第11話 天使のような人

「今、何か……」


 夕暮れの背景に、大きな翼のシルエットが浮かんだような気がするが、先程蛍からあのような話を聞いたからだろう。多分気のせいだ。

 そういえば、普通に流してしまったが夜拆さんについて蛍に聞いた時、「記憶をなくしたから原因を探ってる」とか言っていた気がする。あれはなんだったんだろう。今度聞いてみよう。

 何にしろ、そろそろ帰らないといけない。今日の夕食当番は私なのだ。


「ただいまー」

 早速煮込みうどんを作ろうとリビングに入ればソファに寝転がって夕方放送のアニメを見ている兄と目が合った。


「おかえり」

「早かったね」

「仕事が早く終わったからな。俺も今帰ってきたとこ」


 冷蔵庫には、うどんがもうほとんどなかった。定期的に補充しておかなくてはならない。明日買いに行こう。代わりに賞味期限が1日過ぎたハムが大量にあったので傘増しにつぎ込む。


「夏夜、最近遅いけど新しい友達出来たのか」

「そんなとこだよ」

「風呂掃除やってくれるなら夕食は全部俺がやるけど」

「いや、いいよ。決めた事だし」


 それきり、無言でうどんを啜る。基本的にはいつもこうだ。気まずい仲でないのなら、無理に会話の糸口を探る必要もない。


「お兄ちゃんは、推理ドラマみたいに殺人事件に首突っ込んだりしないの?」だけど今日は、ある話題に持っていくために話を持ちかける。


「下手したら捕まるだろそれ。私立探偵が勝手に現場に乗り込むなんて不審者じゃないか。それに事件の推理なんてしょっちゅうやってられないよ」


 確かにそうか。兄は推理オタクではないし、猫探しや浮気調査の方が性に合うらしい。


「なら、警察沙汰にしたくない人が事件を持ち込んできたら?」

「それは受けるよ。けど事件が起きるのを心待ちにしたりはしない。事件が起きるということは、被害者がいるということだからな」


 よかった。兄はそういう人だ。困っている人は助けるけど、そんな自分に酔ったりしない。試しに、ひとつ気になることを聞いてみる。


「例えば、記憶をなくしたから思い出す手掛かりを探して欲しいっていうのは?」

「俺に出来る範囲なら。そんな依頼は来たこともないけどな」


 それなら、安心して紹介できる。小説のネタ提供のお礼くらいにはなるだろう。不謹慎かもしれないが、記憶喪失の人からの依頼なんてそうそうあるものじゃない。私も小説家志望の人間として事の成り行きにはとても興味がある。


「依頼引き受けて失敗した事ってある?」

「……今のところはないな」

「さすがだね」

「探偵の名に傷がつくからな。それに、自分の精神安定のためにも」


 そう言ってポケットから出した質素なデザインの名刺には南雲探偵事務所の文字と兄の名前。

 南雲 しの。本名ですかと、たまに聞かれるらしい。



 お風呂に入って、雪蛍さんに勧められた本も読み終わって寝るには少し早いと感じながら原稿用紙を手に取った。兄は深夜アニメの神回に備えて2時まで仮眠を取るつもりらしい。尊敬すら覚えるアニオタ精神だ。

 その時、窓を叩く音が聞こえた。ベランダに誰かがいる? しかしここはマンションの5階だ。

 少し考えて、聞かなかった事にした。


「こんばんはー!」

「うわっ!?」


 カーテンの向こうから少女の声が聞こえた。だけど当然、誰だか心当たりがない。思い切ってカーテンを一気に全開にする。


「あ、夜分遅くにすみません! 南雲夏夜さんですか?」


 そこには、蛍光灯の光を受けて白く輝く羽を広げた、中学生ほどの金髪の少女が裸足で立っていた。白い七分袖の服とズボンを纏い、向日葵のような暖かい色の目を輝かせて純粋無垢な笑顔を見せるその子は、蛍の話で聞いた以上に、使だった。


