白銀と鮮血

有塩 月

白銀と鮮血

 この町には殺人犯が  いる。それは  彼女。


 白い吐息が自分の魂みたいだと他人事のように思った。

 雪が純白に煌めいて、汚してはいけないもののように神々しい。


 血液が、生命が、滔々と脇腹から流れる。肉体は激しく痛みを訴えているのに、意識は妙に冷静で。体から温度が急速に失われていくのに、刺された箇所だけは異様に熱を持っていて気持ちが悪い。鼓動はやたらと早いBPMを刻み、心音は驚くほどに唸り声をあげている。


 赤い鮮血が白い積雪に映えていて美しかった。ゆっくりと、珈琲の染みのように血が雪の絨毯に広がり、それと共に僕の体も沈む。


 目線を上げると、僕に馬乗りになったまま涙目な彼女。手には包丁を携えている。

「――ごめんなさい」

 何を謝ることがあると言うのだろう。心の隅でこうなることはわかっていたはずなのに。

 彼女の目から涙が零れて、僕の頬に落ちる。それを合図に、腕を振り上げる。


 一瞬、それが雪と同じように綺麗に、とても綺麗に、白銀に、煌めいて。僕は一生その輝きを忘れないだろう。


 命の危険を感じるとこれまでことがフラッシュバックするというのは本当らしい。俗に言う走馬灯だ。なぜこうなったのか――。


 ――あれは半年前のことか。

「私、殺人鬼なの」

「奇遇だね、僕もだよ」


 冬よりも、夏の方が夜は深いと思う。

 濡れたアスファルト。光を反射して輝く雨粒。雨が降る夜更け。

 ただでさえ蒸し暑い熱帯夜が、更に湿度が高まり鬱陶しさを増していた。周囲に人はいない。むしろ、雨の音しか聞こえず、世界に生命が消え去ったのかと勘違いする。


「面白い冗談だね。こんな状況で軽口が吐けるって凄いと思うよ」

 どうやら受けたらしい。目の前にいるレインコートの女の子はおかしそうに笑っている。


 傘の代わりに手に持っているのは、包丁。街灯の下に露になっているそれは、日常で見かける器具。しかしこの場この時においては違和感を拭えず、威圧感を醸している。場違いにも綺麗だと思った。よくみると先端に赤い液体が付着していることに気づく。視線を落とすと彼女の足元には人影がある。


「あぁ、この人? もう死んでるよ」

 こともなげに言う。当たり前のように。


「でも困ったな。こんな所誰も通らないと思ったのに。非行少年って奴? ダメだよ11時までに帰らなきゃ」

 子供に諭す大人みたいだ。正論ではあるが状況を考えると非常に奇妙だ。


「よく童顔だと言われるけど、これでも大学生だよ。そもそも君に言われたくないね」

「あれ、そうなの? 私も大学生だから外出してても問題ないよ」

 重要なのは年齢ではないと思うのだが。話が噛み合わない。随分と頓珍漢な返答をする。


「年齢の問題ではなく、殺人犯に言われたくないってこと。それに君は女の子だろ、何かあったらどうするんだ?」

「君もおかしいね。包丁を持っている人が目の前にいるのにその人の心配するなんて」

「女の子には優しくしろって家訓にあるから」

「やっぱりおかしい」

 僕もこの状況で凶器を持っている人物を心配して、軽口を叩いている時点でそう言われても仕方ないのかもしれない。


「けど、どうして私が殺人犯だって言うのさ。間違ってたら名誉毀損だよ」

「今しがた、私、殺人鬼なのって自己紹介しただろ」

「冗談だよ。君も冗談で返してきたじゃない。奇遇だねって」

「君の足元に死体と、血液が付着した凶器を持っているという状況証拠が揃ってるけど」

「おもちゃの包丁に赤い絵の具を付けて徘徊していた、可愛い女子大生が死体を見つけちゃっただけかも知れない」

 滅茶苦茶な反論だ。事実だったとしても迷惑防止条例に引っ掛かりそうな気がする。


「無理がない? その反論。どっからどう見ても赤い絵の具には見えないけど」

「確認して血液だと分かるまでは血液であるかもしれないし血液でないかもしれない。シュレディンガーの猫ならぬ血液だよ!」


 シュレーディンガーもそんな理論を提唱したことにされて、草葉の影で泣いているだろう。そもそも、その理論は量子力学の確率解釈における重ね合わせの状態への反論であって、確認するまでは何事もわからないといったことではない。


