第14話 『五紀暦』の採用はいつか?(メモ)
「五紀暦」が日本で採用されたのはいつ頃なのか?(857年説と858年説)
それまでの「大衍暦」は本当に廃止されたのか、実は「五紀暦」とともに併用されていたのか?
Ⅰ《857年説》
1)「五紀暦」採用説
①「857年、五紀暦を採用」(山川日本史総合図録)
②「天安1年(857)1月、五紀暦経を採用する」(日本史年表/東京堂出版)
2)「大衍暦」廃止説(「五紀暦」採用)
①「天安1年(857)1月17日、開元大衍暦を廃し、五紀暦を採用す」(日本古代史年表/東京堂出版)
②「857年、大衍暦を廃し、五紀暦を用う」(日本史年表・地図/吉川弘文館)
3)「五紀暦」「大衍暦」併用説
「【五紀暦】暦の一種。歳、月、日、星辰、暦数の五項をしるしたもの。中国、唐の代宗の時、郭献之らに命じて作らせたもの。日本では、天安元年(857)から貞観3年(861)まで、大衍暦とともに使用された」(精選版日本国語大辞典/小学館)
Ⅱ《858年説》
1)「五紀暦」採用説
「858(天安2)〜861年(貞観3)に用いられた中国伝来の暦法」(日本歴史大事典/小学館)
2)「五紀暦」「大衍暦」併用説
①「天安2(858)大衍暦と五紀暦を併用。」(国立国会図書館「日本の暦」)
②「【五紀暦】(歳・月・日・星辰・暦数の5項を紀するからいう)唐で762年郭献之らが勅によって作った暦。日本では858年(天安2)から861年(貞観3)まで大衍暦と共に行われた」(広辞苑 第七版/岩波書店)
③「日本では天応元年(781年)に一度は改暦が検討されたものの、実施には至らなかった(『類聚三代格』所収・貞観3年6月18日太政官符)。天安2年(858年)から貞観3年(861年)までの4年間、それまで使われていた大衍暦と併用された。これはこの前年に暦博士大春日真野麻呂の提案によって行われた大衍暦を改暦する前の試用であった(『日本文徳天皇実録』)が、試用開始の翌年に渤海使が宣明暦を請来すると、真野麻呂は宣明暦の採用を主張するようになった。貞観4年(863年)に真野麻呂の主導によって宣明暦が導入され、五紀暦が単独で用いられることはなかった。」(「五紀暦」Wikipedia)
「五紀暦」の採用年は分かれ、いずれが「正しい」のか未だ検証していないが、「五紀暦」と「大衍暦」の「併用」には現実味がある。
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