第9話 もしも「幕命」が何年もズレていたら?(「宝暦治水」の場合)(その4/完結編?)

Ⅲ)「多数の犠牲者」の真実とは?

1)工事の従事者は何人だったのか?

(以上、既述)


2)何人が亡くなったのか?(病死か自害か、他殺か事故死か?)

 情報が錯綜している為、以下、次の5区分(ⅰ〜ⅴ)に整理し、巷で囁かれている諸説を列挙した。括弧内はそれら内訳の代表例であるが、定説がなく、死亡原因を特定するものではない。死者総数の多様な「違い」に着目して頂ければそれでよい。


ⅰ)死者の総数【❶,❷,⑶,⑷,❺,⑹,❼,⑻,❾,⑽の検証】

❶ 84名(全て薩摩藩士/自害52名,病死32名)

❷ 85名(全て薩摩藩士/自害52名,病死33名)

「義士銘々石碑之塔…大正9年(1920)に薩摩義士顕彰会によって河頭(こがしら)石85個を碑石とし、平田靭負の碑を高く中央にして84基を階段状に並べている」(『KISSO』より)

⑶ 86名(切腹53名,病死33名)

⑷ 87名(自害54名,病死33名)

❺ 88名(自害54名/薩摩52名・幕府2名,幕府方「人柱」1名,病死33名/薩摩方84名=自害52名・病死32名,幕府方4名(3名?)=自害2名・入水1名+駿河の者病死(町人請負の病死?)1名?

⑹ 89名(薩摩方85名,幕府方4名/薩摩方86名,幕府方3名)

「宝暦治水では89人の自殺など死者が出た」(丸山幸太郎『KISSO』より)/「割腹55名、病死34名、計89名(うち4名幕府側)」(『日本大百科全書(ニッポニカ)』より/幕府方4名?:「義士の総数は薩摩の人85名、上石津多良の人(内藤十左衛門・桝屋伊兵衛)江戸の人一名(竹中伝六)駿河の人一名(大橋七郎右衛門)」「駿府小野久右衛門代 大橋七郎右衛門」

(『養老町と薩摩義士』より)/宝暦5年2月9日病死・大橋七郎右衛門(養老町『天照寺』より)

❼ 93名(薩摩藩士90名,幕府方3名)

「『宝暦治水工事犠歿者』の碑(93名)」(『KISSO』より)/「自害61名,罹患157名(うち病死32名)」(『Ke!san』カシオより)/「犠牲者数は薩摩藩士90名、幕府方3名の93名といわれています」(宮本高行『KISSO』より)

⑻ 93名〜95名

❾ 160名以上?

「現在知られている80余名のおよそ倍以上に当たる薩摩藩士がこの工事により犠牲となっていた可能性」(山下幸太郎論文より)

⑽ 250名?(杉本苑子の『孤愁の岸』に拠るというネット情報だが、未確認)


 最も信憑性がある死者の総数はⅰ.❺「88名」と考えられる。

 「薩摩藩士」に限ればⅰ.❷「85名」となる。薩摩方ⅰ.⑴「84名」と総数ⅰ.⑶「86名」は、恐らく「(工事終了後に没した)平田靭負」が抜け落ち、総数ⅰ.⑷「87名」は「人柱(桝屋伊兵衛)」を除いたと思われる(この2名は別に論じられることが多く、総数に入れ忘れ易い)。総数の内「幕府方(死者)2名」は、竹中伝六と内藤十左衛門である。幕府方を「3名」とする場合もあるが、「人柱」とされた桝屋伊兵衛を含めた為であろう。

 『宝暦治水工事犠歿者』の碑(「93名」と明記)があるので、突出した総数ⅰ.❼「93名」も、否定すべき根拠はない。「88名」より5名多いが、日蓮宗常栄寺に「(薩摩義士)黒田家六士之墓」があるらしいので、(工事との関わりに於ける)死因に疑念があるものの、「(88名に含まれる薩摩義士の)黒田唯右衛門」を除く黒田家5名(「六士」中の「五士)のことと推察される。


ⅱ)病死者数と罹患者数【⑴,❷,⑶の検証】

⑴ 病死32名(『Ke!san』カシオより)/ 罹患157名(この罹患者数は代表的見解)

❷ 病死33名(岐阜県養老郡『天照寺』27名,駿府の大橋七郎右衛門を含む・三重県多度町『常音寺(※重複)』4名,三重県桑名市『長禅寺』1名,岐阜県羽島市『少林寺』1名)/ 罹患157名

⑶ 病死34名(『日本大百科全書(ニッポニカ)』より)


 「罹患者157名」と「病死者」については、その根拠が薩摩藩士・佐久間源太夫の『届書』(高木家記録『蒼海記』)にあると考えられる。

 埋葬された寺院を見る限りだが、ⅱ.❷「33名」が恐らく精確。但し注意すべきは、『蒼海記』にある『届書』は、宝暦4年(1754)8月25日付までの記録であること(「小奉行32人の内7人、歩行士164人の内60人、足軽230人の内90人が病気に罹っている」とあり、罹患計157名。さらに「数十人の病死者」とも記されている。かつ「割腹」については一切言及がない)。工事は翌年3月まで続く。宝暦4年8月25日以降でも、『濃尾勢川々宝暦治水誌』に拠れば、ざっと数えても病死19名(埋葬寺院に拠れば「病死22名」)いたのである。病死者が「数十名」+「19名(or22名)」が「33名」とはとても考えられない。その後も20名ほどが病死しているわけであるから、そもそも、「届け出」の時点で「疫病」が収まるとは考えられない。そうであるならば、この「罹患157名」説は崩れる。

 繰り返すが、この日付までに既に病死していた「数十人」が、「10人程度」や「十数人」とは考えにくい。つまり「病死33名」とは、「病死」とされた埋葬寺院情報に基づくに過ぎず、罹患、病死ともにさらに増え続けた可能性が高い。故に死者総数(この場合は「薩摩藩士」と見做されているが)ⅰ.❾「160名以上」も、あながち間違いと言えないかも知れない。いずれにせよ「割腹(自刃)」の根拠は皆無に等しい。

 「薩摩義士」と目される人の埋葬寺院情報に拠れば、宝暦4年(1754)8月25日以前(当日を除く)の死者は「35人」を数える。4月14日に最初の「犠牲者(2名)」が出たとされた4ヶ月余での死者35人である。そのうち「病死」と見做されたのは僅か「12人」に過ぎないので、これを「数十人」と記すことなど私には到底出来ない。「35人」全てが「病死」なら、『届書』中の「数十人」との辻褄が合う。「割腹(自刃)」説は、その根拠を失う。


ⅲ)自害者数【⑴,❷,⑶,⑷,❺,⑹の検証】

⑴ 51名(薩摩藩士51名)

❷ 52名(三重県桑名市『海蔵寺』23名,平田靭負の碑を除く・岐阜県海津郡『円成寺』13名,岐阜県輪之内町『江翁寺』6名,三重県桑名市『長寿院』3名,岐阜県羽島市『清江寺』3名,三重県多度町『常音寺(※重複)』1名,岐阜県海津郡『常栄寺』1名,岐阜県輪之内町『心岩院』1名,京都市伏見区『大黒寺』1名:平田靭負の墓)

⑶ 53名(薩摩藩士51名,幕府方2名)

⑷ 54名(薩摩藩士52名,幕府方2名:岐阜県岐阜市『霊松院』1名・岐阜県羽島市『竹鼻別院』1名)

❺ 55名(薩摩藩士52名,幕府方3名:岐阜県輪之内町『円楽寺』の舛屋伊兵衛1名・⑷の2名)

⑹ 61名(『Ke!san』カシオより)


「自害」も埋葬寺院情報に基づく。その限りに於いて、ⅲ.❺「55名」が精確だろう(うち幕府方3名)。薩摩方に限れば、ⅲ.❷「52名」である。


ⅳ)人柱について【「人柱」なのか、「投身自殺」か「殺害」か?】

 「人柱」と見做されたのは1名=舛屋伊兵衛(高木内膳の家来・舛屋伊兵衛/『円楽寺』埋葬)一人である。

 他殺説の代表格は、「人柱として1名が殺害された」(ウィキペディア『宝暦治水事件』)であろう。犯人に言及がないにも拘わらず出回っている。

 けれども、「岐阜県HP」「輪之内町HP」「国土交通省中部地方整備局 木曽川下流河川事務所HP」や『じゃらん』などで詳細に論じられている事例は全て「身投げ」(自殺)である。円楽寺に埋葬されている『舛屋伊兵衛の墓(県指定文化財)』説明書きには「伊兵衛は大榑川の洗堰工事がなかなか進まないのを見て『水神の怒りを鎮めなければならない。そのためには人柱が必要だ』と進言し、自ら濁流に身を投じたと伝えられています」とある。

 しかし、その没年月日は極めて怪しい。「舛屋伊兵衛…死没の年月日は…工事竣工の翌日」(「宝暦五乙亥年三月廿九日」)なのだが、「死没年月日が工事竣工の翌日となっているのは、幕府をはばかっての作為なのでしょう」と続き、或いは「円楽寺過去帳には、『此ノ人ハ当国多良産ニシテ故アリ江戸ニ住シ高木内膳ノ下人トナリタリ大榑川洗堰出来ノ節没ス、頼ニ応ジテ当寺ニ埋葬ス 永代読経スベシ 住持 慈賢記ス』」ともあったが、「舛屋伊兵衛のお話は、劇的に脚色されて、後世、いろいろな出版物となって伝えられています」となり、「(宝暦4年)9月22日大榑川洗堰の工事現場にやってきて、凄惨なまでの難工事を目撃し、『これは水神の怒りによるものだ。人柱となってその怒りを鎮めよう』と濁流に身を投じたのです」(以上、『じゃらん』より)となり、「大榑川洗堰出来ノ節没ス」に従わず、改竄された。宝暦4年9月22日に身投げ(人柱)したが「幕府をはばかって」竣工(宝暦5年3月28日)の翌日没したとされた、という訳である。


 「人柱」については、鹿児島にも同じような口碑がある。有名な川内の「高江新田」(1687年完成)に纏わる話で、「長崎堤防の築造には、工事奉行が愛娘を人柱にして完成させたという口碑が残って」(『土地改良記念碑探訪』鹿児島県土地改良事業団体連合会より)いるという。大阪の淀川にも似たような古から伝わる伝説がある。「物言じ(=人柱となった父・磐氏〈いわじ〉)父は長柄の橋柱(人柱) 鳴ずば雉子も 射られざらまし」という歌が残され、「袴につぎの当たった者を人柱に」したそうだが、興味深いのは、これが千年という時を経て、大阪の長柄ながら(淀川)から件の「長良ながら(川)」になり、「口ゆえに父は長良の人柱 キジもなかずばうたれまい」という、「同じお話」の、「舛屋伊兵衛」の逸話としてまかり通っていることだろう。尚、淀川の碑は、1936年(昭和11年)に建てられた。その年代も興味深く、「(薩摩)義士」と騒がれた時代背景に重ね合わせることができよう。

 ところで、

「(大阪)長柄の人柱の話は嵯峨天皇の時代とも、推古天皇の時代とも言われ、はっきりしない…現地の『長柄人柱の由来』の説明によると、『621年(推古天皇21年)巌氏は『日頃の報恩の精神すなわち、慈悲の心を達成するため』、自ら志願して人柱となった』と」(或るネット情報)あるらしい(注:621年は「推古29年」、推古21年は「613年」なので、このネット記事は年代が合わない。嵯峨天皇は在位809年-823年)。同じく大阪の『茨田堤(まんだのつつみ)』にも人身御供の話がある。『日本書紀』に載っている、日本最古の「築堤」らしい。

 本題に戻ろう。

 『舛屋伊兵衛顕彰碑』があり、顕彰活動も盛んらしい。「人柱」は無理強いされることが多いから、これをもって「殺害」としたのかも知れないが、自害説も含めて「…と伝えられています」という伝承の域を出ていない。仮に「幕府をはばかっての作為」で没年を操作したとしても、何故彼一人が「はばかる」必要があったのか、究明されていない。どうせ「憚られる」なら、病死か誤って川に落ちた「事故死」とすれば良い。寧ろ、「人柱」と見做すなら、工事が終わってから死んだとする訳にはいかない、その後付けに思えてならない。



ⅴ)事故による死者(事故死「ゼロ?」の疑惑)

 ケガ人が出ても不思議でない大規模工事なのに、誰一人として「事故」について言及していない(「事故(死)はなかった」?)。もっと不思議なことは、「死傷病者」として登場する者は、一部の不明を除けば薩摩方(藩士)と幕府役人であること。千人とも二千人ともいわれる「村方」や「町方請負」は病気や怪我さえもしなかったのだろうか? 流行ったのは「疫病(「赤痢」と言われる)」である。そうであるなら、「藩士」だけ病魔に狙われたとは全く考えられない。自藩や幕府方の 内情「記録」としてしか残されていないということかも知れないが、見方を変えれば、幕府方3名を除く全ての死者が「薩摩藩士」という保証はどこにもないと言えそうだ。或いは、「事故隠し」という可能性も拭いきれない。



3)「割腹」の根拠について(全てが「病死」ではなかろうか?)

 「『鹿児島県史』に、『藩士及び足軽・下人の犠牲者は80余人に及び、宝暦4年4月以降、自刃者・病死者が続出し、殊に8、9月頃は殆んど毎日、時には日に数名を数へる。他郷における困難なる勤務の結果、病死者を出した事はなほ当然であらう。しかし自刃者もまた多く、自刃の理由はこれを明白に知るを得ないが、恐らく難工事及び幕吏の権柄なる指揮に責を果たし得ず、その他やみ難き事情によるものと考へられる。』と述べられている」(黒田安雄『KISSO』より)が代表的な見解だろう。「自刃の理由はこれを明白に知るを得ない」のだ。全ては憶測に過ぎない。また、「身分的には、侍分は自刃、従者(仲間という身分の者、あるいは苗字のない者)は病死という傾向が強い」(羽賀祥二論文より)という分析もある。


宝暦4年8月3日〜10月24日に限れば(宝暦4年8月・9月は「小の月=29日まで」)、「52人」もの死者が出た。

その内訳は次の通り。

8月: 3日(割腹),4日(病死),5日(割腹),8日(2名/病死,割腹),9日(割腹),14日(割腹),15日(2名/病死,割腹),18日(病死),19日(割腹),20日(4名/病死3,割腹),21日(割腹),22日(2名/割腹),23日(割腹),24日(割腹),25日(病死),27日(割腹),29日(2名/割腹) 

9月: 1日(2名/割腹),3日(2名/割腹),6日(病死),9日(2名/割腹),11日(割腹),13日(病死),15日(2名/病死,割腹),16日(割腹),19日(割腹),20日(2名/割腹),22日(入水:舛屋伊兵衛),23日(2名/割腹),27日(2名/病死)

10月: 5日(割腹),7日(割腹),15日(病死),17日(病死).19日(割腹),23日(病死),24日(2名/割腹)


 全工期(竣工後の検分期間含む)の「複数人死亡日」を抜き出そう。

 宝暦4年は、4月14日(割腹2名:永吉惣兵衛・音方貞淵),8月8日(病死1名,割腹1名),8月15日(病死1名,割腹1名),8月20日(病死3名,割腹1名),8月22日(割腹2名),8月29日(割腹2名),9月1日(割腹2名),9月3日(割腹2名),9月9日(割腹2名),9月15日(病死1名,割腹1名),9月20日(割腹2名),9月23日(割腹2名),9月27日(病死2名),10月24日(割腹2名),11月21日(病死1名,割腹1名)であり、宝暦5年は、1月12日(病死2名),2月2日(病死2名),4月28日(病死1名,割腹1名)である。

 「複数人死亡日」は、18日間で病死14名、割腹18名(病死率43.75%)。病死のみは3日間で18名(病死率16.67%)。「複数人死亡日」の件数は、宝暦4年4月1件、8月5件、9月7件、10月1件、11月1件、翌年1月1件、2月1件、4月1件であり、宝暦4年の8月と9月に集中している。これは「疫病」が流行した月と見事に重なる。宝暦4年5月〜7月,12月,翌年3月,5月は1件もなく、しかも、他の月は全て「1件」のみである。


「宝暦4年8月〜10月」を除く死亡日は、

宝暦4年

 ─4月14日(2名/割腹),22日(割腹:高木家・内藤十左衛門)

 ─5月24日(病死)

 ─6月5日(割腹),17日(割腹),26日(割腹),27日(病死/17日?)

 ─7月7日(割腹),8日(割腹),12日(病死),13日(病死),21日(病死),26日(割腹),27日(割腹),28日(割腹)

(8月〜10月:前掲)

 ─11月3日(割腹),8日(割腹),9日(病死),21日(2名/病死,割腹)

 ─12月8日(病死),28日(割腹)

(12月25日御用納め,26日〜休み〜翌年1月4日仕事始め)

宝暦5年

 ─1月12日(2名/病死),1月13日(割腹:幕府方・竹中伝六)

 ─2月2日(2名/病死),2月9日(病死),2月13日(病死)

 ─3月4日(病死),3月12日(割腹)

 ─4月23日(病死),4月28日(2名/病死,割腹)

 ─5月8日(病死),5月25日(割腹:平田靭負)

全工期各月の「死亡件数」は、宝暦4年の4月2件、5月1件、6月4件、7月8件、8月17件、9月13件、10月7件、11月4件、12月2件、宝暦5年の1月2件、2月3件、3月2件、4月2件、5月2件、とされる。

 奇妙なことに、年末の休みにも拘わらず、死者が一人いる。しかも「割腹」らしい。


「死亡件数」は宝暦4年6月から緩やかに上昇して(5月22日第一期工事終了,6月11日濃尾地方大洪水・復旧工事)、7月中旬頃〜8月ピークに達し(7月5日藩主の巡視,7月11日揖斐・木曽川洪水,7月22日尾地方大洪水・復旧工事)、9月頃まで続き(9月22日〜第二期工事)、その後下降している。そして、12月(12月18日二之手工事完了,洗堰着工)から翌年5月まで、一ヶ月2件ほどの安定した推移をみせている(1月26日・2月1日木曽川出水,3月28日竣工,検分〜5月22日検分終了)。この傾向は、先の「複数人死亡日」の推移と完全に一致している。そこから導き出される結論は単純明快。伝染病の発現と蔓延、そして収束である。例え「自害」の事実があったとしても、それは罹患者の苦痛や迷惑を回避した絶命行為であることを思わせる。


 「(薩摩藩の)史料…宝暦4年(1754)の8月から9月にかけて江戸の芝藩邸で熱病がはやり、およそ200人が亡くなったという記述がありました」(黒田安雄『KISSO』より)は、とても興味深い。この文書は『清水盛富年代記』と思われるが、「『(宝暦4年)8、9月頃江戸芝屋敷熱病ニテ士以下足軽人足等ニ至ル迄凡死二百人ニ及候』と、江戸藩邸における熱病流行の記事があった」(羽賀祥二論文より)という。さらに、「『岐阜県治水史』も病死者が多く出たことを説明…濃尾地方は湿気が多く、不衛生の土地であったため、宝暦4年6〜7月にかけて疾病が蔓延し、薩摩藩士からも病死者が続出した」(羽賀祥二論文より)ともあり、「『岐阜県治水史』…次の史料を紹介している。『小屋小屋病人多く、病死の者も御座候…何れ養生も懈怠勝…養生にて助かり申すものも相果て申し…』これは(宝暦4年)7月28日村上忠右衛門から薩摩藩大藪出張小屋の主人渡辺勘右衛門に宛てた書簡の一節であるという」(羽賀祥二論文より)。

 この「熱病」が何かは定かでないが、赤痢については、「細菌性赤痢…潜伏期間は1~5日(通常1~3日)…1~2日の発熱とともに、腹痛・下痢症状がみられ」(東京都感染症情報センター)、と説明される。江戸と濃尾は離れているが、この赤痢菌が持ち込まれた可能性がある。江戸から赴いた薩摩の役人は6名いる(留守居の佐久間源太夫・山沢小左衛門など)。宝暦4年1月、江戸藩邸を出立したのは総勢数十人。工事が進むにつれ、病気の蔓延などで欠員が生じた為、7月22日、平田は国許へ増員を要請したが(102名?)、既に江戸藩邸へ要請していた「70人(歩行士30人,足軽40人)」が、江戸藩邸でも「熱病」で200人もの死者を出した8月前後は、江戸から応援が到着する頃でもあった。つまり、江戸の「熱病」が伝播した可能性も否定できない。


