような、不思議と通る声で言い残して、階段の先の雑踏ざっとうの中へ消えていった。

「――やった」

 喜びをみしめるように、つい小さくガッツポーズをしてしまう。笑顔が自然とこぼれている。思った以上の収穫に舞い上がった私は、スキップでもしたくなる気持ちを抑えながら、早足気味に帰路を歩く。

 こんな私を見たら、きっと母はこう言うだろう。なんかいいことでもあったの? と。そしたらなんて答えてやろうか。彼氏ができたとか、特大の冗談でも言って驚かしてやろうか。そんなくだらないことを考えてしまうほどに舞い上がっていた。


 *


 ギャラリーの倉庫から出ると、たった一人、女子高生という珍しいお客さんがいて、さらには二日続けてわたしの絵を観に来ていると言うのだから驚きだ。私の作品を手抜きだとか言っていたものだから、つい冷たい言い方と態度をとってしまったが、それでも彼女は、わたしの絵に興味を持ってくれたようで嬉しかった。こんなに嬉しい気持ちになったのはいつぶりだろうか。また会えるかという問いに答えるとき、わたしの顔はどうしようもないほど笑顔に支配されていた。上昇していく体温で、顔は耳まで真っ赤になってしまっていただろう。

 彼女は、本当に会いに来るだろうか。

 彼女は、どうしてわたしの絵を。

 彼女は、絵を描くのだろうか。

 彼女は、わたしのことを恐れてはいないだろうか。

 ――彼女は……。

 行きつけのスーパーに向かう途中、気付けばあの女子高生のことばかり考えてしまっていた。

「――はあ」

 無意識とはいえ、考えすぎている自分自身にあきれ、深いため息がもれた。



 大きくふくらんだ買い物袋を片手に、空いているもう片方の手で自宅の玄関の鍵を回す。

 玄関の扉を大きく開け放つと、画材の匂いが部屋の奥のほうからほのかにただよってきた。この匂いがわたしを安心させてくれる。ここがわたしの帰るべき場所だと感じられるのも、ひとえにこの匂いのおかげだろう。

 聞くところによると、匂いというものは、人間の記憶において存外重要な役割を果たしているらしい。たしかに身に覚えがある。昔、クラスメイトの中に、体操着の匂いで所有者を言い当てるという警察犬じみた能力を持つ者がいた。風景や出来事、人物とともに、その瞬間の匂いを紐づけるようにして作られた記憶は、同じ匂いを再び感じたときに強烈に思い出されるらしい。

 キッチン備え付けの通路には、脇に浴室とトイレそれぞれにつながる扉があり、通路の先に十二畳ほどの空間が一部屋。狭いと感じる人も多いだろうが、今のわたしには十分だった。

 荷物を置いて、買ってきた食材を片付けると、ベッドに腰を下ろして一息つく。スマホで時間を確認すると、午後六時四十分。夕食の準備を始めるにはちょうど良い頃合いだが、わたしは窓と網戸を開けてベランダへ出た。

 いまだ若干の明るさが残る空は、パレット上でごちゃまぜにした絵具のような色をしている。この時間の空は、様々な表情を見せてくれるから好きだ。空気は蒸し暑く身体にまとわりついてくるが、時折吹く風がそれを拭い去ってくれる。六階にあるわたしの部屋からは、町の景色がよく見渡せた。中心市街地からは四駅離れたこの地域には、背の高い建物は比較的少なく、必然、六階ともなるとわたしの景色に割り込むモノは少ないのだった。少し遠くを見れば、いつもの公園やギャラリーのある駅前の小さなビル群も確認できる。

 いつもと変わらない景色を眺めながら、たばこを一本口にくわえてライターで火をつける。作品作りがうまくいかない日は決まって一日の終わりに、ベランダから景色をぼうっと眺めながら、何も考えずにたばこを銜える。たいていは憂鬱ゆううつまぎらわすための一服であるが、今日はどこか違った。

 ――また、会えるだろうか。

 




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