第2章 立った立った、蚊柱が立った!

第4話:立った立った、蚊柱が立った!・1

 目的地のブラウ管理局に着いた。新宿の中心近くにある四階建ての古い庁舎だ。

 灰色の直方体という見た目に派手さは全くないものの、噴水や植木が彩る正面入り口はなかなか立派だ。窓やオブジェはいつもピカピカに磨かれており、清掃が行き届いていることがわかる。


 入口前にある大きな金属製の看板には、正式名称である「ブラウに関する書類等管理局」が刻まれている。

 「書類等」という歯切れの悪い名称には理由がある。ここがブラウ全般の処遇を管理していることは周知の事実なのだが、だからといってそのまま「ブラウ管理局」という名前にしてしまうと、まるでブラウたちを家畜のように管理下に置こうとしていることを想起させる不適切な表現になってしまう。

 よって、この施設は「ブラウそのもの」ではなく、あくまでも「ブラウに関する書類」を管理する場所だと言い繕うために回りくどい名称が採用された。この「書類等」というワンクッションを置く表現は今ではブラウ自体への言及を避けたい際のマジックワードとなり、国会答弁や記者会見では頻出する。

 もっとも、日常会話では正式名称を使うと長すぎるため、結局のところ略して「ブラウ管理局」と呼ばれていることが多いのだが。


「それでは行きましょうか」


 椿の後に付いて車を降り、白花は建物の中に入っていく。

 今日も庁内は様々なブラウでごった返していた。ブラウ関連の役所手続きは一人一人千差万別の個性によって細かい対応が必要になりがちで、時間も手間もかかる。また、ブラウ保護法によってブラウの個人データ収集が禁止されているため、厳密な手続きを遂行できる専門のスタッフも必要になる。

 そうした事情によってブラウ管理局の数は全国的にまだまだ不足しており、都内の他区からも足を運んでくる人々で新宿管理局はいつも混雑している。


 しかし、白花と椿の用事があるのは一般市民が入れないゾーンである。

 椿に続いて「関係者以外立ち入り禁止」の鎖を跨ぐと、足音が響くほど人気のない廊下へと進んでいく。そこからエレベーターに乗って三階に上ったのち、しばらくフロアを歩いてから階段でまた一階に降りると目的の場所に着く。

 「衛生管理室」と扉に小さく書かれた部屋だ。ドアを開けて中に入ると、いつもの大声が二人を出迎えた。


「やあ白花くん、よく来てくれたね!」


 ベッドに横たわった大柄な女性が上体を起こし、手を挙げてこちらにブンブンと振った。そのリズムに呼応して脇腹あたりから血が吹き出し、白い床に降り注ぐ。


「どうも、ヴァルタルさん。歓迎してくれるのは嬉しいけど、動かない方がいいよ。どう見ても重傷だから」

「それは困った! きちんと挨拶しなければ田村くんに怒られてしまうのに!」


 ヴァルタルは狭い部屋を埋め尽くすような大声で豪快に笑う。

 彼女は通称「ライオン」である。オレンジ色の髪の毛はたてがみのように硬く広がり、ただでさえ大きい身体を何倍にも巨大に見せている。全身には茶色い毛が厚く生え、その下の肌は暗い黄色だ。