 『海蔵寺』HPによれば、最初の「犠牲」は「永吉惣兵衛・音方貞淵の差し違いによる自害」という。いわゆる「切腹」ではない。その現物を見たわけではないが、『松平薩摩守家来永吉惣兵衛腰物にて致軽我相果候に付』という古文書が残る(1893年発見)。「幕府への反抗心からと取られること恐れ、病死などと偽って報告しなければなりませんでした」という捉え方も代表的な見解であろう。「両名が管理していた現場で3度にわたり堤が破壊され、その指揮を執っていたのが幕府の役人であることがわかり、その抗議の自害であった」(ウィキペディア『宝暦治水事件』)とされる。「2人が腹を切って亡くなった」(『宝暦治水と薩摩義士』前海津町長・伊藤光好)という言い方で、既に「差し違い」から変質して「切腹」扱いとなるが、その源流は恐らく「西田喜兵衛『濃尾勢三大川宝暦治水誌 上』三重県、1907年」「『濃尾勢川々宝暦治水誌』…西田喜兵衛が明治44(1911)年に著した、宝暦治水に関する初めての刊行」(山下幸太郎論文より)に求められる(書名が違うので当然だろうが、この年代差は不詳)。そこでは明瞭に「割腹」とある(死因には「病死」と「割腹」しか記されていない)。或いはそれ以前、「病死説が自刃説と書き改められたのは、明治33年(1900)4月に千本松原で除幕された『宝暦治水碑』に自刃を明記してからのこと。今まで土地の人々により密かに口誦されてきた自刃が碑に刻み込まれて以来、郷土史家である伊藤信氏が『宝暦治水と薩摩藩士』に自刃と著し、世論を決定づけています」(平田正風『KISSO』より)辺りだろうか。

 「明治17年頃より西田嘉兵衛氏宝暦治水工事の顕彰を始める」(『養老町と薩摩義士』より)らしいが、その「広告(『宝暦治水記念碑建設資金募集』)は…明治18年1月…犠牲者について、病死と割腹の区別はなされていない」(中西達治『宝暦治水と平田靭負(補遺)』より)という(明治17年,18年は1884年, 85年。三重県多度の西田喜兵衛(1845〜1925)というから西田が40歳頃のこと)。「薩摩藩関係者について多数の病死情報が確認されていますが、巷間で語られてきたような切腹を明証する史料は見つかっていないようです」(『KISSO』より)とも語られながら、何故今以て「切腹」説が大勢を占めているのか理解できない。


 「江戸時代初期には、死を恐れず、主君に対する捨身を体現した行為が賞賛され、主君の死を追う殉死(追腹)も美徳とされた。…殉死者…の子孫が優遇されるなどの措置もあった。…殉死者の数は増加していったが…寛文3年(1663)殉死の禁が公布され、天和3年(1683)には武家諸法度を改訂し…殉死の禁が追加された。これは優秀な人材の確保とともに、武士の務めは主君個人ではなく、「藩」や「家」に仕えるものであるという、儒教の影響を受けた「士道」的道徳が強調されたためでもある」(『江戸博覧強記』より)という。当時は「二君に仕えず」が潔いと、もてはやされていた。

 例えば、寛永13年(1636)5月24日、主君・伊達政宗が没すると、家臣15人もが殉死。「その殉死した15人のためにさらに殉死した者が5人あった」(『詳説日本史研究』山川出版社)ともあるが、翌々年の2月23日、薩摩・島津家久の場合でさえ9人が殉死、その3年後は、熊本藩主・細川忠利で19(18人?)人に上る(※¹)。明暦3年(1657)の鍋島勝茂の時の26人はもっと多い。会津藩主・保科正之は寛文1年(1661)閏8月、藩士の殉死を禁じた。武家諸法度の改訂(殉死の禁止)はその2年後の寛文3年(1663年)5月23日。けれども殉死はなくならない。寛文8年(1668)8月3日、幕府は、殉死者が出た宇都宮藩主・奥平昌能を11万石から山形藩9万石へ減封処分した。同月14日に顕在化した内紛も一因と言われるが、それはともかく、この時の殉死者は1人であったが、殉死直後の8月5日、幕府は諸大名に殉死厳禁を命じた。その後も、堀田正信(堀田正盛の長男)が、延宝8年(1680)5月20日、将軍家綱(同年5月8日没)の後を追っている。正信の父は3代将軍家光で殉死したが、正信も、次代将軍家綱を批判して改易・徳島へ移されながらも、その地で、正に殉死禁止を盛り込んだ家綱に殉じたのだから皮肉だろう。近年では、乃木希典(夫妻)が明治天皇に殉じた話は有名すぎる。

〈注(※¹)「阿部一族の悲劇…忠利は17人の殉死を許して死んだ。新藩主光尚は1人を追加許可した。阿部弥市右衛門もしきりに殉死を願ったが、忠利も光尚もどうしても許さない。許しのないまま弥市右衛門は腹を切った。…殉死者は尊敬され、遺族は加増されるのがならわしだ。…弥市右衛門は他の18人とともに殉死者の墓に埋められたが、加増はなかった。…忠利の一周忌がくる。18人の遺族には賜物があったが、阿部家にはない。」(『読める年表日本史』自由国民社)〉


 ところで、武家諸法度が禁じたのは、あくまでも主君筋に対しての殉死だった。その後「諸大名が武家諸法度に準拠して藩の法を整備するに至り」(『江戸博覧強記』より)とあるが、重要なことは、果たして「薩摩」の藩法はどのようなものであったのか、ということだろう。殉死とは、要するに、前の主君には忠実でも、その後継者に対しては「不忠」たる当てつけでもあるので、却って「体制を揺るがしかねない」ことに気がついたのだ。慶安4年(1651)7月の「慶安事件」に不安(相次ぐお家断絶で増大した、浪人の騒擾や幕府転覆の懼れ)を覚えた幕府が同年12月すかさず出した「末期養子の禁の緩和」策に目が奪われがちだが、それ以上に、寛文3年(1663)の武家諸法度改訂の意義として、「殉死の禁止」を重視したい。

 将軍家綱の時代だが、さらに発展させたのが「天和令(武家諸法度の再改訂)」(1683)であった。「生類憐れみの令」で有名な5代将軍綱吉(1680年)が将軍となってすぐのこと。綱吉が没して即座に一連の「憐れみの令」は廃止されたが、家宣・家継の後を継いだ8代将軍吉宗(1716年)は、翌1717年、新井白石が起草した「宝永令(1710年公布)」を、この綱吉の「天和令(1683年改訂版)」に戻す。以降、それが江戸時代の武家の規範をなした。


 薩摩藩内(薩摩国・大隅国・日向国の一部)では、一揆が絶えない江戸時代において、逃散を除けば、一揆が殆ど起こらなかったことで有名だ(2例あるらしい。1816年や1864年に起きた薩摩藩領・徳之島の「一揆」は砂糖を巡る一揆だが、この2例に入るかどうかは未確認)。

 江戸城当直の勤務細則によれば、呼び出しに応じない不参は「改易」、壁や障子に落書すれば死罪・子は流罪だったという。寛永5年(1628)、美濃高須藩5万石は大坂城の石垣普請で遅延した為改易され、但馬八木藩2万石は、仮病により参勤交代を怠けた罪で改易されたらしい。他にも唐津藩や福知山藩や甲斐徳美藩は藩主の自害で改易という例もあるが、「乱心」とも言われ、実のところ本当の理由が分かっていないことも多く、豊臣秀頼や福島正則の例の如く単なる「難癖」とも取れる。しかし、最下級武士の自害では、無論いわゆる「改易」になり得ないであろうが、次の「薩摩藩」の例は如何なものだろうか?


 「当時の掟は『割腹はお家断に処す』と定めていたので、止むなく病死と記録されたといわれています」(『KISSO』より)や「51名が自害を図ったが平田は幕府への抗議と疑われることを恐れたのと、割腹がお家断絶の可能性もあったことから自害である旨は届けなかった」(ウィキペディア『宝暦治水事件』)という指摘は数多ある。又、『養老町と薩摩義士』では、養老町の薩摩義士顕彰会副会長が鹿児島を訪れた際、「島津藩士は勝手に切腹してはならない。違反した者はお家断絶にする」などという、鹿児島の「薩摩義士」顕彰会長から聞かされた「驚くべき意外な話を耳にした」(1989年)ことを載せている。

 薩摩の財政を立て直した調所広郷が自決したのが1848年。西郷隆盛の投身自殺(未遂)は1858年。調所は服毒死らしく、西郷と共に錦江湾に入水した僧月照は絶命したが、いずれも難を逃れる為とはいえ「割腹」ではない。

 島津家久が没した寛永15年(1638年)2月23日、9人の家臣が殉死した。「殉死の禁止」を明記した武家諸法度の改訂は寛文3年(1663年)5月23日だから、まだ公に禁止されていないが、幕府が「割腹はお家断絶」に処したという話は聞いたことがない。本件の舞台は「宝暦」年間(1750年代)だが、薩摩のその「掟」はいつ頃からあったのか。親子2代で殉死(堀田正盛1651年,正信1680年)した「堀田家」は断絶していないのである(正盛の長男正信は配流の身ゆえ脇差しがなく、「鋏」で喉をかき切ったという。正信の子正休は「一万俵の蔵米取りから1万石の吉井藩主」となり、正盛の3男堀田正俊は兄の殉死時老中の地位にあったが、大老となり、1684年江戸城中で刺殺された。「堀田家は古河から山形へ、さらに福島へ移封され、そのたびに知行が減ってゆく」が、断絶ではない)。

 「宝暦治水」で何を訴え、何を遺したのか、それさえ分からず隠すような、かかる「自害」は正に「犬死に」であろうと私は思う。


「切腹」説の事例を幾つか拾い上げてみよう。

①「薩摩藩士」全般

「口碑に依れば…薩摩守家来…左の45名は…遂に割腹死を以て其罪を償うに及び…僅々二箇年にして斯く多人数の病死する筈万々之れなかるべし、然らば則ち割腹の説反て信ならん」(1890年12月『治水雑誌』第1号)

「屠腹し、罪を藩主に謝するものが続出し、その数は実に36名の多きに上った…但しこれ等の人々個々の屠腹原因事情等については、今日これを明らかにし得ないのは、洵に遺憾に堪えない」(『岐阜県治水史』1942年3月脱稿、1953年出版)

「51名が自害を図ったが平田は幕府への抗議と疑われることを恐れたのと、割腹がお家断絶の可能性もあったことから自害である旨は届けなかった」(ウィキペディア『宝暦治水事件』)

「藩士の切腹は藩主に対して抗議するものであった」(或るネット情報)

「『濃尾勢川々宝暦治水誌』…読み取れることとして…亡くなった藩士の出身が判然としない例が多数見られる…出所の記載がないにも拘らず、割腹でまとめられているケースが多い」(山下幸太郎論文より)

「今まで土地の人々により密かに口誦されてきた自刃」(『KISSO』より)


②永吉惣兵衛と音堅(方)貞淵

『治水雑誌』(創刊号)に依れば、永吉惣兵衛は宝暦4年4月16日、音堅貞淵は宝暦5年4月25日、別々に死去したことになっているそうであるが(埋葬は『海蔵寺』)、現在の『海蔵寺』に依れば、この両名(永吉と音方)は共に宝暦4年4月14日に自刃(割腹)とされている。

「永吉と音方の2人は四の手の工事に従事したが、着工してから今まで血みどろになって行なった工事が壊されているのを発見した。直ちに修理したが夜、再び幕府の役人が地元の人夫を使って壊しているのを眺め、抗議も出来ず歯を食いしばって我慢した。/やがて2人はこのむごい仕打ちに抗弁すら出来ない悔しさに死を選び、以後は人間味のある監督をしてほしいと祈りながら腹を切って相果てたと伝えられている」(前海津町長・伊藤光好『宝暦治水と薩摩義士』より)

「松平薩摩守家来永吉惣兵衛腰物にて致怪我相果候」(宝暦4年4月16日薩摩藩士・二宮四郎右衛門から海蔵寺宛て書簡)

「治水工事が始まって50日、早くも犠牲者が出ました。永吉惣兵衛・音方貞淵の差し違いによる自害です。しかし、幕府への反抗心からと取られること恐れ、病死などと偽って報告しなければなりませんでした。…幕府を憚り引き受ける寺院はありませんでした。最期に海蔵寺に願ったところ…手厚く埋葬して」「松平薩摩守家来永吉惣兵衛腰の物にて怪我致し相果て候に付き、貴寺に於いて葬り申し度く、御頼み申し入れ候所、相違御座無く候」(『海蔵寺』HPより)〉「早くも犠牲者が出ました。永吉惣兵衛・音方貞淵の差し違いによる自害です」(『海蔵寺』HPより)

「両名(永吉惣兵衛、音方貞淵)が管理していた現場で3度にわたり堤が破壊され、その指揮を執っていたのが幕府の役人であることがわかり、その抗議の自害であった」(ウィキペディア『宝暦治水事件』)


③黒田唯右衛門

「(薩摩義士)黒田唯右衛門は…宝暦4年7月7日切腹した。その理由は詳らかでないが、他と同様幕府の迫害と、いやがらせに対して、死を以て抗議したものであろう」(岐阜県・海津市教育委員会)

「日蓮宗常栄寺…外に(宝暦治水薩摩義士黒田家六士之墓があるが定かではない)」(『養老町と薩摩義士』より)


④内藤十左衛門(水行奉行・高木新兵衛の家来)

「宝暦4(1754)4月21日夜七ッ頃(22日早朝)、宿所としていた五明村百姓彦八方で十左衛門は切腹。しかし絶命するには至らなかったため医師に手当てされる一方、普請場掛青木の家来から尋問を受け、五ッ時ごろついに死亡。享年39歳でした」(『KISSO』より)ならば、4月22日午前4時頃「切腹」、朝8時頃「絶命」ということになるだろうが、そんな時刻に果たして自刃するだろうか? 医者や郡代自ら駆けつけるだろうか? 「瀕死」の状態でありながら、「尋問」などあり得るのか?

「内藤十左衛門は、多良陣屋高木新兵衛の家臣で、尾張梶原村から伊勢田代輪中にいたる二之手工区の桑名郡の五明村詰所に派遣されていた。その際、堤防の築造に不備を発見し、郡代青木次郎九郎にこの旨を報告しようと思っている間に工事が終了してしまった。最後の検査の時に、自分は勿論のこと、主人高木新兵衛にまで咎めが及ぶと考えて、その責任を一身に負って、宝暦4年(1754)4月22日に切腹した」(岐阜県HP『宝暦治水工事義歿者墓』より)

「(十左衛門は…絶命するには至らなかった…)切腹後、青木次郎九郎の質問書に答えた口上書には、和泉新田での普請にかかわる顛末が記されています。『庄屋の与次兵衛が私の思うように働かなかったため、工事にうまくいかなかったところができた。これを私の手抜かりだとして、御徒目付から高木家に沙汰がなされたら、私の身の置き所がなくなるから…』という内容のものでした」(『KISSO』より)

「この工事中には幕府側からも現場の責任者が地元の庄屋とのもめ事や、幕府側上部の思惑に翻弄されるなどして、内藤十左衛門ら2名が自害している」(ウィキペディア『宝暦治水事件』)


⑤竹中伝六

「竹中伝六…宝暦4年…2月当地に来て一の手普請場…に属し御小人目付となった人で…翌年正月13日…止宿先…に於て刺刀で自害を遂げた…その理由は遺書もなく不明であるが、29歳という若さと役目柄からみて、恐らくは監督上の責任を負ったものと思われる」(羽島市教育委員会)

「竹中伝六喜伯…第二期工事がほぼ終わった正月に、突然、旅館藤丸屋にて腹を賭して短い生涯を終わった。死因は全く不明である」(羽島市歴史民俗資料館・映画資料館HPより)


⑥舛屋亥兵衛(既述)

「舛屋亥兵衛…大榑川洗堰出来の節没す」(円楽寺過去帳より)「伊兵衛は大榑川の洗堰工事がなかなか進まないのを見て『水神の怒りを鎮めなければならない。そのためには人柱が必要だ』と進言し、自ら濁流に身を投じたと伝えられています。…死没の年月日は、幕府にはばかって工事竣工の翌日になって います」(『円楽寺』)


⑦平田靭負

 ところで、多くの死者を出した宝暦治水であるが、特に「平田靭負正輔(ゆきえ まさすけ)」の死の真相は謎めいている。

「総奉行平田靭負の死に関して若干の考察を行うと,平田の死を直接示唆する史料としては,『正輔去歳在疾未復、今又病積聚在疾褥而尚視事、五月二十四日歐血數、二十五日死矣、即夜輿遣骸至伏見而葬大黒寺』として記録されているのみである。/つまり、普請当時の記録と明治33年に書いた一連の寺からの報告書には整合性という点において完全に不一致であると指摘できる。更には寺が薩摩藩士の死としている根拠は薄く『薩摩藩宝暦治水』における犠牲者という点において、判然としないまま現在まで伝わっていたとすれば、『薩摩藩宝暦治水』における史実の部分にも嫌疑をかけることができよう」(山下幸太郎論文)

「島津家書類(薩摩藩の公式の編年記録)は平田の死について、「正輔去歳在疾未復、今又病積聚在病褥、而尚視事五月二十四日欧血数々、二十五日死矣、即夜輿遺体至伏見、而葬大黒寺」と記されてあった」「『靭負殿急症差発被成死去候』(『石川正右衛門家所伝之古書』)と平田の病死がはっきりと書かれていた」(羽賀祥二論文より)

「宝暦5年(1755)11月薩摩藩から幕府勘定書へ差し出した『御手伝普請御勘定帳』には平田靭負の死を病死と認めています。平田家家系譜にも『持病により絶命』と記されていますが、当時の掟は『割腹はお家断に処す』と定めていたので、止むなく病死と記録されたといわれています」(平田正風『KISSO』より)

「(平田)靭負から数えて九代目の当主…正風さんは、『宝暦治水は当時、まったく認められてませんでしたからね。いや逆に莫大な負債と多くの犠牲者を出した責任の方が問題でした。靭負の死が病気というのも、家門を存続するためといわれていますが、実際は家屋敷を藩に返し、家名を隠しながら鹿児島県内を点々と流浪していたと聞いています。…』静かな口調で語る平田正風さん」(平田正風『KISSO』より)

 平田の死去「5月25日」は、『治水神社』御由緒など、殆どが支持する定説がある(※²)。享年「52歳」。誕生日前だったので、「1704(元禄17)年~1755(宝暦5)年/満50歳」(『かごしま市観光ナビ』とする。「自刃」については「病死」説があり、「割腹」の根拠がないなど、多くの疑問が寄せられている(※³)。

 平田の辞世の句(確認された五通り。微妙に違う)

 「住み馴れし里も今更名残にて、立ちぞわずらう美濃の大牧」

 「住みなれし 里も今更名残りにて 立ちぞわずらふ 美濃大牧」

 「住みなれし 里も今更 名残にて 立ちぞわづらふ 美濃の大牧」

 「住みなれし 里も今更 名残にて 立ちそわづらふ 美濃の大牧」(碑の写真付き)

 「住みなれし里も今更名残リにて 立ちぞわずろう 美濃の大牧」〉


〈注(※²)5月23日説:「宝暦5年(1755)5月22日 美濃 薩摩藩の木曽川普請工事終了。翌日、総奉行平田靱負自刃(52)」(『江戸時代年表』小学館)▶5月24日説:「40万両(約320億円)という費用がかかり、病気や事故などで多くの犠牲者が出ました。宝暦5年5月24日、平田靱負は多額の費用を使わせたことや多くの部下たちを死なせたことなどに責任を感じて割腹をして、亡くなりました。」(羽島市立図書館)▶尚、次の記述は必ずしも間違いではないが、誤解を招く。「総責任者の平田靭負も、宝暦5年3月の工事完成直後に自刃して果てた。」(『読める年表日本史』自由国民社)は「直後」の解釈次第。▶しかし、「工事完成の日には薩摩藩の家老平田靱負は責任をとって自刃。」(『日本辞典』より)となれば話が違う。月日はないが、恐らく「5月22日」と解釈されよう〉

〈注(※³)病死の「改竄」について:既述したが再掲する。「平田靭負…この病死説が自刃説と書き改められたのは、明治33年(1900)4月に千本松原で除幕された『宝暦治水碑』に自刃を明記してからのこと」(平田正風『KISSO』より)と分析した上で、「今まで土地の人々により密かに口誦されてきた自刃が碑に刻み込まれ」(同上)たという「事実」が問題を複雑怪奇にしていることは間違いない。



4)幕府側の「嫌がらせ」はあったのか?

