第8話 もしも「幕命」が何年もズレていたら?(「宝暦治水」の場合)(その3)
Ⅲ)「多数の犠牲者」の真実とは?
「犠牲者」を論ずる前に、先ず工事関係者の「総人数」を把握しておかなければならない。
1)工事の従事者は何人だったのか?
ⅰ.〈「947人(約千人)」「約2千人」説について〉
総勢「947名」と断定する者が圧倒的多数を占めている(「約千名」「千名余」とする例も少なからずある。意味合いが異なるけれど、僅差なので、取り敢えずこの範疇に含める。尚、「薩摩義士約350名の壮絶な闘いぶり(或るネット情報⑴より)」も見受けられた。その「誤差」は大きく別格だが、これも「約千人(以内)」に含める)。死者数や予算額など多くがマチマチある中で、この「947名」だけは例外中の例外、あたかも「精確」であるかのような印象を与えている。しかし問題は「総勢」の内訳なのである。それが「薩摩藩士」の総数なのか、「工事従事者」の総数なのかが非常に曖昧で、多くは混同されている。
仮に「(宝暦4年)1月29日に総奉行・平田靱負、1月30日に副奉行・伊集院十蔵がそれぞれ藩士を率いて薩摩を出発した。工事に従事した薩摩藩士は追加派遣された人数も含め総勢947名であった」(ウィキペディア『宝暦治水事件』)ということは(二班の内訳は不明)、「薩摩藩士」に限定された「総勢947名」ではあるが、最初(宝暦4年1月下旬)の鹿児島出立時の人数ではない。尚且つ仮に、「(総奉行・平田靭負は)部下や人夫約千人を指揮して、工事を監督した」(『かごしま市観光ナビ』より)となれば、工事従事者は、部下(平田1名を除く946名)を含む2千人ほど居たと見ることもできるが、この文脈では「部下」の人数に言及されておらず、その「約千人」がどこに掛かるかによって違う解釈も成り立つ(実際に、平田が指揮した工事従事者の総数が「約千人」という解説が流布されている)。
薩摩藩士は無論「人夫」ではない。しかし、他の天下普請などで人夫のごとく派遣されている「足軽」は、(最下級)武士だが、通常「士(族)」と見做されない(明治維新後の「歩士(かち)」や「足軽」は士族と区別された「卒(族)」である。彼らは、雇われた「百姓(人夫)」ではないが、この場合、「藩士」と見做すのは適当でない)。或いは、国許の「百姓(人夫)」を伴って現地入りした「普請」例もある(「宝暦治水」の場合は違う=「百姓」を伴わなかった)。他方、「薩摩藩は家老平田靭負を総奉行として藩士下人など約1,000名を派遣して工事にあたらせた」[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2015]という解説があり、「部下や人夫約千人を指揮」とは一線を画す。「藩士」の他に、(多数の)「下人」(足軽など)も派遣されたとするのが最も妥当で重要な観点であろう。いずれにせよ、「工事従事者」の全貌が見えてこない。
更に、「現地に赴くために薩摩と江戸藩邸の二手から派遣している」(山下幸太郎論文)という、「注目すべき」指摘があり、それを裏づける論考も多い。鹿児島の「国元で重年が、助役受託の請書にサインした当日、江戸藩邸からは美濃に向けて第一陣が出発した」(中西達治『宝暦治水と平田靭負(補遺)』)とすれば、その江戸藩邸出立の日は「1月21日(薩摩、普請請書を幕府に送付)」となる筈である。つまり、幕命は既に拝命(受諾)され、江戸藩邸では実務的な準備が進められていたことになる。故に、鹿児島城内での「幕府と一戦を交える」かのような議論は、捏造か誇張であった可能性が示唆される(その種の議論を証する「記録」があれば再考に値するが、「伝承」の域を出ていないように思われる)。
以上を念頭に置いて、以下で詳論しよう。
