第12話 江戸の町火消『いろは組』は何組だったのか?(その3/完結編)

Ⅲ)「武家火消」にまつわる諸問題

1)少々長い「まえがき」

 かつて、「成田山霊光館なりたさんれいこうかんにある勇壮なまとい姿の江戸町火消一〇〇〇組の絵馬えまは…」(『図説大江戸 知れば知るほど』江戸東京博物館長・小木新造 監修〈実業之日本社〉)を読んで頭を抱えた。「いろは48組」どころではない、1,000組もあった「町火消」! それが『いろは組』の『千組』のことだと合点するには少し時間が必要だった。見開き上段に描かれた「絵」は全く別のイラストで、「町火消(歌川国芳筆『火消千組之図大絵馬』)いろは47組の火消し組合のうちの千組。成田山霊光館蔵/千葉県」(山川詳説日本史図録)の絵(写真)と解説を見てホッとし、大いに笑えた。そのイラストは、どうやら歌川国芳に学んだ月岡「芳年画『江戸の花・子供遊の図』消防博物館」(『大江戸ものしり図鑑』巻頭カラー頁「町火消」/江戸風俗研究家・花咲一男 監修〈主婦と生活社〉)をイラスト化したものらしい、「勢揃いした町火消」の絵であって、特に『千組』が描かれている訳ではない。斯様な誤りは数多ある。

 前項で増上寺の「いろは47組」は信じがたいと書いたが、増上寺のHPによると「17世紀中頃の増上寺は、広大な寺有地に120以上の堂宇、100軒を越える学寮が甍ぶきの屋根を並べる、とても大きな寺でした。/当時は、3,000人以上の学僧のお念仏が、全山に鳴り響いていたと言われ」(三縁山広度院『増上寺』より)ていたそうだ。時代は多少ズレるが、「47組」もあながち無理と言えないのではなかろうか、などと思案している。


 江戸の消防組織は三つに大別される。江戸に屋敷を構えた各藩(家)の「大名火消」、幕府直轄の「じょう火消」、そして「町火消」である。この「町火消」に対し、「大名火消」と「定火消」を合わせて「武家火消」と呼ぶ。武家火消は、「大名火消や定火消の出動する範囲は厳しく制限され、江戸城と武家屋敷とに限られ、町場の火災には出向かず、延焼の恐れのあるときでも境界線で待機していた」(『広島市を守る消防団』広島市)などとよく言われるが、実際にはその「時代性」を考慮する必要がある。例えば、「1683年(天和3年)12月5日 塩町失火五大名消火」(出典『常憲院殿御実紀』,東京都公文書館-東京市史稿 産業篇=以下『東京都公文書館』,より)した事実がある。或いは、「浅野内匠頭…江戸屋敷や赤穂の城で頻繁に消火訓練を行ない、家来に辟易されていたという。…その熱心さが見込まれ、1690年(元禄3)の江戸在留中には、本所の大名火消しに任命される。…訓練の甲斐あって、浅野家の消火活動の迅速さは江戸一と評価が高く、他の大名家や庶民からは頼りにされていた」(『江戸の時代本当にあったウソのような話』歴史の謎を探る会編・夢文庫/河出書房新社)ことはどうなのか? この「本所」がそこにあった米蔵か材木蔵か定かでないが、それらを守ることは町方にとっても極めて重要であり、「庶民からは頼りにされていた」ことも確かであろう。

 「町火消し」の理解を深める為、先行する「武家火消」について書こうとした。しかし、多様な「火消し」の定義が難しく、情報が錯綜し、錯誤や誤謬が多すぎて手に余る。調べれば調べるほど興味や新たな疑念で多岐に亘り、枝葉末節に及び、書けば書くほど支離滅裂となった。ネット上の情報も数多く参照した。書籍でも誤植は多いが、加えて引用の誤りやPDF変換のミスがあり(例えば「元和げんな」(1615-1624)と「天和てんな」(1681-1684)は年代が近いので困る。或いは、「元文げんぶん」(1736-1741)と「天文てんぶん」(1532-1555)。「撤す」と「徹す」や「えん」と「りょく」など。一部は「原文」を勝手に訂正した。尤も、例えば「1737年1月(天文元年12月)」は、「元文げんぶん」の誤りだが、「元年がんねん」と続くので、単なる変換ミスではないかも知れない)、非常に混乱する。それ故「本文」としてまとめることを諦め、「注釈」的な体裁で展開することにした(いずれも長文だが、ご容赦願いたい)。

 望外な発見も多い。地名「八重洲やえす八代洲やよす)」が家康に重用されたヤン・ヨーステン(日本名「耶楊子やようす」)に因むことは広く知られるが、広重ひろしげが「火消同心ひけしどうしん」だったことを初めて知った。『東海道五十三次』で有名な歌川うたがわ広重は、定火消じょうびけし屋敷の一つ・八代洲河岸やよすがし屋敷に生まれ、家職の火消同心(安藤家)を継いだ(1809年)。歌川豊広うたがわとよひろに師事して1812年(文化9)「歌川広重」と名乗る(数え16歳)。本名は安藤重右衛門(1797-1858)。歌川豊広の「広」と「重右衛門」の「重」から「歌川広重」を名乗る訳であるが、「安藤広重」としても通用している。その理由について、「(明治になって)三代目が、勧業博覧会出品の際に安藤広重を名乗」ってから「初代までも安藤広重と表記されるようになり、混乱の原因を作っ」たとの指摘がある(原信田 實『浮世絵は出来事をどのようにとらえてきたか』より)。「(18)18年(文政元)から版本や役者絵などを描き始め」(山川日本史小辞典)たが、「文政6年(1823)家督を嫡子仲次郎にゆずり、定火消同心を退いて、歌川豊広のもとに入門して画業に励み、後に歌川広重と名乗った」(『江戸時代の消防事情5』元東京消防庁消防博物館長・白井和雄)とすればかなり事情が違うが、1823年(他の情報では同年「11月」)まで定火消同心であったのだろう。広重が「絵師」として名を残すのは少し後のこと。彼の絵には風景画が多く、当然と言えば当然であるが、「見櫓みやぐら」が意外に多く登場する。そのやぐらと、絵の俯瞰的な構図が、深く関係していると言われている。


 火の見櫓を江戸市中「10町にひとつと定め」、義務づけたのは享保8年(1723)8月15日のことだが(『江戸時代年表』東京大学史料編纂所教授・山本博文 監修〈小学館〉より)、これにも異説がある。「享保8年当時には4か町に一か所」と見做して、「幕末には10か町に一か所設置されていたという記録があることから、徐々にその数は減少していたと考えられる」(『お江戸の経済事情』神戸大学大学院経済学研究科助教授・小沢詠美子著〈東京堂出版〉)と導いていた。前提が違えば成り立たない考察であるが、何かが「定められ」ても実情は違うことが多く、実は「異説」とも言えないことが間々ある。日付(年月日)も同様であろう。「市中火見所建設…1723(享保8)年8月14日」(出典『撰要永久録・御触事巻21』,東京都公文書館)ともあり、一日ズレるが、典拠が違えばあり得る「違い」で、制定と施行や公布の日時がズレることは多い。

 この時の町の火の見櫓は、「2町(約218.2m)ほど見通せるように、屋根の棟から火の見の棟まで高さ9尺(約272.7㎝)に定め、町々で調整して道の左右食い違いに設置された」(お江戸の経済事情)らしい(注:1じょう=10しゃく=100すん,1丈=3.0303m,1ちょう(丁)=60けん=360尺。「まち」と区別して「ちょう」を使いたいが…)。これは屋根上の高さで、「わく火の見」と言う(独立構造は「梯子はしご火の見」)。時期は不明ながら「町火消の火の見櫓で3丈(約9m)以下とされていた」(火の見櫓図鑑)という。町火消より古く、大名火消より後発の定火消であるが、定火消屋敷に設置された「火の見櫓」が最初と言われる。その「火消屋敷には3丈(約9.1m)の火の見櫓が設置され、太鼓と半鐘はんしょうが備えられていた」(お江戸の経済事情)。3丈「(約10m)」も散見する(誤りではないが無理がある)。大名火消の一形態が「方角火消」であり、「(1657年…誕生する)初期の方角火消…特異な点は屋敷に設けた火の見櫓の高さで、他の大名家の火の見櫓が高さ2丈5尺(約7.6m)と定められていたのに対し、3丈(約9m)の高さの火の見櫓の設置が許されていた」(防災情報新聞)という。多少辻褄が合わないが、要するに、定火消より格下の火消しのやぐらが低く抑えられていたと見るべきだろう(尚、方角火消を除く大名家で火の見櫓が許されていたのは松平氏5家に過ぎなかったらしい)。

 町の火の見櫓はその後、「大火毎に大きくなり、総高さ2丈6尺5寸、(8.0m)枠高さ3尺5寸、幅3尺5寸四方のいわゆる枠火之見が自身番屋の屋根につくられた」(内藤 昌『江戸と江戸城』復刻版〈講談社学術文庫〉より)という(注:原文は漢数字、句読点ママ。引用文は漢数字が多いが、一部を除き算用数字に統一した)。定火消も「9m(3丈)」が最高かと思いきや(論考の多くはそこで留まる、最高9m説)、広重が属した頃の『八代洲河岸屋敷』の火の見櫓の高さは「軒高4丈8尺」(約14.5m)もあった(享和2年11月/1802)。麹町の火消屋敷の場合はもっと高く、「5丈8尺8寸(17.8m)」(享和2年11月及び慶応2年/1866)あったらしい。それらの所在地と「標高」を重ね合わせた研究を見かけた。火消屋敷は幕末4か所だったことは分かっている(最後は「1組」)。うち3か所(江戸城の北西側)は標高が高く、その残存理由の一つと見做されている。残る1組は「八重洲河岸」(南東)であり、江戸城南側なので標高は低い。ところが異説によれば、高いとされた「御茶の水」(北側)は既に無く、それより低い「赤坂溜池」(南西側)が残っていた。


 『定火消発祥の地』の碑文が新宿区にある。「万治元年(1658)、新たな消防制度として江戸に誕生した定火消の屋敷のひとつがこの市谷左内町21番地および市谷田町1丁目地内に置かれました。屋敷内には火の見やぐらが立てられ、定火消役の旗本以下、与力6人、同心30人、火消人足およそ100人が火事に備え、ここに初めて火消しの常駐する場所がつくられました」(平成17年2月 新宿区)とある。この時つくられたのは「飯田町・市ヶ谷佐内坂・御茶の水・麹町半蔵門外」(『江戸と江戸城』より)の4か所と言われ、広重が火消同心として活躍した「八代洲河岸」はまだ存在していない。だが、同じ「4か所」ではあるが、「万治元年(1658)9月…飯田町・小石川伝通院前・御茶の水上・麹町半蔵門外」(「災害教訓の継承に関する専門調査会報告書原案『1657 明暦の江戸大火』(内閣府防災情報)」=以下「内閣府防災情報」,より)とする説には件の「市谷」は出てこない。それに拠れば、「市谷佐内坂」は4年後の「寛文2(1662)年4月」に登場するので、『発祥の地』の碑文は無残にも倒れてしまう。


 紀州藩主・徳川吉宗が将軍職を継いだのは正徳6年(1716)5月1日。幼少の家継いえつぐを支えていた間部詮房まなべあきふさ新井白石あらいはくせきが罷免され(5月16日)、「享保きょうほうの改革」が始まる。6月22日、「享保きょうほう」に改元(4月30日家継没/享年8歳により改元)。吉宗の将軍宣下しょうぐんせんげは享保1年(1716)8月13日。同年、「方角火消」が大手組・桜田組の2隊に編成替えされた(異説あり)。吉宗の改革には、現代に通じる身近なものとして倹約の励行、新田開発、養生所の設立や目安箱の設置、甘藷や菜種、朝鮮人参の栽培などがある。その一つが、町火消『いろは組』の創設である。

 武家の火消しは主に江戸城や幕府の重要施設を守る為にあった。町人は手を拱いていた訳ではないが、度重なる「大火」は江戸の町を飲み込む。なのに、対抗できる消防組織は無かった。吉宗が就任した翌年、享保2年(1717)1月22日、200余町が焼失したと言われる「小石川馬場の火事」が発生した。各藩に、藩邸付近の火災にも出動するよう命じる契機となり、改めて町家の消防に目が向けられた。この火事は江戸大火の一つに数えられるが、その前後にも大きな火事があった。1月7日「元数寄屋町出火」、1月13日「日本橋附近火災」、1月23日「赤城辺出火」。さらに「小伝馬町大火」(6月9日)、「南槙町火事」(10月5日)、「神田火事」(12月13日)、「牛込大火」(12月28日)と、火災が続いた年でもある。

 そういう年の2月3日、大岡忠相おおおかただすけが江戸町奉行に任命される。大岡はいち早く隅田川堤に桜を植え(同年5月)、娯楽としての「花見」の賑わいで堤防が踏み固まることも期待している(水害対策)。吉宗は「昌平坂学問所」を庶民にも開放し(同年7月)、教育に熱心であったが、大岡と共に町の「火災対策」へ向け積極的に乗り出す。例えば「目安箱」の設置も、実際に町の防火や防疫に役立ったと言われている(「投書」を聞き入れた瓦葺かわらぶき屋根や塗籠ぬりごめ土蔵造りの奨励、小石川養生所の設立など)。


 かつての消防は、火事が起きれば駆けつける「駆付かけつけ消防」である。「村落部の消防については、駆付消防が主で城下町のような組織的なものはありませんでした。/この駆付消防は、古くは『大化の改新』後の5戸制度を起源とする5人組と現在の青年部ともいうべき若者組が当たりました」(「消防団」総務省消防庁)という。また、「我が国の消防がいつ頃から始まったかあまり明確ではないが、平安朝時代に宮殿を防火する役目の『禁裡火消』が設置されたという記録が残っている」(データベース『えひめの記憶』/愛媛県生涯学習センター)らしい。

 「火災」はいつの時代にもある。消防組織があろうがなかろうが、身分の差があろうがなかろうが等しく襲いかかり、傍観できない。武士は「江戸城」だけを守り切れる筈もなく、正しくそれを守る為にも「町の火消し」について考えざるを得ない。「武家火消」は、決して武家地だけを守っていた訳ではないのである。「町火消」がなかったと言われる江戸の初期、「寛永14年(1637)12月18日 江戸中橋より出火、諸大名別邸・市街に延焼。町奉行、引責により後日閉門」(江戸時代年表)された事実が、何を意味するかを考えたい。


2)「大名火消」の始まり(或いは「奉書火消」について)

 大名火消の始まりは、一般に1643年(寛永20年)と言われている。

 傍証は数多い。▶「1643年(寛永20年)9月 大名火消の制を定める」(山川詳説日本史図録)/「1643年9月、大名火消設置」(大江戸知れば知るほど)/「1643年(寛永20年)9月27日 江戸に大名火事番を設置(大名火消の起こり)」(江戸時代年表)/「府内火災消防四隊下命…1643(寛永20)年9月27日」(出典『大猷院殿御実紀巻55』『徳川十五代史』,東京都公文書館より)。

 この時の「大名火消」は、「江戸の奉書火消を改め、大名火消の制度を発足させた。6万石以下の大名16家を4家ずつ4組に分け、10日交代で常時火消出動の態勢をとる。1万石につき30人の火消しの者を用意、1組は420人とする」(読める年表日本史)。「のちには若干人数の変動も見られ、また大火のおりには老中から『増火消』として、臨時に火消役を命じられることもあった」(お江戸の経済事情)という。重要なことは、これまであった「奉書ほうしょ火消」を「改めた」ことによる「大名火消」隊であること。


 江戸最初の大火と言われる「桶町おけちょう火事」で大名火消が整えられたことはよく知られている(『当代記』では「火災」と記される。開府以前の江戸では、慶長6年/1601年にも「大火」があった)。寛永18年(1641)1月29日、「京橋桶町より出火、97町1,924軒類焼(桶町火事)」(江戸時代年表)したという。2か月後の3月30日、日本橋からも出火した。泉岳寺は桜田より芝高輪へ移り(1月)、木場は日本橋から深川へ移転された(この春)。

 「江戸初期には各藩はもとより幕府にも消防組織はなかった。江戸の場合、江戸最初の大火である桶町おけちょう火事の翌々年の1643年(寛永20)に大名火消…が創設された」(『日本歴史大事典』〈小学館〉)。桶町火事により「防火体制の見直しが行われ、大名火消設置の契機となった」(ウィキペディア「江戸の火事」)という次第であるが、既に2年8か月も経過していた。▶翌年「閏月うるうづき」(閏9月)があるので実質「33か月(2年9か月)」と思うが、殆どが「2年後」と書いている。▶「桶町の大火…将軍家光は直ちに江戸の防火対策の検討を命じ、担当する奉書火消役は協議の結果、本格的な火消部隊の編成を上申、2年後の1643年11月(寛永20年9月)…4隊に編成した常備消防“大名火消”を創設した」(防災情報新聞)と一般的に言われるが、それにしても無能と言うべきか、遅すぎた対策ではなかろうか(果たして本当に「契機」だったのだろうか?)。

 例えば、「島原・天草の一揆」(寛永14年10月-15年2月)が起こると即座に「隣国出兵の禁を緩和」し、「由井正雪の幕府転覆計画」(1651/慶安4年7月)を契機に、牢人=不穏分子を出さぬよう、年内に「末期養子まつごようしの禁の緩和」が決定されている。何よりも、寛永16年(1639)8月11日の「江戸城本丸の全焼」により、翌9月には「奉書火消」の制度化が図られていた。▶「江戸城焼失を機に、従来は間にあわせで命じていた奉書火消を制度化することになった。浅野内匠頭長直など6大名が奉書火消役専任となる(1639・9)」(読める年表日本史)。尚、「(寛永16年10月15日)それまで臨時の措置であった“奉書火消”役を播州(兵庫県)赤穂の浅野家以下6大名家に専任化した」(防災情報新聞)という「10月」説もあるが、それでも素早い対応であり、それらの事例を「契機」と言うべきであろう。

 寛永19年(1642)、5月18日「京都大火」、7月16日「(江戸)府内大火」、11月「奈良大火」が発生した。また、この年は、前年(寛永18年)からの冷害・大凶作で「寛永の大飢饉」が起こっていた(その対策の一つが、寛永20年3月11日の「田畑永代売買禁止令」)。5月9日、譜代大名にも「参勤交代」を命じ(翌年実施。2月出府と8月出府に分ける)、翌寛永20年(1643)8月8日「五番方の新番設置」や同年8月「諸大名登城参賀の順を定める」など、矢継ぎ早に幕政に関わる重大な政策を決定している。「“大名火消”を創設」は、その翌月の9月27日である。約3年前(「2年前」ではない)の「(桶町)大火」より、直前の大火や切迫した社会情勢の変化をこそ重視したい。


 それ以前に「組織」はなかったが、「役務」はあった。

 「大名火消:幕府は寛永(1624-44)の初年から大名への課役として、江戸城以下の重要建造物をはじめ、大名の藩邸とその付近一帯の消火活動を義務付けた」(『精選版日本国語大辞典』〈小学館〉)ことが曲者なのである。「寛永の初年」を文字通り解釈すれば「1624年」だが、寛永の「初め頃」であろう。「家光は1635(寛永12)年、武家諸法度を発布し…参勤交代を義務づけ…江戸に参勤した大名たちは、軍役として江戸城諸門の警備や火事の際に出動するなどの役務を担った」(山川詳説日本史研究)ので、遅くとも「寛永12年(1635)」と見做そう。

 そこに登場するのが、かつて大いに悩んだ「1634(寛永11年)1月 大名火消の制始む」(山川日本史総合図録)なのである。一般に言われる年代より10年早い。「武家諸法度」との関連は不明だが、それによる「課役」と見るのが一番自然な見方であろう。▶ネットで検索すると、出るわ出るわ…「1634年(寛永11年1月29日)- 江戸幕府が大名火消を設置する」(ウィキペディア「2月26日」)/「1634 寛永11 大名火消の制」(神田川歴史年表)/「1634(寛永11)年:大名火消の制を定める」(Key:雑学事典)/「寛永11年(グレゴリオ暦1634年2月26日)-江戸幕府が大名火消を設置」(Wikiwand「1月29日(旧暦)」)など。但しこれらは簡潔な年表で、詳細に触れたものは皆無に近い。

 「寛永11年(1634)1月29日、幕府は譜代大名6名に火消の指揮をとるよう命じました。大名火消しの始まりです。…大火発生の際は老中奉書によって出動が命令され、6名の指揮のもと消火活動を行うということで奉書火消と呼ばれました」(或るネット情報)はその内容に踏み込んでいる。「1月29日:1634年江戸幕府が各藩邸から出動して江戸市内の消火にあたる大名火消を設置した日」(都城地域高等職業訓練校)ともあった。「江戸市内の消火にあたる」は画期的なことである。「武家火消は町家を守らなかった」という俗説を否定していることは喜ばしい。▶「大名火消のはじまり」は、もっと早い(1629年)と見る向きもある。「(寛永6年5月)参勤交代に當りて、就封の大名に代り、火の番を命ぜられし大名十数家あり、各壱萬石につき三十人の割合を以て消防に従事せしむ」を「是より先」とした上で、「寛永十一年十月安藤長重以下五人に、火災の時速に馳せ行き消防すべしと命ず」を挙げている(「こもんじょ館」より,出典:『江戸時代制度の研究』松平太郎著)。後半の記述は『山川日本史総合図録』と一致する寛永11年(1634)だが、「10月」であり「1月」と異なる。また、「安藤長重」は、次の情報とは違う(「(安藤)重長」ではない)。「寛永十一年十月」云々の出典は『徳川十五代史』らしいので、要確認。▶「寛永11年(1634)1月29日-幕府が安藤重長ら6人に江戸市中の消防の指揮を命じる」(江戸歴史六十余州)。


 最初の武家諸法度は、豊臣氏滅亡の直後(慶長20年/1615年)に2代将軍・秀忠が出した『元和げんな令』(13ヵ条)である(家康の命で起草、起草者・以心崇伝いしんすうでんが読み上げた。6日後「元和」に改元)。1616年と1629年に修正され、3代将軍・家光は『寛永令』(1635年19ヵ条/21ヵ条説)を出した。これは俗に「参勤交代の制度化」と言われる重要な「大改訂」である。先の『元和令』では「諸大名参勤作法之事」として、「多勢を引率すべからず」と戒めていた。『寛永令』でも、「大名、小名在江戸交替所相定也。毎歳夏四月中可致参勤」とあり、確かに参勤交代を「制度化」しているが、続けて「従者之員数、近来甚多、且国郡之費、且民之労也。向後以其相応、可減少之」とある。「参勤」で国費を使いすぎるな、人民を労れと戒めていたのである。そうして、「但上洛之節者、任教令、公役者可随分限事」と締め括られる。他の条項でも「倹約」が奨励されているが、この「教令」や「公役くやく」が具体的に示されている訳ではない。「憲法」のようなものだから、当然である。そういう意味では、『元和令』にもある「(蓋)公役(之時者可随其分限矣)」も同じであろう。

 「寛永6年(1629)」、「寛永11年(1634)」、或いは「寛永16年(1639)」の何れにせよ、武家諸法度に基づく「公役くやく」として、「奉書」を以て命じられた「火消」であった。


 「小大名たちによる火消役の最初は、1629年6月(旧暦・寛永6年5月)、参勤交代で帰国せず江戸に残った在府大名の内10数家に“火の番(大名火の番)”を命じ、火災の際、老中が将軍の命令書『奉書』をもって命じた“奉書火消”が最初とされている。そして10年後の39年9月(寛永16年8月)に起きた江戸城本丸殿舎の火災を契機に、同年11月(旧・10月)この奉書火消を“専任化”し6大名に任命した」(防災情報新聞)とまとめられる。だが、そこでは何故か言及されていない「1634(寛永11年)1月 大名火消の制始む」(山川日本史総合図録)は、その中間に位置づけられよう。その詳細が先の「寛永11年(1634)1月29日-幕府が安藤重長ら6人に江戸市中の消防の指揮を命じる」(江戸歴史六十余州)であるが、寛永16年(1639)の「浅野家以下6大名家に専任化」との違いがあまり見えてこない(寛永16年以前は「間にあわせで命じていた」、「臨時の措置であった」と見做されてはいる。「兼務」から「専任化」なら理解できるが、どうなのか?判然としない)。担当が特定されたことを以て「制度」と見做すなら、「大名火消」の始まりは「1634(寛永11年)1月」であろう。「大名が担った」ことが重要なら、その初めは「寛永6年(1629)」となろうが、それ以前の可能性も否定できない。肝心なことは、「奉書火消」が存在した訳でなく、「奉書」という形式であったこと。故に、奉書火消が「設置された」とか「創設された」といういいは誤りであろう。飽くまでも奉書火消は、「奉書により命じられた火消」(以降の「増火消」などに見られる)という以外の何ものでもない、便宜上の区分に過ぎない。

 まあ、それでも、取り敢えず出揃ったようだ。

 ①1629年(寛永6年5月)在府の大名10数人(1万石につき火消30人)

 ②1634年(寛永11年1月29日/10月?)安藤重長ら6大名(消防の指揮)

 ③1639年(寛永16年10月15日/9月?)浅野長直ら6大名の専任化

 ④1643年(寛永20年9月27日)4隊/各4大名(1万石につき火消30人)

 江戸で大名火消が組織的な制度として確立したのは「1643年」である。その前身は、恐らく江戸開府以前からであろうが、記録として残るのが1629年。


3)「定火消」について(「1650年」創設説と「1658年」説など)

 大名火消に対して言われる幕府直轄の「定火消」だが、一般には「明暦の大火の翌年の1658年(万治元)に定火消じょうびけしが創設された」(日本歴史大事典)とされる。

 同様な説は枚挙にいとまがない。▶「1658年説」の数例:「万治1年/明暦4(1658)9月8日 定火消を創設」(江戸時代年表)/「1658年9月 江戸定火消の制始める」(山川日本史総合図録)/「1658年9月 江戸に定火消を創置する」(日本史年表/東京堂出版)など。▶組織は、「このとき4人の旗本に火消屋敷と、火消人足を抱えるための役料300人扶持(1人扶持は米5合)を支給し、6人の与力と30人の同心、100人の『臥煙がえん』とよばれる火消人足が配下におかれた」(お江戸の経済事情)が、臥煙や組数には変動がある。ところで、「1人扶持は米5合」は説明不足。「1人扶持は1日あたり5合を基礎とする月俸1斗5升、年1石8斗に該当(…定火消は警火や消火だけでなく、火事場の治安維持にもあたることになっており、鉄砲の所持および演習も認められていた)」(内閣府防災情報)が正確であろう。「定火消」を語る場合、重要な点は、「火消屋敷」が与えられた「治安(武装)部隊」だったことである。▶その勤務体制は、「発足当初は4組編成で、2組ずつ隔日に当番」(読める年表日本史)したらしい。▶尚、設置当時は「定火消」と言わず、『江戸中定火之番』と言っていたようである。「火の番:…江戸時代になると…幕府が寛永年間(1624-44)に表火之番と奥火之番を与力・同心で組織し、城内の火の元を警戒させた。同時期には本格的な消防組織として大名火消が小大名16家によって編成され、交代で火消役を出した。明暦の大火(1657)以後、機敏性を欠く大名火消のほかに幕府直属の江戸中定火之番つまり定火消が組織され、城下数ヵ所に火消屋敷が設置された」(平凡社世界大百科事典)/「万治元年(1658)9月、定火消が設置された。無役の旗本秋山十右衛門正房、町野助左衛門幸宣、近藤彦九郎用将、内藤甚之丞正吉の4名が、『江戸中定火之番』すなわち定火消役を命じられたのである」(内閣府防災情報)▶幕府の職制は『火消役』(「定火消役」も散見)。「火消役設置…1658(万治元)年9月8日」(『厳有院殿御実紀巻16』など,東京都公文書館)/「定火消役増置…1659(万治2)年8月21日」「(同年月)定火消持場指定」(『厳有院殿御実紀巻18』など, 東京都公文書館)▶ところで「火之番」「火番ひのばん」であるが、大名火消にも登場する。「両山火番任命…1698(元禄11)年9月22日」(『常憲院殿御実紀』など, 東京都公文書館),「浅草米廩火番…1721(享保6)年10月11日」(『有徳院殿御実紀』, 東京都公文書館)など。「両山」とは、「東叡山とうえいざん寛永寺」(上野)と「三縁山さんえんざん増上寺」(芝)を指す。「浅草米廩あさくさこめぐら」は「浅草御蔵」「浅草御米蔵」に同じ。▶補足:「八王子千人同心」と「定火消(十人火消)」について——「千人同心(千人組)」とは、「(八王子千人同心の)千人頭せんにんがしらは将軍にお目見えが許される旗本格…千人同心に命じられた重要な役目が、慶安5年(1652年)から勤めた日光火の番」(「八王子市」より)である。「宝永元年(1704)10 月…定火消5組が廃止され、新たに八王子千人同心に対し江戸火消を命じた」(内閣府防災情報)が(注:「千人組同心消防令」は宝永2年2月15日。尚、「八王子千人組の同心200名が江戸に来て…」の情報あり)、数年後、「八王子千人組江戸火番免除…1708(宝永5)年3月18日」(『常憲院殿御実紀』など, 東京都公文書館)となる。▶その理由は、「千人同心は負担に耐えきれずほどなく江戸火消を免除されることとなるので、定火消は残る10 組で幕末まで活動を行うこととなる。そのため、定火消は「十人火消」とも呼ばれた」(内閣府防災情報)


 「1650年」説の支持者も多い。▶「1650年火消役が置かれ、旗本を頭に与力・同心で組織された定火消は、58年設置された」(『日本史事典』〈旺文社〉)/「慶安3年(1650年)幕府は旗本2人を火消役に任命し、『定火消』という常設の消防組織をつくりました」(日本消防協会)/「定火消は慶安3年(1650)徳川三代将軍家光のとき、四千石以下の旗本を頭として置かれたのが、官設消防の始めとされている」(身延町誌)/「慶安3年(1650)、幕府は4,000石以上の旗本2人を火消役に任命している。これが定火消と称する幕府直轄の火消組織であり、頭の旗本の下にはそれぞれ与力・同心が付属し、臥煙がえんと称する火消人足が働く。はじめは2組で発足したが、明暦の大火後の万治元年(1658)には4組に増設された。このころの定員は512人と伝えられており、1組平均128人となるからかなりの大部隊である。この火消屋敷は現在の消防署に相当し、江戸城周辺の麹町、御茶の水、佐内坂、飯田町に配置され(注:異説あり)、江戸城防備が任務であった」(消防防災博物館)など多数。

 「江戸城防備が任務」は間違いない。或いは、「大名火消や定火消の出動する範囲は厳しく制限され、江戸城と武家屋敷とに限られ、町場の火災には出向かず、延焼の恐れのあるときでも境界線で待機していた」(「広島市を守る消防団」広島市)とも言われる。▶しかし、「定火消し:江戸幕府の職名。…江戸市中の防火および非常警備にあたった」(『大辞林』〈三省堂〉)も一般的な見方であろうし、何よりも具体的な(恐らく「十人火消」と呼ばれた頃)、「定火消の出動範囲は、札の辻、麻布、青山、権田原、四谷、大久保、市谷、牛込、小日向、小石川、本郷、谷中、下谷、浅草、八丁堀、深川、本所及び北本所に限られており、各組は自らの火の見櫓を中心に8町(約873m)以内で火災が発生した場合に出動していた」(内閣府防災情報)がある。出動範囲が限定されているとはいえ、「8町」以内に町家が1軒もなかった筈がなかろう。

 その変遷は、「『火災予防に関する町触れ』を公布した幕府は、その翌々年の慶安3年には、大身の旗本2名を『火消役』に任命して2組の火消組を常置じょうちすることにしました。今でいう消防署です。常置するから『定火消じょうびけし』と呼んだのです。以後定火消は6組、8組、15組、8組、4組と増減しながら幕末まで続きます」(大阪府消防協会)とある。▶注:「旗本」と「大身たいしん」について。「(幕臣…禄高ろくだか1万石未満の者で…一般に『御直参ごじきさん』)のうち、代々将軍に謁見できる御目見おめみえ以上の者を旗本という。その禄高はさまざまで、知行ちぎょう3,000石以上の大身たいしんもいれば、切米きりまい100俵(知行100石に相当)以下の小身しょうしんもいた」(『江戸博覧強記』江戸文化歴史検定協会 編〈小学館〉)とされる。▶しかし、「慶安3年…定火消」(大阪府消防協会)から続けた次の文面は何とも理解しがたい。「旗本による定火消を常設してから67年が経過します。…幕府は常設消防強化のため、さらに譜代大名に命じて『大名火消』を常設する事にしました。享保2年(1717)8代将軍吉宗の頃でした。譜代大名11人11組を、江戸城周辺に配置したので『方角火消ほうがくびけし』とも呼ばれました」(大阪府消防協会)。1717年は、「方角火消」が4組になる説もあるが(異説あり)、仮にそうであっても「常設する事にし」た年ではない。無論「11組」ではあり得ない。しかも、「11人11組」は或る時期(1722年以降)の「所々火消」を指し(「方角火消」ではない)、譜代及び外様大名が担当した。▶「泰平年表に慶安三年六月二組を設くとするも詳ならず」(「こもんじょ館」より,出典:『江戸時代制度の研究』松平太郎 著)とあり、「慶安3年(1650年)」の論拠が『泰平年表』にあることが明かされるが、不詳としている。実際、「慶安3年…2組の火消組…今でいう消防署」(大阪府消防協会)が何処にあったのか、詳らかにした例は見かけない。

 異色は、「1650年」説より丸1年早い。「定火消は…慶安2年(1649)6月幕府が2組編成したのをはじまりとし、4千石以上の旗本(組頭)をして…」(『港区史上巻』港区役所)とあるものの、信じがたい(原文も同じ算用数字)。▶尚、「4千石以上の旗本」とする説が殆どであるが、旗本の大身たいしんを「3千石以上」と考えれば、「定火消役は三千石以上寄合の任務」(『江戸時代制度の研究』より)との説は尤もと思える(「4千石」の論拠が知りたい)。


 「1658年」説に戻ろう。

 万治元年(1658)の「後増減を繰り返し、宝永元年(1704)以降は10部隊となったため、定火消は『十人火消』ともよばれたが、幕末に段階的に減らされ、慶応3年(1867)には、一組128人となった」(お江戸の経済事情)ことは通説である。しかし、その屋敷の所在(推移)は謎に満ちている。▶火消屋敷の所在(通説?⑴)は、「明暦大火後…冬期の季節風を考慮して、江戸城の西~北方の飯田町・市ヶ谷佐内坂・御茶の水・麹町半蔵門外の四ヵ所にまず設けられた。/そして万治2年(1659)には鼠穴(江戸城内郭)・駿河台の二ヵ所を、翌3年に八代洲河岸・代官町(のちに四谷門外)、寛文2年(1662)に小石川伝通院前・さいかち坂上(駿河台)、さらに元禄8年(1695)には神楽坂上・赤坂門外・赤坂溜池上・浜町・幸橋(のち木挽町から四谷門内六番町)が順次加えられて、計15組となる」(『江戸と江戸城』より)と、変遷したという。『定火消発祥の地(碑文)』(新宿区)の「市谷左内町」とも合致するが、次の「所在⑵」とは全く異なる。▶(「御茶の水」と「御茶の水上」、「さいかち坂上(駿河台)」と「駿河台土手」、「幸橋」と「幸橋外」などの相違も気になるが)最も困るのが、「市ヶ谷佐内坂」と「小石川伝通院前」の設置年が真逆であること。▶火消屋敷の所在(異説?⑵=小生の採用説)は、「明暦の大火の翌年…4箇所の火消屋敷はそれぞれ御茶ノ水・麹町半蔵門外・飯田町・小石川伝通院前に設けられ、すべて江戸城の北西であった」(ウィキペディア「火消」)/「万治元年(1658)9月…秋山が御茶ノ水上、町野が小石川伝通院前(のち小川町)、近藤が麹町半蔵門外、内藤が飯田町に火消屋敷を設置」「寛文2(1662)年4月、駿河台土手に蒔田権佐定行が、市谷佐内坂に堀田五郎左衛門一輝が火消屋敷を与えられ、合計10組編成となった」「元禄8年(1695)1月…神楽坂上…赤坂御門外…溜池上…幸橋外(のち四谷御門)…浜町に火消屋敷を与えられ、定火消は計15組に増設」(内閣府防災情報より)など、こちらも劣らず多く流布されている。▶それ以降については、先ず「宝永元年(1704)10 月、駿河台土手・代官町・浜町・鼠穴・神楽坂の定火消5組が廃止され…定火消は残る10 組」(内閣府防災情報)となった。その後、安政2年(1855)8月、「六番町・小川町の二組を廃し」、慶応2年(1866)8月、「御茶の水・佐内坂・飯田町・赤坂門外の四組を撤し頭は勤仕並寄合、組は持小筒組に編入せり」(「こもんじょ館」より-出典『江戸時代制度の研究』松平太郎著)とある。廃止された「六番町」は「(前)幸橋外」や「四谷御門」、「小川町」は「(前)小石川伝通院前」であろう。

 しかし、「安政2年(1855)縮小 小川町、溜池之上を廃止」「慶応2年(1866)縮小 飯田町、市谷左内、赤坂、四ツ谷門廃止」(『江戸の主要防火政策に関する研究』森下雄治,山﨑正史)もあり、「四ツ谷門(前・幸橋外)」の廃止年が異なる。それに拠れば、安政2年(1855)「飯田・御茶水・麹町・駿河台・八重洲河岸・市谷佐内坂・赤坂・四ツ谷門内」が残り(8組)、慶応2年(1866)「御茶水・麹町・駿河台・八重洲河岸」が残ったとされる(4組)。その経緯は、先の諸情報を整理して得られた「溜池上・麹町半蔵門外・駿河台・八代洲河岸」(4組)と相違する(4組のうち、「御茶の水上(御茶水)」と「溜池之上(赤坂溜池上)」の何れが残ったのか?)。だが、いずれにせよ、結局「最後の一組」には言及されていない。「幕末には参勤交代が緩和されて江戸藩邸の住人が減り、定火消組も洋式陸軍に予算と人員を充てるため大幅に減らされた」(『戦前東京の消防 町火消から警防団まで』鈴木淳)らしく、例えば「1659年に設置されたのが駿河台定火消御役屋敷…これも明治まで存続しました」(Gokenin 御家人|軍事板常見問題 戦史別館より)とはあるものの、恐らく「屋敷」という建造物を指している。


 最後の一組は何処だったのか?

