第11話 江戸の町火消『いろは組』は何組だったのか?(その2)

Ⅱ)『いろは組』で使われなかった「文字」について

1)除外された「文字」

 『いろは組』で使われなかった文字があることはよく知られているが、元々『いろは歌(47文字)』に無かった「ん」も挙げ、関連付けている者は多い。故に、「ん」に言及しない「3文字(へ、ら、ひ)」派と、「ん」にも触れた「4文字(へ、ら、ひ、ん)」派に大別し、さらにその「理由」で分類した。


①「3文字」(へ、ら、ひ)

 ⑴「避けられた」

 「享保5年…いろは47文字を組名とした。この際、へ、ら、ひ、3字を避け、代わりに百、千、万とした話は有名だ」(面白いほどよくわかる江戸時代)

 ⑵「語感が悪い」

 「享保5年…いろは47文字(へ・ら・ひの三字は語感が悪いので百・千・万に代えた。のち「本」が加わり48組に)が組の名となり」(大江戸ものしり図鑑)/「享保5年…いろは47文字を組の名前とした制度である。ちなみに、へ・ら・ひの三文字は語感が悪いので、代わりに百・千・万が用いられている」(お江戸の経済事情)

 ⑶「語呂が悪い」

 「いろは47文字のなかで、語呂の悪い『へ・ら・ひ』に『百・千・万』をあて、その後『本』組を加えて48組とした」(山川詳説日本史図録)


②「4文字」(へ、ら、ひ、ん)

 ⑴「除かれた」

 「(1720年)組の割直しが行われ、隅田川以西の町々をおよそ20町ごとに47の小組に分け、いろは48文字のうち『へ、ら、ひ、ん』を除き、『百、千、万』を加えて組の名とした」(日本歴史大事典)

 ⑵「語呂が悪い」

 「『いろは47文字』を組の名とした…語呂の悪い『へ、ら、ひ、ん』の代わりに『百、千、万、本』と入れかえた全48組の小組」(大江戸知れば知るほど/実業之日本社)

 ⑶「縁起が悪い」

 「享保5年…『いろは』48組…『いろは』のうち『へ』『ら』『ひ』『ん』は縁起がわるいので除き、『百』『千』『万』『本』の4組を加えた」(読める年表日本史)

 ⑷「具体的理由」列挙(差異がある「ん」の理由で更に4分別)

  ㈠「ん」は発音しにくい

  「1719年…いろは48組の中で、いろは名でない組がある。『百組』『千組』『万組』『本組』である。それぞれ本来なら『へ組』『ら組』『ひ組』『ん組』となる順番の組だったが…『へ』は『屁』に通じて格好が悪いし、『ら』は『魔羅』の隠語であり…『ひ』は火を連想させるから、火消しの組名としては論外。そして『ん』は単独では発音しにくい。そこで代わりに、『百』『千』『万』『本』が組名に使われた」(江戸300年の舞台裏)

  ㈡「ん」は語呂が悪い

  「いろは組は、隅田川を境とした西側の区域に組織されたもので、『へ』『ら』『ひ』『ん』の四文字組は『百』『千』『万』『本』に変えられました。『へ』は屁に、『ひ』は火に通じ、『ら』は隠語、『ん』は語呂が悪いというのが、その理由でした」(東京消防庁)

  ㈢「ん」は尾籠びろう(=失礼、恥、不潔、猥褻など、様々な意味がある)

  「『へ』は『屁』に、『ひ』は『火』に通じ、『ら』と『ん』は発音が尾籠びろうに聞こえることから除いたといわれている」(『江戸三火消図鑑 町火消・定火消・大名火消のしるし』による)

  ㈣「ん」は「終わり」

  「いろは48組…いろは文字のうち、『へ』『ら』『ひ』『ん』はそれぞれ『百』『千』『万』『本』に置き換えて使用された。これは、組名称が『へ=屁』『ら=摩羅』『ひ=火』『ん=終わり』に通じることを嫌ったためであるという」「『ん組』に相当する『本組』」(ウィキペディア「火消」)(※¹)/「47組の中でも、『へ=屁』『ら=摩羅』『ひ=火』『ん=終わり』は組名としての使用を避け、代わりに「百」「千」「万」「本」に置き換えられました」(WEB歴史街道)/「いろは48組…『へ』は屁、『ひ』は火、『ら』は隠語、『ん』は終を表すという理由で、 『へ』は『百』、『ら』は『千』、『ひ』は『万』、『ん』は『本』に変えられました」(江戸東京探訪シリーズ)

