第44話
極東での爆発事故のニュースも大きくは扱われる事も無いドイツの古城地帯。
その「小さな」事故から約一月後の、ヨーロッパでは雨の少ないこの初夏の季節。
赤い屋根をした石造りの古い町並と通り一つを挟んで近代的な建築物が立ち並ぶ旧市街地の外れに、大きな尖塔を前面に据えた広い教会施設が一ブロックを占有している地区がある。
尖塔の美しい教会の後方、元来は修道士達の居所や大学であった石造りの建物が、その重荘な佇まいを誇っている。
一般には内部非公開のこの建物には、ダークグレーの修道服を着た修道士やシスターが頻繁に出入りしていた。
重厚な樫材の扉の向こうには、クルミ材をふんだんに用いた内壁が生成りの漆喰の壁とコントラストを形成している。
床には色褪せた緋色のカーペットが敷かれ、天井には少し雰囲気的に不似合いな、間接照明機器が設置されている。
濃い色に年期焼けした木製の階段を昇り、この建物の三階部分。
豪勢な彫り物の扉を開けると三部屋をぶち抜いた広さの大広間になっていた。
天井には埋め込み式のエアコン、吊り下げ型のモニター、間接照明装置が設置されており、入室前の外観よりはるかに近代的な仕様になっている。
部屋の前面には黒板と教壇、中央には長机が配置されて、何かの教室か会議室を連想させる風景だ。
部屋の中程に五名の修道服を着た男たちが腰かけていた。
その中でも若手の中年男性がパソコンを操作して吊り下げモニターに地形図や記号を表示させている。
「・・・そしてこの谷を越えた所に人狼どもの居留地跡を発見したと『門(トーア)』の斥候部隊からの報告です。遺体の痕跡から二~三日前まではヤツらが居たと判断されます。」
カーソルをくるくるさせながらこの灰色の巻き毛の男、ランスロットは他の四人に視線を送った。
「ふむ。満月までまだ期間がある。遠くには行っていないな。『銀の魔弾』が扱える『衛兵(バッハ)』の中隊を編制してくれ、クラウス。」
神経質そうな痩せ気味の修道士、リヒテンシュタインは腕組をしたまま、隣の体格の良い修道士に顔を向けた。
「分かりました。ヤツらの逃走防止に空間魔法に長けた連中も一緒に編成したいのですがよろしいですか?」
「ああ、任せよう。」
「それでは、ワシも同行して良いかな?」
この中で最年長の修道士、シュバルツバルクが静かに声を上げた。
彼は中世の魔法使いのような白髭をすっと撫でて皆を見た。
「わざわざシュバルツ卿が出向く事案ではありますまいに。」
蒼い目を見開いて、隣に座っていたこの金髪の修道士、アイヒミュンゼンは体を向けた。
「いくら山間部の田舎であろうとも、協定違反の人狼どもが村人を襲ったのだ。調印式に出席した者として顛末を見届けたいのだよ。」
「だが、卿ももう高齢だ。三十年前のようには行かんぞ。止めはせんが充分気を配ってくれ。」
リヒテンシュタインは両手を組んでシュバルツバルクを見つめた。
その時、蝶番が軋む音がして、扉からかなり恰幅の良い修道士が入室して来た。
軽くフードを被った彼のすぐ後ろにグレーのシスター装束の若い女性、八十歳ぐらいの神父服の男性が続く。
「ん? ボーマン。遅かったな。なかなか来ないので先に始めさせてもらっていたよ。その二人は誰だい?」
リヒテンシュタインの声に何も返さないまま、この太った修道士ボーマンは青白い顔のまま近づいて来た。
一列目の長机に近づいた時、突然座っている五人の周りを囲むように火柱が上がった。
「何をするっ、ボーマン!」
五人は椅子を蹴って立ち上がり身構える。
蒼い目のアイヒミュンゼンが両手を広げ気合を込める。
周囲の空気が凍てつき、空気中の水分がダイヤモンドダストとしてキラキラと輝く。
しかし、相変わらず炎は立ち揺らぎ、ゴウゴウと逆巻く熱風の音が響く。
「燃焼温度以下なのに火が燃える?」
「待て、火災警報器とスプリンクラーが作動していない。何かおかしい。」
リヒテンシュタインがアイヒミュンゼンを制した。
ボーマンは少しうつむいたままで修道服の前合わせをはだけた。
