眩暈がするほどに色彩は淡く

山岸アオ

第1話 一枚の世界

 その絵を観た瞬間に、私は、私の感性を殺された。

 突飛な表現かもしれないが、そう表現することに、違和感など微塵みじんも感じさせないほどの感動があった。

 それと同時に、幸福、安心、驚愕きょうがく、興奮、焦燥しょうそう嫉妬しっと、悲哀、後悔、憧憬しょうけい、期待。様々な感情をごちゃまぜにしたようなものが心の内に満ちていくのを感じた。

 初めて感じる濃密な心の動きになすすべもなく、私はただ飾られた作品に釘付けになっている。

 私の目の前にあるその絵は、間違いなく一枚の絵ではあるのだが、そこにはたしかに一つの世界の存在を感じられる。きっと、画家の脳内そのものというか、心象風景しんしょうふうけいのようなものなのだろう。

 周囲に他の見物人の気配を感じてはいるが、それがどうしたとばかりに、私は絵を眺め続ける。

 描かれているのは、どこかの丘の上からの景色だろうか。足元は草花に彩られているが、どの花も現実には見ないような色合いのものばかりだ。若干灰色を帯びている。そんなグレイッシュな丘の下には、公園のような自然豊かな光景が広がっている。丘の輪郭りんかくに沿うように遊歩道が整備され、その脇には、おしゃれな石造りのベンチと背の高い街灯、そして枝葉が丁寧に切りそろえられた植木が、お行儀よく交互に並んでいる。だが、やはり、それらも私の認識とは異なった色に染まっていた。かろうじて、だいだい色の植木は銀杏いちょう並木と言って通じるかもしれない。遊歩道の奥に目を移すと、池が見える。水面を鏡面として、周囲の景色が映りこみ、風に吹かれて起きた波紋が、その鏡像をゆがめている。さらに公園の向こう、遠景には林立するビル。その密度の高いビル群の隙間から、斜陽しゃようがのぞいていて、ただのビルの並びさえ神々しく感じさせる。見上げると、空は桃色。日の傾きから、夕暮れ時の空を描いているとも思えるが、かわいらしすぎる空だ。深みのあるあい色の積雲が、桃色の空によくえている。

 実在しそうな景色でありながら、チグハグで、不思議な色使いが目を引くその絵は、学校の黒板を三枚、いや四枚合わせたくらいはあるだろう巨大な作品で、装飾の少ない頑丈そうな額縁に収まっている。

 画家の世界に浸りすぎたのか、絵の表面に触れれば、たちまち私の指は絵の中に引き込まれ、そのまま全身を飲み込まれた私は、絵の世界の住人になってしまう。そんな妄想が頭をよぎる。

 この絵を描いたとき、作者は何を見て、何を感じ、想ったのだろう。そう考えれば考えるほどに、不思議と、目の前の絵画世界の色は鮮やかさを増し、私の感性はせていくような錯覚に陥った。

 ここまで熱心に鑑賞しておきながら、目の前にある作品が誰によるものなのかは知らないし、唯一、美術だけは赤点常連の私が画家の名前なんて知るはずがなかった。

「きっと、私とは見ている世界が違うんだろうな」

 展示されている作品に見惚みほれながら、ため息交じりに独りちる。ため息を吐くと幸せが逃げると言うが、美しいものを見ると、ため息がでてしまうのだから、なんだか理不尽だ。

 思ったことをそのまま口に出してしまう悪い癖に辟易へきえきするも、今回ばかりは、他の見物人も同じ気持ちだろうと言い聞かせるようにして誤魔化ごまかす。

 たまたま、何の気なしに立ち寄った小さなギャラリー。個展開催をしらせるような立て看板は見当たらなかったが、何かに引き寄せられるように足を踏み入れたのだった。

 ギャラリー内に展示された作品はたった一枚。五分くらい時間を潰せればと思っていたのだが、気付けば二十分が経過していて、周りにいた数人の見物人は皆帰ってしまったようだ。

 一人残された私も、本来の目的のためギャラリーを後にしなければならない。

「はあ、そろそろ行かないと」

 いつも通りなら、自宅でダラダラしているはずの日曜日の午後。ギャラリーから出た私は、大学受験に向けた模試の会場へ急いだ。

 会場に着くと、ちょうど試験監督が注意事項の説明をし始めたところだった。

 案の定、空いている席は一つなので、机に貼られた受験番号を確認して右往左往することもなく、すんなりと席に着くことができた。お決まりの説明は聞き流して、鉛筆を削ったり、裸のポケットティッシュを準備したり、机の上に戦闘用装備を並べていく。仕上げに左手首から外した腕時計を、見やすい位置に添えると、頬杖をついて試験開始の合図を待った。