〈注(※¹)『ウィキペディア(火消)』の「注釈」:「注釈」では、「『ひ』が『火』に通じるため避けられたことには異論がないが、他の文字が置き換えられた理由としては、語呂が悪いから・忌み言葉に通じるから・『ん』は元々いろは文字に含まれないから、といった様々な説がある。四番組と七番組が吸収合併された理由も、『四=死』『七=質』に通じるため、など諸説がある。詳細については参考文献や外部リンクを参照」とある。〉


2)「3文字」派と「4文字」派の分析

 先ず、「3文字」派について検証しよう。

 大筋でまとめると次のようになる。——享保5年(1720)、いろは47文字のうち「へ、ら、ひ」を除く「44文字」と、除外文字に代わる「百、千、万」で構成された「いろは47組」があり、後に「本組」が加わって「いろは48組」となる。——それ自体に矛盾はないが、問題は「代わる」という捉え方。


 方や、「4文字」派はどうなのか?

 例えば、「47の小組に分け、いろは48文字のうち『へ、ら、ひ、ん』を除き、『百、千、万』を加え」(日本歴史大事典)た組数は、確かに辻褄が合う(「47組」になる)。だが、その前提たる「いろは48文字」は致命的な誤りである。同じく、「いろは48組…いろは文字のうち、『へ』『ら』『ひ』『ん』はそれぞれ『百』『千』『万』『本』に置き換え」(ウィキペディア「火消」)た場合、「いろは文字のうち」とあるが故、数字の上では「47組」にしかならない。

 「いろは歌(47文字)」には「ん」が無い。「いろは組」と「いろは文字」を混同してはならない。それぞれの言い方は違うが、「いろは組」の「組数」に無理矢理合わせて顔を出すのが「ん」であり、「代わりに…入れかえた」という滑稽な言い回しが「誤り」を拡散している。例えば、「いろは最後の“ん”が“本組”と名乗り三番組に追加」(防災情報新聞)。この文脈に「百、千、万」は出てこないので、「町火消組合を“いろは47組”に」再編成した「いろは47組」は、あたかも「いろは47文字」に対応しているが如き誤解を与え、全「いろは」は、「ん」を含む「48文字」あったように読める。

 唯一信憑性が高いのは、後に「本組」が加わったことだけである(「入れかえた」ではない)。それ故に、異質な「百、千、万」登場の仕方への疑念に繋がり、はたまた「忌避理由」の恣意性や胡散臭さがプンプン臭う。つまるところ、「ん」をも論じられた時点に於いて、その全てが疑わしい。


3)「ん」について(或いは「百」「千」「万」「本」の位置づけ)

 「ん」は古くから使われた。

 「む…平安時代中期にはmuの発音がmとなり、さらにnに変わったので、『ん』とも書かれる。/土左(日記)(935頃)承平4年12月26日『みやこいでて君にあはんとこしものをこしかひもなく別れぬるかな』」「ん…五十音図の格外に置かれ、五十音順では最後の第四十八位(同音のかなの重複を含めるとき、第五十一位)として扱う。いろは歌には含まれないが、いろは順では『す』のあとに置いて第48位とし、『ウン』と唱える」(『精選版日本国語大辞典(小学館)』より)とあるように、「いろは歌には含まれないが、いろは順では…第48位」を頭にしっかり叩き込んで欲しい。

 余談だが、「ありんすことば」は元禄年中に出来たらしい(『読める年表日本史』より)。「遊女は諸国から集まってくるので田舎なまりの女が多く、客が失望する。生国を隠し、客の虚栄心を満足させる効果があった」と解説されている。


 ところで視点を変えてみよう。「いろは組」には、いろは文字のうち「へ、ら、ひ」が無いのは事実である。「いろは」とは別に(前掲「いろは順」に)、仮に「いろは組」として「ん(組)」があったとすれば、先の「4文字派(48組)」の言い分は或る程度まかり通る。三文字(へ、ら、ひ)を除けば「45組」となり、「いろは45組」説——前出の『山川日本史総合図録』や『日本史年表』(東京堂出版)の他、豊島区の『としまひすとりぃ』(「享保5年8月7日 町火消いろは45組創設」)や山口県の『長州藩年表』(「享保5年 町火消いろは45組創設」)など——の説明にもなり得る。