白いワイシャツの左胸に大穴が開き、そこに黒いジャケットが丸めて詰め込まれている。
胸から腹にかけてシャツは赤く染まり、詰め込まれたジャケットの袖がぶらりと下がっていた。
さらにボーマンの体が前へと傾く。
がっくりと伏した彼の背後に、黒い金属製の骨格標本のようなものが立っていた。
黒い体とは対照的な、白くのっぺりとしたマスクの目の内が赤く輝く。
「傀儡だと?」
「やあ、久しぶりだね。どうだね、エクソシスト中枢院のイスの座り心地は?」
同伴していた老人がパチンと指を鳴らす。
あれほど燃え盛っていた炎は、それと同時にふいとかき消えた。
「こ・・・これはボーマンの火炎術では無く幻術? まさか、お前・・・」
灰色の巻き毛のランスロットは絶句して見つめた。
「君達に披露したのは十七年ぶりになるかな。」
白髭のシュバルツバルクがフードを払ってその身を乗り出した。
「デーゲンハルトっ!」
「やあ、シュバルツ。君も年を寄ったね。まあ、私も言えた義理じゃあ無いがね。」
この老人はにっこりと笑ってウインクをした。
長机を回り込んで、リヒテンシュタインがデーゲンハルトを睨みつけた。
「異端審問で追放になった貴様が何の用だ! それにっなぜ、ボーマンを殺したっ?!」
彼の握られた両拳は微細に震えていた。
デーゲンハルトはお構いなしにひょいと肩をすくめて見せた。
「ん? 彼が火炎を扱えるからだよ。それに昔から好色なのでね。ハニートラップに呆れるほどカンタンに引っ掛かってくれたよ。」
「そうね。ネタバラシする前に笑いそうになったわ。」
傍に立っていたシスターが嬉しそうに微笑んだ。
「それにあの審問会はリヒテンシュタイン、君の息のかかったメンバーばかりじゃなかったかい?」
指差された彼はギリっと奥歯を噛んでデーゲンハルトに人差し指を向けた。
「か、神の名のもとに、異端の者を排除するっ!」
リヒテンシュタインの指先から黄色の光が放たれ、その光は薄笑いを浮かべていたデーゲンハルトの胸を貫いた。
彼はもんどり打って床に転がった。
「ふっ、何だ呆気ない。ヤツも老いたものだな。」
鼻で笑ったリヒテンシュタインは傀儡とシスターに視線を移した。
するとシスターの姿がすうっと透明になり、床に仰向けで倒れているデーゲンハルトと共に消えてしまった。
『そう言う君も老いたものだな。少なくとも十七年前はもっと慎重じゃなかったかな。』
どこから響くか判らない声にたじろぐ五人に向かって、姿勢を低く構えた傀儡が飛び掛かった。
右手にボーマンの死体を掴んだそれは、ハンドボール選手のように宙に舞った姿勢から大きく右手を振り抜いた。
シュバルツバルクが前に出て両手をかざす。
勢い良く投げ付けられたその体はシュバルツバルク正面の空間に『ぶつかった』。
鈍い音と共にその空間に亀裂が走る。
ガラス塊にヒビが入るように、ボーマンの死体を中心に、クラック模様がキラキラと取り巻いた。
涼やかな破壊音と共にひび割れた空間は、中心に向かって一気にその水晶の刃を突き立て、床に散らばった。
『シュバルツの<空の欠片>は健在だな。正直、君とは戦いたくは無かったんだ。攻撃側が無事に済んだ試しが無いからね。』
着地した傀儡が不自然に体をねじって五人を見つめた。
ビョンっと宙に舞った傀儡は体をくるくると回しながら彼らの居た長机を粉砕した。
横っ飛びに逃れた五人は各々身構える。
ランスロットは手にしたミネラルウォーターのキャップをねじ切り、逆さに構えた。
ペットボトルから流れ出す水は床に落ちること無く球となってランスロットの周りに漂った。
傀儡が機械的にその首を向ける。
ランスロットが右手を振ると周囲に浮かんでいた水滴が散弾のように傀儡へと飛ぶ。
傀儡は某映画のシーンのように体を反らせるが全てはかわし切れず、水弾がいくつか命中した。
≪自己診断プログラム作動・・・被弾圧5000g/㎠ 防水、防塵被膜 損傷ナシ ≫
金属骨格に大したダメージが無いことを分析すると、傀儡は真っ直ぐに突進して来た。
ランスロットは再び右手を振り、周囲の水を弾にして飛ばした。
「アイヒミュンゼン!」
