第6話 もしも「幕命」が何年もズレていたら?(「宝暦治水」の場合)(その1)

もしもその「幕命」が、何年もズレていたら?(「宝暦治水」の場合)


Ⅰ)「宝暦治水(事件)」はいつから始まったのか?

Ⅰ.【「宝暦治水(事件)」(※¹)の概要(年表の相違)】

「[宝暦治水事件] 江戸中期、幕命で木曽三川(※²)の治水工事を行った鹿児

島藩で多数の犠牲者を出し、総奉行が引責自刃した事件。……」(『山川 日本史小辞典』)

⑴「宝暦1年(1751)12月 薩摩藩に木曽川改修工事を命ず(宝暦治水, 55年完成)」(『日本史総合図録 増補版』山川出版社2002.10.20発行)

⑵「宝暦3年(1753)12月 木曽川治水工事を薩摩藩に命ずる.」「宝暦5年(1755)この年,….木曽川の治水工事完成.」(『日本史年表 増補4版』東京堂出版2007.3.10発行)

〈注(※¹)「宝暦」は、「ほうれき」「ほうりゃく」どちらでも良い。通常は「宝暦治水事件」と言われるが、その「事件性」も検証したいので括弧を付した。「宝暦治水」は、「(宝暦の)三川分流治水」ともいう〉

〈注(※²)木曽三川さんせんは、当該地域の東側から西側へ、木曽きそ川、長良ながら川、揖斐いび川と並ぶ、三つの川を指す〉


ⅱ.【「問題」と見做した経緯(「宝暦1年」は間違いだった!)】

 木曽三川は、薩摩(鹿児島)から遠く離れた徳川御三家の筆頭、尾張の膝元(美濃・尾張・伊勢の国境くにざかい辺り)で合流し、伊勢湾に注ぐ(※1)。「輪中わじゅう」(※2)と呼ばれる地域などで洪水が頻繁に起こり、抜本的な「対策」が切実に望まれていた(※3)。それにも拘わらず、長らく放置されてきたのである(※3)。その時突如、この薩摩藩に「治水工事」が命じられた。そのことが、単なる「普請ふしん」(※4)の一つとして捉えられなかった。後の明治維新へ繋がる重大な「何か」に思われた。


 私はかつて、前掲⑴⑵は年代こそ違うが同じ「12月」、他の年表も含め唯一異なる「山川」の単純ミスだろうと考え、問い合わせてみたことがある。しかしどういう手違いがあったのか、未だ回答を得ていない。

 例えが古くて申し訳ないが——「養老律令」は、養老2年(718)に制定された。大宝律令(大宝1年/701)と「ほとんど同文(広辞苑)」とされる一方、「大いに修正が加えられた(山川日本史小辞典)」など、評価は分かれる。しかし、修正作業はその後も継続していた、或いはこれを「編纂を開始(広辞苑)」の年代と見るなど、「制定」説が異なる。養老律令の公布・施行は天平勝宝9年(757)である。「718年(養老2年)完成と当時の公式史料は伝える(が疑問があり、…)」(百科事典マイペディア)を信じれば(何しろ「公式史料」だ)、その施行まで、40年もの歳月が流れたことになる(「大宝律令」は制定の翌年施行された)。

 そういうケースが歴史にはママある。他の全てが下命を「宝暦3年(1753)」とするも、だから単なる「間違い」と断定できず、「宝暦1年(1751)」の可能性を捨てきれなかった。

——解明すべきは次の5つ

①「幕命」はいつ下されたのか? ②工事の始まりと終わり ③規模・工事費は? ④「多数の犠牲」とは何か?(事件性) ⑤その影響(重大性)

[注意:引用文は、比較を容易にする為、漢数字の多くは算用数字に置き換え、括弧・中点・読点(,)などや余白も適宜変えた。改行は「/」で表した]


 ここまで書いたところで、先日ネット注文した⑴の「最新版」が昨日(2.25)届いた(購入は三冊目。今の年表も、その為にわざわざ買って「宝暦治水」に変更なしと確認している)。「最新版」と言っても、2007年版である。オークションで少し新しい「増補版」(15刷2012.1.31発行)も見受けたが、入手できず、山川出版社HPで「日本史総合図録」を検索した。しかし1冊も出てこない。それに近いのが『山川詳説日本史図録』。こちらは常時更新らしいが、既に持っている(2008年発行)。しかし「宝暦治水」がなく参考にならない。『詳説日本史研究』(2006年発行)も所持するが、読んだ限り「宝暦治水」の文字すら見当たらない。『山川日本史小辞典新版』(2005年発行)には、「ほうりゃくちすいじけん【宝暦治水事件】…幕府は1753年(宝暦3)鹿児島藩に御手伝普請を命じ」とある。「小辞典」なので簡潔だが、「月日」はない。