 或いは単純に、(「ん」を含まない)「いろは文字」最後の「せ、す」を除けば、完璧な「いろは45組」となる。「せ、す」を含めれば「47組」。(使い果たした)「いろは文字」以外の異質な「本」を加えれば、「48組」となる。各組の「順序」を考えれば「百、千、万」はあり得ず、それが最も自然な形であろう。

 しかし誰一人として「45組」の構成やそれとの関連性に言及していないように思われる。更に言えば、大組「10組」の構成も示されてはいない。「四番組は五番組に、七番組は八番組に合併」(日本歴史大事典)などの解説(※²)はあるものの、実際には8組構成しか見当たらず、「大組」への再編成当時の「大組10組」の「小組」内訳は不詳なのだ。

〈注(※²)「七番組」合併の異説:前掲『ウィキペディア』では、「七番組が六番組に吸収合併され」たとあり、異なる。→4)「忌言葉いみことば」で詳述する。〉


 現実に配置された「(「ん」が無い)へ・ら・ひを除くいろは文字」「百・千・万」「本」のうち、平仮名(「いろは文字」の組)だけを捉えると、「いろは」順に規則正しく並んでいる。江戸城を中心に、その東側=「日本橋」の左右(南・北)から「日本橋」の南側へ戻る、反時計回り順である。「百・千・万・本」については、「『へ』は『百』、『ら』は『千』、『ひ』は『万』、『ん』は『本』に変えられ」た如きを証明できる順序の「有意性」は全くない。強いて挙げれば、「万」組が「ら」に相当するかも知れない位置にあることぐらいだろう(「ひ」ではない)。故に、「(それぞれが個別に)とって代わった」のではなく、「(新たに)付け足した」と見做すべきではあるまいか。


 仮に「へ、ひ」を除く「い〜す」の「45組」で創設された場合を考えてみたい。この時の「ら組」が同時期、定火消じょうびけし屋敷(幕府直轄の火消屋敷)が集中する江戸城北側の「まん組」に代わったとしよう。そうして「百、千」組が適当に配置されて「47組」になり(実際の「百、千」組は、「いろは」最後の「す」組に続く位置にある)、新たに「本組」が加わり、「48組」になったとする。しかし、「へ、ひ」や「ら」が除外された説明にならない。

 凡そ「百、千、万」が入った「いろは(組)」は馴染めない。「い〜す」の「47組」、つまり「へ、ら、ひ」も使われていた「いろは組」を良しとしたい。それは次のようになろう。——「いろは」に倣って試しに配置してみたが、「へ」や「ら」の辺りは「組」の密集で都合が悪く、統合された。(江戸城南側に位置したと考えられる)「ひ」の辺りは、(江戸城を守る冬の風向き対策として江戸城北西側にあったが南側にもある)定火消屋敷と競合するので、除かれた(44組)。更に、江戸城を守る形にもなり得る江戸城北側に、そういう意図も込めて「よろず」組を配置した。これが発足時「いろは45組」の真相かも知れない。同時期、(「まん」より)格下の「百、千」組を、いろは最後の「す」組に続く(町家が集中するが手薄な)位置に加えた(「いろは47組」)。後に、新たな必要を痛感した区域(一つの寺院地域)に「本」組を加え、「いろは48組」として確定した。——私なら、そのように捉えたい。


4)「忌言葉いみことば」と「いろは組」

 昔の唐津(佐賀県)には、江戸の「いろは組」に倣った町火消があったという。「い組本町、ろ組呉服町、は組八百屋町、に組中町、ほ組木綿町、へ組材木町、と組京町、ち組刀町、り組米屋町、ぬ組大石町、る組紺屋町…わ組平野町、か組新町、よ組江川町、た組水主町」という構成で「いろは16組が編成され」、「8ケ町」には「纏等」もあったらしい。その「火消組が整っていった」のが、元文(1736-41)〜寛延(1748-51)の頃という(以上、『唐津神社社報』より作成)。「を組」には触れていなかったが、正しく「いろは」順である。

