第5話 もしも「事件」が真逆なら?(加賀「一向一揆(1531年)」の場合)

もしも「事件」が真逆なら?(加賀「一向一揆(1531年)」の場合)


Ⅰ【問題の提起】

【(加賀)一向一揆(享禄4年)の「年表」比較】

⑴「(享禄4年)1531 一向一揆、越前朝倉教景を破る」

 (『日本史年表・地図』吉川弘文館 2004.4.1第10版第1刷/初版1995.4.1)

⑵「享禄4年(1531)10月 越前守護朝倉教景、一向一揆を破る」

 (『日本史総合図録』山川出版社 2002.10.20 増補版9刷/初版1994.4.10)


 この二つの年表を幾度読み返しても、まるで正反対の「史実」としてある。しかも「吉川」では太字の「重要事項」扱いなので、検証してみる価値はある。「山川」は朝倉教景を「守護」(※1)としている。他方は「越前」のみで「守護」がない。「彼」が果たして何者なのか、知ってみたいと切に思う。

 比較の為、もう二つ挙げよう。

⑶「享禄4年(1531)10月 加賀の一向一揆蜂起。朝倉教景、これを湊川(※3)に破る[宗滴、加闘] (※2)」(『日本史年表』東京堂出版 編者 東京学芸大学日本史研究室 2007.3.10増補4版第1刷/初版1984.6.10)

⑷「越前の守護朝倉教景(あさくらのりかげ)が、加賀の一向一揆を同国の湊川(※3)に破った。(1531.10)」(『読める年表日本史』自由国民社 2006.4.10改訂第9版第1刷/初版1990.10.20)


——という次第で、以下について考えてみたい。

①「湊川」(※3)は何処なのか? ②「一向一揆」が蜂起したのか? ③敵対者は「(朝倉)教景」だったのか? ④朝倉教景は越前「守護」か? ⑤「一揆」だったのか? ⑥どちらの年表が「正しい」?(誰が誰を「破る(※4)」?)


 参照した年表が古いので、その後の改訂はあり得る。だが、これらも版を重ね、見直されてきた。多くの人は「改訂」の度に買い換える余裕などない。当時覚えた事柄を、そのまま鵜呑みにしているに違いない。「真逆」の事柄を、このまま放置していて良いものだろうか?


「奈良の東大寺は誰が作った?」

「聖武天皇!」

「馬鹿だなあ、大工に決まってるじゃん!」

 こういう、しょうもない話が子供の頃流行っていた。「手袋の反対は?」「ろくぶて!」と答えたら、思いっきり打たれた苦い記憶が甦る。それより断然マシで他愛ないが、実は「大工」も正解なのだ。「六打て!」だって、単に勘違いされたのかも知れない。いやいやそれはあり得ないと真顔で断言する人の顔が浮かんでくる。

 年表の、短い文面で考えよう。例えば「織田信長、明智光秀に殺される」と「光秀、信長を殺す」ではニュアンスが違う。「信長、本能寺で光秀に攻められ、自害」と「信長、本能寺で光秀に囲まれ、火を放つ(享年49)」も、やはり微妙に違うだろう。「秀吉、山崎の戦いで光秀誅す(享年55)」と「土民、坂本逃亡中の光秀殺す(自刃)」となると、もっと違う。信長について、骸が見つからないので「生きている」説がまことしやかに語られ、光秀の「黒幕」は果たして誰かと議論される。当時の焼け跡から死体を確認できたのかという素朴な疑問がある。秀吉や光秀の動機や抱負に興味は尽きず、誰と何がどう動いたかという歴史の大局を捉える必要はあるだろう。

 翻って考える。享禄(きょうろく)4年の「一向一揆」は果たして何だったのだろうか、と。


〈注(※1)「守護」を論じれば切りがない。ここでは簡潔に「鎌倉・室町時代の職名。軍事・警察権をもって諸国の警備・治安維持などに当たったが、次第に領主化して守護大名となった」(『明鏡国語辞典 第二版』大修館書店)を採る〉

