第9章 蝙蝠であるとはどのようなことか
第37話:蝙蝠であるとはどのようなことか・1
ヘリコプター内部は意外と広い。五人が乗ってもそこそこ余裕がある。余ったスペースには大量の銃器や手榴弾が積載されていた。
機内は既に臨戦態勢だ。紫や遊希も目を覚まし、タブレットや小型のホワイトボードまで持ち出して作戦を練り始めている。白花は研究所から持ち出したジンジャーブレッドを黒華に食べさせてもらいながら適当に耳を傾けた。
ジュリエットが運転するヘリコプターが神奈川から山梨まで飛ぶのには三十分程しかかからなかった。眼下に広い駐車場といくつもの大きなコースターが見えてくる。
富士急ハイランドは思っていたよりも深い山の中にあり、周囲をほとんど全て緑に囲まれている。空から見ると、なだらかな大地の上で縦横無尽にうねるコースターがまるで大地の下から現れて暴れ出した巨大なミミズのようだ。
「富士急って意外と閑散としたところにあるんだね。目立つけど周りが普通の田舎って感じ」
「そーいうもんだよ。ひらパーもレゴランドも周りはただの住宅街だし……おわ!」
ヘリコプターに横殴りの衝撃が走った。
機体が左右に大きく揺れる。膝を抱えていた紫が座席から落ちて横に転がる。床に積まれていた銃器類も崩れて大きな音を立てた。
何回か揺れた後にようやく機体の体勢が立て直される。地面や壁まで含めた周りのあらゆるものが揺れるというのは、世界が根本から揺らいでしまったかのような不安を呼び起こして心臓に良くない。いや、白花に心臓はもう無いのだが。
「やはり来ましたか」
ジュリエットが機体を九十度旋回させ、襲撃者を前方に捉えた。
前には、こちらと同じくらいの大きさのヘリコプターがホバリングしていた。丸く複雑な模様が描き込まれた巨大なエンブレムで塗装されている。それはどこの国旗でもないから、アンダーグラウンドの連中に違いない。
機体横のドアを開け、身を乗り出した女性がこちらに大型の銃器を向けていた。
ジュスティーヌだ。先制攻撃しているにも関わらず相変わらず妙に自信の無さそうな顔をしている。しかし重そうな銃器を片手で操る動きは素早く、白花の目では追い切れないほどだ。
「ジュスティーヌで御座いますね。揺れにお気を付け下さいませ」
「そういえば、聞きそびれてたけどジュスティーヌって何者なの?」
「わたくしの妹で御座います。とはいえ、幼い頃に孤児院で別れて以来ですので、姉妹の情のようなものは全く御座いません。わたくしは彼女のことをせいぜい同業者の一人としか思っておりませんが、困ったことに彼女の方は事あるごとにわたくしに突っかかってくるのです。彼女自身はロットですし、スキルも精々標準的な武装を一通り扱える程度で大したことはありません。ただ、リスク管理能力には圧倒的に長けており、とにかく排除しづらいためにいつも手を焼く厄介な相手で御座います」
「個人的な因縁がある敵って感じかな」
「ええ、ジュスティーヌは椿様の協力者というよりわたくしの敵と言った方が適切でしょう。わたくしが黒華様と協力関係になったことを知って、その敵方への共闘を申し出たのに違いありません。報酬で動いているわけでも無いようですし彼女の行動は理解しかねます」
それはジュリエットお姉ちゃんに構ってほしいだけだよ、という言葉を飲み込んだ。自分の妹だけでも手一杯なのに、他人の姉妹関係にまで口を出す余裕はない。
遊希が機内に蜘蛛の巣を張りながら状況を報告する。
「機体外部は一通り蜘蛛の巣で覆っていますが、高速回転するプロペラには張れていないのです。そこを狙われると墜落の危険があるかもしれません」
「それは問題ありません。蜘蛛の巣の真骨頂は、飛行時ではなく墜落時の安全保障で御座います。幸いにも既に目的地には到着しておりますし、蜘蛛の巣のおかげで回避行動を取る必要もありませんから、ここで応戦しましょう。単純な武器戦になると思われますので、こちらはわたくしと遊希様で十分で御座います」
「それじゃ、こっちはこっちで目的を果たしに行きましょーか」