ⅱ.〈宝暦4年8月25日の薩摩方総数は「440人」だった?〉
幕府方は、「江戸表から吉田久左衛門他37名、笠松郡代及び多良水行奉行所から29名加わって監督や指示をした」(『宝暦治水と薩摩義士』前海津町長・伊藤光好)に従えば、幕府方の総数は「66名」ということになる。勘定奉行(一色政沆)は全ての最高責任者だが、江戸在府のままであり、現地入りしていない。現地の最高責任者として、御普請見廻(吉田久左衛門)や4工区を美濃郡代(笠松郡代)・青木次郎九郎や、西高木家・高木新兵衛など(多良水行奉行)8名が各2名体制で分担したが、幕府方の総人数(上記の「66名」説)については、これ以上詮索しないこととする。
薩摩方のトップ監督者は、『御用相勤候役人之覚』(宝暦4年2月18日)などによれば、総奉行・平田靭負や副奉行・伊集院十蔵など「14名」がおり、氏名・役職が判明している。これ自体は揺るぎない(但し「元小屋…平田靱負以下幹部藩士が駐在…総奉行家老・平田靱負正輔、副奉行大目付・伊集院十蔵久東、用人・諏訪甚兵衛兼方、以下藩士15名」(『養老町と薩摩義士』より)という記述も見られる。一名多いが、「以下藩士」が不詳で検証できない)。
次に、薩摩方の総数を、飛び交うネット上から拾ってみる。
先ず、「薩摩藩が現地に派遣した家臣は合計947人」(岐阜県輪之内町HPより)や「平田靭負をはじめ947名の薩摩義士達が成し遂げた偉業」(『岐阜県西美濃観光ガイド』より)など、実数が挙がる場合は例外なく「947」とあるが故に、当初はそれが正しいと考えていた。
ところで、「宝暦4年(1754)1月…947名の藩士を美濃に派遣」(或るネット情報⑴)では事情が違うが、「(薩摩藩士は)追加派遣された人数も含め総勢947名」(ウィキペディア『宝暦治水事件』)とすれば、1月に薩摩を出立した総数は「947名未満」でなければならない。さらに、江戸・薩摩藩邸より「数十人」(宝暦4年1月21日出立)ないし「200人」(2月5日現地入り)が出立していたと言われている。つまり「947名(未満)」の内実は、「747名〜約900名」かも知れない(「1月…947名…派遣」説は、傍証により、明らかな「誤謬」と判明)。
薩摩藩士だけで工事一切を行ったかの記述も一部見られる。実際には、「薩摩藩からの工事参加者947人と現地雇いを合わせて2,000人」(『羽島市歴史民俗資料館・羽島市映画資料館』HPより)や「薩摩藩士947人、総勢2,000人」(『KISSO』より)などの「2,000人」説があり、さらには「薩摩藩947人、雇い人約2,000人」(『宝暦治水にみる薩摩藩の存続価値と交通事故補償について』和田實論文より)のような総勢「3,000人」説もある。その差「千人」はとても大きいが(※1)、それはともかく、「薩摩藩士」の他に、1千人〜2千人の現地「雇い人」が従事したというのが「真相」である。
この当然すぎる「真相」が暈かされ、時には「隠され」、なかなか見えてこない。それは、薩摩方の全てを「藩士」とする誤った見方や、「義士」と見做そうとする一方的な価値観や、そこに「事件性」を刷り込んだ後世の「思惑」があったからであろう。……そのように仮定すると、見えてくる歴史の「真相(深層)」がある。
続いて、「内訳」が明記された論考を突き合わせ考えてみたい。
薩摩方の役人を除き、「当初、派遣人数は、『小奉行30人、歩行士〈かちさむらい〉100人、足軽200人』の予定であった」らしい(この総数+役人14名は、奇しくも前掲「薩摩義士約350名(の壮絶な闘い)」に近い)。