「初めまして、夕方に見た時から少し気になってたんです。私、緋鞠ひまりって言います!」


 ベランダに突然舞い降りた天使は、そう言って笑った。


「私の名前、蛍から聞いたんですか?」

 立ち話も何だからと、部屋に上げて緑茶を淹れる。狭くはない自室だが、彼女の大きな羽が面積の半分以上を占領しているので少し窮屈になる。


「はい、本当は今日の夕方、見かけた時に話しかけたかったんですが……。帰りがけで、急いでるみたいだったので」

「それで今なのね」


 会ってみたいのは私もだったが、まさか向こうから来てくれるなんて。嬉しい誤算だった。


華花はるかちゃんも連れてこられればよかったんですが、あの子人見知りで。いい子なんですけどね。あ、私達のこと蛍とかから聞いてますか?」

「はい、聞いてますよ。緋鞠さんは思った以上に天使っぽくてびっくりしました。華花さんは……妖精、だとか」

「天使だなんて、ちょっと恥ずかしいですー。華花ちゃんは妖精です。聞いてるかもしれませんが、私も妖精なんです!」

「……それは聞いてないですね」


 文字通り天使のような見た目で、妖精とは。ますます妖精の定義が気になる。


「妖精の定義って何なんですか?」

「……いやー私もよく知らないんです」

「えっ」


 あまりの事に、拍子抜けた声が出た。


「華花ちゃんには羽生えてませんし、見た目も全然違うんです。立ってるだけならただの人間に見えます。だからこれが妖精! って上手く説明出来ないんですよ。人間だって、「普通の人」の定義を聞かれても答えるの難しいでしょう?」

「確かに……そうですね」


 それなら、蛍の「雪蛍に聞け」は、雪蛍さんなら上手く説明出来るという意味だろうか。


「それはともかく、私は今日、あなたとお友達になりたくて来たんです」

「あ、はい。そうじゃないかなって思ってました。私も、実は話を聞いた時から友達になりたいと思ってたんです」


 そう言うと、緋鞠さんは長い金髪を揺らして目を宝石みたいに輝かせた。


「本当ですか! なら、夏夜ちゃんって呼んでいいですか?」

「はい。私も緋鞠ちゃんって呼んでいいですか?」

「はい、もちろん! 人間と友達になってみたかったんです! よろしくね、夏夜ちゃん!」

「こちらこそ、緋鞠ちゃん」


 緋鞠ちゃんはお近づきの印にと、自分の羽を1枚抜いて差し出してきた。両手のひらに乗せてもまだ長さのあるそれは、部屋の明かりを受けて光り輝いていた。



「こんな夜遅くにごめんね。楽しかったよ」

「私も、楽しかったよ。白雪山に行けば緋鞠ちゃんに会える?」

「会える会える! いつも華花ちゃんといるから、その時は紹介するね」


 ありがとうと返すと、緋鞠ちゃんはおもむろに窓を開けベランダの塀からめいっぱい翼を広げて飛び立ち、夜の闇に溶け込むように消えていった。

 この数十分の幻想のような出来事が現実だったと、手に乗せたままの大きな羽根が物語っていた。



 次の日、珍しく1人でお弁当を食べる藤原君を見かけた。見渡しても白刃君は見当たらない。そして葵衣ちゃんもいない。それが少し気になった。


「白刃君は一緒じゃないの?」

「冬雪は生徒会の集まりがあるそうだよ。生徒総会近いから」


 一瞬、どうして生徒会があると白刃君がいなくなるのだろうと、本気で思った。そしてその理由を考える間もなく訊いてしまった。


「どうして生徒会があると白刃君がいなくなるの?」


 言った後で、物凄くおかしい事を言っている事に気づいた。どうして、なんて考えなくても分かるのに。藤原君は、少し面白そうに笑った。


「冬雪は生徒会書記だよ。ちなみに双葉さんは生徒会長だけど、これは知ってたよね?」


 白刃君が書記で、葵衣ちゃんが会長。


「……聞いてない」

「えっ」

「全然知らなかった!!」


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