シェイクスピアの肉1ポンド

乃木ちひろ

第一幕

第一場 1582年 ロンドン

 1582年4月、ロンドンの午後は今日も小雨だ。


 夕飯は牛肉の煮込みにするから肉を1ポンド買ってくるよう母から頼まれ、ライラは肉屋へ向かっていた。あと角一つ曲がれば目的地という時だ。


「あっ、あなたライラさん?家の前でお母さんが馬車にはねられてね、今治療している。すぐ来て欲しいんだ」

 見知らぬ男だった。


「え…お母さんが!?」

 体の中がざわざわして、全身が粟立つ。

「施療院に運ばれたから案内するよ。さ、すぐ行こう」


 抵抗なくついて行ったのは、男の見た目が小綺麗で危険な匂いがしなかったからかもしれない。男はイングランド国教会所属の兵士で、非番で散歩していたらたまたま現場に出くわしたのだという。


 しかし後をついていくうちに、だんだんライラの胸には警鐘が鳴り始める。

 そっちは行っちゃいけないって、お父さんが——


 そこはゴロツキがたむろする界隈かいわいで、こんなところに治療で運び込まれるなんておかしいと思う。しかもライラの手を掴む男の力が、だんだん強くなっている。


「…離して」

 鋭い口調で言う。すると男はグイッと腕を引き、ライラの体を脇に抱えた。

「何するの!?離して!離しなさいよ!」


「抵抗しなけりゃ危害は加えねえから、ちいと黙ってな」

 小綺麗で知的な感じのする顔はそのままに、口調だけガラッと変えて男は言う。

「やだっ!離して!誰かっ…!」


 手足をぶんぶん振り回すが、体を締め付ける男の力は強くなるだけだ。大声を上げたところで、この界隈でそれは異変ではなく日常であり、焦ってくれるようなまともな神経している者はいない。


 しかし、この時はライラを上回る大声が返ってきた。

「どいたどいたぁ!!ちんたらしてるとかれるぜぇ!」


 首をひん曲げて振り返ると、声の主は青年。そして更に後ろからは10人ほどの猛者たちが猪のごとく突進してくる。


 まっすぐこちらに向かってくる青年と目が合った。その瞳は、鮮やかなオレンジ色。

 目に太陽がある——


 そう思ったとき、気づいたら喉が割れんばかりに叫んでいた。

「助けてえっ!!」


 駆けてきた勢いそのまま、青年はライラを抱える男にタックルした。死にものぐるいで全身を捻って抜け出すと、青年に腕を引かれる。

「走るぞ!」

 頷く間もなく全力疾走を開始。


「くそ、あの女を逃がすな!」

「待てウィリアム・シェイクスピア!!あいつをこれ以上好きにさせるな!」

 追手は追手同士で合流して向かってくる。


「こっちだ!」

 細い路地を入る。すると背後にいきなり戦士が現れた。

「えっ、あの人たちどこから来たの?」


 しかも出で立ちは古めかしい鎧やら盾やら、まるで中世だが、とにもかくにも戦士たちは何語だか分からない声を発しながら足止めをしてくれた。


「いたぞ!」

 しかし路地を抜けたところに、別の追手。休む間もなく方向を変え、再び全速力だ。

「今日はしつこいなぁ」

 青年がぼやくと、また後ろに戦士が現れる。


 その後どこをどう曲がったのか一つも覚えていないが、追手を撒いたようだった。しかし中世の戦士たちは一人も戻ってこない。

「平気?怪我はない?」


 ようやく呼吸が整うと、青年は乱れた髪を整えながら聞いた。フワッとした長めのこげ茶色の髪だ。

 頷いたライラにニコッと笑いかける。


「おれ、ウィリアム。18歳だ。君は?歳はいくつ?」

「わたしはライラ。13歳。助けてくれてありがとう」


「君もイングランド国教会に追われてるの?一体何やらかしちゃったのさ?」

 君もって…あんな大人数に追われてた人と一緒にしてほしくない。


「わたしは追われてるんじゃなくて、連れて行かれそうにな…そうだ、お母さん!」

 全身の毛穴が逆立つ。こんな大事なことを忘れていたなんて。

「お母さんがどうかしたの?」


「馬車にはねられたって、さっきの男が。まず家に帰らなきゃ…!」

「家はダメだ。きっと君が戻ったところを連れ去ろうと、国教会が張ってる。あいつらの情報網と組織力を甘く見ないほうがいい」


「連れ去るって、わたし何にもしてないし関係ないし!人違いよ!」

「家は近所なの?おれは周辺界隈を逃げ回ってたけど、事故なんて見なかったし騒ぎも聞かなかった。たぶんそれは君を誘うための嘘だよ。連中が使いそうな手だ」

 そう言われても不安は募るばかりだった。


「まず、暗くなる前にこの物騒なところを抜け出そう。後のことはそれからだ。いいね?」

 ライラは頷いた。とりあえず、一人ではどこをどう進めば出られるのかも分からないのでついて行くしかない。


 ——お母さん、本当に無事なの?お肉を買って早く帰らなきゃ。

 ずんずん進む青年に遅れを取らないようついて行く。


 この出会いがイングランドの存亡を左右することになるのを、ライラはまだ知らない。

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