小説「ふがいない僕は空を見た」
狭さ故、熱気が何重にも反射していそうな十字路で僕は止まる。
エンジン音の近づく速度が、とても一時停車しそうには思えなかったからだ。
通り過ぎていく匂いは耐えられたものじゃなかったが、風が幾許かの涼しさを醸し出したのを感じて心地がよかった。
ふいに木の葉が風に持ち上げられたような感覚がして下を見ると、白い生地に黒の刺繍が施されたハンカチが落ちていた。四つ折りになっていて、全体像が見えないところに、もどかしさを感じる。
大切な物ならば、時間を割いて探しにくるだろう。下手に交番に届けようものなら更に手間がかかることになる。そんなことよりも今の僕には、待ち合わせに遅れないことの方が重大なことに思えた。でも、もし取りに来なかったら?数ある中のひとつのハンカチで、思い入れも何もない、たまたま選ばれただけの存在だったとしたら?このまま雨に濡れ、照りつける太陽に水分を奪われ、砂が混じり、排気ガスにまみれ、ボロボロになっていくだけで終わりなのかもしれない。そう考えると、他人事とは思えなくなった。気がつくと、スマートフォンで交番への最短距離を検索していた。
「いやー、ありがとうね」
二人組の警察官の内一人が僕を見て言った。
「いえ、たいしたことじゃないです」
こっちはね、と思いながらポケットの中では振動が小刻みに続いている。
「最近はね、落とし物をSNSにアップして肝心の落とし物はそのままにしていく人が増えてるんだよ。その画像を見た落とし主がきてもね。落とし物がないということがあったりしてね。困ったもんだ」
「じゃあ、僕はこれで」
拾わなかった選択肢を考え、自分にことを言われたような気分になって、すぐにでも逃げ出したくなった。
「また何かあったらよろしくね」
ありがとうという声で見送られながら外に出ると、ジメジメとした暑さの中にシャボン玉のような清涼さがあったが、すぐに弾け飛んだ。後ろに立って、何やら行き来していたもう一人の警察官が、今日初めて喋ったような気がしていた。
ファミリーレストランで合流したとき、夏休みの課題の上に寝そべりスマートフォンをいじる、アキの姿があった。
「遅れてごめん、どれくらい進んだ?」
アキはコーラをストローで飲みながら、顎で課題を指し示す。1ページも進んでいないことを知った僕は思わずため息が出た。
「だってしょうがないじゃんか。聞いてくれよ」
アキは好きなAV女優のなんとかっていう子がさっき電撃引退を発表したこと、その子のことがどれだけ好きかを語り始めた。AV女優という仕事を今までそんなに意識したことはなかったので、アイドルが引退するのと同じように悲しむ友人を前にして驚きよりも感心の方が強く残った。
「はぁぁ……なんで引退しちまうんだよ…ん?ヒロ、明日空いてる?」
心ここに在らずといった表現がぴったりのアキは、倒れこみ、スマートフォンをスクロールしながら言った。
「ああ、空いてるけど…」
「じゃあ、俺行きたいとこあるから付き合ってくんない?」
「いいよ」
「じゃあ、12時に駅前の広場集合で!」
そういうと自分が頼んだ分の代金を机に置き、急ぎ足で店を出て行った。置き去りのコーラにはまだ微かに炭酸が残っていた。
「おーい、君! 覚えてるかな?昨日の」
昨日の、と言われるまで気がつかなかった。
「後ろにいた……」
「そうそう! ハンカチの落とし主が見つかったんだよ!」
興奮してるのか暑さのせいなのか、小太りの体にはそこら中に汗が吹き出していて、何故だかメガネにも水が溜まっていた。
「君にお礼がしたいって言ってたから、電話番号教えたよ。問題ないよね?連絡あるかもしれないから、よろしく」
「分かりました。それじゃあ」
「あ、待って。あんまりここじゃ言いづらいんだけどさ、君AV見る?」
「まあ、それなりには」
公然の場には相応しくないことを発言したことが恥ずかしくなったのか、照れながら、やっぱ気にしないで、と笑っていた。
「何か困ったことがあったら教えてね。僕が力になれることもあるだろうから」
そう言って警察官の男性は去っていった。
集合場所にはアキが遅れてやってきた。普段は帽子を被っているところなど見たことないが、今日は目がスッポリ隠れるくらい深く被っている。
「わりぃ。熱中しちゃってさ」
遅刻の言い訳には突っ込まないのがベターだ。僕はアキの後ろに付いていくようにして歩き始めた。
「行きたい店があんだよ。飯食ってきてないよな?そこで食おうぜ、奢るから」
アキが奢るから、という時は何が何でも行きたいという意味だ。僕はハンバーガーが目に入ったが、見てないふりをした。着いたのはモダンな雰囲気が香る、喫茶店だった。看板にパスタの文字が見えてホッとする。
