第5話:立った立った、蚊柱が立った!・2

 扉の隙間から漏れ出してきた黒い煙。

 それは大気中に拡散せず、床から目の高さまである縦長の塊となって空中に停滞した。煙にしてはやたら密度が高い。背景の壁が見えない。煙というよりは、宙に浮いている黒い柱という方が正しいかもしれない。

 よく見ると、黒い柱は小さな粒でできていて、一つ一つが細かく振動している。一粒の大きさは約一ミリ。それは羽と複眼と六本足、そして長い消化管を備えた小虫だ。

 つまるところ、黒い柱は煙柱ではなく蚊柱なのだった。


「黒華?」

「お姉ちゃーん、久しぶりー」


 白花の呼びかけに応え、濃密な蚊柱の中から一人の少女が踏み出してきた。僅かに浮いた空中から軽い足音を立てて床に降りてくる。

 その少女は長い黒髪をツインテールにまとめ、白黒が反転したセーラー服の上下を着ていた。黒いシャツには白いタイ、白い襟には黒いライン、白い革靴には黒い靴下。着地の振動で白いスカートが揺れる。


「何年振りだっけ? お姉ちゃん」

「だいたい黒華の中学卒業以来だから、二年くらいかな」

「意外と長いねー、そんなに経ってる感じしないけど」


 黒華は人懐っこい笑顔を浮かべて小さく両手を振るが、こちらに近づいてくることはない。

 その理由はすぐにわかった。白花の横にいるヴァルタルが深い皺を眉間に刻み、見たこともない厳しい表情で黒華を睨み付けているのだ。その視線を外すことなく、ヴァルタルが白花に尋ねる。


「白花くんの知り合いかい?」

「私の可愛い妹だけど」

「年齢が離れているように見えるが、義妹かね?」

「六歳差の実妹だね」


 白花の答えを聞いたヴァルタルは、うーむと低く唸って顎髭を撫でる。そして頭を掻いて指を擦った。その間も、目線は黒華から決して離さない。


「厄介なことになったな。『蚊柱』は『蛆憑き』の妹だったのか。姉妹だから蚊と蛆で似ているのかもしれない……というのは、インタポレーションの無差別性からすると不合理な推測だな。白花くん、申し訳ないが、しばらく身柄を拘束されることを覚悟してくれ。白花くんが事態に関わっているとはあまり思えないが、こちらにも事情があってね」

「もしかして、うちの黒華が何か迷惑かけてるのかな」

「ああ、まあ、そうだ。それも……相当にな」


 ヴァルタルは珍しく唇を舐めて言い淀む。黒華が両手を頬の隣で合わせて明るく声をかけた。


「私に気を遣ってもらわなくてもいーですよ。別にお姉ちゃんに秘密とかじゃないんで」

「お前じゃなくて白花くんに気を遣っているんだよ。まあいい、『蚊柱』こと皇黒華はかなり悪質なブラウ犯罪者の一人だ。未成年のブラウという二重に難しい立場の相手を指名手配するわけにもいかず、我々も手を焼いている」

「あ、そうなんだ。こら黒華、家に帰ってこなくなったと思ったらかなり悪質なブラウ犯罪者になってたなんて!」

「だってお姉ちゃん、家出娘は不良娘って相場が決まってるじゃん」

「そんなに可愛いものじゃあないがね。殺人、傷害、ハッキング、その他無数の余罪がある。我が輩の同僚も何人も殺されている」

「ありゃー、また一人増えちゃいましたねー」


 黒華の隣でずっと渦を巻いている蚊柱の中から、大きな球体がポロリと零れてきた。

 それは人の頭部だった。秘書の田村さんの生首。いつも白花たちに恐縮しながらお茶を出してくれた、人の良さそうな笑顔は見る影もない。恐怖で引きつった顔がこちらにゴロゴロと転がってくる。


 それを見たヴァルタルの動きは速かった。

 一歩前に出ると、迷わず田村さんの頭部を思い切り蹴り上げた。それは大きく潰れて赤い体液を撒き散らしながら、黒華に向かって砲弾のように一直線に飛んでいく。完全に予想外の行動に加え、飛び道具と化した生首を避けるため、黒華が反射的に大きく身を引く。

 その隙に、ヴァルタルは床を蹴って駆け出していた。それと同時に手の先端が肥大して大きく伸び、五十センチ程もある巨大な鉤爪を形成する。

 疾風のようなステップで距離を詰める。長い鉤爪が黒華の腹部を貫いた。


「さすがに強いね、一本取られちゃった。私じゃなかったらこれで終わってるんだけどね」


 黒華は眉をハの字に曲げ、困ったような笑顔でヴァルタルを見下ろした。

 鉤爪が刺し貫いた黒華の腹部からは血は一滴も出ていなかった。血の代わりに小さな蚊が何匹も空中に漏れ出していく。黒華の体内から溢れてきた蚊は黒華とヴァルタルの周りを旋回する。

 黒華はヴァルタルを抱きしめ、耳元で囁いた。


「そーいうんじゃないんだよね。切ったり刺したりが効くやつじゃないんだ、私は。あなたがそれを知らないわけないんだけど、後ろに部下がいると逃げられないのが悲しいね。お姉ちゃんの知り合いはなるべく減らしたくないんだけど、あなたがいると話が進まなさそうなので、なんかすいません」


