第38話:蝙蝠であるとはどのようなことか・2
白花が自分の腕を拾い、繋ぎ直して顔を上げたとき、椿の腹部に大きな穴が空いているのを見た。半径五センチほどの真円だ。
それがおかしいことくらい、初めて人を撃った白花にだってわかる。撃ったのは戦車砲ではなくただの拳銃だ。直径数ミリかそこらの弾丸が当たったところで、後ろの景色が見える大きさの風穴が空くことはないだろう。
それに血が一滴も出ていない。赤い血の代わりに、傷口からは黒い何かが大量に吹き出した。それは二人の周囲を旋回し、椿が広げた腕に逆さになって止まる。
蝙蝠だ。
椿と同じ翼と牙を持ち、鼠のような顔をした哺乳類。大量の蝙蝠が腹部の穴に向かって吸い込まれるように戻っていくと、穴はすっかり塞がった。
「あー、椿ちゃんも群体かあー……」
「そうですね。ほら、吸血鬼の映画とか漫画でよくあるじゃないですか。蝙蝠が群れになってたくさん飛んできて、その中からバサバサバサーって吸血鬼が現れるやつ。昨日は間近で黒華ちゃんと先輩のやつを見られたので、私も真似してみたら出来ました。だから私も拳銃なんて効きませんけど、次はどうします?」
「どうしよう。お互いに物理無敵の場合って、どうすればいいのかな。椿ちゃんわかる?」
「知りませんよ」
お手上げだった。
唯一の攻撃手段だった銃撃が全く効かないことが判明し、できることが何もなくなってしまう。鮮やかにカウンターされて派手に殺されるならまだしも、お互いにやりようがない詰み状態になってしまった。
大学時代、一緒にスポーツを見に行くために待ち合わせ場所に着いた瞬間、突然雨が降ってきて予定が吹き飛んだときのことを思い出す。あのときよりも更に気まずい沈黙が流れる。
「やることないならフジヤマにでも乗りません?」
口火を切ったのは椿だった。後ろにある大きな看板を指さす。
「せっかく高いお金出して富士急貸し切ってるんですから。先輩たちが何をしようが、今日の富士急は私のものです」
「いいね。でも、私は飛べないから椿ちゃんが運んでくれないかな」
今富士急にいる他の四人とは異なり、蛆虫の白花にだけは飛行能力がない。フジヤマの入口に向かうためにパラソルの下から出てしまうと、そこら中の地面を這っている蛞蝓を踏まずにはいられない。
椿は今まで聞いた中で最大のため息を吐くと、白花の後ろに回り込み、腰を抱きかかえて宙に飛んだ。白花は手足をブラブラしたまま運搬される。まるでUFOキャッチャーの景品のようだ。
「重くない?」
「まあまあ重いです。そんなことより、他に心配することありますよね。いま私が手を離したら先輩は蛞蝓の海にダイブしますよ」
「本当だ、気付かなかった。椿ちゃんは策士だね」
「先輩の方から頼んできたんじゃないですか。まあでも、さっきの黒華ちゃんの話の感じだと、それをしたところで別に先輩が死ぬわけではなさそうなんでやりませんよ。どうせ何もかも有耶無耶になって、いずれまた今朝みたいに蛞蝓まみれになった蛆虫の先輩がどこかにリスポーンするに決まってますから」
「さっきの話聞こえてたんだ」
「蝙蝠は耳が良いんです。先輩にも聴力上げるアイテムあげますよ」
椿は飛びながら鞄から取り出したカチューシャを勝手に白花の頭に付けてきた。黒くて丸い耳が二つ、ネズミの付け耳だ。上を見ると、椿も同じものを付けていた。しかし、椿の方にだけ赤白に水玉模様のリボンが付いていて少し豪華だ。
「これ富士急じゃなくてディズニーでしょ。しかも二十いくつでこれは厳しくないかな」
「貸し切りだし別にいいんじゃないですか。富士急ってマスコットが戦隊ヒーローで可愛くないんですよ。デフォルメされた動物キャラがいないと若い女の子には訴求できません」
「成人女性は若い女の子じゃないよ」
「うるさいです、先輩」
誰も並んでいない列を形成するポールも飛び越え、アトラクションの入口に着いた。そこには職員らしき人が蛞蝓に覆われて倒れている。一般客はいなくても、少数いた職員は蛞蝓の餌食になってしまったようだ。
椿は中に入って白花を床に下ろすと、関係者用通路にある通電盤のようなパネルを勝手に弄った。
「動かせるの?」
「昔バイトしたんでわかります。ほらほら、乗った乗った」
背中を押されてコースターに一緒に乗り込んだ。二人並んだ座席に座る。ハーネスを下ろして身体を固定する。
コースターが発進した。とはいっても、しばらくはチェーンリフトで巻き上げられるだけだ。ドッドッドッドッと独特の振動を伴ってコースターが少しずつ高度を上げていく。
細いレールの上には何匹か蛞蝓が這っているが、力強く回転する車輪が細切れにして吹き飛ばしていく。蛞蝓の粘液も、数匹集まったくらいではコースターを止めるには力不足なようだ。