さっきの衝撃でひっくり返っていた黒華が跳ねて立ち上がり、壁についている赤いボタンを思い切り拳で殴った。
ヘリコプター後方のハッチが開く。密閉された空間に突如巨大な穴が空き、外から凄まじい強風が吹き付けてくる。髪がかきむしられているように激しく風になびく。
「お姉ちゃん、紫、行くよー」
黒華が後ろから白花の背中と紫の肩に手を伸ばした。腕でグッと引き寄せて三人一塊になる。そのまま後ろから体重をかけられて、三人揃って前によろける。三人にとっての前方とは機体にとっての後方、つまり白花の眼前にあるのはハッチが開いた先の空だ。
「パラシュートとかは?」
「要らないよ。どーせ死なないし、急襲なんだから最速で行かなきゃ。はい、よーいドン!」
黒華は二人と肩を組んだまま床を蹴った。細身の白花と紫では黒華の全体重を支えきれず、足が自然と前に移動する。あっと思った瞬間には、もう足を付く地面が消えていた。
三人もろとも、上空七百メートルからの自由落下が始まった。
「ああああああああ……」
思わず声が出る。
足を付く床が完全に消えてしまうと、作用と反作用で支えてくれるものが何もなくなり、物理的な不安感が大波のように押し寄せてくる。完全な空中で辛うじて支えになるもの、咄嗟に自分の立ち位置を確認できるものがあるとしたら、それは空中に広がる自分の声くらいしかないのだ。
「さて、まずは紫の仕事だ」
頭の中で黒華の声がする。テレパシーだ。
いや、黒華の説明によれば、黒華に移植された心臓にくっ付いている蛆虫を通じて声を伝えているのだったか。細かい理屈は何でもいいが。
紫がスウェットの服の中から手榴弾を取り出した。紫の動作は不自然なほどに落ち着いていて、白花と違って長い髪が暴れたりもしていない。よく見ると全身に蛞蝓が這った上に粘液に塗れており、それが自由落下で生じる相対的な強風の影響を抑えている。
紫は手榴弾のピンを抜くと、スナック菓子でも食べるように自分の口に放り込んだ。紫の喉がぐにゃりとうねり、口よりも遥かに大きな手榴弾をカエルのように飲み込んでいく。開いた口からは唾液の代わりに蛞蝓と粘液が零れた。手榴弾が胃の中に直行する。
白花がそれに驚く間もなく、紫の身体が中心から爆発した。
胸部を中心とした破壊が放射状に広がって全身に及び、身体全体が綺麗にはじけ飛ぶ。血や内臓や手足の代わりに、大量の蛞蝓がまるで花火のように四方八方に飛び散った。さっきまで紫だったものが、蛞蝓になって白花と黒華の周囲を取り囲んで降下していく。
これは何なのだと聞こうとした瞬間、もう地面に着陸した。
数百メートル分の位置エネルギーが白花の細い身体に一挙に叩きこまれ、莫大な衝撃で白花の身体も爆散する。全身が一挙に崩壊し、地面に大量の蛆虫が跳ねた。あまり痛くはないが、何かが内側から激しく破壊されていることだけは強烈に感じられる。麻酔をして歯を抜くときの感じに似ている。
「ぷはっ!」
白花は蛆の湖から身体を引き上げた。
一度は原型を留めないところまで身体が崩壊したのは間違いないから、サミーに刻まれたときのように蛆の塊を使って身体を再構成したのだろう。今回はうまく服の中に身体を作れたようで、幸いにも全裸になっていない。
黒華の方も全くの無傷だ。二人の傍らには遊園地の設備であるパラソルが開いている。
「ひょっとして、紫ちゃんも群体者ってやつ?」
「そだよー、言ってなかったっけ。紫は蛞蝓の群れで、蛞蝓の群れが紫。しかも私たちよりも群体に近いね」
蛞蝓の雨が降る。
空から落ちてくる蛞蝓は百匹や二百匹どころではなかった。何の比喩でもなく、雨粒が全て蛞蝓になったらこんな光景になるだろう。ペチャペチャと粘度の高い水音が全方位から聞こえている。かなり悪趣味なシュールレアリスム映画のような光景だ。
頭上のパラソルが雨の代わりに降ってくる蛞蝓を受け止めていた。ボタボタという衝突音に加えて着地する蛞蝓の影が下から見えるが、蛞蝓にはビニールを突き破るほどの勢いはない。
「で、この蛞蝓テロには何の意味があるのかな」
「露払いだね。一般客がパニックになったら面倒だからさ」
「今の方がパニック状態じゃない?」