 さらに百年以上遡るなどして数例を挙げよう。『慶安の触書(慶安2年/1649)』(「酒・茶を買、のみ申間敷候。妻子同前之事」など)は幕府が出した農民統制法令ではなかったという指摘がある。それはともかく、それが出たからと言って、酒も茶も飲まなかったのかと考えれば、決してそうではあるまい。「大茶をのみ、物まいり、遊山すきする女房を離別すべし」ともあるが、翌年の慶安3年(1650)には「伊勢お陰参り」が大流行している。同時に町方にも出されたのが「結構な振る舞い」や「結構な祝言」などの厳禁であった。この種の倹約令は頻繁に出された。「混浴」禁止令も、古くは平安時代(「797年 男女の混浴を戒める」(『日本史年表・地図』吉川弘文館)/「延暦16年(797)7月11日 会集に於ける男女の別を定む」(『類聚国史』など)からあり、特に江戸時代より明治時代に至るまで度々出されたが、混浴が決して無くならなかったことの証左であろう。「宝暦治水事件」関連に限れば、尾張・徳川宗春は将軍吉宗に蟄居させられたが(元文4年1月12日/1739年)、戒められてもその奢侈を止めなかったからである(尤も、それ以前の元文1年、「綱紀粛正、勤倹」政策に転じていたらしい。風潮は容易に改まらず、著作『温知政要』が余程吉宗の逆鱗に触れたのだろう。尾張の庶民は喜び、経済・文化は栄えたが、莫大な財政赤字を残した。吉宗は「宝暦治水事件」の直前、1751年病没していたが、その「享保の改革」は次代将軍・家重にも踏襲された。吉宗の「生活は質素で、1日3食が一般化していた時代に2食を守り、それも一汁三菜であった」(『日本歴史大事典』)という。尚、治水に関連した興味深い「事件」としては、享保9年(1724)8月、幕府は代官の川除普請の見積過大を戒告している。或いは、嘉永5年(1852)3月8日、幕府は、家族総出で芝居に熱中する小普請役を免職処分とした。


 話を元に戻そう。「幕府のあからさまな嫌がらせ」(ウィキペディア『宝暦治水事件』)や「幕府の役人が工事を順調に進ませないように嫌がらせをする」(『かごしま市観光ナビ』より)などと見られている。しかし、初めに「切腹ありき」の印象が強い。その「理由付け」の為に引っ張り出されたと考えられる下記引用のような内容は相当出回っているが、思うに「非礼」では決してない。村の負担をできるだけ軽くさせ、ひいては薩摩方の負担軽減にも繋がるような、工事における「不正」防止や秩序維持の為であった。

 原文の解釈はそれぞれであろうが、今一度読み直して見る価値はあるだろう(「竿取家来」と「家来」の違いに注意)。


①「一汁一菜」などについて

[注意:以下の括弧内(※云々)は、巷の引用文に即した形で試みた「原文」の超意訳であり、意味が微妙に異なることを示したもの。典拠が挙げられてないので何とも言いようがないのだが、「原文」と思しき『止宿村々申渡書付』は、「(別の)超意訳」とともに併記した。尚、実際に「高札」が立てられたかどうかは未検証。しかし事柄の性質上、「高札」の可能性は極めて低いと考えられる(全く異なるが、「縄張相済候場所は箇所限りに門数委細相記し立札可致候」(宝暦4年戌正月『御普請仮申渡書覚』)という「立て札」は存在した)]


──「幕府は村々に高札を立てて、

 1. 食事は一汁一菜で馳走がましき物はだすな

(※決められた食費・宿泊料以内を心がけ、宿はこれまで通り、料金以上の食事や刺身など出しません)

 2. 草履・みのなどは決して安く売るな

(※購買を頼まれたら身銭を切るような相場以下では買わず、下人が望む草履やワラジや如何なる物でもカネを貰わない内は渡しません)

 3. 宿舎は、板塀などこわれても、修理するな

(※宿が粗末でも仰る通り心配せず、綺麗にしようなどと意気込みません)

 4. 決して差し入れがましき事はするな

(※用あれば村役人を呼び出すので、家来が宿に集まる格別の食事支度なく、無用。或いは1.の括弧内に同じ)

 5. 幕府の悪口などを聞いたらすぐ密告せよ

(※戒めているのに「魚が出ない」「お粗末」とか宿に文句を言う下人や「不埒」があれば隠さず報告せよ)

などなど、お手伝いにきた薩摩藩士に非礼な事を土地の人々に命じたのである」(括弧内を除く1.〜5.は『海蔵寺』HPより引用)──


《以下、その他資料に見る「嫌がらせ」例(内容の重複あり)》

⑴「幕府の役人たちは、先ず薩摩義士の待遇について宿主に厳しいお触れを出し、食事は一汁一菜と定め、蓑、草鞋も安く売らないように指示した」(前海津町長・伊藤光好『宝暦治水と薩摩義士』より)

⑵「幕府は工事への嫌がらせだけでなく、食事も重労働にも拘らず一汁一菜と規制しさらに蓑、草履までも安価で売らぬよう地元農民に指示した。ただし、経費節減の観点から普請役人への応接を行う村方に一汁一菜のお触れを出すことは、当時は普通のことであった」(ウィキペディア『宝暦治水事件』)

⑶「賄については一汁一菜と制限して心附けがましき馳走は一切するなと言渡してゐる。『若し己が部下に文句を云う者があれば密告せよ。それを隠し立てすれば隠し立てした当人を罰する。物品の売買は所の相場に拠れ、安くするに及ばぬ。草履、草鞋もすべて其の通り、聊かの品なりとも代金受取らざる中は之を渡すな。宿は如何様に見苦しくとも苦しくない。取り繕いは堅く禁ずる。諸事手軽にし、村方の消耗にならぬようにせよ』と」(伊藤信『宝暦治水と薩摩藩士』1986をもとに記述,『養老町と薩摩義士』より)

⑷「藩士たちは…屈辱の暮しを強いられた。幕府は藩士たちが身を寄せる村人たちに『食事は一汁一菜だけ魚や酒は禁止』『物品は決して安く売るな』『病気になっても必要以上に手当をするな』などを指示し過酷な扱いであった」「手当もしてもらえず病死する者など」(『養老町と薩摩義士』より)


 ところで、その出典と考えられるのが『止宿村々申渡書付』(宝暦4年2月24日)だろう。それは、水行奉行・高木新兵衛に宛てた勢州(伊勢)桑名郡五明村の庄屋(名主)・年寄(組頭)・百姓代という村方三役による「誓約書」であり、幕府方直接の「命令文」ではないが、その意向を承諾したものである。


《以下、『止宿村々申渡書付』(『養老町と薩摩義士』より転載)》

1、我等儀此度濃州、勢州、尾州川々御手伝普請御用に就き差越され候間(※¹)、旅宿村方に於て御定めの木銭(※²)米代御払ひ止宿せしめ候間、所の有合の宿を以て一汁一菜に致し酒肴は申すに及ばず何にても心附けの馳走ヶ間敷儀一切致さず。上下共御定めの木銭米代を以て、取極め候様相心得可申候。

(※決められた食費・宿泊料以内を心がけ、宿はこれまで通り、料金以上の食事や刺身など出しません)

1、此度御用に付青物等は申すに及ばず、手入ヶ間敷候尤(※³)も此段召連れ候竿取家来共も兼て申渡置候へば、若し心得違いにて非分の儀申掛け候歟(※⁴)又は不埒の儀有之候へば、我等は密に可申聞候、右体の儀有之を隠し置き、外より聞及び候ては越度に可相成候間、遠慮なく可申聞候事。

(※「魚が出ない」「気配りがない」と文句を言う下人や「不埒」があれば、遠慮なく報告します)

1、買調ふ可き品有之節は、所の相場を以て代物相払ひ調へ候間、直段上直に致候儀一切致間敷候、勿論竿取家来共買整へ候、草履、草鞋の類其他聊かの者たりとも同様相心得代物受取らざる内は指出し不申様に可致候事。

(※購買を頼まれたら身銭を切るような相場以下では買わず、下人が望む草履やワラジや如何なる物でもカネを貰わぬ内は渡しません)

1、我等共旅宿の儀如何様見苦敷候共、不苦候間止宿に付取繕ひ等の儀堅く致間敷候事。

(※宿が粗末でも仰る通り心配せず、綺麗にしようなどと意気込みません)

1、村役人御用の節は其時々呼出し可申候間、旅宿へ相詰め候には及ばず。勿論家来共旅宿に於て支度致候儀堅く無用たるべき事。

(※用あれば村役人を呼び出すので、家来が宿に集まる格別の食事支度なく、無用とのこと、分かりました)

1、旅宿勝手賄ひの水夫人足余度不申無益の儀無之様、可致尤定めの木銭米代を以て相賄候様に致、馳走ヶ間敷儀不致候上は、村入用等に相立候節有之間敷候へ共、猶又諸事随分手軽に致、村方の費に不成様可致候事。

(※自弁の水夫・人足に過度なきよう、万事村費を抑えた手軽さで計らいます)


〈注(※¹):「候間(そうろうあいだ)」:(あり)ますので,(あり)ましたので。/注(※²)「木銭(きせん)」=⇒木賃(きちん):(薪〈たきぎ〉の代金の意から)木賃宿の宿泊料金。/注(※³)「尤(とが,とがめ,あやまち,過失,わざわい,災難)」/注(※⁴)「歟(ヨ,か,や)」:句末に用いて疑問・反語・推量・感嘆の意を表す助字。=⇒与。〉


《その他の資料》

「出水等有之節は昼夜に不限場所へ罷出」「すべて御手伝方無益の費無之様」「村方のものの心得違、場所不相応の者値段に可受合旨…勿論左様の儀無之様村々へも急度申渡置候事」「御普請仕方場所には、役人休息の腰掛等ざっとしつらひ候つもり、其場所村請吟味之節申聞入用を見込請負候様吟味可有之候事」(宝暦4年戌正月『幕府よりの普請注意書』より)

「無作法無之様相慎み可申事」「喧嘩口論堅く可慎之若違犯の輩有之者双方共急度可申付候、万一爲加担者其科本人より重かるべき事」「不依何事申分有之といふとも、御普請成就の上、可致沙汰事」「重科有之者懸役人へ達し、可請差図私の爭論不可致事」「火の元随分入念申付若出火有之節は、其節の輩早速集り鎮められ可申候。防人の外無用の者不可馳集事」(宝暦4年戌正月『御手伝方元小屋に可張置條目』より)


②病人の手当「なし」について

 「病気になっても必要以上に手当はしなくてもよい」という「掟」があったとされ、「病を得ても看病は許されず、薬は与えられず」などの指摘は多い。しかしその史料は不明。「疫病」ならば手の施しようがない場合がある。或いは「出先にて医療も行届かず多くの病死者を出すに至ったのであろう」との見方は普通である。「養生にて助かり申すものも相果て申し」(村上忠右衛門/宝暦4年7月27日付)という書簡があるそうだが、私には「お手上げ(急死)」のように解釈できる。或いは「当分病人御座候…来月中旬迄には快気仕る休憩御座無く支え迷惑仕り候。…追々快気仕り次第…勤め候様に仕るべく候。」(薩摩留守居・佐久間源太夫/宝暦4年8月25日『蒼海記』より)からは、直ぐに治る見込みはなく迷惑をかけるが、養生し手当を受けて「快気」次第仕事に復帰すると解釈できる。


③「埋葬するな(埋葬の憚り)」について

「大藪村固屋御座候由係之地頭御領所其ゝ御普請中ハ川通之分格別ニ死去火葬等勿論土葬モ停止并女櫛・笄(※¹)・難成堅く無用ト先テ触有之候。」(栗笠専了寺の『覚』文書より)が、その典拠に相当すると考えられるが、「普請中は……」という期間限定であり、尚かつ最も重要なのが、「(普請)河川の道沿い」という場所に限り「無用(禁止)」と受け取れること。

〈注(※¹):笄(こうがい)①髪をかきあげるのに用いる細長い具②後世、女性用髪飾り。髷(まげ)などに差すもの。〉


④「石運びの妨害」について

 「地元村々が石材搬出を妨害していたようである」などと言われている。「特に石は毎日3,000艘の船を頼んで運搬するなどして、巨額の調達費がかかった」(丸山幸太郎『KISSO』より)らしいが、「石材調達については、なぜか地元民が運送作業への参加を嫌がり、作業が遅延した」(林順子『KISSO』より)となれば、「妨害」ではなく、話は別だろう。

 「第二期工事の石材は油島締切りだけでも2万坪以上を要し総額56万坪に上る…同月(5月)21日から石材輸送に取掛り毎日大小の舟三百余艘を以て運搬せしめた」「石材輸送量減少の原因は夏期雨天が引続いたのも一因であるが、他に山元村方が石材搬出を拒んだことにも困るのであった。一例として長良川通り各務郡岩田村では『村内自普請所猿尾修繕の為必要である』とて河原石の搬出を肯んぜず、牧田川通り多芸郡大塚・高畑・橋爪の諸村其の外石畑・竜泉寺等も村々相語らって一切石材を出さなかった。…御手伝方が運送賃を増し請負人や石寄人足を督励した結果、石材輸送は大いに進捗した」(「伊藤信『宝暦治水と薩摩藩士』1986をもとに記述」)のであれば、「宝暦治水」に手を貸す余裕がなく、石材が減少しては困る地元の「自普請」を最優先していたのであり、「手間賃」が安かったから人が集まらなかったと見るべきである。


⑤幕府役人が堤を壊した?

「薩摩藩士の永吉惣兵衛、音方貞淵の両名が自害した。両名が管理していた現場で3度にわたり堤が破壊され、その指揮を執っていたのが幕府の役人であることがわかり、その抗議の自害であった」(ウィキペディア『宝暦治水事件』)とも言われている。この二人の「自害」は宝暦4年4月14日とされ、互いに刀で「差し違えた」とさえ言われているが、両者の死亡日が異なる「異説」もある。死亡日が違えば当然「差し違え」などあり得ない。疫病で死にかかっても自分一人では死ねない二人の軟弱さを覆い隠す為の「口実」としてあり得ないことではないが、恐らくそうではあるまい。

 工事期間中にも洪水が発生して堤が幾度か決壊したことはよく知られている。薩摩が復旧を命じられた「大洪水」は3回、その他出水・被害を含めると最低5回は起きていた(①宝暦4年6月10日頃、濃尾地方大洪水。薩摩、復旧工事を命じられる。②7月11日頃、揖斐川・木曽川洪水。薩摩方復旧工事を命ぜらる。③7月22日、濃尾地方大洪水。薩摩、復旧工事を命じられる。④宝暦5年1月5日〜26日、木曽川出水・被害。⑤2月1日、木曽川再び出水、石田村の請負箇所に被害)。

 各区の責任者が幕府役人であることは当然だが、わざわざ壊せば罰せられることも自明の理。「現場で3度にわたり堤が破壊され」たのは、この①〜③の可能性が極めて高い。破壊したのは「自然の脅威」である。丁度この頃、死亡件数が増えていく時期に当たるのは偶然とは思えない。「抗議の自害」など、噴飯物。「武士」ならば抗議を貫くか、その「役人」を斬り捨てて自害すべきだろう。後世に「美化」したつもりで人を貶める「犬死」しか思い浮かばないが、この「洪水」による堤の破壊を幕府役人の「所為」にすることで、幕府に抗議した「(薩摩)義士」という構図が浮かび上がると捉えれば、それが最も自然であろう。



Ⅳ)「宝暦治水」の影響

1)工事の規模(範囲)と成果

「1700年代半ばの木曽三川周辺は、大小100以上の輪中がひしめき合う」(岐阜県輪之内町HPより)地域であり、洪水が頻発していた。しかし、「宝暦治水」は、「受持の係官も検分使も工事の出来栄に『御手伝普請結構に出来致して御座る』と嘆賞」(『養老町と薩摩義士』より)され、一定の治水効果があったとされている。「1753年(宝暦3年)に徳川幕府が薩摩藩に命じて着工された宝暦治水。薩摩藩が1000人近い藩士らを現地に派遣し、その工費95%負担されたと言われる江戸時代最大の治水。その効果は目に見えるものであったものの、幕府の見識不足により、『あまり効果がなかった』という記述が一部残っていますが、これは大きな間違いです。幕府は設計上の効果検証のためにあえて堤を作らなかったエリアだけを見て、そのような認識をしてしまったそうです」(岐阜県輪之内町HPより)という見方もある。


《影響した村の数》

諸説あるので、単に列挙するに留める(①95村〜⑤約300村)

①95か村

「宝暦治水の九五ヵ村・一八八ヵ所(水害復旧95ヵ村98ヵ所、抜本治水90ヵ所)」(丸山幸太郎『KISSO』より)

②157か村

「工事は157ヶ村に及んだ」(『羽島市歴史民俗資料館・羽島市映画資料館』HPより),「工事区間は、一の手(13ケ村) 二の手(14ケ村) 三の手(100ケ村) 四の手(30ケ村)」(或るネット情報)→合計すれば157ケ村になる。

③193か村

「工事区域は、木曽三川の河口から50〜60㎞にわたる流域で、美濃、尾張、伊勢をあわせた193ヵ村に及ぶもの」(『KISSO』より),「54年2月着工、55年3月竣工(しゅんこう)した。193村にわたる広域で四工区に分けられ」(日本大百科全書(ニッポニカ)の解説),「工事対象地域は実に、美濃6群141か村、尾張1群17か村、伊勢1群35か村、計193か村にわだり、延長約75キロ、幅約20キロに及ぶものであった」(或るネット情報),「堤防延長120キロメートル」「工事の場面は美濃六郡百四十一ヶ村、伊勢一郡三十五ヶ村、尾張一郡十七ヶ村、計百九十三ヶ村の大区域に跨り、延長六万三百六十一間(約一万五〇〇キロメートル)二十八里)に及んでゐる。」(『養老町と薩摩義士』より)▶1間=1.818m,約109.74㎞,「伊勢湾の河口から上流へ概ね60km、東西は約40km」「関係の村は193ヶ村」(『宝暦治水と薩摩義士』前海津町長・伊藤光好)

④198か村(請願した村)

「御手伝普上請における大榑川の締切は揖斐川沿川198力村から請願されていた。しかし、堤防により締切を行えば,出水時に長良川の堤防や濾島締切堤防に悪影響を及ぼすとして、洗堰を築造することとなった」(知野泰明・大熊孝論文)

⑤300か村or 329か村(恩恵に与った村)

「この工事は一定の成果を上げ、治水効果は木曽三川の下流地域300か村におよんだ。ただし長良川上流域においては逆に、洪水が増加するという問題を残した。これは完成した堤が長良川河床への土砂の堆積を促したためと指摘されている。薩摩藩では治水事業が終了したあとも管理のために現地に代官を派遣したが、後に彼らは尾張藩に組み込まれている」(ウィキペディア『宝暦治水事件』),「『329か村が恩恵を受け、水害は減少しました。川の周囲に住む人々は薩摩藩に大変感謝し、現在、岐阜県と鹿児島県は姉妹県となってさかんに交流が行われています』と記述された歴史教科書」(『IWJブックレビュー』より)



2)工事の費用について

①当初の工事計画費用

 合計:9万3,300両, 材木4,640本(中止の「五之手」を含む)(※¹)

  幕府の負担:1万6,340両(負担率17.5%),材木4,640本

  薩摩の負担:7万6,960両(負担率82.5%)


②幕府「御入用」=実際(中止の「五之手」を含まず)の幕府負担

 合計:9,831両,材木3,009本(「材木」は全て幕府の負担)(※¹)

  一之手:2,398両,材木1,928本

  二之手:877両

  三之手:2,186両, 材木1,040本

  四之手:4,370両, 材木41本

  五之手(中止)


③薩摩藩の負担金(「材木の運搬」費など、幕府負担以外の全て)

 1)当初の勘定奉行などの予想(諸説あり/大別すれば3説)

  ㈠10万両(①の合計に大凡一致する),㈡11万両,12万両,㈢14〜15万両(通説)

 2)薩摩藩邸の見積もり

  約30万両

 3)最終負担金(諸説あり)

  ㈠30万両,㈡38万両, ㈢40万両(通説)←「40万両」は薩摩藩の「年間収入の約2倍」と言われているが、「年間収入に匹敵」という説もある。


 例えば工事費の一部について、「油島締切工事の予算は5万1,602両で此内1万610両余が幕府の負担と定められていたのに、清算の結果、幕府では僅かに3,386両428匁を支出したのみで、他は全部薩摩の支弁であったと云う」(『養老町と薩摩義士』より)を例に取ろう。三之手は大榑川の洗堰などであるが、「油島締切工事」は四之手。この幕府の負担金「3,386両428匁」は、②の四之手「4,370両」とは約千両もの開きがある。個別の差額は大きな開きを生むに違いないが、それはさておき、仮に幕府の総負担額を約1万両とする(②の合計額)。薩摩藩の負担額を最低の30万両とみても、その負担率は実に96.77%にもなる。通説である40万両なら97.56%で、当初の工事計画(負担率82.5%, 7万6,960両)を遙かに上回る負担率であり総額であろう。先に引用した「その工費95%負担」(岐阜県輪之内町HPより)よりも高いが、「内訳」が提示されないとかような「相違」だけが一人歩きする、検証しがたい事例としたい。


