映画「花とアリス殺人事件」

「俺、最近パンチ避ける練習してんだよね」

そういうこいつはイノダという。高校のクラスメイトでしょっちゅう昼飯を共にしているが、放課後に遊ぶことは滅多にない。

「打ってきてもいいぜ。B組のマキノってやついるじゃん?あいつのパンチは完璧に避けれるようになったんだ」

立て続けにイノダは喋り出したが、ケンカなどほとんどしない僕らにとっては有用性を感じることができず、薄く笑い合っただけだった。皆の視線が僕に集まる。

「もうスローモーションに見えるんだよ。世界が変わるぜ。タケダ、打ってきてみろよ」

言い終わるや否や、僕はイノダの頬目掛けてパンチをして見せた。もちろん軽く打っただけであったが、イノダは上体を少し逸らしただけで、僕の拳はイノダの顔の目の前で止まった。拳とにやけた歯茎が同化する。

「な、言っただろ?」

「すげえな」

僕は拳を前に突き出したまま言った。

そして拳から力を抜く。親指と人差し指を突き出して上に傾ける。

「ばーん。はい死んだ」

イノダはタイムスリップしたかのような顔で目を見開いている。弾は確かに貫通しているようだった。

「パンチ避けられたとしてもさ、銃で撃たれたら意味ないだろ」

イノダはそりゃそうかと言わんばかりに腕を組んで考え始めた。お察しの通り、僕らはバカ集団だ。

イノダの顔が明るくなる。どうやら答えが出たらしい。

「パンチが避けれるのが重要なんじゃなくてさ、スローモーションに見えるのが重要なんだよ。銃弾が目の前に来た時にさ、避けれないとしてもさ、死ぬまでの時間が伸びるわけじゃん。走馬灯ってやつ?スローモーションてのはさ感謝する時間なんだよ」

その後もイノダはあれやこれやと捲し立てていたが、僕は呆れてほとんど覚えていなかった。

イノダとは高校を卒業して以来ほとんど連絡を取っていなかったので、思い出すことも少なかったが、とある映画のワンシーンが再生ボタンの役割を果たした。

隣にいた嫁がグラスに注いだチューハイを持ち上げた。ほとんど反射のようなものだったが飲み干している姿を見て時間がゆっくりと流れ始めた。

スローモーションてのはさ感謝する時間なんだよ。その言葉が響き渡る。

視線が僕に映る。口元が波打つ。音は届かないのだ。抱きつこうとしてみる。

スローモーションであって欲しい瞬間は、今だと思った。

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