 しかし、今は大量の血で身体中が全体的に赤く染まっている。


「何があったのか気になるけど、とりあえず先に治療しようか。今日はどこを怪我しているのかな」

「乱戦だったので正確にはわからんが、左腹の下あたりを爪で酷く切られたな。それだけ治してもらえれば十分だ。残りはかすり傷に過ぎん」

「じゃあ失礼して」


 白花はヴァルタルに近づき、体毛をかき分けて傷を探る。

 近付いて見ると、ほとんどは毛の表面に付着しているだけの返り血であることがわかった。しかし、左の足の付け根が非常に深く切り裂かれている。


「うわー、何したらこんなことになるの」


 傷口が切開したように綺麗なのは幸いだが、とにかく深すぎる。

 白花は医学の心得のない素人とはいえ、傷の奥で露出している白いものが骨だということくらいはわかる。見ているだけで痛くなる重傷だ。


「歌舞伎町でブラウ同士の抗争を力尽くで止めてきたのだよ。大した事件じゃない、みかじめ料をめぐるチンピラの小競り合いだ」

「ああ、さっきラジオでやってた、火災扱いにしたやつ。たかがチンピラにここまでやられるなんて珍しいね」

「全くだ、我が輩の力不足と言わざるを得ない」

「いや、電話口では十対一とか言ってたじゃないですか。死んでないのが凄いくらいですよ」


 暇を持て余した椿はパイプ椅子に座って横向きのスマホを弄り、アプリゲームを遊びながら足をぶらぶらさせていた。上司が大怪我をしている割には不遜な態度だが、ヴァルタルはそんなことを気にしない。


「それでもだよ。目的を達成できなかった以上、精進が足りないと考えるしかあるまい。ブラウ絡みのいざこざを迅速に鎮圧して全て無かったことにするのが我が輩の役割だ。我が輩自身の傷も含めてな」

「ヴァルタルさん一人で突っ込むからだよ。普通、相手が大人数ならチームで突入するものじゃないのかな」

「下手な援護射撃は何の役にも立たんよ。ブラウ相手ではロットが持つ拳銃なんて大して有効な武器でもないからな。拳銃の手軽さと殺傷力は魅力的だが、防御力と機動性が低すぎる。壁を走るブラウに爪で襲われたらひとたまりもないさ。結局、我が輩が駆け回るのが一番安全で確実だ」

「まあ、その辺の戦闘事情は私にはわからないけど。それじゃ治療始めるよ」


 白花はパーカーのポケットに手を突っ込んだ。ポケットの中には蛆が数匹湧いている。

 一匹を指先で掴み出し、ヴァルタルの傷跡の上に落とした。

 着地した蛆は傷の中心を目指して奥へ奥へと入り込んでいく。もぞもぞと身体の内側へと侵入し、その姿が見えなくなった瞬間、傷口全体から堰を切ったように大量の蛆が湧きだした。

 次々に這い出てくる蛆虫は僅か数秒で傷跡を全て覆いつくす。赤い肉はすぐに黄ばんだ白で上書きされた。無数の蛆虫が集まって蠢く姿は、遠くから見れば羽毛がさざめいているように見えなくもない。


「おお! 白花くんの蛆虫はいつも元気であるな」

「私が言うのもなんだけど、自分の身体に蛆が湧いてるのって気持ち悪くないかな」

「感謝しこそすれ、拒むことなどあるものかよ。蛆も獣も自然が作り出した生命、そこに違いなどないさ。むしろ白花くんは自分の個性をもっと誇るべきだ。我が輩のように爪で戦えるブラウはありふれているが、どこからでも蛆を湧かせられるブラウなんて他に聞いたことがないぞ」

「どこからでもはちょっと言い過ぎかな。常識的に考えて蛆が湧きそうなところからだけ。基本的には生き物とか食べ物、形としては襞とか裂け目。鉄の真球から蛆を湧かせるのは無理」

「そうなのか。生まれた蛆を操ったりは?」

「それもダメ。湧いた蛆がどう動くかは私の管轄じゃないよ。『傷に近付いてほしい』とか『今すぐ湧いてほしい』っていう気持ちを多少は汲んでくれてるような気もするけど、一匹一匹を操る感じでは全く無いね」


 実際、白花の蛆は傷跡の上で好き勝手に蠢き続けている。もし仮にこの無数の蛆虫たちの動きを管理できるとしても、それをやりたいとは特に思わない。

 そのうち、何匹かの蛆がヴァルタルの身体から離れて床にぱたぱたと落ちた。蛆がくっつくのをやめた部分はもう赤い傷跡ではない。褐色の表皮が修復されている。

 大きな傷が縁の方からみるみる塞がっていき、それに伴って蛆の付着部位も狭まっていく。全ての蛆が傷跡から離れ、ざらざらした肌が完全に復活するまで、ほんの十数秒しかかからなかった。