〈注(※¹)木材などの数量について:以下の数値は桁などが全く違う。「坪」は、「りゅうつぼ」などのことだろう。土砂などは1坪=約6.0立方メートル、材木は1坪=約2立方メートル。「砂利」や「石材」の(単位などの)違いに注目されたい。▶「油島締切堤は…工事に使用された材料は実に膨大なもので、主なものでも木材が約12万本、唐丈172万8千本、石材約26万立方米、砂利約121万立方米、空俵16万3千俵、この外粗朶、縄などの資材や大工、石工、人夫等も巨額にのぼり」(前海津町長・伊藤光好『宝暦治水と薩摩義士』より)▶「第二期工事…木材12万742本…唐竹172万8,709本…石材400万1,724坪1合…砂利120万3,403坪9合…空俵16万2,870俵…縄5万5,400房…右の他、槙皮、鉄類、松明、荷車、船、駄馬、駄牛、杣、木挽、大工、石工、人夫等の数量も巨額なものであったろう」(『養老町と薩摩義士』より)〉


◎参考として、幕府財政(歳入)の変遷を見てみよう

1657年(明暦3年)

 400万両…但し「明暦の大火」(明暦3年1月18日)以前(『面白いほどよくわかる江戸時代』日本文芸社)

1716-1745年(享保1年〜延享2年)

 13万6,000両余(『面白いほどよくわかる江戸時代』日本文芸社)

1730年(享保15年)

 79万8,800両(『江戸博覧強記』小学館)/金59万5,100両・銀1万2,216匁,米85万4,200石(『山川日本史総合図録』山川出版社)

1742〜1751年(平均/寛保2年〜宝暦1年)

 49万4,785両(※¹)

1753(宝暦3年)9月

 141万18両(幕府御蔵有高:岩波書店『日本歴史 近世2』藩体制の成立・山口啓二)

1752〜1761年(平均/宝暦2年〜宝暦11年)

 97万8,854両(※²)

1770(明和7年)

 300万4,100両(幕府御蔵有高:岩波書店『日本歴史 近世2』藩体制の成立・山口啓二)

1843年(天保14年)

 154万3,000両(『江戸博覧強記』小学館)


 以上の数値を単純に比べることは出来ないが、幕府の歳入が逐年で増加した訳ではなく、如何に不安定であったかが分かればよい。問題は宝暦治水の時期であり(宝暦3年〜5年)、それ以降に抱えた薩摩の財政難との関連性である。「全国に400万石相当の直轄領を持つ幕府の宝暦年間の年間歳入が7、80万両余というのは、いかにも少なすぎる。40万両を既定の金額とする所から、薩摩藩にいかに過重な負担がかかったかを印象づける数字操作といえるだろう」(中西達治『宝暦治水と平田靭負(補遺)』)という論考がある。しかし、宝暦2年〜宝暦11年の10年平均が「97万8,854両」、それ以前の10年平均「49万4,785両」を考慮するならば、この80万両もあながち「少なすぎる」額とは思えない。幕府財政の半分近く、或いはそれに匹敵したと言っても過言ではない、薩摩の負担は相当なものであったと言えよう。


〈注(※¹)幕府年貢米・金等収支(毎10カ年平均)

 1742〜1751(寛保2〜宝暦1)1石当り米価:1.048両 年貢米収支差引(金換算)79,223両/年貢金収支差引415,562両 計494,785両〉

〈注(※²)1752〜1761(宝暦2〜宝暦11)1石当り米価:1.012両 年貢米収支差引(金換算)18,500両/年貢金収支差引960,354両 計978,854両〉

〈(※¹)(※²)岩波書店『日本歴史 近世2』藩体制の成立・山口啓二より〉



3)薩摩の借金と返済

ⅰ.薩摩の借金(「宝暦治水」頃とその前後)

[借入金:金22万298両(銀1万3,378貫815匁/810匁?), 藩債献納金税金増徴等:推定15万両]


 「幕府の予想とは裏腹に藩財政が苦しかった薩摩藩は大坂で22万両の借金をし、藩内では藩費節約などで予算をやりくり」(岐阜県輪之内町HPより)していたと言われる。この「22万両」が端数まで述べられた代表例が、「借入22万298両(大坂方商人より)」(伊藤信『宝暦治水と薩摩藩士』より)であろう。さらに藩財政については、「当時すでに66万両もの借入金があり、財政が逼迫していた薩摩藩」(ウィキペディア『宝暦治水事件』)というのも代表例。

 この「当時」がいつの頃か不明瞭だが、以下の年表を参照したい。藩財政の大凡の推移が分かり、宝暦4年の「借金」は「66万両」とされている。右側に挙げた数値は、この年表から年平均の増減を求めた概算であるが、特に「文化4年(※3)からのわずか20年で、一気に4倍にも膨れ上がった」(『江戸時代年表』小学館)ともあり、諸氏の多くが「宝暦治水」の結果背負わされた「重荷」の一つとして関連付けていた。ところがさらに、黒田氏の情報(「史料によれば文政9年(1826)…借財は172万両」)を併せてみれば、僅か1、2年で約3倍(328万両増)にもなったことになるから驚愕する。

 宝暦3年(1753)でも「66万両」という説もあるけれど(後述)、特に問題なのは、「500万両」に「膨れ上がった」という定説の中身(と、その時期の特定)。それが果たして本当に文政10年(1827)であったのか? と問えば、違うようである(※2)。


[薩摩藩の借金((■)は『江戸時代年表』小学館)]

 1616(元和2年)2万両(■)

 1632(寛永9年)2万両(■):16年間の増減ゼロ

 1640(寛永17年)34.5万両(■):8年間の年平均約4万両増

 1749(寛延2年)56万両(■)(※1):109年間の年平均約2千両増

 1754(宝暦4年)66万両(■):5年間の年平均2万両増

 1801(享和1年)117万両(■):47年間の年平均約1万両増

 1807(文化4年)126万両(■)(※3):6年間の年平均1万5千両増

 1826(文政9年)172万両(黒田安雄『KISSO』より)

               :19年間の年平均約2万4千両増

               :72年間の年平均約1万5千両増

 1827(文政10年)500万両(■)(※¹)


〈注(※¹)「500万両」の重み:薩摩藩の収入は諸説あるが、15万両(※²)としても「約33倍」になる。因みに、鹿児島県の2019年度歳入予算額は8,273億7,300万円,2018年度県債残高1兆6,014億円である。つまり「借金」は年収の「約2倍」。/2019年3月末、日本の「負債」は1,103兆3,543億円,2018年度歳入額は105兆6,974億円(うち税収は約60兆4,000億円)、借金は年収の「約10倍」、税収の「約18倍」になるが、この「歳入」には「赤字国債」も入るし、「税収」が収入の全てではない。財務省の説明によれば、2015年度の「一般会計予算を基にして、日本の財政を月々の家計に例えてみます。/仮に、月収50万円の家計に例えると、月収は50万円ですが、ひと月の生活費として、80万円を使っていることになります。/そこで、不足分の30万円を、借金で補い家計を成り立たせています。/こうした借金が累積して、8,400万円のローン残高を抱えていることになります」という。つまり、年収の「14倍」が借金。現在の鹿児島県「2倍」や日本「14倍」と比べても、この「500万両」が「33倍(以上?)」だから突出している。〉

〈注(※²)薩摩藩の年収について:「(所領高77万石の)薩摩藩の場合、土地状況から年間総財政収入が金40万両かそれ以下であったであろう」(丸山幸太郎『KISSO』より)を筆頭に、多くは「12万両〜15万両」や「20万両」と見るなど、大きな誤差がある。〉



ⅱ.薩摩藩の返済について(「借金500万両の無利息250年賦」など)

 「薩摩藩を例にとれば、1807(文化4)年の藩債は、三都で銀7万6千余貫、金になおして約127万両(※3)であったのが、約20年を経た文政の末年(※2)には、実に500万両にもふくれ上がっていた。しかも、これは決して財政努力が放棄されていたのではない。藩は、徹底的な緊縮政策を行ない、参覲交代のごときも行列はできるだけこれをきりつめ、ついにそれすらも往復の費用を節減するため、藩主の在府願いを呈出するまでに至っている。調所広郷が、ついにその借銀整理のため、大阪の富商浜村孫兵衛の助けをかりて、借銀返済年2万両、250年賦払いというような踏み倒し同様の手段を立てて、これを強行しなければならなかった」(『日本歴史 近世5(雄藩の台頭:奈良本辰也)』岩波書店より)

 「長州藩の借金は、天保8(1837)年当時で…金にして200万両…元金据置・無利息・年賦償還という条件を債権者に承諾させた。…/薩摩藩の場合は…借金は総額500万両。…家老の調所広郷は、古証文書き換えとの名目で債権者から借用書を取り上げ、代わりに新しい通帳を渡した。…無利息の上に250年賦返済としてある。これが天保6年のこと。完済はなんと西暦2084年を待たなければならなかった。/さて、明治4(1871)年に“藩”はなくなってしまう。堂々たる踏み倒しである。薩長を中心とした新政府にとって『廃藩置県』は、内情からしても最重要の政策課題であったわけだ。」(『面白いほどよくわかる江戸時代』日本文芸社)


 調所広郷が藩政改革に乗り出したのが文政10年(1827)12月である(「文政11年」説もある)。「借銀返済年2万両、250年賦払い」(『日本歴史 近世5』奈良本辰也)について、文字通り理解していたのだが、「借財500万両を踏み倒したといわれていますが、実際はどうでしょう」(黒田安雄『KISSO』より)と疑問が投げかけられてもいる。

 最も知りたかった、「1754(宝暦4年)66万両」より以前の「宝暦3年(普請命令の直前)」については、「藩債が銀4万貫余となった宝暦3年12月、木曽川御手伝普請の幕命を受けたのである」(黒田安雄『KISSO』より)や「宝暦3年(1753)段階で、薩摩藩は66万両(1両=約10万円で約660億円)もの借財を抱えていた」(『島津久光の明治維新』安藤優一郞より)との記述があった。「銀4万貫」は金にして約「66万6,666.67両」であり、「余」だから金「約66万6,667両」ということになるだろうか。

 「調所は天保6年12月、コンビを組んだ大坂の豪商、浜村(出雲屋)孫兵衛とともに一大決心をした。250カ年賦無利子返還法、つまり藩の借金の『無利子250年分割払い』の施行である」(原口泉:日本大百科全書/ニッポニカの解説))とし、同氏はまた、文政13年/天保1年(1830)には既に「500万両…の古借証文」があったとも言っていた。つまり借金は、5年間変わらず「500万両」を維持していたと解釈できるのである。「薩摩藩は、まず金を借りていた商人を脅しあげて、無利子で250年の分割払いを承諾させた。時に1835年(天保6)のこと」(『ウソのような話』)や「1835年,三都藩債年賦償還法を定め江戸・大坂・京都の商人からの借金は元金1,000両につき毎年4両ずつ,無利子250年賦償還とした」(『百科事典マイペディア』平凡社)など、多くが天保6年(1835年)から返済していったとしている。つまり、元金500万両なら「毎年2万両」を250年払う訳であるが、前述の年表(『江戸時代年表』)によれば1827年(文政10年)既にあったという借金500万両は、5年間どころか、1835年までの8年間は「500万両」のママということになってしまう。これはおかしな話であろう。

 年利12%なら、利子だけで480万両となり、総額「980万両」でなければならない借金が、「500万両」しかなく、しかも変わらない。そんな馬鹿げた話を信じる訳にはいかないが、それはともかく、「三都藩債年賦償還法」を1827年(天保1年)に遡って適用したら2077年、天保6年(1835年)からなら2085年に完済というとんでもない話だ。「商人を脅しあげ」たどころではない。調所は「債権者たちを集め、その証書をとりあげて火に投げ込み焼いてしまった…『不満ならこの調所を斬ってくれ』と」(『読める年表日本史』自由国民社)言ったらしい。その真偽はともかく、8年或いは5年間も借金が増えなかったのか? 天保6年(1835)に初めて「500万両」に達したのだろうか? 誰一人それを解明していない。


 仮に借金が「文政9年(1826)172万両」としよう。年利12%として(「当時の利息は年利12パーセントほど」『ウソのような話』より)、20.64万両ずつ利息が単純に嵩んだとしよう。1835年までの9年間で利息185.76万両となる。他に年間2万両ずつ赤字が増えたとして18万両、計約204万両の負債増にしかならない(負債総額376万両)。1835年借金500万両と見做し、逆算で金利を求めると、「年利20%」になる(元金172万両×年利0.2×9年間+負債172万両+9年間の累積赤字18万両=499.6万両,約500万両)。

 享保9年(1724)以前の「札差」の金利は25%であったが、その年、幕命で15%に下がった。寛延2年(1749)に18%と若干上がったが、その後は寛政1年(1789)12%、天保13年(1842)10%、文久2年(1862)7%と、金利は次第に下がっていく(以上『お江戸の経済事情』より)。

 例えば幕府は、享保14年(1729)米価低落で、元禄15年(1702)以降の借銀を5分以下にさせたり、明和8年(1771)年利10%で町人に貸し付けたり、安永7年(1778)にも肴問屋に10%で貸したりしていた。それらは「札差」の場合であり、幕府の政策である。実際の取引は複雑で、その「金利」は特定の史料がない限り確かめようがない。

 薩摩藩の借金は「寛永17年(1640)34.5万両」(『江戸時代年表』より)を例にとろう。金利「25%」なら、利子だけで年8.6万両以上増える。当時の収入がいかほどか知らないが、「1827年(文政10)…当時の薩摩藩の年間収入は…約20万両だった」(『ウソのような話』より)というが(12万,13万,14万,15万両など諸説あり(※4-※¹))、180年後の「収入」をもってしても返せない。然るに、その後の109年間で計算上の借金は年約2千両ずつしか増えていない。つまり、実際の「借金」ではなく、「収支決算額」と見做すことが妥当と思われる。

 借金が「1826(文政9年)172万両」(黒田安雄『KISSO』より)を例にとろう。金利「12%」なら、利子だけで年20万両を超える。借金「500万両」では年60万両(「80万両(年利16%?)」説あり)であり、いずれにしても財政は必ず破綻する。


 幕府は、旗本・御家人を救済するために、寛政1年(1789)と天保13年(1842)に「棄捐令」を出した。▶「棄捐令」については次の解説がある。「寛政1(1789)年、松平定信によって最初の棄捐令が出された。それは札差に対して天明4(1784)年以前の貸借は全部破棄し、同5年以降のものは50両につき1ヵ月1分の利息、石高100俵につき元金3両ずつ年賦償還させ、以後一切の貸出しを禁じるというものであった。次は天保13(1842)年阿部正弘によって発せられ、無利息年賦払い、100両以上は1ヵ年5両、以下は元金の5分ずつ年賦払いとするものであった。この発令は天領においてのみ効力があったが、諸藩もこの種の発令を実施するようになった。この処置により、札差などの高利貸資本のこうむった被害は多額に上り、一時的には旗本、御家人の救済にはなったものの、以後貸出しを手控えたり、停止したりしたため、人心を不安に陥れるなど多くの弊害が生じた」[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2015]

 「借金」チャラも無謀であるが、「天明4年(1784)以前の借金」がポイントであろう。天保13年(1842)の場合は、借金100両なら毎年5両ずつ20年で返済完了、10両なら0.5両(銀30匁)ずつ20年で完済するので、要するに無利息20年賦だろう。しかし、1,000両なら毎年5両ずつ「200年」で完済するが、武士一人が借りる金額でないからあり得ないけれど、500万両ならば「100万年」で完済ということになるから、「250年賦」の比ではない。


 薩摩藩の「藩債年賦償還法」(天保6年/1835)は、借金をチャラにせず、元本(既に膨れ上がった利息込み)も保障するというのだから、寧ろ見上げたものである。寛政1年(1789)に倣えば、元金の返済は、薩摩藩77万石ならば、毎年2万3,100両の支払いとなる。年利12%の利息(60万両)はとても払えないが、毎年「2万両」という金額は納得出来る。そうして、当時の薩摩藩主は「250年(払う)」とは言っていないらしい。ただ「2万両を永年払え」と下命したそうである。つまり「250年」は、借金「500万両」を元にして、「誰か」が逆算した年賦数であったらしい。


 財政関連を加えて江戸時代の「年表」を作り直してみよう。

[財政の収支(財政関連情報を含む)]

1603(慶長8年)

 3月 幕府、大名普請役で江戸市街地造成を開始

 この春 上方大名、江戸に参勤

1606(慶長11年)

 3月1日 幕府、諸大名の普請役で江戸城増築工事を開始

1607(慶長12年)

 7月3日 諸大名普請役による駿府城修築竣工し、家康移る

 この年 幕府、諸大名に人質の江戸常住を命じる

1609(慶長14年)

 2月26日 幕府、薩摩藩主島津家久に琉球出兵を許可

 7月7日 幕府、琉球を薩摩藩島津家の所管とする

 この年 中国・西国・北国大名ら、江戸で越年

1610(慶長15年)

 閏2月 家康、諸大名の普請役で名古屋城を築き、市街地造成を開始(9月竣工)

 8月8日 薩摩藩主島津家久、琉球王尚寧を伴い、駿府で家康に拝謁。28日、江戸城で将軍秀忠に拝謁

1611(慶長16年)

 3月 幕府、諸大名に禁裏修造を命じる

 9月19日 薩摩藩主島津家久、琉球王尚寧に奄美諸島分割を通告

1612(慶長17年)

 3月 幕府、九州諸大名に江戸湊築造を命じる

1613(慶長18年)

 この春 薩摩藩主島津家久、琉球王を介し明国に貿易を要求

 6月1日 薩摩藩主島津家久、琉球の法度を定め、明貿易に出資

 このころ 諸大名、江戸に留守居役を設置

1614(慶長19年)

 3月15日 幕府、諸大名普請役で越後国高田城の築城開始

 10月1日 家康、大坂征討を命じる(大坂冬の陣)

1615(元和1年/慶長20年)

 4月6日 家康、大坂再討を命じる(大坂夏の陣)

 7月7日 将軍秀忠、伏見城で武家諸法度を下す

1616(元和2年)【-2万両:薩摩藩の財政】

1617(元和3年)

 3月 日光東照社造営(諸大名を動員した約半年の突貫工事)

 11月5日 薩摩藩、琉球特産物上納を石高基準とする

1620(元和6年)

 1月23日 幕府、西国・北国諸大名に大坂城修築の普請を命じる

 2月11日 幕府、諸大名に江戸城修築工事の普請役を命じる

1622(元和8年)

 2月18日 幕府、江戸城本丸・天守改築の普請役を諸大名に命じる(11月完成)

 2月 江戸城当直の勤務細則が作られた「不参は改易する…壁や障子へ落書すれば死罪、子は流罪、など」(『読める年表日本史』自由国民社)

 この年 幕府、外様大名の妻子を江戸に置かせる

1624(寛永1年/元和10年)

 8月 薩摩藩、奄美諸島を蔵入地とする

 11月13日 島津家久、妻子を江戸藩邸に移す(大名妻子の江戸常住の始まり)

1631(寛永8年)

 この年 薩摩藩、琉球在番奉行を設置

1632(寛永9年)【-2万両:薩摩藩の財政】

1633(寛永10年)

 2月16日 幕府、軍役令改定。10万石1,000石の大名・旗本の月俸制、軍役人数割などを定める

 この年 明国船来航(肥前)、長崎・薩摩国・琉球で交易

 この年 薩摩藩、奄美大島へ新田開発(勧農)のため役人派遣

1634(寛永11年)

 閏7月9日 琉球謝恩使、二条城で将軍家光に拝謁(以後、王位継承ごとに通例となる

1635(寛永12年)

 6月21日 幕府、武家諸法度改定。参勤交代の制度化、500石以上の大船建造禁止を定める

1636(寛永13年)

 1月8日 幕府、諸大名に江戸城総改築の普請役を命じる。この工事で江戸城総構完成

1637(寛永14年)

 8月25日 幕府、大風雨による収穫高の被害状況調査に諸国へ巡見使を派遣

 10月25日 島原藩で農民が蜂起(島原・天草一揆)

1638(寛永15年)

 5月2日 幕府、一揆などに際し、諸大名に隣国出兵の禁をゆるめ、商船に限り500石以上の大船の建造を許す

1640(寛永17年)【-34.5万両:薩摩藩の財政】

1642(寛永19年)

 この年 諸国、前年からの冷害凶作で大飢饉(寛永の大飢饉)

1646(正保3年)

 6月 幕府、薩摩藩に、琉球の明国との朝貢貿易継続を命じる

1647(正保4年)

 この年 琉球、黒糖の専売開始(1645年?)