しかし後日、「幕府はこれに対し、」小奉行は30人で良いが、「『…歩行士300人、足軽500人程差し出され』」よ「と申し渡している」(黒田安雄『KISSO』より)となり、幕府の派遣要請は「増員」された。当初の要請について、次の山下氏も同様な指摘をされている。「普請に当たって幕府から提示された人数としては、…『小奉行30人、歩行士100人、足軽200人』であった」(山下幸太郎論文)と。山下氏は、「この時点では(330人が工事に必要な人数)」と述べている。つまり、その後更に要請された増員を含め、(薩摩方役人14名を除く)総勢「約830名」の派遣が、薩摩藩に「要請されていた」ことになるが、あくまでも「要請」であった。実際の派遣数と見做すのは早計であり、必ずしも一致するとは限らない。
この「要請人数」にも異論がある。「宝暦4年1月21日(派遣人数小奉行30人、)歩行200人(、足軽500人程の指令あり)」(『養老町と薩摩義士』より)によれば、「指令」された歩行士は、300人でなく「200人」であるという。或いは、先述の山下氏は、必要総人数「330人」から更に「実数」に言及し、「(宝暦4年)6月8日に留守居の山澤小左衛門は『小奉行32人、歩行士164人、足軽231人』を普請場所に差出したとして青木次郎九郎、吉田久左衛門に報告していることから、427人を薩摩藩が負担したと言えよう」と続けている。
薩摩方トップ(14名)を除く派遣要請(幕府の思惑)は「約730人」或いは「約830人」であったらしいが、実際の派遣「427人」が記録に残る。「申し渡し」や「指令」が所詮は幕府の「要望」に過ぎないと考えれば、幕府方責任者に報告された「427人」、つまり監督14名を含む「441人」こそが、薩摩方の総数と考えるべきではなかろうか? この場合の重要なポイントは、「(宝暦4年)6月8日」という「時点」である。
無論「(推定)441人」は、後日さらに増員されることになる訳だが、この時点では、「要請人数(「約730人」或いは「約830人」)」を含むいずれも先の「(薩摩藩士の総数と思わせる)947人」とかけ離れていた。
ところで黒田氏も先の山下氏と同様な指摘をされているが、「典拠」(「月日」や「事情」)が異なる所為なのか、人数が1名合わない。「(宝暦4年)8月25日付幕府工事役人宛薩摩藩佐久間源太夫の届書(『蒼海記』)によると、工事に従事していた小奉行32人…歩行士164人…足軽230人…合計426人」(黒田安雄(『KISSO』より)とある。この「届書」は『蒼海記』(水行奉行・高木家の記録)文中にあり、「罹患数」にも言及されている為よく引用されるが、先の山下氏が依拠した「山澤(山沢)報告」と比べてみよう。
山沢小左衛門(6月8日の「報告」者)と佐久間源太夫(8月25日付「届書」届け人)は、二名いる「留守居」の一人であり、薩摩方トップ14名に入る。しかし、「足軽数」が一致しない為(山沢報告:231人→佐久間届出:230人)、前述の「427人」が「426人」かも知れない悩ましい資料である(但し、山下氏の場合は「(この二つの資料を併記して)藩士の数が一致している」としている為、「誤植」の可能性などもあり得る)。つまり、トップ14名を入れた薩摩方の総数は、「441人」か「440人」となる訳であるが、この相違を一々注記(併記)するのは煩雑なので、以降は、(宝暦4年8月25日時点の、「雇い人」を除く)薩摩方の工事従事者「426人」、トップ14名を含む薩摩方総数を「440人」に統一して話を進めたい。
ⅲ.〈薩摩方の総数は「約600人」と「約1,000人」に絞られたが……〉