 「定火消役は…寄合火消」とも言われ、「持高勤にして役扶持三百口」だったが、「慶應三年九月改めて役金二千両と為せり」(『こもんじょ館』より-出典『江戸時代制度の研究』松平太郎著)という記述があった。この「慶應三年九月」が残る一組なのかは分からない。また、「拾組の中銃隊七組、弓隊三組…幕末軍制改革の必要起るに及び、文久二年閏八月弓隊を廃して悉く鉄砲隊となせり、定火消役は之より百人組の頭・持頭・両番頭・小普請支配、新番頭等に転ず」(同上)とある。文久2年(1862)閏8月に「7組(鉄砲隊)」が残り、3組は他の職制に吸収されたと解すこともできる(或いは、10組全てが鉄砲隊)。尚、「百人組(鉄砲百人組)」は、同年(1862)12月19日に廃止された。

 参考となり得るのが、次の記述である。「薩州邸の焼討は慶応三年の十二月廿五日と記憶おぼえている…そのころ赤坂には火消屋敷があって、その与力の浅井と云うへ私の叔母がかたづいている。そこへ寄って聞いて見ようと…声をかけると…その叔父の出張…消防の為なのだ」(『五十年前ごじゅうねんぜん』,塚原渋柿園 著,菊池眞一 編『幕末の江戸風俗』岩波文庫より)と書かれている。焼き討ちされた「薩摩藩邸」は三田にあった。その「赤坂」は、「(赤坂)溜池(之上)」か「赤坂(御門外)」しか該当しないと考えられる。だとすれば、「慶応2年(1866)御茶水・麹町・駿河台・八重洲河岸」が残るとした4組説と矛盾する。「(赤坂)溜池之上」は既に安政2年(1855)廃止され、「赤坂(御門外)」も慶応2年(1866)に廃止されたとあるからである。もう一つの4組説「溜池上・麹町半蔵門外・駿河台・八代洲河岸」(「御茶の水」「赤坂門外」は慶応2年廃止)に従えば、最後の一組は、「(赤坂)溜池(之)上」に絞られる。


——「組数」は同じだが所在が異なる「変遷」にフラストレーションが溜まる。慶応3年(1867)に定火消は「一組128人となった」と異口同音に言及されながら、幕末の大混乱で見落とされたのか、誰も(?)その所在を明らかにしない。武家火消(定火消・方角火消・所々火消)の衰退は町火消の隆盛と深く関わるが、何よりも幕末の権力関係を反映した「参勤交代制の無力化」が大きく関係している。幕府が最後まで守ろうとした「定火消」は一体何処だったのか、それを知りたい。だが、「敵前逃亡」の慶喜のように、力尽きてしまった(複雑なので、以下にまとめ直した)。——


【定火消(火消屋敷)の変遷(2説or 4説)】

[①内藤 昌『江戸と江戸城』より,②『内閣府防災情報』より,③池上彰彦『江戸町人の研究第5』を元に作成の森下雄治・山﨑正史論文より,④松平太郎『江戸時代制度の研究』より]


○慶安3年(1650)6月

【2組】(4,000石以上の旗本)詳細不明

❶万治1年(1658)9月8日

【4組】

 ① ⑴麹町半蔵門外,⑵御茶の水,⑶市ヶ谷佐内坂,⑷飯田町

 ② ⑴麹町半蔵門外,⑵御茶ノ水上,⑶小石川伝通院前(のち小川町),⑷飯田町

 ③ ⑴麹町,⑵御茶水,⑶伝通院前,⑷飯田

 ④ ⑴麹町,⑵御茶の水,⑶佐内坂,⑷飯田町

❷万治2年(1659)8月

【6組(2組増)】

 ① ⑸鼠穴(江戸城内郭),⑹駿河台

 (⑴麹町半蔵門外,⑵御茶の水,⑶市ヶ谷佐内坂,⑷飯田町,⑸鼠穴,⑹駿河台)

 ② ⑸鼠穴,⑹駿河台

 (⑴麹町半蔵門外,⑵御茶ノ水上,⑶小石川伝通院前(のち小川町),⑷飯田町,⑸鼠穴,⑹駿河台)

 ③ ⑸鼠穴,⑹駿河台

 (⑴麹町,⑵御茶水,⑶伝通院前,⑷飯田,⑸鼠穴,⑹駿河台)

 ④ ⑸鼠穴,⑹駿河台

 (⑴麹町,⑵御茶の水,⑶佐内坂,⑷飯田町,⑸鼠穴,⑹駿河台)

❸万治3年(1660)11月

【8組(2組増)】

 ① ⑺八代洲河岸,⑻代官町(のちに四谷門外)

 (⑴麹町半蔵門外,⑵御茶の水,⑶市ヶ谷佐内坂,⑷飯田町,⑸鼠穴,⑹駿河台,⑺八代洲河岸,⑻代官町)

 ② ⑺八代洲河岸,⑻代官町

 (⑴麹町半蔵門外,⑵御茶ノ水上,⑶小石川伝通院前(のち小川町),⑷飯田町,⑸鼠穴,⑹駿河台,⑺八代洲河岸,⑻代官町)

 ③ ⑺八重洲河岸,⑻代官町

 (⑴麹町,⑵御茶水,⑶伝通院前,⑷飯田,⑸鼠穴,⑹駿河台, ⑺八重洲河岸,⑻代官町)

 ④ ⑺八代洲河岸,⑻代官町(後四谷門内に移す)

 (⑴麹町,⑵御茶の水,⑶佐内坂,⑷飯田町,⑸鼠穴,⑹駿河台,⑺八代洲河岸,⑻代官町)

❹寛文2年(1662)4月/④2月

【10組(2組増)】

 ① ⑼小石川伝通院前,⑽皀角さいかち坂上(駿河台)

 (⑴麹町半蔵門外,⑵御茶の水,⑶市ヶ谷佐内坂,⑷飯田町,⑸鼠穴,⑹駿河台,⑺八代洲河岸,⑻代官町, ⑼小石川伝通院前,⑽皀角さいかち坂上(駿河台))

 ② ⑼市谷佐内坂,⑽駿河台土手

 (⑴麹町半蔵門外,⑵御茶ノ水上,⑶小石川伝通院前(のち小川町),⑷飯田町,⑸鼠穴,⑹駿河台, ⑺八代洲河岸,⑻代官町, ⑼市谷佐内坂,⑽駿河台土手)

 ③ ⑼市谷左内坂,⑽駿河台土手

 (⑴麹町,⑵御茶水,⑶伝通院前,⑷飯田,⑸鼠穴,⑹駿河台,⑺八重洲河岸,⑻代官町, ⑼市谷左内坂,⑽駿河台土手)

 ④ ⑼傳通院前,⑽皀角さいかち坂上

 (⑴麹町,⑵御茶の水,⑶佐内坂,⑷飯田町,⑸鼠穴,⑹駿河台,⑺八代洲河岸,⑻代官町,⑼傳通院前,⑽皀角さいかち坂上)

❺元禄8年(1695)1月/④2月

【15組(5組増)】

 ① ⑾神楽坂上,⑿赤坂門外,⒀赤坂溜池上,⒁浜町,⒂幸橋(のち木挽町から四谷門内六番町)

 (⑴麹町半蔵門外,⑵御茶の水,⑶市ヶ谷佐内坂,⑷飯田町,⑸鼠穴,⑹駿河台,⑺八代洲河岸,⑻代官町, ⑼小石川伝通院前,⑽皀角さいかち坂上(駿河台),⑾神楽坂上,⑿赤坂門外,⒀赤坂溜池上,⒁浜町,⒂幸橋)

 ② ⑾神楽坂上,⑿赤坂御門外,⒀溜池上,⒁浜町,⒂幸橋外(のち四谷御門)

 (⑴麹町半蔵門外,⑵御茶ノ水上,⑶小石川伝通院前(のち小川町),⑷飯田町,⑸鼠穴,⑹駿河台, ⑺八代洲河岸,⑻代官町, ⑼市谷佐内坂,⑽駿河台土手, ⑾神楽坂上,⑿赤坂御門外,⒀溜池上,⒁浜町,⒂幸橋外(のち四谷御門))

 ③ ⑾神楽坂,⑿赤坂,⒀溜池之上,⒁浜町,⒂幸橋外

 (⑴麹町,⑵御茶水,⑶伝通院前,⑷飯田,⑸鼠穴,⑹駿河台,⑺八重洲河岸,⑻代官町, ⑼市谷左内坂,⑽駿河台土手,⑾神楽坂,⑿赤坂,⒀溜池之上,⒁浜町,⒂幸橋外)

 ④ ⑾神楽坂上,⑿赤坂門外,⒀溜池上,⒁濱町,⒂幸橋外(後木挽町に移り、更に六番町に転ず)

 (⑴麹町,⑵御茶の水,⑶佐内坂,⑷飯田町,⑸鼠穴,⑹駿河台,⑺八代洲河岸,⑻代官町,⑼傳通院前,⑽皀角さいかち坂上,⑾神楽坂上,⑿赤坂門外,⒀溜池上,⒁濱町,⒂幸橋外)

❻宝永1年(1704)10 月

【10組(5組廃止)】

 ②廃止:駿河台土手,代官町,浜町,鼠穴,神楽坂

 (⑴麹町半蔵門外,⑵御茶ノ水上,⑶小石川伝通院前(のち小川町),⑷飯田町,⑸駿河台, ⑹八代洲河岸,⑺市谷佐内坂,⑻赤坂御門外,⑼溜池上,⑽幸橋外(のち四谷御門))

 ③廃止:駿河台土手,代官町,浜町,鼠穴,神楽坂

 (⑴麹町,⑵御茶水,⑶伝通院前,⑷飯田,⑸駿河台,⑹八重洲河岸,⑺市谷左内坂,⑻赤坂,⑼溜池之上,⑽幸橋外)

 ④廃止:さいかち坂,四谷門内(旧代官町),濱町,小日向台,神楽坂上

 (⑴麹町,⑵御茶の水,⑶佐内坂,⑷飯田町,⑸駿河台,⑹八代洲河岸,⑺傳通院前,⑻赤坂門外,⑼溜池上,⑽幸橋外)

○宝永8年(1710)2月11日(移転)

 ③移転:⑽幸橋外を⑽木挽町に移転

 (⑴麹町,⑵御茶水,⑶伝通院前,⑷飯田町,⑸駿河台,⑹八重洲河岸,⑺市谷左内坂,⑻赤坂,⑼溜池之上,⑽木挽町)

○享保9年(1724)(移転)

 ③移転:⑽木挽町を⑽四ツ谷門内に移転

 (⑴麹町,⑵御茶水,⑶伝通院前,⑷飯田町,⑸駿河台,⑹八重洲河岸,⑺市谷左内坂,⑻赤坂,⑼溜池之上,⑽四ツ谷門内)

○享保10年(1725)3月19日(移転)

 ③移転:⑶伝通前を⑶小川町に移転

 (⑴麹町,⑵御茶水,⑶小川町,⑷飯田町,⑸駿河台,⑹八重洲河岸,⑺市谷左内坂,⑻赤坂,⑼溜池之上,⑽四ツ谷門内)

○文政11 年(1828)(活動制限)

 ②以降、郭内の火災に限られる

❼安政2年(1855)8月

【8組(2組廃止)】

 ③廃止:小川町,溜池之上

 (⑴麹町,⑵御茶水,⑶飯田町,⑷駿河台,⑸八重洲河岸,⑹市谷左内坂,⑺赤坂,⑻四ツ谷門内)

 ④廃止:小川町,六番町(四谷門内六番町)

 (⑴麹町,⑵御茶の水,⑶飯田町,⑷駿河台,⑸八代洲河岸,⑹左内坂,⑺赤坂門外,⑻溜池上)

❽慶応2年(1866)8月

【4組(4組廃止)】

 ③廃止:飯田町,市谷左内,赤坂,四ツ谷門

 (⑴麹町,⑵御茶水,⑶駿河台,⑷八重洲河岸)

 ④廃止:飯田町,御茶の水,佐内坂,赤坂門外

 (⑴麹町,⑵駿河台,⑶八代洲河岸,⑷溜池上)

❾慶応3年(1867)

【1組/128名(3組廃止)】

  推定:赤坂溜池上


【「定火消」の前身について】

 特筆すべきは、「1621(元和7)・7月 江戸で火消役が置かれる。官設消防の始まり」(「南部火消年表」盛岡市消防団)/「元和7年(1621)に火消役が設置されている。これが現在の消防の源であるともいえる」(データベース『えひめの記憶』/愛媛県生涯学習センター)があり、「火消役」についての再考が促される。

 或いは、「幕府の職制のなかに専門の消防が設けられたのは、寛永16(1639)年8月に江戸城本丸が炎上した翌年の7月、与力・同心で『表火之番・奥火之番』を置いたのが端緒」(『江戸時代商家の災害と対策の研究 日本橋・白木屋について』由井常彦・小川幸代)という指摘がある。つまり、「定火消」の前身は、寛永17年(1640)7月ということであろう。既出の「幕府が寛永年間(1624-44)に表火之番と奥火之番を与力・同心で組織し、城内の火の元を警戒させた」(平凡社世界大百科事典)と合致し、その年代が特定されたことになる。この時の「江戸城本丸」の全焼は寛永16年(1639)8月11日。しかし、同年「(寛永16年10月7日)将軍親衛隊の“番方”に、江戸市中の神田筋、山之手筋、桜田筋の3方面の巡回(夜廻り)を命じ…(10月8日には)城内の防火及び消火役である“火之番”から分離して、火元だった江戸城大奥専任の火の番“奥方火之番”を任命するなど、城内での火災の再発を厳重に警戒した」(防災情報新聞)らしく、事情は些か異なる。それはともかく、「1621(元和7)・7月 江戸で火消役が置かれ」たのは、この分離前の「火之番」であろうか。尚、「表火之番と奥火之番」は、後年の慶安3年(1650)8月の「所々火消」にも登場する。「(所々火消…大名家)…西の丸に表火之番と奥火之番が置かれる」(防災情報新聞)。


【京都の定火消などについて】

 京都では、「元禄3年(1690)9月、定火消制度を制定」して、「宝永6年(1709)12月11日、禁裏御所方火消新置され、京都定火消再置」されたが、「享保7年(1722)2月、定火消制を廃止し、町方中心の組織に改編」されたという(『江戸時代年表』より)。江戸では町火消『いろは組』が産声を上げていた頃、京では既に「町方中心の組織に改編」(「定火消」が廃止)されたことに注目していた。——しかし、「慶応3年(1867年)将軍徳川慶喜が大政奉還し、幕府の諸機関が全部廃止される中、江戸の定火消等の武家火消のほとんどが長い伝統の灯を消したが、京都の『定火消』は、朝廷の命を受けて、その後も明治政府による新たな消防体制が示されるまでの間、市中取締の役についた」(平成29年度浜松市包括外部監査結果報告書『消防費に係る事務の執行について』)となれば、話はガラリと変わる。

 『江戸時代年表』では不明だった「一旦廃止」(1690設置-1709再置)は、「元禄3年に京都火消番が設けられ、丹波園部藩や柏原藩等、外様とざまの小藩が任免された。火事の多い9月から3月までの半年間、家臣約200~300名を引きつれ、御所近くの火消小屋に詰めていたが、宝永3年に一旦廃止」(『歴史資料課の窓から』京都府)されたとあり、「宝永3年(1706)」と判明した。しかも、「再置」の契機と「廃止」以降の実態が明かされている。以下、引用する。

——「宝永5年に京都大火がおこり、翌6年、3月・9月交替で半年ずつ勤務する京都常火消が置かれる。京都火消しと同じく外様の小藩が命じられ、鴨川河畔の土手町に火消小屋に詰め主に町方の火消しを担当。同じ時期、御所方の火消に譜代4藩に禁裏御所方火消が命じられ、2藩ずつ半年交替、それぞれの京屋敷に詰めて担当。享保7年に再び京都常火消は廃止され、御所方火消を命ぜられていた譜代4藩に洛中の火消し担当することが申し渡されて京都火消役となった」(『歴史資料課の窓から』京都府)——

 つまり、京都で「町方中心の組織に改編」されたというのは、その内実として、「享保7年(1722)2月」(定火消廃止)より以前、既に宝永7年(1710)3月から始まっていたことが分かる。また、「定(常)火消」は廃止されたが、「京都火消役」(町方中心の組織)として残った(改編された)という。それ故に、先の「江戸の定火消…灯を消したが、京都の『定火消』は…その後も明治政府」云々は、「定火消」とあるが故に誤解を与える不正確な記述と言わざるを得ないだろう。宝永5年(1708)3月8日の京都大火は「宝永大火」と言われている。「前代未聞の大火…町数415、家数1万130余軒、寺社68が焼けた。禁裏御所をはじめ、新築まもない東宮御所など公家屋敷78、大名屋敷24も類焼した」(読める年表日本史)。早くも幕府はその翌年、京都で画期的な対策(火消小屋に詰め主に町方の火消しを担当)を施したことに注目したい。

 また、「1621年(元和7年)4月、京都、南禅寺門前・三条油小路・下鴨町などで火事頻発。煙草厳禁となる」(江戸時代年表)が、早くも「1622年8月20日、京都、町人の訴訟・商売・火事などに関し9か条の京都市中諸法度制定」(江戸時代年表)されている。江戸では、「1648年(慶安1年/正保5年)2月28日 幕府、江戸市中取締令を出し、吉原以外の遊女、無鑑札の振売り、勧進相撲、博奕などを禁止」(江戸時代年表)/「慶安1年2月 幕府、江戸市中諸法度を定める」(日本史年表/東京堂出版)以前の「江戸市中諸法度」は不明だったが、同年(1648)4月10日に出された「町触まちぶれ」が、江戸「町火消」の始まりと見做す向きは数多い。



4)「方角火消ほうがくひけし」などについて

 武家火消には、「大名が勤めた大名火消・方角ほうがく火消・所々しょしょ火消や、旗本が担ったじょう火消のほか、それぞれの屋敷周辺の防火を担う各自火消が存在した」(江戸博覧強記)とある。

 だが、この手の解説は混乱を招く。大名が担うのが「大名火消」なので、同じく大名が担うが目的・役割で区別する「方角火消・所々火消」と「大名火消」が同じ範疇ではあり得ない。「大名が勤めた大名火消の大名火消」という記述は意味を成さない。

 大名火消は、「江戸幕府が大名に課した火消役。江戸には所々火消・方角火消・近所火消と臨時の増火消があり、石高に応じて出動人員が設定された。…18世紀初頭には所々火消・方角火消として整備された」(山川日本史小辞典)というまとめ方が分かり易い。方角火消は、「江戸城からの方角に応じて受け持つ」(大江戸ものしり図鑑)火消しであり、「江戸城の防火を担当する方角火消」(お江戸の経済事情)のこと。しかし、「火消」という役務ではない。「火消役ひけしやく」それ自体は、「火消番ひけしばん」とも言われ、「若年寄わかどしより」配下の役職名(或いは「役職の長」)のことである(「定火消役」とする例もある)。「火消役」は「定火消」の別称としても用いられるので注意が必要。随所で「火消役」が不用意に使われている。


 大名火消の設置については、例えば「正徳2年(1712)2月、江戸に大名火消を設置」(山川日本史総合図録)とあるが、それは「大名火消のはじめ」ではない。この「大名火消」は、「1712年(正徳2年2月)、3万~10万石の大名15人が江戸の方角火消に任命された。江戸の街を5区に分け、特定の方角火消の専担とする」(読める年表日本史)、或いは「方角火消は正徳2年(1712)に制度化された」(消防防災博物館)とある通り、「方角火消」のことであろう。簡潔な年表からは「大名火消」の「違い(内実)」を推し量ることが出来ず、間違いではないが、非常に紛らわしい。

 では、方角火消の制度化は「1712年」なのか。——例えば「明暦3年(1657)に起きた大火(振袖火事)…これを受けて時の将軍徳川家綱は大名に命じ、出火の方角によって出動する『方角火消ほうがくびけし』を制度化した」(asubeのホームページ「江戸消防の歴史」)とあれば、その「制度化」の年代は大きく異なる(家綱の在職1651-80年)。特に、「(「振袖火事」の翌…年に組織された定火消し…)それ以前からの大名火消しもこのときに再編成され、3万石以上10万石以下の譜代大名15人による方角火消しと、大藩による奉書火消しが江戸城や重要施設の防火・消火に当たることとなった。後者の代表が前田家の火消隊“加賀鳶かがとび”である(※¹)」(『面白いほどよくわかる江戸時代』山本博文 監修〈日本文芸社〉)は如何なものか。同書では、ケンペル(船医として来日のドイツ人。オランダ商館付医師として1690-92年滞在)の見聞にも触れており(つまり1692年以前)、その文脈から「1658年…方角火消し(が…防火・消火に当たる)」と読めるが、このときの「方角火消」の解説が前述の「1712年」の構成と殆ど変わらないので、その年代も怪しい(1712年と考えられる)。両説の「これを受けて」や「このとき」は曖昧な表現であり、「1年」違うと解釈できるものの(「1657年(制度化)」or「1658年(再編成)」)、これでは精確な「年代」が特定できない。

〈注(※¹)「譜代大名15人による方角火消し」と「奉書火消」「増火消」:1657年の方角火消は12名であり、「外様大名」も任命された(少なくとも「伊予西条藩(一柳氏)」「石見津和野藩(亀井氏)」「出羽亀田藩(岩城氏)」「越後村松藩(堀氏)」「常陸麻生藩(新庄氏)」は外様大名)。また、仮に「15人(1712年)」としても、「外様大名」がいた(少なくとも「豊後岡藩(中川氏)」は外様大名)。奉書により臨時に出動する場合もあるが(「増火消」など)、「奉書火消」と呼ばれる制度は既に1643年「大名火消の制」へと改変されていた。増火消については、1650年(慶安3年4月)の記録が残る。▶「慶安3年4月…当時の大名火消10家を呼び出し激励…別の6大名を呼び出し…大名火消、所々火消を応援する臨時の増援火消役を命じた」(防災情報新聞)▶「(『徳川実紀』によれば)正徳5年(1715)1月」が増火消の最後と見る見解がある。▶加賀火消の誕生は「天和元年(1681)前田綱紀が本郷5丁目の本邸内に設けた、火消組織がその始まりである」(『江戸時代の消防事情5』白井和雄)という。これを以て「加賀鳶」の誕生と見る向きは多い。しかし、「享保3年(1718年)、8代将軍吉宗が禄高1万石以上の藩に対し、江戸藩邸を守る大名火消を設置するよう命じたのを受けて、加賀藩では江戸上屋敷の防備のため設置されていた自衛消防隊を豪華なものに増強しました。/これが加賀鳶の始まりであるとされています」(金沢市消防団)ともある。いずれが正しいかはともかく、かなり以前から「自衛消防隊」を抱えていた藩があったことは押さえておきたい。〉


 方角火消の「はじまり」と変遷について明瞭なのが、以下の『ウィキペディア(火消)』である。その「大名12名を選び」云々は、先の「(譜代)大名15人」云々とは明らかに異なる。まだ方角火消という「呼称」がなかったらしいが故に、「制度化」の捉え方が問題となり、年代の相違が生じるのだろう。「はじまる」と「制度化」は明らかに違うが、先の「1657年(制度化)」は「1657年(はじまる)」を以て制度化と見做し、「1712年(制度化)」は「5方角5組に改編」を以て制度化と見做している。

 ——「方角火消ほうがくびけしは、明暦3年(1657年)、第4代将軍徳川家綱の時代にはじまる火消。/明暦の大火直後に大名12名を選び、桜田筋・山手筋・下谷筋の3組で編成した火消役がはじまりである。大名火消の一種で、担当区域に火事が発生すると駆けつけて消火に当たることとなっていた。元禄年間にかけて東西南北の4組に改編され、方角火消と呼ばれるようになった。正徳2年(1712年)、5方角5組に改編。享保元年(1716年)以降は大手組・桜田組の2組(4名ずつ計8大名)に改編され…改編後は、主に江戸城の延焼防止を目的として活動し、江戸城内の火事以外では老中の指示を受けてから出動した。消火の主力ではなく、火元から離れた場所で火を防ぐため、防大名ふせだいみょうとも呼ばれた」(ウィキペディア「火消」)——

 最初(1657年)の「桜田筋・山手筋・下谷筋の3組」は、さしづめ江戸城の「南西,北西,北東」といった所だろうか? それはともかく、「大名火消:…消防組織の整備されたのは明暦の大火(1657)以後である」(『精選版日本国語大辞典』,『大辞林』など)ことに異存はなく、「方角火消」は変貌していく。新たな疑念も含めてまとめると、大略次(5)のようになる(組数及び大名数。尚、所属員数の定員は石高に依るが、省いた)。


5)方角火消の成立と変遷

① 1657年(明暦3年2月8日)

【3組/各4名(計12名/8名?)】桜田筋・山手筋・下谷筋

 「明暦の大火」は、明暦3年(1657)1月18日に発生した。「方角火消」成立との関連は明らかだろう。「明暦3年(1657年)…大火直後に大名12名を選び、桜田筋・山手筋・下谷筋の3組で編成した火消役」(ウィキペディア「火消」)。それによれば「大名12名」だが、以下では「8名」にしかならない。▶「方角火消を初めて任命…1657年3月22日(明暦3年2月8日)主に6万石以下の小大名」「江戸城南部の桜田筋(方面)と西部の山手筋には…(注:実名)の5大名。江戸城北部の下谷筋…(注:実名)の3大名」「初期の方角火消の定員は5万石以下の大名が多かった」(防災情報新聞)によれば、3組/計8名。▶尚、月日が違うので「方角火消」との関連は不明だが、参考:「本城附近消防任命…1657(明暦3)年正月27日」(出典『厳有院殿御実紀巻13』『図版(明暦大火直前ノ江戸図)』,東京都公文書館)

② 1688-1704年(元禄期)

【4組/各3名(計12名)】東・西・南・北

 「元禄期には…江戸城周辺を東西南北4地域に分け、3名ずつ12名の大名に防火の任務を与えた方角火消ほうがくひけしが置かれていた」(日本歴史大事典)/「元禄年間にかけて東西南北の4組に改編され、方角火消と呼ばれるようになった」(ウィキペディア「火消」)▶「その後数回にわたる編成替えがあった」(防災情報新聞)らしいが、詳細は不明。「その後」とは、①〜③の期間のこと。調べた限りの「4組」説は全て「元禄期」とあり、年代は特定されていない。

③ 1712年(正徳2年2月2日)

【5組/各3名(計15名)】白銀町通り-⑴-芝口御門通り-⑵-赤坂御門通り-⑶-市ヶ谷御門通り-⑷-昌平橋-⑸-白銀町通り

 「1712年2月、3万~10万石の大名15人が江戸の方角火消に任命された。江戸の街を5区に分け、特定の方角火消の専担とする」(読める年表日本史)/「正徳2年(1712年)、5方角5組に改編」(ウィキペディア「火消」)/『こもんじょ館』によれば(出典:『江戸時代制度の研究』松平太郎著)、「正徳2年2月府内を5区に分ち」として、1万石以上の5組各3名の実名を挙げている。▶『防災情報新聞』によれば(注※「元徳げんとく」は1329-1332年なので「正徳しょうとく」の誤り)、「方角火消…1712年3月8日(元徳※2年2月2日)には、新たに白銀町通りより芝口御門通りまでを三河吉田藩(愛知県豊橋市)牧野大学成央以下3大名、同通りより赤坂御門通りまでを豊後岡藩(大分県竹田市)中川内膳正久忠以下3大名、同通りより市ヶ谷御門通りまでを越前大野藩(福井県大野市)土井甲斐守利知以下3大名、同通りより昌平橋までを備中松山藩(岡山県高梁市)石川総慶以下3大名、昌平橋より白銀町通りまでを遠江横須賀藩(静岡県掛川市)西尾隠岐守忠成以下3大名にと、合計15大名家で江戸城をぐるりと取り囲むように配置した」「この時の発令では5万石以上10万石未満の大名も任命されている」(防災情報新聞)とある。▶「大名火消定制…1712(正徳2)年2月2日」(『文昭院殿御実』『徳川十五代史』,東京都公文書館)

④ 年代不詳

【「5組/15名」継続o r「4組/?名」?】

 一般に「1716年2組」(⑤)に縮小されたと言われるが、時期不明(元禄期?)の「4組(東西南北)」から「1716年2組(大手組・桜田組)」になったとする説がある。▶関連不明だが、参考:「大名火消消防令…1713(正徳3)年9月8日」(『有章院殿御実紀』,東京都公文書館)

⑤ 1716年(享保1年/正徳6年)

【2組/各4名(計8名)】大手組・桜田組

 「1716年 この年 東西南北4隊の方角火消を大手組・桜田組の2組に編成」(江戸時代年表)によれば、以前編成された筈の「5隊(5組)」との関連が不明。/「享保元年(1716年)以降は大手組・桜田組の2組(4名ずつ計8大名)に改編」(ウィキペディア「火消」)▶関連不明だが、参考:「大名其他消防令…1716(正徳6)年2月24日」(『有章院殿御実紀』,東京都公文書館)

⑥ 1717年(享保2年1月)以降

【4組/計10名?→2組/各4名】東・西・南・北→大手組・桜田組

 「享保2年(1717)さらに整備され、東西南北の方角より区域を受持たせ…最後に大手・桜田の2組のみが残され」(『江戸と江戸城』内藤 昌著より)たとある。他に「1717年(享保2)さらに整備し、東西南北の四方角に分担すべき場所を改め、新たに大名10人がこれにかわった」(日本大百科全書/ニッポニカ)とある。▶「こもんじょ館」によれば(出典:『江戸時代制度の研究』松平太郎著)、「享保2年正月府内を東西南北の4区に分ち」とし、同「3年正月方角火消」は遠方出動が憚られ、「…後世方角火消は大手組及桜田組の2隊に編成せられ」たとあり、「通説」(元禄期4組,1716年2組)と異なるが(「1712年5組」は同じ)、一連の辻褄は合っている。また、「寛文8年2月」(1668年)に防火を担当した6区・各1名の実名や場(桜田門など)・地域を挙げて「大手組桜田組名称の由来」と見做している(6組/計6名)。或いは、「天保13年中」(1842年)については、各出火場に応じた12か所の集合場所も挙げ、「集合所も担任も時代によりて変改あり」と見る。▶関連不明だが、参考:「武家防火並分担指令…1668(寛文8)年2月4日」(『厳有院殿御実紀』『国史館日録』,東京都公文書館),「大名火消…1717(享保2)年正月11日」(『有徳院殿御実紀』,東京都公文書館)

⑦ 1736年(元文1年12月30日?/享保21年)

【出動制限】

 「元文元年(1736年)以降、方角火消は江戸城風上の火事か大火の場合のみ出動と改められる」(ウィキペディア「火消」)/「方角火消…1737年1月(天文※元年12月)からはもっぱら城内の消火に専念するようになり」(防災情報新聞)が相当する(※「天文てんぶん」は1532-1555年なので「元文げんぶん」の誤り)。▶関連不明だが、参考:「消防制…1736(元文元)年12月晦日」(『有徳院殿御実紀』, 東京都公文書館)▶尚、「出動制限」の内容不詳だが、それ以前(1699年)の記録として、「方角火消出動制限…1699(元禄12)年9月朔日」(『常憲院殿御実紀』『御触書寛保集成26』, 東京都公文書館)がある。

⑧ 1862年(文久2年6月10日?)

【「方角火消」の廃止】

 「文久2年(1862年)には方角火消と火事場見廻役が廃止」(ウィキペディア「火消」)/「大手組・櫻田組火之番の廃止 文久2年6月10日」(出典:『古事類苑』官位部七十八 大名,「こもんじょ館」より)▶尚、「方角火消については…1863年1月(文久2年12月)には、江戸城の風上が火災の時か、大火以外は出動しなくてもよいことになった」(防災情報新聞)の年代・内容は⑦に重なり、不可解。廃止に言及されていないが、当該の「廃止」と全く矛盾する。〉


6)大名火消の「所々火消」について

 一般に、「所々火消しょしょびけしは、寛永16年(1639年)にはじまる」(ウィキペディア「火消」)とされる。

 寛永16年に「江戸城本丸が火事となったことを契機に、江戸城内の紅葉山霊廟に対する消防役を、譜代大名の森川重政に命じたことがはじまりである。この所々火消は…大名火消の中で担当場所が定められていたものであり、幕府にとっての重要地を火事から守るため設けられた、専門の火消役であった」(ウィキペディア「火消」)▶この「火消役」は、寛永16年閏11月14日のことらしい。寛永16年閏11月14日、「本丸殿舎の再建に際して、城内紅葉山にある将軍家代々の御仏殿(霊廟)を火災から守りかつ消火する火消役を任命した」(防災情報新聞)とある。この「江戸城本丸が火事」(全焼)は、寛永16年(1639)8月11日のことである。尚、『読める年表日本史』では、これを以て「江戸城火災のはじめ」と解説しているが、それ以前、寛永11年(1634)閏7月23日に江戸城西の丸が全焼している。


 「所々火消が定められた場所は元禄年間にかけて増加し、江戸城各所をはじめ、寛永寺・増上寺などの寺社、両国橋・永代橋などの橋梁、本所御米蔵などの蔵を、36大名が担当するようになった」(ウィキペディア「火消」)/「元禄期には、江戸城本丸、二の丸、西丸をはじめ、寛永寺、増上寺、浅草御米蔵など江戸城および重要施設19か所の防火を36名の大名に命じた」(日本歴史大事典)

 「享保7年(1722年)…重要地11箇所をそれぞれ1大名に担当させる方式に改編された。担当場所は、江戸城内の5箇所(紅葉山霊廟・大手方・桜田方・二の丸・吹上)、城外の蔵3箇所(浅草御米蔵・本所御米蔵・本所猿江材木蔵)、寺社3箇所(上野寛永寺・芝増上寺・湯島聖堂)である。江戸城内の最重要地に対する所々火消は譜代大名に命じられ、外様大名が命じられたのは本所御米蔵など江戸城外の施設であった」(ウィキペディア「火消」)が、「文久2年(1862年)…所々火消も削減されて担当が11箇所から3箇所となった」(ウィキペディア「火消」)と、一般には言われている。▶尚、この「11箇所(各1大名)」については、本所米蔵を2組と数え「11か所12組」(『江戸と江戸城』より)と見做す例もある(「本所米蔵」担当は2大名、当時の一人は松浦まつら大和守皓と記されているので、恐らくは藩主1815年-死没1856年の時期であろう)。

(参考:幕府の役職としては、寺社奉行配下の「紅葉山火之番」や若年寄配下の「定火消役」、二の丸留守居-「二の丸火之番」、目附-「火之番組頭」「本丸表火之番」「奥火之番」がある)


 最高「36大名」は確かであろうか、その担当箇所は不詳である。最高「19か所」だったのか? それらは何処か? そうして、最後の「3か所」とは、一体何処であったのか?

【試論:大名数は不明各1名と見做し約36名,①-㉕は推定の担当箇所,⑴-⒆は元禄期の推定19か所, ❶-⓫は享保7年(1722)改編時の11か所(各1名)】

①⑴紅葉山惣御佛殿(紅葉山霊廟)

 寛永16年(1639)閏11月14日❶享保7年(1722) 1名

②⑵二の丸 寛永20年(1643)9月 ❷享保7年(1722) 1名

③⑶三の丸

④⑷本丸

⑤⑸西の丸(⑤-1「表火之番」と⑤-2「奥火之番」)慶安3年(1650)8月

⑥⑹「山里大名火の番」(「西の丸」の西方)元禄6年(1693)11月

⑥○「西の丸山里火之番」)元禄6年(1693)12月2名

⑦⑺御物見・御鷹部屋(1693/元禄6年9月10日鷹部屋・鷹匠廃止→1717本郷追分に鷹部屋設置)

⑧⑻吹上(上覧所前) ❸享保7年(1722) 1名

⑨聖像遷座

⑩⑼大手組御防(大手方)❹享保7年(1722) 1名

⑪⑽桜田組御防(桜田方)5-6名 ❺享保7年(1722)1名

⑫○増上寺の2代秀忠墓所・台徳院廟 元禄11年9月22日(1698)

 美濃苗木藩1万500石・遠山友春

⑬⑾芝増上寺 正徳6年(1716)10月 ❻享保7年(1722) 1名

⑭上野東叡山寛永寺の4代家綱墓所・厳有院廟 元禄11年9月22日(1698)

 備中岡田藩1万石・伊東長救

⑮上野御宮(東照宮)元禄11年(1698)頃

 小倉新田藩1万石・小笠原真方

⑯上野の3代家光墓所・大猷院廟 元禄11年(1698)頃

 上野吉井藩1万石・堀田正休

⑰「上野火の番」正徳4年(1714)9月 4名

⑱⑿上野寛永寺・東照宮 正徳6年(1716)10月 ❼享保7年(1722) 1名

⑲⒀(湯島)聖堂 ❽享保7年(1722) 1名

⑳⒁猿江材木蔵 ❾享保7年(1722) 1名

㉑○浅草米蔵(御蔵)2名 明暦3年(1657)1月→1717/享保2年11月、日本橋小田原町の米蔵を廃止し、浅草米蔵に併合

㉑⒂浅草米廩 享保6年(1721)10月11日(2名)❿享保7年(1722)1名

㉒⒃本所米蔵 寛文5年(1665)2月2名 ⓫享保7年(1722)1名

㉓⒄本所材木蔵

㉔⒅両国橋

㉕⒆永代橋


 判明している「11か所」から最後に残った「3か所」は何処なのか? 情報を総合すると、文久2年(1862)6月10日廃止は「❷二の丸」「❸吹上」「❹大手方」「❺桜田方」、文久2年(1862)7月3日廃止は「❾猿江材木蔵」「❿浅草米蔵」「⓫本所米蔵」、文久2年(1862)9月28日廃止は「❻増上寺」「❼寛永寺」であり、「❶紅葉山」と「❽湯島聖堂」の「2か所」が残った。(真剣に調べれば判るかも知れないが)「3か所」ではない。▶「倉廩ノ火ノ番ヲ廃ス…1862(文久2)年7月3日」(『昭徳院殿御実紀』『触留』,東京都公文書館)


 ところで、橋梁がもしも2か所なら「(両国橋・永代橋)などの(橋梁)」はおかしいが、他にも在ったに違いない(「新大橋」?)。或いは、「護国寺火番」(1699/元禄12年4月7日)や「金銀鋳造所火番廃止」(1718/享保3年4月17日)という記録も見かけたが、それらも「所々火消」なら、もっと増えるに相違ない。「11か所(元禄期)」は、多くが具体的に挙げている。しかし、何故か「19か所」の全貌や残る「3か所」は不明のままである。

 しかも、「今日見られるような形の纏になったのは、享保15(1730)年のことで、当時纏の馬簾には、今日のような黒線は入っていませんでした(ただし、一般の町火消と区別するため、上野寛永寺に火災が起こった際に駆けつける「わ組」と「る組」の馬簾には1本、湯島聖堂に火災が起こった際に駆けつける「か組」の馬簾には2本の黒線が入っていました)」(東京消防庁)とすれば、享保期から幕末までずっと、大名の所々火消と町火消『いろは組』が少なくとも「寛永寺」や「湯島聖堂」で競合していたことになる。しかし、いわゆる「競合」ではないかも知れない。「享保六年十月東叡山火の番松平民部大輔吉元、三縁山火の番松平陸奥守吉村に命じて、山内に火及ぷか、又寺内より火出るとも小火の時は自ら詣るに及ばず、火もし廟庭に及ばゞ老中も出づべきにより、時宜に従へと訓令す、両山の火災には老中、若年寄、寺社奉行、大目付直ちに出馬するを要したり(兼山麗秘策・甘露叢・教令類纂・僖鳳文案・徳川十五代史・大猷院殿常憲院殿御実紀・省中雑史)」(『江戸時代制度の研究』より)とすれば、少なくとも「両山」については、既に享保6年(1721)10月以降、通常の火災に町火消『いろは組』が駆けつけ、所々火消は待機していたことになろう。

 余談になるが、「明治元年五月十五日の朝まだき、上野東叡山に砲声が轟きはじめるや、辰五郎のひきいる浅草十番組、を組の総勢二百八十余名は彰義隊と官軍決戦のさ中に分け入って、東叡山を兵火からまもらんものと必死の消火につとめた」(『消防100年史』(藤口透吾・小鯖英一共著 創思社)より)や「徳川慶喜に忠誠を尽くした浅草の新門辰五郎の『を組』などは、彰義隊と一緒に上野の山に籠って纏を立てたので、廃止させられて別の組に変わってしまいました」(東京中央ネット)など、「新門辰五郎」の話は有名である。しかし、「上野寛永寺に火災が起こった際に駆けつける」(東京消防庁)と言われた『わ組』(八番組)や『る組』(十番組)との関連は、今のところ定かでない。


 最後まで残った「3か所」とは、一体何処だったのだろうか?


7)「近所火消」「各自火消」「三町(丁)火消」などについて

 享保2年(1717)1月「すべての大名屋敷に火消組が編成された。石高に応じ、屋敷から8丁、5丁、3丁四方に出動するので八丁火消、五丁火消、三丁火消と呼ばれた。各自火消ともいう」(読める年表日本史)とあり、「各自火消」は、「(近隣の出火に出動する)三町火消」(大江戸ものしり図鑑)などと同じ意味をもつが、「1717年(享保2)と23年には江戸城や幕府施設と別に、各自の屋敷付近の防火を行う近所火消が旗本も含めて設定された」(山川日本史小辞典)というから、ややこしい。つまり「近所火消」は「各自火消」のことではあるが、必ずしも「大名火消」ではないのである(「旗本」も含まれる)。また、「大名の縁戚の屋敷や菩提寺へ、範囲を越えて駆けつける場合は、見舞火消みまいびけしと称したという」(ウィキペディア「火消」)らしいが、「大名が自衛のため組織したのが『近所火消』である」(『江戸と江戸城』より)が通説のようだ。

 近所火消(各自火消)の始まりは、「天和1年/延宝9年(1681)1月12日」と言われる。▶「1681年(天和元)幕府は御三家と加賀藩の火消が近隣の火災に出動することを認め、翌年には仙台藩など23藩にも許した」(日本歴史大事典)/「各自火消・加賀鳶かがとび誕生…1681年3月2日(延宝9年1月12日)」(防災情報新聞)。▶しかし、年月日が異なる次の記事が気になる(出処は全て『東京都公文書館』より)。


「三家以下火消役任命…1680(延宝8)年11月」(『玉露叢』『寛政重修諸家譜』)

「消火令…1681(延宝9)年正月10日」(『撰要永久録・御触事』)

「三家其他防火令…1681(天和元)年11月朔日」(『常憲院殿御実紀』)

「火消役任命…1682(天和2)年4月3日」(『常憲院殿御実紀』)

「八大名消防…1682(天和2)年4月14日」(『常憲院殿御実紀』)

「武家並市井警火消防令…1682(天和2)年10月」(『常憲院殿御実紀』『撰要永久録・御触事』『正宝事録』)

「諸大名消防制…1682(天和2)年11月朔日」(『常憲院殿御実紀』)


 前掲の延宝9年1月12日は確かに1681年3月2日なのだが、以上の記事によれば「延宝8年11月」に「三家以下」が「火消役」に「任命」されている。つまり、「御三家と加賀藩の火消」は、「延宝8年(1680)11月」の可能性が極めて高く、「近隣の火災に出動することを認め」たのが、「延宝9年(1681)1月10日」の可能性がある。また、「翌年には仙台藩など23藩にも許した」のも、「天和1年(1681)11月1日」(延宝9年9月29日「天和」に改元)或いは「天和2年(1682)11月1日」の可能性が高まる。


 ついでに、定火消とは異なる「旗本の火消」にも触れよう。「旗本の消防隊としては、享保7年(1722)に設置された「飛火防組合とびひふせぎくみあい」がある。/旗本武士の密集した番町・小川町・駿河台一帯に結成されたものである。/番町31組・小川町26組・駿河台8組の都合65組の大規模なものであるが、実際は経済力のない旗本のことであるから、臨時的なものであった」(『江戸と江戸城』より)という。▶参考:「武家屋敷消防制…1722(享保7)年1月28日」(『有徳院殿御実紀』,東京都公文書館)/「旗本士防火組合…1722(享保7)年8月23日」(『柳営日次記』『柳営日録』『大成令巻54』,東京都公文書館)▶「町火消武士屋敷火災出動…1722(享保7)年11月24日」(『重宝録14』,東京都公文書館)

 ところで、「町火消…幕末…の頃には…47組は152組にまでなっていたそうです」(或るネット情報)という「噂話(珍説)」を見つけた。「(実際は48組だが)いろは47組」と「本所・深川16組」、この旗本「飛火防組合65組」、大名・方角火消の「(歴代最高)5組」、大名・所々火消の「(歴代最大)19組」を無理矢理合わせたら確かに丁度「152組」となる計算だった。これに旗本・定火消の「(最大)15組」を加えればもっと面白かったのだが(最大「167組」にもなるぞ!)……冗談はともかく、この「噂」のお蔭で「飛火防組合(65組)」に辿り着けたことに感謝したい。但し、この名称が正しいかどうか保証の限りではない。そうなると俄然気になるのが「武家屋敷火消組合…1738(元文3)年10月10日」(『元文日録編年史料』,東京都公文書館)の存在なのだが、宿題としたい。



Ⅳ)「町火消」の起源(『いろは組』に至るまで)

 「1718年(享保3年)町火消設置令」(山川日本史小辞典)が出たのは確かである。それ故に、『いろは組』創設を「1718年」と勘違いする者は多い。「町人のための本格的な消防組織は、1718年(享保3年)に南町奉行大岡忠相がつくった『町火消』」(東京消防庁)であり、「武家による火消は、武家を守るのが重点で、一般の町屋のためには不十分だったため、8代将軍吉宗は、南町奉行の大岡越前守忠相と大火対策を協議し、享保3年(1718年)、町人による『町火消』を編成させました」(日本消防協会)、或いは「享保3年(1718)に町奉行大岡越前守忠相が各町の名主に答申させて組織化に着手した」(大江戸知れば知るほど)と言える。しかし、「1718年に江戸町火消し、いろは45組を組織」(或るネット情報)や「享保3年(1718)いろは47組の町火消が創設され、江戸八百八町の消火活動を行なったのが、わが国自治消防の始まりであり、威勢のよいハッピ姿に象徴されている」(身延町誌)、「享保3年…町火消いろは48組の制度が生まれた」(青梅市消防団の歩み)などは全くの誤りであろう。『いろは組』は、まだ生まれていない。

 大岡忠相が江戸町奉行に任命されたのは享保2年2月3日(1717)のこと。翌年、「1718年11月(享保3年10月)町火消設置の命を伝え、2か月後には『町火消組合』の編成とその担当地域を命じている」(防災情報新聞)とあり、その文脈から「町火消組合」の編成は12月を指している。しかし、閏月うるうづき(閏10月)を挟むので実質「3か月後」であり、「2か月後」ではない。結成された『町火消組合』は次の通りであろう。▶「亨保3年(1718)、町火消編成令が下され、2、30町を一つの単位として火消組合をつくり、その担当地域を定め、組の目印が制定された」(消防防災博物館)。だが、次(「1719年」説)の根拠は弱い。▶「吉宗が享保4(1719)年に組織させたのが、住民(町人)の義勇消防組織である『店火消』(町火消)であった」(永田尚三『消防行政における組織間関係史の研究』)とあるが、既に(享保3年に)『町火消組合』が成立している以上、果たして「店火消」と同列に置いて良いものであろうか。尚、享保3年12月4日(「町火消組合」設置)はグレゴリオ暦「1719年1月23日」なので、「1719年」説そのものは、あながち間違いとは言えまい(勿論『いろは組』ではない)。


 以下に、享保3年〜5年の主な消防記事を書き出した。町火消の「設置」と「設置の命を伝え」は違うだろうし、「町火消の制度を定める」と「町火消組合設置」も違う。「10月」、「11月」、「12月」の「町火消」は、それぞれ如何に異なるのか、あまり明瞭ではないようである。


【享保3年(1718)「町火消組合」】

○9月 町奉行から町名主に防火策について諮問

 (参考:「防火方法復申…1718(享保3)年9月晦日」(『撰要永久録・公用留巻之3』など,東京都公文書館より)

 9月「享保3年(1718)9月 町火消組合ノ設置ヲ見ルニ至ル」森下雄治,山﨑正史『江戸の主要防火政策に関する研究』より)

○10月18日 町火消設置(『享保撰要類集8』など,東京都公文書館より)

 (「(10月)町火消設置の命を伝え」防災情報新聞/月日不明だが、「1718年(享保3年)町火消設置令」山川日本史小辞典)

    19日「享保3年(1718)…10月19日には『けふ火消役に令せらるるは。凡市街に火あるとき。今よりはその近き邊の市人を出して。うちけすべきなれば。市人集る所に。定火消のものいたるとも。市人を其まま置て消防なさしめ。』との令がある。この内容から、享保3年10月を期して町方の消防は、定火消から全面的に町火消組合に委ねたと推察できる」(森下雄治,山﨑正史『江戸の主要防火政策に関する研究』より)

○11月 町火消の制度を定める(日本史年表/東京堂出版)

○12月4日 町火消組合設置(『撰要永久録・御触事巻17』など,東京都公文書館)

 (1719年1月23日「町火消組合」設置)


【享保4年(1719)】

○1月23日 武家防火制(『享保四録』『柳営日次記』,東京都公文書館)

○4月14日 町奉行を南北の2人とする(江戸時代年表)

 4月 防火上市民心得示達(『重宝録11』,東京都公文書館)

    本所・深川地域、町奉行支配となる(江戸時代年表)

○9月11日 防火駆付人足請負不可答申(※¹)(『正宝事録』,東京都公文書館)

○10月20日 防火駆付人足請負不可答申(※¹)(『正宝事録』,東京都公文書館)


【享保5年(1720)町火消『いろは組』】

○1月11日 防火訓示(『重宝録14』『有徳院殿御実紀』など,東京都公文書館)

○3月17日 消防人数規制(『重宝録14』『有徳院殿御実紀』,東京都公文書館)

○4月18日 大名火消鳶ノ者召抱禁制(※¹)(『重宝録11』など,東京都公文書館)

 4月 町火消にも纏(※²)(東京消防庁)

○5月 町火消の組ごとに纏(※²)(読める年表日本史)

    諸侯防火制(『有徳院殿御実紀』,東京都公文書館)

○8月7日 町火消いろは組設定(『撰要永久録・御触事巻18』,東京都公文書館)

    (「設定」とある。いろは「45組」説,「47組」説,「48組」説)

○10月18日 火事装束質素令(『撰要永久録・御触事巻18』,東京都公文書館)

    20日 みち奉行再置(『有徳院殿御実紀』など,東京都公文書館)


〈注(※¹)とびと町火消(たな火消)の構成員について:「享保3年(1718年)、町人による『町火消』を編成させました。当初は町屋の子弟や奉公人たちで組織されていた『店火消たなびけし』を機敏な活動が得意な鳶職とびしょくの者を中心とする組織に編成替えしたもので、経費は町人の負担、組員は無報酬でした」(日本消防協会)とある一方(「当初は…」享保3年以前と解釈できる)、逆に、「町火消の構成員は、当初地借・店借(店子)・奉公人など、店人足たなにんそくと呼ばれる一般の町人であった。これは、享保4年(1719年)に名主に対し、鳶職人を雇わないようにとの触が出されていたため」と解説し、「翌年には諸大名に対しても、火消人足として鳶職人を雇わないようにと命じている。これは、日ごろから町で乱暴を働いたり、火事のときに遺恨のあるものへ報復するなど、鳶を生業とする火消の問題行動が多かったためである」(ウィキペディア「火消」)との注釈がある。確かに鳶の評判は悪く、直近でも次の事実があった。「男達鳶之者等強請者追捕」(1710/宝永7年4月),「鳶之者取締」(1712/正徳2年5月),「鳶之者戒飭無札厳禁」(1717/享保2年3月8日),「鳶者等戒飭」(1718/享保3年11月5日),「偽目明し,鳶之者取締」(1719/享保4年6月19日)など(以上、東京都公文書館より)。「戒飭かいちょく」は謹慎させること。特に、町火消組合が設置された前日(享保3年12月3日)、定火消の仙石勢と喧嘩した加賀鳶(前田家お抱えの火消人足)が有名で、死者まで出した(町奉行・大岡忠相の裁きで、死者を出した加賀鳶より、後から割り込んできた定火消が戒められた)。しかし、「傭夫及抱鳶制 1719(享保4)年11月」(『有徳院殿御実紀』, 東京都公文書館)が気になる。同年「防火駆付人足請負」が不可とされた理由は不詳だが、それは「答申」であって「ふれ」ではない。また、職制としての「請負不可」と考えられ(「宝永6年(1709)6月27日 江戸市中の鳶を日傭座支配とする」『江戸時代年表』)、鳶人足という個人について言われているわけではないと思われる(その後も、1746/延享3年10月9日「火消人足請負願不可答申」がある。また、町火消人足は褒賞もされる一方、武家火消と共に再三咎められていた)。町方の消防は初期消火と何よりも火災予防が大事であろうから、「請負」よりも町人の結束(組織化)が重視されたのだろう。その「不可答申」の直後に出された「抱鳶制」である(消防への言及はない)。翌享保5年の「大名火消鳶ノ者召抱禁制」は、「問題行動が多かったため」と言うよりは、寧ろ、鳶たちを「町火消」へ引き寄せる為の布石のように思われてならない。そのように理解すれば、「1730年に本組が編成されていろは48組となり…火消人足の数も、とび人足主体にするかわりに各町30名から15名に半減した」(日本歴史大事典)に繋がる。〉

〈注(※²)「まとい」について:「町火消が誕生して間もなくの享保5(1720)年4月、大岡越前守は、町火消にも纏を持たせ士気の高揚を図りました。…今日見られるような形の纏になったのは、享保15(1730)年のこと」(東京消防庁)とされるが、5月説もある。「享保5年5月、江戸町火消は組ごとに将棋の駒を形どった纏を持つことになった。駒の下に、受持区域を書いた吹流しをつける」(読める年表日本史)という。いずれにせよ「纏」や「纏数(組数)」は不明だが、『いろは組』創設の以前に「名称」が決まっていた可能性は残る。〉


 この時の町火消は、「1718年(享保3)町奉行 大岡忠相おおおかただすけは町方の自衛消防組織を重要視し町火消組合の設置を町名主に命じ、出火の際は風上2町、風脇左右各2町、計6町から30名ずつの人足を出して消火にあたるよう指示した」(日本歴史大事典)とまとめられる。▶「風下」説もある。「江戸の店火消:享保3年、火災発生の風下と左右2丁以内は町ごとに30人の火消人夫を出さなければならぬ、と命令された」(読める年表日本史)という。この場合「命令された」ことが肝要で、それが「町火消設置令」、つまり享保3年10月のことと考えられた。この頃の火消しは主に破壊活動であり、延焼を防ぐに過ぎない。初期消火ならいざ知らず、それだからこそ、風上の家屋を幾ら壊しても意味がないのではあるまいか。「風下」なら、危険が伴うが有効であろう。そのように考え、暫く「保留」していたが、「風上」が圧倒的に多く、「風下」は例外中の例外だった(誤りの可能性大?)。これらの火消人足は「30名」だが、「2~5人」説もある。▶「1718年、町奉行大岡忠相によって町火消が組織された…当初は、一つの町から2~5人の火消しを出して町火消しをつくった」(江戸300年の舞台裏/青春出版)

 「(町火消設置)令」はまだ「制度」ではない。仮に「2~5人」説を「命令」(10月)、「30人」説を「制度」(11月)と見做せば辻褄は合う。だが、「『火災が起きたときは、風上及び左右二町以内から火消人足三十人ずつ出すべきこと』/上記は、儒者荻生徂徠の『江戸の町を火災から守るためには、町組織の火消組を設けるべきである』との進言を受けて、時の町奉行大岡越前守忠相が出した奉行令です」(東京消防庁)とあれば振り出しに戻り(「10月」命令説と一致)、「2~5人」説は宙に浮く(誤り?)。▶ここで再び「風上・風下」問題に戻ろう。『日本歴史大事典』によれば、前述の通り、「風上」説を採っている。しかし、同書では「(1730年…いろは48組となり、大組…に編成)そして実際には消火にあたることの困難な火元の組内の風下の町のかわりに、大組の風上、風脇の町々から出動して消火にあたるよう改めた」、或いは「(享保)15年、47組が10の大組に分けられ、大組内の火元の風下の町の組は各自の町を守り、その他の組が消火に当たることになる」(大江戸ものしり図鑑)とされている。これらは、最初の設定が「風下」でなければ成り立たない解説と考えられる。そうして、「破壊」消火を裏づける、初期「風下」説を支持する有力な手がかりになるだろう。その点、『読める年表日本史』では首尾一貫している。「享保3年、火災発生の風下と左右…命令された」(前掲)後の「享保15年1月、48組を1番から10番までの中単位に編成し、風上と風脇から消防作業に取組ませることにした」(読める年表日本史)という解説は極めて辻褄が合う。故に当初はこの記事を信じて疑わなかったのである。然るに、圧倒的な多数派に刃向かう勇気はなかなか湧かない。如何なものか?

 「享保3年…初めは風上2町と風脇左右2町が30名ずつ人手を出すという仮制度だったが…」(面白いほどよくわかる江戸時代)に縋ってまとめてみよう。享保3年10月に「人足」を「出すべき」との「奉行令」が下され、11月、恐らく「仮制度」として定められた。それを担う組織として「2、30町を一つの単位として火消組合」が考案され、12月に「町火消組合」が正式に成立した、と理解したい。「享保3年12月『火元江ハ如御定之、風上弐町風脇左右弐町宛より先達而相触候通、早速欠付消留申候、右御定六町より欠集候人数之儀ハ、壱町より三拾人は不減、三拾人より多く出候分ハ勝手次第候』との町触が出されている」(或る論文より)らしい。「30人」以上でも宜しいとの「町触れ」である。「組合」が組織としてまだ確立していない。


 ところで、これまで幾度か触れたが、『いろは組』(享保5年8月)の組数には具体的な3通りがあるのに、享保3年12月の「町火消組合」設置から『いろは組』までの間、組数に言及された論考が見当たらない。それを論じる為に、先ず、町数の変遷を見てみよう。

 「寛永13年(1636)当時、町の数は、すでに300あまりあった。それを『古町こちょう』と呼んでいた」(雑学帝王500/KADOKAWA)という。「寛永13年(1636)1月、江戸城の建設がひとまず完了すると、初期江戸市街地も一応の完成となる。このころまでにできた約300町は、それ以後の町と区別し『古町こちょう』と称した」(江戸時代年表)という次第である。

 「寛永年中(注:1624-44)から『八百八町』ということばが使われだし」(読める年表日本史)、「延宝年間(1673〜81)には800を超えた。江戸が『八百八町』になったのはそのころ」(雑学帝王500)らしい。町は次第に増え続け、「延享年間(1744〜48)には1,000をはるかに超えて1,600あまりに達し、天保年間(1830〜44)のころには約2,000町までになった」(雑学帝王500)という。しかし、「延享2年(1745)…町数もこのころには1,600を超え、これ以降大きな変動はない」(江戸博覧強記)という見方もある。或いは、「天明期(注:1781-89)の町数:1,770余町(読める年表日本史)」という記述があり、「市中総人口:128万5,300人」ともあるので「江戸」に違いないが、どこの「町数」かに触れていない(困ったものだ)。

 『いろは組』創設の頃の町数は、「町名主は…享保7年(1722)の時点で264人…草創くさわけ名主(江戸成立期から町支配を行ってきた名主)・古町こちょう名主(…300あまりの町を支配する名主)・ひら名主(寛文2年=1662および正徳3年=1713に新たに江戸の町として編入された約560か町の名主)」(お江戸の経済事情)より計算すれば、「860余町」になるだろうか。他方、『いろは組』(1720年)は、「隅田川以西の町々をおよそ20か町ごとに47組の小組に分け」(お江戸の経済事情, 日本歴史大事典)られたということを基にすれば、(隅田川以西の)町は「約940」あったとも推察できる。

 正確な数値は研究者にお任せするとして、仮に900町とする。亨保3年(1718)、「20町〜30町ごと」に1組なら「45組〜30組」、『(いろは)45組』が視野に入る。無論憶測に過ぎないのでこれ以上深入りしないが、ここでは、『いろは組』以前の詳細(組数や名称)がよく分からない不思議を指摘しておきたい。


 それ以前の「町火消」についての「起源は明確でない」と言われている。まず、定火消じょうびけしが設置された(武家火消が整備された)頃と言われる「明暦の大火」前後に遡り、町方の「店火消たなびけし」のルーツを探りたい。


①1648年(慶安1年4月10日/正保5)/「たな火消」⑴

(2月15日「正保しょうほう」が「焼亡」を連想させるとして慶安に改元)

 4月10日 町触まちぶれ(※¹)による防火対策

 「慶安元年(1648)4月10日に発せられた町触の中に『火の用心のこと、油断なくつかまつるべくそうろう』とあり、続けて、もし火災が発生したら違法行為として処罰すると記されている。さらに『つけたり』つまり付記として、その町々に人足10人ずつ火消しのため用意し、昼夜を問わずおくこと、ただし横町はその町々の人数に応じて人足をおくこと、ひとりでに出火した場合には、早々に騒ぎ立て、家持いえもちはもちろん借家店借の者まで残らず駆けつけ集まり、できる限り精を出して火を消すように、と指導している。…将軍の日光社参に際し、各家での水入り手桶の準備を勧めたり、江戸城近隣での火災発生の場合、その町での火消人足の用意や…という、火災対策が書かれている」(お江戸の経済事情)とある。なので、「慶安元年(1648)町触として、火の用心をすすめ、ため桶・手桶。天水桶を常備せよといった消極的施策にとどまった」(『江戸と江戸城』より,原文ママ)や「慶安元年(1648)の町触で、『町内総動員で寄ってたかって消すべし』といった程度」(狭山市消防団)よりは具体性があったようである。▶「慶安元年(1648年)…こうして火事の際に動員された町人を店火消あるいは駆付火消かけつけびけしと呼ぶ。しかし、武家火消のように制度化されたものではなかった」(ウィキペディア『火消』)ともあるが、「店火消」の最初を翌年(慶安2年)とする説もある(②)。▶或いは、次の文面から、同年(慶安1年)12月にも似たような「定め」が布告されたと解釈して良いものかどうか?「(「慶安の触書(※²)」の)前年12月には江戸町人の家督相続についての定制を布告した。…同時に町方の出火についての定めを布告したが、出火のときは家財に構うより先に大声を出して近辺に知らせなければならぬ、としている」(読める年表日本史)

〈注(※¹)町触まちぶれについて:「町奉行の布告であるが、対象はあくまで町人に限られ、武家屋敷や武士には及ばない」(読める年表日本史)〉

〈注(※²)慶安の触書ふれがきについて:「『諸国郷村江被仰出しょこくごうそんへおおせいださる』(通称「慶安の触書」)」「『慶安の触書』は、後年編纂された書物などにはみられるが、慶安2年当時の原本は発見されていない」(江戸時代年表)らしい。〉


②1649年(慶安2年10月)/「たな火消」⑵

(2月26日 慶安の触書・慶安検地条例制定)

 10月「町人による最初の防火組織」

 「幕府が町方(町人の居住地)に命じた町人による最初の防火組織は、1649年11月(慶安2年10月)の『店火消』が最初だが、当番制の上ろくに訓練も受けていなかった」(防災情報新聞)


○1650年(慶安3年)

(4月「増火消」の始め説)

(6月「定火消(火消役)」の始め説)

○1651年(慶安4年)

 12月1日 家持自身番(『正宝事録1』,東京都公文書館)

 ▶「12月 江戸市中の家持に自身番を命ずる」(日本史年表/東京堂出版)

○1652年(承応1年/慶安5)/防火の必要性(時代背景)

 前年に、有名な「慶安事件」(由井正雪らの幕府転覆計画)があった。「関ヶ原以来40万人といわれる浪人…家族や奉公人を含めて200万人以上が路頭に迷う…浪人問題」(読める年表日本史)を背景に、「反乱者が異口同音にいうのは『放火し、その混乱につけ込んで——』という具体的な計画である。…だから幕府は江戸の防火と消火体制の確立に躍起となる」(読める年表日本史)

○1653年(承応2年)/防火対策(具体策の実現)⑴

 2月4日 消火用水桶梯子設置(『正宝事録1』,東京都公文書館)

 11月21日 湯屋時刻制限(『正宝事録1』,東京都公文書館)

 ▶「寛文5年(1665)市中に銭湯が普及始める」という記事もあったが、この年に湯屋の時刻制限まで出たのだから、普及はもっと以前の可能性が高い。▶「承応2年(1653年)には防火のため暮六つ(午後6時ごろ)までしか焚いてはならないと命じられた」「ただし、暮六つ以降でも湯が冷めるまでの間は入浴が認められていた」(ウィキペディア「江戸の火事」)

○1655年(承応4年/明暦1)/防火対策(具体策の実現)⑵

 3月20日 江戸市中に防火対策用の井戸掘削を命じる(江戸時代年表)

 ▶「市街鑿井定制…1655(承応4)年3月20日」(『正宝事録1』など,東京都公文書館より)▶「大名火消しは頼りにはならなかったようだ。たとえば明暦元年(1655)の神田大工町の火事では、大名火消しは江戸城や武家屋敷には影響がないと判断したため出動せず、また、通りかかった大名火消さえ消火に積極的に取り組むことはなかったと記録されている」(内閣府防災情報)とある。その「神田大工町の火事」の程度であるが(その文面では確認できず)、「神田大火…1655(明暦元)年9月22日」(『誠弐日記』『老人覚書』『榎本氏覚書』『寛明間記』『桜田記』『坂上池院日記』『慶長万治覚書』『厳有院殿御実紀』,東京都公文書館)とあり、これが当該の火事なら「大火」である。しかし「通りかかった大名火消」が気になる。目的もなく大名火消が町を「ブラつく」筈はなかろうし、「お呼びでない」なら、引き返す。その「火事場」の状況も併記されなければ信ずるに価しない(慶長6年/1601を「慶長6年(1590)」としたり、寛永18年の桶町火事を「慶長の大火」と記すなど、内閣府さん、しっかりして欲しい)。

○1657年(明暦3年1月18日)明暦の大火(振袖火事)


③1658年(万治1年/明暦4)/最初の「町火消組合」

 1月1日 出火及警火(『厳有院殿御実紀巻15』,東京都公文書館より)

 1月10日 江戸大火(江戸時代年表)

 2月 江戸市中の振売りに申告を命ずる(日本史年表/東京堂出版)

 8月1日 江戸の間数絵図作成を命じる(江戸時代年表)

 8月20日 各町絵図作製提出(『正宝事録』,東京都公文書館より)

 8月 火消人足はその町の目印をつけ…(町触)(内閣府の情報)

    消火にあたる合計167名の人足からなる組織を発足(内閣府の情報)

(9月8日 火消役「江戸中定火之番」を定める)

 10月27日 防火心得布令(『御触書寛保集成・火事並火之元等之部』など,東京都公文書館より)

 (8月?)この年 日本橋南地域で火消組合が成立(山川日本史小辞典)

 ▶「1658年(万治元年)、町火消を設置」(面白いほどよくわかる江戸時代)/「1658年、町火消設置」(大江戸知れば知るほど)▶「町火消:江戸における町方の消防組織の発生は、明暦の大火の翌年1658年に、日本橋・京橋23町が人足を常雇いし、協力して消防にあたることを約束したことに始まる。しかし町方の負担が大きかったからか、それ以外の地域に火消組合の設立は広がらなかった」(日本歴史大事典)/「万治元年(1658年)、南伝馬町など23町が火消人足167人を集め、共同で消火に当たる取り決めの火消組合を設ける。この火消人足は町名と印のついた羽織を着用するなど、後の町火消の原型といえる。幕府もこの火消組合を認め、他の地域にも同様の活動を求めた。しかし、火消人足の常時雇いは負担が大きいことから、23町以外には広がりを見せなかった」(ウィキペディア『火消』)などでは「23町」だが、「20町」説も見られる。▶「万治元年(1658)にやっと、市中20町に月行事がちぎょうじを中心として消防組織が生まれる」(『江戸と江戸城』より)では町数が異なる。▶しかし、例えば次の一文は理解に苦しむ。「町火消は、明暦めいれきの大火の翌年に発足した町奉行の監督下にある町人の自衛消防組織。隅田川以西の『いろは47組』(のち48組)と本所・深川の16組とがあって…」(大江戸ものしり図鑑)▶「明暦の大火」は明暦3年(1657)1月に発生した。つまり、1658年(「明暦の大火の翌年」)に「町火消」が発足したと読めるが、この文脈では、「町火消」=「いろは47組」となり、その発足が「1658年」としか解釈できない。実に困った記述と言わざるを得ない。

 尚、大坂の町火消は、「大坂では1697年(元禄10)に市中を5地区に(印)にわけ、30町内外を基準に21番組が設定された」(山川日本史小辞典)とある。商人の町・大坂(幕府直轄)は、江戸より遙かに進んでいた。


【参考:1660年(万治3年)甲府の町火消制度(及び「竜吐水」)について】

 「本県(注:山梨県)の消防は…万治3年(1660)甲府町火消制度の設定を発祥とするが、当地方(注:身延町)には確たる組織的なものはなく、わずかに各部落に自衛的なものがあったに過ぎなかった」(身延町誌)/「万治3 甲府市に火消組合が創設された。これは山梨県における組織的消防の草分けである。火消組合は総町人足600人をもって4組に分けて代官奉行4人を組頭とし、各組の長を設け人足150人をもって編成し、当時の消火は破壊消火と竜吐水(※¹)であった」(消防のあゆみ-甲府地区広域行政事務組合消防本部)/「甲府では1660年(万治3)に火消人足600人を設け、代官・町奉行を頭として編成、1744年(延享元)には鳶の者を人足としてくみこみ、三つの町組による組織に改変された」(山川日本史小辞典)

〈注(※¹)竜吐水について:以下の如く、竜吐水がいつ頃現れたかはっきりしないが、少なくとも1660年にはまだ無かったと見て間違いない。1751年に江戸の「町触れ」に表れたとすれば、1754年頃「作られた」説は崩れる。1755年にひろめるべきか「答申」されているので、「享保年間」渡来説が最有力かも知れない。▶「龍吐水りゅうどすい…いつごろ発明されたのかはっきり分かりませんが、一説には、享保年間(1716~36)にオランダから渡来したともいわれ、また、宝暦4(1754)年に長崎で、オランダの技術者の指導で造られたとの説もあります」(『新消防雑学事典 二訂版(平成13年2月28日(財)東京連合防火協会発行)』より引用, 東京消防庁)/「龍吐水が江戸町触にはじめて登場するのは,寛延 4 (1751)年のこと」(『江戸時代における発明・創作と権利保護』小林 聡)/「宝暦4年(1754)竜吐水が長崎で作られる。(オランダから渡来)」(青梅市消防団の歩み)/「竜吐水売弘可否答申…1755(宝暦5)年6月9日」(『正宝事録』,東京都公文書館)/「(江戸では)明和年間ごろからは竜吐水りゅうどすいと呼ばれた木製手押ポンプが配備された」(ウィキペディア「江戸の火事」)とある。明和年間1764-1772。/「(江戸)明和1年(1764)12月25日各町火消組に、防火用具の竜吐水支給」(隅田川略年表/江戸東京下町文化研究会)ともあったが、次の史料によれば、「各町」ではなく(江戸城近辺の町)、日付も閏「12月25日」と見られる。▶「城近辺町火消へ竜吐水支給…1764(明和元)年閏12月25日」(『撰要永久録・公用留巻之5』など,東京都公文書館)▶「竜吐水希望町-出願町触…1768(明和5)年10月12日」(『正宝録続』『坂本町旧記天』,東京都公文書館)〉


④1661年(寛文1年/万治4)

 「寛文1年(1661)に『町中火事出来候節、向三町左右弐町裏町三町火元之町共ニ合而九町、早速駈集り火を可消事』との町触が出されている。続いて後段に『火事出来仕候ハ、風下の町人共家持ハ不及申借屋店借等まて家根へ手桶水を入れ上け人を附置』、『町中壱町之内片木戸ニ手桶三拾、片木戸ニ手桶三拾、合六拾水を入可積置』、『壱町之内はしご六挺可置候』との触が出されている」(森下雄治,山﨑正史『江戸の主要防火政策に関する研究』より)とある。この「町触れ」は、1718年の「奉行令」に、とても似通っている。


⑤1715年(正徳5年)/「たな火消」⑶

 「町火消まちびけし…町民や人足が町ごとに火事場に駆けつけたたな火消(1715設置)に始るといわれる」(ブリタニカ国際大百科事典小項目版2015)/「正徳5年(1715)、火災が発生した場合、店ごとに火消役を動員させて火消にあたる店火消たなびけしが日本橋地域に発足しており、町単位で30人が火事場に出たと伝えられている」(消防防災博物館)


⑥「享保の改革」期(1716-45)「町火消」

 「定火消は(16)58年設置された。享保の改革のとき、定火消とは別に、町火消が組織された」(日本史事典/旺文社)としている。「享保の改革」は8代将軍・徳川吉宗の在職中(1716〜45年)に行われたので、「町火消が組織された」のは1716年(享保1年/正徳6)以降となり、話は『いろは組』の前後に戻る。


【参考:「辻番」について】

 「辻番」が最初に設置されたのは寛永6年(1629)と言われる。

 確かに、「1629年(寛永6)3月 江戸に辻番を創置する」(日本史年表/東京堂出版)や「江戸の武家地に辻番が設置された(1629・3)」(読める年表日本史)とある(「2月」説あり)。また、「寛永6年(1629)6月 辻斬り取り締まり強化、辻番所設置」(江戸時代年表)は、6月に「辻番所」が実際に置かれたということであろうか? 当時の「辻番」は、横行していた「辻斬り」対策という役割が非常に大きい。例えば、「1629(寛永6)・江戸に辻番、自身番所が置かれる。武家火消、町火消しの芽生えとなる」(「南部火消年表」盛岡市消防団)などは、意外によく流布している。しかし、「武家火消、町火消しの芽生え」とは言いがたい。「自身番所が置かれ」たかどうかも怪しい。

 「江戸の辻番は設置者によって、公儀辻番(幕府が設置する)、一手持いってもち辻番(1軒の大名が設ける)、組合辻番(大名・旗本など近隣の屋敷が共同で設ける)と区別し、その設置者が管理費を負担した。町方で設けた自身番は、その町が町入用ちょういりようで支弁した」(世界大百科事典/平凡社)といい(一手持辻番は「大名辻番」、組合辻番は「寄合辻番」とも言う)、「江戸全体で自身番屋(自身番が詰める番屋)は1850年(嘉永3)には994カ所存在した。その役割は、火の用心、橋の上・河岸端の治安維持など」(山川日本史小辞典)であり、「変死・口論・捨子など、あらゆる変事を扱う」(読める年表日本史)ところであったが、いわゆる「辻番」は、「とくに武家方辻番をさすことが多い」(日本歴史大事典)のである(その「辻番」が何を指すのか、注意が必要)。

 「武家方辻番は元文年間(注:1736-41)に936カ所」(山川日本史小辞典)あったという。資料年代が違うので多少無謀であるが、「自身番」と合わせれば先述の「町数」に近く、「辻番」はおよそ1町に1箇所あったのだろう。「万治2年(注:1659)3月に『辻番所御条目』が制定された。…この『条目』には、夜回りの強化や不審者の取り締まり実施のほか、『どこで火事が発生しても早々に町中へ知らせること』という一文も含まれている。ここからは、武家と町人を一体化し、江戸の治安維持に取り組もうとする幕府の意図がうかがわれよう」(内閣府防災情報)から、その存在と意義は極めて大きい。「自身番屋内には、まとい鳶口とびくち玄番桶げんばおけ(※¹)などの火消道具が常備してあった」とされ、「自身番の多くは火の見櫓みやぐらを置いた。…木戸番とともに、町内警火にあたっていた」「町内五人組の会合がおこなわれた場所が『自身番屋』である」(『江戸と江戸城』より)というわけである(注※¹:「玄蕃桶げんばおけ」?)。

 「辻番」の起源がはっきりしないと見る向きは多い。他方、「江戸の城下町は、寛永年間(注:1624-44)に町数が約300 町に達し、これらは古町とよばれた。このころには、町人地に自身番、武家地に辻番も設けられた」(内閣府防災情報)との見方がある。先の「1629(寛永6)・江戸に辻番、自身番所が置かれる」は、誤りでないのかも知れない。▶「木戸及自身番…1629(寛永6)年3月頃カ」(『一話一言』『古事類苑』『ドン・ロドリゴ日本見聞録』『異国叢書』『正宝事録』,東京都公文書館)に「自身番」が登場する。その恐らくは初の「自身番」は、果たして町方の「辻番」なのだろうか?(出典の一つ『ドン・ロドリゴ日本見聞録』は、フィリピン臨時総督として派遣されたスペイン人の、漂着した慶長14年(1609)9月以降約11か月の日本滞在記録なので疑問視していたが-慶長15年6月13日に日本人を伴って出航=日本人初の太平洋横断、メキシコ帰国。1636年没-彼が書いたのは江戸にあった「木戸」のようだ。「自身番」は他の出典によるのだろうが、紛らわしい)



Ⅴ)大名火消(○)・定火消・旗本火消(●)・町火消(◎)の成立と変遷(年表)

(尚、「出典『…』」はすべて『東京都公文書館(東京市史稿 産業篇)』による)

1615年(慶長20年/元和1)

 7月7日 武家諸法度を発布

1621年(元和7年)

 7月 ●「火消役」設置(初見?)(盛岡市消防団による)

1627年(寛永4年)

 9月30日 江戸大火(3日間で吉原まで延焼。死傷者多数)

1629年(寛永6年)

 5月15日 ○奉書形式(在府大名,十数名に命ず)(①「大名火消」の始め)

 9月6日 武家諸法度(修正)

1633年(寛永10年)

 2月16日 軍役令改定

1634年(寛永11年)

 1月29日 ○奉書・組織形式(大名6名に命ず)(②「大名火消」制の始め)

 閏7月23日 江戸城西の丸全焼(江戸城火災の始め?)

 (「江戸城は、江戸期を通し36回もの火災に遭った」永田尚三『消防行政における組織間関係史の研究』)

1635年(寛永12年)

 6月21日 武家諸法度(大幅な改訂)

1639年(寛永16年)

 8月11日 江戸城本丸全焼

 9月(10月説)○奉書・専任(専門6名が担当)(③「奉書火消」の制度化)

 10月8日「奥方火之番」(大奥専任)

 10月15日 ○「臨時の措置であった“奉書火消”役を播州(兵庫県)赤穂の浅野家以下6大名家に専任化」(防災情報新聞より)

 閏11月14日 ○紅葉山霊廟(城内)に大名火消(1名)(「所々火消」の始め)

1640年(寛永17年)「火消役」の端緒(1621年説あり)

 7月 ●表火之番・奥火之番(与力・同心)

1641年(寛永18年)

 1月29日 桶町火事

1643年(寛永20年)

 9月27日 ○大名火消4隊/各4名(組織化)(④「大名火消」制の成立)

 (大名火の番は10月を以て交替の期と定める)

1644年(/寛永21年/正保1)

 5月 ○大名火消3隊/各3名(計9名)

1648年(慶安1年/正保5)

(2月15日「正保」が「焼亡」を連想させるとして慶安に改元)

 4月10日 ◎町触まちぶれによる防火対策(「たな火消」①)

1649年(慶安2年)

 6月 ○大名火消3隊/1隊4名・2隊各3名(計10名)

 10月 ◎店火消②(「町人による最初の防火組織」説)

1650年(慶安3年)

 4月 ○増火消(の始め?/6名)(1676-80年説/出動2件)

 6月 ●定火消(の始め?)2組/計2名(不詳)

1657年(明暦3年)

 1月18日 明暦の大火(振袖火事)江戸城天守(再建されず)・本丸・二の丸・三の丸焼失(「西の丸」残存)

 2月8日 方角火消3組/計12名(大名火消)(○「方角火消」の始め)

 [桜田筋・山手筋・下谷筋の3方角]

1658年(万治1年/明暦4)

 1月10日 江戸大火

 1月 ○増火消(7名/霊廟・二の丸・浅草米廩)

 5月21日 ○九大名消防員数限定(出典『厳有院殿御実紀巻15』など)

 7月23日 前年の「明暦大火」により万治に改元

 9月8日 ●定火消4組(旗本4名)(「定火消」制の成立)

 [「江戸中定火之番」火消屋敷(江戸城北西部)…飯田町・伝通院前・御茶の水上・麹町半蔵門外の4か所](『内閣府防災情報』より)▶異説:[飯田町・御茶ノ水・麹町半蔵門外・市谷佐内坂](伝通院前と市谷佐内坂が相違,以下同様)▶「火消役…1658(万治元)年9月8日」(出典『諸役順巨細記・碧海探珠本』)

 この年 ◎日本橋南地域で火消組合が成立(『山川日本史小辞典』より)

1659年(万治2年)

 1月4日 ●定火消4組で初の出初式

 8月21日 ●定火消6組

 [飯田町・伝通院前・御茶の水上・麹町半蔵門外+鼠穴・駿河台](『内閣府防災情報』より)▶「1659年8月21日…八重洲河岸と代官町に増設」説などあり

(肥前・大村藩では「万治2年(1658)10月19日に火消役を命じられた。一緒に務めるべき同役として、大関増親と細川綱利が命じられている」との記述があった。西暦が異なるので何とも言えないが、参考の覚えとして残しておく)

1660年(万治3年)

 2月8日 ○消防四大名任命(出典『厳有院殿御実紀巻19』)

 11月18日 ●定火消8組

 [飯田町・伝通院前・御茶の水上・麹町半蔵門外・鼠穴・駿河台+八代洲河岸・代官町](『内閣府防災情報』より)

(甲府:◎火消人足600人を設け、代官・町奉行を頭に編成)

1661年(万治4年/寛文1)

 3月25日 ●火消役夏秋賜暇(『厳有院殿御実紀巻21』『徳川十五代史』)

1662年(寛文2年)

 2月(8日)説 ●定火消10組

 「寛文2年2月更に傳通院前・さいかち坂上の二組を設く」(『こもんじょ館』より-出典『江戸時代制度の研究』松平太郎著/典拠『徳川実紀』など)/他に「1662年2月8日…市ヶ谷左内坂と駿河台土手の2箇所を増設」説などあり▶「火消役交替并増加…1662(寛文2)年2月8日」(出典『厳有院殿御実紀』)

 4月説 ●定火消10組(5月?/5月12日 火消役屋敷増置)

 [寛文2(1662)年4月…飯田町・伝通院前・御茶の水上・麹町半蔵門外・鼠穴・駿河台・八代洲河岸・代官町+市谷佐内坂・駿河台土手](『内閣府防災情報』より)▶「2月」説とは増設場所も違う=典拠の相違?▶「火消役屋敷増置…1662(寛文2)年5月12日」(出典『厳有院殿御実紀』など)

1664年(寛文4年)

 11月25日 ○二丸防火大名廃止(出典『厳有院殿御実紀』)

1668年(寛文8年)

 2月1日 江戸大火。6日まで各所から失火

 2月 ○江戸大火で、6大名に各所の防火担当任命

 ▶「武家防火並分担指令…1668(寛文8)年2月4日」(出典『厳有院殿御実紀』『国史館日録』)

 12月1日 郭内火災諸役心得(出典『厳有院殿御実紀』など)

1671年(寛文11年)

 11月15日 ○五大名防火担任(出典『厳有院殿御実紀』)

1673年(延宝1年/寛文13)

 12月29日 諸士消防指令(出典『厳有院殿御実紀』)

1674年(延宝2年)

 7月29日 ●火消役任命(出典『厳有院殿御実紀』)

1677年(延宝5年)

 12月1日 ○十二大名警火(『厳有院殿御実紀』)

1678年(延宝6年)

 1月19日 ○大名火消制(出典『厳有院殿御実紀』)

(「1678年(延宝6年)1月 江戸に大名火消を定める」(『日本史年表/東京堂出版』とあるが、不詳)

1680年(延宝8年)

 9月27日 武家火事見舞等触(出典『撰要永久録・御触事』『正宝事録』)

 11月 三家以下火消役任命(出典『玉露叢』『寛政重修諸家譜』)

1681年(天和1年/延宝9)

 1月10日 消火令(出典『撰要永久録・御触事』)

 11月1日 三家其他防火令(出典『常憲院殿御実紀』)

 11月 増火消?(3家以下20余人)

 この年、御三家と加賀藩の火消が近隣の火災に出動することを認めた

1682年(天和2年)

 4月14日 ○八大名消防(出典『常憲院殿御実紀』)

 10月 武家並市井警火消防令(出典『常憲院殿御実紀』など)

 11月1日 ○諸大名消防制(出典『常憲院殿御実紀』)

 この年、(御三家・加賀藩の他)仙台藩など23藩にも近隣への出動を許した

1683年(天和3年)

 12月5日 ○塩町失火五大名消火(出典『常憲院殿御実紀』)

1684年(貞享1年/天和4)

 10月2日 火消役火付改警火令(出典『常憲院殿御実紀』)

1687年(貞享4年)

 10月23日 消防制(出典『常憲院殿御実紀』)

1688-1704年(元禄期)

 ○方角火消4組(東西南北)/各3名(計12名)

 ○所々火消19か所(36大名/内訳不詳)

1695年(元禄8年)

 2月(9日?)●定火消15組

 [飯田町・伝通院前・御茶の水上・麹町半蔵門外・鼠穴・駿河台・八代洲河岸・代官町・市谷佐内坂・駿河台土手+神楽坂上・赤坂御門外・溜池上・幸橋外・浜町](『内閣府防災情報』より)▶「消防心得并火消役増員…1695(元禄8)年2月9日」(出典『天享吾妻鑑』など)

1696年(元禄9年)

 8月10日 紀伊邸附近火消役令(出典『大所令』など)

 8月11日 営中消防令(出典『常憲院殿御実紀』など)

1697年(元禄10年)

 「火消役屋敷移転」(出典『御役人系図』『御府内往還其外沿革図書』など)

(◎大坂の町火消:市中5地区/印にわけ、30町内外を基準に21番組が設定された)

1698(元禄11年)

 9月22日 ○両山火番任命(出典『常憲院殿御実紀』『徳川十五代史』)

 10月8日 消防制強化(出典『常憲院殿御実紀』『御触書寛保集成26』など)

 ▶「1698年(元禄11年)10月、消防制・火事場目付につき規則を定める」(日本史年表/東京堂出版)

1699年(元禄12年)

 4月7日 道中奉行并護国寺火番(出典『常憲院殿御実紀』)

 9月1日 ○方角火消出動制限(出典『常憲院殿御実紀』など)

1701年(元禄14年)

 10月15日 ●火消役報告(出典『常憲院殿御実紀』)

1702年(元禄15年)

 3月 消防令(出典『常憲院殿御実紀』『御触書寛保集成27』)

 11月 江戸城本丸及二丸西丸警火制(出典『常憲院殿御実紀』など)

1704年(宝永1年/元禄16))

 10月7日 ●定火消10組(「十人火消」)(定員1,280名)

 [飯田町・伝通院前・御茶の水上・麹町半蔵門外・駿河台・八代洲河岸・市谷佐内坂・赤坂御門外・溜池上・幸橋外(廃止:駿河台土手・代官町・浜町・鼠穴・神楽坂上)](『内閣府防災情報』より)▶「10月13日」説あり▶「消防改組…1704(宝永元)年10月7日」(出典『常憲院殿御実紀』『徳川十五代史』)▶「10組のうち鉄砲隊7隊、弓隊3隊」?

 10月 増火消?(3名)

1705年(宝永2年)

 1月9日 西丸消防寄場制(出典『常憲院殿御実紀』)

 1月28日 ●千人組同心火消支配(出典『常憲院殿御実紀』)

 2月15日 ●千人組同心消防令(出典『常憲院殿御実紀』など)

 11月8日 火番消防出動方定(出典『常憲院殿御実紀』『御触書寛保集成27』)

1706年(宝永3年)

 2月15日 ●八王子千人同心五十六人追放(出典『常憲院殿御実紀』)

1707年(宝永4年)

 1月23日 城内消防制(出典『常憲院殿御実紀』)

1708年(宝永5年)

 3月18日 ●八王子千人組江戸火番免除(出典『常憲院殿御実紀』など)

1710年(宝永7年)

 4月17日 城中火番改正(出典『文昭院殿御実紀』『徳川十五代史』)

1711年(正徳1年/宝永8)

 1月4日 ○芝土器町出火増火消下命(出典『文昭院殿御実紀』など)

 6月11日 火消役布衣(出典『文昭院殿御実紀』)

1712年(正徳2年)

 2月2日 ○方角火消5組/各3名(計15名)

 「大名火消定制…1712(正徳2)年2月2日」(出典『文昭院殿御実紀』など)

 10月25日 武家消防令(出典『有章院殿御実紀』)

1713年(正徳3年)

 9月8日 ○大名火消消防令(出典『有章院殿御実紀』)

1715年(正徳5年)「たな火消」③

 ◎「たな火消(1715設置)」(『ブリタニカ国際大百科事典小項目版2015』より)

 ○「(『徳川実紀』によれば)正徳5年(1715)1月の内神田亀井町の火災への出動を最後に、(「増火消」の)出動記録はない」(森下雄治,山﨑正史『江戸の主要防火政策に関する研究』より)

1716年(享保1年/正徳6)

 2月18日 ●火消役制令(出典『有章院殿御実紀』)

 2月24日 ○大名其他消防令(出典『有章院殿御実紀』)

 7月2日 新廟経営中防火役(出典『有徳院殿御実紀』)

 7月19日 ●二丸火消役宿直廃止(出典『有徳院殿御実紀』)

 8月26日 ○大風出火時諸大名有司出仕不要(出典『有徳院殿御実紀』)

 この年 ○方角火消2組(大手組・桜田組)/各4名(計8名)

1717年(享保2年)

 1月11日 ○大名火消(出典『有徳院殿御実紀』)

 1月22日 小石川馬場の火事

 10月1日 武家防火令(出典『有徳院殿御実紀』『柳営日次記』)

 12月8日 鷹部屋出火駆付人足数(出典『享保撰要類集29』)

 この年「近所火消(○大名と●旗本)」(『山川日本史小辞典』より)

(全ての大名屋敷に火消組編成:「八丁火消」「五丁火消」「三丁火消」「各自火消」)

 ○方角火消4組(東西南北)⇒後世2組(大手・桜田)(『江戸と江戸城』より)

1718年(享保3年)

 4月17日 金銀鋳造所火番廃止(出典『有徳院殿御実紀』)

 10月18日 ◎町火消設置(出典『撰要永久録・御触事巻17』など)

 11月 ◎町火消の制度を定める(『日本史年表/東京堂出版』より)

 12月4日 ◎町火消組合設置(出典『撰要永久録・御触事巻17』など)

1719年(享保4年)

 1月23日 武家防火制(出典『享保四録』『柳営日次記』)

 4月 ◎防火上市民心得示達(出典『重宝録11』)

1720年(享保5年)

 3月17日 消防人数規制(出典『重宝録14』『有徳院殿御実紀』)

 4月18日 ○大名火消鳶ノ者召抱禁制(出典『有徳院殿御実紀』)

 5月 諸侯防火制(出典『有徳院殿御実紀』)

 7月17日 焔硝蔵鷹坊消火制(出典『有徳院殿御実紀』など)

 8月7日 ◎町火消いろは組設定(出典『撰要永久録・御触事巻18』など)

 ▶8月7日 江戸の町火消組合を「いろは47組」に再編成(『江戸時代年表』より)▶「8月江戸町火消いろは45組を創設」(『日本史年表/東京堂出版』より)

 10月18日 火事装束質素令(出典『撰要永久録・御触事巻18』)

1721年(享保6年)

 2月10日 ◎町火消風烈日勤務制(出典『重宝録14』)

 10月11日 ○浅草米廩火番(出典『有徳院殿御実紀』)

1722年(享保7年)

 1月28日 武家屋敷消防制(出典『有徳院殿御実紀』)

(2月 京都 定火消制廃止、町方中心の組織に改編←制定:元禄3年9月/1690)

 3月6日 橋火消(出典『享保撰要類集第8』『撰要永久録・御触事巻20』)

 7月 参勤期間を短縮(在府半年・在国1年半,半年交替の譜代大名は1年在国)

 8月23日 ●旗本士防火組合(出典『柳営日次記』『柳営日録』『大成令巻54』)

 11月24日 ◎町火消武士屋敷火災出動(出典『重宝録14』)

 この年、○所々火消11か所(11名)

[江戸城内/大手方・桜田方・二の丸・紅葉山・吹上、蔵/浅草米蔵・本所米蔵・猿江材木蔵、寺社/芝増上寺・上野寛永寺と東照宮・湯島の聖堂]

 この年、●旗本「飛火防組合」(番町31組・小川町26組・駿河台8組/計65組)

1723年(享保8年)

 6月 出火立会組合人数(出典『重宝録14』)

 この年「近所火消(○大名と●旗本)」(『山川日本史小辞典』より)

1724年(享保9年)

 2月14日 ◎隅田以東消防制(出典『有徳院殿御実紀』)

 3月6日 ◎各町警火立番制(出典『撰要永久録・御触事巻22』)

1725年(享保10年)

 3月19日 ●定火消屋敷移転(出典『有徳院殿御実紀』)

1728年(享保13年)

 2月22日 武家消防報告制(出典『有徳院殿御実紀』)

1729年(享保14年)

 3月1日 ◎本所深川防火制(出典『享保撰要類集8』)

1730年(享保15年)

 1月6日 ◎町火消組合更定(出典『撰要永久録御触事巻26』など)

 ▶「享保15年(1730)1月 町火消組合更定大組ヲ設ケ人足数ヲ半減」(『江戸の主要防火政策に関する研究』森下雄治,山﨑正史)

 1月8日 消防出場制(出典『有徳院殿御実紀』)

 1月15日 ◎江戸町火消いろは47組を大組10組に再編成(江戸時代年表)

 4月 参勤交代を従来の制に戻す

1733年(享保18年)

 12月 ◎猿江材木蔵へ町火消派遣(出典『享保撰要類集8』)

1734年(享保19年)

 1月25日 城内消防制(出典『有徳院殿御実紀』)

 9月17日 三家邸防火制(出典『有徳院殿御実紀』)

1736年(元文1年/享保21)

 12月30日 消防制(出典『有徳院殿御実紀』)

 この年 ○方角火消の出動制限(江戸城内の消火に専念:「江戸城風上の火事か大火の場合のみ出動と改められる」)

1738年(元文3年)

 7月1日 火元組合人足駈付制(出典『撰要永久録御触事巻29』など)

 10月10日 武家屋敷火消組合(出典『元文日録編年史料』)

1740年(元文5年)

 12月7日 郭内消防(出典『撰要永久録・御触事巻29』『享保撰要類集8』)

1743年(寛保3年)

 閏4月18日 ●火消役華美衣裳禁止(出典『有徳院殿御実紀』)

1745年(延享2年)

 7月12日 廓内消防制(出典『有徳院殿御実紀』)

1747年(延享4年)

 4月16日 江戸城二の丸焼失

 ◎町火消が初めて城内に入る

 5月 ●定火消経費節減令(出典『御触書宝暦集成17』)

1748年(延享5年)

 7月 武家町両火消争論禁止(出典『御触書宝暦集成23』)

1763年(宝暦13年)

 11月13日 ○朝鮮使節宿舎近辺防火大名指定(出典『御触書天明集成50』)

1786年(天明6年)

 11月23日 ◎奉行付町火消廃止(出典『正宝録続』など)

1787年(天明7年)

 3月27日 ◎町火消制改革(出典『撰要永久録・公用留巻之7』など)

 ▶「鳶人足が町火消の主力となった(制度化は天明7年/1787年)」(江戸博覧強記)

 9月28日 曲輪内消火制改正(出典『正宝録続』など)

1788年(天明8年)

 8月10日 ◎町火消壱番組持場変更(出典『正事集・慶応義塾図書館所蔵』など)

1792年(寛政4年)

 1月23日●定火消御曲輪外町方出火消防掛方…1792(寛政4)年正月23日(出典『類集撰要21』など)

 閏2月 ●定火消が町人地へ出動しないことになった(風の強い日に起きた火事のみ例外)

1797年(寛政9年)」

 10月29日 ◎町火消改正申渡(出典『寛政9丁巳年御触町触諸達(東京都公文書館所蔵)』など)

 ▶「1797年(寛政9年)10月29日、火消人足を統率する人足頭取などを制定し、町火消を取り締まる」(江戸時代年表)/「寛政9年(1797)には小組ごとに数名の人足頭取が置かれ、町火消は人足頭取を筆頭に、頭・纏持・梯子持・平、などという階層で構成された」(江戸博覧強記)▶尚、次の解説は「人足頭取」が抜け落ちている。「鳶人足は、各組ごとに、頭、纏持、梯子持、平人足と階層化され、本業の収入以外に町内から手当と火事場装束などを支給された」(面白いほどよくわかる江戸時代)

1828年(文政11年)●定火消は曲輪内くるわうちの出火の際だけ出動すればよい

1836年(天保7年)

 3月 火事場見廻役(10名)(消防防災博物館)

1838年(天保9年)

 3月10日 江戸城西の丸全焼

 この年 火事場見廻役(本所深川)2名増員(12名)(消防防災博物館)

1844年(天保15年/弘化1)

 5月10日 江戸城本丸炎上(大奥焼失)

1852年(嘉永5年)

 5月22日 江戸城西の丸炎上。12月21日、造営完了

1855年(安政2年)

 8月22日 ●定火消8組

 [飯田町・御茶の水上・麹町半蔵門外・駿河台・八代洲河岸・市谷佐内坂・赤坂御門外・溜池上(廃止:小川町(前・小石川伝通院前)・四谷御門(前・幸橋外))](『内閣府防災情報』より)▶「定火消役減員…1855(安政2)年8月22日」(出典『安政録』『柳営補任』『藤岡屋日記』)

 10月2日 安政の大地震

1859年(安政6年)

 10月17日 江戸城本丸炎上

1860年(万延1年/安政7)

 3月18日 江戸城本丸炎上により万延に改元

 11月19日 江戸城本丸完成(最後の本丸)

1862年(文久2年)

 6月10日 ○方角火消の廃止(全廃:大手組・桜田組)

      ○所々火消の一部廃止(廃止:二丸・吹上・大手方・桜田方)

 7月3日 ○所々火消の一部廃止(廃止:浅草御米蔵・本所御米蔵・本所猿江材木蔵)▶「倉廩ノ火ノ番ヲ廃ス…1862(文久2)年7月3日」(出典『昭徳院殿御実紀』『触留』)

 閏8月22日 参勤交代制を緩和し、妻子の帰国を許可

 (大大名は3年に1年、その他は3年1度100日を在府)

 ▶「幕府権力の衰退で、1862年以後は実行されなかった」(『百科事典マイペディア』より)/「1862年(文久2)の改革まで継続された」(『山川日本史小辞典』より)

 閏8月 ●定火消(7組?)全て「鉄砲隊」

 9月28日 ○所々火消の両山廃止(廃止:上野寛永寺・芝増上寺)

 10月30日 本所火事場見廻ヲ廃ス(出典『幕府沙汰書』)

 この年 ○所々火消3か所になる(2か所?/紅葉山・湯島の聖堂?)