 というか、会話の中で何回血液って言ってるんだろう。医者でもなければ日常でその単語を言う機会はなかなかないと思う。一生とまではなくとも数年分ぐらいは言ったんじゃないか。


「あと推定無罪です。有罪だと判決されていないので無罪と推定されます。だから殺人犯よばわりはひどいよ!」


 鼻息荒く、ビシッと人差し指を真っ直ぐに突きつけて、何故か誇らしげに告げてくる。凄まじく阿呆な理屈でどこからどこから突っ込めばいいのか分からないが、とりあえず目の前の人間が馬鹿だということはわかった。

 自分から自己紹介しといて、殺人犯よばわりするな、だなんてそれこそひどい話だ。


「なら国家権力に君が殺人犯かどうか確かめてもらうとしよう」

 善良な一市民として、スマートフォンを取り出して110番しようとする。


「ストップ! ストップ! そ、それは、その、ねぇ? 良くないと思います」

「何がよくないのか分からないや」


 僕が止めようとしないと、そそくさと近づいてきて、スマートフォンを取ろうとしてくる。手を上に掲げると、それに追従するようにジャンプして取ろうとする。実に笑いを誘う姿だ。だけど包丁を持ったまま、目の前を動き回られると非常に怖い。動かしているのは僕だが。


 距離が近くなって気がついたことだが、よく目を凝らすと返り血が頬と手に付いている。

「まぁ、君が馬鹿な殺人犯だってことだけはよくわかったよ」

 頬に生暖かい目を向ける。

「な、なんのことでしょう」

 視線を逸らして、包丁を後ろ手で隠し、手の甲で頬を拭う。


「やっぱり血は拭っても簡単にとれないか」

「血って言ってるじゃないか。それにこんな所誰も通らないと思ったのにって台詞はやましいことがないとでてこないだろ」

 指摘すると観念したように溜め息を吐いた。

「君は名探偵だね。見破られるとは……」

「いや、悔しそうな顔をしているけど、自分から正体を明かしてたからね?」

 これで名探偵と言われるなら人類の大半はシャーロックホームズになれる。犯人が最初から自供するとは、不出来なミステリーだ。


「誤算だったな。まさか目撃されるなんて。君を殺せばいいのかな」

 手に持っている物をこちらに向けてくる。殺意を伴い鈍く光輝いて、無機質で、冷徹な印象を与える。

「黙っておくから目の前の好青年を見逃そう」

「目の前には意地悪な童顔の男性しかいないよ」

「それは一体誰だろうね。僕は優しい顔つきのダンディーな男だと自負しているから人違いだと思うけど」

「精神科を勧めようか?」

 一番、精神科への通院が必要な人物に勧められてしまった。正常で常識的で一般的な人間だと自負しているので、大変に不服だ。死体の目の前で冗談を言い合うこのシチュエーションは特殊ではあるが。