なんでも好きな物頼めよ、と言っていたアキは、僕がパスタと飲み物を頼むと、俺も同じので、と言った。アキは座ったまま足をV字に開き、その間に両手を置き、首を引いて帽子の隙間から店内を観察している。その姿は飢えた狼を彷彿とさせた。その上で、雲の切れ間に自身のシルエットを映し出してしまうような物憂げな一匹狼だ。一段落したのか水を飲み干し、僕にスマートフォンの画面を見せつけて言った。
「いいか、この女の人を見つけたら俺に言えよ」
その女性は、シャンプーのCMに出ているかのような綺麗な黒髪が印象的で、いかにも清純派というような顔立ちをしていた。芸能人の写真のような感じで、肩から上しか写っていない。
「これって」
エーと言いだしたところでアキが遮る。
「ばか、場所考えろよな。俺の好きな人」
狼はすっかり、クリクリとした目と耳のピンと伸びたマルマルとしたウサギに変わっていた。目をそらす仕草までそっくりだ。
「わかったよ、見かけたら言うって」
しばらくしてパスタが運ばれてきた。コーヒーに合うように作られているのか、濃い味付けになっていて中々美味しかった。ため息が聞こえてきたのは、飲み物に残った氷が溶け始めた頃だった。
「はぁ……やっぱりガセネタか」
いつの間にか帽子は机の上に置かれていた。その時、僕のスマートフォンに着信があった。アキは出てもいいぜ、と目で訴えて、すぐにスマートフォンで文字を打つのに夢中になっている。
「はい……もしもし」
「あの、お忙しい中すみません。昨日ハンカチを拾っていただいた方でしょうか?」
澄んだミネラルウォーターが似合う、女性の声だった。そうです、と答えると女性は続けて喋り始めた。
「本当に、本当にありがとうございます。亡くなった祖母がくれた、本当に大切な日にしか持っていかないハンカチだったんです。あなたには関係のないことかもしれないけれど、このまま何もしなかったら、祖母に怒られてしまうかもしれないので、よかったら今度、お礼させてください」
いえ、お礼なんて、と言いかけたのと同時に店内でパリンと金属類の割れた音がした。
大変失礼しました、という店員の声が左耳から、それと右耳からも微かに遅れて聞こえてきたのだから不思議だった。
「もしかして、今、お店にいます?」はい、と答えると
「なんて……お店ですか?」店内をキョロキョロとして見つけた店名を伝えた。
従業員用の出入り口から電話片手に店内を見渡している女性と目が合うと、こちらに向かって歩いてきた。スラッとした体型で髪は太陽光が反射しそうなほどの明るい茶髪で赤い縁のメガネをしていた。胸は中々大きい。
「あの、本当にありがとうございました! サービスしますので、何でも言ってください!」
そう言ってメニューを僕の目の前まで差し出した。
「あ…あ…」
隣で口をパックリと開けたアキが、僕と女性の店員を交互に見ている。
「じゃあ、このケーキ1つください」
「分かりました。そちらの方は……」
と言われたのでアキの方を見ると、まだ口が開いたままだったので、同じのを、と言った。
女性がメニューを片付け、立ち去ろうと振り向いた瞬間、糸で繋がっていたかのようにアキが動いた。僕はなんだか子供の頃遊んだプラレールで電車がカーブしていく瞬間を思い出していた。
「お仕事……やめちゃうんですか?」
声が震えたまま、アキが言う。
「え、そんなことまで知ってるんですか?」
女性は驚いてこちらに一歩近づき、人差し指を唇に当て、言わないでとポーズをした。
「まだ、言ってない人もいるから。ね、お願い」
「なんで……やめちゃうんですか?」
前の車両に衝突しそうな勢いでアキは続けた。
「秘密。いろいろとあるんだけどね」
アキは肩を落とした。おもちゃを買ってもらえなかった時も同じポーズをしていただろうなと僕は思った。
「ケーキの代わりに……教えてください」
僕がそういうと、女性はしばらく考え込んで、誰にも言わないでね、と言って僕に耳打ちした。AV女優、ということを急に意識して、下腹部を見ている僕をアキはエロい目で見てんじゃねーよと叩いた。誰にも言わないでね、という言葉には含みがある。アキがあんまりにもうるさいので店を出て、アキの家に向かった。
「そろそろ、話してくれよ」
夏だと言うのに布団を体に丸め込みアキが言う。
「妊娠、したんだってさ」
ドスン、と言う音と共にそのまま倒れこみ動かなくなったアキを見て、僕は部屋から立ち去ろうとする。
乱雑に置かれた漫画の横に、開かれたままのDVDのケースがあった。本当にあの人か?と思う。
「学校にはちゃんとこいよ」
アキは何も言わず、寝返りを打っただけだった。
夏は過ぎたのに、暑いままだったから、言葉なんて何の意味もないと思った。
アキは何食わぬ顔で学校に来ていた。アキはそのことについて、何も言わなかった。
悪い出来事として映ったのだろうか。そしてそれは捨て去ったのか、それとも残ったままなのか。どちらが正解なのか。
答えを教えてくれる人がいたら、アキに教えてやりたい、と僕は思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます