第2話 過去に沈む

 ふわふわ、ゆらゆら、と目の前にたくさんのシャボン玉のようなものが、踊るように浮かんでいる。その無数の球体が作り出している分厚いフィルターによって、私の視界は完全にふさがれていて、向こう側の景色はひどゆがんでしまっている。しかし、なんとなく人影のようなものが見える。男性か女性かまでは分からない。影の正体を確かめるため、球体をき分けてみようと手を伸ばしかけた瞬間、私の周囲をおおっていたそれらは、一斉にパチンとはじけて、不思議な空間から私を追い出した。

 六時三十分。耳元でスマホが電子音を奏でているのが、ぼんやりと聞こえる。反射的に動いた右手が、画面に触れると静かになった。なにか不思議な夢を見ていた気がする。気がするだけ。それを思い出すための記憶の糸を手繰たぐり寄せようとしたが、当たり前のように途中でぷつりと切れてしまった。思い出したくても思い出せない、あのなんともいえないもやもやとした感じが残るが、これ以上考えても仕方ないと諦めて、二度寝を決め込んだ。

 六時四十分。スヌーズ機能により、再び騒ぎ出すスマホ。またしても、私の右手は耳元の相棒を黙らせるが、二度目の呼びかけに、私は甘んじて覚醒を受け入れることにした。

 上半身をゆっくりと起こし、ベッドのふちに腰掛けるように姿勢を変える。朝が苦手な私は、寝ぼけた思考回路に活を入れるために、起きたら最初に軽いストレッチをすることにしている。首から肩にかけて重点的にほぐしていくと、とどこおっていた血流が、せきを切ったように通いだし、じんわりと温かさを感じさせてくれるのが心地よい。

「んーーーっ! よしっ」

 最後に大きく伸びをして、学校へ行く準備を始める。

 準備と言っても、せいぜい朝食と身だしなみくらいだ。私の場合、学校の準備は前日の夜に済ませているうえに、部活動にも所属していないので、かなり余裕をもって登校までの時間を過ごせる。そう、余裕があるからこそ、二度寝が可能であるとも言える。

 愛用の音楽プレーヤーを起動して、好きなアーティストのプレイリストを再生する。

 何度も繰り返し聴いたフレーズを口ずさみながら、クローゼットの扉に手をかけた。スタンダードな紺をベースカラーとしたブレザー、灰色無地のプリーツスカート、しわ一つない真っ白なシャツ、その他にもベストやセーターやカーディガン、リボンにネクタイまで一式そろえられている。制服と言っても、私の通う高校は私服登校が認められているので、学校指定の制服ではない。

彩葉いろは、起きなさーい」

 階下から母の声が聞こえる。

「起きてるってばー」

 寝起きで大声を出すのはできれば遠慮したいのだが、黙ったままだとしびれを切らした母が、着替え中だろうとお構いなしに突入してきてしまう。

 半袖シャツとプリーツスカートに手早く着替える。今日はネクタイの気分だったので、仕上げに赤いネクタイを結んでから、通学用かばんを手に取ると、階段を駆け下りた。

「おはよう」

 階段を下りると、朝食と私のお弁当をすでに準備し終えた母が出迎えてくれた。

「ふぁ、おはよ」

 間抜けな欠伸あくびわずかに顔をのぞかせたが、何とかこらえながら返した。

 そんな私を一瞥いちべつした母が、あきれたように言う。

「顔洗ってきなー。髪もぼさぼさだし――」

「あー、今しようと思ってたとこ」

 これからしようとしていたことを指図され、若干イライラして被せ気味に返事をした。

 洗面所で鏡の前に立つ。

 ああ、なるほど。今日の寝癖は一段と酷かった。母が思わず注意するのもうなずける。ついでに顔もむくみも酷く、まぶたは一重になっている。

 手始めに、洗面台にぬるま湯をめて洗顔をする。次に、軽く髪をらしてから、ブラシを使ってブローしていく。特に、前髪はクセ毛なので入念にかしながら熱を当てるようにする。