「でも悲鳴なんて一つも聞こえないでしょ。広範囲に拡散した紫の蛞蝓に触った人は即座に気絶するんだ、運が悪いと発狂するけど。即席の精神汚染爆弾みたいなもんだね。お姉ちゃんは紫のスキルを体験したことはあるかな?」
「最初にサークロさんとこ行ったときに。私の顎を借りて喋ってたことと、銃弾を止めたことはよく覚えてる」
「そーそー、その拡大版だよ。蛞蝓の粘液はあらゆるものの主客を転倒させるんだけど、特に秀逸なのは生物と非生物すら区別しないとこなんだ。蛆とか蚊は生物にしか興味ないのに、蛞蝓はどこにでも這っていって、自分が今何の上にいるかなんて全然気にしない。だからこーやってバラ撒くと、付着した人と物を全部ゴチャゴチャにシャッフルしちゃうんだ」
「私とあなたの区別が付かなくなるみたいなこと、紫ちゃんも言ってたっけ」
「私とあなたどころじゃないよ。私とあなたと地面とメリーゴーランド、私と世界の区別が全く付かなくなるワケ。それが実際にどういう感覚なのかは知らないけど、とりあえず大抵の人が耐え切れない認識汚染なのは間違いないね。世界没落体験とかアリスシンドロームみたいなもんかな、私たちも触ったら危ないから気を付けてね。群体者はすぐに存在が混ざっちゃう分、蛞蝓の影響も強く受けちゃうから」
「それで蛞蝓を避けるためのパラソルを確保したんだ」
「そゆこと」
話している間に蛞蝓の雨は止んでいた。空中に拡散した蛞蝓は全て落ち尽くしたらしい。
しかし、ようやく落ち着いた敷地内には客が一人も見当たらなかった。立って動いている人はおろか、倒れている人すらいない。人間の代わりに蛞蝓だけが這い回る蛞蝓のパラダイスと化している。
確かに今日は平日だが、日本有数の超人気テーマパークである富士急ハイランドがこれだけ閑散としていることが有り得るだろうか。
「お姉ちゃん、今日って休みだったりしない?」
「いや、椿ちゃんは間違いなく今日のチケットを取ってたはずだけど」
「今日は貸し切りなんですよ。だから一般のお客さんはいません」
椿の声がした。振り向くと、サミーとレイスも一緒だ。
三人とも地面を這う蛞蝓に触れないように五センチほどの高さを低空飛行していた。三者三葉の翼で浮き上がっている。吸血鬼の滑らかな翼、悪魔の骨ばった翼、天使の柔らかな翼。
こうして翼で飛んでいる状態で並んでいるのを見ると、この三人はあまりにも壮観で華やかだ。今更ながら陣営間の格差を感じてしまう。敵陣営は吸血鬼と天使と悪魔、味方陣営は蛆と蚊と蛞蝓。別に羨ましくはないが、いくら何でも酷すぎる。
三人とも何となく浮かれた服装をしており、打ち上げで遊びに来たという白花の読みは当たっているようだった。椿は朝見た通りの大学時代のような服装だし、サミーはシックな色にまとまったノースリーブに短めのスカート、レイスはよくわからない英字ティーシャツを着ていた。中途半端に個性的な感じにアイドルのオフの日らしさがある。
黒華がパラソルの下から一歩前に出た。黒華も地面から数センチだけ浮き、蛞蝓との接触を回避している。
しかし黒華は三人とは異なり、大きな虫の翅を背中から生やすわけではない。身体全体が蚊の群れであり、その一匹一匹が羽ばたいているからだ。傍目には人間がそのまま宙に浮き上がるマジックのように見える。
「教えてくれてありがとね。椿さんたちが代わりに蛞蝓の雨に当たって昏倒しててくれれば楽だったんだけど、流石にそんな簡単にはいかないか。要件はわかるよね、私の心臓取り返しに来たよ。とりあえず取り巻きから退場してもらおーか」
いきなり黒華の身体が中央から二つに割れた。
蚊の群れが二群に分かれ、横向きの蚊柱が二本立つ。相変わらず耳障りな音を立てながら、右半分はレイスに、左半分はサミーに迫る。
サミーが空中から怪しく紫に光る大鎌を取り出した。レイスもやはり空中から白く輝く弓を手に取る。この二人が武器をどこからでも出せるのは反則的だが、それは存在そのものが武器でもある黒華も同じなのかもしれない。
「今日は晴れてるからって調子に乗らないでよね!」
サミーが横薙ぎに鎌を振るって蚊柱を切る。レイスも矢を連射して蚊柱を貫く。