上っていくコースターの中から誰もいない富士急ハイランドを見る。
黒華たちの姿は見つからない。遊園地を出て市街地の方まで行ってしまったのかもしれない。
敷地内には誰もいないのに、色々なアトラクションが光ったり音を出したりしているのがわかる。客の有無に関係なく、各部は独立して動いているのだ。
しかし、それぞれがバラバラに作動しているからといって、全体まで壊れた機械のように無目的なガラクタというわけではない。この富士急ハイランドは、全体としては椿たちを歓迎するという総意を持っているのだ。そう考えると、この遊園地も白花と同じ自律分散型の群れのようなものだ。
誰もいないからといって廃墟のような寂しさは感じない。むしろ誰もいないからこそ、自律して稼働する遊園地の姿を力強く感じる。
「で、なんで先輩は私たちが富士急にいるってわかったんですか?」
「鞄にチケット入ってたから。勝手に見てごめん」
「ああ、なるほど。貸し切りなので別に買わなくても良かったんですけど、こういうのは様式美だからきちんとやろうと思ったのが裏目に出ましたね」
「というか、よく貸し切るお金あったね」
「今朝言った管理局からの手切れ金を使ったんですよ。割と一生働かなくてもいいくらいの金額を貰いましたからこのくらいはどうとでもなります。スイミーも広告収入とかで稼いでますしね」
「へー、羨ましいな。再就職しなくていいじゃん」
「でも、ここに来る途中でとりあえず転職サイトに登録しました。管理局の圧力がかかってもう表社会では務められないかもしれませんが、それならそれでアンダーグラウンドのどこかで下っ端でもやるのかもしれません。タイツコスチューム着てイーッて言う仕事はやりたくないですけどね」
「私なら絶対に働かないけどな。椿ちゃんってそんなに仕事が生き甲斐みたいなタイプだったっけ」
「私だって好きで真面目に生きてるんじゃないですよ。本当は先輩みたいに適当に生きたいと思っているのに、どうしても最後のタガが外せないんです。昨日だって、本当はクビになって安心したんです。これで先輩みたいに何も生み出さずにサブスクだけしてる無為な人生を送れるって思ったんです。帰ってすぐにdアニメストアとNetflixとHuluとU-NEXTを全部契約して劇場版名探偵コナンシリーズを見始めたんですけど、全然楽しくないんですよね。私だって結構映画が好きな方で、仕事帰りに映画館によく寄ったりしてたのに、これからはずっとそれだけで生きていくんだと思うとどんどん気持ちが寒々しくなってきて、モニターを三十分も見てられないんです。結局、私が出来る自傷行為なんてクラブハウスで合法ハーブを一口吸ってみるくらいしかないんです。先輩みたいに、蛆の湧いた廃棄弁当を食べながら引きこもることができないんです」
コースターはチェーンリフトの半分を過ぎてまだ上がり続ける。椿の独白も止まらない。
「私、本当は今でも先輩のこと尊敬してるんですよ。先輩って誰にも絶対に媚びないじゃないですか。教授とか院生に誘われても普通に帰るし、忘年会には来ないし、そのくせ研究は表彰されるし。私もそうやって軽やかに生きたかったんです。新卒で入った会社を二週間で退職して引きこもるのだって、先輩がやってると逃走するスキゾみたいで格好よく見えちゃうんですよ。だからそうやって引きこもってる先輩をバカにして軽蔑してるフリをしないと、パラノの自分が惨めに思えて仕方なかったんです」
コースターが頂上に達し、一度そこで停止した。
「だから私、先輩を殺さないと前に進めないんです。今朝だって実は先輩が生きてて嬉しかったんですよ。コンクリートに埋めたんじゃ、先輩が窒息して死ぬところは見えませんからね。やっぱり先輩が確実に死ぬところまできちんと見なきゃ、この手でちゃんと殺さなきゃ!」
椿が白花の耳を横から噛んだ。
コースターが上昇から下降に転じる、ガコンという衝撃と共に耳が簡単に食い千切られる。耳は椿の口の中に入ると蛆の塊に変わった。椿は蛆虫をゆっくり咀嚼して飲み込む。
「意外と味が無くて食べやすいですね。蠢いてるのだけはクソほど気持ち悪いですけど」
「何年経ってもそれだけは慣れないよ」
今、コースターは地面に向かって最大速度で降下している。身体が浮き上がり、浮遊感が全身を包む。
しかしイマイチ絶叫感が無い。二人とも、もはやこの程度では爽快とか怖いとか感じることがなかった。なにせ椿は自由に空を飛べるし、白花は今さっき数百メートル上空からの自由落下を体験した直後なのだ。
椿は白花の耳のあった場所に息を吹きかけて囁く。