1863年(文久3年)

 6月3日 江戸城西の丸焼失(炎上?)

 11月15日 江戸城本丸・二の丸焼失(江戸城創建以来、本丸と二の丸がなくなる)

1864年(元治1年/文久4)

 7月19日 禁門の変(京都大火「どんどん焼け」)

 9月1日 参勤交代制を復活

 ▶「1864年、事実上廃絶」(『日本史事典』より)

1865年(慶応1年/元治2)

 「参勤交代…慶応1(65)年再び旧に戻したが命令に従う者がなく、廃絶した」(『ブリタニカ国際大百科事典小項目版2015』より)

1866年(慶応2年)

 8月 ●定火消4組

 [麹町半蔵門外・駿河台・八代洲河岸・溜池上(廃止:御茶の水上・市谷佐内坂・飯田町・赤坂御門外)](『内閣府防災情報』より)

 ▶「軍役人数割改正…1866(慶応2)年8月8日」(出典『嘉永明治年間録』)/「三千石以上組合割…1866(慶応2)年8月15日」(出典『藤岡屋日記』)/銃砲隊改称…1866(慶応2)年9月20日(出典『慶喜公御実紀』など)/「廃職減員…1866(慶応2)年11月6日」(出典『慶喜公御実紀』など)

1867年(慶応3年)

 1月17日 廃職改制(出典『慶喜公御実紀』『藤岡屋日記』など)

 10月14日 大政奉還(翌日勅許)

 12月9日 王政復古の大号令

 12月23日 江戸城二の丸焼失

 12月25日 庄内藩兵・新徴組、三田の薩摩藩邸を焼き討ち

 12月26日 旧幕府軍艦、品川沖で薩摩藩の軍艦と戦闘

 この年 ●定火消1組(総計128名)[推定:(赤坂)溜池上]


〈明治〉-武家火消の廃止、町火消が「消防組」(改組)-

 (「消防組」=明治3年説『総務省消防庁』と5年説『東京消防庁』)

1868年(慶応4年/明治1)

 5月15日 ●定火消(最後の1組)の解体(『防災情報新聞』より)

 9月8日 明治と改元

 この年 ●○全武家火消の廃止⇒火災防御隊(兵部省)⇒明治2年 火災防御隊の廃止(『ウィキペディア「火消」』より)

 この年 ○大名火消が廃止される(『青梅市消防団の歩み』より)

1869年(明治2年)●定火消が兵部省に吸収(『青梅市消防団の歩み』より)?

1870年(明治3年)消防組(◎町火消を改組)(『総務省消防庁』など)

 ▶「東京府は明治3年(1870年)に消防局を置き、町火消を改組し消防組としました」(「消防団」総務省消防庁)

1872年(明治5年)◎町火消が「消防組」に改組(『東京消防庁』など)

 ▶「明治5年…名称を消防組と改め、新たに消防組39組を編成」(「首都東京を守る消防団」東京消防庁)

 参考:年代不詳だが、「東京においては、旧幕の武家による武家火消制度を廃止し、町火消だけを残した。『いろは48組』の内12組を廃止し、本所、深川16組を合わせて39組に編成替えして6大区に配置」(『狭山市消防団50年のあゆみ』狭山市)とあるが、組数が合わない。「本所、深川16組」を「南・中・北」3組と見做しての「39組」のことか?

 尚、「明治3年(1870)、東京府は消防局を設置し、町火消を消防組に改組し、「いろは47組」中12組が廃止され35組となった。明治4年司法省警保寮が設置されると、消防事務は警保寮に移され、翌5年4月「いろは47組」は廃止され何大組何番組と称されるようになった」(『えひめの記憶』より)に従えば、『総務省』に軍配が上がる。



Ⅵ)「かわら」などの使用について

1)町家の瓦葺き(創始)と板葺き

 江戸では、町家に瓦が使われたのは、遅くとも慶長6年(1601)9月2日だったらしい。▶「町家瓦葺創始…1601(慶長6)年9月2日」(『慶長見聞集』,東京都公文書館)


1601年(慶長6年)/板葺きの奨励

 9月2日 町家瓦葺創始(『慶長見聞集』,東京都公文書館)

 閏11月2日 火災(『当代記』,東京都公文書館)

 閏11月 板葺きの奨励(板葺き厳命?/草ぶき禁止令?)


 「江戸の町家、瓦葺き:駿河町から出火して江戸はほぼ全焼状態。奉行はこれを機会に草葺き家屋の一掃を図り、板葺きを奨励した。慶長6年11月、本町2丁目の瀧山弥兵衛は、それならば一層、と表側を瓦、裏を板で葺いて得意になったが町人が瓦葺きとは贅沢と叱られた」(読める年表日本史)とある。この記事は、残念なことに、「江戸…全焼」の「出火」が何時のことか記されていない。資料を漁って辿り着いた「出火」がこれ、その『当代記』では単なる「火災」のようであるが、『ウィキペディア「江戸の火事」』には、「慶長6年閏11月2日…(死者数不詳)江戸で記録された最初の大火。被災状況は詳らかではないが、江戸全市を焼亡したという」と記されている。しかし、それならば、先の記事(「11月」)との辻褄が合わない。次の一文は瀧川氏の名前が異なるが(「弥兵衛」ではなく「弥次兵衛」とある)、この「出火」が慶長6年とあり、出典も明記されている(「ろく」とあり、『(慶長見聞)しゅう』ではないが)。▶「防火建築の命令…慶長6年(1601)の大火で草葺を板葺にするよう命じたことが第一号であろう。この時、滝山弥次兵衛という人が、街道に面した屋根半分を瓦葺にして、江戸の名物となり、半瓦弥次兵衛と言われたが、奉行所からは、身分不相応としてきついおとがめを受けたと、『慶長見聞録』にある」(狭山市消防団)▶「1601年慶長6年…11月2日-日本橋駿河町から出火、当時の全市を焼く。草ぶき禁止令」(隅田川略年表/江戸東京下町文化研究会)とは一致するが、「11月」でなく「閏11月」が正しいと思われる。▶「慶長6年(1590)閏11 月2 日の大火…の直後、幕府は、草葺きの屋根を板葺きにするよう命令を出した」(内閣府防災情報)/「慶長6年(1601年)の大火後、幕府は屋根を茅葺から板葺にするよう命じた。その後、豪華な大名屋敷の建築もあって瓦葺が流行し、町家でも瓦葺となった建物が増加した」(ウィキペディア「江戸の火事」)

 「板葺きを奨励」と、「草ぶき禁止令」や「板葺にするよう命令」では趣が異なる。この種の「違い」は随所に見られ、注意が必要。


2)江戸の瓦(瓦焼き)について(1645年/1640年?)

 「1645年(正保2年)この年 江戸で初めて瓦が焼かれる」(江戸時代年表)

 瓦は中国からの伝来で、実際には6世紀末に百済より伝わり(寺院建築)、古くから使われていた(596年創建/588-609造成の飛鳥寺=法興寺が初と言われる)。その瓦が江戸で初めて焼かれたのが1645年というわけなのだが、どうやらそれ以前(1640年以前?)にも焼かれていたらしい。▶「浅草瓦焼屋敷失火…1640(寛永17)年3月2日」(『寛永日記』『大猷院殿御実紀巻43』『御府内備考』『武江年表』『御瓦師由緒』,東京都公文書館)とあり、その出典の一つが『御瓦師由緒』である。


3)町家の瓦葺き禁止

①1649年(慶安2年)大地震による瓦葺きの禁止

「6月20日 江戸で大地震発生。江戸城内の石垣破損、武家屋敷・町家など倒壊」(江戸時代年表)/「1649年7月 江戸の地震頻発により、地震時に登城警固する大名旗本を定めた」(読める年表日本史)▶「明暦の大火以前にも、慶安2年(1649年)の地震後に、家屋が倒壊したのは屋根が瓦葺で重いためであるとして、禁止されたことがある」(ウィキペディア「江戸の火事」)▶この地震を「火災」とし、翌「1650年定火消設置」と結びつける説もある。火災はあったであろうが、如何なものだろう?▶尚、この禁止がいつ頃解かれたのかは定かでない。


②1657年(明暦3年)「明暦大火」で瓦葺の再禁止と藁葺・茅葺の禁止

 1月18日 明暦の大火(振袖火事)

 1月 火事頻発

 2月30日 瓦葺の禁制(例外は商家の土蔵)

 「(明暦大火で)町家の瓦葺きが再び禁止されたのはおもしろい。火に追われて逃げまわる群衆の頭上に落ちて危険、というのが理由だった」(読める年表日本史)/「『振袖火事ふりそでかじ』後に幕府は耐火建築を奨励したが、瓦葺かわらぶきは商家の土蔵以外禁止とされていた」(面白いほどよく分かる江戸時代)/「明暦の大火後には方針を転換し、瓦葺を禁じることになった。…大火の際に落下した瓦で怪我をするものが多く出たためであった。そのため、火の移りやすい茅葺や藁葺の屋根に対して、延焼防止の目的で土を塗るように命じている」(ウィキペディア「江戸の火事」)▶「瓦葺禁制…1657(明暦3)年2月晦日」(『柳営日次記』『厳有院殿御実紀巻13』『徳川十五代史』『竹橋余筆鈔』,東京都公文書館)

 3月5日 市街復旧工事規程(『厳有院殿御実紀巻13』など,東京都公文書館)

 4月(5日?)町家の藁葺・茅葺を禁止

 「4月 江戸の道幅拡張・側溝の規格などを規定し、町家の藁葺・茅葺を禁止」(江戸時代年表)/「4月 江戸の道幅・町家建築についての条例を発する」((日本史年表/東京堂出版))▶「市街道路幅員拡張庇切…1657(明暦3)年4月5日」(『正宝事録1』『大成令56』『徳川十五代史』『厳有院殿御実紀13・14』,東京都公文書館)▶道幅を確保するためにひさしが切られた。当時の町家の庇は大幅にはみ出していたようである。


③1658年~1660年(万治年間)「小梅瓦師」「中之郷瓦師」「中之郷横川町瓦師」(『文政町方書上』,東京都公文書館より)が何を意味するか分からないが(或る論文「万治3年(1660)…この年末に小梅瓦町、中之郷瓦町などに瓦焼を生業とする者が現れる」は意味が違うと思われる)、参考までに挙げてみた。▶「古鉄外シ金物銅瓦銅樋并古着古道具売買規制…1690(元禄3)年3月30日」(『撰要永久録・御触事』『正宝事録』,東京都公文書館)に見られるように、以前から「銅瓦」が売買されていたことになる(銅葺屋根は1724年禁止、1726年許可の記録がある)。「瓦葺き」禁止が一時的な措置であり、この間も使用されていたと考えられる。何故なら、享保5年((5)-①)の施策は「(瓦屋根)奨励」であって、許可ではない。


4)仮屋建築制規と町家の塗屋・板葺き・蛎殻葺きについて

①1660年(万治3年)茅葺などの禁止と塗屋などの推奨(町家の瓦葺禁止)

 1月(17日?)大名屋敷の瓦葺許可(2月説)

 ▶「大火前、豪華を競った大名屋敷は、倹約令の影響ですっかり地味な造りに変わってしまった。屋根を瓦ぶきにすることさえ、万治3年(1660)にやっと許可になったほどであった。『落穂集』によれば、麹町あたりの武家の住宅も周囲は竹やぶでかこまれ、小さな門のなかに茅ぶきの住居や長屋が見えるといった、みすぼらしいたたずまいであったという」(内閣府防災情報)▶この「倹約令の影響で…地味な造り」はとても可笑しく、誤解を招きかねない。「1657年1月 邸宅を焼失した大名旗本に対し、ちかぢか宅地替えをおこなうので仮建設もなるべく手軽なものにせよと命じた」(読める年表日本史)という。「明暦大火の影響」の方が理に適っている。この頃はまだ、武家屋敷などの移転の最中(仮設の屋敷もあり得る)であろう。▶「寛文元年(1661年)ごろには本所の干拓が完成し、武家屋敷の建設や町屋の移転が進んだ」(ウィキペディア「江戸の火事」)

 1月17日 仮屋建築制規

 ▶「万治3年(1660)1月には、火災で焼け出された人々が小屋を造る場合は茅葺き、藁葺き、柿葺きなどの燃えやすい素材を禁止し、塗屋や蛎殻葺きなどの耐火建築を推奨する町触が発令されている。また大火のさい、瓦が落下して多数の怪我人が出たという理由で禁止されたので、町家の屋根に瓦をおくことを禁止した。当時、瓦屋根が許可されていたのは倉庫だけであった。茅ぶきや藁ぶきの屋根は、土をぬらないと防火の役には立たないので、幕府は再三にわたって、土で屋根をぬるように通達した」(内閣府防災情報)▶「仮屋建築制規…1660(万治3)年正月17日」(『正宝事録』,東京都公文書館)

 10月26日 茅葺藁葺屋根土塗直令(『正宝事録』,東京都公文書館)


蛎殻かきがら葺きについて

 前述「万治3年(1660)1月…蛎殻葺きなどの耐火建築を推奨する町触が発令されている」(内閣府防災情報)とある。しかし、▶「蛎殻葺許可…1725(享保10)年3月」(『撰要永久録御触事巻22』,東京都公文書館)/「塗家蛎殻葺督励…1725(享保10)年9月5日」(『柳営日次記』『天享吾妻鑑』『有徳院殿御実紀』,東京都公文書館)との関連は不明。


③1661年(寛文1年/万治4)板葺きの使用(命令)

 「寛文元年(1661)には、新規に藁ぶきや茅ぶきの家を建てることを禁じ、今後は板ぶきにするようにとの触を出した。しかし、江戸で本格的な防火建築の導入が検討されるのは、土蔵・塗屋造りの普及が推進された享保5年(1720)まで待たなければならなかった」(内閣府防災情報)▶「寛文元年(1661年)には茅葺・藁葺の新築を禁じ、板葺を使用するように命じた」(ウィキペディア「江戸の火事」)


5)瓦葺き・塗り屋・土蔵造りの奨励

①1720年(享保5年4月20日)防火のため瓦葺などを奨励

「4月20日 南町奉行大岡忠相、防火のため土蔵造り・塗家・瓦葺を奨励」(江戸時代年表)/「4月 市中家作に倉造り・塗屋・瓦屋を奨励する」(日本史年表/東京堂出版)▶「1720年、江戸の町家に瓦ぶき屋根を許すことになった。防火上の効果を考えての策である」(読める年表日本史)とあるが、果たして「許可」だったのか、再考する必要がある。▶「町屋ノ土蔵造塗屋瓦屋根奨励…1720(享保5)年4月20日」(『享保撰要類集8』『撰要永久録・御触事巻18』『重宝録11』『有徳院殿御実紀』,東京都公文書館)


 倹約は江戸時代を通じての美徳であり、事あるごとに贅沢が戒められていたが(度々の「倹約令」)、特に吉宗は「質素倹約」を重んじた。江戸時代に一日三食の習慣ができたと言われるが、一日二食と一汁三菜を頑なに貫いたらしい(家康は一汁一菜。真偽の程は分からない。家康75歳、吉宗68歳まで、いずれも「長寿」)。だから、「自由・華美・仁政」を標榜した尾張藩主・徳川宗春との対立は有名。それはともかく、「享保5年(1720)、これまでぜいたくを理由に庶民には禁じられていた瓦葺き屋根や土蔵造り・塗屋ぬりや造りの建築が、ようやく許可されることとなった。…しかし…費用もかかるので、なかなか普及せず、江戸ではしばしば防火建築を奨励する触が出された」(お江戸の経済事情)などの「贅沢」を理由とする「禁止」や「許可」説は一般に流布されている。しかし、例えば「江戸ではどんなに大富豪でも、自宅に風呂はつくらなかったという(三井家では19世紀になると居風呂すえぶろがあった)。出火の際、火元を疑われないためである」(お江戸の経済事情)とあるような、まともな理由が必要だろう。確かに瓦は贅沢だったようであるが、それは用いる側の事情であり、決して禁止の理由ではない。そもそもが、禁止されていたわけではないと考えられる。問題は「禁止」と「奨励」の間が見当たらないこと(解除や許可)。故に「禁止されていた」という見方が当然ながら沸き起こる。

 例えば、飢饉・凶作や災害の直後には、必ずと言っていいほど「酒造禁止令」や「酒造半減・制限令」などが出されていた(尤も、期限付きも多い)。だが、勿論あるに違いない「解除」が見えず、その種の禁止令が幾度も無駄に下されているように受け取られてしまう。故に推し量るしかない。「禁止」の前には「許可」や「禁止解除」や「(例え禁止されていても残り続ける)慣習」(「私娼」「博奕」「花火」など)があった筈であり、その逆も然り、と。「奨励」は、「許可」ではない。正に、許可されても「費用もかかるので、なかなか普及せず」にいた「瓦葺き」を推し薦めようとしたのであろう。

 面白い記述がある。「瓦葺かわらぶきは商家の土蔵以外禁止とされていた。平瓦ひらがわら丸瓦まるがわらを組み合わせる“本瓦葺ほんがわらぶき”は高価で相当の重量があり、火災時の安全面からもコスト面からも町屋には荷が重かった。しかし、延宝年間(1674〜81)(※¹)に近江おうみ西村半兵衛にしむらはんべえが考案した一体成形の“桟瓦さんがわら”(現在の瓦とほぼ同じもの)は、軽くて大量生産が可能な上に画期的に安い。火事多発に頭を抱えていた幕府はこれに飛びつき、享保5(1720)年から一転して町人に…奨励するようになった」(面白いほどよく分かる江戸時代)

 そうして、「寛政4年(注:1792)には、町家が焼けたあと再建する際は、瓦葺以外のものの使用が禁じられ、江戸市中はほとんど瓦屋根一色になっていった」(読める年表日本史)という。

〈注(※¹)延宝年間について:通常「1673-81」である。寛文13年(1673)9月21日、延宝に改元された(京都大火・禁裏炎上により)。延宝9年(1681)9月29日、天和に改元。〉


 尚、「目安箱の上書で採用されたものもある。赤坂の牢人伊賀八郎次は防災のために屋根を瓦葺きにせよといい…などはただちに実施された」(野呂肖生『日本史こぼれ話』山川出版社)や、同様な「江戸の土蔵づくり:享保7年(1722年)、江戸赤坂の浪人伊賀八郎次は幕臣であったが、従来しばしば家屋を瓦ぶきにして防火の効をあげることを建言、咎められて浪人になっていた。目安箱設置により同様のことを上書したら吉宗に採用され、屋根を瓦で葺き、塗籠にする土蔵づくりが許されることになった。この伊賀八郎次は十人扶持を給されることになった」(読める年表日本史)という記述も見られる。しかし、享保5年(1720)既に「瓦葺き」などが奨励されていた。また、目安箱が実際に江戸で設置されたのは享保6年(1721)8月2日のこと(享保6年閏7月25日に「高札こうさつ」を立て、8月2日、実際に評定所門前に設置された。『読める年表日本史』よれば、「目安箱は毎月2日、11日、21日の三度置かれる」)。



Ⅶ)「町火消」はいつ武家屋敷や江戸城に入ったのか?

1)武家屋敷などと町人の消火活動

①武家奉公人の市中火災駆けつけ禁止と武家地・屋敷

「慶長18年(1613)、幕府が定めた禁令は、大きな特徴が認められる。それは市中の火災に、武家奉公人が駆けつけるのを禁じる内容であった。同様の禁令は、繰り返し出されており、武家屋敷の火災は武家が各自で消火にあたり、町屋は町人自身で消火活動を行うことを定めたものであった」(内閣府防災情報)


○1619年(元和5年)5月15日 町人・浪人の武家屋敷居住を禁止

○1623年(元和9年)2月15日 町人・浪人の江戸武家宅地内居住を禁止

○1625年(寛永2年)5月5日 武家屋敷の町人への貸与を禁止

○1660年(万治3年)2月9日 武家屋敷内に借家する町人調査、かぶき者追捕

○1689年(元禄2年)12月 江戸の武家屋敷地内の町家を禁じる

○1694年(元禄7年)6月19日 江戸市中の武家屋敷地を町人に貸借を禁止

○1695年(元禄8年)12月7日 武家宅地内の商家を翌年3月迄に引払う指示


②武家屋敷の消火活動

1722年(享保7年)

 11月24日 町火消が武家屋敷に入ることが認められた

 「町火消しは享保7年に武家地での消火活動も認められ、気勢が大いにあがった」(面白いほどよくわかる江戸時代)▶「町火消武士屋敷火災出動…1722(享保7)年11月24日」(『重宝録14』,東京都公文書館)▶「享保7年(1722年)には2町(約218m)以内の武家屋敷が火事であれば消火することが命じられる」(ウィキペディア「火消」)と読み合わせれば、実際の消火活動は、この時なかったと見るべきだろう。


③幕府重要施設の消火活動

1731年(享保16年)〜

 この年「浜御殿仮米蔵の防火が『す組』などに命じられたことをはじめ、各地の米蔵・金座・神社・橋梁など重要地の消防も町火消に命じられていった」(ウィキペディア「火消」)▶米蔵防火駈付人足数制定…1731(享保16)年6月27日(『享保撰要類集8』,東京都公文書館)

1732年(享保17年)

 4月(5月?)浅草御米蔵

 ▶浅草米廩消防制…1732(享保17)年5月3日(『撰要永久録御触事巻27』,東京都公文書館)

1733享保18年

 2月 浜御米蔵・猿江材木蔵

 12月 猿江材木蔵

 ▶猿江材木蔵へ町火消派遣…1733(享保18)年12月(『享保撰要類集8』,東京都公文書館)

1734年(享保19年)

 6月 本所材木蔵

 ▶6月15日 材木蔵辺出火駆付(出典『重宝録14』,東京都公文書館)

1739年(元文4年)

 12月 東叡山寛永寺

1740年(元文5年)

 6月 三縁山増上寺


2)江戸城と町火消(町人の立ち入り)

○1607年(慶長12年)(以下、特記以外は『江戸時代年表』による)

 1月7日 観世・金春両家、江戸城で演能。町人も観覧を許可される

 2月20日 出雲阿国、江戸城でかぶき踊りを上演

○1615年(慶長20年/元和1)

 6月15日 日枝神社山王例祭で、山車・練物が初めて江戸城内に入る

○1651年(慶安4年)

 6月15日 町人城内立入禁止(『正宝事録1』,東京都公文書館)

○1688年(元禄1年/貞享5)

 9月 神田祭礼の山車、初めて江戸城に入る

①1747年(延享4年)町火消が初めて江戸城に入る

 4月16日 江戸城二の丸焼失

 このとき 町火消が初めて城内に入ることが許される(二の丸)

 ▶「(町火消しは)延享4(1747)年の江戸城二の丸炎上に際しては、城内に入ることを許されるという栄誉に輝いた。さらに時代が下ると、大名火消しや定火消しは衰退し、市街地での消火活動は町火消しの独壇場となった」(面白いほどよくわかる江戸時代)/「延享4年(1747)には江戸城二の丸炎上のときに城内に入ることが許され、それらの実績から江戸の町火消は消防の中核的地位を占めていった」(大江戸知れば知るほど)/「はじめは出動範囲も町屋だけに限られ、武家屋敷の火災に纏をあげることはできませんでしたが、徐々にその功績が認められ、武家屋敷の火災はもちろん、延享4(1747)年には江戸城二之丸の火災にも出場して、定火消や大名火消にも勝るとも劣らぬ実力を示し、町火消全盛時代を築いていきました」(東京消防庁)▶「1747年(延享4)江戸城二の丸炎上の際には、残り火の消火ではあったが江戸城内での活動が許された」(日本歴史大事典)

○1772年(安永1年./明和9)

「町火消郭内消防…1772(安永元)年12月12日」(『柳営日次記』『浚明院殿御実紀』)

○1798年(寛政10年)

「御曲輪内出火ノ節町火消懸引…1798(寛政10)年」(『町奉行火事場心得・神宮文庫所蔵』)

②1838年(天保9年)町火消が江戸城で尽力(西の丸)

 3月10日 江戸城西の丸、台所から出火し全焼。町火消が消火に尽力

 ▶「江戸城西丸炎上町火消消防片付出精…1838(天保9)年3月10日」(『撰要永久録公用留巻之29・東京都公文書館所蔵』,東京都公文書館)▶次の記事では「町火消がはじめて城内に入った」としているが、間違いであろう。「事件史: 大御所家斉の住む江戸城西丸が、この年(注:天保9年)二月十日に炎上した(注:日付は誤り。本文では「三月十日」とあり、そちらが正しい)。…この火事のとき、町火消がはじめて城内に入った。江戸城の火事だから、大名火消がそれぞれの持場を守っているのだが、火の廻りが早くて防ぎきれない。/そこで目付の三枝三兵衛の決断で町火消を入れた」(読める年表日本史)

○1840年(天保11年)4月21日

「町火消一番組二番組桜田門内防火永久駆付任命…1840(天保11)年4月21日」(『撰要永久録公用留巻之30・東京都公文書館所蔵』)

③1844年(天保15年/弘化1)町火消の活躍(本丸)

 5月10日 江戸城本丸炎上、い組伊兵衛ら町火消が活躍

 ▶「(弘化元年)五月に江戸城の本丸が焼けたとき、天保九年西丸に入れた例があるからと、今度はためらわず町火消に手伝わせた。例によって城そのものを扱うことはできなかったが、方々の門で消しとめることには成功している。/そこで翌六日、町奉行鳥居甲斐守は、町火消総人足へ三千貫文の褒美を与えた。このとき総代となったのが、い組の伊兵衛であった。伊兵衛は、炎上する本丸に率先して飛びこみ、彼を見殺しにするなというので、町火消がふるいたったのだという。伊兵衛の名は、江戸中に鳴りひびいた」(読める年表日本史)とあるが、「翌六日」が理解できなかった(「翌六月」か?)。そもそもこの記事には「焼けた」日付がない。▶「町火消は1838年(天保9)および1844年(弘化元)の江戸城炎上の際は消火活動の主役となり、とくに弘化のときは江戸中の町火消約1万名が江戸城に乗り込んだという」(日本歴史大事典)

④1863年(文久3年)6月 江戸城西の丸


3)幕末の「町火消」の活動(「町火消」主体)

 「幕末には、定火消が1組のみに改編されるなど武家火消が大幅に削減され、江戸の消防活動は完全に町火消へと委ねられた。さらに、町火消の活動は消防のみにとどまらず、黒船来航時には市中警備を、戊辰戦争時には治安維持活動も行なっている。また、元治元年(1864年)の長州征討において、長州藩江戸藩邸の破壊が町火消に命じられており、鳥羽・伏見の戦い敗北後には町火消に兵事訓練を行なうなど、衰退する幕府に兵力として組み込もうとする動きもあった」(ウィキペディア「火消」)という。「定火消の大幅な削減は、幕府の洋式軍備拡大が原因であり、大名火消の削減は文久の改革による参勤交代の緩和が原因であった」(ウィキペディア「江戸の火事」)という見解もある。

 武家火消の衰退は既に見た通りである。文久2年(1862)の参勤交代制の緩和により、それが有名無実になっていく幕末(※¹)の社会情勢の変化と関わっていた。そもそもが、武家諸法度の基に始まった武家火消(大名の奉書火消)である。参勤が蔑ろにされれば、火消しの担い手が稀薄になりもする。

 元治1年(1864)7月19日禁門の変が起こると、幕府は直ちに24日長州追討の勅命を以て西南21藩に出兵を命じた(第1次長州戦争)。同月27日(26日説多数あり)、幕府は桜田・麻布の長州藩邸を没収する。8月8日から始まったらしい屋敷の解体作業には多勢の町火消が結集したとされる(延べ3,857人、5,000人、7,000人、或いは殆ど全ての町火消人足とも言われる。尚、この時の「藩士51名病死」が疑問視されている)。これらの事実を「長州藩江戸藩邸の破壊が町火消に命じられ」たと言い換えるのは、あまりにも乱暴であろう。

 定火消が初めて縮小されたのは宝永1年(1704)10月7日、15組から10組となった時である。この「十人火消」体制は、安政2年(1855)8月22日に8組となるまで約150年間も続くが、その後は縮小の一途を辿る。この安政2年前後とは、言うまでもないが、嘉永5年(1852)6月、幕府は既にペリー来航を知っていた頃である。ペリーらは翌6年(1853)6月3日に浦賀に来航する前に琉球にも寄港していたが(同6年4月18日)、その後の外交や国防対策は慌ただしい。品川台場を築造し、大船建造を解禁。韮山反射炉に取りかかり、下田奉行や箱館奉行を再置した。江戸6か所に講武場を開き、安政2年(1855)3月には何と、大砲などに改鋳するため梵鐘を差し出せと命じ(僧侶の反対で失敗)、長崎に海軍伝習所を設置した(同年7月29日)。そのような激動の時代であった。参勤交代制の緩和は文久2年(1862)閏8月22日である。同年6月方角火消を全廃。同年、所々火消も次々縮小して3か所となる。江戸城などの防備にかまけている場合ではなく、ましてや町の消防などに手が回るはずもない。「定火消」の本分は「鉄砲隊(弓隊は既に吸収された)」であり、「大名火消」の本分も「軍役」である。「火消し」は平時の課役に過ぎず、最早「平時」と言えない社会情勢の急激な変化に対応せざるを得ない。武家火消に代わりゆく「町火消」の活躍は蓋し当然の成り行きであろう。


〈注(※¹)「幕府」と幕末について:「江戸幕府」については、頼朝や尊氏のようには騒がれない。例えば、鎌倉幕府は守護・地頭が設置された1185年の成立であって1192年じゃない。いや80年だ、83年だ、90年だ、と。実権を握ったのは何時だったか議論することには意義がある。しかし、「幕府」がいつつくられたかの詮索は不毛であろう。これまで通り、「征夷大将軍」の拝命を以て「幕府」と見做したい。慶長6年(1601)1月、家康は東海道に伝馬てんま制度を設置し、2月、譜代の家臣を関東・東海に配置した。3月には関東の検地を行い、5月に銀座を伏見に置いて、6月には佐渡金山を直轄化。8月に京都所司代を置き、諸国を検地した。家康が征夷大将軍になった(江戸に幕府を開く)のは慶長8年(1603)2月であるが、慶長5年(1600)9月の関ヶ原の戦いで既に政権を確立した。これらは誰もが知っている。けれども「幕末」或いは「滅亡」の定義は難しい。室町幕府は将軍・足利義昭の追放により滅亡とされるが、追放した織田信長は志半ばで倒れたとはいえ「将軍」にならず、寧ろそれを越える政権を目指していた。代わって天下統一を果たした豊臣秀吉も、関白太政大臣となり天皇を戴いたが、新たな「将軍」ではない。故に織豊政権と呼ばれているが、いずれも「幕府」ではなかった。室町幕府は、将軍不在のまま実は滅びてはいなかったのである。江戸幕府は武家政権の継承とその安定を果たす。しかし「幕藩体制」は常に二重権力構造の危うさを抱えていた。外圧により近代化を迫られてそれを推し進める中、「尊皇攘夷」との板挟みに悩み、幕府は弱体化する。幕府を見限った攘夷運動は一転、幕府方フランスに対抗したイギリスと手を結び、「尊皇」をも超絶した最高権力としての「王政復古」を熱望した。頑強に攘夷を望む孝明天皇(慶応2年12月没,享年36)の「暗殺」が囁かれたのは当然と言える。〉



Ⅷ)花火の禁止や「出初め」の禁止

①「出初め(初出)」の禁止について

「町火消は毎年正月の1月4日に、各組の町内で梯子乗りや木遣り歌を披露する初出はつでを行なった。これは、定火消が行なっていた出初に倣ってはじめられたものである」(ウィキペディア「火消」)とあるが、どういう訳か、幾度も禁止されていた。確認したのは以下の通り。毎年「1月4日」も怪しいが、それ以上の追究はせず、「禁止」もあったことだけに留めたい。

