第7話 もしも「幕命」が何年もズレていたら?(「宝暦治水」の場合)(その2)
Ⅱ)実際の「幕命」はいつなのか?(工事の始まりと終わり)
ⅰ.【幕命はいつ下ったのか?】
「宝暦治水」より少し前、「幕府は1747年(延享4年)に二本松藩主・丹羽高庸(※¹)に対し、井沢の案(※1)を規模縮小した形(※2)で御手伝普請(※3)として治水工事を命じたが、これが完成してもなお抜本的解決にはなり得なかった」(ウィキペディア『宝暦治水事件』)らしい。この井沢案の「見方」や宝暦治水との関連に於ける「評価」は分かれるが、とにかくこれが木曽三川に関した「御手伝普請」の始まりとされる。
以後数年を経て(※4)、幕府はその抜本的解決へ動き出し、「木曽・長良川と揖斐川が合流する油島に締切堤を設けたり、長良川と揖斐川を結ぶ大榑(おおぐれ)川に洗堰(あらいぜき)を設ける(※5)などの三川分流工事(※6)をさせた」(『山川日本史小辞典』)。その幕命が薩摩に下った時が、大別すると次の四説(「八説」以上?)に分かれていた。
⑴宝暦3年(1753)12月25日(鹿児島県HP、その他)(※7)
⑵宝暦3年(1753)12月27日(or 26日)(※8)
⑶宝暦3年(1753)12月28日(『ウィキペディア』など)(※9)
⑷宝暦4 年(1754)1月(1月説,1月9日,10日,13日)(※10)
幕命が下った日(命令書の日付)は、「宝暦3年(1753)12月25日」である。「12月28日」説も『ウィキペディア』などで支持され、かなり多く流布されているが、「幕命」の意味が違う。「(翌年)1月」説は、その命令が国許(鹿児島)に伝わった月(日)であろう。
諸説まとめると、次のようになる。——宝暦3年(1753)12月25日、幕府は簡潔な「命令書」を出す(命令)。12月25日〜28日、薩摩の江戸藩邸に「命令書」が届き(通達)、留守居役は老中に呼び出され、説明を受けた(藩邸の拝命)。早飛脚で国許の鹿児島に「幕命」が届いたのは1月(9日,10日,13日)だった(※²)。鹿児島(鶴丸)城内で論議の末、島津重年は承諾(藩主の拝命)、その証書たる「請書」を送付した。この時期に江戸で受けた「説明」や国許への「報告」が、複数回あった可能性も否定できない。——
〈注(※¹)「高庸」を「(高)康」とする例もあるが、「康」は間違いと思われる。〉
〈注(※²)「大坂から江戸まで3、4日で届く『速達便』」(『江戸300年の舞台裏』青春出版社),「江戸から京都・大坂の飛脚便は、通常4日から10日かかった」(『江戸時代年表』小学館)とすれば、「1,200kmも離れた薩摩藩」(『養老町の歴史文化資源』より)に届くのは、最短1週間ぐらいか? 例えば、12月29日「早飛脚を出」し、翌年1月10日「早飛脚到着」(『養老町と薩摩義士』養老町教育委員会=以下『養老町と薩摩義士』とする=より)とある。宝暦3年12月は「小の月(29日)」なので、この場合、早飛脚は大晦日に出立、10日間要したことになる。〉
命令は、伝わらなければ話にならない。内容は、具体的でなければ工事は出来ない。無論、承諾されなければ意味がない。その命令に至る幾多の過程があり、実際の工事は「見試し」として行われ、その方法はコロコロ変わった。治水対象の地域住民に必ずしも喜ばれた訳でなく、その評価は揺れている。しかし、最初の命令はただ一つ、宝暦3年(1753)12月25日以外あり得ない。
ⅱ.【工事はいつから始まり、いつ終わったか?】
その工事が、いつから始まり何を以て終わりとするのか、判断の「基準」がマチマチで、確定は難しい。しかし一応、「鍬入れ式」(宝暦4 年2月27日)を以て「始まり」としたい。だがその「終わり」には2説ある(ともに宝暦5年)。工事の「竣工」とする説と、全ての「検分」が終わることを以て「完了」とする説である。いずれにせよ、工事期間は「1年余」とするのが妥当と思われる。命令から検分終了までの最長「約1年半」も、「事件」の全容を捉える意味に於いて間違いではなかろう(しかし、「2年」或いは「3年」とするような、それら「足かけ」説には無理がある)。
