小説「時をかける少女」
彼女は、天才として、育てられてきた。この春に、東京大学への進学が決まって以来、彼女の両親は、私たちの自慢だの、宝だの、と言った。彼女が、東京大学への進学を決めたのは、授業の質や、優秀な人材が集まっていることや、ブランドイメージなどではなかった。そんなものは、彼女の中では、どうでもよかった。ただ、彼女の両親の中で、一番頭の良い、大学だったからである。ゆえに、彼女は、呆然とした気持ちのまま過ごし、幼き頃からの、違和感の正体を、まだ、掴みきれないでいるのだった。
彼女が、天才になったのは、5歳のときだった。これは、数々の天才と比べると、遅い方なのである。この時まで、彼女は、天才などと言われたことはなく、ごく平凡な、少女として、日々を過ごしていたのだった。小学校へ、入学する為の準備として、両親は、ひらがなを彼女に教え始めていた。ある奇妙な形が、ひらがなの羅列の中に混じっているのを、母が発見し、感嘆の声あげると、その声に、驚いた父が、慌てて、やってきたのだった。そこには「時」と書かれていた。父が「時を書ける少女ってか」と言うと、両親は、豪傑笑いをした。一本の糸を引っ張った時に、生じる振動を、笑いとするならば、その後、ピンと張り詰めるのは、当然のことである。彼女の両親が、天才にふさわしい教育をしようと、決意した瞬間であった。しかし、真相はなんのことはない。机に置いてあった、デジタル時計に、書かれていた「時」という字を、見よう見まねで、書いただけなのであった。そんなことは露知らず、母はまず、「時かん」と書かせた。なにかがおかしい、と彼女は思った。これが彼女にとって、最初の、違和感であった。彼女が、母に、違和感を訴えると、母は、目を大きく見開いて、何かを推察するような表情で「時間」と書いてみせた。彼女が、納得した表情を、浮かべるのをみて、母はまず、漢字のドリルを、買い与えたのだった。しかし、学べば学ぶほど、彼女の違和感は、次々に、移っていった。小学校へ入学するときには、何年も先をいっていたがゆえに、周囲の人間まで、天才、と呼び始めた。天才、と呼ばれるたびに、彼女は違和感を覚え、その違和感を解消する為に、さらに勉学に、勤しむのであった。
一人の天才の誕生は、ただの、勘違いであり、父の、なんてことはない、ダジャレなのである。親戚を集めて、入学祝いが行われた時に、彼女は初めて、この話を聞かされた。両親としては、笑い話であったが、彼女にとっては、眉間を、銃で打たれたような衝撃が、襲いかかるのだった。彼女は常々、自分は凡人だと、感じていた。天才的なひらめきや、発想力が、あるわけではないし、特別、記憶力が、優れているわけでもない。ただ、勉強ができるだけだ、ということを、この歳になるまで、嫌になるほど実感した。そしてそれを、誰にも打ち明けられず、ひた隠しにしてきた。物心ついたときには、天才、と呼ばれていたから、生まれた時から、天才、なのだと思い込んできた。それが、違ったのである。ただ「時」という字を書いただけだった。彼女は、平凡というものに憧れていた。平凡というだけで、輪の中に、入れるのである。天才、と言えば聞こえはいいが、ようは、自分とは違う、という仲間はずれを、受けているようなものだ。賑やかな、祝いの席で、笑顔を振りまくことに、耐えられなくなった彼女は、トイレに篭った。芳香剤の、ラベンダーの香りが、違和感の奔流を時間遡行しながら、彼女は、咽び泣くのだった。
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