「僕が意地悪に見えるなら、眼科に行った方がいいね。もしくは留置場がふさわしい」

「その冗談は面白くないなぁ」

「前者はともかく後者は本気で言ってるけど」

「見逃されたくないの?」


 事実を言っただけなのに、眼前に突きつけられる。いつの世も正しいことを言う人物は評価されないという好例だ。生前のメンデルやアリスタルコスの気持ちが分かる気がする。

 ともかく、これ以上刺激するのは不味い。


「一目見ただけでわかる。君は高潔で高尚な精神を持つ素晴らしい淑女だ。君に似合う場所はバッキンガム宮殿かノイシュバンシュタイン城だろうね」

「凄く棒読み。そしてプライドはないの」

「プライドに命を懸けるほど大層な人生は歩んでないよ」

 反論すると、何故か呆れたように突きだしていた腕を下ろしてくれた。嬉しいが呆れた表情をされたのは納得が行かない。


「まぁいいや、いい話相手になってくれたから見逃してあげる」

 意外とあっさり見逃してくれるみたいだ。

「普通、こういう時は口封じするものじゃないのか? されたくはないけど」

「だって私は普通じゃないもの」

「……どんな偉人の言葉よりも説得力がある」

 むしろこれで、普通だと言われても困る。


「なら、僕はもう帰ってもいい? 帰って録画してた番組を見たい」

「夜道には気をつけてね。ニュースでやってたけど、ここら辺で殺人事件が多発してるみたいだから」

 それを君に言われるとは。

「ご忠告どうも。殺人鬼に出くわさないうちに退散するよ」

「うんうん」

「そうだ、君も気をつけて。……犯人もまだ捕まってないようだから」

 そう言うと驚いたように目を丸くして、直後に声を押し殺したように笑った。

「優しいね。狂ってるの?」

「そうだね。そうかもしれない。とりあえずお言葉に甘えて僕は帰る。もう会わないことを願うよ」


 彼女に背を向けて歩きだそうとした瞬間、後ろから腹部を貫かれる感触が。……なんてこともなかった。

 家につく頃には雨は止んでいて、満月が顔を覗かせていた。


 蒸し暑さを誤魔化すように窓を開け、冷蔵庫からお酒を取り出し、録画してた番組を流してソファーに体を投げ出す。TVの音声は耳に入らず、秒針の音がやけに耳障りだ。見ると、時刻は三時を過ぎていた。


 短針が一周して酔いも回った頃、ベッドで漏れた月明かりに照らされる部屋を見ていた。風が吹いてカーテンが揺れる。夜空が広がり月が見えた。


 とても、綺麗な月だった。

 彼女ともう会うことはないだろう。そう思いながら瞼を閉じた。


 半月も経たないうちに再会した。神は僕を見捨てたようだ。


「再会するとはね。運命の出会いかも」


 悪戯めいた表情。人によっては魅力的な表情で、言葉だけ聞けば甘美な響きだ。だけど僕にとっては悪魔の契約、死神の宣告もかくや、というほどに最悪な台詞だ。


「運命を呪いたい気分だよ」

「美少女に出会えたのに?」

「生憎、鏡は持ってない。それに枕詞に犯人のってつかなければよかったよ」

「犯人の美少女っていい響きでしょ。女は秘密の一つや二つを持っていた方が輝くっておばあちゃんが言ってた」

「秘密が大きすぎる。祖母もそんな解釈をされて心外だろうね」


 彼女はぼくの発言などどこ吹く風で、感慨深そうに言う。

「まさか、同じ大学に通ってるとは思わないよねぇ」

「本当だよ。飲み会に来たことを後悔してる」

「君が飲み会とかに参加するとは意外。友人とかいなさそうだもの」

「失礼だな。こうなると分かってたら絶対に参加しなかった」


 まさか、友人に誘われた飲み会で、殺人犯と再会して、あまつさえ同じ大学の先輩だったなんて誰が想像するというのだろう。


「しかし、あれから誰にも言ってないようで安心したよ」

 確かに警察に通報しなかった。なぜ、と問われても困ってしまうが。

「僕は君が捕まってなくて不安が募るよ」

「あはは。だよね。しっかり警察には働いてほしいよ。私は困るけど」


 そう言うと一転して、真面目な表情になり僕に顔を近づける。

「私たち付き合ってみようか」

 表情だけでなく話まで一転した。

「話が飛んだね。もう酔ったのか。笑えないブラックジョークはやめてほしい」

「告白しただけでブラックジョーク扱いはそれこそやめてほしいなぁ。いやまぁ、ただの気まぐれだよ気まぐれ。暇潰し」

「随分と、誠実ではない理由だね」

「理由が必要? なら運命を感じたからだよ。または一目惚れ。好きな理由をどうぞ」

「ひどい告白だ。僕よりも警察に罪を告白してほしいね」

「いいでしょどんな理由でも。納得できる理由を喋ったところで、真実かどうかなんて分からないじゃない。納得が欲しいだけなら自分で理由をつけて」


 それはその通りだ。他人がどう行動しようと当人以外には、本当にその行動をした理由など分からず、結局それに納得がいく理由を当てはめているだけなのだから。


「どう? 付き合うの付き合わないの? 付き合わないなら殺しちゃうけど」

 究極の二択すぎる。こんな緊張感のある告白を受けた人物はいるのだろうか。

「それは困る。なら、付き合うとしよう」

「君こそひどい告白の受け方だね」

「知ってる? 告白ではなく脅迫って言うってことを」

「どちらでもいいよ。とりあえず言質をとったからね」

 一拍おいて、判決を下す裁判官のように仰々しく告げた。

「私たち、付き合いましょう」

 そして僕たちの交際関係が始まった。


 「君はよく捕まらないものだね。日本の警察は優秀だと聞くけど」


 夜が深みを帯びてきた頃、彼女の家で珈琲を飲みつつふと思い立って聞いてみた。


 TVではこの町で起こった連続殺人事件のニュースをやっていた。また死体が見つかったようだ。キャスターが神妙な面持ちで原稿を読み上げ、専門家が犯人の心理についてありきたりなことをいっている。