「宝暦治水」は、急破普請(早急な修繕)を旨とする「一期」と三川分流工事(抜本的治水)を含む「二期」とに分かれ、工区は一之手から四之手まであった(当初予定された五之手は断念された)。計画では、工事は宝暦4年正月から3月、雪解けによる増水を避けて中断し、9月から11月まで行われる筈であったが、「村請」重視による遅滞や度々の洪水による破損、予期せぬ疫病の流行や見試し工法に頼る工事計画の変更などで、工期が大幅に延びてしまったのである。
要した期間は1年余だが、工事には「中空き(中断)」があるので、実際の工期は「約10ヶ月」である(更に短い「実質約半年」と見る向きもある。その見方は「費用」などにも関係する為、重要な意味を持つが、ここでは「約10ヶ月」としたい)。
ところで「終わり」の2説だが、やはり異説がある。竣工は宝暦5年「3月27日」と「28日」説があり、検分終了も、同年「5月22日」と「5月25日」に分かれていた(始まりの「鍬入れ式」でさえ違う日付が散見するが、とりあえず無視しよう)。
以上諸々の「相違」については、以下の注釈で一部展開するとともに、あまりにも煩雑な為、改めて解き明かしたい。
〈注(※1)井沢(の案)について:木曽三川分流の最初の立案者が
〈注(※2)「規模縮小した形」について:私見であるが、「規模縮小した形」が次のようなものであれば、あまりにもお粗末であり、確かに「抜本的解決」にはほど遠い。——「延享の御手伝普請は杭出(※¹)を行うことで三川の流れを調整しようというものであった。…着工してから終えるまでの期間が短く、規模も大きくない」(山下幸太郎論文)▶「(井沢が)立案した…あまりに大規模な案であり、財政難の幕府の許可が下りなかったとされる」(ウィキペディア『宝暦治水事件』)が、それを「規模縮小した形」で行ったのが「(延享4年の)御手伝普請」との見解がある。▶それが、宝暦治水へ至る過渡期であることは間違いないが、評価は分かれる。「この御手伝は規模が小さくて効果が少なかった、とよく書かれる。しかし、それは妥当な評価ではない」(丸山幸太郎『KISSO』より)もその一つ。同氏は続ける。——「普請の目的を『御普請仕様帳』でうかがうと…井沢郡代の三川分流工事計画の一部を実行に移したと言うべきもので…2万両以上の支出を要したとみられる。二本松藩は所領高10万石(『岐阜県治水史』記載の6万石は間違い)(※²)であり…総支出の30%を越えるもの」と指摘されている。さらに、「治水の効果が少ないというが、薩摩藩の宝暦御手伝も…抜本的な治水にはほど遠く、水害の常習地帯から脱出できなかった。ただし、それゆえに、延享4年(1747)御手伝の治水効果はなかった、と特に言うのは適切ではない。むしろ宝暦治水の先行的普請として、木曽三川治水史に位置づけなければならない普請であった」という見解である。〉
〈注(※¹)杭出(杭出し):「堤防または河岸を保護するために、多くの杭を数列に打ったもの」(広辞苑)▶「杭出し水制は、伝統的河川工法の一つであり、木杭、または鉄筋コンクリート杭を縦横間隔1~2mに2列以上打ち込んだもので、代表的な透過水制です。構造が簡単であり、流れの速さを遅くし、土砂の堆積効果も備えており、緩流部の水制として適しており、古くから用いられています」(『最上川電子大事典』)〉
〈注(※²)二本松藩の石高:「[二本松藩]江戸時代、陸奥国二本松地方 (福島県)を領有した藩。寛永4(1627)年松下重綱が5万石で入封、同5年に加藤明利3万石、寛永20(43)年丹羽(にわ)光重が10万石で入封、明治1(1868)年に5万石に減封」 [ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2015]ということから、「延享4年」時点では確かに「10万石」であろう。〉