宝暦4年8月25日の「届書」以前、既に増派の要請がなされていた。それが7月22日と考えられる。「工事期間中に平田靭負は…国元に…『歩行士48人不足、足軽44人不足』として」派遣を求めたが、他の不足は「歩行士…30人は江戸から」、「足軽…40人が江戸から派遣される予定」(山下幸太郎論文より)だったという。同氏は「何が要因となって166人もの不足が生じることになったのか」と問いかけている。しかし、計算上の「不足」人数は「162人」であり、どういう訳か4人足りなかった。以降、「166人もの不足」が検証不能なので、これを計算上の「162人(不足)」と仮定する。
現代の寺々の埋葬記録を見ると、諸説あるが、宝暦4年(山沢「報告」の)6月8日〜(佐久間「届書」の)7月22日までの薩摩方死者は「8人」とされた例(6月17日,26日,27日,7月7日,8日,12日,13日,21日の各1名)をとろう(因みに、最初の「自害者」が出たとされる4月14日〜7月21日の薩摩方死者12人、うち6月8日以前は4人)。「病死者」が増え続け、相当数が働けない状態にあったのだろう。それを裏づけるのが先の「届書(8月25日付)」である。「小奉行32人の内7人、歩行士164人の内60人、足軽230人の内90人」が病気にかかっていて(426人の内157人罹患)、「数十人の病死者が出ている」(黒田安雄『KISSO』より, 山下幸太郎論文より)という。この病死「数十人」の大半が、7月22日以降であった可能性は極めて高い。多数の「罹患者」と「病死者」が出たことが、薩摩方の自発的な増派要請の明瞭な理由である。
この頃、薩摩方トップ14名は健在なので、監督下の薩摩方従事者「426人」がどのように推移したのか、以下、推定してみた。
426人(〜6月6日/事後埋葬死者4人=実働422人以下)→実働264人/426人(7月22日162人不足,うち仮定罹患150人/事後埋葬死者+8人・計12人)→実働233人(死者16人以上=36人)/269人以下(〜8月25日157人罹患/426人,死者数十人=事後埋葬死者+24人・計36人)となる。尚、「70人(歩行士30人,足軽40人)」は既に江戸から到着していた可能性もあるが不明、平田が増員要請した鹿児島からの「92人(歩行士48人,足軽44人)」は未着と考えられる(8月25日、国家老が、鹿児島からの増員要請「承諾」と回答)。
以上「426人」にトップ14名を足すと「440人」となる(内訳は、平田靭負以下14人の役人,小奉行32人,歩行士164人,足軽230人)。これに「平田靭負の要請162人(歩行士78人,足軽84人)」を加えると、「602人」である。つまり、440人が正規の派遣人数であり、追加派遣(欠けた人員の補充)を合わせた総派遣数が「602人」。仮に、疲労せず罹患せず死者を出さずに済むならば、「440人」で足りたということである。
但し、「宝暦4年7月22日 総奉行より鹿児島へ中間報告書を送り人数102名増派を請う」(『養老町と薩摩義士』より)という記述もある。前述の山下幸太郎論文では江戸を除く鹿児島への増派要請は92人だった。この「差10人」を入れると派遣総数「612人」となる。
「小奉行32人,歩行士164人,足軽230人」(総数426人)は、薩摩方の当初思惑「小奉行30人,歩行士100人,足軽200人」(予定330人)より多いが、「(殆ど変動しない)小奉行」を除き、幕府方の要請「小奉行30人,歩行士300人(200人?),足軽500人」(総数730人or 830人)より遙かに少ない。しかし、平田靭負の増派要請分を足すと「小奉行32人,歩行士242人,足軽314人」(総数588人)となり、足軽だけ極端に少ないという結果となるだろう。
後年の記述を見てみよう。1900年(明治33年)4月22日に建立された『宝暦治水碑』(油島千本松)には「藩士600人」と刻まれている。また、1924年(大正13年)3月29日建立の『薩摩義士の碑文』(愛知県犬山市)にも、「藩士凡そ600人」とある。