 ここで注目すべきは、「へ組」もあったことであろう。


 「」は「死」に通じる。日本では「常識」で、「忌み言葉」の筆頭であろうことは疑いようがない。旅館の部屋番号で「4」は欠番であることが間間あり、読みは「よ」とか「よん」に言い換えられる。「しち」も、仮に「死地」に通ずるとすれば(「いろは組」に於いては多く「しち」としているが)、「四番組」や「七番組」が避けられたと考えることは理解できる。そうであれば最初から使わなければ良い。しかし、かつての「いろは組」にはそれらも「あった」という。しかも、「七福神」は縁起が良いなど、「七」は寧ろ歓迎される数字と思う。更に、隅田川の東側を守る本所・深川の「町火消」は、一番から十六番まで通し番号で存在し続け、欠番はなかった。

 そうして、何よりも、小組の「し」が、何故使われ続けたのか、それが問われないことはあまりにも不自然である。

 「」など屁でもない。「」一文字は確かに「陰茎」を指す隠語で、「魔羅まら(摩羅)」のことではあるが、「摩羅」それ自体が隠語である。「ひ(火)」が避けられることは分かる。ならば、「ほ(火)」はどうなのか? 「火災」を招く「火(ひ)」は怖い。そのような時、「男根」や「屁」が如何なる意味を持ちうるのか、考えても見たまえ。真っ先に避けるべきは「ひ(火)」或いは「ほ(火)」であり、「し(死)」ではないか。更には、「む(無)」ではなかろうか? しりからで火がつく騒ぎなど、笑い話にもならない。

 いつ頃からかは定かでないが、江戸っ子は「ひ」がうまく発音できない(※³)。『江戸語の辞典』(講談社)によれば、「し」は「ひ(火)」のことでもある。「へ(he)」は、歴史的仮名遣いでは「へ(e)」と読む。「え,ゑ,へ」は「eee」で紛らわしい。いろは順の「ら(ra)」は、「な(na)」に続くので、これも発音が似たように聞こえて紛らわしい。——以上除外理由を適当に、勝手にこじつけてみた。「し」が「いろは組」に存在する以上、「忌み言葉」などを以て除外理由とする訳にはいかないからである。

〈注(※³)「し」などについて:「し(日・火):「ひ」の訛。天明5年・和唐珍解『(ちょっとを一つ持てきてくりや)がねへとへ』/文化8年・浮世風呂 三上『が暮れると』」(江戸語の辞典)。天明5年は1785年、文化8年は1811年。因みに、「ひ(火):①火。②性欲。火動よりいう。③月経。別火を構えたのでいう」(同書)らしい。余談だが、明和8年(1771)、「『江戸っ子』という言葉が、川柳に初登場」(江戸時代年表)したという。〉


 『あたり升鏡 江戸じまん大通一覧』は、「江戸の名所や名物87点を紹介するもの」(江戸博覧強記)という。番号は「壱」から「百」まであるが、壱番〜八十七番という訳ではない。欠番は、「四」「十三」「十九」「三十四」「八十六」「八十七」「八十八」「八十九」「九十一」「九十六」「九十七」「九十八」「九十九」の13件。「四」が忌避されていたことは容易に想像できる。しかし、その他の欠番の理由はよく分からない。


 再編成された「いろは組」の大組として初めは10組あり、「1738年(元文3)には四番組は五番組に、七番組は八番組に合併」(日本歴史大事典)され、8組になったと言われる(先述)。その再々編成後の小組は、「五番組」は9組あるが(大組中の最大構成数)、「八番組」は4組しかない(最小構成数。他に「九番組」)。しかし、異説もある。「(四番組が五番組に、)七番組が六番組に吸収」(『防災情報新聞』,『ウィキペディア(火消)』)ともあり、合併先が異なる。「六番組」の小組は6組。1組か2組と考えられる旧「七番組」や旧「八番組」(「七番組は八番組に合併」説)に比べれば、この「6組」(六番組の小組)は、旧「六番組」や旧「七番組」(「七番組が六番組に吸収」説)が各3組とも見做せるので、まだしも現実味がある。何故異なる「合併説」が出るのか疑問で、真偽の程は分からない(故に尚更、大組10組或いは「いろは組」創設時の小組構成に疑念が生じる)。いずれにせよ、結果としての「大組8組」の小組構成を見れば分かるが、その構成は極めて妥当と思われる。つまり、「四番」や「七番」の欠如は、再編の必要性からであって、「忌避」故の欠如に当たらないと見るのが自然であろう。