「はい、終わり」


 蛆による外傷治療、すなわちマゴットセラピーという療法自体はインタポレーション以前からもあるものだ。

 戦場では傷口に蛆が湧いた軍人の治癒が早いことが経験則として昔からよく知られている。傷口に付着した蛆は壊死組織を食べると共に抗菌物質を分泌し、傷の治りを早めるらしい。昔、蛆虫にはそんな使い道があることを知った椿に促され、試してみたら思いのほか上手くいったのだ。

 白花の蛆虫はほぼあらゆる外傷を超高速で完治できる。そのスピードは一般に行われる医療行為のマゴットセラピーとは比較にならないものの、メカニズム自体は同じなのではないかと白花は推測していた。

 要するに、「悪しきもの」を食べるのだ。服や小物を綺麗に保ってくれるのも恐らく同じようなことだろう。


「いつも助かるよ。本来であれば内々に治療すべきなのに、部外者である君の手を借りてしまって済まないな」

「いや、どうせ暇だし貴重な不定期収入だからこっちもありがたいけど。でも、いちいち私を呼ぶより医療スタッフを配備した方がいいんじゃないかな」

「それは出来ないんだよ。白花くんの蛆虫でなければ治療に数日かかってしまうというのもあるが、そもそもこの管理局で重傷者が出ることは想定されていないのだ。我が輩のように爪を活かして戦う公務員も、ブラウ同士の抗争も、表向きには存在しないことになっているからな」

「相変わらず面倒な配慮があるんだね」

「ブラウ全体を危険視する偏見が社会に広がるのを防ぐためには仕方ないさ。社会の混乱を防ぐため、安定した世論を維持するのも管理局の大事な役割だ」

「もっとわかりやすく言うと、我々はブラウの戦闘方面での用途を隠蔽するのに全力なんですよ。ブラウの爪は安心安全、武器に使うなんて考えたこともありませんってね」


 椿は相変わらずスマホを触り続けている。今鳴ったファンファーレのような音は多分何かの戦いに勝利したのだろう。画面から目を離すことなく補足を続ける。


「そもそもこの部屋がこれだけわかりにくい場所にあるのは、一般市民の目に付かないようにサブナード内に繋がる裏口から運び込まれているからです。他の職員がいないのも、可能な限り情報の漏洩を防ぐため。お陰様で私は報告書を書かなくていいので楽なもんですが、ブラウを守るための配慮がブラウの活躍を隠蔽するというのも皮肉な話ですね」

「その手の配慮って本当にやってるんだ。ブラウ系の人権団体への利権的な配慮?」

「もっと切実で卑近な配慮だよ。利権なんて介さなくても、市民の恐怖はいつ社会を分断してもおかしくないさ。まだ皆がインタポレーションに順応できているわけじゃない。いきなり自分に牙が生えた人も、いきなり隣人に牙が生えた人も、まだまだ心の奥では不安なんだ。それがいつか暴力的なポテンシャルとして、文字通り牙を剥くんじゃないかとね」


 ヴァルタルがベッドから立ち上がり、準備運動のように背伸びや屈伸をした。治療したばかりの足の付け根も思い切り伸ばして状態を確かめる。

 更には飛び上がって天井に伸びている梁を掴むと、そのまま懸垂を始めた。この前同じことをして天井を破壊した結果、今はもっと頑丈な建材に置き換えられている。


「とはいえ、今の社会は不気味なくらい落ち着いてますし、管理局の政策はほぼ成功していると思いますよ。そもそも無差別かつ半数が変異したっていうのが絶妙でしたよね。愛する家族が変異したら、誰だって差別よりは寛容に大きく舵を切るでしょうよ。一度そういう風潮が出来てしまえば、あとはインタポレーション自体がよくわからないんでどうとでも言えますし。というか、それを狙って作られたのがブラウ保護法なんですけど」