ところで、
「(宝暦4年)1月21日 山沢小左衛門盛福・普請奉行川上彦九郎親英等、徒歩士数十名を従え江戸より美濃へ向う」(『養老町と薩摩義士』より)
「(宝暦4年)2月5日 江戸より山沢小左衛門以下200人大牧の元小屋に入る」(『養老町と薩摩義士』より)
「(宝暦4年)閠二月九日薩摩殿伊寿院重蔵・平田靱負…今朝より当町三百人…御通り」(栗笠専了寺「覚」文書『養老町と薩摩義士』より)
「(宝暦4年)閠二月九日薩摩殿伊寿院重蔵・平田靱負両頭七千石、八千石其外諸役今朝より当町三百人斗人馬賑敷上馬三疋・弓・鉄砲・武具諸道具大分御通り元固屋大牧村鬼頭兵内百両にて明ヶ渡し。大藪村固屋御座候由係之地頭御領所其ゝ御普請中ハ川通之分格別ニ死去火葬等勿論土葬モ停止并女櫛・笄・難成堅く無用ト先テ触有之候…元小屋は大牧の鬼頭兵内宅、大藪村にも固屋が置かれている。関係する地域の者共は御普請中は諸事慎み格別川通にては死去の火葬・土葬等取止めること、また婦人の櫛・かんざしなどもめだって着用しない様・先せんだってお触れがあった。と附記されている」栗笠専了寺「覚」文書より(『養老町と薩摩義士』より)
とあったが、これらをどのように解釈すれば良いのだろうか?
宝暦4年1月21日、江戸より薩摩方役員6名(山沢小左衛門・川上彦九郎など)の全てが出立したと仮定しても、やはり「数十名」だろう。しかし、2月5日に大牧(美濃)に到着したのは「200人」とある。平田靱負の美濃入りは通常「閏2月9日」と見られているが、「平田靱負等」や「平田奉行一行」「平田靱負等の一行」ともある。或いは、「(宝暦4年)2月16日に大坂に到着した平田は、その後も大坂に残り工事に対する金策を行い、砂糖を担保に7万両を借入し、同年閏2月9日に美濃に入った」(ウィキペディア『宝暦治水事件』)のような、あたかも単身美濃入りしたかの如き記述もある。鹿児島出立組は、平田一行1月29日、伊集院一行1月30日であるが、平田先発隊は2月16日、大坂の藩邸に立ち寄っているので、伊集院後発隊の方が美濃到着は早いだろう(日付は不明)。閏2月6日に平田一行は伏見出発、閏2月9日現地入りという次第である。故に、この日、伊集院・平田両名らが揃って行進した可能性は確かにあるが、この「300人」の中に江戸先発隊も居たのかどうか?
先の論考で、追加派遣を含まない正規(最初の派遣総数)440人と書いた。江戸から「200人」とすれば、残りは「240人」である。前述の「300人」は、飽くまでも「専了寺」の『覚え』なので、240人が「300人ぐらい」に見えたとしても不思議ではない。
薩摩方藩士は、平田ら14人+830人(幕府の最大要請)+162人(薩摩方の追加派遣)=1,006人と仮定しよう。無論、これが実際の「派遣総数」かどうかは定かでないが、これまで検証した限りに於いて、少なくとも根拠薄弱な「947人」よりも信憑性があると思われる(その全貌は伺い知れず、これ以上の追究は諦めた)。
実際に「千人余」を支持する者も散見する。その一つが、「工事の進捗のため薩摩や江戸から現地に派遣された藩士の員数は1,000人を越えたとみられる」(丸山幸太郎『KISSO』より)ならば、人夫を含めた総勢が「3,000人以上(or 2,000人以上)」にも達するに違いない。けれども、例えば「1622(元和8)年江戸城本丸石垣の御手伝普請…肥後熊本52万石の加藤忠広は約5,000人の人夫を半年間動員した。このうち1,200人が藩抱えの足軽で、3,400人が国元の百姓、400人が水夫であった」(山川『詳説日本史研究』)と比べると総数は少ない。