 一通り終えて、再び鏡で姿を確認すると、いつもの自分が立っていて安心した。

 その後、食卓に戻って、ゆっくりと朝食のベーコンエッグを味わった。

 七時五十分。すべての準備を終えた私は、お気に入りのブラウンのローファーをいて、玄関扉を勢い良く開け放つと、家の中へ振り返りながら元気良く言い放った。

「じゃ、行ってくるねー」

「いってらっしゃーい」

 閉じていく玄関扉の隙間から、母の声が聞こえてきた。

 外へ出ると、まだ朝だというのに、夏特有のじめじめとした空気が肌にまとわりつく。この調子だと、昼には一層熱くなるのが容易に想像できる。

「はあ……今日って体育ある日じゃん。軽く死ねるなー」

 陽炎かげろうにゆれる通学路を、憂鬱ゆううつになりながら、自転車のペダルをこいだ。



 学校に着くと、駐輪場で私を待つ人物がいた。

「おはよ。チャリ通は朝から大変だね」

 いつもここで待ち合わせしているのだ。分かりきっていることを訊いてくるのは、なかなかに意地が悪い。

「ああ。おはよ」

 その人物とは、私の唯一無二の親友である。人付き合いの苦手な私が、中学の頃に出合った波長が合う唯一の人間。

 そんな彼女は、腰まで届かんとする長くつやのある黒髪が美しく、赤いフレームの眼鏡が似合う、文学少女然とした出で立ちをしている。放課後の夕日に照らされた教室で、一人窓際の席に座って、小説でも読んでいれば様になるだろう。

 一見すると、真面目な優等生とも思えるが、実際のところは、勉強も運動も苦手。特に高校受験のときなんかは大変で、私自身の勉強時間よりも、彼女に勉強を教えている時間のほうが長かったほどだ。

「ま、チャリこぐのなんて、体育に向けたウォーミングアップよ」

 私がシャツの襟元えりもとをパタパタとさせながら、強がりな冗談を返すと、彼女は涼しい顔で微笑ほほえんで見せた。

 駐輪場を見渡し、適当な空いている場所を見つけて自転車を停めると、教室へ向けて並んで歩き出した。

 教室に着くまでの間、お互い言葉を交わすことはなかったが、そんな沈黙さえ心地よく感じる。続かない会話を、無理やりつなげようとはしない。それをする方もされる方も、結果的に気を遣うことになるということを理解しているから。付き合いが長くなるにつれて、お互いがそういったことに気付いて、無駄な気苦労は省かれ、自然体でいられる今の空気感がある。

「じゃ、また放課後ね」

 突然、友人に声をかけられ、いつの間にか、教室の前まで来ていたことに気付いた。

「あー、ごめん。私、放課後行くとこあるんだ。先帰っていいよ」

 そう、私には、あの絵の真相究明という最優先事項がある。

「そ、なら、お言葉に甘えて。昨日オープンした駅前のタピオカ専門店、一人で行ってきちゃおうかな」

 友人のいたずらな笑みを見るのも何度目だろうか。彼女は冗談を言うとき、必ず、文字通りにやりと笑う癖がある。

「じょーだん。明日一緒に行こうね」

「おっけ」

 友人とはクラスが違うので、教室前で別れた。

 朝のホームルーム前で、まだまだ騒がしい教室に踏み入れて、まっすぐに窓際最後列の自分の席へ。

 今日も退屈な授業達が、私を歓迎してくれることだろう。


 *


 晴天の下、わたしは公園の丘の上にイーゼルを立て、静かに一人キャンバスと向き合っていた。

 天気のいい日は、昼食を食べた後にここを訪れ、創作活動にいそしむ。家から歩いて行ける距離にあるこの公園は、車を持たないわたしにとって、道具を担いで行ける数少ない創作の場である。

 草花の香りが風に乗って吹き抜けて、わたしの表面をでていく。この香りを嗅ぐと、母が生きていたころを思い出す。

 わたしの母は病弱で、わたしが中学に上がる前に亡くなってしまった。この公園は、母との数少ない思い出の場所でもある。

 幼いころのわたしは、母にわがままを言って、この公園によく連れてきてもらっていた。丘の上に二人で腰を下ろして、母が作ってくれたお弁当を一緒に食べながら見渡す景色が好きだった。いつもお弁当の中には、具材たっぷりのサンドウィッチがいっぱいに詰め込まれていた。

 お弁当を食べた後は、両手両足をいっぱいに広げて、芝生の上に横になる。そうすると、木々の間を通り抜け、緑を運ぶそよ風が肌を優しく撫でてくれる。そのまま、空を流れる雲を眺めていると眠くなってきて、母の膝枕に顔をうずめるのだ。

 母の優しい声で幸せな眠りから目が覚めて、家路につくころには、あおかった空にはしゅにじんで、雲は紫紺しこんに彩られていた。

 しかし、そんな大好きな景色を見ることも、今では叶わなくなってしまった。

 どうにも厄介な視力の問題が、わたしの中に潜んでいたのだ。視力と言っても少し変わっていて、明るさが失われるのではなく、色彩が失われていく。過去に様々な治療を試してみたが、結局どれも効果はなく、わたしの身体への負担や金銭的な問題もあり、これ以上の治療は止めておこうということになった。医師の話によれば、視力に関して問題は見当たらない、とりあえず盲目になることはないらしい。

 初めて症状を自覚したのは、高校生活が始まって、十六の誕生日を迎えたころだった。朝、目が覚めたとき、はじめは寝ぼけているのかなと思ったのだが、いざ通学路を歩いていると、明らかに景色が色褪いろあせているのを感じた。

 それから、日を追うごとにわたしの世界は色褪せていった。症状の進行が段々と速くなっていることに焦りと底知れぬ不安を感じた。見慣れた景色が、大好きな景色がモノクロになっていくのは怖くもあったが、なにより寂しかった。つらかった。毎晩のように、布団の中で声を出さずに静かに泣いた。そんな姿を母に見つからないように。

 そこでわたしは、完全に色を失う前に、今まで見てきた世界をなんとかして形に遺そうと必死に考えた。

 折角この手にすくい取った色が、指の隙間から静かにこぼれ落ちていくのを、ただ黙って見ているだけは嫌だった。

 焦っていたわたしは、自分の目で見た色を、そのまま記録する手段を手に入れようとした。行き着いたのは、カメラで写し取ること。父からおさがりで貰った一眼レフを携えて、お気に入りの景色を、端から余すことなく写していったのだが、途中で不思議な違和感を覚えた。

 レンズを通した色は、わたしの中で感じている色とは違っていたのだ。

 一度冷静を取り戻したわたしは、また別のやり方を探した。

 次に、わたしは、紙に筆で色を置くことにした。紙の上なら、思い通りに世界を染められる。そう思えた。

 その時はまだよくても、完全に色を失ってしまったら、結局色なんてわからないし、絵なんて描けなくなってしまうのではないか。多くの人は、こう思うだろう。わたしも色を失うまでは同じことを思った。

 しかし、カメラレンズを通した色に違和感を抱いたとき、大事なことに気が付いた。わたしが遺そうとしている色は、目で見ている色なんかじゃなくって、わたしの感性で色づけられた、わたしの中だけに存在する色なのだと。そう、カラーチャートもパレットも、わたしの心にあった。

 たとえ実際の色を再現するにしても、絵具のチューブに色名は書かれているし、それぞれを混ぜる割合でどんな色合いになるかは大体心得ているので、そこまで苦労することはない。

 結果的に、二十の夏に完全に色を失うことになった。これ以上悪趣味な成人祝いはないだろう。

 それでも、現在二十二になったわたしは、こうしてキャンバスと向き合えている。

 たしかに、今のわたしは、わたし以外の人から見たら、正確な色を使えていないことは間違いない。しかし、否定されるとしても、わたしのやり方が間違っているとも思えない。

 それが、わたしにとっての正しい色なのだから。



 過去を思い出して、長く考え事にふけってしまった。

 今日も筆は進まなかった。

 続きはまた明日にしようと片づけを始めようとしたとき、視界の端に手をつないで楽しそうに歩く親子の姿が見えた。

「ママー、明日も来ようねー」

「うーん、天気が良かったら来よっか」

「やった! 早く帰ろ? お腹空いちゃった」

 そんな何気ない会話が聞こえてきた。

 過去の自分と亡き母の姿を重ねてしまう自分がいた。

「夕飯、どうしようかな……」

 一人呟いて、真っ白なキャンバスとイーゼルを片付けると、わたしはとぼとぼと公園を後にした。

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