小説「王とサーカス」
寒々しい風の匂いがした。スマホを取り出して、時刻を確認する。20時40分だった。鍵穴にキーを差し込みながら、出る前に確認した財布の中身を思い出していく。50円玉が2枚と10円玉が2枚。合計120円。120円で喜べるのは何歳ぐらいの時だったか。5歳、いや3歳ぐらいだろうか。100円貰って駄菓子屋に行っていた時の僕なら、喜んでいたかもしれない。今となっては、100円では何も買えないように思えた。とにかく外へ出てみよう。そう思い立ったのは、一冊の本を読み終えて、余韻に浸っている時だった。主人公の行動力に、影響されてしまったのかもしれない。
家を出て、まず右手に向かった。左手に進むと大通りがある。大通りは気分ではなかった。歩行者用の白線を、車道側へ、はみ出しながら歩く。ヘッドライトに照らされて前を見ると、バイクが一台、こちらへと走ってきていた。無意識のうちに、端に寄ろうと飛び越えた白線は、掠れて消えかかっていた。
数歩先の十字路でバイクは止まった。僕が横切って曲がるの可能性を考慮してのことだろう。本当は曲がりたい気分だったのだけど、待たせるのも悪いので、直進することにした。渡りぎわ、緑のパーカーを着て、タバコを吸いながら歩いている女子大生が、一瞬、目に入るのと同時に、バイクは音を立てて去っていった。本当を言うと、緑のパーカーとタバコが見えただけで、女かどうかも分からない。女子大生だと認識したのは、僕の希望的観測なのかもしれない。次の曲がり角で、車の確認がてら、後ろを振り返ってみたものの、姿が見えることはなかった。
次の路地は、一方は白線のみ、もう一方はガードレールが付いていた。なんとなく、守られる感じがして、ガードレール側を歩くことにした。東京の路地は夜でも明るい。街灯に照らされて伸びる影は、前方へとまっすぐ伸びていた。斜めに伸びていく、そんなイメージではなかったか。
イメージ通り、斜めを向いて見ると、自動販売機が佇んでいた。120円でも買えるかもしれない。ちょうど使い切れば、次から財布を持たなくてよくなる。お金から解放されるのだ。この自動販売機は、相場よりかなり安い。通常130円のものが、100円で売られている。しかし、僕が求めているのは120円のもので、表示されている中にはなかった。一番高いのは何だろう。そう思って探して見ると、緑の缶のエナジードリンクが目に入った。170円という表示を見て、「安い」と「高いから買えない」という声が、同時に心の中で聞こえた。結局、何も買わず自動販売機を後にした。
当てもなく、ただ前へと歩いていると、赤い服を着た男の人が、道路を挟んで歩いていた。さっきは緑で今度は赤か、と思っていると、その間を、自転車に乗った、黒い服を着た男の人が追い抜いていく。前方の交差点が赤になり、自転車は止まった。信号機が赤なので、これがオセロならば、黒はひっくり返る。ミステリーならば、殺人事件だ。信号が青に変わり、自転車がどんどん小さくなっていく。良かった。逃げられたのだ。
交差点まで来ると、信号が青に変わり、その隣に同じ色をした、お店があることに気付く。ファミリーマートかと思ったら違った。まいばすけっとだった。信号機の色は、青だと認識しているけれど、緑にも見える。そういえば、と思い下を向いて見ると、僕も緑のズボンを履いているのだった。緑を並べるようにして、方向転換して歩いていく。青い看板、白いガードレール、オレンジのポール。世の中、意外とカラフルなんだな。そう思い、立ち止まったのは、坂道になっている、公園の入り口が見えたからだった。
坂道を登り、公園に入っていく。この公園には何度か来たことがある。入り口は二股に分かれていて、階段と、坂道の選択肢がある。特に急いでいるわけではなかったので、回り道になる階段側から入っていく。まず、見えたのは、公衆便所へと入る人影だった。音を立てぬよう、ゆっくりと歩いていたのにもかかわらず、靴に小石が当たって、コロコロと転がっていった。その先にあったのは、正方形の四本の柱の上に屋根が付いているだけの、一種の休憩所のようなスペースだった。
屋根の下には十字に4個の丸石が置かれており、座れるようになっている。その中に入り、上を見上げて見ると、公園の照明が強いせいか、それとも屋根の裏側が暗すぎるせいか、何も見えなかった。
ふと、女性の歌声がして、公園を見渡して見ると、歌いながら公園を横断していく後ろ姿が見えた。それ以外には、誰もいなかった。
端の方のベンチに腰掛けた。スマホを取り出して時刻を確認して見ると、ちょうど20時49分から50分に切り替わったところだった。足音がして、横目で見ると、犬の散歩をしている人が公園に入ってきていた。
スマホをポケットにしまい、顔を上げた時、衝撃が走った。満開の桜が、照明でライトアップされており、幽幻で、神秘的な美しさを、ありありと見せつけているのだった。周りの木を見渡しても、枯れ果てており、葉の一本も生えていない。一本だからいいのだ、と言わんばかりに、中心に君臨する、その桜のみが、突然現れたように、そびえ立っていた。近づいて見ると、2月だというのに確かに咲いている。早咲きの桜だ。おしべが艶やかな曲線を描いて、誘惑を誘うように咲いている。桜の木を一周して、幹を撫でてみると、丸みを帯びたトゲで威嚇するような、ゴツゴツとした感触が手のひらを覆った。
ふと、あることに気がついた。公園にある全てのベンチが、この桜を見上げるように、設置されている。今日読んだ小説と同じだ。その構造の美しさに、打ちひしがれるように天を仰ぐと、桜の花びらが、優しく触れるように、僕の頭を、撫でるのだった。
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