〈注(※2)「宗滴, 加闘」は、各出典の『朝倉宗滴話記』と『加越闘諍記』のこと。「朝倉宗滴(そうてき)」については、改めて後述する〉

〈注(※3)「湊川(みなとがわ)」は、現在の「手取川」らしい。「⑷…自由国民社」では「加賀…同国の湊川」とあるので、少なくとも越前でなく「加賀」。越前でも一向一揆が盛んで手を焼いていたが、そこが「手取川」なら、他国への侵攻と呼べるかも知れない。さらに、「今湊(中世)……『朝倉始末記』によれば、享禄4年、加賀一向一揆の内紛(享禄の錯乱)に乗じて、越前朝倉教景は加賀に侵攻、10月26日今湊川を越えて石川郡を攻撃したが、今湊には部将の山崎新左衛門を在陣させている」(『角川地名大辞典(旧地名)』)とあり、この「湊川」が「今湊川」で、明らかな「侵攻」としている。本件の一端を垣間見る。

 尚、「手取川と言う名前の由来にはいくつかあり、源平のむかし倶利伽羅の合戦を終えた木曾義仲の軍が急流を渡るために手を取り合って渡ったからとか、氾濫のたびに渡るのに手間どったからだとか言われて」(石川県HP)いるらしい。さらに、「手取川…比楽河川と呼ばれ…その後、本流は大慶寺川、比良瀬川へと移り、さらに冷川、今湊川、北川(中島用水)、南川へと移動して、現在の手取川へとその姿と呼び名を変えています」(国土交通省HP)と言うが、「今湊川」はあるものの「湊川」は出てこない〉

〈注(※4)「破る」には、「抵抗になるものを突き抜ける」という意味もある。一向一揆が「抵抗勢力」なので、権力側を「破る」という表現は、私には解せない。尚、同じ「吉川弘文館」情報として、「享禄4年10月26日…越前の朝倉教景と能登守護畠山義総、加賀一向一揆と湊川(手取川)で戦う」(朝倉宗滴話記)『日本史総合年表 第2版』があるという。「⑶…東京堂出版」と同じ出典(「宗滴」)であるが、そこでは「破る(破られる)」とせず、「戦う」となっている〉



Ⅱ【時代背景】(応仁の乱と加賀「一向一揆」)

 浄土真宗(一向宗,真宗)門徒の「一向一揆」は、応仁の乱(応仁1年5月〜文明9年11月/1467-1477)以降頻発していた(※1)。「一揆」と言えば、「山城国一揆」(文明17年12月〜明応2年8月/1485-1493)や、長享2年(1488)6月〜天正8年(1580)9月(※2)、柴田勝家に制圧されるまで90年以上(※3)に亘り加賀一国を支配した「加賀一向一揆」が有名だろう。いずれも「応仁の乱(応仁・文明の乱)」の影響が色濃くあり、件の「1531年」も、その流れの中にあった。

 一向一揆も、この頃毎年のように起きていた「土一揆」の一種である。土一揆は、室町時代特有の用語であるらしい。「土一揆…その意味は土民の一揆であるが、支配者から見た場合、公家・武士をのぞくすべてが土民であって、荘園領主に反抗する荘民の一揆である庄屋の土一揆、国人領主層の守護に対する一揆である国一揆、主として京都・奈良を中心におこる徳政一揆もひとしく土一揆とよばれていた」「土一揆の語の初出は南北朝期の1354(文和3)年であるとされている」(『日本歴史 中世3(「応仁・文明の乱」)』稲垣泰彦/岩波書店)という。分類すればそうであろうが、実際の形態は複雑だ。一向一揆は、武士の内紛や権力者闘争と深く関わり、積極的に介入していた。そして、一向宗徒の「内紛」も抱える「権力闘争」の側面も併せ持っていたのである。


