第5話 二人の少女 五
唇が離れる、その瞬間まで、
その額には、柔らかで甘い感触が。
何をされたのか。
それを理解したのは、
薄く頬染めた姫巫女が、
目の前でほほ笑んだ、その時だった。
おそらくは、自分も…
その証拠に、触れてもいないのに、
両のほっぺたが、ふわぁっと熱をもっているのを
感じられるのだから。
「あの、えっと…」
言葉を継げない真白に、
姫巫女が片目をつむりながら言う。
「ケガをしないように、おまじない、じゃ」
「お、おまじない?」
「そ。
さ、真白。これ以上は待ってもらえぬようじゃぞ」
そう言った姫巫女の視線の先には、
当然、恐ろしい唸り声をあげる魔物の姿がある。
いまだ襲い掛かってこないが、
その迫力は相変わらずすさまじいもの。
真白の意識が、再び緊張へと切り替わる。
「真白。姫は少し後ろに下がる。
あれを何とかする手立てがあるでの。
少し、時間をかせいでくれる?」
すでに、行動を始めているのだろう。
そんな姫巫女の声は、
わずか後方から聞こえてきた。
「わかった。あれを足止めしてればいい?」
「うん」
「別に倒してしまってもかまわないでしょ?」
場の緊張をほぐすための軽口のつもりだったが、
背後の姫巫女から、微妙な空気と無言が伝わってきた。
「あ、あれ?姫ちゃん」
「昔、そう言って熊に突っ込んでいった者がいての。
返り討ちにあって、あばら骨数本折る、大けがをしたのじゃ」
「あ、やっぱりやめ。足止めに集中する」
「それがよかろ」
ふふっ、と二人の口から笑いがこぼれる。
緊張の緩和。
不穏な台詞であったが、
一応、その役目は果たしたようだ。
よし…
覚悟を決めて、
真白は白鞘から銀の刀身を抜き放つ。
一切無駄のない所作。
それは、真白の剣の腕が、
相当のものである証。
実際、背後でそれを目にした姫巫女が、
その美しさに一瞬目を奪われたほどだ。
剣をたしなまぬ彼女でさえ、である。
「…これは、余計なまねじゃったか、の」
真白の耳に届かぬほどの、
小さなつぶやきだった。
そんな真白であるが、
それに耳を傾けるほど、
余裕があるわけではなかった。
これは、どうしたものか…
育ての親であった、じい様。
彼は同時に真白の剣の師匠でもあった。
剣だけでなく、体術から自然の中での生存術に至るまで、
様々なことを教わった。
後から、真白は思うことになる。
あれだけの知識と実力を持った人、
一体何者だったのだろう、と。
目の前の魔物。
大きな黒い狼。
あの馬鹿みたいに強い、じい様ほどとは思えないけど…
真白は迷う。
先ほど初めて聞いた、
邪気というものを纏う悍ましい存在。
自分の理解を超えるものとの対峙が、
真白を惑わせていたのだ。
身体も心も固い。
その時、
じわじわと広がりつつある不安を
思いがけないものが振り払った。
「!?」
それは、背中から聞こえてきた、
美しい歌声。
詩を紡がぬ旋律が、
目には見えぬ光の波となって、
辺りに広がっていくようだ。
思わず振り向いた、その先の光景は
息をのむほどに、幻想的なものだった。
地には白い光により、
丸い円陣と文様が描かれ、
姫巫女はその中心に立つ。
立ち上る清らかな光の中、
ふわりと舞う、彼女の装束と長い髪。
ひろがる歌声。
まるで、天女の降臨を見ているかのようだった。
そして、真白は気が付く。
落ちそうだった心へ不思議な力が湧いてくるのを。
先ほどまでの緊張、不安など、
風の前のなんとやら、だ。
これが、おまじない、なのかな?
もう浮かんでくるのは笑みだけ。
この状況が、何の意味を持つのか。
それは全くわからない。
でも、姫巫女は言ったのだ。
手だてがある、と。
ならば、自分のやることは一つだ。
「よし!