 その後、予定通りに進行した試験は、約五時間に及んだ。

 昨日、文系科目を終えているとはいえ、理系科目だけでもなかなかのボリュームだ。

 脳が糖分を求めているのを感じつつ、大きく欠伸あくびをしてから、各科目の点数を大まかに見積もるのが試験後のルーティンであるが、今日は違った。

 昔から勉強は得意な方である。模試だって、これまで志望校の判定を落としたことは一度もない。しかし、今回はそうもいかなそうだった。というのも、数刻前に見た絵のことで思考は埋め尽くされていて、試験問題など、入る余地は無かったのだ。それ故に、結果がかんばしくないのは明白で、ルーティンは意味をなさないだろうと諦めたのだった。



 帰り道。何か甘いものを買おうと思い、コンビニに寄ることにした。

 コンビニ経由だと、少し遠回りして帰ることにはなる。それでも、スイーツのためとなると、ペダルをこぐ脚に力がみなぎった。

 自分が一日よく頑張ったと思えるような日は、こうしてご褒美を買ってから帰ることにしている。毎月のお小遣いでやりくりしなければならないので、頻繁にというわけにはいかないのが、悩みどころである。

 コンビニの店内は閑散としていた。レジ前を通るのを避けて、雑誌売り場経由でスイーツ類のショーケースへ向かう。特に悩むこともなく、商品を手に取り、レジへ向かうと電子マネーで手早く会計を済ませた。

 自転車のカゴにコンビニのレジ袋を入れて、家へ急ぐ。アイスもちゃっかり買ってしまったので、早く帰らなければならない。

 こういう時に限って、自宅目前というところで赤信号が行く手を阻んだ。

「帰ったら何しようかな」

 信号待ちの退屈を紛らわそうと、帰宅後の自分を思い浮かべる。晩ご飯を食べて、お風呂に入って、ベッドに飛び込んだら、大好きなスイーツ片手にネットで動画をあさる。

 そこまで考えたところで、一つやるべきことを思い出す。

「――あの絵」

 試験中、あの絵のことが気になって仕方がなかった私は、帰ったら作者について調べてみようと決意したのだった。

 絵に興味を持ったこともない私を、ここまで魅了する一枚との出会い。一体、作者はどんな人物なんだろうか。とても気になった。できることなら、直接会って話してみたい。そして、訊いてみたい。どうして絵を描こうと思ったのか。どうしたら上手に描けるのか。

「美術の課題……、アドバイス貰えたりしないかな。なんて――」

 たった一枚の絵を見ただけなのに、顔も知らぬ人に期待を膨らませた。あんなすごい絵を描けるのだから、よっぽど才能に恵まれた人物に違いない。

 あれこれと妄想を膨らませていると、信号が青く光った。と同時に勢いよくペダルを踏み込む。首筋を伝う汗が、熱と共に風にさらわれていった。



「ただいまー」

 靴を脱ぎててリビングへ入ると、キッチンの方では母が食事の準備をしているところらしい。

「あら、おかえり。疲れたでしょ。もうすぐご飯できるけど、先にお風呂入ってきてもいいわよ」

 母は、帰宅した私に気が付くと、換気扇の音に負けないように少し声を張ってそう言った。

「ありがと。そうする」

 ついでに、今日のメニューを訊こうかと思ったが、漂ってくる香辛料の効いた香りから察するに、カレー確定だろう。

 二階の自室に荷物を置いて、着替えを準備してから洗面所へ。

 夏場は浴槽にお湯を張ることなく、シャワーで済ませてしまう我が家。今日ばかりは、母が私に気を遣ってくれたようで、浴槽には入浴剤で桃色に染まったお湯が張ってあった。

 浴室は、真っ白な湯気と温かな空気に満たされていて、気分を落ち着いた。数か月ぶりの湯船に浸かって、温もりに身体をゆだねると、四肢の先からじんわりと伝わってくる快感で、疲れが湯船に溶け出していくようだった。