 「とかなくてしす」——「いろは歌」を一行七文字で並べ、末尾の音を繋げたものである。最後は一行五文字となるが、それはともかく、「とが無くて死す」と読めるのは有名なお話。意図的に詠む遊びとして面白いが、後世の勝手なこじつけに過ぎないと断じる。肝心なことは、それにより「いろは」が覚えられたことであろう(消防に関して言い換えれば、防火の「が無くて死す」かな?)。当時の資料などがあれば話は別だが、誰が言い出したか分からない「いろは組」の「忌避文字」についても似たようなもの。「いろは」が重複しない「47文字」であったこと、47区域に分けようとしたことこそが肝要である。


 「死」を恐れぬ消防に「タブー」はない。「ひ(日,陽)」は、いにしえより尊ばれていた。


5)「いろは48組」の構成について(1722年「48組/大組8」だったのか?)

 以下は、『江戸博覧強記』の『江戸町火消の配置図「いろは四十八組」(「鈴木淳『町火消たちの近代』より作成」)』(地図)に基づき作成した(※⁴)。

 それに付け加えた括弧内は、『江戸町火消受持区域一覧(享保7年8月)』(東京消防庁)に基づき、小組数、町数など(○○町,○○堀,○○辺,○○町辺,○○屋敷などの件数)をまとめたものである。それに拠れば、「1722年(享保7年8月)」には、既に「本組」を含む「48組」が存在していたことになるので、「1730年(享保15年)に本組が編成されていろは48組」(日本歴史大事典)などの「諸説」は、見事に崩れてしまう。更に、「四番組」「七番組」が除かれた「大組(8組)」として分類されており、数多の「1730年(享保15年)再編説」(※⁵)は、その大組が8組説であろうが10組説であろうが、総崩れとなるだろう。


□一番組(5組)=い組(16町+通1丁目)・は組(13町)・に組(12町)・よ組(12町)・万組(2町)

□二番組(7組)=ろ組(7町)・め組(7町+2辺)・も組(5町+1堀)・せ組(8町)・す組(4町+南八丁堀)・百組(4町+2堀)・千組(5町+霊岸島辺)

□三番組(7組)=て組(白金台1-11丁目+1町+目黒辺)・あ組(5町+麻布本村)・さ組(5町+増上寺辺)・き組(2町+2門前)・ゆ組(2町+2門前)・み組(4町+2門前)・本組(5寺・院+2門前)

□五番組(9組)=く組(麹町11・12・13丁目+2町)・や組(1町+麹町辺+麹町3丁目裏+半蔵門外)・ま組(5町)・け組(3町)・ふ組(3町)・こ組(3町)・え組(4町)・し組(5町)・ゑ組(4町)

□六番組(6組)=な組(3町+小石川伝通院門前)・む組(6町)・う組(7町)・ゐ組(6町)・の組(5町)・お組(2町+其の外寺社門前町)

□八番組(4組)=ほ組(8町)・わ組(8町)・か組(1町+湯島1-6丁目+湯島天神門前)・た組(本郷1-6丁目+6町)

□九番組(4組)=れ組(5町)・そ組(6町)・つ組(4町)・ね組(5町)

□十番組(6組)=と組(6町)・ち組(6町)・り組(5町)・ぬ組(4町)・る組(7町)・を組(4町+2屋敷)


【参考:[本所・深川16組(大組3組)]】

□南組(5組)=一組(1町+3町辺)・二組(4町辺)・三組(4町辺)・四組(4町辺)・六組(1町+3町辺)

□中組(6組)=五組(2町辺+1辺)・七組(3町+3町辺)・八組(4町辺)・九組(3町辺)・十組(2町辺)・十六組(3町辺)

□北組(5組)=十一組(2町+3町辺)・十二組(2町+3町辺)・十三組(4町辺)・十四組(1町+2町辺+1辺)・十五組(2町辺+1辺)