〈注(※3)御手伝普請(おてつだいぶしん)について:「御手伝普請は公儀普請、国役普請、自普請(※¹)と共に『治水四法』(※²)と呼ばれ、江戸幕府の政策として位置づけられていた」(山下幸太郎論文)▶「宝暦治水は設計、計画は幕府によって行われる御手伝普請であり、幕府側の総責任者は勘定奉行・一色政沆、監督者として水行奉行(※³)・高木新兵衛が命じられている。高木は自家の家臣のみでは手に余ると判断し、急遽治水に長けた内藤十左衛門(※³)を雇っている」(ウィキペディア『宝暦治水事件』)▶「普請は村請により実施されるもので(実際の普請では一部が町人請負)、 普請に『不案内』とされた薩摩藩に要請されたのは、現地での人員管理・費用弁済ほかに従事する必要最小限の役人派遣であった(※⁴)」(『木曽三川流域治水史をめぐる諸問題』名古屋大学附属図書館研究開発室・秋山晶則=以下、「秋山晶則論文」とする)▶尚、「尾張藩の国役普請は、寛永14年(1637)から免除されます。尾張藩は大藩ですから、領内の木曽川の管理は可能であろうということで免除を受けたようです。そのほか美濃の大垣藩、高須藩も国役を免除されます。大垣藩は、島原の乱に3,000人余りの兵を送って、軍役負担が重かったので、免除されたのではないかといわれています」(岐阜大学非常勤講師 林順子『KISSO』=以下、「林順子『KISSO』」とする)ともあった。〉
〈注(※¹)
〈注(※²)治水四法について(補足):「1公儀普請:幕府自体が直轄として行う工事。 2御手伝普請:諸大名に命じて行わせた大規模な土木工事。幕府が計画、大名が人手、金、資材を負担した。3国役普請:幕府主導の下に農民から一定の基準で人足などを動員して行われた大規模な工事。主に幕府領・私領の入り組んだ地域を流れる河川で実施された。4自普請:庶民の相互扶助や自治としての工事」(『宝暦治水にみる薩摩藩の存続価値と交通事故補償について』(和田實)より。〉
〈注(※³)水行奉行と内藤十左衛門について:「水奉行と呼ばれるものは水行奉行、水方奉行、上水奉行、下水奉行などがある」(『国史大辞典』吉川弘文館)▶「[水行奉行 多良高木三家]近世における高木家は、旗本(交代寄合)として、多良・時(現大垣市)の所領を支配すると同時に、所領と離れた木曽三川流域の水行奉行の役割を担っていました。西・北・東の高木三家で年番制をしき、毎年家臣に巡見させて河道の維持に努めました。/高木家はこの地域の住民にとって、一つの公の機関としての意味をもっていました。ある輪中から普請の願いが出されると、現地を視察し周辺の輪中との調整をはかり、許可するかどうかの判断や竣工時の検分を行いました。/宝暦の御手伝い普請でも、その普請奉行として、一之手を高木新兵衛(西高木家)・二之手を内藤十左衛門(高木新兵衛家来)(※⁷)・三之手を高木内膳(東高木家)・四之手を高木玄蕃(北高木家)がその任務につき、普請の成功のために懸命の努力をしました」(海津市HPより)▶「宝暦治水工事の監督にあたったのは、高木家と笠松郡代青木次郎九郎(※⁷)であった。/内藤十左衛門は、多良陣屋高木新兵衛の家臣で、尾張梶原村から伊勢田代輪中にいたる二之手工区の桑名郡の五明村詰所に派遣されていた」(岐阜県HP『宝暦治水工事義歿者墓』より)▶「高木三家は、岐阜県上石津町多良にあって、寛永年間(1624〜43)から国役普請奉行を勤めていましたが、宝永2年(1705)には水行奉行を命じられました。/平常時における郡代と水行奉行の職務分担は、郡代が堤防などの施設を築造維持する普請掛であることに対して、水行奉行は河川を監視し、洪水が円滑に流下できるよう河道を維持する役目でした」(『KISSO』より)▶「木曽川の治水を統括していたのは美濃郡代ですが、実際に現場に出掛けたのは、水行奉行の旗本寄合、高木三家と、美濃郡代配下の堤方役人たちでした。どちらも土着性の強い人々です。…木曽川は基本的には尾張藩の支配下にあるわけですから、水行奉行の高木家は、尾張藩と折衝することも多かったでしょう」(林順子『KISSO』より)〉