それはともかく、「(1900年4月22日三川分流工事…竣工式典)宝暦治水碑は山県有朋首相の篆額、枢密院書記官長小牧昌業の撰文になる…内容は、(ア)…、(イ)宝暦年間に薩摩藩が藩士600人・30万両を費やして治水工事を実施したこと…の五点に要約できる」(『宝暦治水工事と〈聖地〉の誕生』名古屋大学大学院文学研究科・羽賀祥二より)となれば、先述した「588人」或いは「602人」や「612人」は、145年後でも認識していた(碑文に刻まれた)「概数」に極めて近い。
そうして、また元に戻るのだ。
「宝暦3年(西暦1753年)12月25日、西国の雄藩薩摩藩にお手伝い方を命じた…年が明けて1月21日江戸より、次いで29日には薩摩より総勢947名を出発させた」(『宝暦治水由緒書』より)
これも公式の碑文。宝暦4年2月以降の追加派遣は含まれていないようにも受け取れるが、「947名」の根拠はここに辿り着く。
〈注(※1)「宝暦治水の際…平均すると人足1人につき銀3匁(※¹)で雇っていた」(山下幸太郎論文)に従えば、銀3匁×1,000人=銀3,000匁(3貫)=金0.75両。工期を最低の「実質約半年」で見積もっても、135両(1,922万4,000円)の余計な出費が嵩む。一般に言われる「1年3か月(閏月含む16か月)」なら、現代では「約5,126万円」にもなる(※²)。〉
〈注(※¹)賃銀「3匁」の異論「銀1匁7分(※³)」:「美濃の農民は1年3ヶ月に亘った工事中は…人足賃一人銀壱匁七分・これは銭113文である」(『養老町と薩摩義士』より)〉
〈注(※²)現代「円」への換算について:金1両の円換算は、一般的には最低5万円(1文=12.5円)、多くが8万円(1文=20円)〜10万円(1文=25円)とされるが、その「根拠」が示されることは稀である。しかも、物価が劇的に変化してきた「現代」にあって、その「基準」だけ全く変動していないのは可笑しい。
元禄13年(1700)公定「金1両=銀60匁=銭4貫文」で、「銀3匁」は銭約200文。東京の銭湯料金(大人470円)と明和年間(1764〜1772)の湯銭(大人6文)を基準にすれば、「銀3匁」は「約1万5,670円」(2020年)、銭湯120円(1976年都公定)なら4,000円になるが、どちらも「現代」とは言いがたい。そもそも銭湯料金は地方格差が大きく(佐賀280円〜三重400円・鹿児島420円・愛知440円・岐阜460円〜東京470円)、上昇の一途を辿るが地方により時代によりその率も違う(東京:16円/1957年→10年で2倍・4年で2倍強・6年で2倍強など)。従って、「最低賃金(2020年)」に着目してみた。鹿児島(790円)・愛知(926円)・岐阜(851円)・三重(873円)・東京(1,013円)の5都県平均は約890円、8時間で7,120円。これを「日給(銀3匁)」と見做す。「湯銭6文=213.6円」であり、銭湯料金としての近似値は「220円」。これは1981年の都公定料金であるが、翌82年・230円より2倍の460円(2014年)まで32年かかった。1981年度東京の最低賃金は422円、現在の5都県平均の約半分。「220円」では銭湯に入れないが、多少上乗せすれば入れる県もあり、その「値上げ」も利用者激減に因るところであり、「最低賃金」は飽くまでも「最低」に過ぎないので、これを以て「現代」としたい。
本稿では、1文=35.6円(金1両=14万2,400円)とする。〉