1653(承応2年)

 2月7日 幕府、諸大名に参勤交代の供連れ数削減を指示

1654(承応3年)

 4月17日 幕府、5万石以上の大名に禁裏造営の費用を賦課(1万石につき銀1貫)

1657(明暦3年)

 1月18日 明暦の大火(振袖火事)

 2月9日 幕府、旗本に倹約令、大名に3年間の参勤の際の進物軽減などを布達

(幕府、明暦3年(1657)江戸大火で本丸再建をはじめ復興処理に200万両余を支出)

1661(寛文1年/万治4年)

 1月15日 京都:二条邸より出火し、禁裏・公家屋敷など多数焼失

 閏8月6日 幕府、諸大名に禁裏造営普請役を課す

1669(寛文9年)

 2月13日 幕府、九州・中国・四国の大名に淀川浚渫の費用を課す

1686(貞享3年)

 12月15日 幕府、薩摩藩に琉球貿易額の制限を命じる(年総額、金2,000両以内)

1688(元禄1年/貞享5年)

 この頃(1688年〜91年)、奄美で黒糖が産業として成立

1690(元禄3年)

 6月 幕府、小普請金上納制を定める

1701(元禄14年)

 4月13日 幕府、諸大名に参勤交代の従者の減員を命じる

1706(宝永3年)

 この年 奄美、貢米が不可能な場合、粟・特産品の尺莚・芭蕉・小麦・黒砂糖でも良いとされる

1708(宝永5年)

 閏1月7日 幕府、富士山噴火による降灰地救済費として諸藩に100石につき2両ずつの国役金を賦課

1709(宝永6年)

 7月29日 幕府、前代までの拝借金を大名は3分の1返済、旗本は免除とする

 この年 琉球、飢饉(丑の餓死年)。薩摩藩主、銀200貫目を援助

1712(正徳2年)

 4月23日 幕府、大名の隠居料増加を制限

 6月15日 幕府、参勤交代の際の従者数を制限

1713(正徳3年)

 幕府、普請は町人や村役人による請負を禁止

1720(享保5年)

 5月22日 幕府、20万石以下の大名の大規模河川に関する国役普請制を定める(20万石以下の大名は補助する)

1721(享保6年)

 7月3日 幕府、諸大名に1万石につき100石の上米を課し、参勤期間を緩和(上米の制)

 9月4日 薩摩藩、領内総検地の実施を発令。享保11年3月完了

1724(享保9年)

 9月8日 幕府、町人の武士への借金催促を禁じる

1726(享保11年)

 8月 幕府、新田開発令以来の新田公認による年貢徴収を目的として、新田検地条目32か条を定める

(1727/享保12年 将軍吉宗、薩摩藩士落合孫右衛門に、浜御殿での甘蔗(砂糖黍)栽培を命じる)

1729(享保14年)

 6月 薩摩藩主島津継豊、将軍綱吉・吉宗の養女・竹姫と婚儀(継室)

 10月26日 幕府、米価低落で、元禄15年以降の借金銀の利息を5分以下にさせる

1730(享保15年)

 4月15日 幕府、翌年から上米の制を停止し,参勤期間を旧に復すことを通達

(1731/享保16年2月10日 幕府、桐山太右衛門に浜御殿の砂糖黍(黒きび)を与え、世間に広めるよう世話係を命じる。7月7日 幕府、米価調整のため加賀藩より金15万両を借用)

1732(享保17年)

 この夏 西日本、7月以降、蝗害による大飢饉で餓死者多数出る(享保の大飢饉)

1733(享保18年)

 1月15日 幕府、蝗害を受けた西国諸大名に参勤交代の従者の減員を命じる

1735(享保20年)

 8月22日 幕府、桜町天皇即位の祝儀として5万石以上の大名に銀の献上を命じる

1740(元文5年)

 4月28日 藩主島津宗信と尾張藩主徳川宗勝の娘・房姫と婚約(8年後/寛延1年7月5日房姫死去)

1745(延享2年)

 この年 奄美、貢米はすべて黒砂糖とされた

1749(寛延2年)【-56万両:薩摩藩の財政】(金利9%?)

 3月6日 藩主島津宗信と房姫の妹・嘉知姫と再婚約(7月10日宗信死去)

 5月 幕府、定免制の全面施行を布達

(1749/寛延2年2月25日 芝宇田川町の伊勢屋清兵衛、駿河国での黒砂糖販売許可を受ける)

1753(宝暦3年)【-66.7万両:薩摩藩の財政】(12月)

1754(宝暦4年)【-66万両:薩摩藩の財政】

 2月20日 薩摩藩、工事の借入22万298両を調達(うち黒糖担保に7万両)

1755(宝暦5年)

 6月16日 藩主島津重年死去

 7月27日 島津重豪(又三郎忠洪)、藩主となる

 台風で徳之島被害甚大(餓死者3,000人。琉球から米500石借用させる)

 12月 幕府、米不作に伴う米価高騰に対し、大名・御三家・御三卿に1年分の囲米売り払いを命じる

1758(宝暦8年)

 12月22日 幕府、翌年より河川国役普請制の再実施を布達(享保5年制定・17年停止)

(1759/宝暦9年9月17日 浜御殿内で砂糖を試製)

 この年 島津又三郎忠洪、9代将軍家重から諱を与えられ「重豪」と称す

1760(宝暦10年)

 9月30日 薩摩藩、徳之島の扶持米分以外の年貢を砂糖上納とする

(1761/宝暦11年10月26日 武蔵・多摩郡大師河原の池上幸豊、製糖を開始)

(1768/明和5年3月17日 幕府、武蔵国多摩郡の池上幸豊の上申に応じ、関東・東北諸国に甘蔗栽培・砂糖製法の伝授希望者を募る。8月14日 幕府、砂糖製法の普及の促進を図るため、池上幸豊に名字帯刀を許可)

1762(宝暦12年)

 12月4日 藩主島津重豪、一橋宗尹の娘・保姫と婚約、結婚

1772(明和9年/安永1年)

 2月29日 江戸で大火発生(目黒行人坂大火)

 3月6日 幕府、類焼した諸大名に参勤の延期を許可

 この年 徳之島で疫病が流行、多数の死者が出る

1773年(安永2年)

 10月 薩摩藩校「造士館」創立(この年「演武館」創立)

1774(安永3年)

 この年 「医学院」創立

1775(安永4年)

 4月13日 幕府、諸大名参勤時の従者数を規定

1776(安永5年)

 3月13日 幕府、諸大名の江戸往来時の従者数を規定

1777(安永6年)

 黒糖の第一次総買い入れ制実施(「換糖上納制」〜1787年解除)

1779年(安永8年)

 10月1日 桜島大噴火

 12月19日 薩摩藩、桜島大噴火の被害状況を幕府に報告

 この年 「明時館」(天文館)創設

1781年(天明1年/安永10年)

 3月18日 桜島大噴火

1782(天明2年)

 春より夏まで続いた長雨のため、瀬戸内・九州など大凶荒となる

1785(天明5年)

 9月1日 幕府、琉球を飢饉から救済するため、米1万石と金1万両を薩摩藩に貸与

1787(天明7年)

 1月29日 島津斉信が藩主となる(重豪43歳、娘の婚約で家督譲る)

 この年 第一次砂糖総買い入れ制解除

1788(天明8年)

 1月30日 京都大火で禁裏・二条城炎上、薩摩藩邸も類焼

 9月11日 幕府、禁裏造営のため薩摩・熊本藩に4年間で20万両の上納を命じる(寛政2年/1790上納残りの目処立たず、8月、天明7年11月起工の鹿児島城二の丸工事を一時中断)

1789(寛政1年/天明9年)

 2月4日 前藩主・島津重豪の三女・茂姫、11代将軍家斉に嫁ぐ

1794(寛政6年)

 閏11月6日 幕府、琉球の凶作などを理由に薩摩藩へ金2万両・米1万石を10か年賦で貸与

1796(寛政8年)

 3月8日 幕府、諸大名に行列の風俗の簡素化などを命じる

1798(寛政10年)

 9月16日 幕府、諸大名に随員の節減を命じる

(1799/寛政11年9月 熊本藩、砂糖製造所を設置。この年 高松藩、砂糖方・砂糖会所を設置)

(1800/寛政12年4月 幕府、紀州藩に砂糖製造手当として1万両ずつ4年間貸与)

1801(享和1年/寛政13年)【-117万両:薩摩藩の財政】

1802(享和2年)

 2月27日 幕府、薩摩藩に琉球からの薬品を藩外に売りさばくことを禁じ、金1万両を給して琉球への送還を命じる

1805(文化2年)

 6月4日 幕府、薩摩藩の要請により金1万両・米1万石を貸与

1806年(文化3年)

 3月4日 江戸大火(芝の薩摩藩邸が類焼, 一段と高利の藩債調達を余儀なくされた)

(1806/文化3年2月15日 高松藩、7万両を幕府に献金)

1807(文化4年)【-127万両(126万8,808両):薩摩藩の財政】(※2)

1808年(文化5年)

 6月15日 前薩摩藩主島津重豪、藩政改革を急激に推進した家老らを処罰(唐物販売・15年間の参勤免除・幕府から15万両借り入れなどの請願を画策した樺山・秩父ら切腹13名など、110名余を処罰。翌年藩主斉信を隠居させる)

1809(文化6年)

 6月 父島津斉信隠居で斉興が家督を継ぐ(黒糖の専売制を一段と強化)

1810(文化7年)

 9月 幕府、薩摩藩に長崎会所での琉球貿易品売りさばきを許可

1816(文化13年)

 4月 薩摩藩など7藩に木曽三川・御手伝普請を命ず(7藩の負担金:計147,826両)

 5月 薩摩藩の徳之島で、砂糖買い入れ独占の反対一揆

1819(文政2年)

 (〜1829/文政12年)黒糖の利潤136万6,000両

 この年 沖永良部島に黍作させる

(1819/文政2年9月25日 高松藩、各所に砂糖会所を設置)

1824(文政7年)

 調所広郷、側用人格(収入13万両,支出19万8,000両)(※3)

(1825/文政8年2月18日 幕府、諸大名に異国船の打ち払いを命じる)

1826(文政9年)【-172万両:薩摩藩の財政】

1827(文政10年)【-500万両:薩摩藩の財政】(※4)(1828年,29年,30年,35年)(※1)

 2月18日 琉球、4年連続で大飢饉発生

1828(文政11年)

 調所広郷「財政改革(文政10年/1827?)」(※1)

1830(天保1年/文政13年)

 「500万両の古借証文」

 12月 奄美大島などの砂糖買い入れ開始、砂糖専売を強化(第二次「換糖上納制」,「三島方掛」新設)

 (〜1840/天保11年)黒糖の利潤235万両

1833(天保4年)

 1月15日 元藩主・島津重豪が死去

1835(天保6年)【-500万両:薩摩藩の財政】(※1)

 「三都藩債年賦償還法」

(1835/天保6年12月9日 高松藩、財政改革として砂糖専売制を実施)

1836(天保7年)

 この年から償還開始(2万両,250年賦)

 幕府に債権者対策金として10万両上納?(※1-⑶)

1837年(天保8年)

 7月11日 モリソン号、鹿児島湾に入港するが、砲撃にあいマカオへ向かう

1839(天保10年)

 この年 奄美に「羽書制」導入(※)

1840(天保11年)

 「+50万両」公表(+200万両,+250万両?)(※5)

(1842/天保13年7月24日幕府、文政の異国船打払令を撤回、文化の薪水給与令を復活)

1844(弘化1年)

 「+50万両(備蓄)」(※5)(百科事典マイペディア)

 (〜1854/嘉永7年)黒糖の利潤149万3,000両

(1846/弘化3年3月幕府、異国船打払令復活・大艦建造について海防掛らに諮問)

1848(嘉永1年/弘化5年)

 12月18日 調所広郷・自害(斉彬擁立派による密貿易密告)

 「+100万両,+150万両=備蓄50万両,非常用積立金100万両, +250万両」(※5)

1849(嘉永2年)

 12月3日 嫡子・島津斉彬の藩主相続問題で、斉彬擁立派の家臣が久光らの暗殺を画策、側室・由羅の子(五男)・島津久光擁立派(斉興・調所派)に処罰された(お由羅騒動)

1850(嘉永3年)

 11月19日 琉球からの謝恩使、将軍家慶に拝謁、泡盛酒などを献上(最後の謝恩使)(※6)

1851(嘉永5年)

 2月2日 島津斉興(隠居下命)の長男・斉彬、薩摩藩主に就任(43歳)

1852(嘉永5年)

 7月2日 薩摩藩、ペリー来航予告情報をオランダ通詞から入手

 12月27日 琉球防衛を名目に洋式軍艦建造を幕府に願い出る(翌年4月29日許可)

1853(嘉永6年)

 沖永良部島でも砂糖総買い入れ制実施

(1853/嘉永6年6月 武器・刀剣の価格が2倍に高騰。9月15日 幕府、大船建造を解禁)

1854(安政1年/嘉永7年)

 洋式軍艦「昇平丸」建造

1856(安政3年)

 12月18日 近衛家の養女敬子(篤姫・島津斉彬の養女)、13代将軍家定に入輿

1857年(安政4年)

 閏5月19日 藩主島津斉彬、洋式製作工場を「集成館」と命名

 この年 与論島で黍作強制導入

1858(安政5年)

 7月16日 島津斉彬、コレラで急死(50)。久光の長子・忠義が斉彬の遺言で藩主となる(父・久光は「国父」)

 この年 コレラ大流行(※7)

1861(文久1年/万延2年)

 7月 薩摩藩など5藩に木曽三川・御手伝普請を命ず

 8月 富山藩ら2藩に同下命(7藩の負担金:計163.263両), 3ヵ年分納

1862年(文久2年)

 3月16日 島津久光、公武周旋のため薩摩を出立(藩兵1,000人余)

 8月21日 薩摩藩士、イギリス人4人を東海道生麦村で殺害(生麦事件)

 閏8月22日 幕府、参勤交代制を緩和し、妻子の帰国を許可

1863(文久3年)

 7月2日 薩摩藩、鹿児島湾に侵入したイギリス艦隊7隻と交戦(薩英戦争)

 11月1日 薩摩藩、イギリスに賠償金10万ドル支払う(※8)

1864年(元治1年/文久4年)

 3月 犬田布一揆(徳之島、上納糖が見積高より不足で拷問、農民一揆)

 7月24日 幕府、長州追討の勅命を発し、西南21藩に出兵を命じる(第1次長州戦争)

 9月1日 幕府、参勤交代制を復活

1865年(慶応1年/元治2年)

 3月22日 薩摩藩士五代友厚・森有礼ら19人、グラバー商会の斡旋でイギリス留学に出発

 5月 坂本龍馬、薩摩藩の支援により貿易商会「亀山社中」結成(長崎)

 6月24日 坂本龍馬、京都薩摩藩邸で西郷隆盛と面会。西郷は長州藩のための武器購入を約束

 7月21日 長州藩士井上肇・伊藤博文、亀山社中と薩摩藩の斡旋により長崎のグラバー商会から鉄砲を購入

 9月21日 孝明天皇、将軍家茂に長州再征の勅許を下す

(1866/慶応2年8月4日 勘定奉行小栗忠順、フランス経済使節クーレと600万ドルの借款契約を結ぶ)

1867(慶応3年)

 1月11日 徳川昭武(慶喜の弟)・渋沢栄一ら、パリ万博参加のため横浜出港。幕府・薩摩藩・佐賀藩が出品

 10月 薩摩の伊牟田尚平ら、相楽総三を伴い三田薩摩藩邸に到着。関東の浪士を糾合し、関東を攪乱

 12月25日 庄内藩兵・新徴組、三田の薩摩藩邸を焼き討ち

 12月26日 旧幕府軍艦、品川沖で薩摩藩の軍艦と戦闘

[明治]

1872(明治5年)500万両・250年賦の償還免責(「廃藩置県」による免責)


 常識で考えたら、借金500万両に達したのは「天保6年(1835)-500万両『藩債年賦償還法』」が正しいと思われる。それ以外(以前)はあり得ない。文政9年(1826)から9年間の負債増は「328万両」である。年平均約36.5万両、元金172万両として約21.2%ずつ増えている。実際の金利が20%なら(通常「12%」)、34.4万両×9=309.6万両が利息の返済。残りが経常「赤字(-18.4万両)」と見れば、毎年約2万両の「赤字」である。これで負担増の辻褄は合う。


ⅲ.いわゆる「黒糖地獄」について

 江戸時代以降の薩摩と琉球の関係については、よく知られているように、慶長14年(1609)2月26日、幕府が琉球への出兵を薩摩藩に許したことより始まる。同年4月5日、琉球は首里城を明け渡して降伏した。同年7月7日に琉球は島津家所管となる訳だが、それでありながら琉球は、幕府の鎖国政策と貿易の思惑から、「国」としての体裁は一応保たれていた。中国(当時「明国」)との貿易が、中国に対する朝貢国(この場合、「琉球王国」)に限られていたからである。慶長15年(1610)8月8日、重臣と共に薩摩に連行され「人質」同然となっていた琉球王・尚寧を伴い、島津家久は駿府で家康に拝謁、8月28日には江戸城で将軍秀忠にも拝謁した。慶長16年(1611)9月19日、島津家久は奄美諸島分割を尚寧に通告。慶長18年(1613)6月1日、島津家久は琉球の法度を定め、明貿易に出資。元和3年(1620)11月5日、薩摩藩は琉球特産物上納を石高基準とし、寛永1年(1624)8月、奄美諸島を蔵入地とした。そして寛永8年(1631)琉球在番奉行を設置したのである。さらに、寛永13年(1636)琉球王の称号は「中山王」から「国司」とされた。

 それらを念頭に置いて次に進もう。


 文政13年/天保1年(1830)12月「(調所)広郷が実施したのが、三島方の設置。奄美大島・徳之島・喜界島の砂糖専売を強化するためである。砂糖の私的売買を禁止し、違反者は死刑などの極刑に処した。上納後の余分の黒糖に関しても、島民の日用品と交換する仕組みをつくり、それを大坂市場価格の4分の1ほどで藩が引き取った」(『江戸時代年表』小学館より)▶「宝暦の治水工事は、その財源を奄美諸島(奄美大島・喜界島・徳之島)の黒砂糖に求めた(※¹)。この治水工事をきっかけに莫大な借金を抱えた薩摩藩は、再び黒砂糖の収奪によって天保の改革を成功させ、倒幕運動の資金を生み出していった。その後、富国強兵を推し進めた藩主島津斉彬は、沖永良部島にも黒砂糖を生産上納させて資金源にした」(大島郡和泊町歴史民俗資料館 先田光演『KISSO』より)

 これが「黒糖地獄」のあらましである。


〈注(※¹)砂糖の担保について:「平田は、その後も大坂に残り工事に対する金策を行い、砂糖を担保に7万両を借入」(ウィキペディア『宝暦治水事件』)▶「(宝暦4年)閏2月9日 平田靱負、工事費7万両を工面して美濃大牧(養老町大巻)に着く」(『養老町の歴史文化資源』より)▶「主に大阪商人からの借金で賄い、内約20万両は黒砂糖を担保とした。」(『宝暦治水にみる薩摩藩の存続価値と交通事故補償について』和田實論文より)ともある。平田らが現地入りした時が「7万両」、黒砂糖を担保とした借金の「総額20万両」ということだろうか? 詳細はともかく、黒砂糖を担保に借財したようであるが、その「事実」と、いわゆる「黒糖地獄」(収奪)との直接的関連性は薄い。例えば、高松藩の「(白)砂糖専売制」(後述)と比較論考する必要があろう。「専売制」の是非を論じるべきであって、如何に罰則が厳しかろうが、それは別の問題。〉


 しかし、「薩摩藩の砂糖のごとき、高松藩や阿波藩などによってそれが栽培・製造されはじめるや、ただちにその利潤が落ちていっている」(『日本歴史 近世5』より)といわれる。

 「宝暦治水」より以前の享保12年(1727)、将軍吉宗は、薩摩藩士落合孫右衛門に浜御殿での甘蔗(砂糖黍)栽培を命じた。さらに幕府は、享保16年(1731)、桐山太右衛門に浜御殿の砂糖黍(黒きび)を与えて世間に広めるよう命じた。現在も香川・徳島特産の「和三盆」は、「初め中国から輸入し(唐三盆)、享保(1716〜1736)頃から日本でも製した」(広辞苑)といわれている。

 或いは、寛延2年(1749)、伊勢屋清兵衛が駿河国での黒糖の販売許可を受けた。さらに、「宝暦治水事件」の直後、宝暦9年(1759)には浜御殿内で白砂糖が試製され、宝暦11年(1761)、武蔵・多摩郡大師河原の池上幸豊がその製糖を開始、幕府は、明和5年(1768)その製法の関東・東北諸国への普及促進を図った。

 「和三盆」の方が「白砂糖(の試製)」より古いということは、次の「(明和5年3月頃から、田沼意次の庇護のもと…)全国に伝授していった。その結果、高級砂糖として有名な『和三盆』も誕生し、国内産の白砂糖は、生産量において中国産の砂糖をはるかに上まわるようになった」(『江戸時代年表』)とも矛盾するが、幕府や東国よりもいち早く四国などに製法が伝わり、或いは古くから入ってきた「唐三盆」が民間で進化したと理解するしかなさそうである。それはともかく、熊本藩では寛政11年(1799)砂糖製造所が設置され、同年、高松藩でも砂糖方・砂糖会所が設置された。翌寛政12年(1800)、幕府は紀州藩に砂糖製造手当として4万両(1万両/年)を貸与。高松藩では、その後(1819年)各所に砂糖会所を設置し、天保6年(1835)にはついに財政改革としての砂糖専売制を実施した。