じゃあ、初の魔物退治、いってみようか!」
そんな威勢の良い台詞とともに、
真白は魔物へと駆け出して行った。
姫巫女の起こした不思議な現象に困惑したのは、
魔物も同じだったようだ。
先に行動を起こした真白に
完全に後れを取った魔物は、
単調にその大腕を真白へと振るう。
「グオオオオオッ!」
雄たけびとともに繰り出された腕。
迫りくる鋭い爪を、
真白は毛一つ分の見切りをもって躱した。
大きな動きで生じた隙を逃さず、
真白は一気に魔物の胸元へと滑り込んだ。
「せやぁ!」
発気とともに下段からの斬り上げ、
即座に刀を持ち替えての横薙ぎを繰り出す。
「グアアアッ!」
苦悶の声を上げる魔物の前、
「やった?!」
これもまた、言ってはいけない台詞が飛び出した。
手ごたえは十分。
現に魔物の胸元は大きく斬り裂かれ、
どす黒い血が地面に流れている。
しかし、魔物はひるむことなく、
その牙を真白に突き立てようと、
頭上からかぶりついてきた。
「うわっとお?!」
すんでのところで後方に飛び退り、
間合いを取る真白。
その目に信じられない光景が飛び込んできた。
「え…
う、そでしょ?」
真白が傷つけた大きな傷。
それが、シュウシュウと怪しい音と靄を発しながら、
みるみる塞がっていったのだ。
「ずるい!そんなのあり?」
刀を突きだして文句を叫ぶ真白。
相変わらず光の中で歌う姫巫女は、
心の中で苦笑していたのかもしれない。
真白の動きに警戒したか、
魔物は少しだけ後ろに下がり、
その尾を揺らす。
まさか、逃げる気?
まあ、そんなわけはないのであるが。
再び武器を構えた真白を見据えながら、
魔物はその体を大きく震わせる。
体を濡らした獣が、
その水を振り払うように。
だが、この場で振りまかれたものは、
水ではなく、もっと凶悪なもの。
体毛のように蠢いていた黒い靄。
それが、ビシャビシャと
気味の悪い音を立てて、
周囲に巻き散らされたのだ。
「うえ…なに、あれ?」
顔をしかめて、そんなことをいう真白だが、
これは無理もない。
飛び散った黒は地面に広がり、
ナメクジのように不気味な光沢を放っているのだ。
想像してみてほしい。
黒光りする怪しい水たまりが、
グネグネと動き出して…
…動き出して?
黒光りする水たまりは、突然グネグネと動き出し、
ある形へと変化し始める。
宿主、もしくは母体というべきなのだろうか?
魔物と同じ姿、
黒い狼の姿へと変貌した。
大きさは魔物には遠く及ばないが、
普通の狼と同じくらい。
…つまりは、
十分に大きいのである。
「増えちゃったよ…」
本物の狼同様、
唸り声を曇らせながら、
じりじりと近づいてくる黒狼たち。
真白はすべての敵を把握するため、
一歩後退し、その視野を広げる。
その数、
「十よりちょっと多い、かな」
ざっとしすぎだが、
ということらしい。
太刀を握りなおした真白は、
「ん?」
あることに気が付いた。
歌う姫巫女を守るように構えているため、
その表情を伺うことは出来ないが、
身体を伝う彼女の歌声から、
彼女の心が流れ込んでくるようだ。
その心に、
「ふふ、心配しなくっても大丈夫だよ、姫ちゃん」
真白は振り向かずに答えた。
心配。
自分を守れるか、ではなく、
真白の身を案じた想い。
だから、真白は明るい声で話す。
「最初はちょっとびっくりしてたけど、
姫ちゃんのおまじないのおかげで助かった。
もう大丈夫。
あれくらい、なんてことないよ。
だから…」
真白は片手を得物から離すと、
何もない宙へとのばした。
姫巫女がいる、その方向へ。
「信じて」
不思議なことだが、
その時、真白ははっきりと感じたのだという。
姫巫女の歌声が、
その手を包むように握り返したことを。
『うん、信じておるよ、真白』
そう、そんな声とともに。
≪続≫
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