映画「くちびるに歌を」

ガラガラという音がして、女の子が部屋に入ってくる。女の子と私の目が合う。

「あら、いらっしゃい。良かったら、ここに座って」

私は、リビングテーブルよりも少し広い、8人用のテーブルに腰掛けるように、手で指し示す。女の子は、緊張した面持ちで木製の椅子に腰掛けた。まだ、彼女が一言も発さないのも無理はない。なんと言っても、話すのは今日が初めてなのだから。

「ちょっと待っててね、お茶を淹れてくるから」

私は、家から持ち出したアップルティーのパックを二つ、棚から取り出して、魔法瓶でお湯を沸かす。その間、彼女は落ち着かない様子で、部屋の中を眺めていた。ボタン一つで取り消しができて、何回でも書ける子供用の玩具、戦隊モノのフィギュアに、着せ替え人形、パズル、そして、紙芝居、絵本、小説、少量の漫画。小学校の教室に少しだけ遊べるものが増えた程度だ。

「はい、どうぞ。熱いから気をつけてね」

彼女は、恐る恐るティーカップに手を伸ばして、口に含むと「美味しい」と、呟いた。

「お名前は?」

「中原奈々です」

「教えてくれてありがとう。私は柏木由梨っていうの。よろしくね」

名前を聞けたのは一歩前進だ。私は、心の中でガッツポーズをした。

「学校はどう?楽しい?」

彼女は、首を縦に振ったのか、ティーカップに手を伸ばしたのか分からないような曖昧な動作で返事をした。

「そっかあ。私はあんまり楽しくなかったな。イジメられてたりとかしてさ」

イジメという単語を出して、彼女の様子を注意深く観察する。目立った反応が無いことに、ひとまず安堵する。

「なにか話したいこととかあったらなんでも言ってね」

「はい」と彼女が答えたのを確認してから「悩み事とかさ」と付け足す。次の彼女の一言が勝負だ。臨戦態勢を整え、お腹にぐっと力を込める。

「悩み事はないで……」

「あるよ!」

スパッと、一刀両断するような気持ちで、はっきりと、そして食い気味に言った。それでも、彼女は続けて言う。

「でも……」

「あるよ!!」

時代劇の殺陣が始まったような感覚で、次々に切り捨てる。ちょっとズルいかもしれないけど、私には確信があった。部屋の入り口に掲げられたスクールカウンセラー室という文字。入るのには勇気がいるだろう。何度も目の前まで来て、その度に、通り過ぎていったかもしれない。まだ、正直なところ、入りづらいという印象だ。自分でも思う。でも、だからこそ、こうして来てくれた子には、ちゃんと向かい合いたい。多少、強引な手も使う。

「悩みはあっていいんだよ。私もたくさんあるもん。どんなに小さなことでもさ、悩みは悩みだよ」

彼女が、口を開く。なっちゃんと呼んでほしい、というのが、彼女の最初のお願いだった。それから、なっちゃんは喋り始めた。新年度になって、クラス替えがあって、仲の良いお友達とクラスが離れてしまったこと。その子には、新しい友達ができて、なかなか話しかけづらいこと。まだ、新しいクラスには馴染めないこと。途中で用意したお菓子に夢中になりすぎて、話しが逸れて、好きな食べ物についても話した。

「おっと、もうこんな時間。今日はもうお開きにしようか」

そう言うと、なっちゃんは、寂しそうにうなづいた。

「今度はお友達も連れておいでよ」

「でも……」

「大丈夫!」

食い気味の肯定は、もうお手の物だ。

「お友達を誘うのに、いい言葉を教えてあげる。難しく考える必要はないの。『お茶しない?お菓子もあるよ』そう言ってごらん。まだ私、隠し持ってるから」

舌を出して、照れ笑いをする。なっちゃんも、笑ってくれた。

「由梨先生。またね。今日は楽しかった」

手を振って、別れの挨拶をして、部屋にはまた、私一人になった。

「先生、か」

先生と呼ばれるたび、身が引き締まる思いがする。お茶菓子を隠している棚を開けて、次に買うお菓子は何にしようか、と考えを巡らせる。出来ることから始めるしかない、と言い訳をしながら。

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