 薩摩の調所広郷による財政改革の一つ(奄美大島・徳之島・喜界島、三島の黒糖専売を強化)は、この頃(1830年頃)である。「宝暦治水」から80年近くが過ぎていた。黒糖が薩摩の専売でなくなり、それより上等な白糖や和三盆が出回る。つまり「ただちにその(黒糖の)利潤が落ちて」いる時期に当たる。「大坂市場価格の4分の1ほどで(薩摩)藩が引き取った」といわれるが、「宝暦治水」の頃ならいざ知らず、80年後のことである。既に黒糖の価値は大幅に下がり、相場が値崩れしていた可能性が極めて高い。高松藩は文化3年(1806)幕府に7万両もの大金を献金しているから、砂糖で相当儲けたに違いない。薩摩藩による「黒糖専売を強化」は、その更に20年余以降のことである(但し、その収入については、「専売化した黒糖のみで、230万両超の利益を出した」や「調所は天保元(1830)年、「三島方」という役所の新設…黒糖だけで10年間に235万両を売り上げ」たという論考がある(※5))。


 私は、「宝暦治水」との関連では、「黒糖(地獄)」にさしたる重きを置かない。



〈注(※1)「1749(寛延2年)56万両」について:「藩債は寛延2年(1749)2月、銀3万4000貫余に達していた。上方における利払いのみに銀3000貫余が必要」(黒田安雄『KISSO』より)を基に計算すると、約「金56万6,667両」(金1両=60匁)、金利は約「8.83%」ということになる。〉

〈注(※2)「500万両」にいつ達したか?(「財政改革」を含む諸説):「文政10年12月調所広郷、薩摩藩の財政改革に着手」(『江戸時代年表』/「調所は、1827年から藩政改革に着手」(『山川 詳説日本史図録』)/「調所笑左衛門広郷は文政11(1828)年、薩摩藩の財政改革主任となった」(原口泉)▶「文政の末年」は、文政13年(1830)である。その年の12月10日、「天保」に改元された(文政13年=天保1年)。▶「500万両」になったと思しき年代説を拾い上げてみよう。

⑴「1827(文政10年)500万両」(『江戸時代年表』)/「借金…1827年(文政10)の段階で、その総額は500万両にも達していた。…4,000億円」(『江戸の時代 本当にあったウソのような話』河出書房新社)/「文政10(1827)年時点での薩摩藩の借金は、500万両といわれている。…現在に換算すると1兆円」(『松下政経塾』の「塾生レポート」より)など。

⑵「文政11年(1828年)には藩債が500万両(現在の貨幣で約2,500億円*1両5万円換算)にふくれあがっていた」( (株)日立システムズより)など。

⑶「文政12年(1829)には借財が500万両(約5,000億円)に達し」(『島津久光の明治維新』安藤優一郞より)/「藩財政の負債は1829年に500万両まで膨らんだ。…毎年2万両の返済では反発が必須でその対策として、幕府の口を封じるため10万両を上納」(『Ke!san』カシオより)など。

⑷文政13年(1830)及び「文政の末年」説──「調所…は文政11(1828)年、薩摩藩の財政改革主任となった。その2年後…藩主の斉興から、500万両(今の5,000億円)の古借証文の取り返し…を命じられた」(原口泉)/「文政の末年…500万両にもふくれ上がっていた」(『日本歴史 近世5』奈良本辰也)/「藩債が増加して、文政(1818~30)の末には500万両の巨額に達した」(『日本大百科全書(ニッポニカ)』)など

⑸天保改革時──「天保改革のときの借財は500万両といわれています」(黒田安雄『KISSO』より)とあるものの、特定できない。天保年間は天保1年/文政13年(1830)〜弘化1年/天保15年(1844)であるが、薩摩藩による「改革」の開始年には諸説ある。「史料によれば文政9年(1826)、天保改革の直前ですが、そのときの借財は172万両」(黒田安雄『KISSO』より)なので、文政10年(1827)以降であることは間違いない。尚、幕府による「天保の改革」は老中・水野忠邦が主導し、天保12年(1841)5月15日、将軍・家慶が出した「享保・寛政の制に復する」告諭に始まるとされる。水野忠邦の(本丸)老中就任は天保5年(1834)3月1日(水野忠成〈ただあきら〉の死去で、西丸(※¹)老中から昇進)、天保10年(1839)12月6日に老中首座、天保14年(1843)閏9月13日、失脚。水野は、大御所・家斉の死去(天保12年閏1月30日)で実権を握ったとされる。

〈注(※¹)西の丸は、将軍隠居所・世子居所。現在の皇居にあたる。〉

⑹例外(誤謬?)──「1813年当時、薩摩藩の抱えていた借金は、約500万両と言われます。当時の薩摩藩の収入、今で言う税収が、年間約12万両から18万両です。借金の利息が毎年60万両だったようです」(『Samurai World-日本史へのいざない』より)/「文化年間、薩摩の島津重豪は500万両に及ぶ借金を整理するのに側用人調所笑左衛門を起用」(『面白いよくわかる日本史』日本文芸社)は例外中の例外。1813年は「文化10年」である。「文化・文政時代(化政期)」とよく言われるが、「文政(10年)」を「文化」と勘違いした可能性が極めて高い。文化年間は、文化1年/享和4年(1804)-文政1年/文化15年(1818)。〉

〈注(※3)文化4年(1807)の「借金」について:ⅰ.の『江戸時代年表』では「126万両」とあるが、『日本歴史 近世5』(奈良本辰也)では「127万両」。例えば黒田氏は次のように詳述している。▶「文化3年(1806)3月、江戸にいわゆる泉岳寺大火があって芝の薩摩藩邸が類焼した。しかも琉球恩謝使参府を控え急ぎ普請する必要があり、一段と高利の藩債調達を余儀なくされ、翌4年には薩摩藩の三都(京・大阪・江戸)藩債は銀7万6,128貫余(126万8,808両)に達した。/他方、藩財政の窮乏はただちに出米制を通じて家臣団に転嫁されていたため、家中ことに下士層の生活困難が一層深刻化し、その不満は藩政に対する批判となって家臣間の階級的対立にまで発展していた」(黒田安雄『KISSO』より)▶借財が「銀」であったことが肝要。両氏の換算は「銀60匁=金1両」によると思われる(「銀7万6,128貫」=金126万8,800両)。大凡なら、126万両ではなく、「127万両」だろう。〉

〈注(※4)薩摩の収支(1824年)と調所の役職について:「調所が藩主・島津重豪の側用人格に就いた文政7年(1824年)、薩摩藩の財政はすでに破たん状態にあった。収入13万両に対して支出は19万8千両。うち、5割(10万両)が参勤費用を含む江戸藩邸の維持経費、4割(8万両)が借金の利払い」( (株)日立システムズより)▶「天保改革の直前、江戸藩邸の経費は大体9万両、宝暦のころはおそらく6、7万両ぐらい」(黒田安雄『KISSO』より)▶「通称笑左衛門…町奉行を経て1825年側用人、1833年家老となる」(百科事典マイペディア)▶「調所笑左衛門広郷は文政11(1828)年、薩摩藩の財政改革主任となった」(原口泉)〉

〈注(※5)「黒字」転換について:「広郷は…借金体質の改善に注力する一方、甲突川五石橋建設など長期的にプラスと判断したものには積極的に財政支出を行い、殖産や農業改革も実施。専売化した黒糖のみで、230万両超の利益を出した。最終的には200万両にも及ぶ蓄えを生み出している」(ウィキペディア『調所広郷』より)/「調所は天保元(1830)年、「三島方」という役所の新設…黒糖だけで10年間に235万両を売り上げ、98万4千両の増益を実現」(原口泉)〉

〈注(※6)琉球使節について:「徳川将軍の代替わりに際しては、襲職を祝う『慶賀使』が、琉球国王の代替わりに際しては、襲封のお礼を述べる『謝恩使』が、合わせて18回渡来している。琉球の使節は、2回目からは薩摩藩主の参勤交代に同行して江戸へ上り」(『江戸博覧強記』より)〉

〈注(※7)コレラの流行(安政5年):「江戸市中のコレラによる死亡者数では、幕府の公式発表が1万3,000人弱であるのに対し、伊豆国田方郡桑原村(現在の静岡県函南町)の村役人森彦左衛門の記録『森年代記』では32万余とも記され」(『江戸博覧強記』より)〉

〈注(※8)「10万ドル」について:薩英戦争の賠償金2万5千ポンド/10万ドル=推定40万両。因みに、同年5月9日、生麦事件で幕府が支払った賠償金は10万ポンド/40万ドル(推定160万両)、英公使館焼き打ち事件を含めれば11万ポンド(44万ドル)。▶次文の原文は「四〇四万ドル」で一桁違う(恐らく「間違い」)。「(5月)9日、生麦事件の賠償金404万ドルをイギリスに支払った」(『面白いほどよくわかる日本史』日本文芸社〉



4)薩摩の負担(宝暦治水は薩摩の「恨み」を生んだのか?)

ⅰ)国役普請と御手伝普請

⑴ 国役普請について

「享保5(1720)年に幕府が発した国役賦課法の中には2,000両以下は国役普請にせず、2,000両以上は国役普請とするが、2,000~4,000両は美濃にも負担させ、4,000両以上は美濃、近江にも負担させるという達しを行っている…木曽三川流域においては国役普請が寛永2年から正保元年(※¹)までの間に12回行われている。更にはこれらの工事に充てられた人足は少ない時で2万人、多い時は40万入超の人足が携わっている」(『「薩摩藩宝暦治水」像の再検討』山下幸太郎論文より)

〈注(※¹):寛永2年(1625)-正保元年(1644)〉



⑵ 御手伝普請(「木曽三川」の場合)は16回あった

①延享4年(1747)11月23日 幕府、岩代二本松藩主・丹羽若狭守高庸に木曽三川流域の御手伝普請を下命

 1)工期約2か月(延享5年1月22日-3月20日)

 2)二本松藩(単独)約700人(10万石)

 3)町方請負100%(請負業者 44人)

 4)1万両(推定)


②宝暦3年(1753)12月25日 幕府、木曽川分流治水工事の手伝い普請を薩摩藩主島津重年に命じる【本件問題(下記は仮説)】

 1)工期約1年2か月(宝暦4年2月27日-宝暦5年3月28日)

 2)薩摩藩(単独)947人(俗説→関連項目参照)(77万石)

 3)村方請負98% 町方請負2%

 4)40万両(俗説→関連項目参照)


③明和3年(1766)2月7日(6日?)幕府、津軽・長州・新発田など9藩へ、美濃・伊勢・甲斐3国の河川堤防普請工事を命じる:最後の藩士現地派遣

 1)工期約2か月(明和3年3月28日-6月3日/8日?)

 2)長門萩藩,若狭小浜藩,周防岩国藩(6藩は甲斐の普請)約800人-1,200人(3藩計53万石)

 3)町方請負80% 村方請負20%

 4)26万両(〜30万両?)(3藩)(萩藩20万両?,小浜藩2万両?,岩国藩6万両)


《以降より、「お金御手伝100%」となる(現地派遣ゼロ)》

④明和5年(1768)4月5日 幕府、久留米藩などに尾張・美濃・伊勢3国の河川工事を命じる(5月4日?)

 1)工期不明(明和5年1月-?)

 2)阿波徳島藩,豊後岡藩,筑後久留米藩,伊予大洲藩,筑前秋月藩

 3)お金御手伝100%

 4)14万4.430両(5藩)


⑤安永8年(1779)2月(1月29日?)尾張、美濃、伊勢3国の大名の普請役で、美濃・伊勢両国河川の堤普請を行う(『日本史年表』東京堂出版2007.3.10増補4版1刷)▶「尾張、美濃、伊勢3国の大名の普請役」→「鳥取藩」?

 1)工期約2か月-3か月?(12月-2月28日)

 2)因幡鳥取藩(単独)

 3)お金御手伝100%

 4)3万962両(1藩)


⑥天明3年(1783)7月12日 幕府、豊前小倉藩など5藩に、尾張・美濃・伊勢3か国の河渠浚渫の助役を命じる。9月1日浚渫完了

 1)工期約3か月?(天明3年5月-8月2日)

 2)豊前小倉藩,日向延岡藩,但馬出石藩,和泉岸和田藩,越前丸岡藩(計363,000石)

 3)お金御手伝100%

 4)5万9,861両(5藩)


⑦寛政1年/天明9年(1789)3月28日 木曽三川流域の御手伝普請を下命

 1)工期約3か月?(天明1月-4月8日目付が検分の為江戸出立)

 2)岩代二本松藩,豊後岡藩,豊後臼杵藩,越中富山藩,信濃上田藩,肥前唐津藩(計430,000石)

 3)お金御手伝100%

 4)7万1,112両(6藩)


⑧寛政8年(1796)6月19日 木曽三川流域の御手伝普請を下命

 1)工期約6か月?(1月20日調査検分下命-8月18日褒賞)

 2)播磨明石藩,肥前小城藩,岩代二本松藩(計250,000石)

 3)お金御手伝100%

 4)3万5,130両(3藩)


⑨寛政11年(1799)4月27日 木曽三川流域の御手伝普請を下命

 1)工期約5か月?(寛政10年8月31日?勘定吟味役に下命、9月15日江戸出立、起工-寛政11年春竣工、3月15日江戸で将軍に拝謁)

 2)伊勢津藩,因幡鳥取藩,出羽新庄藩,伊予大洲藩,伊予宇和島藩,日向飫肥藩,信濃松本藩,備前岡山藩,近江膳所藩(計1,340,000石)

 3)お金御手伝100%(分納3回)

 4)20万7,891両(9藩)


⑩享和1年/寛政13年(1801)6月1日 木曽三川流域の御手伝普請を下命(6月21日?)

 1)工期約4か月?(寛政12年12月22日-享和1年5月15日江戸で係役人一同将軍に拝謁)

 2)安芸広島藩(430,000石)

 3)お金御手伝100%(8月,10月,12月に分納)

 4)6万6,000両(1藩)


⑪享和2年(1802)8月26日 木曽三川流域の御手伝普請を下命(8月28日?)

 1)工期約4か月?(享和1年12月勘定奉行に下命-享和2年4月15日将軍拝謁)

 2)加賀大聖寺藩,肥前蓮池藩,肥後高瀬藩,阿波徳島藩,讃岐丸亀藩,日向佐土原藩(計480,000石)

 3)お金御手伝100%

 4)不明(6藩)


⑫文化2年(1805)6月22日 木曽三川流域の御手伝普請を下命

 1)工期約3か月?(文化1年12月6日勘定組頭ら16人に普請下命-文化2年4月江戸)

 2)武蔵川越藩,豊前小倉藩,豊後岡藩,和泉岸和田藩,伊予松山藩,豊後中津藩(計670,000石)/常陸土浦藩,下野足利藩

 3)お金御手伝100%(8月,9月,11月に分納)

 4)14万5,487両(6藩/8藩?)


⑬文化13年(1816)4月29日 木曽三川流域の御手伝普請を下命

 1)工期約4か月?(文化12年11月9日勘定組頭らが江戸出立-文化13年3月15日江戸・将軍拝謁)

 2)薩摩鹿児島藩,伊予宇和島藩,筑後柳河藩,肥前島原藩,豊前小倉藩,武蔵忍藩,信濃上田藩(計1,280,000石)

 3)お金御手伝100%(東海道筋の普請含む)

 4)14万7,826両(7藩)


⑭文政3年(1820)5月25日 木曽三川流域の御手伝普請を下命

 1)工期約4か月?(文政2年12月15日勘定吟味役が江戸出立-文政3年4月18日江戸)

 2)長門萩藩,石見浜田藩,周防岩国藩(計490,000石)

 3)お金御手伝100%(萩藩:9月,11月,12月に分納)

 4)5万7,047両(3藩)


⑮天保7年(1836)2月24日 木曽三川流域の御手伝普請を下命

 1)工期約4か月?(天保6年10月9日勘定奉行が下命-不明)

 2)豊前小倉藩,伊予宇和島藩,安芸広島藩,三河岡崎藩,安芸広島藩分家(計750,000石)

 3)お金御手伝100%(6月,8月,10月に分納)

 4)10万7,737両(5藩)


⑯文久1年(1861)7月20日 木曽三川流域の御手伝普請を5藩に下命(7月22日?)/8月6日2藩に下命

 1)工期約3か月?(文久1年1月勘定奉行,15日勘定吟味役が出立-4月15日江戸・将軍拝謁)

 2)伊勢津藩,播磨明石藩,薩摩鹿児島藩,岩見浜田藩,越後高田藩(7月下命)/富山藩, 伊勢久居藩(8月下命)(計1,530,000石)

 3)お金御手伝100%(東海道筋の普請含む,3カ年の分納)

 4)16万3,263両(7藩)



⑶御手伝普請(「木曽三川」の場合)に参加は48藩(2回以上は17藩)

(石高-異説あり-順に挙げ、参加回数を併記。右は2回以上の回数順)


 ①薩摩鹿児島藩(3回):77万石   4回(1藩)

 ②安芸広島藩(2回):42万6千石    豊前小倉藩/16万石(譜代)

 ③長門萩藩(2回):36万9千石    3回(4藩)

 ④伊勢津藩(2回):32万3千石     薩摩鹿児島藩/77万石

 ⑤因幡鳥取藩(2回):32万石      岩代二本松藩/10万石(譜代)

 ⑥備前岡山藩:31万5千石        伊予宇和島藩/10万石

 ⑦阿波徳島藩(2回):25万7千石     豊後岡藩/7万石

 ⑧筑後久留米藩:21万石        2回(12藩)

 ⑨豊前小倉藩(4回):16万石(譜代)  安芸広島藩/42万6千石

 ⑩越後高田藩:15万石(譜代)      長門萩藩/36万9千石

 ⑪若狭小浜藩:10万3千石(譜代)    伊勢津藩/32万3千石

 ⑫武蔵川越藩:10万石(譜代)      因幡鳥取藩/32万石

 ⑬岩代二本松藩(3回):10万石(譜代) 阿波徳島藩/25万7千石

 ⑭越中富山藩(2回):10万石      越中富山藩/10万石

 ⑮伊予松山藩:10万石(譜代)      播磨明石藩/8万石(譜代)

 ⑯豊後中津藩:10万石(譜代)      周防岩国藩/6万石

 ⑰伊予宇和島藩(3回):10万石     岩見浜田藩/6万石

 ⑱武蔵忍藩:10万石(譜代)       伊予大洲藩/6万石

 ⑲常陸土浦:9万5千石(譜代)      和泉岸和田藩/5万3千石(譜代)

 ⑳播磨明石藩(2回):8万石(譜代)   信濃上田藩/5万3千石(譜代)

 ㉑肥前小城藩:7万3千石

 ㉒加賀大聖寺藩:7万石

 ㉓豊後岡藩(3回):7万石

 ㉔日向延岡藩:7万石

 ㉕肥前島原藩:7万石(譜代)

 ㉖出羽新庄藩:6万8千石

 ㉗周防岩国藩(2回):6万石

 ㉘岩見浜田藩(2回):6万石

 ㉙伊予大洲藩(2回):6万石

 ㉚肥前唐津藩:6万石(譜代)

 ㉛信濃松本藩:6万石(譜代)

 ㉜近江膳所藩:6万石(譜代)

 ㉝和泉岸和田藩(2回):5万3千石(譜代)

 ㉞信濃上田藩(2回):5万3千石(譜代)

 ㉟肥前蓮池藩:5万2千石

 ㊱讃岐丸亀藩:5万1千石

 ㊲日向飫肥藩:5万1千石

 ㊳伊勢久居藩:5万1千石

 ㊴越前丸岡藩:5万石(譜代)

 ㊵筑前秋月藩:5万石

 ㊶豊後臼杵藩:5万石

 ㊷三河岡崎藩:5万石(譜代)

 ㊸肥後高瀬藩:3万5千石

 ㊹但馬出石藩:3万石

 ㊺安芸広島藩分家:3万石

 ㊻筑後柳河藩:2万9千石

 ㊼日向佐土原藩:2万7千石

 ㊽下野足利藩:1万2千石(譜代)


 最北は出羽新庄藩(6万8千石)、最南は薩摩鹿児島藩(77万石)だが、新庄藩に次ぐ北方の二本松藩(10万石)と最遠方の鹿児島藩(薩摩藩)が各3回で突出している。外様に限れば、薩摩藩の「特異性」が浮かび上がる。



ⅱ)「宝暦治水」の特殊性(お断り:紹介したい引用文のみ列挙)

「薩摩藩では難工事箇所を『町人請負』とするように幕府に請願しましたが、数ヵ所が認められただけで、多くが『村方請負』で施工されました。木曽三川の御手伝普請のなかで工事の多くが『村方請負』とされ、しかも長期にわたった普請は、この宝暦治水だけでした」「町方請負2%」(『KISSO』より)