 今一度、ボロボロになった⑴の年表を、一行丸ごと引っ張り出そう。


「1751 宝暦1│6 徳川吉宗死去(68歳) 12 薩摩藩に木曽川改修工事を命ず(宝暦治水, 55年完成)」

(『山川日本史総合図録(増補版)』発行─1994年4月10日第1版11刷/発行─2002年10月20日増補版9刷)

 〈次が、今回購入した「最新版」〉

 1751 宝暦1│ 6 徳川吉宗死去(68歳)

 1752   2│12 ……

 1753   3│ 4 ……

      │12 薩摩藩に木曽川改修工事を命ず(宝暦治水, 55年完成)

(『山川日本史総合図録(増補版)』発行─1994年4月10日第1版11刷/発行─2007年1月20日増補版13刷)

——「増補版」という「版」は同じだが、発行が4年以上新しい。「9刷」から4回刷り増しの「13刷」となった。「版」が変わらなければ内容も変わらないのが「普通」だが、こういう「微細(?)」な修正を「刷り」で直す(誤魔化す)のも「常識」……を改めて痛感させられた。(但し、巻末の「年表」は、2002年10月20日増補版は「2001年」まで記事があるが、2007年1月20日増補版では「2002年」までしかなく、「新しい」年表の意義が薄れる)


 以上で、この問題は解決した。——という訳にはならなかった。「宝暦3年(1753)12月」、薩摩藩に木曽三川「治水工事」の幕命が下る。それが動かしがたい「史実」と思われたが、深入りすればするほど怪しくなった。いや、それも精確な言い方ではない。

 次回で、わだかまる疑念を払拭したい。



〈注(※1)木曽三川:「それぞれ大小あわせて383支流が合わさって西濃平野より、丁度漏斗のように寄り添うごとく南下して伊勢湾にそそいでいる」(『海蔵寺』HPより)〉

〈注(※2)輪中(わじゅう):集落と農地を洪水から守るため、周囲に堤防を築き巡らした地域。またはその共同体。(※3)の❶❸❹を参照〉

〈注(※3)洪水と治水(放置):木曽三川は東側が高く西側が低いらしい。尾張藩は、木曽川の左岸(東の尾張側)に堤防を築いた(「御囲堤」(※³)という)。西に位置する美濃・伊勢側の水田は常に被害を受けるようになるため(以下❶❷❸の「洪水」回数は辻褄が合わないようだが、参考まで)、しばしば、木曽三川の本格的な治水工事を行うよう陳情していた。しかし幕府は許さなかった。

〈注(※³)御囲堤(おかこいづつみ):「江戸時代始めの慶長13年(1608)、徳川家康の命令によって、犬山から弥富(※⁴)までの間に木曽川左岸に大きな堤防が築かれました。これを御囲堤といいます。」(国土交通省中部地方整備局・木曽川上流河川事務所)

〈注(※⁴)弥富(やとみ):木曽川下流東岸(河口左岸)の水郷地帯。輪中地域に属する海部(あま)郡の旧町〉

❶「江戸時代の福束輪中(※⁵)は、いつも洪水で悩まされていました。水害歴は、元和二年(1616)の大榑川(※⁵)開削以降明治29年までの280年間に40数回に及び、数年に一度の水禍に遭遇しています」(『かんこう輪之内』より)

〈注(※⁵)福束輪中(ふくづかわじゅう):揖斐(いび)川・長良川に囲まれた所(輪中)。福束輪中にある輪之内町は、大藪町と副束・仁木の2村が合体した町。大榑(おおぐれ)川は、輪之内町と海津市の境界にあり、長良川と揖斐川を結ぶ〉

❷「(坂口達夫著)『宝暦治水・薩摩義士』によれば、元禄14年(1701)の大洪水以降、宝暦治水工事が行われた宝暦4年(1754)までの53年間に41回もの水害が発生していたそうです」(或るネット情報)