《出初めの禁止》

(万治2年1月4日/1659 定火消で初の出初式)

1795年(寛政7年)

 12月 火消人足早春出初禁止

1800年(寛政12年)

 1月7日 町火消出初禁止

 12月23日 町火消出初禁止

1802年(享和2年)

 12月28日 町火消出初其他禁止

1839年(天保10年)

 1月1日 町火消の出初式を禁止

1843年(天保14年)

1月4日 町火消出初銭取扱鳴物停止等町触


②花火の禁止など

 防災の観点から花火が最初に禁じられたのは1648年らしい。その他「左義長焚き(焼き)」も天和3年(1683)頃から度々禁じられているが(「元禄年間(1688-1704)」説あり)、凧揚げや門松の禁止なども含めて最後の年表(Ⅹ)に譲る。

 江戸の花火と言えば「玉屋、鍵屋」であるが、「鍵屋」からのれん分けした「玉屋」の登場は、文化5年(1808)頃のお話。故に「享保18年5月28日に花火が打ち上げられ、夏の川開きとなった。この花火を担当したのは、両国橋より上流は両国広小路の玉屋、下流は横山町の鍵屋である」(江戸時代年表)は奇妙と思っていたのだが、「洒落本・中州雀(1777)『うかれ立玉やかぎやの花火には目印の桃灯を燃し』」(精選版日本国語大辞典より)があるらしい。「暖簾分け(分家)」にも諸説ある。「六代目の鍵屋の手代であった清吉が1810年に暖簾分け」(ウィキペディア「花火」)、「七代鍵屋の手代清七」(江戸語の辞典)、「1808年(文化5)鍵屋8代目のとき、番頭清七が分家」(日本歴史大事典)、「文化(1804-18)頃、鍵屋の番頭清七が分家し創業」(精選版日本国語大辞典)などとあり、ものの見事に違う。しかしそれら以前(1777年)にも「玉や」があったとなれば、初めから「屋号」として使われていた可能性すら出てこよう。これも宿題としたい。


(慶長18年8月6日/1613年 江戸城二の丸で江戸最初の花火/舶来品)

1648年(慶安1年/正保5)

 7月 花火禁止令

 ▶「慶安1年7月『市井にて烟火の戯れ、すべからず。河辺はこのかぎりにあらず』と花火禁止令も出た。花火あそびによる出火を警戒したわけだが、それだけ流行していたことがわかる」(読める年表日本史)と「花火は慶安元年(1648年)に河口以外での打ち上げを禁じ、町中での製作も禁じている」(ウィキペディア「江戸の火事」)を比べると、随分違う(「烟火の戯れ」と「(花火)打ち上げ」、「河辺」以外と「河口以外」)。

1663年(寛文3年)

 6月 江戸市中での花火製造を禁止(江戸時代年表)

1665年(寛文5年)

 6月 花火其他取締(『東京都公文書館』より,以下特記以外同じ)

1670年(寛文10年)

 6月28日 花火其他法度

1671年(寛文11年)

 6月19日 花火其他禁制

1673年(寛文13年/延宝1)

 5月28日 花火其他制禁

1678年(延宝6年)

 6月13日 花火振売禁止

 8月15日 花火振売再禁

1679年(延宝7年)

 6月 防火のため市街地での花火を禁止(江戸時代年表)

1698年(元禄11年)

 6月 花火・花火商売禁止

1704年(宝永1年/元禄17)

 7月 大川筋花火制限

1705年(宝永2年)

 6月3日 江戸市中での花火の販売と打ち上げを禁じる(江戸時代年表)

1732年(享保17年)

 6月15日 市中花火禁止

1733年(享保18年)

 5月28日 両国の花火始まる(江戸時代年表)

1738年(元文3年)

 7月28日 繁華地花火禁止

1741年(寛保1年/元文6)

 7月7日 市中花火禁止

1755年(宝暦5年)

 6月28日 城郭附近并家込場所花火打揚禁止

1759年(宝暦9年)

 5月 花火家込ノ場所打上禁止

1760年(宝暦10年)

 7月13日 市中花火禁止再令

1770年(明和7年)

 閏6月13日 市中花火禁止

1773年(安永2年)

 6月7日 市中花火禁止

1774年(安永3年)

 7月22日 市中花火禁止再令

1778年(安永7年)

 7月14日 曲輪近辺等花火禁止

1779年(安永8年)

 5月23日 花火取締町触

 8月3日 仙台河岸花火

1797年(寛政9年)

 6月3日 花火取締町触

 7月15日 花火販売取締

1801年(享和1年/寛政13)

 6月6日 規制花火商売厳禁

1805年(文化2年)

 5月10日 大造之花火禁止

1813年(文化10年)

 4月10日 花火製作販売処罰取締

1820年(文政3年)

 8月25日 大造花火立禁止

1826年(文政9年)

 7月 花火規制

1840年(天保11年)

 5月22日 武家屋敷海手町方往来等花火禁令

1842年(天保13年)

 5月24日 大川通花火規制

1847年(弘化4年)

 8月28日 花火打上規制再触



Ⅸ)江戸の火事件数と江戸大火(付録1)

[江戸の火事件数(相違する数例を挙げてみた)]

(東京では、2019年の一年間に「4,089件(東京消防庁)」の火災があったが…)

□江戸時代約270年間の間に、2,000件近い火災が発生し、うち約100件は大火と記録されている。(日本歴史大事典)

□大火以外の火事も含めれば267年間で1,798回を数え、慶長6年(1601年)からの100年間で269回、元禄14年(1701年)からの100年間で541回、1801年から慶応3年(1867年)までの67年間で986回。(ウィキペディア「江戸の火事」)

 ▶合計すると「1,796回」で、表示の「1,798回」にならない。 

□江戸時代264年の間、江戸市中では確認されただけでも大小合わせて1,798件もの火災が発生しているという。(大江戸なんでもランキング)

 ▶『ウィキペディア』より少ない年数だが、表示「1,798」(件)は全く同じ。

□江戸時代、記録に残されている江戸市中の火災件数は1,600件。(或るネット情報)

□江戸時代に記録として残る火事は、御府内だけで1,500件に近い数字がみられる。(大江戸知れば知るほど)

□正確に数えたわけではないが、ほぼ毎年3~4回は記載されているから、江戸時代を通じておよそ1千回は複数の町を焼く火事が起こったという勘定だろう。(面白いほどよくわかる江戸時代)


[江戸の主な大火20件(年代順)]

「大火」の件数:49件,56件以上(私説),86件,約90件,約100件など

〈❶〜❸江戸の三大大火(年代順),①〜⑩「市街の広域に及んだ大火災(年代順)」(面白いほどよくわかる江戸時代),⑴〜⑿「記録にある死者数でランキング」(大江戸なんでもランキング)。例えば、「向柳原火事」は死者数で⑷「勅額火事」に匹敵するが、「大火」とする者少なく、ランク外。故に、以下参考まで〉


—被害町数/民家軒数(武家屋敷・寺社などを除く)と死者数 —

(1590年/天正18年9月3日 初の江戸火災「増上寺・開山堂」)

○1601年(慶長6年閏11月2日):初の江戸大火

 江戸大火 日本橋駿河町から出火(江戸全市が焼亡といわれる)

○1641年(寛永18年1月29日):開府初の江戸大火

 桶町火事 97町(1,924軒),死者100余人,380人/400人以上

○1657年(明暦3年1月18日)❶,①,⑴:史上最大の火災

 明暦の大火(振袖火事)400/500-800町,死者3-10万人/10万7,000余人

○1682年(天和2年12月28日)②,⑽

 八百屋お七火事 死者830人/830-3,500人/3,500人

○1698年(元禄11年9月6日)③,⑷

 勅額ちょくがく火事 326町(1万8,703軒),死者3,000人

○1703年(元禄16年11月29日)④,⑾(ランク外:死者数不明,被害甚大)

 水戸様火事 2万軒,死者数不明(隅田川での死者2.600余人)

○1717年(享保2年1月22日)⑤

 小石川馬場の火事 200余町,死者100人以上

○1731年(享保16年4月15日)⑻

 目白台の火事 死者1,000余人

○1745年(延享2年2月12日)⑹

 六道火事 2万8,678軒,死者1,323人

○1746年(延享3年2月30日)坪内火事

○1756年(宝暦6年11月23日)大学火事

○1760年(宝暦10年2月6日)

 明石屋火事 460余町,死者数不詳

○1772年(明和9年2月29日/安永1)❷,⑥,⑵

 目黒行人坂めぐろぎょうにんざか大火 904/934町,死者1万4,700人・行方不明4,060人/死者・行方不明約2万人

○1794年(寛政6年1月10日)桜田火事⑦

○1797年(寛政9年11月22日)向柳原むこうやなぎはら火事(神田佐久間町から出火)

 死者3,000人(西田幸夫『江戸東京の火災被害に関する研究』,など)

○1806年(文化3年3月4日)❸,⑧,⑺

 車町火事/丙寅へいいんの大火 530余町,死者1,200余人

○1829年(文政12年3月21日)⑨,⑸

 佐久間町火事/己丑きちゅうの大火 37万軒,死者2,800人

○1834年(天保5年2月7日)⑶

 甲午こうご大火 1,200町,死者4,000余人

○1845年(弘化2年1月24日)⑼

 青山火事 126町,死者800-900人/900人

○1855年(安政2年10月2日)⑩,⑿(ランク外:地震による火事)

 地震火事(安政の大地震)(死者3,895人/4,500-2万6,000人)



Ⅹ)消防関連年表(主に「江戸」)(付録2)

(特筆以外は『江戸時代年表』(小学館)による,月日は旧暦, 「出典『…』」は『東京都公文書館』による)

⑴【江戸初期〜「桶町火事」の前年(1640年)】

◇1603年(慶長8年)

 3月 大名普請役で江戸市街地造成を開始

 この年 江戸日本橋、架橋

◇1604年(慶長9年)

 この年 町奉行所、南北の2か所となる(江戸時代年表)▶「1604年 江戸に専任の町奉行(東西)が設置された」(読める年表日本史)▶「江戸市政を担当する職制は幕府開設以前から置かれていたが、いわゆる町奉行が確立した時期については諸説がある」(百科事典マイペディア)▶「諸説があるが、1631年(寛永8)説が有力」(山川日本史小辞典)

◇1605年(慶長10年)

 この頃より煙草流行(日本史年表/東京堂出版)

◇1607年(慶長12年)

 この年 喫煙の習慣が広まる

◇1609年(慶長14年)

 7月14日 煙草制禁(出典『慶長年録』『武江年表』など)

◇1612年(慶長17年)

 6月2日 江戸市街の町割を実施

◇1613年(慶長18年)

 「慶長18年、長崎からやってきた中国人の花火師が江戸城二ノ丸で「えげれす」という名の花火をあげた。江戸最初の花火とされる」(読める年表日本史)

◇1614年(慶長19年)

 10月1日 大坂冬の陣

◇1615年(慶長20年/元和1)

 4月6日 大坂夏の陣

 5月8日 大坂城落城

◇1616年(元和2年)

 10月3日 煙草耕作売買禁止

◇1621年(元和7年)

 1月 烟草停禁(出典『台徳院殿御実紀巻54』『東武実録』『続元和年録』)

 4月 京都、南禅寺門前・三条油小路・下鴨町などで火事頻発。煙草厳禁となる

◇1622年(元和8年)

 8月20日 京都、町人の訴訟・商売・火事などに関し9か条の京都市中諸法度制定(江戸より早い?)

◇1627年(寛永4年)

 9月30日 江戸横山町寺町より出火、3日間で吉原まで延焼。死傷者多数出る

◇1629年(寛永6年)

 2月(説)「辻番とは、武家が設置する一種の警察機能を有する組織で、寛永6年(1629)2月に辻斬り防止の目的で置かれたもの」(内閣府防災情報)

 3月 江戸に辻番を創置する(日本史年表/東京堂出版)

 ▶3月頃「木戸及自身番」(出典『一話一言』『古事類苑』など)▶「附記 辻番,木戸設置…1635(寛永12)年」(出典『日本財政経済史料第4巻』『玉露叢10』『寛永日記増補11』)

 6月 辻斬り取り締まり強化、辻番所設置(江戸時代年表)/6月 辻斬り禁制(読める年表日本史)

 この年 奉書火消はじまる(ウィキペディア「火消」,東京消防庁)

◇1631年(寛永8年)

 9月22日 江戸町奉行所を呉服橋・常盤橋内に設置し町方を所轄(江戸時代年表)▶「1604年」説などあり

◇1633年(寛永10年)

 3月23日 六人衆設置(若年寄の前身)

 6月29日 辻番所勤方及給分規定(出典『徳川禁令考巻22』など)

◇1634年(寛永11年)

 1月 大名火消の制始む(山川日本史総合図録)

 3月3日 若年寄・年寄(老中・六人衆)の分掌を定める

 閏7月23日 江戸城西の丸全焼

◇1635年(寛永12年)

 6月21日 武家諸法度改定(参勤交代の制度化など)

 12月12日 諸士法度23条制定

 「家光は1635(寛永12)年、武家諸法度を発布し…参勤交代を義務づけ…江戸に参勤した大名たちは、軍役として江戸城諸門の警備や火事の際に出動するなどの役務を担った」(山川詳説日本史研究)

◇1637年(寛永14年)

 10月25日 島原・天草一揆

 12月18日 江戸中橋より出火、諸大名別邸・市街に延焼。町奉行、引責により後日閉門

◇1639年(寛永16年)

 8月11日 江戸城本丸全焼

 9月(10月15日?) 江戸城焼失を機に、従来は間にあわせで命じていた奉書火消を制度化することになった。浅野内匠頭長直など6大名が奉書火消役専任となる(読める年表日本史)

 この年 所々火消はじまる(ウィキペディア「火消」)?

◇1640年(寛永17年)

 12月1日 四谷より出火、数百町延焼


⑵【「桶町火事」(1641年)〜「明暦の大火」の前年((1656年)】

◇1641年(寛永18年)

 1月29日 京橋桶町より出火、97町1,924軒類焼(桶町火事)

 3月30日 日本橋から出火、箔屋町など延焼

 この春(3月?) 木場、日本橋から深川に移転

◇1643年(寛永20年)

 9月27日 江戸に大名火事番を設置(大名火消の起こり)(江戸時代年表)/9月 大名火消の制を定める(山川詳説日本史図録)/この年 大名火消はじまる(ウィキペディア「火消」)

◇1645年(正保2年)

 7月14日 辻-番屋増設(出典『大猷院殿御実紀巻61』『徳川十五代史』)

 ▶「7月 江戸近郊に盗賊横行のため辻番を増設」(日本史年表/東京堂出版)

 12月15日 富沢町より出火し、吉原全焼

 この年 江戸で初めて瓦が焼かれる

◇1646年(正保3年)

 3月? 凧揚げ禁止令(江戸城切手門に火のついた凧が落下したため)

 ▶年代も禁止理由も違うが、「幕府は、江戸初期の1656年(明暦2年)、凧揚げを禁止する。その理由は、参勤交代のジャマになるというものだ。…落ちてきた凧が、武士の体や馬にからまって、行列の通行を妨げるという“事件”が起きていた」(江戸300年の舞台裏)?

◇1648年(慶安1年/正保5)

 2月15日 「正保」が「焼亡」を連想させるとして慶安に改元

 2月 江戸市中諸法度を定める(日本史年表/東京堂出版)/2月28日 江戸市中取締令を出し、吉原以外の遊女、無鑑札の振売り、勧進相撲、博奕などを禁止(江戸時代年表)

 4月10日 町奉行所の町触(火災対策など)(お江戸の経済事情)

 7月 花火禁止令(読める年表日本史)

 12月16日 「一惣年寄并一町之年寄、如有来自身番可致用捨事」(『御捌書写記』, 精選版日本国語大辞典)

 12月 大坂自身番条例を令する(日本史年表/東京堂出版)

◇1649年(慶安2年)

 2月26日 慶安の触書・慶安検地条例制定

 9月19日 大坂町奉行、出火時の搬出家財の検問を命じ、隠匿を禁止

◇1650年(慶安3年)

 この年 火消役が置かれた(日本史事典/旺文社)/慶安3年(1650年)幕府は旗本2人を火消役に任命し、「定火消」という常設の消防組織をつくりました(日本消防協会)

◇1651年(慶安4年)

 7月23日 慶安事件(由井正雪らの幕府転覆計画)

 11月28日 家持失火責任(出典『正宝事録1』)

 12月 江戸市中の家持に自身番を命ずる(日本史年表/東京堂出版)

 ▶「家持自身番…1651(慶安4)年12月朔日」(出典『正宝事録1』)

◇1652年(慶安5年/承応1)

 9月13日 承応事件(増上寺放火・強奪・老中暗殺計画)

 4月10日 火事場所古金古釘買取禁止(出典『厳有院殿御実紀』『正宝事録1』)

◇1653年(承応2年)

 2月4日 消火用水桶梯子設置(出典『撰要永久録』)

 11月21日 湯屋時刻制限(出典『正宝事録1』)

◇1655年(明暦1年/承応4)

 1月20日 江戸市中での子供の凧揚げを禁じる

 3月20日 江戸市中に防火対策用の井戸掘削を命じる

 10月13日 江戸市中法度を定める(1648年?)

 11月 京都市中諸法度改定(日本史年表/東京堂出版)

◇1656年(明暦2年)

 10月16日 江戸大火。元呉服町から出火、京橋八丁堀辺の48町、890余戸焼失

 10月22日 中橋長崎町等防火広小路設置(出典『明暦日記』など)


⑶【「明暦の大火」(1657年)〜1715年(徳川吉宗将軍職就任の前年)】

◇1657年(明暦3年)

 1月18日 明暦の大火(振袖火事)▶「1月18日、19日。出火/本郷丸山の本妙寺、夕刻麹町5丁目」(大江戸なんでもランキング)▶「10万人以上の死者を出す。江戸城本丸をはじめ市中の6割が焼失し、吉原も全焼した」(江戸時代年表)

 1月20日 江戸市中6か所で大火被災者への施粥を開始(2月12日まで)

 1月21日 焼失橋梁仮設(出典『寛明炎余類記』『柳営日次記』など)

      諸物価賃銀暴騰米価制限(出典『厳有院殿御実紀巻13』など)

 1月22日 参覲大名入府待期命令(出典『厳有院殿御実紀巻13』など)

 1月24日 米穀廉売(出典『柳営日次記所収・紀伊記』など)

 1月25日 災後対策法令(出典『柳営日次記』など)

 1月26日 罹災諸侯参覲緩和(出典『明暦日記』『明暦遺録』など)

 1月27日 窮民凍死(出典『厳有院殿御実紀巻13』『徳川十五代史』)

      本城附近消防任命(出典『厳有院殿御実紀巻13』など)

 2月29日 本所に万人塚を築く(のちの回向院)

 2月18日 大坂・駿府から各銀1万貫目を江戸に送り、罹災者に下賜

 2月30日 瓦葺禁制(出典『柳営日次記』『厳有院殿御実紀巻13』など)

 3月5日 市街復旧工事規程(出典『厳有院殿御実紀巻13』など)

      近郊出火番士召集(出典『厳有院殿御実紀巻13』など)

 3月12日 贅沢家具製作販売禁止(出典『正宝事録1』など)

 4月 江戸の道幅・町屋建築について条例を発する(日本史年表/東京堂出版)/4月 江戸の道幅拡張・側溝の規格などを規定し、町屋の藁葺・茅葺を禁止(江戸時代年表)▶「市街道路幅員拡張庇切…1657(明暦3)年4月5日」(出典『正宝事録1』『大成令56』『徳川十五代史』『厳有院殿御実紀13・14』)

 5月11日 罹災市民賜銀(出典『厳有院殿御実紀巻13』など)

 8月 吉原遊郭、浅草千住に移転完了(新吉原)

 10月1日 防火井戸保護其他(出典『正宝事録1』『大成令52』など)

 この年 方角火消はじまる(ウィキペディア「火消」)

◇1658年(万治1年/明暦4)

 1月10日 江戸大火。本郷吉祥寺辺より出火。12日にも鷹師町・本郷・芝各所で出火

 1月20日 橋詰小屋掛薪積等厳禁(出典『正宝事録1』)

 2月 江戸市中の振売りに申告を命ずる(日本史年表/東京堂出版)

 3月10日 防火堤築造(出典『万治遺録』『柳営日次記』など)

 7月16日 両国橋創架(出典『万治遺録』『厳有院殿御実紀巻16』など)※

 7月23日 前年の「明暦の大火」により万治に改元

 8月1日 江戸の間数絵図作成を命じる

 8月20日 各町絵図作製提出(出典『正宝事録』)

 8月 火消人足はその町の目印をつけ…(町触)(内閣府の情報)

    消火にあたる、合計167名の人足からなる組織を発足(内閣府の情報)

 9月8日 定火消を創設(江戸時代年表)/9月 江戸定火消の制始める(山川日本史総合図録)▶1650年?

 10月10日 河岸端塗垂穴蔵制限(出典『正宝事録』)

 10月27日 防火心得布令(出典『御触書寛保集成・火事並火之元等之部』など)

 この年 町火消を設置(面白いほどよくわかる江戸時代)/町火消設置(大江戸知れば知るほど)/火消組合を設ける(ウィキペディア「火消」)▶「江戸では明暦の大火の翌1658年(万治元)に日本橋南地域で火消組合が成立」(山川日本史小辞典)

 閏12月3日 江戸大火と諸国風水害により、翌年までの酒造を半減し、諸大名・代官に不作農民の保護を命じる

◇1659年(万治2年)

 1月17日 凧売辻立禁止(出典『正宝事録』)

 3月 昼夜の辻番制を定める(江戸時代年表)/3月 江戸の辻番規則を定める(日本史年表/東京堂出版)▶「辻番条制…1659(万治2)年3月」(出典『徳川十五代史』『厳有院殿御実紀巻17』)

 8月29日 江戸城本丸御殿完成。天守は再建されず

 12月13日 隅田川に両国橋架橋(江戸時代年表)※「命名」(前年7月架橋)

 ▶「両国橋命名…1659(万治2)年12月13日」(出典『厳有院殿御実紀巻18』)

◇1660年(万治3年)

 1月14日 江戸大火。湯島天神門より出火。民家2.350戸、中村座・市村座も焼失

 4月22日 凧販売辻立門立禁止(出典『正宝事録』)

◇1661年(寛文1年/万治4)

 1月20日 元鷹師町より出火、京橋まで延焼し、42町、787戸罹災

 3月24日頃 両国橋竣成(出典『正宝事録』)

 3月25日 火消役夏秋賜暇(『厳有院殿御実紀巻21』『徳川十五代史』)

 4月25日 1月15日の内裏焼失により寛文に改元

 9月17日 道路橋上等商人並商品置事禁止(出典『正宝事録』)

 10月 江戸市中の茶店・煮売店の夜間営業を禁止(日本史年表/東京堂出版)

 11月 江戸市中、半切に水を入れたものを1町ごとに2個置くことが命ぜられた。朝夕の道路掃除と防火用のためである(半切-浅い木桶)(読める年表日本史)

◇1662年(寛文2年)

 1月6日 正月七日門松撤去令(出典『撰要永久録・御触事』など)

 1月20日 児童街上縄遊禁止(出典『撰要永久録・御触事』)

 7月8日 火事場争闘処刑(出典『厳有院殿御実紀』)

 10月1日 防火用水溜桶等整備(出典『撰要永久録・御触事』など)

 11月14日 町奉行の支配地域が拡大する

 11月 江戸市中に火災時の注意を布告した。火災発生地から東西南北2町以内の住民は家財道具を表に持ち出してはならない、など(読める年表日本史)

◇1663年(寛文3年)

 6月 江戸市中での花火製造を禁止

 11月19日 新道防火規定(出典『宝事録』)

◇1664年(寛文4年)

 2月 町奉行支配地拡張(出典『文政町方書上』『府内誌残篇』『東京通志』)

 9月14日 町奉行に江戸市中での博奕の禁止・火の用心を命じる

◇1665年(寛文5年)

 1月9日 左儀長焼禁止(出典『正宝事録』)

 6月 花火其他取締(出典『御触書寛保集成』)

 10月14日 僧侶等町家仏壇設置停禁(出典『正宝事録』『厳有院殿御実紀』)

◇1667年(寛文7年)

 2月4日 出火見舞者制限(出典『正宝事録』『厳有院殿御実紀』など)

 5〜7月 江戸市中の正月の門松を禁止

 ▶7月6日 正月松飾停止(出典『撰要永久録・御触事』など)

※「正月の松飾り…一定の期間が過ぎると川や海に流したり焼いたりしていた。…水路の障害…火災の危険があるので、燃やすことも禁じられていた…一般のゴミとともに捨てるしかない」(お江戸の経済事情)

 11月1日 破魔弓等倹素令(出典『大成令巻之69諸商売物之部』など)

 12月27日 防火其他町触(出典『撰要永久録・御触事』『正宝事録』)

◇1668年(寛文8年)

 2月1日 江戸大火。6日まで、牛込・上野・四谷伊賀町・小日向など各所から失火

 2月2日 焼跡板囲禁止附記(出典『厳有院殿御実紀』)

 2月7日 道路穿鑾家財埋蔵禁止(出典『撰要永久録』『正宝事録』など)

 2月9日 被災幕臣に、夏渡しの切米の3分の1を前倒しして支給

 2月11日 江戸市中の大火被災者を救援

 ▶「各所防火巡視下令…1668(寛文8)年2月11日」(出典『厳有院殿御実紀』)

 2月 武家寺社建築制限(出典『大成令巻56』『享保集成』など)

◇1669年(寛文9年)

 12月29日 強風の際の防火令を出す

◇1670年(寛文10年)

 1月6日 七日松飾撤去(出典『撰要永久録・御触事』)

 3月 公儀大名旗本辻番制規(出典『大成令巻之72』『徳川禁令考第3帙巻22』など)

 6月28日 花火其他法度(出典『撰要永久録・御触事』など)

 8月 江戸市中の河岸に倉庫を建てる際の条例を出す

 ▶「河岸通土蔵建築制限…1670(寛文10)年8月27日」(出典『撰要永久録・御触事』『正宝事録』『大成令』『厳有院殿御実紀』『徳川十五代史』)

◇1671年(寛文11年)

 1月5日 営中伺公番頭物頭近火消防(出典『厳有院殿御実紀』)

 6月19日 花火其他禁制(出典『撰要永久録・御触事』『正宝事録』)

◇1672年(寛文12年)

 2月5日 烈風出火時等心得通達(出典『撰要永久録・御触事』など)

 2月 役人以外火元近所立入禁止(出典『御触書寛保集成・火事并火之元等之部』)

◇1673年(延宝1年/寛文13)

 2月11日 火事場猥立入禁止(出典『厳有院殿御実紀』など)

 5月28日 花火其他制禁(出典『正宝事録』『撰要永久録・御触事』)

 9月21日 京都大火・禁裏炎上により延宝に改元

 12月27日 挙動不審者及火事場立入制規(出典『撰要永久録・御触事』など)

◇1676年(延宝4年)

 12月7日 新吉原で初の大火。本所中ノ郷まで延焼

◇1677年(延宝5年)

 1月7日 消防関係者以外の火事場立ち入りを厳禁し、違反者は斬罪とする

 4月6日 浅草大火で浅草寺延焼

 5月 増上寺門災時開閉制(出典『令条留』)

◇1678年(延宝6年)

 1月12日 火事を出した者は斬罪、その土地の名主・五人組は入牢と定める(江戸時代年表)▶「1月、江戸市中の火事頻発にたまりかねた幕府は、今後は失火によって火災を起こした者も死刑にすると警告した。ただし去年暮以来の火災はすべて放火と報告されているので失火者の捜索はしない」(読める年表日本史)

 1月 江戸に大名火消を定める(日本史年表/東京堂出版)

 ▶「大名火消制…1678(延宝6)年正月19日」(出典『厳有院殿御実紀』)

 3月8日 町-下水清掃励行(出典『撰要永久録』『正宝事録』)

 4月5日 江戸市中の茶屋・煮売り屋を調査

 5月24日 町支配橋梁清掃(出典『撰要永久録・御触事』『正宝事録』)

 6月13日 花火振売禁止(出典『撰要永久録・御触事』『正宝事録』)

 8月15日 花火振売再禁(出典『撰要永久録・御触事』『正宝事録』)

◇1679年(延宝7年)

 2月13日 振売りを制限し、新規開業を禁止

 6月 防火のため市街地での花火を禁止

◇1680年(延宝8年)

 1月10日 防火町触(出典『正宝事録』『撰要永久録』)

 1月11日 火消人足申渡(出典『正宝事録』『撰要永久録』)

 2月 市井消防方厳達(出典『厳有院殿御実紀』)

◇1681年(天和1年/延宝9)

 1月10日 消火令(出典『撰要永久録・御触事』)

 2月 駄賃馬運搬衰微牛車大八車輸送増進(出典『撰要永久録・御用留附録』)

 6月30日 江戸市中の塵芥捨て場を永代島新田・砂村新田の2か所に定める

 11月12日 両国仮橋長持車長持通行禁止(出典『正宝事録』『撰要永久録』)

 この年 近所火消の初め(御三家と加賀藩→翌年23藩)(日本歴史大事典)

◇1682年(天和2年)

 12月28日 駒込大円寺より出火、四谷・赤坂・芝まで延焼(お七火事)

◇1683年(天和3年)

 1月12日 家根番初置(出典『撰要永久録・御触事』『正宝事録』)

 1月14日 左義長其他町触(出典『撰要永久録・御触事』『正宝事録』)

 1月18日 火災時の車長持ち使用を禁止

 2月20日 出火時又旅立町人帯刀禁止(出典『撰要永久録』『正宝事録』)

 2月 江戸市中の官辻番・大名辻番・組合辻番の制度を定める

 ▶「辻番規程…1683(天和3)年2月29日」(『常憲院殿御実紀』『御当家令条』など)

 3月29日 八百屋お七(16)、放火の罪で火刑

 7月25日 武家諸法度を改訂(天和の制)

 9月27日 店請強化并店五人組結成(出典『大成令』『撰要永久録・御触事』)

 10月28日 防火臨時夫召致禁止(出典『天和日記』『常憲院殿御実紀』など)

 この年 火除明地設置(出典『御府内往還其外沿革図書』など)

◇1684年(天和4年)

 1月14日 左義長焼厳禁(出典『撰要永久録』『正宝事録』)

 7月 辻番人諸勧進其他入郭禁止(出典『教令類纂』『大成令』など)

◇1685年(貞享2年)

 1月20日 町奉行救火出場(出典『柳営日次記』『常憲院殿御実紀』)

 9月 辻番制規(出典『常憲院殿御実紀』『徳川十五代史』)

 12月24日 消火規制(出典『常憲院殿御実紀』『柳営日次記』など)

◇1686年(貞享3年)

 11月 江戸市中のそば屋など火を使用する行商を禁止(江戸時代年表)/「江戸市中に、饂飩などのように火を持ち歩いて食物を売ることを禁じた。店の煮売りは可」(読める年表日本史)▶「饂飩其他携火行商禁止…1686(貞享3)年11月30日」(出典『撰要永久録』『正宝事録』『享保集成』など)

◇1688年(元禄1年/貞享5)

 10月 辻番布令(出典『常憲院殿御実紀』『御触書寛保集成』)

◇1689年(元禄2年)

 1月 市中に警火制を命ずる(日本史年表/東京堂出版)

 ▶「携火飲食行商停禁…1689(元禄2)年正月」(出典『常憲院殿御実紀』『大成令巻之69諸商売物之部』『御触書寛保集成』)▶「警火ノ制…1689(元禄2)年正月」(出典『常憲院殿御実紀』『御触書寛保集成』)

◇1690年(元禄3年)

 2月14日 陪臣騎馬火事場出動禁制(出典『常憲院殿御実紀』)

      火事場見物禁止(出典『撰要永久録・御触事』『正宝事録』)

 2月下旬 両番所長屋火之見創建(出典『撰要永久録・御触事』)

 3月16日 火除広小路設置(出典『柳営日次記』『憲廟実録』など)

 3月30日 古鉄外シ金物銅瓦銅樋并古着古道具売買規制(出典『正宝事録』など)

 4月3日 火事場紛争(出典『柳営日次記』『常憲院殿御実紀』)

 4月25日 火事裝束華美禁止(出典『常憲院殿御実紀』『徳川十五代史』)

 9月 京都、定火消制度を制定

◇1691年(元禄4年)

 12月18日 防火用水及薪高積制(出典『撰要永久録・御触事』など)

◇1692年(元禄5年)

 4月 市井消防夫消火後進退(出典『常憲院殿御実紀』『御触書寛保集成』)

 7月 江戸町方の家屋敷間数絵図の提出を指示

    寺院新建厳禁(出典『常憲院殿御実紀』など)

 11月1日 火番組頭定員三名(出典『常憲院殿御実紀』)

◇1693年(元禄6年)

 9月 江戸市中で道路や川へ塵芥を捨てることを禁止

 11月1日 火災の際の野次馬の禁止

 11月9日 旗本・御家人に火の用心、家作の華美の禁止などを触れ出す

◇1694年(元禄7年)

 閏5月1日 辻番所令達(出典『常憲院殿御実紀』『徳川十五代史』など)

◇1695年(元禄8年)

 2月8日 江戸大火。四谷伝馬町より出火し、6万7,400余戸焼失

 2月 江戸市中で大火後の建築資材の物価騰貴を規制

 10月2日 途上喫烟禁制(出典『常憲院殿御実紀』『徳川十五代史』など)

 11月1日 警火并途上喫煙禁止(出典『常憲院殿御実紀』など)

 12月7日 武家宅地内商屋停廃(出典『常憲院殿御実紀』など)

 12月 大八車過積禁止(出典『常憲院殿御実紀』など)

◇1696年(元禄9年)

 9月21日 本所町-町奉行支配(出典『徳川十五代史』)

 9月 防火令(出典『常憲院殿御実紀』)

 10月 消防并放火者追捕令(出典『御触書寛保集成』)