「宝暦治水では、夏場は工事できなかったので、実質約半年ぐらいの期間で工事をしているわけです。現在の長良川河口堰を例に挙げますと、最盛期でも、年間の予算が250億円でした。これも非洪水期の半年ぐらいでやっていますので、大体同じです。同じ期間で、しかも機械力の乏しい昔に400億円相当ですから、宝暦治水の工事の規模の大きさがうかがい知れるのではないかと思います」(宮本高行(国土交通省木曽川下流河川事務所長)『KISSO』より)

「薩摩藩の有名な財政改革、天保改革のときの借財は500万両といわれています。史料によれば文政9年(1826)、天保改革の直前ですが、そのときの借財は172万両です。それが天保改革のときに、どうして500万両になったのだろうかということが一つの疑問として残されています。/天保改革の直前、江戸藩邸の経費は大体9万両、宝暦のころはおそらく6、7万両ぐらいだっただろうと思います。江戸藩邸の経費の5、6年分を治水工事につぎ込んだのですから、宝暦治水での借財がずっと後まで尾を引くことになり、藩債が累積しました。/しかも、藩財政が悪化するなかで、重豪の娘が一橋豊千代と婚約し、その後11代将軍家斉の御台所になるのです。…天災飢饉はあるけれども…結局、娘のためにお金をつぎ込んだわけ…ですから、産業基盤が荒廃してしまいました。遅れた地域で先進的なやり方をするものですから、首が回らなくなりましたが、メリットもありました。それは将軍家とつながりです。その後の天保改革から幕末にかけ、非常に大きな役割を果たすことになります。…財政改革を行うために、薩摩藩には柱が二つあったと思います。中国の物産です。これをどう生かすということが一つ。そして、もう一つは奄美と琉球の砂糖です。この二つが藩の切り札となりました。…幕府に長崎での琉球、すなわち中国の物産の販売を認めてもらいます。ところが、…長崎で売りながら…幕府の長崎会所の活動を無視して密売をしているわけで、当然幕府でも問題になります。しかし、何せ御台所の御実家ですから、将軍が死なない以上は手を出せなかった。/それでも200万両近い藩債は、にっちもさっちもいかない。結局、踏み倒さなきゃいけないということになるのです。今までの研究ですと、借財500万両を踏み倒したといわれていますが、実際はどうでしょう。…このため、砂糖の品質をよくするとともに、脇荷を厳しく取り締まるという有名な砂糖の専売制が強力に実施されました」(黒田安雄『KISSO』より)



ⅲ.「薩摩義士」(顕彰運動)について(「年表」)

「永く埋もれていたこの大工事を世に広めたのは、三重県多度に住む西田喜兵衛です。彼はこの工事の様子を世間に知らせ、犠牲者の慰霊と顕彰に邁進しました。明治33年、近代の木曽三川の治水工事の成功式に併せて『宝暦治水之碑』が、時の総理大臣山県有朋公を迎えて油島千本松原に建立されました。」(『治水神社』御由緒より)


[「宝暦治水」以降(明治・大正・昭和の戦前)の主な顕彰運動]

(宝暦5年(1755)5月 木曽三川分流治水工事が終わる)

1876年(明治9年)12月20日 三代・西田喜兵衛の「宝暦治水」記録(「薩摩藩の恩を忘れるべからず」など)焼失

この頃 天照寺7代・湯誉上人、義歿者27名に法名(天照寺過去帳)

1879年(明治12年)この年、山田省三郎『治水共同社』結成

1882年(明治15年)この年より西田喜兵衛、薩摩藩士の顕彰運動始める

1884年(明治17年)〜 十代・西田喜兵衛(嘉兵衛?)、資料収集・義歿者の記念碑建立を画策

1885年(明治18年)1月『宝暦治水記念碑建設資金募集広告(宝暦治水之碑義捐金募集広告)』(「従事セル藩士等数十名割腹死ヲ以テ其罪ヲ償フ」岐阜県にて)

(1887年/明治20年「明治大改修」始まる〜1912年/明治45年)

1890年(明治23年)『治水協会』創立。12月『治水雑誌』創刊「油島〆切工事ノ極メテ困難ニシテ、経費不貲予算頗ル増嵩シ、竣成ノ期モ亦遷延セシヲ以テ、当時手伝ヒノ本部タル島津家ノ工事係リノ内四十五六名、申訳ケノ為メ屠腹自盡」(〜1894年6月第12号で廃刊)

1893年(明治26年)『薩摩藩士埋葬寺送り(10名の埋葬証文)』古証文発見(三重県桑名市海蔵寺)

1900年(明治33年)4月22日『宝暦治水之碑(宝暦治水記念碑)』建立(海津市千本松)

 10月3日 薩摩工事義殉者追弔会(天照寺)

 12月『大榑川洗堰碑』建立(岐阜県輪之内町大藪)?(羽賀祥二論文より)

1902年(明治35年)この秋、『宝暦治水義士之碑』建立(岐阜県羽島市)

1907年(明治40年)10月30日『濃尾勢三大川宝暦治水誌』自費出版(西田喜兵衛)

1912年(明治45年)12月8日『薩摩義士表彰会』(帝国教育会館にて)

1913年(大正2年)11月23日(8月?)『薩摩工事義歿者之墓』建立(岐阜県養老町)

1916年(大正5年)12月28日 平田靱負に従五位が追贈される

1917年(大正6年)5月25日『薩摩義士の歌』(江口森之進作詞・曲)

「1千余名,自刃50人,病没32,82義士」

 この年、『薩摩義士顕彰会』発足(鹿児島県)

1919年(大正8年)11月25日『薩摩義士碑』(京都市伏見区大黒寺)

 12月13日 桑名義士顕彰会結成

1920年(大正9年)9月10日『薩摩義士之偉業』小冊子発行(岐阜県・長谷川鑑三)

 11月24日『薩摩義士碑(宝暦義士記念碑,義士銘々石碑之塔)』建立(鹿児島市城山町)

1923年(大正12年)3月『木曽三川分流碑』(岐阜県海津市)

1924年(大正13年)3月29日『宝暦治水薩摩義士之碑』(愛知県犬山市)

(「明治13年3月『宝暦治水薩摩義士之碑』愛知県犬山市」?)

1925年(大正14年)11月29日(19日?)『薩摩義士顕彰会』発足(会長・山田貞策/全国組織)/昭和初年『義士顕彰会』発足(山田貞策会長)

1926年(大正15年)2月1日『学校家庭課外読本 薩摩義士』編纂発刊

 3月4日 事蹟を国定教科書に採録の請願書(柏谷衆議院議長に提出)

 5月1日『薩摩義士』刊行(鹿児島教育会)

1928年(昭和3年)5月6日『平田靱負翁終焉地之碑(平田靭負終焉地記念碑)』建立(岐阜県養老町大巻「役館跡」)

 5月『治水神社』起工式

 10月20日『忠魂堂』建設(三重県桑名市海蔵寺)

1930年(昭和5年)4月27日『薩摩堰遺跡(大榑川洗堰碑)』建立(岐阜県輪之内町大薮)

1932年(昭和7年)1月15日『宝暦治水薩摩義士遺蹟概要』発行((山田貞策)

1934年(昭和9年)9月10日『平田靱負翁銅像』建碑(岐阜県)

1935年(昭和10年)10月『追懐薩摩義士碑』建立(海津市油島)

1938年(昭和13年)3月(2月竣工?)『治水神社』創設(5月25日(24日?)『創設奉祝祭』治水神社鎮座祭)

1939年(昭和14年)8月 岐阜県、伊藤信ら3名に「治水史」編纂を委嘱(1942年3月脱稿、1953年『岐阜県治水史』出版)

1941年(昭和16年)5月23日『薩摩義士と治水事業に就いて』放送(名古屋中央放送局)→8月25日『宝暦治水薩摩義士の偉功』冊子発行(放送全文収録)


[「大東亜戦争」後の顕彰運動]

1943年(昭和18年)6月5日『宝暦治水と薩摩義士』(伊藤信/鶴書房)

1953年 この年、『岐阜県治水史』出版


[近年の数例を挙げる(鹿児島県と関係諸県・諸町との交流など、顕彰活動は数多い)]

1970年(昭和45年)11月27日『養老町薩摩義士顕彰会』結成

1971年(昭和46年)11月1日『薩摩義士慰霊堂(入仏式)』

1986年(昭和61年)12月28日『宝暦薩摩治水工事顕彰供養堂』建立

                   平田靱負翁神霊

                   義士千七百六十七名之神霊

    薩摩義士之霊位        島津重年公神霊

                   鬼頭兵内神霊

                   山田貞策神霊



Ⅴ)「まとめ」にならない「まとめ」

 平田の自刃について、「…五十三名の自殺者(薩州藩士は五十一名)と、三十三名の病死者とを出したこと、あるいは工事が幾度か蹉跌して、ために工費を増加させたことなど、既往を回想して、いまさら総奉行たる責任の重大なのを痛感し、潔く割腹して罪を君侯に謝すべく決心した。(中略)二十五日暁天、任地大牧村(現養老郡池辺村大字大牧)の役館において、東天に出初めた旭日を伏し拝み、西に向つて主家の隆昌を祈念しつつ、総べての責任を一身に負い、悲壮な最後をとげた」(『岐阜県治水史』より)

 この「平田の自刃について」書かれた『岐阜県治水史』を引用した羽賀氏は、次のように続ける。

「…結局のところ、この工事によって自刃したとされた工事関係者は五十四名、病死者とされたのは三十三名であった。自刃者のうち、高木家家臣内藤十左衛門と幕府御小人目付竹中伝六は幕府関係者であり、また病死者一名は町人の工事請負人だと推測している。この三名を除くと、自刃者五十二名・病死者三十二名で、この数は現在墓石が確定されている数と一致する。」と分析した上で、「(戦後刊行された)『岐阜県史』は治水工事について、重い経済的負担、農民の請負、困難な資材調達などを挙げている。財政上の負担としては四十万両に達していたが、その内八〇%程度が人足賃金であったこと、工事が農民救済としての村請人足であったため、薩摩藩にとっては民政上の責任も負わされたこと、大量に必要であった石材の調達が地元の村の妨害によって困難であったことを指摘した。/工事の犠牲者は八十名を越え、その内五十余名が自刃したことを事実として認め、『一つの治水工事としては全く他に例を見ない異常な事態』が生まれ、『その工事の困難さと複雑な事情』と『治水ということの重要さ』を指摘した。そして『宝暦治水がいかに難事業であったか、またその完遂にはいかに多くの犠牲がはらわれたかをくりかえしおもうことが、犠牲者に対する、後生にいきるもののなによりの弔意となるであろう』と、工事の犠牲者への敬意を表している。」と、『岐阜県史』を紹介した羽賀氏は、しかし、「自明の前提として自刃説があるのだが、史料的な裏づけはない。……薩摩藩士たちの死の原因は病死であったという仮説を提示したいと思う。」(羽賀祥二論文『宝暦治水工事と〈聖地〉の誕生』より)と言っている。


 私は「病死」説を全面的に支持する。「仮説」としてではなく、仮に「自刃」や「投身」の事実があったとしても全てが「病気(病苦)」に起因する、と結論づけたい。「宝暦治水」は薩摩の財政を圧迫したが、幕藩体制あるが故であり、その限りで「明治維新」の原動力になり得たとしても、それ自体に格別な理由を見いだせない。

 年表にあった「宝暦治水」の開始年(月日)が腑に落ちず、その確認から始めた論考の筈が、いつの間にか手に負えないモノとなってしまった。様々な問題を提起する資料としての「草稿」ということで、ご勘弁願いたい……。




Ⅵ)宝暦治水の関連年表(付録)

 年月日など特定できないもの多々あるが、元より追究するつもり更々なく、誤謬と思しきも含めて併記した。

[参照:■-小学館『江戸時代年表』2007.10.10初版1刷、◇-『日本史年表』東京堂出版2007.3.10増補4版1刷、その他。切腹・病死等は参照文に従う]


1)宝暦3年(1753)

 1月27日 出水2合(4尺)まで堰き止め得る洗堰の造成を決定

 2月4日 幕府、勘定奉行・勘定吟味役の職務規程を制定(■)

 3月25日 京都:光雲寺祠堂金貸付所が開設され、以降由緒ある寺院を後ろ盾とした商人の大名貸しが盛んとなる(■)

 3月28日 1月27日決定した「洗堰」全工事完了

 4月 幕府、美濃に役人派遣、治水工事願いを出すよう言い渡す

 5月(〜7月)輪中の村々より工事請願書40余通提出(※1)

      幕府の代官・吉田久左衛門、木曽三川の普請箇所を検分

 8月13日(16日?)濃尾地方大洪水、三川の堤防各所で決壊(※2)

 9月15日 代官・吉田久左衛門ら江戸に帰る

 12月6日 勘定奉行・一色政沆、老中・堀田正亮に治水工事の設計書・絵図面を提出

 12月20日 洪水破損ヶ所検分結果を郡代、勘定奉行に報告

 12月23日(第一期工事の)二之手の普請完成(※8)

 12月25日 幕府、木曽川分流治水工事の手伝い普請を薩摩藩主島津重年に命じる(■),12月木曽川治水工事を薩摩藩に命ずる(◇)(本件の幕命⑴)

 12月26日(28日?)江戸城にて老中・西尾隠岐守、江戸藩邸留守居・山沢小左衛門に仰付書を手交(本件の幕命⑵)

 12月27日 勘定奉行・一色政沆を責任者に任命

       石野三次郎らを御用に、笠松郡代、高木三家に普請用意させる

       薩摩藩岩下左次右衛門が一色政沆の用人高坂専右衛門を訪ね、工事の時期・人員等を尋ねる(本件の幕命⑵)

       薩摩藩・佐久間源太夫が石野三次郎ら目付の屋敷を訪問し挨拶

 12月28日 薩摩藩、老中・堀田相模守に呼び出される(本件の幕命⑶)

 12月29日 薩摩藩江戸家老、書簡を国許へ送付

       幕臣青木次郎九郎・吉田久左衛門・室田金左衛門らに普請御用


2)宝暦4 年(1754)

 1月2日 薩摩藩・岩下佐次右衛門、一色政沆に工事につき質疑

 1月4日 薩摩藩江戸家老、一色政沆との問答を書簡にて国家老へ送付

 1月8日(宝暦3年12月27日?)高木新兵衛が普請御用の下命を知る

 1月9日 本件の幕命⑷(※3)

 1月10日 鹿児島(薩摩藩)に早飛脚到着(※3)

 1月13日 工事詳細到着(※3)

      鹿児島城内評定

 1月16日(2月?※4)薩摩藩、家老・平田靭負を総奉行、大目付・伊集院十蔵を副奉行に任命(その他鹿児島及び江戸藩邸より御用役を任命)

 1月21日 藩主・島津重年より普請請書を幕府に送付

      幕府より普請注意書を受く

      薩摩方普請派遣人数の指令(役職14名以外の730人,830人?)

      江戸藩邸から、藩士出立(留守居山沢小左衛門・普請奉行川上彦九郎ら、徒歩士数十名を従え江戸より美濃へ向う)

 1月25日 幕府、一之手より四之手まで普請掛員を配置任命

      江戸藩邸から、愛甲源左衛門らが美濃へ向け出立

 1月26日 幕府代官・吉田久左衛門、江戸を出発

 1月27日 御手伝普請につき、関係庄屋呼出

      金策の為、薩摩守中馬源兵衛を先発、大坂へ派遣

 1月29日 総奉行・平田靭負ら一行、鹿児島を出立

      幕府小姓組4名(普請目付・石野三次郎ら4人?)江戸出発

 1月30日 副奉行・伊集院十蔵、鹿児島を出立(単独,一行?)

 2月1日(5日?)薩摩藩7分利藩債を募集、献納金を募集

 2月2日 江戸藩邸より用人・諏訪甚兵衛らが、美濃へ向け出立

 2月 幕府、各村役に宿泊食事等に関する心得を指示(2月24日誓約書)

 2月5日(1日?)薩摩、藩債を募る

   同日 江戸出立の山沢小左衛門、大牧村(養老町)到着(山沢以下200人、大牧の元小屋に入る)

 2月6日 薩摩藩江戸家老が、目付・石野三次郎らの発令や江戸出立等を国家老に書簡送る

 2月16日(27日?)平田・先発隊、大坂の藩邸到着。平田は残り(※7)、大坂で金策。砂糖担保に7万両借入(※7)

 2月19日(?※4)諸役任命(鹿児島より8名、江戸駐勤より6名)

 2月20日 平田靭負、22万298両を調達す(※7)

 2月22日 幕府諸役連署血判の誓詞起請文

 2月23日 高木新兵衛、笠松陣屋を出発

 2月24日 伊勢桑名郡五明村庄屋ら、水行奉行高木新兵衛(家臣・内藤十左衛門?)に請書を差出す

 2月27日(5日,7日,29日?)第一期工事開始(鍬入れ式)(※8)

 閏2月2日 藩主夫人村子の方(23才)江戸にて死去(「お村の方」「享年20」?)

       第一期工事着工(?※8)

 閏2月6日 平田靭負一行、伏見出立(※7)

 閏2月9日(3月?※5)平田靭負、美濃入り(養老町栗笠300人)(※7)

       藩主よりの御手伝方心得書を申し渡す(2月?)

 閏2月22日 岩下佐次右衛門、一色政沆に宛てお手伝い方役人平田靱負以下14名の名簿を提出

 閏2月23日 重年、出府途上で工事現場に立ち寄ることを願い出る

 閏2月24日 高須など4輪中58ヶ村が、七郷輪中の掘割及び油島締切を出願

 3月1日 手伝方役人届書(覚)薩摩藩留守居役・山沢小左衛門から届出

 3月 薩摩、藩費の節減令を公布

 3月5日 秋の工事の設計変更について合同合議、五之手の工事中止

 3月8日 薩摩藩が藩内に藩費節約を申し渡す

 3月9日 薩摩藩が藩内に人別・牛馬船舶税増徴を布令する

 3月13日(12日〜13日?)一之手竣工。(※8)

 3月 薩摩方、村請中止・町請を要求

 3月16日 高木三家、青木、吉田ら、七郷輪中等の設計変更を一色政沆勘定奉行に伺う

 3月26日 一色政沆勘定奉行、老中堀田に稟議の上、青木らに七郷輪中、五明輪中以外の設計変更を認める旨の指令を発する

 4月14日 薩摩藩士の永吉惣兵衛、音方貞淵が切腹(最初の自害)(※6)

 4月15日 七郷輪中掘割について、青木・吉田ら5人、普請方、堤方が高木新兵衛宿舎で会議して中止決定

 4月22日(24日?)水行奉行・髙木新兵衛の家来、内藤十左衛門が切腹(幕府方初の死者)

 4月24日 平田、幕府に難場工事箇所の町方請負を申請(村役、町方請負に反対)

 4月25日 三之手工事竣工(※8)

 4月29日 青木郡代ら高須など4輪中58ヶ村に七郷輪中掘割中止を通知する

 4月?(宝暦4年12月23日?)二之手の普請完成?(※8)

 5月2日? 第一期工事終了(※8)

      幕府、外請けを認め(難場12ヶ所?)、薩摩は38か所申請

 5月11日 薩摩藩主・島津重年、参勤で継嗣・重豪を伴い、鹿児島を出立

 5月21日 町人請負で、秋の工事用の石集め開始

 5月22日(2日?)第一期工事終了(※8)

 5月26日 幕府役人ら、江戸へ引き上げる(6月2日?)

      幕府、難場6か所に限り、町方外請負を許可

 6月2日 高木三家、多良へ引き取る

      吉田久左衛門、江戸へ引き揚げ

 6月5日 薩摩、再び32か所(38ヶ所?)の町方請負を幕府に申請

 6月8日 留守居が郡代らに薩摩方員数などを報告

      薩摩藩山沢が青木・吉田に対して、残りの難場についても外請けを申請

 6月11日(10日,11日?)濃尾地方大洪水。薩摩、復旧工事を命じられる

 6月(7月頃,8月?)疫病(赤痢?)発生

 6月17日 高木・青木・吉田ら5人が、石寄せについて協議

 6月29日 高木ら5人連署で、石寄せ状況を一色政沆に報告

 7月1日 町方請負を6ヶ所を条件付で認める(残り32ヶ所は認められない)(※:異説7月23日)

 7月4日 藩主・重年ら、大垣に到着(参勤の途中)。平田靱負等伺候

 7月5日 参勤途中の藩主・重年、重豪を伴い、一之手の工事場を巡視(三之手桑原方面工事場視察?)

 7月7日 黒田唯右衛門割腹

 7月11日(11日,12日?)揖斐川・木曽川洪水。薩摩方復旧工事を命ぜらる

 7月17日 薩摩藩家老伊勢兵部が参勤随行の途中、国家老に美濃の状況を書簡で報告

 7月22日 濃尾地方大洪水。薩摩、復旧工事を命じられる

      平田、国家老に状況を報告、国許へ増員要請(102名?)

