初めての
イシカワ
初めての
女は先程から、俺の目の前で膝を抱えたまま動かない。胸が前後に動いているので死んでいる訳ではないが、顔を上げて俺に怒りをぶつけたり、生きている救助隊がいないか血眼になって扉の外を見つめたりはしていない。先程まで食い入るように覗き込んでいた携帯も充電が切れたのか、今は床に放り出して触れようともしなかった。
彼女を襲う絶好のチャンスだ。
ゾンビたちは相変わらずエレベーターの側を巡回している。
元々はこのショッピングモールへ避難しに来た善良な一市民だろうが、今は新鮮な人肉を求める醜い徘徊者だ。
エレベーター前の催事品売り場では、6歳ほどの男の子が逃げ遅れたスーツ姿の女の太ももを噛みちぎっていた。男の子の口が肉塊でたんまりと膨らんでいる。パンデミックが起きた直後なら、それを見て嘔吐していたかもしれないが、今は何とも感じない。
エレベーターへ閉じ込められて6時間以上。
状況は絶望的だった。
すでに都市の交通は麻痺し、自家用車、バス、2tトラック、パトカーがぎゅうぎゅうにひしめき合い、その間を何千というゾンビがすり抜けていった。
情報は錯綜し、政府による公式発表とフェイクニュースの見分けがつかないので、人々は自分の直感と経験を頼るしかなかった。
俺の勘は当てが外れたらしい。
長期保存の効く食料と一夜明かせる場所を探してさまよっていたのもあるが、ショッピングセンターの屋上に自衛隊のヘリが救助に来ているなどというSNS上の情報を信頼したのが間違いだった。
すでに食料品売り場はブラックペッパーのような調味料まで根こそぎ無くなり、買い物かごに残された1つの鯖缶に何十という人間が群がっている状況だった。
全員が殺気立ち、刃物で他人の背中を刺す奴もいた。
俺もある親子連れの父親とアーモンドの袋を取り合いしていたが、その間にも死者たちが川の流れのように室内へ押し寄せてきていた。
父親をゾンビの群れの中へ蹴り飛ばすと、扉がほぼ閉まりかけていたエレベーターへ無理矢理体をねじ込ませた。
だが途端に電源がプツンと切れ、先に乗っていた一人の女と照明のない密室で二人きりとなった。
ひどく地味な女だった。
20代半ば、もしかしたら10代かもしれないが、その年頃の女にしては装飾品やネイルの類は一切せず、肩まで伸ばした黒髪もあまり整えられていない。
グレーのトップスに黒のミドルスカートを履いているため、薄暗い中でうずくまっていると黒い塊のようにも見える。
外傷はないがひどく怯えた様子で、俺と一言も言葉を交わそうとしない。
3時間くらい経ったとき我慢できなくなって床に排尿したが、悲鳴の一つすら上げなかった。
恐怖で反応する気力がないのか、元々そういう性格なのか。
ひどく腹が減った。
俺も女も飴玉一つはおろか水すら持っていない。
ゾンビは1分ごとにその数を増している。都市部で溢れた群れが徐々に郊外へ勢力を広げているのに加え、室内で噛まれた連中が立ち上がっているからだろう。
ここに留まっていても餓死。外に出れば一瞬で何百というゾンビが首元を狙ってくる。
もう死ぬしかないのか。
さっきから女の生足が視線に入ってくる。
多少の擦り傷はあるものの肌色は比較的キレイで、体は痩せ型なのにいい肉付きをしていた。空腹をかき消す欲望がドンドン大きくなってくる。
今まで警察沙汰になるような犯罪は一度たりとも起こしたことがない。
欠席や遅刻すらほぼゼロ。
大学時代の友人は平気で講義をサボって映画を観に行っていたが、恐ろしくてとても真似できなかった。
だが真面目過ぎるがゆえに経験もゼロ。
自慰の後に孤独で涙を流したこともある。
二度とチャンスはないと思い込んでいたが、最期に神が絶好の機会を恵んでくれた。
この女なら抵抗することもないだろう。
高まる心臓と下半身を抑えつつ、女の側へ近寄る。
俺が放つ醜いオーラを感じたのか、ずっと動かなかった女はハンドバッグをまさぐり、取り出した手鏡を床に叩きつけた。割れた破片を手に取り、自らの喉元に突き立てる。
少しの間、女の荒い息遣いだけが聞こえていた。
「死なないのか?」
「止めないんですね」
左の手を血まみれにしたまま、女が視線を上げる。
6時間以上共に過ごした二人の初会話だった。
「こういうときって普通、自殺を止めさせて『あきらめるな』とか言ってくれるのかと思ってました」
「死にたいなら勝手に死ねばいい。あんたの命だから、俺がケチをつける権利はない」
「あなたは怖くないんですか?」
「何が?」
「死ぬことがです。私は怖くてたまらなくて、それで何も喋れなくて。家の外を歩くのさえ、怖すぎて」
「死ぬのが怖くないんですか?私は怖くてたまらなくて。何も考えられなくて。ゾンビたちに噛まれて苦しんで死ぬくらいなら自分でと思ったけど、やっぱり怖い」
「なら手伝おうか」
ガラス片の1つを手に取って、女の左眼数cm手前まで近づける。
小さく地味な眼とまつ毛で、唇も分厚い。
近寄る男はゼロではないだろうが決して目立つような顔つきでもなかった。
「あなたは悔しいって感じませんか?」
「何が」
「こんなところで死んでしまうことが」
「どうしてそう思う?」
「私は何もしたことがないから」
女の眼に涙が溜まり始めた。ガラス片を持った左手を強く握り締め、スカートにも血が染み込む。
「私ずっと家にいたんです。仕事ができなくて、全て親に頼りきっていました。『このままじゃいけない』と頭の中では思うけど体が動かなくて。会社を辞めてから2年が経ち、3年が経ち、焦りだけが募ってきたときにパンデミックが起こって・・・何一つ社会の役に立たないまま死んでいく自分が悔しくてしょうがないんです」
無口だったのが嘘みたいにベラベラと私情を話し出す。
ずっと目元にガラス片を向けているのに、まるで意に介していなかった。
「どうして役に立っていないのが悔しいんだ?」
「だって完全にダメ人間じゃないですか。20代半ばにもなって働いていないなんて。昔友達だった人は皆立派に働いて結婚してる人もいるのに」
「何で働いていることが立派なんだ。目的も好奇心も向上心も何もなく、ただ死なないために働いている連中が大半なのに?」
「あなたには分かりませんよ。ただ部屋に寝転がって天井を見上げているときの不安や焦りなんて」
「分かるよ」
「分かる訳ありません。医者や親に事情を話しても『甘えてる』とか『皆当たり前にやってるぞ』とか言ってくるだけだったのに。あなたに理解できるはずありません」
「理解できるよ」
「そんな訳ない。どうしてそんなこと言えるんですか」
「俺も同じだから」
唖然とした表情を浮かべ、女は黙ってこちらの眼を見つめる。
俺はガラス片を床へ置きながら、自分と彼女の境遇を重ね合わせようとした。
起き上がることができず、天井を見上げ、不安だけが頭の中を回り出す日々。
知らぬ内に男の子がエレベーターの扉へ顔を密着させ、ガンガンと体を押し付けていた。
俺と彼女の血の臭いに引き寄せられたのか、後ろの方で右太ももを半分ちぎられたスーツの女が立ち上がり、ゆっくりこちらへ向かっていた。
「どうして会社を辞めたのか聞いてもいいか」
彼女の側に寄り添って問いかける。お互いにガラス片を握り締めるのは止めていた。
「理由は、たぶん普通の人からすれば大したものじゃありません。働く時間が長くて、休みが少なくて、ノルマが厳しくて。ノルマというのは商材の電話契約数のことです。話すことが苦手なので、一向に慣れなくて。会社に行くのが嫌になってきたんです」
「同じようなもんだ。調理師としてホテルにいたけど人が少なすぎて、休みが契約時の内容よりかなり少なかった。労働環境を改善しようと先輩に話を持ちかけたら『嫌なら辞めろ』の一点張り。ブラックな環境に長くとどまり過ぎて、深夜シフトで午前4時に仕事が終わったあと2時間無賃で働くことを何とも思ってなかった」
「でもその後は、どこか別の会社で働いているのでしょ?」
「いや、合間でたまにバイトをするだけで、基本的には引きこもりだ。何回も職を探そうとはしたけど、また前と同じような環境に放り込まれたらと考えたら躊躇してしまって。結局ずるずると実家で過ごしてる」
「その気持ちすごく分かります。一社目を辞めた後、二社目の飲食店も同じような理由で辞職しちゃったんです。それも3か月ぐらいで。もうブラックな環境は嫌とか、もっといい職場があるはずだって考えてばかりでした。でも私の実力じゃ、もうまともな会社には入れない。一生つらいまま生きていくしかないって考えたら、だんだん心がおかしくなってしまって・・・医者に通い出してからは、バイトすら出来ていません」
扉をドンドンと押し付ける音が次第に大きくなり、ガラスにヒビが入った。
男の子とスーツの女、加えて俺が蹴り飛ばした父親とその家族、それ以外にも多くの死者たちが扉の前へ終結し、重低音のような呻き声を中まで響きわたらせてきた。
彼女が俺に寄り添い手を握った。俺も自然とそれに応える。
彼女を汚く弄り回そうとしていた自分を殺してやりたい。
「悪いな。何の解決にもならなくて。もし引きこもりを卒業してたら、具体的なアドバイスとかできたのに」
「そんなことありません。私、久しぶりにとても嬉しかった。自分のことを分かってくれる人と出会えて。私のことを無視しないで、説教もしないで、対等に話し合ってくれたのは、あなたが初めてですよ」
「俺もだ」
視界が彼女の顔で一杯になる。
向こうも恐らくそうだろう。
音を断ててガラスが割れ、男の子が中へ進入してきたが、俺たちは何事もないように抱きしめ合い、初めて出会った理解者との安らかな時間を心地よく感じていた。
初めての イシカワ @kubinecoze94
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