小説「老人と海」
老人が僕の中に住み着いた。これをどう捉えてもらっても構わない。これも全部、ヘミングウェイのせいだ。僕の中に海が広がって、真ん中に筏があって、その上に老人が瞑想をしているように、あぐらをかいて座っている。船じゃないのか、と僕は思った。それに、マストさえない。丸太が繋がっているだけのもので、えーと、一本、二本……合計で七本だ。老人はこちらに向けて斜めに座っていて、両膝と頭を線で結ぶと、直角三角形のような形。もっと言うと、長方形のサンドウィッチを、左上から右下にかけて切って、手前のものを僕が食べたような感じだ。加えて、目を閉じても、筏と老人が、透けるように僕の前に現れる。焦点の中心にいるのだからタチが悪い。端の方にいる分には、忘れることもできただろうに。どのくらいの大きさかというと、腕を前に目一杯突き出して、人差し指を天に向かって伸ばした時の、根元から爪の先までの大きさだ。個人差はあるだろうが、僕の他に、老人が見える人がいたら、是非そのことについて教えて欲しい。分かり合える人がいないと、発狂してしまうと思います。
これも全部、「老人と海」を読んだせいだ。休日1日かけて、一気に読破するんじゃなかった。ノーベル文学賞だかなんだか知らないが、僕にこんな影響を与える本なんて、書くんじゃない。ゲームをしたり、TVを見たり、気を紛らわせようとしたけど、ちっとも消えやしない。寝てしまえば忘れるんじゃないかと思って、布団の中に潜り込んでみたけど、微塵も眠気を感じることはなかった。風呂にでも入れば、眠気も訪れるだろう。そう思った僕は、いつもよりかなり早いが、風呂に入ることにした。風呂のお湯張りボタンを押して、その間に体を洗う。時間が経てば、記憶は薄れていくもんじゃないのか、とシャンプーで頭を洗いながら考える。大体、この老人は何のためにここにいるのか。漁をする気配は全くない。それどころか、道具だって何も積んじゃいないじゃないか。
体を洗い終わり、湯船に浸かった時、異変に気づく。ん、と声が出た。それは、初めて炭酸ジュースを飲んだ時のような、軽淡とした声だった。筏と老人が湯船に浮いた。どういうことかというと、ジオラマのように360度回って見ることができるのだ。あれほど頑として動かなかった老人が、初めて背を向けた。それどころか拡大もできるのでまじまじと見ることができる。やはり身体中に茶色の染みが広がっているし、ところどころに傷跡が見える。四肢は驚くほどに痩せこけていたが、張りがあって艶やかだった。引きちぎれる寸前まで張り詰めたロープみたいな美しさがある体だと、僕は思った。しかし、相変わらず何をしているわけでもなく、ただただ瞑想をしているように見えた。手で筏をすくい上げてみると、手のひらに乗った。老人は動じなかった。湯船に戻すと、やはりプカプカ浮いている。その時、足元から尾ひれが近づいてきた。鮫だ、と思った。老人に近づいていくのだろうか、と思ったが、鮫が腹を空かせるような匂いは、発していないはずだった。案の定、筏に一直線に近づいていくわけではなく、迷子になって帰り道を探すように、湯船を泳いでいた。ところが、僕の胸元まで近づいてくると、一気にスピードを上げて、体の中に消えていった。胸が抉られたようにザラザラして、慌てて湯船を飛び出す。浴室にある小さなイスに腰掛けて、再び湯船を見てみると、鮫は居なくなっており、そこには筏と老人が取り残されていた。どういう意味なんだ。風呂場に何か関係があるように思える。そうだ。この家は、今は建て替えているが、元々は婆ちゃん家で、その婆ちゃんは、風呂場で亡くなったのだ。慌てて仏壇まで行って、線香を上げる。
「そうか、今日は命日だったか」声に出して言った。
風呂場に戻ると、もう老人は消えていた。大層な人と、友達になったもんだな。これは、声には出さなかった。
ヘミングウェイに叱られたーー何だかそれは、海水のようにしょっぱかった。
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