「お母さん、お風呂ありがとね」

 風呂上がり、扇風機の前を占領した私は、コンビニで買ってきたアイスを味わいなら、食卓に食事を並べている母に感謝を告げた。

「お父さん、遅くなるっていうから、先に食べちゃいましょ。ほら、カレー冷めちゃうよ」

 食べかけのアイスを一気に頬張る。冷たさが頭に響くのに耐えつつ返事をする。

「はーい」

 至福の扇風機タイムは、カレーの感性と共に終わりを告げたのだった。

「いただきます」

「いただきまーす」

 福神漬けは付けない派。カレーをライスに絡めて、一口で頬張ほおばる。我が家のカレーは、私が小さいころから辛口だった。小学校を卒業するまでは、カレーが食卓に並ぶ日が憂鬱ゆううつで、目に涙を浮かべながら食べたものだ。そんな私に、母は決まってこう言った。辛さは痛みだから、辛い物を食べれば強くなれるのよ。おかげさまで、辛い食べ物は得意になったものの、実際に強くなったのかは不明である。

「ねえ、お母さん。……小さいころの私ってさ、絵を描いたりなんてしてた?」

 絵の才能は、幼少期から絵に親しんでいたかどうかが岐路となるという話をよく聞く。そんな通説を信じたわけではないが、なんとなく気になった。

「どうしたの? 突然、絵なんて」

 当然、母は、私の美術の成績がいかに悪いか知っている。私が突然、絵がどうのこうのと言い出せば、驚くのも仕方ない。

 目を丸くしている母に、視線で答えを促す。

「――そうねえ。よくお父さんとお母さんのこと描いてくれたじゃない。でも、それ以外は見たことないわね。あんた、案外家にこもってるよりも、外で走り回ってることの方が多かったし」

 薄々感づいてはいたが、私に限っては通説通りの結果で、少しショックだった。

「何かあった?」

 そんな、夏なのに明日は雪が降るんじゃないか、みたいな顔をされても困る。私は至極真面目なのだから。可愛い娘が、幅広く興味を持つことを喜んでほしいものだ。

「ん、なんでもない」

 私がそっけない返事を返すと、会話はそこで途絶えた。

 テレビから聞こえる芸人の笑い声と扇風機の音が、やけに大きく聞こえる気がした。

 黙々とカレーを口に運ぶ。母は私を見てニヤニヤしている。気味が悪いったらありゃしない。あれは母が何か企んでいるときの顔だ。私が絵を話題に出したことが、相当お気に召したのだろう。

「ごちそうさまー」

 食器を片付けたら、冷蔵庫からお楽しみのコンビニスイーツを取り出して自室へ。

 まずは、今日の試験問題を整理して棚へしまったら、明日の授業の準備。ちなみに、明日からの一週間を乗り切れば、待ちに待った夏休みだ。とはいっても、自称進学校が、我々受験生に課す勉強ノルマは膨大なもので、素直に喜べないし、ため息が出る。課題内容は、二週間ほど前には周知されていたこともあり、前もって進めている者も多い。休み時間中に取り組む者や、授業中にこっそり内職する者、放課後に居残ってまで進めている者、はたまた徹夜で終わらせてきたなんていう猛者もさもいる。

 一通り準備を終え、右手にスマホを左手にはスイーツを。動画視聴アプリを起動して、睡眠のオトモに良さそうな動画を探す。私は眠るときに、動画を流しっぱなしにして眠るのだが、それ用の動画を探しているこの時間が、最も一日の終わりを感じる時間である。

「今日はこれかな」

 様々なジャンルの動画をじっくりと吟味した末、本日の一本はホラーゲーム実況動画に決まった。

 多くの人はこう思うだろう。そんな動画を流しながらで、本当に眠れるのか。しかし、私にとっては、騒がしい動画であればあるほど、それは立派な睡眠導入となるのだ。

 私ほどではないにせよ、静かな空間は落ち着かないと感じる人は珍しくないだろう。音のない空間で、何気なく感じる正体不明の気配、それは、忍び寄る孤独という恐怖の具現化のようで、そんな孤独をまぎらわせるためにどうするかを考えたところ、行き着いた答えが人間の話し声であり、手軽なもので動画を再生することにしたのだ。

 動画選出が済んだところで、今日はもう一つすべきことがある。ブラウザを開いて、検索窓に入力する。

「画家 個展 七月」

 検索結果の最も上に出てきたサイトにアクセスしてみる。芸術関連のイベントをカレンダーにまとめてあるサイトで、一か月ごとにイベントスケジュールが確認できるようだ。

 今日開催されていたイベントを確認するも、そこに在ったのは空白。手掛かりはなかった。SNSでもキーワードで探ってみたが、それらしい情報は見つけられなかった。

 それでも、諦めるわけにはいかない。あの絵は確かに存在して、私の目に強烈に焼き付いているのだから。

 私は、明日の放課後に、もう一度あのギャラリーを訪れてみようと心に決めて消灯すると、実況プレイ動画の叫び声を子守歌にして、眠りにつくのであった。

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