第10話 江戸の町火消『いろは組』は何組だったのか?(その1)

ここで問題とするのは、主に次の3点である。

 1.「いろは組」は何組なのか?(「45組」か「47組」か「48組」か?)

 2.「いろは組」で使われなかった文字、その「謂われ」は真実か?

 3.「町火消」はいつ成立したか?(「火消」と「町火消」と「いろは組」)

 以上を究明する為、江戸の「消防」についても触れてみたい。


Ⅰ)『いろは組』の創設年と組数について

 「いろは組」の創設は1719年と20年説があり、「組数」にも違いがある。それ以降の再編年も含めて5分類、その内訳(組数などの違い)を挙げた。

 一般には、「町火消し:江戸中期以後にできた、町人の自治的な消防組織。江戸ではいろは47組(のち48組)があり、町奉行の管理に属し、主に町家の消防にあたった」(大辞林/三省堂)など、「47組(のち48組)」とするものが多く、「いろは組」の成立は「1720年」とされる。

―「いろは歌」47文字は次の通りー

「いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそ つねならむ うゐのおくやま けふこえて あさきゆめみし ゑひもせす」

 このうち、「へ」「ら」「ひ」を除く「いろは」44文字が使われた。最終的には「百」「千」「万」「本」が加わり「48組」となるが、特に「45組」(創設時)については、その構成(残る一文字、或いは使われたかも知れない「いろは」文字など)が不明な為、検証できない。しかし、否定する根拠も見当たらない。


① 1719年(享保4年)創設説

 ⑴「47組」説

 「火消ひけし:…町火消の起源は明確でないが、当初はたな火消と称し、享保4(1719)年には『いろは』47組に組分け」(ブリタニカ国際大百科事典小項目版2015)(※¹)

 ⑵「48組」説

 「1719年(享保4年)には有名な『いろは48組』ができあがる」(江戸300年の舞台裏/青春出版社)/「享保4年には民間消防組織として町火消まちびけし『いろは48組』を発足させた(※²)」(大江戸ものしり図鑑/主婦と生活社)

〈注(※¹)「町火消」項目では微妙に異なり、享保4年「頃」とする:「町火消まちびけし…いろは47組の町火消ができたのは同4年頃」(同事典)〉

〈注(※²)同書『大江戸ものしり図鑑』には「享保5年(1720年)…いろは47文字」ともあり、「いろは組」の発足年や組(文字)数が違っている。②-⑵〉


② 1720年(享保5年)創設説

 ⑴「45組」説(享保5年8月)

 「1720年8月 江戸町火消いろは45組を創設」(日本史総合図録/山川出版社,以下「山川日本史総合図録」)/「1720年8月 幕府、江戸町火消いろは45組を創設する」(日本史年表/東京堂出版)

 ⑵「47組」説(享保5年8月7日など)

 「1720年(享保5年)8月7日 幕府、江戸の町火消組合を『いろは47組』に再編成(※³)」(江戸時代年表/小学館)/「1720年8月、江戸町火消『いろは』47組設置」(詳説日本史図録/山川出版社、以下「山川詳説日本史図録」)/「(17)20年のいろは47組の設定」(日本史小辞典/山川出版社,以下「山川日本史小辞典」)/「享保5年(1720年)、それまでの町単位の消防組織が再編成(※³)されて、いろは47文字…が組の名となり、纏や幟の目印も決まる」(大江戸ものしり図鑑)/「享保5年(1720年)には、いろは47組…が成立」(江戸博覧強記/小学館)

 ⑶「48組」説

 「享保5(1720)年にはいろは48組を編成」(東京消防庁)/「享保5年(1720年)…『いろは』48組の町火消制度が確立」(読める年表日本史/自由国民社)/「享保5年(1720)には…『いろは48組』…を編成し、本格的な町火消し制度を発足」(江戸東京探訪シリーズ「江戸の町火消と纏」)

〈注(※³)「再編成」:既存の消防組織を再編成したのが「いろは組」であるが、「いろは組」としては「創設」、後に「いろは組」として再編成されていく。〉


③1725年(享保10年)の再編説(47組/大組10組)

 「享保十年(※⁴)からは四十七組がさらに一番から十番組までの大組を編成」(大江戸ものしり図鑑)

〈注(※⁴)「享保十年」について:同書の『町火消配置図』では、「(享保)十五年、四十七組が十の大組に」ともある(誤植? 原文=漢数字で引用)。④-⑴〉


④ 1730年(享保15年)の再編説

 ⑴「47組」説(47組/大組10組)(享保15年1月15日など)

 「享保15年(1730年)1月15日、江戸町火消いろは47組を大組10組に再編成」(江戸時代年表)/「享保15年には各町の負担軽減のため人足数を30名から15名に半減したものの、47組を一番組から十番組までの大組に編成したことで、かえって火元への組織的な動員が可能となった。…町火消しの数は1万人にものぼり…」(面白いほどよくわかる江戸時代/日本文芸社)/「(享保)15年、47組が10の大組に分けられ、大組内の火元の風下の町の組は各自の町を守り、その他の組が消火に当たることになる」(大江戸ものしり図鑑)/「享保15年に47組は10の大組に分けられた」(お江戸の経済事情/東京堂出版)/「(17)30年には47組を大組10組に編制、のち48組・大組8組となった」(山川日本史小辞典)/「(享保)15年には47組を10組に編成、のち本組が加わり48組となった」(ブリタニカ国際大百科事典小項目版2015)

 ⑵「48組」説(48組/大組10組)(享保15年1月など)

 「江戸の火消組が再編成…『いろは48組』は組単位で消防作業に当たる定めであったが、実際には組と組とが入り混じってトラブルが多かった。享保15年1月、48組を1番から10番までの中単位に編成し、風上と風脇から消防作業に取組ませることにした」(読める年表日本史)/「1730年に本組が編成されていろは48組となり、大組の一番組から十番組に編成」(日本歴史大事典/小学館)


⑤1730年(享保15年)以降の再々編成(1730年〜1738年?)

 ⑴「48組/大組8組」(1730年以降,年代不詳)

 「(1730年…47組を大組10組に編制)のち48組・大組8組となった」(山川日本史小辞典)

 ⑵「48組/大組10組」(1730年以降,年代不詳)

 「(享保15年には 47組を10組に編成)のち本組が加わり48組となった」(ブリタニカ国際大百科事典小項目版2015)

 ⑶「48組(1730年〜38年)/大組8組(1738年)」

 「(1730年の)のちに…『本組』が三番組に加わっていろは48組となり…元文3年(1738年)には大組のうち、組名称が悪いとして四番組が五番組に、七番組が六番組に吸収合併され(※異説あり→後述)、大組は8組となった」(ウィキペディア「火消」)


 尚、(「組数」不明で除外した、②と同じ)1720年創設説の、「1720年 江戸町火消いろは組の創設」(日本史年表・地図/吉川弘文館)は町火消「いろは組」についてだが、それと、「1720年 町火消の創設」(図説日本史/東京書籍)とは、同列に論じられない。「いろは組」は町火消だが、「町火消」は「いろは組」と同義ではない(「いろは組」を以て「町火消の創設」と捉えていると思われるが、それ以前の「町火消」との関連性を見失う)。

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