〈注(※³)「銀1匁7分」について:「銀1匁7分」は約「銭113.3文」になる(同書では「銭113文」)。つまり、1文=35.6円とすれば日給「4,033.5円」相当だ。これは日給としては低すぎる。或いは、「銀1匁7分」を日給と見做した場合(銭湯470円,湯銭6文として計算)、「約8,875円」になり(1文=約78.33円)、金1両は「31万3.320円」。▶日銀では「江戸時代における貨幣の価値がいくらに当たるかという問題は、大変難しい問題です。世の中の仕組みや人々の暮らしが現在とは全く異なり、現在と同じ名称の商品やサービスが江戸時代に存在していたとしても、その内容に違いがみられるからです。/ただし、1つの目安として、いくつかの事例をもとに当時のモノの値段を現在と比べてみると、18世紀においては、米価で換算すると約6万円、大工の賃金で換算すると約35万円となります。なお、江戸時代の各時期においても差がみられ、米価から計算した金1両の価値は、江戸初期で約10万円前後、中~後期で4~6万円、幕末で約4千円~1万円ほど」という説明をしている。江戸時代、「お米」の価格は変動がとても激しいので私はあまりお勧めしない。それはともかく、金1両が「30万円」ぐらいとしても、あながち間違いとは思えない。宝暦治水の時の賃銀が一律でなかったとすれば(※⁴)、「(平均)銀3匁」と「銀1匁7分」の幅は大きいけれど、十分あり得る差額と思われる。私の力量では特定できないが、だからこそ尚更、現代の金額に直すなど意味をもたない。ただ、その「差異」があることだけは念頭に置きたい。〉
〈注(※⁴)宝暦治水の賃銀は地域によって異なる:先に一応の目安として「(平均)銀3匁」や「銀1匁7分」を挙げたが、各参照文書にはそれを裏づける別の記述がある。「(宝暦4年)2月村民の人足手間賃を定める58ヶ村庄屋連署の願書及び請書が存する。それに依ると一人銀3匁5分、居村配賦人銀2匁5分を願い出で居付人は銀1匁7分、他村は銀2匁として請けている」(『養老町と薩摩義士』より)ともあり、「58ヶ村」に限れば「銀1匁7分」となるに違いなく、「村々救助の趣旨に依り、幕府にて吟味の上、決定されたもので御手伝方薩摩にとっては頗る痛手であった。村民にとっては一律男女老若同額であって、経済的にも大きな恩恵を受けた」と見做している(『養老町と薩摩義士』より)。方や、「宝暦治水においても普請に際し村ごとに賃銀を定めていた。宝暦治水の際には普請場所や普請内容により差が生じていたが、平均すると人足1人につき銀3匁で雇っていた」(『山下幸太郎論文』より)という。「村ごと」と「58ヶ村,他村」という地域区分は違うし、「場所や内容により差」と「一律」では全く異なる。尚且つ「銀1匁7分」及び「銀2匁」を平均するとしても、どう足掻いても到底「銀3匁」になり得ない。各出典の見直しや比較検討の必要を痛切するが、それ以上に、人夫1,000人と2,000人の相違を何とかしなければどうしようもなく、お手上げ状態。▶比較の為、時代など異なるが他の賃銀例を挙げる。「大工の…基本的な労働時間は4刻(約8時間)ほどで…安政2年(1855)当時の公定賃銀では、手間賃が銀3匁、飯料が1匁2分の計4匁2分であったが…大火後などには10匁を超え…公定賃銀は必ずしも守られてはいなかった」「日雇いともいう…日傭座の規定があり、寛政4年(1792)の鳶の場合、日傭賃は銭170〜216文で、ここから口銭など14〜16文が…支払われ、残りが手取りとなった」(『江戸博覧強記』小学館)▶18世紀頃の江戸らしいが、「当時高給取りだった大工や左官の賃銀が1日だいたい銀3匁、やや格下の下大工は銀2匁、日傭稼ぎの賃銭は銀9分ほど」(『お江戸の経済事情』東京堂出版)ならば、一般の日雇いは日給「銭60文」ぐらいか。「銀1匁7分(銭113文)」は日雇いの倍近いが格下大工より劣り、「銀3匁」ならば、大工並の高級取りということになるだろう。〉
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