◇1698年(元禄11年)

 4月18日 家前穴蔵製作出願(出典『撰要永久録・公用留附録1』)

 6月 花火并花火商売禁止(出典『御触書寛保集成46』)

 9月6日 江戸大火。数寄屋橋辺から出火し、寛永寺本坊など焼失(勅額火事)

 9月21日 道路拡張(出典『天享吾妻鑑』『甘露叢』など)

 9月25日 火事場での車長持・大八車の使用を禁止

 ▶「消防令…1698(元禄11)年9月25日」(出典『常憲院殿御実紀』など)

 10月 消防制・火事場目付につき規則を定める(日本史年表/東京堂出版)

 ▶「消防制強化…1698(元禄11)年10月8日」(『常憲院殿御実紀』など)

 11月 自身番制(出典『常憲院殿御実紀』『御触書寛保集成26』など)

 12月2日 火消遠出場所定(出典『徳川十五代史』)

 12月11日 火災後建築許可(出典『撰要永久録・御触事』)

 12月12日 火事場荷附馬禁止(出典『撰要永久録・御触事』など)

◇1699年(元禄12年)

 2月22日 火災報知鼓鉦制(出典『甘露叢』)

 2月23日 前年の大火で被災した江戸市中に米3万俵を貸与

 4月19日 火事太鼓(出典『政隣記』)

 4月12日 火事場大八車馬禁止(出典『撰要永久録・御触事』など)

 4月28日 火事羽織華飾禁止(出典『常憲院殿御実紀』『徳川十五代史』)

 5月11日 河岸倉住居禁止(出典『撰要永久録・御触事』)

 6月27日 火災除けのため河岸地への土蔵建設を許可

 8月10日 火之元用心町中巡検(出典『撰要永久録・御触事』など)

 閏9月 屋根番下命(出典『常憲院殿御実紀』『御触書寛保集成26』)

 11月25日 火付盗賊加役停廃(出典『常憲院殿御実紀』『徳川十五代史』)

◇1700年(元禄13年)

 2月 永代島築地竣成並材木商移住(出典『増訂武江年表』など)

 8月9日 大八車極印并借シ駕篭免許及極印(出典『撰要永久録御用留』など)

 8月24日 火之元改役任命(出典『撰要永久録・御触事』)

 10月12日 深川町地割渡(出典『撰要永久録・御触事』など)

 11月9日 火事場群集排除其他(出典『撰要永久録・御触事』)

 12月20日 武家荷車烙印制(出典『常憲院殿御実紀』『徳川十五代史』)

◇1701年(元禄14年)

 3月18日 町中鉄砲書上(出典『撰要永久録・御触事』)

 3月 貸駕篭烙印両判(出典『常憲院殿御実紀』など)

 5月22日 諸門辻番制(出典『常憲院殿御実紀』『徳川十五代史』など)

 6月9日 大八車極印徹底(出典『撰要永久録・御触事』など)

 10月20日 飲酒制限(出典『撰要永久録・御触事』など)

 この年 深川佐賀町・今川町などの材木問屋、前年に完成の永代島の埋め立て地に移転(のちの木場)

 この年 飢民救恤(出典『徳川十五代史』『増訂武江年表』)

◇1702年(元禄15年)

 2月 消火に出動する大名旗本の火事羽織が華美を競うようになったので、これを禁じた(読める年表日本史)▶「火消人夫競合及火事羽織華美禁止…1702(元禄15)年2月15日」(出典『常憲院殿御実紀』『御触書寛保集成27』)

 3月 消防令(出典『常憲院殿御実紀』『御触書寛保集成27』)

 10月8日 火之元改役無用音問禁止(出典『撰要永久録・御触事』)

◇1703年(元禄16年)

 1月13日 左義長焼却禁止(出典『撰要永久録・御触事』)

 5月 大八車并借駕篭数書上(出典『撰要永久録・御用留』)

 10月23日 警火并巡察(出典『常憲院殿御実紀』など)

 11月29日 小石川水戸藩邸より出火、本郷・下谷・浅草から本所・深川まで延焼(水戸様火事)

 12月4日 警火并火事場制(出典『常憲院殿御実紀』)

 12月7日 火災・地震のため、本年度の大名への拝借金返済を免除

      下馬所其他下人喫烟禁止(出典『常憲院殿御実紀』など)

 12月9日 巡察番士警火令(出典『常憲院殿御実紀』)

      火災後普請及消防火事場等令(出典『常憲院殿御実紀』)

 12月16日 火災時船手出動令(出典『徳川十五代史』)

◇1704年(宝永1年/元禄17)

 7月 大川筋花火制限(出典『御触書寛保集成46』)

◇1705年(宝永2年)

 閏4月1日 増上寺焼失

 5月 壁塗直其他倹約令(出典『御触書寛保集成19』)

 6月3日 江戸市中での花火の販売と打ち上げを禁じる

 9月20日 将軍御成人留火消特例(出典『常憲院殿御実紀』)

 この年 御陰参り(出典『江戸年代記』『増訂武江年表』)

◇1706年(宝永3年)

 1月22日 馬上火事場見分及器財持出其他令(出典『常憲院殿御実紀』など)

 1月 回向院で「明暦の大火」焼死者50年忌

 3月 火事場群集禁止(出典『常憲院殿御実紀』『御触書寛保集成27』)

 8月25日 大形門松停止(出典『常憲院殿御実紀』)

 11月11日 塵芥規定場所以外夜間投棄禁止(出典『常憲院殿御実紀』など)

 11月15日 売女并携火行商禁止(出典『常憲院殿御実紀』など)

 11月 大門松販売禁止(出典『御触書寛保集成49』)

 12月 火災時屋材戸障子路上持出禁止(出典『常憲院殿御実紀』など)

    警火梯子常備(出典『常憲院殿御実紀』)

◇1707年(宝永4年)

 3月 火災跡焼金物拾得売買禁止(出典『御触書寛保集成36』)

 8月 牛車大八車制(出典『常憲院殿御実紀』『御触書寛保集成45』など)

◇1708年(宝永5年)

 5月10日 伊勢抜参処罰(出典『常憲院殿御実紀』『徳川十五代史』)

 7月 牛車往来制限令(出典『常憲院殿御実紀』『御触書寛保集成45』)

 8月22日 宝永大火で被災した公家に居宅造営費用を下賜

◇1709年(宝永6年)

 12月11日 京都、禁裏御所方火消新置され、京都定火消再置

◇1710年(宝永7年)

 1月22日 火災時在宅令(出典『文昭院殿御実紀』『御触書寛保集成27』)

 4月 男達鳶之者等強請者追捕(出典『御触書寛保集成48』)

 12月 貸駕篭制限(出典『文昭院殿御実紀』『御触書寛保集成45』)

◇1711年(正徳1年/宝永8)

 6月 江戸市中の商家が力士を抱えることを禁止(江戸時代年表)▶町人が財力にまかせて力士を抱え、取り組みを見せることを禁じた。本当の力士ではなく、火事に備えて傭った鳶の者に相撲を取らせるのも許されない(読める年表日本史)

 12月11日 神田連雀町より出火、霊岸島まで達する大火となり、日本橋も半焼

◇1712年(正徳2年)

 1月11日 大岡忠相山田奉行就任(出典『文昭院殿御実紀』)

 1月29日 出火場早乗禁止(出典『文昭院殿御実紀』)

 1月 江戸橋広小路(出典『増訂武江年表』)

 1~2月 江戸市中で火事頻発

 2月2日 大名火消定制(出典『文昭院殿御実紀』『徳川十五代史』)

 12月 大手桜田両下馬酒煮売厳禁(出典『享保集成』『徳川十五代史』など)

    火事場及消防制(出典『有章院殿御実紀』『徳川十五代史』)

    警火消炭処置令(出典『有章院殿御実紀』)

    火災後市街家屋壁塗令(出典『有章院殿御実紀』)

◇1713年(正徳3年)

 閏5月15日 江戸近郊の百姓地・町地を町奉行支配下とする

 11月18日 若年寄火災地巡視令(出典『有章院殿御実紀』)

 12月22日 下谷池之端より出火、深川・洲崎まで延焼

◇1714年(正徳4年)

 1月11日 牛込市谷火災(出典『有章院殿御実紀』)

 3月 江戸市中の芝居小屋に2階桟敷席を禁じる▶「寺社境内雑劇等及芝居二三階桟敷禁止…1714(正徳4)年3月16日」(出典『有章院殿御実紀』『徳川十五代史』)

 10月20日 水戸藩根津邸失火(出典『有章院殿御実紀』)

 11月25日 本所深川大火(出典『有章院殿御実紀』)

◇1715年(正徳5年)

 1月5日 江戸大火(出典『有章院殿御実紀』)

 1月11日 火消役更迭(出典『有章院殿御実紀』)

 3月11日 火消役更迭(出典『有章院殿御実紀』)

 4月 職務・番所人数など江戸の辻番制を規定▶「辻番制定…1715(正徳5)年4月」(出典『徳川十五代史』『有章院殿御実紀』『憲教類典』)

 12月12日 寄合辻番所制(出典『有章院殿御実紀』『徳川十五代史』)

 12月30日 江戸大火(出典『有章院殿御実紀』『増訂武江年表』)

 この年 店火消設置(ブリタニカ国際大百科事典小項目版2015)


⑷【第8代将軍・吉宗(1716年)〜(『いろは組』)〜1738年(元文3年)】

◇1716年(享保1年/正徳6)

 1月11日 大火頻発(出典『有章院殿御実紀』『増訂武江年表』など)

 2月7日 本郷森川宿火事(出典『有章院殿御実紀』)

 2月22日 鍛冶橋火事(出典『有章院殿御実紀』)

 閏2月9日 火消役更迭(出典『有章院殿御実紀』)

 5月1日 紀州藩主徳川吉宗、将軍を継ぐ(8月13日 将軍宣下)

 5月4日 町方売買并風呂屋営業許可(出典『撰要永久録・御触事巻16』)

 9月28日 中番設置等警火令(出典『撰要永久録・御触事巻16』)

 この年 東西南北4隊の方角火消を大手組・桜田組の2組に編成替え

◇1717年(享保2年)

 1月13日 日本橋附近火災(出典『有徳院殿御実紀』)

 1月22日 小石川馬場から出火、日本橋・深川まで200余町焼失(小石川馬場の火事)

 1月23日 赤城辺出火(出典『有徳院殿御実紀』)

 1月 すべての大名屋敷に火消組が編成された(読める年表日本史)

    警火・火賊追捕并消防制(出典『有徳院殿御実紀』)

 2月3日 大岡忠相、江戸町奉行に任命される

      罹災武家邸宅麁造令(出典『有徳院殿御実紀』)

 2月 護持院焼失、跡地は火除地となる(日本史年表/東京堂出版)/2月9日 護持院焼跡火除地設置出典『有徳院殿御実紀』)▶「火除地ひよけち…明暦の大火後と享保期(1716〜36)に集中して設置されていた」(お江戸の経済事情)

 3月8日 鳶之者戒飭無札厳禁(出典『撰要永久録・御触事巻17』)

 3月11日 武家諸法度を天和の制に戻す

 6月9日 小伝馬町大火(出典『有徳院殿御実紀』)

 9月21日 惣名主火ノ元并ニ勤方申合(出典『撰要永久録・御触事巻17』)

 10月5日 南槙町火事(出典『有徳院殿御実紀』)

 10月7日 出火ノ節道具搬出禁止(出典『撰要永久録・御触事巻17』)

 12月13日 神田火事(出典『有徳院殿御実紀』『増訂武江年表』)

 12月28日 牛込大火(出典『有徳院殿御実紀』『増訂武江年表』)

(1717年「東西南北4隊の方角火消」説あり)

◇1718年(享保3年)

 5月 火除地設定(出典『享保撰要類集7』)

 9月30日 防火方法復申(出典『撰要永久録・公用留巻之3』)

 10月18日 町火消設置(出典『享保撰要類集8』『撰要永久録・御触事巻17など)

 11月5日 鳶者等戒飭(出典『撰要永久録・御触事巻17』など)

 11月19日 自身番中番停止(出典『撰要永久録・御触事巻17』)

 11月 町火消の制度を定める(日本史年表/東京堂出版)

 12月4日 町火消組合設置(出典『撰要永久録・御触事巻17』など)

 12月5日 江戸火災(出典『万年記』など)

 12月10日 火付改・盗賊改・賭博改の職務を統合し、火付盗賊改を設置

◇1719年(享保4年)

 2月13日 江戸火災(出典『万年記』『柳営日次記』『政隣記』)

 2月26日 防火建築諮問(出典『撰要永久録・御触事巻18』)

 3月2日 路次屋根禁止(出典『撰要永久録・御触事巻18』)

 3月9日 火除地設定(出典『柳営日次記』『有徳院殿御実紀』)

 4月14日 町奉行を南北の2人とする(1702年・中町奉行所〜19年廃止)

 4月 露地屋根葺禁制(出典『有徳院殿御実紀』)

    防火上市民心得示達(出典『重宝録11』

    本所・深川地域、町奉行支配となる

 6月19日 偽目明し,鳶之者取締(出典『撰要永久録・御触事巻18』)

 9月11日 防火駆付人足請負不可答申(出典『正宝事録』)

 10月20日 防火駆付人足請負不可答申(出典『正宝事録』など)

 11月 傭夫及抱鳶制(出典『有徳院殿御実紀』)

◇1720年(享保5年)

 1月11日 防火訓示『撰要永久録・御触事巻18』『有徳院殿御実紀』など)

 1月 浅草米廩火除地高札(出典『御府内備考』)

 3月3日 日本橋箔屋町より出火、数十町を焼き上野寛永寺徳川家光廟類焼(江戸時代年表)

 3月17日 消防人数規制 (出典『重宝録14』『有徳院殿御実紀』)

 3月27日 江戸大火(出典『柳営日次記』『撰要永久録・御触事巻18』など)

 ▶「享保5年3月27日 中橋箔屋町の足袋屋から出火、日本橋・馬喰町・下谷上野・金杉・箕輪まで焼ける」(読める年表日本史)

 4月18日 大名火消鳶ノ者召抱禁制(出典『有徳院殿御実紀』)

 4月20日 南町奉行大岡忠相、防火のため土蔵造り・塗家・瓦葺を奨励

 4月29日 柳原辺火除地設定(出典『有徳院殿御実紀』など)

 4月 露路屋根葺禁制(出典『有徳院殿御実紀』)

 5月8日 中橋広小路等蔵地(出典『撰要永久録・公用留附録巻1』など)

 8月7日 町火消いろは組設定(出典『撰要永久録・御触事巻18』など)

 ▶「江戸の町火消組合を「いろは47組」に再編成」(江戸時代年表)▶「享保5年8月 江戸町火消いろは45組を創設する」(日本史年表/東京堂出版)▶「享保5(1720)年にはいろは48組を編成」(東京消防庁)

 8月19日 防火訓示(出典『撰要永久録・御触事巻18』)

 10月18日 火事装束質素令(出典『撰要永久録・御触事巻18』)

 10月20日 道奉行再置(出典『有徳院殿御実紀』『柳営補任巻之18』など)

◇1721年(享保6年)

 1〜3月 江戸で数度の大火、類焼14万1.330戸に及ぶ(日本史年表/東京堂出版)▶この春 3月から連続6回の火災で、焼失家屋14万1,000余戸、焼死者2,100余人に及ぶ(江戸時代年表)

 2月9日 江戸大火(出典『有徳院殿御実紀』など)

 2月10日 町火消風烈日勤務制(出典『重宝録14』)

 3月3日 江戸大火(出典『有徳院殿御実紀』など)

 4月9日 端午飾物簡素令并既製造品販売許可(出典『撰要永久録・御触事巻19』など)

 5月19日 町方諸願名主五人組勤方規定(出典『享保撰要類集4』など)

 7月1日 江戸地図校訂(出典『憲法部類』)

 7月23日 雛飾其他簡素令(出典『享保撰要類集11』など)

 閏7月25日 目安箱設置(出典『享保撰要類集15』など)

 8月2日 目安箱を評定所門前に設置

 10月19日 人別帳作成を江戸町名主に命じ、毎年4・9月の人口調査を指示。月末、江戸の町人人口約50万人と判明

 11月 浪人山下幸内、目安箱に上書し改革諸政策を批判する(日本史年表/東京堂出版)▶「吉宗は山下の建言を受け入れなかったが、堂々たる建言姿勢を大いに賞賛した。幸内は謙信流の軍学者であったという」(読める年表日本史)

 12月10日 江戸火災(出典『有徳院殿御実紀』)

 12月 日本橋附近火除地設置中止(出典『有徳院殿御実紀』など)

◇1722年(享保7年)

 1月28日 武家屋敷消防制(出典『有徳院殿御実紀』)

 2月9日 土蔵造町-歎願(出典『撰要永久録・御触事巻19』など)

 2月28日 各町惣間数并町屋敷調(出典『撰要永久録・御触事巻20』)

 2月 京都、定火消制を廃止し、町方中心の組織に改編

 3月6日 橋火消(出典『享保撰要類集第8』など)

 9月3日 上水を火事拡大の原因とする流言により青山・三田上水を廃止、10月1日に千川上水も廃止

 11月24日 町火消武士屋敷火災出動(出典『重宝録14』)

 ▶「この年 町火消は武家地での消火活動も認められた」(面白いほどよくわかる江戸時代)

 12月23日 神田通り町西土蔵造令(出典『撰要永久録・御触事巻20』)

◇1723年(享保8年)

2月13日 江戸市中の辻番、町人20人の請負制となる(江戸時代年表)/2月 江戸の辻番(898ヵ所)を請負とする(日本史年表/東京堂出版)/「辻番請負制…1723(享保8)年2月13日」(『有徳院殿御実紀』『御触書寛保集成38』,東京都公文書館)▶「1727年(享保12年)11月6日 江戸市中辻番所の町人請負を廃止」(江戸時代年表)

 2月25日 雛人形商人取締(出典『撰要永久録・御触事巻21』)

 5月 大火火元ノ地主罰金(出典『庚子雑記2』)

 6月7日 塗屋土蔵造令(出典『撰要永久録・御触事巻21』)

 6月9日 名主小組合設置并警火令(出典『撰要永久録・御触事巻21』など)

 6月 出火立会組合人数(出典『重宝録14』)

 8月14日 市中火見所建設(出典『撰要永久録・御触事巻21』)

 ▶8月15日 火の見櫓の設置を江戸市中10町にひとつと定める(江戸時代年表)/8月 江戸の火の見櫓の制を定める(日本史年表/東京堂出版)

 8月 五月人形販売禁止(出典『撰要永久録・御触事巻21』)

 11月12日 武家邸及市中出火処罰(出典『庚子雑記2』)

 12月18日 旗本士家屋瓦葺(出典『柳営日次記』など)

 12月30日 髪結町奉行所防火(出典『享保撰要類集8』『承寛襍録』)

◇1724年(享保9年)

 2月14日 隅田以東消防制(出典『有徳院殿御実紀』)

 3月6日 各町警火立番制(出典『撰要永久録・御触事巻22』)

 3月16日 火災時家財道路搬出禁止(出典『有徳院殿御実紀』など)

 閏4月14日 本所材木蔵跡埋立(出典『撰要永久録・御触事巻22』など)

        人口減少理由答申(出典『撰要永久録・御触事巻22』)

 5月20日 銅屋根禁止(出典『撰要永久録御触事巻22』)

 5月 江戸人口調査により、町方64万9,000人余と判明

 7月21日 日本橋通塗屋土蔵造ニ改造令(出典『撰要永久録・御触事巻22』など)

◇1725年(享保10年)

 3月19日 四谷牛込士人瓦葺令(出典『柳営日次記』など)

 3月 蛎殻葺許可(出典『撰要永久録御触事巻22』など)

 4月18日 火除地設定(出典『有徳院殿御実紀』)

 4月23日 武家邸瓦葺建築戒告(出典『柳営日次記』『有徳院殿御実紀』)

 4月28日 四谷市谷牛込辺寺院土蔵造(出典『柳営日次記』『有徳院殿御実紀』)

 9月5日 塗家蛎殻葺督励(出典『柳営日次記』『天享吾妻鑑』など)

◇1726年(享保11年)

 3月 土手蔵瓦葺願(出典『享保撰要類集6』『重宝録18』)

 4月26日 芝口御門土手跡等蔵地許可(出典『享保撰要類集17』)

 7月 町人ノ銅葺屋根許可(出典『撰要永久録御触事巻23』)

◇1727年(享保12年)

 閏1月3日 行商人火持歩行厳禁(出典『撰要永久録御触事巻24』)

 閏1月5日 古鉄買火事場出入禁止(出典『撰要永久録御触事巻24』)

 2月27日 瓦葺土蔵造公役銀免除(出典『享保撰要類集8』)

 3月15日 小石川辺士地防火建築拝借金許可(出典『柳営日次記』など)

 4月1日 荻生徂徠、将軍吉宗に拝謁(翌年1月19日没,63歳)

 4月10日 小石川辺町方土蔵造令(出典『享保撰要類集8』)

 6月 堤外家屋建築禁止(出典『有徳院殿御実紀』など)

 11月6日 江戸市中辻番所の町人請負を廃止

 ▶「請負辻番相対制…1727(享保12)年11月6日」(出典『有徳院殿御実紀』『享保撰要類集20』『御触書寛保集成38』)

◇1728年(享保13年)

 2月3日 麹町辺瓦葺恩貸金(出典『有徳院殿御実紀』)

 3月7日 旗本邸瓦葺令(出典『有徳院殿御実紀』)

 ▶日付が異なる。「3月17日 幕府、神田周辺の旗本・御家人屋敷の瓦葺を奨励して貸付金を出し、市街中心部には新改築での茅葺を禁じる」(江戸時代年表)

 4月7日 中番設置并湯屋営業令達(出典『撰要永久録御触事巻24』)

◇1729年(享保14年)

 3月1日 本所深川防火制(出典『享保撰要類集8』)

 9月13日 消防人数増員方法具申(出典『撰要永久録御触事巻25』)

 11月30日 防火建築期限付励行令(出典『撰要永久録御触事巻25』など)

◇1730年(享保15年)

 1月6日 町火消組合更定(出典『撰要永久録御触事巻26』など)

 1月8日 消防出場制(出典『有徳院殿御実紀』)

 1月15日 江戸町火消いろは47組を大組10組に再編成(「48組」説)

 ▶「各町ごとの火消人足の数は負担を考慮して15人へ半減され、町火消全体での定員は17,596人から9,378人となった」(ウィキペディア「火消」)

 1月19日 瓦葺建築令(出典『有徳院殿御実紀』)

 4月3日 神田蔵地焚火許可(出典『享保撰要類集17』)

 4月4日 牛込門外邸宅蛎殻葺制(出典『有徳院殿御実紀』)

 4月 本郷士宅長屋瓦葺令(出典『有徳院殿御実紀』)

 5月6日 大提灯奉納并製作禁止(出典『撰要永久録御触事巻26』)

 12月16日 石出佐兵衛居宅防火建築(出典『享保撰要類集2』)

◇1731年(享保16年)

 3月 出火時詰場制(出典『重宝録14』)

 4月15日 目白台から出火、牛込・麹町・芝に延焼し、死者1,000人余

 4月18日 市中昼夜警戒令(出典『有徳院殿御実紀』)

 4月21日 市中明蔵調査(出典『公儀御触留13日本財政経済史料5』)

 4月28日 塗屋蛎殻葺邸宅再建恩貸(出典『有徳院殿御実紀』など)

 4月29日 武家邸再建拝借金許可(出典『享保撰要類集8』)

 4月 再建大名屋敷瓦葺令(出典『公儀御触留13日本財政経済史料4』)

 6月27日 米蔵防火駈付人足数制定(出典『享保撰要類集8』)

 11月 消防令(出典『有徳院殿御実紀』)

◇1732年(享保17年)

 3月 火災恩貸金不許可(出典『有徳院殿御実紀』『御触書寛保集成31』)

 4月4日 災後再築延期并蛎殻葺奨励(出典『有徳院殿御実紀』)

 4月28日 失火時門番制(出典『有徳院殿御実紀』)

 5月3日 浅草米廩消防制(出典『撰要永久録御触事巻27』)

 5月11日 牛込門内士邸瓦葺令并恩貸金許可(出典『有徳院殿御実紀』)

 5月20日 町屋再建拝借金許可(出典『享保撰要類集8』)

 閏5月30日 蔵前焼残居宅土蔵造令(出典『享保撰要類集6』など)

 6月15日 市中花火禁止(出典『撰要永久録御触事巻27』)

 6月16日 町年寄所持土手蔵商物許可(出典『享保撰要類集6』)

 6月20日 辻番修復贅沢禁止(出典『令條秘録6上日本財政経済史料8』)

 6月23日 明地返還不許可(出典『享保撰要類集7』)

 7月12日 目安箱投書村民在所名明記令(出典『有徳院殿御実紀』)

 この年 蛎殻灰拾竃制定(出典『諸色調類集10ノ99日本財政経済史料3』)

◇1733年(享保18年)

 1月18日 蠣殻葺屋根補修令(出典『享保撰要類集8』など)

 1月20日 牛込門外邸宅瓦葺令(出典『有徳院殿御実紀』)

 2月12日 浜猿江両蔵火災時駈町火消数減少(出典『享保撰要類集8』)

 3月 火之見どら使用願(出典『重宝録14』)

 4月19日 番町其ノ他士邸瓦葺令(出典『有徳院殿御実紀』)

 5月28日 両国の花火始まる

 6月18日 小川町其他居住御家人屋舎瓦葺再令(出典『大成令56』など)

 12月9日 井戸堀年賦請負人町触(出典『正宝事録』)

 12月 庁舎其他瓦葺改造令(出典『御触書寛保集成29』)

    猿江材木蔵へ町火消派遣(出典『享保撰要類集8』)

    江戸瓦不評(出典『享保撰要類集附録』)

◇1734年(享保19年)

 5月4日 郭内庁舎邸宅瓦葺竣工期限令(出典『享保撰要類集24』など)

 6月15日 材木蔵辺出火駆付(出典『重宝録14』)

 12月11日 猿江材木蔵防火令(出典『重宝録14』『享保撰要類集8』)

◇1736年元文1年/享保21)

 12月15日 神田辺瓦葺恩貸金令(出典『有徳院殿御実紀』など)

◇1737年(元文2年)

 3月5日 瓦葺再建恩典令(出典『享保撰要類集8』)

 5月3日 下谷・金杉辺から出火、寛永寺本坊など焼失

 6月17日 瓦葺改造恩貸金令(出典『有徳院殿御実紀』など)

 閏11月7日 夜中番所使者自身番屋ヘ派遣(出典『正宝事録』)

 閏11月28日 御用挑灯持歩行禁止(出典『正宝事録』)

◇1738年(元文3年)

 3月6日 士邸瓦葺恩貸金許可(出典『有徳院殿御実紀』など)

 3月 土手蔵瓦葺許可(出典『享保撰要類集6』)

 7月1日 火元組合人足駈付制(出典『撰要永久録御触事巻29』など)

 7月28日 繁華地花火禁止(出典『正宝事録』『有徳院殿御実紀』)

 9月6日 町-祭礼大幟等禁止(出典『撰要永久録・御触事巻29』)

 10月10日 武家屋敷火消組合(出典『元文日録編年史料』)

 11月16日 瓦葺営造期限延期(出典『有徳院殿御実紀』など)

 この年「四番組は五番組に、七番組は八番組に合併され、大組は8組となった。またこの頃までに本所、深川の16組も、南、中、北の3つの大組に編成された」(日本歴史大事典)▶「(1730年の)のちに…『本組』が三番組に加わっていろは48組となり…元文3年(1738年)には大組のうち、組名称が悪いとして四番組が五番組に、七番組が六番組に吸収合併され、大組は8組となった。この年の定員は10,642人で、そのうち鳶人足が4,077人・店人足が6,565人であった」(ウィキペディア「火消」)


⑸【1739年(元文4年)〜幕末】

◇1739年(元文4年)

 2月5日 茅藁葺建築特認(出典『享保撰要類集8』)

 2月12日 火事場巡察使番兼任停止(出典『有徳院殿御実紀』)

 3月4日 神田火災(出典『続談海』『歴代炎上鑑』『享保撰要類集8』など)

 3月29日 類焼士邸瓦葺恩貸金令(出典『有徳院殿御実紀』『柳営日次記』)

 4月16日 火之番屋(出典『高野家文書案詞』)

 5月 南伝馬町火之番屋(出典『撰要永久録・公用留附録巻1』)

 6月12日 土手蔵住居蔵ニ変更許可(出典『享保撰要類集6』)

 8月28日 自身番中番復活反対答申(出典『撰要永久録・御触事巻29』)

 9月23日 町-火之見櫓(出典『撰要永久録・御触事巻29』)

◇1740年(元文5年)

 5月11日 防火対策として大名32名に藩邸の瓦屋根改修を命じる(江戸時代年表)/諸大名邸瓦葺令…1740(元文5)年5月11日(出典『有徳院殿御実紀』『柳営日次記』)

 5月14日 上水高枡懸樋防火(出典『享保撰要類集8』)

 8月6日 火消道具不足補填(出典『正宝事録』)

◇1741年(寛保1年/元文6)

 2月7日 増上寺西町屋防火建築(出典『享保撰要類集8』)

 7月7日 市中花火禁止(出典『撰要永久録・御触事巻29』)

◇1742年(寛保2年)

 1月25日 町屋瓦葺令(出典『正宝事録』)

 2月4日 赤坂辺瓦葺(出典『享保撰要類集8』『柳営日次記』など)

 5月9日 道路障碍規制(出典『撰要永久録・御触事巻30』など)

 10月24日 赤坂門外瓦葺令(出典『享保撰要類集21』など)

 11月15日 瓦葺邸宅営作督励(出典『柳営日次記』など)

 12月28日 消防制(出典『有徳院殿御実紀』)

◇1743年(寛保3年)

 4月21日 町奉行所近火駆付令(出典『正宝事録』)

 4月29日 大提灯停止(出典『正宝事録』)

 閏4月18日 火消役華美衣裳禁止(出典『有徳院殿御実紀』)

 9月5日 四谷門外上水防火(出典『享保撰要類集8』)

◇1744年(寛保4年/延享1)

 1月29日 本所深川出火時新大橋渡行制限(出典『正宝事録』)

◇1745年(延享2年)

 2月12日 江戸大火。青山六道辻から出火し死者1,323人・焼失家屋2万8,000棟(六道火事)▶「六道火事1745年(延享2)2月21日 出火-千駄ヶ谷」(大江戸なんでもランキング)?