「はっ!」
傍に居たアイヒミュンゼンが気合を込めると水弾が白く濁った。
ダイヤモンドダストを纏った『氷弾』がうなりを上げる。
金属を打ち鳴らす乾いた音が響き、壁が木片を飛び散らせた。
無数に穴の開いた能面を仰向けに、傀儡は床に倒れた。
金属フレームはひしゃげ、穴の開いた金属板から火花が定期的に散っている。
その様子に見入っていたクラウスに、クルミ材の壁の中から黒髪の毛束が伸び、鞭のように巻き付いた。
「うわっ!」
振り解こうともがくクラウスの腕や体に、さらに黒髪が絡む。
壁の中からシスターが姿を現した。
たっぷりとした黒髪がこぼれ、さらにそれを巻き付けるべく蛇のようにゆらゆらと鎌首をもたげた。
「何者だ! メドゥーサの類か?」
喉に巻き付く黒髪を引っ掴みながらクラウスはシスターを睨んだ。
「あら、この顔じゃ判らないかしら。それじゃ、これではいかが?」
端正な面持ちが見る見るうちに老婆の顔に変わった。
「ひっ・・・レ、レイコ? そんな、ばかなっ!」
「そうよね。あなたが直々に手に掛けたのに、生きているのって不思議よね、クラウス。」
耳元でささやく声に青ざめた彼は上体を屈めて大きく息を吐いた。
体の表面が揺らぎ、白く輝いた。
その瞬間、幾筋もの黒髪の毛束がクラウスの体を貫いた。
「がはっ・・・」
クラウスは吐血して膝から崩れ落ちた。
「あなたと同じような空間圧縮の技を使う子が東洋にも居たの。だから傾向と対策はばっちりよ。」
玲子は若い娘の顔に戻ると冷たく微笑んだ。
クラウスを貫いた毛束は血を滴らせながらうねうねと蠢き、一気にその体を引き裂いた。
「クラウスっ!」
リヒテンシュタインの右掌から光弾が放たれる。
玲子はひらりと天井近くまで飛び上がり、高笑いと共に壁の中へと消えた。
光弾の当たった床が焦げ、煙が立ち昇る。
静まり返る室内。
横たわる2つの死体と一体の傀儡。
立ち込める血の臭い。
金髪を揺らしてアイヒミュンゼンがドアノブに飛び付いた。
ノブをガチャガチャと乱暴に回すが全く扉は開かない。
「ばかなっ、このドアには鍵なんて無いのに!」
「まさか・・・」
ランスロットは空になったペットボトルをそのドアに放り投げてみる。
ペットボトルはドアの板に吸い込まれるように通り抜けて行き、奥の方でコロンと音が鳴った。
「部屋全体が幻術か?!」
ランスロットが周囲を見回す。
その時、ドアから大きな青黒い腕が飛び出し、正面に居たランスロットの腹部を貫いた。
背に抜けた手に猛禽のような爪が白く光る。
短く呻くとランスロットは大量に血を吐いてその場に崩れ落ちた。
青黒い人影がその場から部屋を横切って反対側の壁へ消えた。
「デーゲンハルトォー!」
雄叫びと共にリヒテンシュタインは光弾を乱射した。
光弾は壁や天井をすり抜けて、時間差で着弾音が響いた。
『効率をよく口にしていた君がえらくムダ弾を撃っているね。』
「リヒテンシュタイン、冷静になれ! アイヒミュンゼン、ランスロットは?」
周囲をガラス水槽のように『空の欠片』で囲んだシュバルツバルクは足元のアイヒミュンゼンに声を掛けた。
「・・・だめだ。凍結止血で助けられるレベルじゃない。」
その三人の目の前にドライアイスのような煙が立ち込めた。その中からコウモリの翼を広げた青黒い人影が姿を現した。
短い白銀の巻き毛の頭には、ドールシープのような大きな巻き角が二本生え、体の前で交叉させた両手には猛禽のような爪が鈍く光る。
吊り上がった両眼が三人を見据える。黄緑色に光る白目に赤紫色の瞳が不気味に輝く。
「その姿は・・・」
「ふふふ。ボーマンの心臓を捧げてアヌンナキ・・・古代神と再契約したのさ。久しぶりに私の下に戻って来たコレでね。」
青い魔人は交叉している腕を大きく広げた。胸部に赤いメノウ円盤が埋まって見えた。
「それは<マナートの胸飾り>? どうやってそれを。」
「苦労したよ。十五年もかかってしまった。」
魔人は肩をそびやかせると、右手を高く掲げてパチリと指を鳴らした。
部屋の風景がぼやけ、室内がひと回り程大きくなった。
