小説「命売ります」

正直に言いましょう、わたくしは甚だ恐ろしいものを見てしまいました。わたくしの育て方が間違っていたのでありましょうか。それは生命の帳をうんと発散させる蝉達も、互いの奮闘を讃え一休憩つく時間帯のことでした。わたくしには息子がおりまして、今年で齢16になります。なにやら難しいことをうんと知っているのに、それをひけらかさない、たとえひけらかすにしてもわたくしにも理解できるように喋ってくれる自慢の息子なのです。そんな息子を優しさの塊だと信じてやまないのに、スマアトフォン(わたくしの時代は携帯電話という名前でした)に「命売ります」と書いているのを見てしまったのです。その時操作していたのは、青い画面に文字が縁取られていて、自身の心の声を書き込むものだと以前に教えてもらっておりましたので、間違い無いと思います。お金も十分なほど渡しておりますのに、なぜそのようなことになってしまったのでしょうか。わたくしが学校のことなどを、ごく自然に、両面が山吹色に焼かれたパンの上にバターを塗るように聞けていたならば、大海原に筏一つで飛び出して、水平線に太陽が沈み込むその前に、櫂を手放すような無力な過ちを、考えさせずとも済んだのではないでしょうか。いえ、それはもう既に起こってしまったことなのです。そうだとしても、たとえ火の中、水の底、飛び入る息子を助けずして何が母親。心に傷がついたとてなんのこと。深碧に透ける天然のエメラルドのように、煙るようなヒビを趣としていけばよいのです。決めました。今夜わたくしは直接、息子に、聞いてみたいと思います。「命売ります」とは、どういうことなのか。場合によってはわたくしも、心臓部への冷たい筒先に手をかけて、天国への奔流を逆走し、一切合切構わずに、即物的になるもやむを得ない、覚悟をしております。

「話があります。座ってください」

「どうしたんだい、母さん」

「正直に言います。命売りますと書いているのを見てしまいました。どういうことなのか説明してください」

「ああ、あれかい。命売りますって本があんまりにも良かったんで、感想を書いていたんだよ」

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