 実情を知っているとどことなく滑稽だ。

 この事件の


「ね~。警察の怠慢だよ。税金泥棒って言われても仕方ないね」


 珍しく意見が一致した。全くだ。公僕として国民のためにも、警察の威信をかけて全力で逮捕してほしいところだ。ただ、そうなると通報してない僕も犯罪幇助になりそうな気もする。そうなったら黙秘権の行使と脅迫されていたと言って乗り切ろう。


「でも、そこら辺はよくわからないや。もしかしたら警察の魔の手がすぐそこにせまっててたりして。この家のチャイムを押す寸前かも」

 魔の手というよりも、法の鉄槌といったほうが良い。


「隠蔽や後始末ってたいへんじゃないの」

「だね。包丁とレインコートはクローゼットの中にあるよ。何回か使ったらダメになるからそしたら買い換えるかな。出費がかさむよ」


 珈琲を吹き出しそうになった。杜撰にも程がある前々から思っていたが計画性がなさすぎる。いやむしろ、これぐらい突発的な方が捕まりにくいものなのだろうか。


「驚いてるけど、いくらステンレスでも何階かしたら使い物にならなくなるの。でも捨てる訳にも行かないからクローゼット」

「そこに驚いたわけじゃない。君の行動だ。包丁ってそこまで頻繁に買い換えるものでもないだろ。そこから足がつくとか考えないのか」

「考えたことないや。一応、別々の店舗で買ったりはしてるけど」

「……色々と呆れた」


 そういえば、何かの本で読んだことがある。最も捕まりにくいのは、完璧な計画殺人よりも無計画な通り魔だと。


 ミステリーだと、被害者は毎回凝った方法で殺害されいても、基本的に犯人は被害者に関係の深い人物で、動機もハッキリしている場合が大半なので、推理自体は難しくとも、確実に逮捕できる材料は揃っている。

 ましてやトリックを暴かれたら大半の犯人は白状するものだから。


 まぁ、考えてみなくても、いくら計画的とはいえ関係の深い人物より、無差別に無関係の人物を殺すほうが明るみになりにくいのはその通りだとは思う。


 現状、殺害されているのは彼女と関係のない人物で、犯行時の凶器はクローゼットに隠させており、かつ目撃者も僕を除いて恐らくいない。前科等もないのだから指紋やDNAはデータベースにないだろう。


 存外、疑われにくいものなのか。こういった通り魔の類例で犯人が女性なのは稀らしいし。


 といってもこれだけの間、ここまで杜撰で捕まらないのもおかしな話かもしれないが。少なくとも捜査線上に上がればすぐに手錠をかけられるだろう。短い間隔で買っている包丁のレシートや、犯行時でなくとも、夜半に外出している所を見た目撃者がいればそこから足がつくだろう。家宅捜査されたら一発でアウトだ。


 しかし、流石に剥き出しで保管しているわけではないだろうが、一般家庭のクローゼットの中におびただしい量の包丁があるのは想像したくない。ステテコやお金ではなく包丁がでてきたら勇者もビックリするだろう。不法侵入と器物破損で勇者も逮捕だけど。


「それにしてもどうして、いきなりそんなことを聞いてきたの」

「なんとなく気になって」

「そんなことを気にするなんてね。普通はなんでこんなことをするのかを聞くと思うけど」

「君に普通を説かれたくない。でも、不思議に思ったことがなかった。どうして君はこんなことをするのか」

「それこそなんとなくだよ。情動と衝動を抱えて、それを消化するためにやってるのかも。多分、大した理由はないよ。食事や睡眠と一緒で、私はやらないと生きられない。特別な原因も理由もないけれど、私は恐らく世間から見たら根っこからおかしいってだけかも。君が好きな理由を付ければいい」