〈注(※⁴)「必要最小限の役人」について:「約千人」とも言われる「薩摩藩士」は多すぎる。また、次の「人手」は広範な「人足」をも意味するので、微妙だろう(人足の手配・管理(手当金の負担)なら分かる。「武士が刀を捨てて鍬を持ち」——工事一切を薩摩藩士だけで行ったかのような誤解が生まれ易いので要注意)。▶「宝暦3年(西暦1753年)江戸幕府はこの美濃から1,200kmも離れた薩摩藩に、幕府の設計に基づいて、人手・お金・材料を負担して工事を実施するよう命令を出しました(※⁵)」(『養老町の歴史文化資源』より)〉
〈注(※⁵)幕命の思惑と薩摩の「拝命」について:「旧高須藩主であった尾張藩主徳川宗勝(むねかつ)が今は実子が藩主を務める高須藩領や尾張藩領、幕府領を水害から守り、さらに雄藩であった薩摩藩の経済力を弱めるねらいがあったと考えられています。/薩摩藩ではこの命令に対し、おもだった家臣の全てが集められての会議が行われましたが、意見はまとまらず、むしろ『命令を突き返し、一戦を交えてでも断るべき』という意見が大勢を占めました。/そうした中、薩摩藩家老平田靱負(ゆきえ)公の意見は『縁もゆかりもなく、遠い美濃の人々を水害の苦しみから救済する義務はないかもしれないが、美濃も薩摩も同じ日本である。幕府の無理難題と思えば腹が立つが、同胞の難儀を救うのは人間の本分であり、耐え難きを耐えて、この難工事を成し遂げるなら、御家安泰の基になるばかりでなく、薩摩武士の名誉を高めて、その名を末永く後世に残すことができるのではないか』というものでした。(※⁶)/これによって、薩摩藩は幕府の命令に従うことを決め、翌宝暦4年(西暦1754年)2月に工事は開始されます」(『養老町の歴史文化資源』より)〉
〈注(※⁶)平田の拝命議論について:「人間の本分(※⁵)」と、「武士の本分(本注の文末)」は違う。——江戸時代初期には、江戸市街地の造成や江戸城・駿府城・名古屋城・大坂城などの増修新築、名古屋市街地の造成や禁裏修造などに多くの外様大名が頻繁に動員された。例えば、慶長11年(1606)3月1日、江戸城増築工事が開始され、その「諸大名に課した石材は、高10万石につき百人持の石1,125個という巨額なもの…この過重な軍役を、かの島津氏までが『夜を日につぎ肝を煎』りつつ、なお万一の不首尾を恐れて果たした」『日本歴史 近世2』藩体制の成立・山口啓二/岩波書店)らしいが、「幕府を相手に戦う」かのような議論は聞いたことがない。「1610年の名古屋築城に当たって各大名に課した軍役は、本高を個々に加減しているが、加賀藩のばあい、本高103万石の三割増として134万石の軍役を課され」『日本歴史 近世2』)たというから、負担を重くされた加賀藩は堪ったものではない。不満はあるだろうし、実務的な対策議論も当然やらねばならぬが、やはり幕府との対決姿勢は見えてこない。寛永1年(1624〉11月13日、島津家久は妻子を江戸藩邸に移した。参勤や人質は初期からあるが(例えば慶長13年(1608)9月高松藩主が妻子を在府させた功で軍役高が翌年半減されている)、これが「大名妻子の江戸常住の始まり」と言われる。貞享4年(1687)12月参勤交代などを批判(『大学或問』)した熊沢蕃山は古河に幽閉され病没したが、「御手伝普請」を拒否して戦うかのような議論が薩摩でなされ、知られたら、「幽閉」では済まないだろう。薩摩73万石として(※⁸)、もしもその3割増(95万石)と見做されたら負担は重く、議論の余地はあるかも知れない(※⁸)。尤も薩摩では後年、文化5年(1808)に「近思録崩れ」という事件が起きている。隠居の島津重豪に粛正された側が、例えば「参勤交代の15年間免除」を幕府に請願しようとしていた(15万両借入願いなど)。或いは、宝暦15年(1764)5月、幕府は秋田藩に「阿仁銅山」召し上げを通告したが、拒否され、幕府は訴えを認めて取り下げた。そういう事例はある——。▶「靭負は『命令を断るということは、幕府を相手に戦うことになる。そうなると犠牲が出て、数多くの命を失うことになる。また、他の藩のことであっても、苦しんでいる人を助けることこそ武士の本分である。そして、そのことが薩摩藩を救い、水害に悩み苦しむ木曽川の村人を救うことにもなるでしょう』と言って人々の考えを一つにした」(『かごしま市観光ナビ』より)〉
