小説「夜は短し歩けよ乙女」

バッサバッサと切られていくのを見て、私は目が離せなくなるのです。

ひらひらりと抜け出して、さっきまで私の一部だった大切な大切な髪の毛が舞うのです。ああ、私は可愛いこの子達に何と声をかけて差し上げたら良いのでしょうか。ありがとう、さよなら、だけでは神様に叱られてしまいますね。

美容師のお姉さんが、聖母の如き眼差しで私に微笑みかけてくれています。能面のように張り付いた笑顔がふにゃふゃと溶けていくのを感じました。

優しく反射する銀幕のようなフロアタイルに、黒髪が切り取られたフィルムのように見えるのです。かつて彼は言ってくれました。私の長くて黒い髪が好きだと。古今東西の男を惑わす魅惑の髪だと君は気づいていないのか、などどいうのです。

おかしくっておかしくって笑ってしまいました。彼が私の後ろ姿の世界的権威だと吹聴していたと聞いたときも同じようにして笑い転げました。確かに私は彼がキスをする直前に、胸元にかかった髪の毛を首筋の後ろへと追いやるたびに、ふすまが一枚開けたような気になって、たまらなく愛おしくなるのです。

彼の友人が言っておりましたが、彼は髪の毛フェチのいうやつらしいのです。彼はそれを聞いて、違うやい、と地団駄を踏んでおりました。私はどちらを信じたら良いのでしょう?

美容師のお姉さんが髪の毛を切る理由を聞いてくださいました。いけません、私ったら! ここは自分の部屋ではないのです。美容師さんと私とで作り上げていく空間だということを忘れてしまうところでした。ぼーっとしてしまうのが私の悪いところです。

私は彼にプロポーズされたことを話しました。美容師のお姉さんはぴょんぴょんと跳ねて全身で喜びを表現してくださり、大変可愛らしい方だなあと思いました。こんなにも素晴らしいお姉さんがいるお店を選べた自分を褒めてあげたいくらいです。

そうそう、今日は自分への踏ん切りという意味もあるのです。万が一にも、彼以外の男の人を惑わすことがあってはいけません。それが私の誠意なのです。そして、何の面白みもない私で本当にいいのだろうかという不安もあります。出会ってから一度も変えてない髪型を変えていったときに彼はどういう風な顔をするのか、どういう言葉をかけてくれるのか、それによって私のこの一抹の不安も泡沫となって消えてゆく予感がするのです。美容師のお姉さんが可愛いと可愛いと、あんまりにも褒めてくださるものですから、先走って、彼にお褒めの言葉を頂いた私がぷくぷく歩くのを想像して、人間の真似をするお魚さんみたいだなあと可笑しくなってしまうのでした。

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