 理由を求めることは愚かなことだ。彼女がそう言うのならばそうなのだろう。彼女が殺人犯だということ、その結果のみで充分だ。

 誰にでも異常な所はあって、それがたまたま殺人情動であっただけだ。誰もが焦げつくような飢えや焼けつくような渇きを持っていてそれを癒すための手段がその行為だっただけだ。


 彼女が捕まったら、世間はそれらしい理由を探してもっともらしいことを言うだろう。まったくもって馬鹿馬鹿しい。

 つまるところ理由も意味も在るものではなく付けるものということだ。在ったところでどうにもなるわけでもない。


 僕は彼女の生い立ちを知っているわけではないから、こうなったことに大した原因はないのかもしれないしあるのかもしれない。それを知ることもなければ必要もない。


 ただ言えることは人は正常な環境であっても異常になり得るし、異常な環境であっても正常であることができる。つまりそういうことだ。唾棄されるか賛美されるかの違いはあってもどちらも歪んでいるとは思うが。


 異常な原因で異常な人間が生まれるならいっそ物語的で筋が通っている。

 物語は往々にして、理解や共感ができる行動理由がキャラクターにはあって、原因と結果、理由と行動が繋がっている。そこに歪みは極力削除される。


 でも、現実はそうじゃない。一貫性のある人物は少ないし、明確な行動理由なんてものはない。大したことはなくとも、気まぐれやなんとなくで人は重大な行動を起こせる。天気が良いから飛び降りることがあっても、猫が鳴いたから誰かを陥れてもいい。それは当人しかわからないことだ。


「私からも二つ質問いいかな。どうして、君は通報しないの」

「なんとなくかな。君が好きな理由を付ければいいよ」

「なら、君は私のことを愛してる?」

「なに、急に」

「恋人が二人きりになって、私のこと愛してるって聞くのはおかしいことじゃないと思う」

「はいはい愛してるよ。大体君はどうなんだ」

「いやぁ、愛してるよ。殺したいぐらいに」

「……君が言うと洒落にならないな」


 会話が一段落すると彼女は出掛けていった。彼女は犯行をするとき決まって雨の日にする。僕と出会った日や……今日みたいな日に。雨だから痕跡が流されやすいとか、そんなことは考えてはいないだろう。そこに考えが回るならもっと慎重に行動するはずだ。それもなんとなくだろう。


 会った当初はそこまででなかったものの、最

近は出かける間隔が短くなっている。

 僕は彼女の帰りを待たず、眠りに入った。


 夜中、声がして目が覚めた。横を見ると彼女が寝ている。いつの間にか帰ったらしい。悪夢を見ているのか尋常ではない汗をかき、苦悶の表情を浮かべ、魘されている。これも最近増えたことだ。どうしようもない。


「おかえり、おやすみなさい」

 寝ている彼女にそう言って、また微睡みに包まれた。


 冬。出会ってから半年後。半年も持てばいいほうだろう。結局、耐えられなかったというわけだ。どうしようもなく、殺人衝動を抱えた狂った快楽主義者だった。前に言っていた通り、人を殺さないと餓えて死ぬ人種らしい。とうに限界はきていて、その兆候もあった。うなされることも、雨の日の夜更けに出かける頻度も高くなっていたのがそれだ。


 つまるところ彼女は僕を殺したくてたまらなかった。その欲が決壊しただけだ。別に僕が憎いわけではないと思いたい。真っ当に不当に、健全に不健全に、恋人として僕を愛してくれていただろう。文字通り殺したい程に。そこに理解や共感を挟む余地はない。劇的な理由もなく、明確な動機もなく、そうしないと生きられないだけだろう。有り体に言えば病気だ。死に至る病でなく、殺害に至る病に彼女はかかっている。