〈注(※⁷)笠松郡代と二之手(責任者)について:勘定奉行配下の郡代は広大な幕領を管轄し、当時は関東郡代(後に勘定奉行が兼務など)・美濃郡代・飛騨郡代・西国郡代があった。青木次郎九郎安清は当時の美濃郡代。笠松は、美濃郡代の陣屋の地であり、美濃・尾張の国境(木曽川)に位置したため、美濃郡代は「笠松郡代」とも呼ばれていた。美濃の3割が幕府直轄領だったといわれる。美濃郡代は、幕府方の工事総監督者として陣頭指揮した(上役の勘定奉行・
〈注(※⁸)薩摩藩の石高について:一般的には73万石(72万8,700石余)と言われている。「72万石」とみる者も多い。その変遷は、「表高は1617年(元和3)60万5,000石余、1634年(寛永11)琉球高12万3,000石余を加えて72万8,000石余となる」(『日本歴史大事典』小学館)も代表的な指摘。「薩摩60万石+琉球12万石=薩摩藩72万石」は大凡であり、より精確な「薩摩60万5,000石余+琉球12万3,000石余=72万8,000石余」を以て「薩摩73万石」となる。しかし、「77万石」とするものも多い。『日本史年表・地図』(吉川弘文館)によれば、少なくとも慶応3年(1867)には「77万石」と表記されている。「俗に言う『薩摩77万石』とは享保内検から琉球分9万4千石余を引いた値である」(ウィキペディア『薩摩藩』)ともある。その享保内検時は「86万7千石余」(同上)であったという(「琉球」分を引いた単純計算:薩摩77万3千石)。尚付け加えると、石高は「籾」による「高」だから実質石高は約「半分」と指摘している者も多いが、この場合全く意味をなさない。問題は「食べられる米」ではない。「施米(お粥)」で何人の人が救えたかなどが問題ならばともかく、軍役=お手伝い普請の「基準」となる「石高(籾入り)」なのだ。わざわざ「実質」を問題沙汰すれば混乱をもたらすだけ。けれども、「琉球の石高12万石は表高に加えることを許されたが、その分は無役(軍役の対象とならない)とされている」(同上)となれば話は違う。軍役の基準が薩摩「61万石」ということになるからである。〉
〈注(※4)宝暦治水以前の「嘆願」について:「農民からの多くの嘆願…美濃郡代や高木三家への嘆願に留まらず、江戸表まで出かけて、幕府に直接御普請を嘆願する者も続出して」(『KISSO』より)いた。〉
〈注(※5)油島と洗堰の難工事:「工事区間は、延長112km(※¹)と広範囲な地域に及び、一之手、二之手、三之手、四之手の工区に分けて実施されました。中でも難工事となったのが、三之手の大榑川洗堰(おおぐれがわあらいぜき)及び四之手の油島(あぶらしま)の締切工事でした」(『養老町の歴史文化資源』より)〉
〈注(※¹)「延長112㎞」について:工事区間については、「50〜60㎞」や「75㎞」説もある。〉
〈注(※6)三川分流工事について:「宝暦3年(1753)に木曽三川下流部の治水事業を薩摩藩に御手伝い普請として命じました。宝暦4年(1754)から始まった「宝暦治水」は、木曽三川を分流する計画として始められました。木曽三川分流は、その後の『明治改修』において完全分流がなされ、洪水被害に対する安全度は高くなり、現在に至っています。しかし、木曽三川下流部は、わが国最大のゼロメートル地帯であり、洪水や高潮さらには津波等の災害の危険性の高い地域であります」(国土交通省)〉