❸「尾張藩が犬山より弥富まで48キロメートルにわたって木曽川左岸堤防を高く強固に築き、不文律ながら、他の堤防はそれより三尺低かるべしとなってしまいました。/この「お囲堤」ができてより慶長14年から宝暦3年までの144年間に(※⁶)、何と112回もの洪水により、大被害が相次ぎ周囲を輪のように堤防で囲った『輪中』という独特の生活様式を営んでいた住民は、田畑・家屋・生命まで、計り知れない被害を被ってきました。」(『海蔵寺』HPより)

〈注(※⁶)宝暦3年(1753)-慶長14年(1609)=144年間〉

❹「養老町を含む木曽三川流域の輪中地帯は、水害の大きな原因となっていた木曽三川合流という問題を解決することを悲願としてきました。……養老町を含む木曽三川流域の輪中(わじゅう)地帯の歴史は、水害の歴史であり、水害がおきるたびに田畑はもちろん、家も流され、家族の誰かが溺れて亡くなっていきました。人々はこうした度重なる水害に対応するため、村を輪中堤で囲むなど個別に対策をとる一方、水害の大きな原因となっていた木曽三川合流を解決することを悲願としてきました。/木曽三川は当時伊勢湾の上流14kmのところで合流していましたが、三川それぞれの川底の高さは同じではなく、木曽川・長良川・揖斐川の順に低くなっていたため、水が増えるとみな揖斐川の方へ流れてきてしまったのです。」(『養老町の歴史文化資源』より)

❺「美濃側には慶安3年(1650)にいたり、『篭堤』と呼ばれた堤防が岡田将監(美濃代官)の手により築かれたが、この堤防は『尾張より低きこと3尺たるべし。』とか『増水による堤防被害などが発生した際は、尾張藩の復旧工事が終了しなければ、美濃側は復旧工事に着手することまかりならぬ。』といった、不文律ではあったが理不尽な制約を受けてきた。」(『羽島市歴史民俗資料館・羽島市映画資料館』HPより)

〈注(※4)普請(ふしん)について(幕藩体制):「幕府は大坂の役直後の1615(元和元)年に、大名の居城を一つに限る一国一城令を出した。…さらに武家諸法度を制定して大名を統制した。/…大名の数は江戸時代…中期以後は約260〜270ぐらいであり…親藩・譜代・外様にわけられる。親藩は…徳川氏一門の大名、譜代は…関ヶ原の戦い以前には37家にすぎなかった。その後…幕末には145家まで増やした。譜代は大老・老中・若年寄など将軍直属の重責に任じられたが、石高は5万石内外と少なかった(井伊家の35万石は例外)。外様は関ヶ原の戦い以後、徳川氏に臣従した者で、加賀の前田(102万石)・薩摩の島津(73万石)・陸奥の伊達(56万石)のように領地は広く、有力な者が多かった。これらの危険性がある外様は、東北・四国・九州などの辺境の地に配置され、/…家光時代に外様29名、一門・譜代19名を改易して力による大名統制を進めた(※⁷)。/…大名・旗本は領知石高(御恩)に応じて一定数の兵馬を常備し、将軍の命令で出陣する義務(奉公)を負っていた。1616(元和2)年に出された軍役規定は1633(寛永10)年家光によって改定された。そこでは1000石の旗本は槍2本…総勢23人の出陣を、一万石の大名は馬上で出陣する武士10騎、鉄砲20丁…などと規定された。平時には江戸城などの修築や河川の工事(普請)などを負担した。1622(元和8)年江戸城本丸石垣の御手伝普請(おてつだいぶしん)に、改易以前の肥後熊本52万石の加藤忠広は約5000人の人夫を半年間動員した。このうち1200人が藩抱えの足軽で、3400人が国元の百姓、400人が水夫であった。このように大名に課された軍役は、百姓などに転嫁され農村を疲弊させることにつながった。/家光は1635(寛永12)年、武家諸法度を発布し、…参勤交代を義務づけ、妻子の江戸居住を強制した。」(『詳説日本史研究』山川出版社2006年12.20第11刷)

〈注(※⁷)改易(家光まで):「世継ぎがなくて断絶した大名家を含めると、家康から3代家光の時代まで120家以上が改易された」(『早わかり日本史』河合敦/日本実業出版社)

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