 5月3日 大岡忠相、代官支配を免除され実質的権限失う

 6月8日 河岸蔵建築等町年寄ニ届出令(出典『正宝事録』など)

 9月25日 吉宗、将軍を辞職し、西の丸に移る。家重が将軍を継ぐ(11月2日 徳川家重、第9代将軍宣下)

 閏12月15日 江戸市中の寺社門前町屋を町奉行管轄下に置く

◇1746年(延享3年)

 1月13日 一町以上火災絵図西丸提出制(出典『享保撰要類集8』)

 2月30日 江戸大火。築地より出火し中村座・市村座などを焼き、翌日浅草へ飛び火、小塚原で鎮火(坪内火事)

 3月6日 出火時の建具・諸道具の持ち出しを厳禁

 3月26日 防火建築ノタメ公役免除(出典『享保撰要類集8』『正宝事録』)

 4月9日 瓦値上禁止(出典『正宝事録』)

 4月19日 手間賃資材値上禁止(出典『正宝事録』)

 6月4日 瓦値段引下令(出典『正宝事録』)

 10月9日 火消人足請負願不可答申(出典『正宝事録』)

 11月 寺社門前町屋町奉行支配(出典『享保撰要類集14』)

◇1747年(延享4年)

 2月9日 明地床見世撤去令(出典『享保撰要類集7』『御触書宝暦集成32』)

 2月14日 寺社境内明地興行許可(出典『令条秘録4日本財政経済史料8』)

 4月16日 江戸城二の丸焼失

 5月30日 火除明地家作取調令(出典『享保撰要類集7』)

 この年 町火消、江戸城二の丸炎上に際しては、城内に入ることを許される(面白いほどよくわかる江戸時代)

◇1748年(延享5年/寛延1)

 2月20日 江戸払い区域が拡張され、本所・深川地域が編入される

 5月16日 朝鮮使節逗留中失火者処罰(出典『正宝事録』)

 7月 武家町両火消争論禁止(出典『御触書宝暦集成23』)

◇1749年(寛延2年)

 2月 火附火罪(出典『御触書宝暦集成30』)

 8月24日 寺社境内町人町方支配(出典『享保撰要類集6』)

◇1750年(寛延3年)

 1月7日 牛車大八車引続停止再触(出典『正宝事録』など)

◇1752年(宝暦2年)

 1月29日 火事場野次馬禁止(出典『惇信院殿御実紀』)

◇1754年(宝暦4年)

 2月14日 市中警火并名主自身番勤務励行令(出典『正宝事録』)

◇1755年(宝暦5年)

 1月12日 江戸市中での左義長焚を禁止

 2月28日 天水桶水溜桶用意令(出典『正宝事録』)

 6月9日 竜吐水売弘可否答申(出典『正宝事録』)

 6月28日 城郭附近并家込場所花火打揚禁止(出典『正宝事録』など)

 6月 天水桶水溜桶備付令(出典『御触書宝暦集成24』など)

 7月 上野仁王門前町屋塗屋造(出典『宝暦令典永鑑24』)

◇1756年(宝暦6年)

 1月29日 出火時持出建具道路障碍禁止(出典『撰要永久録・御触事巻30』)

      火事場ニテ火消喧嘩厳禁(出典『正宝録続』)

 2月17日 怪火ニ付怪敷者取締(出典『正宝録続』)

 2月24日 火事場ニテ役人ニ不埒戒告(出典『正宝録続』)

 3月8日 市中警火并怪敷者取締令(出典『正宝録続』)

 4月 在方警火并怪敷者取締令(出典『牧民金鑑第21』など)

 11月23日 八重洲河岸の林大学頭邸より出火、大名小路・数寄屋町・築地延焼(大学火事)

 12月8日 水溜桶盗難取締(出典『正宝録続』)

◇1759年(宝暦9年)

 4月15日 菖蒲節供飾物質素令并手遊人形雛市販売禁止(出典『類集撰要巻之45』『諸問屋再興調8』)

 5月 花火家込ノ場所打上禁止(出典『町触』)

 閏7月 雛人形豪華禁止(出典『町触』)

 11月2日 本所拾一組出火駆付場所上申(出典『重宝録14』)

 11月24日 豪華雛人形販売不許可(出典『諸問屋再興調8』など)

◇1760年(宝暦10年)

 2月4日 二月江戸大火(出典『増訂武江年表』『年代炎上鑑』など)

 2月6日 神田旅籠町の足袋商明石屋から出火。永代橋などを焼き、翌日深川州崎で鎮火、460余町焼失(明石屋火事)

 2月8日 火災後の手間賃・物価の値上げを禁止する

 2月9日 往来支障燼灰取片付令(出典『町年寄手控・編年史料所収』など)

 2月11日 出火時の建具・諸道具の往来への持ち出しを厳禁する

 2月14日 焼失木戸自身番屋自力復旧許可(出典『町触』)

 2月18日 御能拝見町人ニ銭支給(出典『町触』)

 3月15日 類焼町-救済方願書差戻(出典『町触』)

 3月28日 下リ雛多量ニ付善処要望(出典『宝暦9年十軒店雛仲間公用帳日本雛祭考』)

 3月 邸内借主出火引責(出典『向山誠斎・庚子雑記2・日本財政経済史料8』)

 4月2日 火持歩行商禁止町触徹底令(出典『町触』)

 5月1日 三階建書上令(出典『町年寄手控・編年史料所収』)

 7月13日 市中花火禁止再令(出典『町触』『浚明院殿御実紀』)

 9月17日 出火時牢屋敷駆付人足高書上(出典『町触』)

 10月26日 武家屋敷外昼夜見廻警火令(出典『柳営日次記』)

 12月23日 本所深川火消出火時御船蔵駈付令(出典『重宝録14』)

◇1761年(宝暦11年)

 1月8日 類焼町-公役銀免除願不許可(出典『町触』)

 1月26日 白木屋紀州家出火駈付人足差出(出典『大村家文書・永代紀録帳1』)

 8月10日 自身番平常復帰町触(出典『町触』)

 9月26日 火事場出役役人ニ無礼厳禁(出典『撰要永久録・御触事巻之33』)

◇1762年(宝暦12年)

 2月16日 江戸火災(出典『浚明院殿御実紀』)

 2月20日 麻布火災(出典『続談海』『年代炎上鑑』)

 2月22日 防火建築地域瓦葺励行令(出典『正宝録続』)

 3月5日 匿名投書者処罰令(出典『正宝録続』)

 9月11日 湯屋休業令(出典『正宝録続』)

 12月 町火消出火時詰場答申(出典『町触』『撰要永久録・公用留巻之5』)

◇1763年(宝暦13年)

 2月2日 藤堂家町火消ニ酒支給(出典『町触』)

 11月25日 町火消定火消規則遵守令(出典『正宝録続』など)

 12月18日 朝鮮使節宿舎近辺出火駆付令(出典『町触』)

◇1764年(明和1年/宝暦14)

 2月9日 船大工火焚特別許可(出典『正宝録続』など)

 2月(中旬)平賀源内、石綿を使った燃えない布、火浣布を製造

 3月10日 自身番令(出典『正宝録続』)

 3月19日 往還ヘ焼土持出禁止(出典『正宝録続』)

 10月8日 定火消がさつ振舞禁止(出典『明和元録』『浚明院殿御実紀』)

 11月8日 定火消同様町火消がさつ振舞禁止(出典『正宝録続』など)

 11月23日 定火消不埒者取締再令(出典『正宝録続』)

 閏12月25日 城近辺町火消へ竜吐水支給(出典『撰要永久録・公用留巻之5』など)▶「明和1年12月25日 各町火消組に防火用具の竜吐水支給」などの記述が目立つ。「12月」なら「城近辺」より以前、「各」町火消に支給となるが。

 閏12月 万石以下組合辻番勤方(出典『御触書天明集成47』)

◇1766年(明和3年)

 4月6日 火事場見廻リ励行令(出典『正宝録続』)

 4月8日 芝の火除け空き地を甘蔗植場として町医師河野三秀に貸与

 11月6日 出火時町火消両町奉行所駆付令(出典『正宝録続』)

◇1767年(明和4年)

 2月27日 町-自身番中番ニ付答申(出典『正宝録続』)

 閏9月 明地菜園ニ貸渡(出典『御触書天明集成47』)

 10月24日 火災時町奉行伜代役(出典『浚明院殿御実紀』など)

◇1768年(明和5年)

 4月6日 吉原から出火。吉原遊郭焼失し、仮宅営業が許可される

 6月17日 江戸雷火災(出典『浚明院殿御実紀』など)

 10月12日 竜吐水希望町-出願町触(出典『正宝録続』『坂本町旧記天』)

 12月4日 江戸火災(出典『浚明院殿御実紀』)

 12月18日 江戸火災(出典『浚明院殿御実紀』)

 12月23日 材木蔵焼失消防人足譴責(出典『重宝録14』)

◇1769年(明和6年)

 2月23日 本所浅草火災(出典『続談海』『年代炎上鑑』)

      火災時札差蔵入人足差出(出典『札差事略14』)

 3月15日 火事場馬上見物人取締令(出典『柳営日次記』など)

 3月 松飾商売譲渡願(出典『江戸橋広小路最寄旧記秋』)

◇1770年(明和7年)

 4月11日 番屋自身番勤務区別上申(出典『類集撰要24』)

 閏6月13日 市中花火禁止(出典『浚明院殿御実紀』など)

 閏6月 町方屋根銅吹願ニ付上申(出典『明和撰要集23』)

 7月 盆飾燈篭火処置町触(出典『明和撰要集5』)

 8月20日 銅瓦銅樋販売者注意(出典『明和撰要集2』)

◇1771年(明和8年)

 2月29日 江戸大火(出典『歴代炎上鑑』『札差事略30』など)

 3月7日 坂本町火之見櫓願(出典『坂本町旧記地』など)

 3月16日 町火消米蔵防火褒賞(出典『明和撰要集17』)

 3月 御蔭参リ(出典『増訂武江年表』など)

 4月23日 吉原全焼(出典『浅草寺日並記』など)

 5月24日 新吉原類焼仮宅許可(出典『明和撰要集13』)

 5月 瓦塀控柱仕様(出典『御触書天明集成37』)

◇1772年(安永1年/明和9)

 2月29日 江戸で大火発生(目黒行人坂大火)

 3月6日 類焼した諸大名に参勤の延期を許可

 4月8日 火災時大八車等禁制(出典『撰要永久録・御触事巻31』)

 4月15日 類焼した御家人に恩貸金を貸与

 6月7日 防火のために瓦葺きを厳命

 6月10日 瓦葺蛎殻葺励行令(出典『柳営日次記』『類集撰要3』など)

 6月21日 目黒行人坂大火の放火犯が浅草で火刑

 11月16日 災害多発で人心一新のため安永に改元

 12月11日 炭薪値段引下令(出典『明和撰要集9』)

 12月12日 町火消郭内消防(出典『柳営日次記』『浚明院殿御実紀』)

◇1773年(安永2年)

 1月11日 左義長焼禁止(出典『明和撰要集5』)

 1月20日 火事見廻(出典『明和撰要集1』)

 6月7日 市中花火禁止(出典『浚明院殿御実紀』)

 7月20日 江戸城門楼櫓造作(出典『浚明院殿御実紀』)

 この年 番屋建設(出典『明和撰要集7』)

◇1774年(安永3年)

 1月11日 旧火除明地請負地願許可(出典『明和撰要集8』)

 1月27日 火災後の大名屋敷仮普請を禁じる

      火事場見物禁制(出典『浚明院殿御実紀』)

 7月22日 市中花火禁止再令(出典『浚明院殿御実紀』)

 10月17日 隅田川に大川橋(吾妻橋)が架けられる

◇1775年(安永4年)

 3月3日 四日市土手蔵住居蔵ニ使用許可(出典『明和撰要集27』)

 4月4日 町火消朱引外出動制(出典『正宝録続』)

 4月8日 水溜桶水汲入励行令(出典『正宝録続』『続談海』)

 5月16日 火方加役免除(出典『正宝録続』)

 5月25日 町-水溜桶等閑禁止(出典『正宝録続』)

 9月12日 市中水溜桶整備令(出典『正宝録続』)

 10月 消防大纏(出典『正宝録続』)

 11月6日 町方昼夜見廻リ(出典『正宝録続』)

 11月22日 辻番制(出典『正宝録続』『明和撰要集7』『浚明院殿御実紀』)

 11月 火消人足不勤書上(出典『江戸橋広小路并最寄旧記春』)

◇1776年(安永5年)

 1月11日 左義長焚等禁止(出典『明和撰要集5』)

 4月15日 振売商人営業督励(出典『浚明院殿御実紀』)

 7月8日 消火不出場処罰(出典『浚明院殿御実紀』)

◇1777年(安永6年)

 3月7日 水溜桶設置励行令(出典『正宝録続』)

 7月8日 水溜桶設置励行令(出典『正宝録続』)

 9月26日 髪結仲間町年寄役所出火駆付制(出典『諸問屋再興調15』)

 11月 湯銭値上口上(出典『諸問屋再興調23』)

◇1778年(安永7年)

 7月14日 曲輪近辺等花火禁止(出典『正宝録続』)

 10月13日 水溜桶整備令(出典『正宝録続』)

 11月 湯銭改定(出典『諸問屋再興調23』)

◇1779年(安永8年)

 1月19日 町奉行付町火消ヘ百兩下付(出典『類集撰要20』)

 5月23日 花火取締町触(出典『正宝録続』『浚明院殿御実紀』)

 8月3日 仙台河岸花火(出典『続談海』)

◇1780年(安永9年)

 2月2日 祭礼大幟禁止再令(出典『正宝録続』)

 5月19日 江戸城防火のため城番を設置

 7月26日 煙火規制(出典『浚明院殿御実紀』など)

 12月25日 町火消下付金(出典『類集撰要20』)

◇1781年(天明1年/安永10)

 5月 桶大工国役勤督励(出典『類集撰要諸職人』)

 閏5月28日 煙管屋取締(出典『正宝録続』)

 6月 江戸町人大坂町火消一手引請願(出典『御触及口達・大坂編年史』)

 12月 湯銭改定(出典『諸問屋再興23』)

◇1782年(天明2年)

 12月 町火消消火心得(出典『類集撰要20』『御触書天明集成36』など)

◇1783年(天明3年)

 12月 奉行付町火消下付金(出典『安永撰要類集20』『類集撰要20』)

◇1784年(天明4年)

 4月16日 新吉原焼失(出典『白木屋永代記録帳』『武江年表』など)

 6月18日 新吉原仮宅営業許可(出典『安永撰要類集28』など)

 12月26日 江戸大火(出典『浚明院殿御実紀』など)

◇1785年(天明5年)

 1月8日 江戸で火事が多発し、物価が上がったため引き下げを命じる

◇1786年(天明6年)

 1月22日 湯島天神前から出火、大火となる。火の用心を強化

 2月18日 町奉行付火消褒美金下付(出典『天明6年丙午之記・慶応義塾図書館所蔵』)

 11月23日 奉行付町火消廃止(出典『正宝録続』『類集撰要20』など)

◇1787年(天明7年)

 2月29日 増上寺火除地囲込(出典『屋鋪渡預絵図証文』など)

 3月27日 町火消制改革(出典『撰要永久録・公用留巻之7』など)

 7月 火之見櫓設置事例伺(出典『公触要抜書3』)

 9月28月 曲輪内消火制改正(出典『正宝録続』『類集撰要20』など)

 10月 湯銭値上ゲ(出典『大伝馬町長谷川木綿店古帳指引帳第7冊・一橋大学附属図書館所蔵』)

 11月9日 新吉原焼亡(出典『年代炎上鑑』『増訂武江年表』など)

 12月9日 町中自身番開始(出典『白木屋永代記録帳』『類集撰要24』)

 12月29日 出火之節木戸番人差置令(出典『類集撰要20』など)

       門前火之番費用薬王寺負坦(出典『薬王寺文書・大田区史編纂室』)

 この年 町火消・鳶人足の制度化(江戸博覧強記)

◇1788年(天明8年)

 1月15日 新吉原仮宅営業許可(出典『安永撰要類集28』など)

 2月17日 井戸新設(出典『撰要永久録・公用留巻之8』)

 2月 瓦方并人足請負人任命(出典『安永撰要類集29』)

 3月29日 自身番夜番等延長(出典『正事集・慶応義塾図書館所蔵』)

 6月25日 江戸市政批判捨文(出典『覚書文公御筆類第1262号彰考館所蔵』)

 8月10日 町火消壱番組持場変更(出典『正事集・慶応義塾図書館所蔵』など)

 8月11日 火消店人足差出方尋(出典『撰要永久録・公用留巻之8』など)

 8月27日 町-定廻役人等印鑑自身番預(出典『正事集・慶応義塾図書館所蔵』)

 9月 本所深川火消人足詰場所(出典『重宝録14』)

◇1789年(寛政1年/天明9)

 1月11日 左義長焚禁止(出典『正宝録続』)

 1月25日 内裏炎上などの災異により寛政に改元

 1月28日 町火消纒金銀箔付ノ有無回答(出典『正事集・慶応義塾図書館所蔵』など)

 2月11日 瓦葺屋根耐用年数(出典『御作事方永代帳2』)

 2月15日 水溜桶設置励行(出典『正事集・慶応義塾図書館所蔵』など

 3月23日 開帳入仏ノ節大幟等禁止(出典『類集撰要同』など)

 6月26日 火附盗賊改方印鑑自身番預(出典『類集撰要13』など)

 6月29日 町-水切ニ付井戸開放令(出典『類集撰要18』など)

 12月29日 空地ニ弓稽古場設置(出典『安永撰要類集19』など)

◇1790年(寛政2年)

 2月 竜土水一柄焼失(出典『類集撰要21』)

 8月19日 定火消中間押売取締(出典『類集撰要15正事集同』)

 10月18日 初期消火褒賞(出典『類集撰要21』)

 11月9日 猿江御材木蔵町火消駆付廃止(出典『類集撰要21』『正事集同』)

◇1791年(寛政3年)

 2月23日 団扇屋并紙煙草入屋取締方(出典『諸問屋再興調3』)

 4月20日 新規女湯営業開始申渡(出典『類集撰要30』など)

 4月30日 町入用減少ニ付火見櫓減少訳書上(出典『類集撰要21』)

 7月16日 町火消纒箔禁止(出典『類集撰要21』など)

 9月26日 町-小間割火消人足数書上令(出典『類集撰要21』など)

 11月11日 半鐘打方並火消人足出方(出典『類集撰要21』)

◇1792年(寛政4年)

 1月23日 定火消御曲輪外町方出火消防掛方(出典『類集撰要21』など)

 2月23日 髪結商床自身番屋新規修復仕法(出典『記事条例1』)

 7月21日 麻布大火(江戸大火)

 8月4日 大火の被災者に恩赦金の返済猶予を決定

 8月17日 大火の被災者に新築家屋を質素にするよう命じる

◇1793年(寛政5年)

 2月11日 御船蔵近辺出火之節駆付方(出典『重宝録16(東京都公文書館所蔵)』など)

 5月1日 町火消慎方申付(出典『正事集(慶応義塾図書館所蔵)』)

 6月18日 辻番受負人組合設立(出典『正事集(慶応義塾図書館所蔵)』など)

 10月11日 町内水溜桶査察(出典『正事集(慶応義塾図書館所蔵)』)

 10月16日 南伝馬町二丁目火之見新規仕直(出典『撰要永久録・公用留12(東京都公文書館所蔵)』)

 10月25日 下谷湯島神田日本橋辺大火(出典『聞書(三井文庫所蔵)』など)

 12月10日 火災時車引禁止再達(出典『類集撰要21』など)

 12月28日 紀州徳川家火消纏改定(出典『正事集(慶応義塾図書館所蔵)』など)

◇1794年(寛政6年)

 1月10日 大火発生(桜田火事)

 1月15日 江戸火災(出典『聞書(三井文庫所蔵)』)

 2月11日 火災後の材木・賃金の騰貴を禁止

 3月 町火消一番組人足火消道具書上(出典『類集撰要21・旧幕引継書国立国会図書館』)

 4月15日 新吉原町類焼仮宅営業願(出典『南撰要類集38・旧幕引継書国立国会図書館』など)

 6月19日 男女混浴湯屋処罰(出典『正事集(慶応義塾大学図書館所蔵)』など)

 6月20日 禁制花火品-申渡(出典『正事集(慶応義塾大学図書館所蔵)』など)

 9月7日 竜吐水梯子持出方改正(出典『撰要永久録・公用留12(東京都公文書館所蔵)』

 10月6日 武家警火見廻令(出典『甲寅寛政録6年9月至10月4(国立公文書館内閣文庫所蔵)』)

 10月22日 二ケ町自身番共同設置(出典『類集撰要55(神宮文庫所蔵)』)

 10月27日 警火及辻番自身番精勤令(出典『類集撰要24・旧幕引継書国立国会図書館』など)

◇1795年(寛政7年)

 10月 町火消組-竜吐水調査(出典『類集撰要21・旧幕引継書国立国会図書館』など)

 12月18日 竜吐水鉄釣瓶整備(出典『寛政7乙卯年御触町触諸達(東京都公文書館所蔵)』)

 12月 火消人足早春出初禁止(出典『寛政7年乙卯年御触町触諸達(東京都公文書館所蔵)』)

◇1796年(寛政8年)

 2月9日 町火消人足口論不届注意(出典『類集撰要21・旧幕引継書国立国会図書館』)

 3月 防火精励家主褒賞(出典『類集撰要24・旧幕引継書国立国会図書館』)

 7月24日 火之見新規取立願(出典『撰要永久録・公用留13(東京都公文書館所蔵)』)

      花火規格調査答申(出典『天保撰要類集126ノ中・旧幕引継書国立国会図書館』)

◇1797年(寛政9年)

 1月19日 水溜桶整備令(出典『寛政9丁巳年御触町触諸達(東京都公文書館所蔵)』)

 1月23日 火事場参集消火妨害禁止(出典『寛政9丁巳年御触町触諸達(東京都公文書館所蔵)』など)

 2月3日 凧上ヶ其外町方取締申合(出典『寛政9年御触町触諸達(東京都公文書館所蔵)』)

 6月3日 花火取締町触(出典『寛政9年丁巳年御触町触諸達(東京都公文書館所蔵)』)

 7月15日 花火販売取締(出典『類集撰要45・旧幕引継書国立国会図書館』など)

 10月29日 火消人足を統率する人足頭取などを制定し、町火消を取り締まる

 「小組ごとに数名の人足頭取とうどりが置かれ、町火消は人足頭取を筆頭に、かしら纏持まといもち梯子持はしごもちひら、などという階層で構成された」(江戸博覧強記)▶「鳶人足は、各組ごとに、頭、纏持、梯子持、平人足と階層化され、本業の収入以外に町内から手当と火事場装束などを支給された」(面白いほどよくわかる江戸時代)では、筆頭の「(人足)頭取」が欠如している。

 12月7日 井戸所在路地口標示申渡(出典『白木屋永代記録帳・大東急記念文庫所蔵』など)

 12月11日 町火消人足賃銭支払方(出典『類集撰要22・旧幕引継書・国立国会図書館』)

◇1798年(寛政10年)

 1月27日 消防備品整備奨励(出典『寛政十戊午年御触町触諸達・東京都公文書館所蔵』など)

 1月28日 町火消受領衣類質入禁止(出典『御触町触諸達』など)

 2月11日 火消人足着用品町方負担上申(出典『寛政十戊午年御触町触諸達・東京都公文書館所蔵』)

      町火消人足口論仲直大参会禁止(出典『類集撰要22・旧幕引継書・国立国会図書館』)

 2月 両国橋他二橋近辺出火駆付人足(出典『諸向駈附一件1・旧幕引継書・国立国会図書館』)

 3月20日 両国橋永代橋新大橋消防強化策(出典『三橋以下橋-書類・寛政十午年より享和二年戌年ニ至両国橋東西広小路書留・旧幕引継書・国立国会図書館』)

 5月11日 新吉原火消人足頭取任命等通知(出典『寛政十戊午年御触町触諸達・東京都公文書館所蔵』)

 10月 町火消御定条目申合(出典『類集撰要22・旧幕引継書・国立国会図書館』など)

◇1799年(寛政11年)

 2月 竜吐水効用答申(出典『寛政十一己未年御触町触諸達・東京都公文書館所蔵』)

 9月11日 定火消町火消持場境消防心得方尋(出典『類集撰要22・旧幕引継書・国立国会図書館』など)

 11月10日 聖堂火消手当町方周知申渡(出典『寛政十一己未年御触町触諸達・東京都公文書館所蔵』)

 12月22日 町火消瓦捲取狼藉禁止(出典『寛政十一己未年御触町触諸達・東京都公文書館所蔵』)

◇1800年(寛政12年)

 1月7日 町火消出初禁止(出典『寛政十二庚申年御触町触諸達・東京都公文書館所蔵』)

 2月28日 新吉原類焼仮宅願(出典『南撰要類集三十八ノ下・旧幕引継書・国立国会図書館』)

 12月3日 町火消ろ組法被印改定(出典『類集撰要22・旧幕引継書・国立国会図書館』など)

 12月23日 町火消出初禁止(出典『寛政十二庚申年・御触町触諸達・東京都公文書館』)

◇1801年(享和1年/寛政13)

 1月10日 出火時名主十手様鳶口持参禁止(出典『江戸町触・慶應義塾図書館』)

 6月6日 規制花火商売厳禁(出典『江戸町触・慶應義塾図書館』)

 11月13日 町火消纏様子供手遊禁止(出典『江戸町触・慶應義塾図書館』)

 11月27日 町火消人足不埒注意(出典『江戸町触・慶應義塾図書館』)

◇1802年(享和2年)

 1月9日 町火消人足統制(出典『享和弐壬戌年・御触町触諸達・東京都公文書館』)

 12月6日 町方自身番屋武家持場内設置先例調(出典『坂本町旧記人』など)

 12月28日 町火消出初其他禁止(出典『享和弐壬戌年・御触町触諸達』)

◇1803年(享和3年)

 1月27日 纏形凧禁止(出典『享和三癸亥年・御触町触諸達』)

 1月 町火消人足出火場不揃訳書(出典『類集撰要22』)

 11月29日 子供玩具奢侈取締(出典『享和三癸亥年・御触町触諸達』)

◇1804年(文化1年/享和4)

 9月13日 町人武芸稽古禁止(出典『享和四改元文化元甲子年・御触町触諸達・東京都公文書館所蔵』など)

◇1805年(文化2年)

 5月10日 大造之花火禁止(出典『撰要永久録・御触事巻之38・東京都公文書館所蔵』など)

◇1806年(文化3年)

 3月4日 大火発生(車町火事、丙寅の大火)

 3月25日 木材・諸物価の騰貴を禁じる

 3月 市中8か所にお救い小屋を設置

 4月4日〜6日 幕府、本所回向院で車屋火事による焼死者を供養

◇1807年(文化4年)

 1月19日 河岸地土蔵建築規制(出典『文化四卯年・江戸町触・慶應義塾図書館所蔵』)

◇1808年(文化5年)

 11月 越後屋三井家自身番屋引移(出典『番屋日記・三井文庫所蔵』など)

 12月 町火消龍吐水梯子持人足請負証文(出典『撰要永久録・公用留巻之16・東京都公文書館所蔵』)

◇1813年(文化10年)

 2月15日 破魔弓羽子板雛類販売取締町触(出典『類集撰要45・旧幕引継書・国立国会図書館』)

 4月10日 花火製作販売処罰取締(出典『撰要永久録・御触事巻之40・東京都公文書館所蔵』)

◇1816年(文化13年)

 5月3日 新吉原町全焼(出典『文化中町方留書・神宮文庫所蔵』)

◇1819年(文政2年)

 6月11日 町火消消防不届戒告(出典『類集撰要23・旧幕引継書・国立国会図書館』)

◇1820年(文政3年)

 8月25日 大造花火立禁止(出典『文政三庚辰年御触町触諸達・東京都公文書館所蔵』)

◇1821年(文政4年)

 1月8日 火事役道具質取禁止再触(出典『質屋規則目録・東京都公文書館所蔵』)

 2月27日 役船御用掛幟挑灯使用許可(出典『役船4自明和七寅年至文政八酉年・旧幕引継書・国立国会図書館』)

 12月26日 町火消人足徒党禁止(出典『類集撰要23・旧幕引継書・国立国会図書館』)

◇1822年(文政5年)

 12月27日 龍吐水の活用や野次馬の禁止など、名主に火事場を取り締まるよう命じる

◇1823年(文政6年)

 8月21日 定火消方火消屋敷抱人足不法行為取締(出典『類集撰要4・旧幕引継書・国立国会図書館』)

 12月25日 (江戸)大火発生

◇1824年(文政7年)

 1月 被災した窮民に米銭を支給

 7月12日 火事場での口論禁止など町火消を取り締まる(※「1756年」「1796年」「1798年」参照)

 11月12日 町火消標識規則(出典『鈴木平三郎氏所蔵御触書留帳・上福岡歴史民俗資料館寄託』など)

◇1826年(文政9年)

 7月 花火規制(出典『御触書抜4・東京都公文書館所蔵』)

◇1827年(文政10年)

 9月4日 自身番屋建広禁令(出典『撰要永久録御触事巻之42・東京都公文書館所蔵』など)

◇1828年(文政11年)

 9月13日 町火消人足頭取強請行為禁止(出典『類集撰要23・旧幕引継書・国立国会図書館』)

◇1829年(文政12年)

 3月21日 神田佐久間町の材木小屋から出火(己丑の大火/佐久間町火事)

 6月 大火の焼土を使い、神田龍閑町から元岩井町にかけて日除土手を築造

 8月 大火後の材木高騰により、在方からの直売を禁じる

 12月10日 自身番屋木戸番屋面積等規制(出典『類集撰要4・旧幕引継書・国立国会図書館』)

◇1830年(文政13年/天保1)

 2月 町奉行所三廻自身番屋実態報告(出典『年番取扱2分冊ノ2・旧幕引継書・国立国会図書館』)

 3月28日 町火消組合印法被頭巾着用義務(出典『撰要永久録御触事巻之43・東京都公文書館所蔵』)

 3月 江戸市中消防のため、龍吐水・水鉄砲の用意を命じる

 8月5日 「己丑の大火」による焼土で、築地の先の海が埋め立てられる

◇1831年(天保2年)

 1月27日 火事場出役役人饗応禁止(出典『天保政要記天保二卯年同三辰年同四巳年・東京都立中央図書館所蔵』)

 2月16日 増上寺近辺出火時町火消動員方伺(出典『天保撰要類集第70ノ上・旧幕引継書・国立国会図書館』)

 2月28日 町火消建前押掛禁止(出典『天保政要記天保二卯年同三辰年同四巳年・東京都立中央図書館所蔵』)

 7月20日 類焼後自身番屋木戸番屋場所替建増禁止(出典『天保政要記天保二卯年同三辰年同四巳年・東京都立中央図書館所蔵』)

 8月29日 牛車大八車地車荷駄馬取締(出典『天保政要記天保二卯年同三辰年同四巳年・東京都立中央図書館所蔵』)

 10月14日 自身番屋木戸番屋無断所替模様替禁止(出典『天保政要記天保二卯年同三辰年同四巳年・東京都立中央図書館所蔵』)

◇1832年(天保3年)

 1月28日 火災延焼対策令(出典『類集撰要23・旧幕引継書・国立国会図書館』)

 12月29日 町火消不行届注意(出典『諸事留1・旧幕引継書・国立国会図書館』)

 12月 役場中間火事場行為取締(出典『御触書抜5・東京都公文書館所蔵』)

◇1834年((天保5年)

 2月7日 神田佐久間町の三味線屋弥七方より出火。8日に火勢衰えるが、9日に日本橋檜物町からも出火(甲午大火)/2月7~13日。7日、神田佐久間町より出火。9・10日、日本橋より出火。11日、小石川水戸屋敷から出火。13日、駒込より出火(大江戸なんでもランキング)▶「“お救い小屋”が5か所に設けられ、5.400人を収容する騒ぎとなった」(読める年表日本史)

 2月15日 町火消出火場懈怠戒告(出典『類集撰要23・旧幕引継書国立国会図書館』)

 4月12日 類焼町々の町会所積金、1年間免除に

◇1837年(天保8年)

 2月11日 火之用心仕法出板許可(出典『天保撰要類集第92ノ上・旧幕引継書国立国会図書館』)

 8月7日 書院番組同心拝領地内焚風呂取扱(出典『諸向掛合1・旧幕引継書国立国会図書館』)

◇1838年(天保9年)

 3月10日 江戸城西の丸、台所から出火し全焼。町火消が消火に尽力

◇1839年(天保10年)

 1月1日 町火消の出初式を禁止(※1795,1800,1802,1843年を参照)

 7月8日 町火消五番組内藤新宿打壊(出典『藤岡屋日記第12・東京都公文書館所蔵』)

◇1840年(天保11年)

 4月21日 町火消一番組二番組桜田門内防火永久駆付任命(出典『撰要永久録公用留巻之30・東京都公文書館所蔵』)

 5月22日 武家屋敷海手町方往来等花火禁令(出典『撰要永久録御触事巻之47・東京都公文書館所蔵』)

◇1842年(天保13年)

 5月23日 子供手遊高値之品売買禁止(出典『天保撰要類集第7ノ下・旧幕引継書・国立国会図書館』)

 5月24日 大川通花火規制(出典『天保撰要類集第126ノ中・旧幕引継書・国立国会図書館』)

◇1843年(天保14年)

 1月4日 町火消出初銭取扱鳴物停止等町触(出典『御触留・三井文庫所蔵』)

 4月17日 両国の玉屋市兵衛宅、全焼し花火の火薬が大爆発。玉屋、江戸追放となる

◇1844年(天保15年/弘化1)

 5月10日 江戸城本丸炎上、い組伊兵衛ら町火消が活躍

 12月2日 江戸城本丸火災により弘化に改元

◇1845年(弘化2年)

 1月24日 出火/青山(青山火事)(大江戸なんでもランキング)

 4月1日 湯銭値上不許可(出典『撰要永久録御触事巻之53・東京都公文書館所蔵』など)

 5月12日 町火消人足出越禁止并寄合入用削減申渡(出典『撰要永久録公用留巻之38・東京都公文書館所蔵』)

◇1846年(弘化3年)

 1月15日 小石川で火災。佃島で入牢中の新門辰五郎、囚人を率いて消火(この功で赦免)

 4月29日 湯屋湯銭臨時値上(出典『撰要永久録御触事巻之54・東京都公文書館所蔵』)

 閏5月1日 火仕入販売規制(出典『撰要永久録御触事巻之54・東京都公文書館所蔵』など)

◇1847年(弘化4年)

 2月 類焼地町会所貸付金返納方七十カ月猶予申渡(出典『弘化四未年町会所一件書留上・旧幕引継書・国立国会図書館』)

 4月7日 浅草寺子院境内二階家取締(出典『浅草寺日記第24巻』)

 8月28日 花火打上規制再触(出典『幕令類編第26冊・独立行政法人国立公文書館所蔵』など)

◇1852年(嘉永5年)

 5月22日 江戸城西の丸炎上。12月21日、造営完了

◇1855年(安政2年)

 1月22日 焼土瓦類川中遺棄禁止(出典『撰要永久録御触事巻之63・旧幕引継書国立国会図書館』)

 10月2日 M7.0~7.1の安政の大地震発生

 11月4日 新吉原町遊女屋市中二十四カ町仮宅営業許可(出典『撰要永久録御触事巻之64・東京都公文書館所蔵』)

 11月6日 地震崩落焼失瓦土川中取捨禁止(出典『撰要永久録御触事巻之64・東京都公文書館所蔵』)

◇1856年(安政3年)

 11月 瓦葺職人世話方任命(出典『撰要永久録御触事巻之69・東京都公文書館所蔵』)

◇1859年(安政6年)(出典『撰要永久録御触事巻之74・東京都公文書館所蔵』)

 7月9日 女湯竹簾目隠

 10月17日 江戸城本丸が炎上

◇1860年(万延1年/安政7)

 3月18日 江戸城本丸炎上により万延に改元

 11月9日 江戸城本丸完成(最後の本丸)

◇1862年(文久2年)

 12月28日 新吉原町焼失後仮宅営業許可(出典『旧政府撰要集抜萃劇場遊郭遊郭之部・旧幕引継書国立国会図書館』)

◇1863年(文久3年)

 6月3日 江戸城西の丸焼失

 11月15日 江戸城本丸・二の丸炎上(江戸城創建以来、本丸と西の丸がなくなる)

◇1864年(元治1年/文久4)

 7月19日 禁門の変(京都)

 「鷹司邸や河原町の長州藩邸には火か放たれ、折からの北東の風にあおられ市街地は炎に包まれ、およそ3万世帯が被害を受けた。この火災を『どんどん焼け』という」(江戸時代年表)/「京都市街の過半が焼失、21日にようやく鎮火」(読める年表日本史)

 7月24日 第一次長州戦争

 7月27日(26日?)幕府、桜田・麻布の長州藩邸を没収

 8月8日 町火消人足が命を受けて長州藩邸の解体作業につく

◇1865年(慶応1年/元治2)

 4月7日 禁門の変と京都大火により慶応に改元

◇1866年(慶応2年)

 6月7日 第二次長州戦争

◇1867年(慶応3年)

 9月14日 人口増加により、3階建て住居が許可される

 10月14日 将軍慶喜、大政奉還の上奏文を朝廷に提出。翌日勅許

 12月9日 朝廷、王政復古の大号令を発す。幕府・摂政・関白が廃止され、新政権誕生

 12月23日 江戸城二の丸焼失

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る