小説「十字架」
これは、僕がなぜ出版社で働き始めたのかというお話。同じバンドマンのヒロト先輩から紹介されて、初めてシゲさんと会う日のことだ。
「やあ、よくきたね」
僕が近づくとわざわざ席を立って挨拶してくれた。集合時間よりも早く着いたつもりだったが、シゲさんはもうすでに一杯目のコーヒーを飲み終わろうとしていた。
「田辺と言います。お忙しい中、お時間割いて頂きありがとうございます。今日はよろしくお願いします」
「重松です。よろしく」
簡単な挨拶をして、僕らは座りあった。
「相談があるんだってね」シゲさんはそう切り出した。
「はい、音楽を続けるべきか迷ってるんです。でも、実を言うと何の仕事にしようかも迷っていて、出版社に特別興味があるわけでもなくて、今日もとりあえず会ってみろって言われてて、だからその、気を悪くしたらごめんなさい」
シゲさんは笑って、ヒロト君と初めて会った時と全く同じことを言うね、と言った。
「ま、だから紹介したんだろうね。実はヒロト君も一緒に働いてたことがあったんだよ」
あのヒロト先輩が?音楽一筋でやってきたと思ってたから、少し動揺した。
「あいつはとんでもないやんちゃ坊主でね。作家がせっかく書いた原稿を気に入らねーとかいって破り捨てたこともあったな。その時ばかりは私もカンカンに怒ってね。取っ組み合いの喧嘩になったよ。こんなもんアンタは認めるのか、なんて言われたりしてね」
実にヒロト先輩らしいエピソードだと思った。一年前にメジャーデビューしてからバンドはすぐに頭角を現してロック界の超新星と言われ、瞬く間に話題になった。ヒロト先輩の記事を見るたびに嬉しい気持ちがある反面、自分の現状を省みて胸が痛くなる。
「なに、君はまだ若い。一度道を逸れたからって戻れなくなるわけじゃない」
でも、と言ってしまいたくなった。一度火が消えてしまったら、元に戻すのは並大抵のことじゃない。ただでさえ揺らめいているロウソクの火を消さない自信は僕にはなかった。
「火が消えるのが怖いかい?」シゲさんは見透かしたように言った。
「でもね、この仕事をしている内は消えないと思うよ。現にヒロト君がそうだった」
「どういう仕事をしているんですか?」僕はすがりつくように聞いた。
一服してもいいかなと言って、シゲさんはタバコに火をつけた。美味しそうな顔をしてから、もったいつけるように息をコントロールして遊んでいた。
「僕はね、ロックンロールが好きなんだ。そう言うとね、大抵の人が音楽をイメージするんだけど、音楽っていうのはロックンロールの入れ物に過ぎないと僕は思ってるんだ。ロックンロールっていうのは空気のような物だと思ってる。息をするように誰しもが持っているもの。田辺君は好きなミュージシャンはいるかい?」
「オアシスやビートルズも好きですが、一番はブルーハーツです」
「ブルーハーツか。僕も大好きだよ。ブルーハーツを聴いたり、見たりするとさ、ロックだなあって感じるだろ?彼らは空気を膨らませて風船を形作るのがすごく上手なんだ。でもロックンロールってのはさ、割れた瞬間に気がつくんだ。あ、これがロックンロールなんだってね。ごめんね、何が言いたいのかっていうとさ本にも宿ってるんだよ。それを見つけるのが僕らの仕事」
ロックンロールを見つける……。僕は心の中で繰り返した。
「この小説、一回読んでみなよ」
そう言ってカバンから一冊の本を僕に渡してくれた。僕のために用意してくれたのだろうか。
「うちの出版社の隣に図書館があるんだ。読み終わったらそこに返しといて。期限は一週間後だからね、忘れないで。僕が怒られちゃうから」
「と、図書館?」
まじまじと見つめると、確かに図書館の名前が書いてある。
シゲさんは僕と目が合ったのを確認すると、右手をポケットから出してロックンロールのポーズをして見せた。僕の胸で何かが弾ける音がした。この時初めて、僕の中でロックンロールが線で繋がっていくのを感じた。
「明日からおいでよ」
そうして僕は、半ば流されるようにしてシゲさんの背中を追うことになるのだった。
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