蚊柱が揺らめくが、そんな大雑把な攻撃ではミリ単位の小さな蚊を殺すことなどできはしない。仮に一匹や二匹にヒットしたところで、生命の集合体である黒華へのダメージはほとんど入らないはずだ。
「いったぁー!」
しかし、黒華が痛がる声がする。
からかっているのかと思ったが、蚊柱は二人の武器が当たった場所からボロボロと崩れていった。蚊柱を構成する蚊が羽ばたきをやめて地面に脱落していく。武器が掠めた場所を中心に数十匹単位で蚊が死んでいく。
咳き込みながら蚊柱から顔を出した黒華は本当に嫌そうな顔をしていた。舌を出し、眉を歪めて吐き捨てる。
「うっわマジで、そんなこと考える?」
そこで白花もようやく気付く。
大鎌の切りつけと矢の射出、二つの武器の軌道には灰色の煙が一筋伴っている。蚊の群れが煙のように見えるのとは異なり、正真正銘の煙のラインだ。
よく見ると、二人の武器の先端には緑色で線状の小さな何かが括りつけられていた。その端っこには火が付いており、煙はそこから出ている。独特の渋い臭いが鼻をつく。それが蚊を殺し、蚊柱を崩し、黒華を苦しめているのだ。
黒華が叫ぶ。
「蚊取り線香! バカの戦略だよ、それー!」
「あたしだってこんな格好悪いもの使いたくないけど、椿が念のためにって途中のコンビニで買わせたのよ。わざわざ準備しただけあって、ずいぶん効いてるみたいね」
「あーもう、そーだよ、そーいうの普通に効くんだよ。目も頭も痛くて仕方ないって。私もそこそこアンダーグラウンドで戦ってきたけど、蚊取り線香を装備してきたやつは初めてだよ! ああやっぱり、椿さんって才能ある!」
黒華は再び蚊柱に変身する。後方に飛んで距離を取ろうとするが、すぐにレイスとサミーが追いかける。
宙を飛ぶスピードはやはり悪魔と天使の方が早いものの、蚊は数の多さを活かして四方八方に飛び散ることができる。蚊取り線香の煙幕は確かに有効だが、無数の蚊を覆いつくして全て撃墜するのには時間がかかりそうだ。
三人はすぐに上空高くまで飛び去ってしまい、椿と白花の二人が残された。
「で、先輩はここからどうするんですか。黒華ちゃんの方は襲撃に備えてしっかり対策しましたけど、先輩には特に何もないんですよ。それは先輩が無害だからです。立ち話以外にできることはありますか?」
「あるよ」
白花は服のポケットから虎の子の武器を取り出した。
手の平大の大きさ、L字型のフォルム、ずっしりとした重量感。これが何という名前で売られている商品なのか白花は全く知らないが、これのトリガーを引けば弾が出て人を殺せるということくらいは小学生でも知っている。
拳銃。ヘリの中でジュリエットから手渡されたものだ。教わった通りに椿に向かって両手で構え、安全装置を外す。
蛆に攻撃手段がないなら代わりに白花が持てばいいだけだ。素人でも簡単に人を殺せるからこそ銃という兵器はここまで普及した。人間を殺すくらい、道具を使えば誰にだってできる。
「それって蚊取り線香以上に反則じゃないですか?」
「別に蛆で戦うみたいなこだわりは無いしね。私が蛆の群れなのは生き物としての性質であって、能力バトルみたいな戦闘用のなんかじゃないからね」
「先輩って人を撃てるんですか? 他人との軋轢が嫌で引きこもってるんだと思ってましたけど、働く覚悟はない癖に友達を殺す覚悟はあるんですか?」
「黒華にも同じようなことを言われたっけ。確かに私に人は殺せないけど、友達だけは例外なんだ。それは椿ちゃんが教えてくれたんだよ。椿ちゃんが私をコンクリートに埋めても友達だったから、私が椿ちゃんを射殺しても友達だよね。そもそも私が椿ちゃんを殺す理由だって、友達とは対等に、いつも同じことをしてあげたいからだし」
「先輩、やっぱり友達感覚が壊れてます」
引き金を引いた。
発砲の反動に耐え切れず、白花の腕が千切れて地面に落ちた。どうも群体者とやらになってから身体が脆くなっている気がする。すぐに治るから別にいいのだが。
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