〈注(※7)「12月25日」について:以下の『命令書(日付)』が一番確かであろう。「12月25日に…命令書が手渡された」かどうかは怪しいが、以下では「当日」呼び出された、という。▶「宝暦3年…12月25日、薩摩藩の江戸詰め家老、山沢小左衛門は、突然、藩府から呼び出しを受け…江戸城へ出向き…老中…西尾忠尚に会い」(或るネット情報)や「宝暦3年12月25日老中西尾隠岐守から江戸在府の薩摩藩留守居を喚び出し木曾、揖斐、長良三大川改修工事の手伝方を為すべき旨の台命を伝えたから留守居役は大に驚いて直ちに其の次第を当時在国の藩主重年の許へ急報した」(『治水工事に殉じたる薩摩義士の事跡 (1〜8・完)』神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 河川(1-011)新愛知 1912.11.14-1912.11.22 (大正1))。▶「たまたま宝暦3年(1753)8月に数十年来の大洪水が発生し、そのまま放置できない状況となり、幕府はその年12月25日に、幕府より薩摩藩江戸藩邸留守居役に呼び出しがかかり、以下の簡単な命令書が手渡された。
[濃州、勢州、尾州川々御普請御手伝被仰付候間 可被存其趣候 尤此節不及参府候
恐々謹言
十二月二十五日
西尾隠岐守忠尚 判
松平左近将監武元 判
本多伯耆守正珍 判(※¹)
酒井佐衛門慰忠寿 判(※¹)
堀田相模守正亮 判
松平薩摩守 殿]この命令書は直ちに早飛脚により鹿児島に送られた」(『羽島市歴史民俗資料館・羽島市映画資料館』HPより)▶この「命令書」には、「不及参府」とある。一般的には、工事請負中は「参勤交代を免除」と解釈されている。しかし、藩主・島津重年は翌年、工事開始から約一月後に現場を視察しているが、これを「参勤途中の立ち寄り(を願い出た結果)」と見る向きも多い。「(不及)参府」をどう解釈すれば良いかだが(私は「免除」支持=途上でなく「視察目的」派だが)、重年は、この「視察」を経て江戸に赴き「参府」してるらしい(※²)。▶尚、次のような驚愕の「言説」も見かけたので追記したい。工事開始を「宝暦3年(1753)」、現地入りも「(宝暦3年)12月」としている。——「宝暦3年(1753年)に開始されたこの宝暦の治水工事…(平田靭負が)国元と江戸から、合わせて947名の人員を引き連れて現地に入ったのは、宝暦3年(1753年)12月の事でした」(或るネット情報⑴)〉
〈注(※¹)老中について:当時の老中は5名いた。大老は置かれなかったので、「老中」が幕府の事実上のトップ集団である。『養老町と薩摩義士』によれば、「本多伯耆守正珍」は本多伯耆守正「診」、「酒井佐衛門慰忠寿」は酒井「左」衛門尉忠「寿」となっている。しかし、▶『日本史年表』(東京堂出版)では、「本多伯耆守正珍」、「酒井左衛門慰忠寄」とある。他の3名は同じ。〉
〈注(※²)「薩摩藩の参勤交代」とこの時期の「参府」について:『江戸博覧強記』(小学館)によれば、薩摩藩は「一年交代」であり、「表(おもて)」(子・寅・辰・午・申・戌の年に参府)、参府・御暇ともに「3月」と決められていた。宝暦4年は「甲戌」の年。つまり本来の参勤交代であるならば、宝暦4年(戌の年)3月には江戸に居なければならない。重年は、「私儀今度参勤之節…御普請御手伝場通路近辺之所立寄致見分度候此段奉伺候」と願い出て、それが認められている(宝暦4年閏2月23日)。大名が勝手に移動することは許されなかったのでこの「願い」は当然であろうが、島津重年らの「見分」は宝暦4年「7月」(7月4日大垣到着)であった。その後江戸に着いたのが「7月22日」らしいので、明らかに通常の「参勤交代」ではないと考えられる(「見分」目的の「参府」であり、その途上の「立ち寄り」)。〉