 「応仁の乱」の余談になるが、「雑学」として……西陣織で有名な「西陣」は、京の堀川を挟んで山名宗全(持豊)が陣を張った「西側」に由来し、地名として定着した。しかし、「東陣」(細川勝元邸の本陣)とは言わない。両軍総大将が次々病没し(文明5年/1473 山名3月、細川5月)、複雑な事情を抱えていた各の味方が領国へ引き上げていく。両陣が解かれ「和議」で終わる訳だが、その終焉に「一応」がついて回る奇怪な大乱(内乱)であった(「(数十万の大軍を動員し)長期の戦いをしながら、守護大名・守護代の一人も戦死しない戦いとは何であろうか」『日本歴史 中世3(応仁・文明の乱)』稲垣泰彦/岩波書店)と問いかけられる。「将軍」事情に限れば、当初山名が擁した日野富子の実子(足利義尚)が僅か9歳で第9代将軍となるが(文明5年12月/1473)、東軍・細川が当初担いだ足利義視(第8代将軍義政の弟で義子)も西軍に走るなど(担いだ神輿が入れ替わる)、迷走した。いずれが勝ったとは言えないが、源平合戦の旗(源氏の白、平氏は紅)から「紅白」が今にも残ることからすれば、西陣が残る「西軍」に軍配を上げたい。「応仁の乱」は、異論はあるものの、言わずと知れた下克上、戦国時代の幕開けである。「足軽」という名称は平安末期や鎌倉時代からあるが(『源平盛衰記』『太平記』など)、(「乱暴狼藉」と評された)組織的な「足軽」は、この頃から出現したらしい。

 閑話休題。

 「加賀一向一揆」は、『山川 日本史小辞典(新版)』によれば、「【加賀国】…約1世紀の間、本願寺による一国支配が続いた」や「【一向一揆】…加賀の守護大名を滅ぼし、100年にわたる一揆の自治を実現した」(※3¹)とされている。

 その始まりを、「文明6年(1474)11月、加賀一向宗徒が蜂起」(『日本史年表』東京堂出版)の頃に求めれば、100年以上となる(※3)。その終焉は天正8年(1580)「柴田勝家…鎮圧」と言われるが、『山川 日本史総合図録(増補版)』や『図説日本史』(東京書籍)などでは「11月」であり、「9月」(『日本史年表(増補4版)』東京堂出版)ではない(※2)。この「時差」は何故だろう?

 「加賀一向一揆」の終焉は、一向宗の本拠地「石山本願寺」と織田信長の攻防戦(石山合戦)の終焉(和議の交渉)時期と当然重なる。しかし、それさえも二転三転、一般的な「11月」説さえも怪しいのだが、本稿とかけ離れるのでこれ以上深入りしない。


 朝倉孝景(たかかげ)は、「…越前国における管領斯波氏の被官。守護代斯波義廉を家督に擁し、寺社本所領の押領を進めた。応仁・文明の乱でははじめ西軍に属したが、越前国支配権の公認を条件に東軍に転じる。越前国回復をめざす斯波義良との対陣中に病没。子の氏景のために家訓『朝倉孝景条々』(※4)を残す」(『山川 日本史小辞典(新版)』山川出版社)

 この「朝倉孝景」は1481年病没なので、「(越前守護)朝倉教景(1531年)」では無論ない、「下克上の張本(先端を切った)」と言われた人物である。越前守護斯波氏(足利氏の支流)の家督争いで義廉(よしかど-応仁の乱勃発時は管領)を立てて西軍に属し(応仁の乱の一因)、大活躍していたらしいが、斯波家で対抗する東軍・義敏(よしとし)の反撃に怯み、管領に返り咲いた細川勝元の「越前一国」守護職のエサ(約束)に飛びついた。この東軍への「寝返り(裏切り)」は、文明3年(1471)2月のことらしい。実際、朝倉氏は斯波氏にとって代わり「越前守護」となる為(同年5月21日、将軍・足利義政名義で補任)、この地では「東軍の勝利」と言えなくもない。初めは「西軍」であったが、一般的には「東軍に属した(朝倉孝景)」と記される。「年表」のように、文字数が限定されていれば或る意味致し方ないことなのだが、こういう扱い方一つで歴史の見方が変わるのだ。