〈注(※⁴)他の「配置図」(一部を除き『江戸博覧強記』も含め年代不詳,全て「本所・深川16組大組3組」を併記))との比較など:同書『江戸博覧強記』の『江戸町火消の配置図』には、(「へ、ら、ひ」を除く)いろは44文字に加え、「百」「千」「万」「本」がある(48組)。大組は四番組と七番組が欠番だが、本文に「のちに8組」とあり、それ自体には違和感がない。▶『面白いほどよくわかる江戸時代』(『江戸の町火消』)の地図では、表題は「いろは四十八組」だが、「百」「千」「万」を含み「へ」「ら」「ひ」を除く全47文字で、「本組」が欠落している。故に、表記は「いろは四十七組」とすべきである。本文でも「(享保15年)47組を一番組から十番組までの大組に編成」とあり、「本組」が無いこと(47文字)は当然であろうが、図の四番・七番の欠如には触れていない。▶『日本歴史大事典』の解説「1730年に本組が編成されていろは48組」「1738年(元文3)に…大組は8組となった。またこの頃までに本所、深川の16組も、南、中、北の3つの大組に編成」に従えば、『江戸博覧強記』の図は少なくとも「1738年以降」と見做されるが、『面白いほどよくわかる江戸時代』の図は、「1730年以前」かつ「1738年以降」という、あり得ない「図」となろう。▶『大江戸ものしり図鑑』(『町火消配置図(江戸町火消縄張纏明細)』)では、「本」を含む48組あり、「一番組から十番組までの大組も示される」と解説されるが、実際には8組しかなく(4番と7番欠如)、解説と一致しない。また、「え」は「江の崩し字」で表記されている。▶『江戸東京探訪シリーズ』では、「え」と「か」は、「江」と「加」となっている(大組は8組)。▶尚、『山川詳説日本史図録』の『町火消配置図』は「嘉永4年」とある。嘉永4年は1851年なので、幕末までこの体制が続いたとみて間違いない。〉

〈注(※⁵)「再編成」など:『東京消防庁』の解説には、「享保5(1720)年にはいろは四十八組を編成し、本格的な町火消制度を発足」とある。また、「今日見られるような形の纏になったのは、享保15(1730)年のこと」(東京消防庁)と、まといについては述べられているものの、同文脈では「再編成」には触れていない。〉


6)火消の「いろは」は誰が思いついたのか?

 「いろは(組)」の発想を「大岡越前守の建言」と見る向きは多いが、「儒者荻生徂徠の『江戸の町を火災から守るためには、町組織の火消組を設けるべきである』との進言を受けて、時の町奉行大岡越前守忠相が…」(東京消防庁)という指摘もある(荻生徂徠の『政談』は将軍吉宗に呈上された。亡くなる前年の享保12年4月1日、吉宗に拝謁)。実のところよく分からないが、「いろは」そのものは浸透していて、単純に番号を振るより親しみやすいのは確かだろう。

 「芝・増上寺の…祐天上人…は寺を火事から守るため学僧を、い、ろ、は、47組に分け、山内の防火に努めさせた…これを知った大岡越前はとび職47組を選び」(asubeのホームページ「江戸消防の歴史」より)という指摘もあった。「とび職」については、確かに、「享保4(1719)年には『いろは』47組に組分けされ、町がかえの鳶人足を使って消火にあたった」(ブリタニカ国際大百科事典小項目版2015)とはあるものの、「町火消は、当初は町の住民が店人足たなにんそくとして勤めたが…鳶人足とびにんそくが町火消の主力となった(制度化は天明7年[1787])」(江戸博覧強記)とも言われることとのズレがある。一つの寺の学僧が「47組」に分けられたなど、あまり想像出来ず無駄に多い気がするので俄に信じることができないが、一顧の価値はあるに違いない。


 居酒屋の「スルメ(鯣)」を「あたりめ」と言う。髭を剃るのは「あたる」という。目出度い席の終わりは「おひらき」である。「忌言葉いみことば…特殊の職業者が使うものとしては、マタギなどの猟師が用いる山言葉や、漁師の沖言葉がある。死に関する忌言葉は古来さまざまあり、亡くなる、隠れるなども忌言葉として発生したものである」(ブリタニカ国際大百科事典小項目版2015)から、或いは「消防」で嫌われる言葉があるのかも知れない。

 荻生徂徠なら、どう考えたのだろう。祐天上人が作ったらしいお寺の「いろは47組」には、果たして欠けた文字があったのだろうか。特に仏僧の隠語である「摩羅まら」(「ら」)についてお尋ねしたい。しかし、「いろは47文字」に因んだ「47組」なのだから、当初、恐らくは、あるまい。

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