壁や天井には、あちこちに焦げて弾けた跡が付いている。
壁には大きな穴が開き、そこから青空と遠景の街並みが見えた。
魔人の隣に腰まである黒髪をたなびかせた玲子が寄り添った。
「何が望みだ? 中枢院への復帰か?!」
アイヒミュンゼンが、こと切れたランスロットを床に寝かせて叫んだ。
「アイヒミュンゼン。君は当時『門(トーア)』の分隊長になったばかりだったね。師事する人物の選択は、その後に大きな影響があるとは思わないか?」
魔人はニヤリと笑うと左掌をかざした。
その掌の上にソフトボール大の火球が灯った。
「皆も知っての通り、シュバルツバルクの『空の欠片』は『反撃する防御壁』。物理攻撃も魔法攻撃も弾き返し、カウンター攻撃を行う非常に優秀なものだ。」
魔人がゆっくりと左掌をスライドさせる。
火球は連続写真のように数を増やしながら一列に並んだ。
「・・・ただ、火災には効力が薄い。」
一列に並んだ火球は思いおもいの方向へ飛び、床・壁・天井へと貼り付いた。
火災警報器がけたたましく鳴り響く。
天井に設置されているスプリンクラーの散布口から水が『ボタボタ』と垂れ始めた。
「スプリンクラーは先ほど潰させてもらったよ。言っておくがこれは幻術では無いぞ。術者を生贄に捧げた時は、その魂が古代神に消化されるまでの間、その術を使うことが出来るんだよ。便利だろう?」
腕組をしてニヤニヤと笑う魔人に向けてリヒテンシュタインは光弾を放つ。
光の矢は『空の欠片』を展開している空間に届くと衝撃音と共に四散した。
「『空の欠片』を越えての攻撃は出来ない。仲間の技の特性を忘れたのかい? 私はこれも憶えているよ。『空の欠片』は展開した地点から移動出来ない。」
魔人は愉快そうに口を歪ませると右手をくるりと振った。
ペールブルーの霧が繭状に魔人と玲子を包んだ。
「ボーマンの『燃えない繭』はなかなか快適だ。では、また会おう。」
魔人は玲子の肩を抱くと立ち込めた煙の中へすうっと姿を消した。
三人を中心にキューブ状の透明空間が煙を撥いていた。
「アイヒミュンゼン。君の『偽凍結』の力で鎮火させられないか?」
「空気の分子振動を止めて冷却状態にすれば火は消せますが、ここまで広範囲では追いつきません。」
「ワシのこの結界内では直接の火炎は防げるが、酸欠はどうにも出来ない。いつまでもこうしている訳にはいかんぞ。」
三人は顔を見合わせた。
「『空の欠片』を解いた瞬間、ヤツが襲ってくる。気を抜くな。」
リヒテンシュタインは両掌の内に小さな光弾を忍ばせ辺りをうかがった。
透明のキューブが崩れ、煙が吹き込んで来た。
三人はじりじりと扉に近づく。
「私が開けます。私の『偽凍結』は念動力がベース。」
アイヒミュンゼンは人差し指をドアノブに向けてくるりと回した。
ドアノブが回り、ドアがすっと開いた。
次の瞬間、ドアは勢い良く内側に開き、黒い影がなだれ込んで来た。
シュバルツバルクは前方へ『空の欠片』を展開する。
飛び掛かって来る黒い影はガラス板のような空間面にぶつかると、ぱあっと霧散した。
三人の後方で人影が跳ね起きた。
アイヒミュンゼンはその人影に向けて両掌をかざした。
瞬時に周囲の空気が凍てつき、煙が晴れる。
そこには凍結したランスロットが立っていた。
「?!」
ランスロットがマネキンのように前へ倒れる。
そのすぐ後ろにカメラレンズや配線コードを剥き出しにした傀儡が立っていた。
その右腕を掲げると、掌に付着した氷塊を砕いて槍状の刃物が飛び出した。
傀儡がアイヒミュンゼンの心臓を突き刺すと同時に、床に倒れたランスロットが石膏像のように砕けて散らばった。
「うおおおおっ!」
リヒテンシュタインは雄叫びを上げると光弾の宿った両掌を傀儡に叩きつけた。
仕掛け花火のように光が走り、獲物を突き刺した格好のままで傀儡は床に倒れた。
間髪入れず、煙を巻き込む旋風が舞い、黒い残像がリヒテンシュタインを燃え盛る壁へ突き飛ばした。
コウモリの翼を広げた魔人がナイト・メアの悪魔のようにそこにしゃがみ、火の点いた衣を転がって消すリヒテンシュタインを見つめていた。