      藩主・重年、江戸到着

      石材・木材の蒐集に苦慮す

 7月23日 青木郡代が薩摩藩平田善太夫に対し、外請け32ヶ所の件につき、村方得心の分は外請け可と通達(※:異説7月1日)

 7月27日 一色政沆の命を受け勘定組頭室田金左ヱ門が、薩摩藩邸に岩下と会い、石寄せを督促

 8月2日 青木郡代が、各務郡岩田村役人を笠松に呼出し石搬出を厳命

 8月 赤痢流行(6月,7月?)

    町方請負による難場6か所の普請始まる

    第二期・水行普請の為の石材輸送減少(薩摩方は、幕府から石集めの厳しい督促を受ける)(※9)

 8月8日 平田靱負の増員要請承知を国家老が回答

 8月9日 借入金調達の為使者を京阪へ派遣(不調に終わる?)

 8月10日 美濃:郡上幕領の百姓、制度変更に伴う増税に反対し強訴。三家老の免状を勝ち取る(宝暦郡上一揆)(■)

 8月13日 勘定組頭倉橋武右ヱ門を総場所見廻りに任命

 8月16日 一色政沆が七郷輪中掘割中止・油島締切について老中堀田に報告

 8月18日 高木新兵衛が大垣藩役人に対し、石搬出を書簡をもって督促。幕府側は、薩摩藩平田善太夫に対し、石寄せを書簡をもって督促

 8月19日 高木水行奉行が佐久間源太夫を呼出し、書簡を手渡して石寄せを督促

 8月25日 薩摩方に病人続出(?〜8月25日)。薩摩、秋工事の延期を願う。増員要請承知を国家老が回答。代官吉田久左衛門江戸より笠松へ帰任

 8月 この月、薩摩方は幕府から石集めの厳しい督促をうける

 9月9日 増派の幕吏 総場所見廻倉橋武右衛門以下27名到着 御普請所見廻役並場所掛再編成任命

 9月11日 薩摩藩佐久間源太夫が石寄せ状況を届け出

 9月12日 老中堀田が七郷輪中掘割中止、油島締切の中あきは評議次第と指令

 9月18日 秋の水行普請について、4工区の分担を決定

 9月22日 第二期工事着工(21日,24日?)(※8)

      舛屋伊兵衛没(墓碑:宝暦5年3月29日)(入水,人柱?)

 9月24日 油島堤防の下埋め工事始まる。秋の工事開始(21日,22日?)

 10月5日 薩摩藩家老伊勢兵部が死去。享年43歳

 10月13日 松之木村より40間の下埋め着手

 10月26日 目付新見又四郎・水行奉行高木玄蕃、一色政沆あてに油島の工事進捗状況を報告

 10月30日 青木郡代・倉橋総見廻・吉田代官、一色政沆あてに油島の工事進捗状況を報告

 11月4日 平田、国許へ送金依頼(算用役・石原佐次右衛を大阪及び鹿児島へ金調達に派遣)

 11月7日 石野ら4人の目付連名で、油島締切は中間からも施工して、工事の推進を図りたいと一色政沆に伺う

 11月17日 一色政沆より石野ら4人に、中間よりの施工は認めずと回答

 11月19日 青木・吉田・倉橋連署で油島締切の方法について一色政沆の意見を伺う。同時に、薩摩藩に対し石寄せ方督促を請う

 11月27日 この日、人足不足で普請取り止め

 11月29日 一色政沆、青木ら3人に「油島分流堤は中あきとして施工し、1、2年の水行の様子を見ることにする。なお現場一統の評議で決定せよ。」と返書がある

 12月8日(18,23日?)二之手普請竣成 この頃大榑川洗堰工事開始(※8)

 12月18日(8日,23日?)二之手の工事完成(尾張・海西郡内11か所の普請完成)。この頃(12月23日?)、大榑川洗堰着工(※8)

 12月23日 二之手の内検始まる(~24日)。二之手を竣工(※8)

 12月26日 歳末にて休み


3)宝暦5年(1755)

 1月4日 工事始め

 1月5日(25日〜26日?)木曽川26日まで出水し、被害

     平田靱負が二之手の竣功、清見終了等を国家老に報告

 1月7日 幕府方「大藪川は洗堰で」と決定、一色政沆に申請

 1月9日 老中堀田正亮が一色政沆に「油島は中あき締切」を指令

 1月13日 幕府役人・竹中伝六が切腹(幕府方二人目の死者)

 1月15日(16日?)幕府より二之手出来栄検分役七名、尾州佐屋宿来着(数日検分をなし江戸へ帰る)

 1月16日 見分使・山口民部ら到着

      二之手の出来ばえ検分始まる(~20日)(※8)

 1月25日〜26日 木曽川洪水 八神水害

 1月27日 老中堀田が、「大藪川は洗堰施工」を指令

 1月28日 一色政沆より、「大藪川は洗堰施工」と現地に通達

 2月1日 木曽川再び出水、石田村の請負箇所に被害

 2月2日 幕府、伊勢国桑名城焼失により、藩主松平忠刻に1万両を下賜(■)

 2月5日 山沢小左衛門を江戸藩邸へ出水の為破損状況報告のため派遣

 2月19日 薩摩藩山沢小左ヱ門が江戸より帰着

 3月24日 三之手の内検(~4月10日)/一・三・四之手工事内検分(※8)

 3月27日(28日?)一之手、四之手(油島の締切堤)の工事完成(※8)

 3月28日(27日?)三之手の工事(大藪大榑川洗堰)完成(木曽三川工事終了)。一之手の内検始まる(~29日)(※8)

 3月29日 四之手の内検始まる(~4月6日)(※8)

      舛屋伊兵衛没(墓碑による)(人柱?)

 4月6日 一、 三、四之手工事内検分(※8)

 4月11日 平田靱負、国許へ工事竣功、内検等を書面にて報告

 4月15日 江戸から御目付・牧野織部成賢、御勘定吟味役・細井九助政尚ら到着(4月6日江戸発の幕府検分役11名笠松到着)

 4月16日 一之手の出来ばえ検分始まる(~21日)(※8)

 4月24日 二之手、三之手の出来ばえ検分始まる(~5月10日)(※8)

 4月 幕府、年貢徴収額減少で、諸役所経費を以後3年間減額(■)

 5月13日 四之手の出来ばえ検分始まる(~22日)(※8)

 5月22日(25日?)工事完了(全ての出来ばえ検分終了)(※8)

(5月22日 美濃:薩摩藩の木曽川普請工事終了。翌日、総奉行平田靭負自刃(52)(■)/この年、木曽川の治水工事完成(◇))

(「水行御普請を含む第二期工事は九月二四日に開始し、宝暦5年(1755)5月25日に幕府方の検分が終了(宝暦治水工事終了)しました。」〈『KISSO』より〉/「5月25日(1755.7.4)幕府方の検分終了(宝暦治水終了)」(知野泰明・大熊孝論文)

 5月24日 平田、書面で国許に報告(誤りだろうが「4月24日」説あり)。「5月24日 平田奉行国家老へ報告書を送る 幕吏引揚 御手伝方引取」(『養老町と薩摩義士』より)

 5月25日(23日/24日?)平田靱負「自刃」(52才/満50歳?)

 5月26日 伊集院ら、江戸へ向け大牧を出立(6月6日着)

 5月27日 平田靭負を京都伏見の大黒寺に葬る

 5月末 洗堰が…洪水で決壊して機能を失った

5月 幕府、農民一揆鎮圧令を出す(■)

 6月1日 島津重年、幕府に普請完成を届出

 6月6日 伊集院十蔵、江戸藩邸に着く。江戸家老に就任

 6月13日 幕府、薩摩藩主・島津重年の功を賞す(薩摩守に時服五十を賜う、松平河内守が名代として拝領)

      一色政沆以下幕府役人の功を賞す

 6月16日(26日?)島津重年死去(27才/26歳?)

 6月18日「三川々筋関係領主薩摩守弔問幕府より弔慰」(『養老町と薩摩義士』より)

 7月21日 美濃:郡上藩、幕命の形をとり検見法の執行を通達(■)

 7月26日「幕府方論功候行賞」(『養老町と薩摩義士』より)

 7月27日 島津重豪、藩主となる(『KISSO』より)

 9月5日 幕府、伊集院(翌年11月7日死去)ら薩摩藩士13名を賞す(12名?)

(「9月5日伊集院以下12名に時服・銀子等を与えて論功した」『養老町と薩摩義士』より)

 9月11日「御勘定総目録出来」(『養老町と薩摩義士』より)

 11月26日 美濃国郡上郡の百姓代表者5人、江戸城大手門前で老中酒井忠寄に駕籠訴(■)

 11月 『御手伝普請御勘定帳』(摩藩から幕府勘定書へ差し出す)(『KISSO』より)

 12月 幕府、米不作に伴う米価高騰に対し、大名・御三家・御三卿に1年分の囲米売り払いを命じる(■)

 この年 関東・東北・北陸:大凶作により諸国で大飢饉(■)


〈注(※1)反対意見など多数あり:この場合の「40通」の内訳は不明だが、「他地域の要求に反対するものが多数含まれており、環境改善のため計画された普請が新たな地域間対立を生む可能性を孕んでいたことにも留意する必要があります」(『KISSO』より)▶宝暦3年(1753)6月22日の「三川分流工事等につき願書」説明にあったのが次の一文。「3か月間に提出された普請願書は100通、普請不要とするもの110通、さらには新規普請反対を訴えるものが40通もあり、普請着手により利害対立が先鋭化する可能性を孕んでいた」(『川とともに生きてきた』名古屋大学附属図書館)によれば「40通」を遙かに超える。しかも「反対」が多い。〉

〈注(※2)8月16日説:「宝暦3年(1753)8月16日[新暦9月13日…]には木曽川洪水によって、右岸の広範囲に渡り水害が発生した」(知野泰明・大熊孝論文)〉

〈注(※3)鹿児島にいつ情報が届いたか?:宝暦3年12月29日江戸藩邸から送付された書簡(工事命令など)が鹿児島に届いたのが宝暦4年1月9日か10日、1月4日江戸藩邸から送付された書簡(工事詳細)が鹿児島に届いたのが1月13日と考えられる。宝暦3年12月は「小の月(29日)」なので、最初の書簡が9日間か10日間、次便が9日間で鹿児島に届いたことになろう。「1月9日」(或るネット情報)の根拠は不明だが、早飛脚が要した日数を考え併せると捨てがたい。「1月10日(「早飛脚到着」)」「1月13日(「工事詳細到着」)」は、『養老町と薩摩義士(三川分流薩摩工事日誌)』に依るが、前述した「推定」は見当たらず、文字通りの記述(括弧内)のみ。〉

〈注(※4)平田らの任命2月説:「平田靭負…1754(宝暦4)年2月、藩主の島津重年から工事の総奉行に任命される」(「参考:『もっと知ろうよ維新のまち』鹿児島市・平成23年3月発行」とある『かごしま市観光ナビ』より)▶「宝暦4年2月19日 諸役任命(鹿児島8名、江戸駐勤6名)(『養老町と薩摩義士(年表形式の『三川分流薩摩工事日誌』)』より▶同書本文にある「『御用相勤候役人之覚』(宝暦4年2月18日)総奉行 平田靭負…」(『養老町と薩摩義士』より)では、「薩摩守より届出の工事の重な役人 宝暦四年二月」として平田靭負以下全役職14名が記されている。出処は同じだが、日付が1日違う。「2月(18日)」は幕府への「届け出」の「覚え」であって、「藩主の島津重年から工事の総奉行に任命され」た月ではない。「覚え」なので、「諸役任命」は当日かそれ以前でなければならぬ。▶「2月18日 藩主薩摩守島津重年、総奉行以下14人の役職名を幕府に報告」(宝暦治水工事に関する年表)もあるが、「覚え」と「報告」の関連は不詳。〉

〈注(※5)平田らの美濃入り3月説:「1754(宝暦4)年…3月から、岐阜県美濃に移り、部下や人夫約千人を指揮して、工事を監督した」(『かごしま市観光ナビ』より)など。宝暦4年には閏月(閏2月)がある。例えば「2月の翌月」情報を単純に「3月」と見做した可能性が極めて高い。〉

〈注(※6)最初の犠牲者は50日目か?:「治水工事が始まって50日、早くも犠牲者が出ました。永吉惣兵衛・音方貞淵の差し違いによる自害です」(『海蔵寺』HPより)とある。「工事が始まって50日」や「着工して1ヶ月半経った4月14日」など、多数がこの「期間」ぐらいを採用している。しかし、宝暦4年の「大の月(30日)」は1・2・3・4・7・10・12月、自害が「4月14日」、着工「2月27日」である。4月(14日間)・3月(30日間)・閏2月(29日間)なので、50日前は「閏2月23日」となり矛盾する。(※5)の「閏2月2日第一期工事着工」と照らしても奇妙だが(その場合「71日前」)、実際には「2月27日(鍬入れ式)」より「76日」が経過している。宝暦4年の「閏月」(閏2月)を考慮していないと思われる(抜けば「47日間」だが、完全に誤り)。「約2ヶ月半」が正しい。〉

〈注(※7)借用金と平田大坂入りについて:「(宝暦4)年2月16日に大坂に到着した平田は、その後も大坂に残り工事に対する金策を行い、砂糖を担保に7万両を借入し、同年閏2月9日に美濃に入った。…薩摩藩が最終的に要した費用は約40万両(現在の金額にして300億円以上と推定)で、大坂の商人からは22万298両を借入していた」(ウィキペディア『宝暦治水事件』より)が代表例であるが、この記述によれば、あたかも平田一人が大坂に残って美濃入りしたかのように受け取れる。また「22万298両を借入」も、「最終的に要した費用」として挙がるので、この時期平田の借入は「7万両」のみと受け取れる。他にも同じ情報が多い。しかし、美濃入りまでを「平田一行」とし、或いは、この時期に平田が「(2月20日)22万298両を調達」としたもの(『養老町と薩摩義士』など)がある。1月27日「金策の為、薩摩守中馬源兵衛を先発、大坂へ派遣」も行っているが(平田一行は1月29日出立)、実際に誰が何時いくら調達したかの詳細は不明。閏2月6日「平田奉行一行伏見出発」(『養老町と薩摩義士』より)という「一行」説の方が信じられる。尚、『栗笠専了寺「覚」文書』によれば、閏2月9日は、「薩摩殿伊寿院重蔵・平田靱負両頭」ら「三百人」が栗笠専了寺の当町を「御通り」した日付であった。伊集院は平田一行出立の翌日鹿児島を出たが、「一人」だったのか、「一行」だったのか、直行したのか、いつ美濃入りしたのか全く確認できなかった。伊集院も閏2月9日に見たらいしいので、この頃であろう。僅か1日遅れの出立であり、直行すればかなり早い時期に到着している筈の美濃入りや、平田らの美濃入りさえもが、両者らの(揃って「元固屋」入りの)パレードを見たというだけなので、必ずしも「同日」とは限らない。〉

〈注(※8)工事日などの相違について:参照した各年表などで相違する。[◎:『養老町と薩摩義士』より,○:『養老町と薩摩義士』より,◇:『宝暦治水工事に関する年表』より,□:『KISSO』より,とする]


 「宝暦治水の薩摩藩御手伝普請第一期工事として宝暦4年2月1日から5月15日頃までの約百日間にわたって根古地輪中堤(根古地新田・根古地村・大場村の三ヶ村を取囲んでいる堤)の切所の復旧工事と堤全体にわたる修復補強工事が行われた」(『養老町と薩摩義士』より)という、「2月1日〜5月15日頃」をどのように捉えれば良いのか分からないが、鍬入れ式(御鍬初)も年表では2月29日とある。「2月27日」が圧倒しているが、「二月七日には御鍬始めがなされ、工事は正式に始まった」(『KISSO』より)とする一方、同書で「宝暦四年(一七五四)…工事開始の二月二七日」(『KISSO』より)ともあり悩んでしまう。例外中の例外「閏2月2日」もあった(2月は「大の月」=30日迄なので、2月27日の僅か5日後)。第二期工事開始は「9月24日」が圧倒するが、薩摩の記録に依るとされる「9月22日」も同様に多い。しかし、「宝暦4年2月27日から始めた工事は、同年5月22日に中断し、9月21日に再開した」(山下幸太郎論文より)ともある。第一期工事の終わりも、以下年表同様「第一期工事が宝暦四年(一七五四)二月二七日から五月二日の間に施工されました」(『KISSO』より)など「5月2日」があり、他方、「中止」と「終結」の違いはあるにせよ「5月22日」も根強い。最初は「誤植」と考えたが、どうやら誤植でもなさそうだ。

 「第二期工事…竣工後三度各受持の目付代・奉行等の下検分が行」われ「更に出来栄検分として」(『養老町と薩摩義士』より)ともあるが…相違点はまだまだある。以下の年表を読み込んで比べて頂きたい。

[定式普請:(毎春恒例の)修繕工事, 急破普請:(前年の)水害復旧工事, 水行普請:(新規の抜本的)河川流路を整える工事, 圦樋普請:用排水施設の工事]

第一期工事:定式〈ていしき〉普請・急破〈きゅうは〉普請

第二期工事:水行普請・圦樋〈いりひ〉普請・田畑切上掘り(悪水掘,農道仮橋)など

一之手:水行普請・定式普請(濃州桑原輪中〜尾州神明津輪中)

二之手:水行普請・定式普請・急破普請(尾州梶島〜勢州田代輪中)

三之手:水行普請・定式普請・急破普請・圦樋普請(濃州墨俣輪中〜濃州本阿弥輪中)

四之手:水行普請・圦樋普請・急破普請(勢州金廻輪中〜勢州海落口浜地蔵)


宝暦4年

    2月27日(29日◎年表)御鍬初(普請着手)◎○◇□

    3月12日~13日 一之手工事竣工(第1期工事)◎

    3月12日 一之手の定式普請竣功、四之手の急破普請竣功(~13日)◇

    4月25日 三之手工事竣工(第1期工事)◎

    4月 二之手普請完成□

    5月2日 第1期工事全部竣功◎□/三之手普請竣工□

    5月22日 工事中止◎/春の工事終わる○◇

    9月24日(薩摩記録は22日◎)第2期工事起工◎○◇□

    12月8日 二之手普請竣成、この頃大榑川洗堰工事開始(◎年表)

    12月18日 二之手の工事完成。このころ、大榑川洗堰着工○◇

    12月23日 二之手を竣工(◎本文)

    12月23〜24日 幕府側役人御手伝方役人立会下検分◎

    12月23日 二之手の内検始まる(~24日)○◇

    12月26日 歳末にて休み◎(12月25日御用納め◇)

宝暦5年

    1月4日 工事始め◎◇

    1月16日 二之手の出来ばえ検分始まる(~20日)○◇

    3月24日 一之手・三之手・四之手工事内検分◎

         三之手の内検始まる○

         三之手の内検始まる(~4月10日)◇

    3月27日 一之手工事竣工◎

          一之手・四之手の工事完成○◇

    3月28日 三之手大榑川洗堰竣功、四之手油島締切堤竣功◎

         三之手の工事完成。一之手の内検始まる(~29日)○◇

    3月29日 四之手の内検始まる(~4月6日)○◇

    4月6日 一之手・三之手・四之手工事内検分◎

    4月16日 検分(出来栄検分=上検分)開始◎

         一之手の出来ばえ検分始まる(~21日◎)○◇

    4月21日 一之手の検分完了◎

    4月24日 三之手の出来ばえ検分始まる(~5月10日)○◇

    5月13日 四之手の出来ばえ検分始まる(~22日)◎○◇

    5月20日 二之手・三之手の検分完了(◎年表/4月24日〜5月10日◎本文)

    5月22日 幕府検分完了(5月13日〜四之手の検分完了)◎□〉

〈注(※9)石材輸送の減少について:「幕府側に於ては斯様に少額な輸送量では、第二期水行工事を着手に間に合わないと憂慮し、7月御手伝方に石寄督促の書翰を送るに至った。…次で8月青木郡代が一色周防守よりの論示により御手伝方へ督促。/所が8月以降日々の石材輸送量は増加するどころか却って減少の傾向を来したので、幕吏側では躍起になって同11日更に左の督促状を御手伝方に渡した。…石材輸送量減少の原因は夏期雨天が引続いたのも一因であるが、他に山元村方が石材搬出を拒んだことにも困るのであった。一例として長良川通り各務郡岩田村では『村内自普請所猿尾修繕の為必要である』とて河原石の搬出を肯んぜず、牧田川通り多芸郡大塚・高畑・橋爪の諸村其の外石畑・竜泉寺等も村々相語らって一切石材を出さなかった。また大垣領徳田・志津・羽根・安江・大里・松山・下一色の諸村・高須領駒野・上野・河戸・山崎の諸村は村人足許りで拠出して居たので運搬が進捗しなかった」(『養老町と薩摩義士』より)〉

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