「群体者を殺す方法、今一つわかりました。食べちゃえばいいんですよ。気付いてますか? 私が食べた耳、治ってませんよ」
白花は齧られた耳を触ってようやくそれに気付く。
確かに蛆の湧きが悪い。いつものようにブワーっと湧き出てくるのとは全く違い、傷跡の奥に二、三匹が手持無沙汰に埋まっているだけだ。
蛆が湧かないために再生も遅い。外気に晒された断面がコースターを走る強風で冷えて身震いする。
「多分、食べるっていうのは単なる傷害とは違うんでしょうね。もっと根本的な、被食者と捕食者の境界を新たに引き直す行為なんですよ。食べられた先輩の耳は私の血肉に取り込まれますから、不在の耳はもう先輩のものじゃなくて私のものです。だから先輩が元通りに再生する対象では無くなるんです。ただ殺すよりも食べる方がずっと良いですね。先輩を全部食べちゃえば、私も先輩みたいに適当に生きられるようになる気がします」
「思ったよりベタに病んでるね、椿ちゃん」
「先輩もですよ。どうせ食べられて一緒になるなら似たもの同士でいいじゃないですか」
椿の翼の中から何匹もの蝙蝠が顔を出した。まるで内側から湧いてくるようだ。
飛び立った蝙蝠たちは高速で走るジェットコースターを追尾し、座席に固定されている白花の身体に四方八方から食らいついてくる。これでは吸血鬼というよりは食人鬼ではないか。
白花の腕も足も鋭い牙でガジガジと削られる。確かにサミーに鎌で切られたときとは全然違う。食われた部位は元の形に戻ろうとしてくれない。
しかし、白花にだって逃げる手立てはある。
椿や黒華や紫がそれぞれの群体に姿を変えられるのならば、蛆の群れである白花にだってそれは可能なはずだ。その手段はもうわかっている。
白花は右目を手で覆った。
右瞼の裏の暗闇の中、微かに光る蛆虫たちが見える。ここは蛆虫の環世界だ。
暗闇の中、蛆虫たちはどんどん数を減らしていた。蝙蝠に食われた蛆虫はここから去って、蝙蝠の群れとしての椿の身体に吸収されているらしい。つまり、蝙蝠の環世界に取り込まれるのだ。
蛆虫の環世界においては白花は一匹の蛆虫に過ぎない。蛆虫たちがブラックホールに飲み込まれて削られていくのをただ見守ることしかできない。
だから左目で人間と個体の環世界を見る。右目で蛆虫と群体の環世界を見ながら。
高速で走るコースターから遊園地を見ている視界と、静寂の中で蛆虫たちがぼんやり光る視界が重なり合う。
今から存在のウェイトを変えるのだ。白花は蛆の群れであり、蛆の群れは白花である。そのバランスは自由にコントロールできるはずだ。
白花の右腕は人体の器官であると同時に、蛆虫のクラスタでもあるのだ。肌色の柔らかい皮膚のように見えている右腕を、薄く発光している蛆の塊として見ることもできる。その二つは、同じものをどちらの環世界で見るかという違いでしかない。種によって世界の設定は違う。
それを理解することで、白花の身体はポロポロと崩れ始めた。右腕は蛆の塊となって崩壊し、コースター上から風に飛ばされて空中に飛散していく。
「無駄ですよ、逃しません。先輩が蛆の群れになって逃げるなら、私も蝙蝠の群れになって追いかけます」
白花が右腕を蛆に変えたのに追随し、椿も自分の右腕を無数の蝙蝠へと解体した。
新たに飛び立った蝙蝠は紙吹雪のように散らばっていく蛆虫をコースターの何倍もの速度で追跡して捕食する。
この走るコースターの上は飛び回る蝙蝠の独壇場だ。白花なんて身体を蛆虫に分解するだけで精一杯なのに、椿から生まれる蝙蝠は全てが椿のように精密に仕事をこなす。宙を舞う蛆虫を一匹も漏らさない。数とスピードと精度に物を言わせて徹底的に食い尽くしていく。
いまや白花の身体の体積は半分ほどに減っていた。身体の外側から蝙蝠が食い散らかすせいで、もはや人体としてのシルエットが保たれていない。
「なるほど、たくさん食べたおかげで蛆がだいたいどこにいるかわかるようになってきました。ここで先輩を食べ終わったら、先輩の家に飛んでそこにいる蛆も全部食べましょう。またリスポーンされても困りますから」
蝙蝠が白花の頭に噛みついた。頭の上から齧られていく。
頭から顔面までゴリゴリと侵食される。蝙蝠の顎が丈夫なのか、白花が豆腐のように柔らかいのか。頭蓋を砕いた先にあるのは蛆の塊だ。もはや白花には脳髄など存在しない。大量の蛆虫が頭蓋を満たし、それらしい形を作っているだけだ。
どこまでも均質で器官無き身体。しかしそのおかげで、首から上を食われても白花にはまだ知覚も思考能力も残っている。
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