〈注(※1)「一向一揆:室町時代中期以降、特に応仁・文明の大乱(応仁の乱)以降、1世紀にわたって頻発した一向宗門徒の一揆をいう。一向一揆は寛正年間(1460〜66)にすでに散見され、本願寺第8世蓮如の出現によって、荘園制の崩壊に伴って起った在地地侍、国人、名主を中心とする惣村的結合のもとに、一向宗の教団組織の強化が進められ、守護大名の領国支配と対立した。一向一揆はおもに社会的、経済的に進んだ畿内、東海、北陸などの各所で展開された。長享2(88)年には,加賀守護富樫政親を高尾城に囲んで自殺させ,以後九十余年にわたって加賀一国を支配した」(『ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2015』)〉

〈注(※2)鎮圧の年月について「柴田勝家が加賀の一向一揆を鎮圧し、首謀者19名の首を信長に届けた」のが「天正8年(1580)11月」とする説がある(『読める年表日本史』自由国民社)。「首を届けた」のであり、必ずしも「鎮圧(月)」を意味しない。同じ年表で、「前年8月、加賀の門徒領国が柴田勝家に制圧されてから、本願寺と信長との間に和平交渉が進められていた」ともあり、それに従えば鎮圧は「天正7年(1579)8月」ということになる。

 「鎮圧」そのものではないが、「1580年の石山本願寺の降伏などがあり、翌年門徒300余人が捕らえられて磔刑に処され、加賀一向一揆は解体した」〈『百科事典マイペディア 電子辞書版』日立ソリューションズ・ビジネス〉ので(但し、先の「首謀19名の首」との関連は不明)、その「解体」を1581年とみる。

 余談になるが、「石山合戦」の終結を、本願寺との和議が成立した「天正8年(1580)閏3月」とするもの、本願寺11世・顕如(光佐)が石山から紀伊・雑賀に退いた「4月」とするものがある。尚、顕如の嫡子・教如(光寿)も雑賀に退き(8月)、石山本願寺は消失したのだが、それが「7月破壊された」、「開城の際の火災で廃滅」、「石山全土が焼失した」、「(石山)本願寺は信長に焼き払われ、灰燼に帰した」など、各種年表や書籍により微妙に食い違う〉

〈注(※3)「100年」について:加賀守護の打倒年を含む「93年間」が実際の「加賀一国支配」期間である。凡そなら、「90年以上(余)」「約90年」が妥当と思う。一連の「加賀一向一揆」として捉えれば、或いは「1474年」から始まる「107年間」と見ることも出来る。いずれにせよ、「100年」とされることも多い根拠(起点)が見当たらない。「自治」(※3¹)の観点からすれば、既に内実を伴いつつあると見做し、その「中間」(100年間)もあながち間違いでないかも知れないが、その起点をどのように捉えるかを含めて明確にすべきだろう〉

〈注(※3¹)「以後100年間『百姓ノ持タル国』(『実悟記拾遺』)」〈『風呂で覚える日本史(年代)』教学社〉

〈注(※4)『朝倉孝景条々』の成立時期や作者(「朝倉宗滴」編説など)には諸説ある。以下、

❶「1481(文明13)—朝倉孝景、『朝倉孝景条々』を制定」(『詳説日本史図録』山川出版社)

❷「【朝倉孝景条々】越前国の戦国大名朝倉孝景が子の氏景に残した家訓。伝本により『朝倉英林壁書』『朝倉敏景17箇条』などともいわれ、内容に若干の異同もある。文明年間の成立と推定されているが、16世紀初頭朝倉宗滴が編集したという説もある」(『山川 日本史小辞典(新版)』)

❸「【朝倉孝景条々】越前の戦国大名朝倉孝景(敏景・政景ともいう[1428-81])の制定した分国法」(『日本史辞典 三訂版』旺文社)

❹「【朝倉敏景17か条】越前(福井県)の守護、朝倉氏の家訓。文明3〜13年(1471-81)に制定。…朝倉孝景条々」(『精選版日本国語大辞典』小学館)

❺「【朝倉孝景条々】…『朝倉英林壁書』『朝倉敏景17箇条』などの題名をもつ多くの写本があるが、黒川本が16か条、そのほか多くの写本が17か条で構成。文体などから黒川本が最も古い形であると判断される。内容は…しかしこの条々の存在が後の史料で裏づけられず、家臣の一乗谷移住の規定などが実効性をもっていなかったこと、松平文庫では孝景ではなく、子の朝倉教景(法名照葉宗滴)が語り伝えたとされているなど、この条々の性格については議論がある」(『日本歴史大事典』小学館)〉