 ブラウ保護法。正式名称は「ブラウに関する書類等保護法」であり、これがインタポレーションに関する包括的な調査や研究活動を禁じている。

 科学的な原因探求も統計的な調査も取り締まりの対象だ。例えば、アンケートや履歴書にはブラウとしての個性は記入させてはならないことになっている。これによって、各種のブラウは統計的なマイノリティと認定されたり、科学的に進化論や優生学に紐づけられたりすることが無くなった。

 人類史の反省を踏まえ、ブラウに関するあらゆる差別の原因が生じること自体を封じたのだ。よって、現在でもブラウに関する人口や種類の正確なデータは存在しない。


「とはいっても、ブラウ保護法なんて建前でしょ。裏ではしっかりデータ集めてるんじゃないのかな、公務員さん?」

「いや、事実だぞ。管理局内でさえ白書の類は流通していないのだ」

「またまた。一般市民としては、そんなの口先だけとしか思えないけど」

「ブラウ保護法が施行される前の一定期間、政府が研究調査を行っていたことは否定しないさ。そのくらいは周知の事実でいいだろう。しかしその結果、研究をしたところでそれほど成果が無いことがわかったんだ」

「と言うと?」

「調べた限り、インタポレーションによる変異は本当に全くのランダムで何の法則性も発見できなかったのだ。統計上の情報集積くらいは可能だが、それを分析したところで何かが言えるような因果関係が一つも出てこない。変異の様態一つ取ってみても、既存の生物に類似するタイプが最も多いが、椿くんのように想像上の生物に類似するタイプもあれば、白花くんのように生物を使役するタイプもいる。他にも色々なパターンがある。人権派が掲げる『一人として同じブラウはいない』というテーゼは全く誇張表現ではないよ。さて、身体も口も動かしすぎて腹が減ってきたな。椿くん、今何時だね?」

「十二時ちょっと過ぎです」

「丁度いいな。昼飯でもどうかな、いつも通り歌舞伎町の方の一蘭にでも」

「そこ、事件があった場所のすぐ近くですよ」

「結構なことじゃないか。我が輩の活躍に喝采は無いが、平和になったゴールデン街を視察するくらいは許されるだろうよ。是非奢らせてもらいたいところだが、今財布を持っていないんだ。白花くん、申し訳ないが立て替えておいてくれ。ラーメン代はあとで振り込んでおくよ。うっかり桁を間違えて百倍くらい入金してしまうかもしれないがね」

「いつもそうやって報酬貰ってるけど、それってヴァルタルさんのポケットマネーでしょ。税金から支払えないのはわかるし、その半分もあれば十分だよ」

「なに、このくらいの出費は何でもない。それに全く妥当な額だ。ブラウの能力が不当に搾取されることを防ぐため、このマゴットセラピーのように個性を活かした奉仕に対しては最大限の敬意と高い報酬を支払うことが義務付けられているからな。これはいわば闇営業だが、もし政府公認の治療活動だったとしてもこのくらいは貰えるはずだ。その気になったらいつでも公認フリーランス事業に申請してくれたまえ。審査が本当に面倒な上、活動のたびに役所への手続きが必要になるが、我が輩が可能な限り口利きしてあげよう」

「お構いなく。どうせ食費はかからないし、Netflixのサブスク代だけ稼げれば十分なので。公務員を治療してれば権力とも仲良くできてお得だしね」

「間違いないな。こう見えて我が輩は中央官庁から出向してきているから、この管理局内ではかなり偉い方だ。心行くまでコネを作ってくれたまえ。それでは行こうか、おうい、田村くん……」


 沈黙が流れる。いつもなら「はい」と飛んでくる秘書が来ない。

 田村さんの代わりにドアの隙間から現れたのは、モクモクと漏れ出してくる黒い煙だった。

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