 だから、僕を殺そうとした。それが、愚かな僕たちの愚かな結末。ドラマチックでもなければ起も承も転もない、不出来な物語の劇的でない結末。


 雪の降る夜に彼女に呼び出された。何の用件で呼び出したか、確信に近い予想をしていたというのに、僕の足は勝手に待ち合わせた場所に向かっていた。


「あぁ、もう来てたのか。待たせた?」

 街灯がスポットライトの様に彼女を照らしていて、馬鹿げた喜劇の舞台演出に見える。雪はこれから始まる惨劇を知っているのか寂しそうに足跡を描く。登場人物は僕と彼女。


「いや、そこまで待ってないよ。……カップルみたいなやりとりだね」

「カップルだからね」

 軽口を叩く。最初に会った時を思い出す。その日は雨が降っていた。

「それで、用件は?」

「うん、それは……」

 そう言うと、俯き、彼女は。

「さようなら」

 僕の腹部にそれを突き刺した。


 ……あぁ存外、刺されるというものは凄まじい。刺された一瞬こそ、他人事の様にそれをまじまじと見ていたが、やられたことを脳が知覚した途端に、全身から洪水の如く脂汗が噴出して、悪寒が這いずり回り鳥肌を立たせ、眼球の奥が火口の様に熱くなり涙が溢れ、心臓は暴れ吐きそうなほどの息苦しさが付きまとってくる。たまらず体を折って倒れる。


 彼女はマウントポジションを取って、腕を振り上げる。本能的に目を背ける。だけど、いつまでたっても新しい痛みはやってこない。


 彼女を見上げるとその目からは滂沱の涙が溢れていた。慟哭にも見える表情だ。それが網膜に張り付いた瞬間、意識は解離して、依然として痛みは続いているが、脳味噌は悲鳴を上げなくなり冷却された。僕の視線は彼女に注がれたまま固定される。


 腕を振り上げたまま涙を流している。


 風の音だけが聞こえて、牡丹雪が舞って、世界がスローモーションになった。


 その手は小刻みに震え、その度に包丁が光を反射して輝く。


 何故か、この時この場所の全てが尊いものにえた。街灯も、雪も、風の音も、流れる血液さえも、そして彼女も。本当に本当に、美しい。


「……ごめんなさい」

 彼女が囁く。その言葉すら愛おしい。謝ることはないはずだ、こうなることは会ったころから分かっていたのだから。


 彼女の涙が僕の頬に触れる。それは雪のように冷たく、美しい。


 そして白銀が――眼前に迫る。


 僕も呟こう。さようならと。僕と彼女はよく似ている。


 ……疲れてへたりこんでしまっていた。先ほどの感覚が未だにまざまざと、現実として手の中に残っている。肉を刺し筋繊維を切る生々しい触感と、絡み付くような血液の温かさ。


 体を起こす。ひとまず人が来る前にここから離れなければ。しかし、今回は派手にやってしまった。今度こそ捕まるかもしれない。確実に犯行を疑われるのは間違いないのだから。それでもって、現場には雪によってできた足跡。


 ともあれ、この場所に留まるのは不味い。自分の家に帰って逃走の準備をしようか? 夜更けだから、そうそう人に会わないだろうが会ってしまったら最悪だ。服に大量の血液がついている。だけど帰るしかないか。


 体は痛む。頭は揺れ、思うように体が動かない。血液が不足していて、足取りが覚束ない。足跡以外にも、争った時に血痕や皮膚も現場に残っている。そして腹部からまだ流れている血が足取りを表す。このままだと医者にもかかれない上に、色々なとこから足がつく。誰かに目撃されないとも限らない。更に被害者は自分に近しい人物で、ミステリー的には捕まる要素しかない。いわゆる詰みというやつだ。どこかおかしくて笑ってしまった。


 バタフライナイフを拾いポケットに入れる。既に事切れた彼女を見る。首筋から血がでて安らかに眠っていた。

 これが愚者達の結末。狂った交際関係の終演。どうしようもなく、殺人衝動を抱えた快楽主義者達だった。


 言ったはずだ。『奇遇だね、僕もだよ』『君も気をつけて。……それに殺人犯もまだ捕まってないみたいだから』と。


 最初から分かることだった。そもそも警察だって馬鹿ではない。連続殺人犯が男女別々に存在しなければ今頃捕まえていられただろう。


 何故、夜更けに出会ったのか。ニュースにでてくる犯人。彼女を通報しなかったこと。理由を少し考えれば分かることだ。……まぁ本当は大した理由はなく気まぐれだけど。理由を求めるのは他者の仕事だ。


「さようなら」僕と彼女はよく似ていた。


 どこへとも分からず重い体で歩きだす。

 白い息が昇っては空に溶けていく。

 ポケットの中からナイフを取り出す。刃が白銀に煌めいて、鮮血に塗れている。

 雪は止み、雲は晴れ、月だけが僕を見つめていた。僕のやったことを見つめていた。


 この町には殺人犯が二人いた。それは僕と彼女だった。

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