〈注(※8)「12月27日」について:「宝暦3年(1753)12月27日、濃州・勢州・尾州川々御普請御手伝を命じられた薩摩藩は、翌28日、老中堀田相模守に呼び出され、『普請は町人請負等にせず、設計通り村々百姓に命じて施工するように』と通達された後、勘定奉行一色周防守邸に出頭し、幕府見積りの工事総額を尋ねた」(丸山幸太郎『KISSO』より)▶「12・26 老中西尾隠岐守より江戸城に於て薩摩藩江戸邸畄守居山沢小左衛門に仰付書を手交さる」(『養老町と薩摩義士』)では、12月26日。呼び出しも「老中西尾隠岐守」となっている。いずれが「正しい」のか、或いは両事実ともあったのか、未検証。〉
〈注(※9)「12月28日」について:(12月)25日説に続く「28日」説の代表例は、「1753年(宝暦3年)12月28日、9代将軍・徳川家重は薩摩藩主・島津重年に手伝普請という形で正式に川普請工事を命じた」(ウィキペディア『宝暦治水事件』)であろうし、以下の如く、かなり流布されている。▶「1754年1月21日(宝暦3年12月28日)、9代将軍・徳川家重は薩摩藩主・島津重年に手伝普請という形で正式に川普請工事を命じた」(或るネット情報⑵)▶この場合、「正式に」が重要なポイントだが、それが抜け落ちた情報も出回っている。〉
〈注(※10)「(宝暦4年)1月」について:工事命令を「宝暦4年(1754)」とする説も散見する。——「宝暦4年に幕府は薩摩藩に御手伝普請として河川改修工事(宝暦治水)を命じた」(『Ke!san』カシオより)▶以下は、「通達を受け」たのが「正月」とする。——「宝暦3年(1753)…これまでとは比較にならない程の大規模な計画でした。/翌宝暦4年正月、薩摩の島津家は、幕府からこの大工事を島津家で行うように、という通達を受けました」(或るネット情報⑶)▶以下の2説は微妙ではあるが、「宝暦4年に命じた」という解釈も成り立つ。こういう蓋然性を避けなければ、まるで伝言ゲーム(※¹)のように思わぬ方向へ進み、間違った「断定」に変わる可能性が十分ある。——「宝暦4(1754)年(※²)、江戸幕府9代将軍家重は薩摩藩主島津重年に木曾三山川(※²)(木曽川・長良川・揖斐川)の治水工事を命じ、油島の締め切り工事などを行わせた」(『岐阜県西美濃観光ガイド(『千本松原』(※²))』より)/「宝暦4年(1754年)江戸幕府は、薩摩藩に木曽三川の分流を目的とする治水工事(いわゆる宝歴(※³)治水)を命じ、油島の締め切り工事などが行われました」(『独立行政法人水資源機構』より)▶ 1月の「月日」明記もあった。——「宝暦4年(1754年)1月9日 幕府、薩摩に木曽治水工事の『お手伝い』を命じる」(或るネット情報⑷)▶「宝暦3年12月25日」は、西暦「1754年1月18日」である。歴史に於いて、「和暦」と「西暦」が混在し、混同されていることも多い。仮にこれが「西暦」なら、「命じ」たのは「宝暦3年12月16日」ということになる(「宝暦4年1月1日=1754年1月23日」であり、宝暦3年12月は「小の月(29日)」。因みに、「大の月(30日)」は1・2・4・7・10・11月)。しかし、和暦の可能性が高い。とすれば、その真偽は別として、「1月」或いは「1月9日」説は、国許に第一報が届いた月日と見て間違いないだろう。▶「幕命下る」という文言はないが、鹿児島に通達が届いたのが、「1月10日」「1月13日」という説もある。「1月9日」も含めて都合3件の異説。〉
〈注(※¹)「伝言ゲーム」の一例:『治水神社』は昭和2年の着工から約10年もかけて作られたそうだが(1938年/昭和13年建立)、「宝暦治水」への言及で、「『宝暦治水』と呼ばれる1754年から約10年に及ぶ工事」(或るネット情報⑸)という解説に変化していた。〉
〈注(※²)「宝暦4(1754)年…命じ」「木曾三山川」について:「(三)山(川)」はあり得ない(恐らく誤植)。但し、同ガイドの『治水神社』では、その命令を「宝暦3年(1753年)12月25日江戸幕府は薩摩藩(現、鹿児島)に木曽三川(岐阜県)治水工事を命じた」としている。〉
〈注(※³)「宝歴」について:原文のママ引用(恐らく誤植)。〉
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