リヒテンシュタインが光弾を放とうと構えるのと同時に魔人は猛禽の右爪をかざして襲い掛かった。
「ぐうっ、間に合わない・・・」
リヒテンシュタインが顔をしかめる。
衝撃音と共に、その爪が彼の目前で止まった。
突き出された右腕を中心に、空間に亀裂が走る。
ガラスが砕ける音がして、水晶のように輝く『空間の破片』は魔人の腕目掛けて突き刺さった。
青黒い肌が赤く染まり、魔人は傷を押さえて後方へ倒れ込んだ。
身を翻したリヒテンシュタインはシュバルツバルクに微笑んだ。
片膝を突いて左手をかざしたままのシュバルツバルクは、そのままの姿勢でごぼりと血を吐いた。
「!」
ゆっくりと倒れる彼の後ろに長い黒髪の毛束を突き立てたままの玲子が嬉しそうに笑みを浮かべて立っていた。
熱風が揺らめき、紅い火の粉が舞う。
「シュバルツバルクは、術の発動時が全くの無防備になるんだ。以前、忠告していたのだがね。」
右腕をだらりとさせたまま、魔人は立ち上がってコウモリの翼を広げた。
業火を背にしたその姿は悪魔そのものに見える。
その時、廊下から十数人の靴音が鳴り響き、半壊したドアからガスマスクを付けた強襲装備の男達がなだれ込んで来た。
「大司祭様っ! ご無事ですか?!」
「うわっ、何だコイツは?!」
男達は真鍮色に光る短銃を構え、リヒテンシュタインはその後ろへ下がった。
「ふふふ。形成逆転だなデーゲンハルト。いくらお前でも『門(トーア)』の『衛兵(バッハ)』がこれだけ相手では敵うまい。彼らの『魔弾』を存分に喰らうが良い。」
「大司祭様、万が一の事がございます。私たちに任せ、ここはお下がりください。」
直近の『衛兵』が銃を構えたままリヒテンシュタインに告げ、視線をドアの方へ向けた。
「うむ。ではさらばだデーゲンハルト。ヴァルハラへ逝って、貴様が殺した仲間たちに詫びを入れておくんだな。」
軽く手を上げると、彼は半壊したドアへとその身を躍らせた。
次の瞬間、長い叫び声と重い物が落ちる音が聞こえた。
「くくく・・・はっはっはっ。」
魔人は左手で顔を覆って嬉しそうに声を上げた。
銃を構えていた男達の姿がぼうっと薄れ、部屋の間取りが180度回転した。
壁に開いた大穴から外を覗く。
集まって来る消防車、多くの人、そして赤い血だまりに横たわるリヒテンシュタインの姿があった。
「終わったわね。」
魔人の隣に玲子が寄り添った。
「ああ。私のヴァルハラ逝きはもう少し先だ・・・今、障壁を解いた。もうじき人がやって来る。行こうか、玲子。」
魔人は右腕で玲子を抱き寄せた。
「あら、もう右腕は良いの?」
「アヌンナキの治癒力は優秀でね。もう、君を抱えるくらい訳は無い。」
魔人は玲子を抱え上げると壁の穴の横に立ち、壁面に向けてキックを放った。
爆音と共に壁が吹き飛び、外から悲鳴が聞こえた。
「すごい力ね。あの天狗の坊やにも勝てるんじゃない?」
「今度機会があったら試してみるさ。」
魔人は背中の翼を大きく広げ、燃え盛る部屋から飛び出した。
煙のトレーンを引いて巨大なコウモリが空に舞う。
教会の尖塔に一度降り立ち、下界の騒動をちらりと眺める。
多くの人がこちらに向けてスマートフォンをかざしている様子が見え、デーゲンハルトは苦笑した。
「どうしたの?」
「いや、私たちが若い頃は映像情報なんて機密扱いだったのに、今では随分とお手軽になったものだなと思ってね。」
「そうね。あなたの雄姿が世界配信されちゃうわね。」
「これを見た『中枢院』のメンバーがどう動くか見ものだな。」
魔人はニヤリと口を歪ませた。
「また、この子は。あんまりやんちゃが過ぎると母さん怒るわよ。」
「はいはい、分かったよ。」
「はい、は一回で良いの。」
魔人は苦笑いを浮かべ、その漆黒の翼を広げた。
尖塔を吹き上げる風にその翼を乗せると、数回羽ばたいて太陽の方向へと飛び去って行った。
西の空には低い暗雲が立ち込めているのが見えた。
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