 黒華の傷口から大量の蚊が飛び出した。蚊の群れは部屋に入ってきたときのように高密度の煙幕を作り、黒華とヴァルタルを一緒に飲み込んでいく。

 部屋の中、直径一メートルはある巨大な蚊柱が立った。その中からヴァルタルが苦悶に喘ぐ声が聞こえる。くぐもった絶叫、地面をのたうち回る音と振動。しかし、ヴァルタルの声は僅か数秒で聞こえなくなった。

 蚊柱が解かれる。黒い霧が晴れ、再び黒華の姿が現れる。気持ちよさそうに伸びをする黒華の足元にはヴァルタルが倒れていた。


 ヴァルタルの全身は酷い状態だった。

 全身の肉がドロドロに爛れて中身が漏れ出している。僅かに残った皮膚は赤い水疱に覆われ、それがパチパチと音を立ててはじけ飛ぶ。皮膚の内側と外側の区別が付かない。もはや服を着た赤い肉塊だ。

 外傷というよりは強酸でも被ったような、全身の組織が一挙に崩壊したかのような惨状。血液とも体液とも付かないものが床にあふれ出す。飛び散っている黄色いものは脂肪か膿か。凄まじい悪臭が鼻に付く。

 どういう過程でこうなったのか全くわからない。いずれにせよ、ヴァルタルにもう息がないことは明らかだ。


「お姉ちゃんの蛆、一匹貰うね」


 黒華は床に転がっていた蛆を拾うと、ヴァルタルの死体に向けて指先で弾いた。

 蛆は死体の上に落ちると、瞬く間に死体全体に湧き出して広がっていく。傷口に付着するときと同じだ。まるでシュトーレンか塩釜のように、白い蛆が死体を立体的に覆いつくした。

 十数秒経って蛆が死体から離れていったとき、残されたのは服と骨だけだった。作り物のように綺麗で大きな白骨死体だ。死者の肉片を食いつくした蛆は床へと剥がれ落ちていく。死臭は既に消えていた。


「思ったとーりだ。お姉ちゃんの蛆って、生きてる人は治療するけど、死んでる人は食べ尽くすみたいだね。蛆の本業ってどっちかというとこっちじゃない? ま、治療にしても死体処理にしても、要するに死んだ組織を食うってことだと思うけど。で、そっちの人は? やる? やらない?」


 黒華に指名された椿はあっさりと両手を挙げて降参する。


「やりません。私は文民ですから」

「そっか、良かった。私、ここまで普通に歩いて入ってきたんだけど、皆そう言うね。果敢に立ち向かってきたのはさっきの秘書さんくらいだ」

「そういうガイドラインがあるんですよ。明らかに危険なブラウに対してはとにかく刺激しないこと、体を張って止める義務もありません。そういうのはヴァルタルさんみたいな裏の戦闘要員の仕事です」

「うんうん、命は大事にね。どーせ私には勝てないから、聞き分けが良い方がありがたいよ。それじゃー改めて、私は白花の妹の黒華です。宜しくね」


 黒華が右手を伸ばす。椿は一瞬迷ったが、握手に応じた。黒華が椿の手を掴んでぶんぶんと振る。


「いつもお姉ちゃんがお世話になってます!」

「どうも。公務員一年目の椿です」

「椿さんはお姉ちゃんの友達でいーんだよね?」

「違います。ただの大学の元後輩です」

「そーなの? でも椿さんにとってはワンオブゼムかもしれないけど、お姉ちゃんにとっては数少ない友達だと思うよ。で、一応人質ってことで捕まってるポーズだけお願いしたいんだけどいーかな」


 黒華のスカートの中から黒い煙が舞い上がり、椿の首元にマフラーのように巻き付いた。それはやはり大量の蚊の群れだ。簡易型の蚊柱がブーンブーンと威圧する音を立てて首の周りを旋回する。


「周りにもわかりやすいように首輪的なやつ付けとくけど、暴れなければ刺さないから安心してね」

「刺されたらムヒ塗っとけば治りますか?」

「池田模範堂には悪いけど、ムヒじゃ力不足だね。昔から蚊は最悪の害虫、疫病の伝染媒介者、キャリアーの女王なんだ。私の蚊に刺されたら最後、よくわからない病気が無限に合併発症してすぐに死ぬよ。災厄を取り除くお姉ちゃんのセラピーとは真逆で、災厄を撒き散らすディザスターって感じだね。でも椿さんにはそーしたくないっていうか、お姉ちゃんの知り合いとは仲良くしたいんだ。遠回しな脅しとかじゃなくてホントにね。ただでさえ交友関係が貧弱なお姉ちゃんの知り合いが私のせいで更に減ったら悪いじゃん。だから立ち向かってくる人以外は殺さないつもりなんだけど、戦闘要員って他にも近くにいる?」

「いません。ここは基本的に事務仕事をする役所ですから。というか、戦闘要員の人なんて公式には存在しません。そういう人は肩書きと実際の活動が一致していないので、普段どこにいるのかよくわからないんですよ。ヴァルタルさんも常駐してるわけじゃなくて、今日はたまたまこの辺にいただけです」

「そっちも大変だよねー。表向きには戦闘要員なんていないし何も起きてないってポーズ取らないといけないんでしょ。ブラウを武力として使ってるなんて知れたら治安と人権の問題が噴き上がって収拾付かなくなっちゃうからさ。その辺は犯罪者サイドとしてもウィンウィンっていうか、私だってなかったことにしてもらった方がありがたいから、頑張れば揉み消せる程度の事件しか起こさないように配慮してるわけ。犯罪者が言うのもなんだけど、事件の隠蔽については犯罪者と公権力の利害が一致してるってのも皮肉な話だよね」

「それには全く同意します」


 黒華と椿が一緒に溜息を吐いた。

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