Ⅲ【「一向宗徒」は誰と戦ったか?(1474年の場合)】

⑴「(1474年11月)加賀の一向一揆蜂起」(『日本史総合図録』山川出版社)

⑵「文明6年(1474)11月、加賀一向宗徒が蜂起、守護富樫政親の兵と戦う[乗](※¹)」(『日本史年表』東京堂出版)

⑶「加賀の一向宗徒が守護富樫政親の兵と戦った。(1474.11)」(『読める年表日本史』自由国民社)

〈注(※¹)「乗」は、出典『大乗院寺社雑事記』の略。この東京堂出版の年表は、多く出典を明記するので信憑性があるが、諸説まとめるには限界がある〉


 富樫政親(とがしまさちか)は寛正5年(1464)より加賀の守護であった(但し、加賀南半国)(※1)。それから10年。「一向宗徒が蜂起」した前年の文明5年(1473)、富樫政親は東軍に属して弟・幸千代(こうちよ-西軍)と争い、敗れて加賀を追われた。その後、本願寺の第8代法主・蓮如(れんにょ)と結び、復権を目指して挑んだ結果、政親は加賀一国を領有することになる。その頃の隣国・越前の守護が、主家・斯波氏を裏切り東軍に寝返って越前一国の守護に居座って間もない「朝倉孝景」であった。同文明5年、⑷「(1473年)加賀一向一揆盛んとなる」(『日本史年表・地図』吉川弘文館)という別の「史実」もある。この「加賀一向一揆盛ん」な年と、翌年起きた「加賀一向宗徒が蜂起」とは一体何であり、どのような関連性があるのだろう? ⑸「四郡一揆は、1474年(文明6)本願寺門徒が富樫政親を擁立し(※2)…」(『日本歴史大事典』小学館)という記述と併せて考えてみたい。


 その前に、何らかの予備知識もないまま、「年表(⑴⑵⑶⑷)」だけをまとめてみると、次のような理解になる——1473年は加賀で一向一揆が盛んであったが、ついに翌文明6年11月、守護・富樫政親と戦う一揆が勃発した。——更に前述の情報(本文+⑸)を加えて言い換えると——その時、富樫政親は加賀(守護)を追われていた。無職の政親は、舞い戻って蓮如と結び、結託した一向宗徒(加賀4郡)と共に蜂起、かつ守護・政親に対し蜂起した一向宗徒とも戦って、政親は、回復(加賀南半国を取り戻す)はおろか、守護となって加賀全土を掌握した。——それはあり得ない。

 以下は、本件の「(加賀)一向一揆(1531年)」疑惑にも通じる。


 そもそも「(一向)宗徒(が)蜂起」と「(一向)一揆蜂起」を、同じ「一揆」として扱ったところに問題があった。「一揆」を、「③中世の土一揆、近世の百姓一揆などのように、支配者への抵抗・闘争などを目的とした農民の武装蜂起」(『広辞苑』岩波書店)と同一視、「蜂起」も一揆に準じた「実力行使」である、と。「②心を同じくしてまとまること。一致団結。一味同心」(同上)を無視した「読みの浅さ」で、戦う相手や結ぶ相手が見えてこず、「間違った『年表』に騙された」のである(と、私は考えることにした)。当時の複雑な「権力者(守護や宗派)」の対立(主導権争い)が完全に抜け落ち、見落とされていた。その為、「守護」対決「一向宗徒」=「(加賀の)一向一揆」という単純な図式に集約された。

 この事件は、富樫政親を自刃に追い込み加賀一国を支配した「(長享の)加賀一向一揆」勃発を遡ること14年前に起こった。一国支配が成った43年後の、本件「一向一揆(1531年)」の真相へ導くカギなのである。この時、(蜂起した)本願寺派の「一向宗徒」が担ぎ上げたのは元守護の「富樫政親(東軍方)」であり、それと戦ったのは、政親を追い出した弟の守護「富樫幸千代(西軍方)」や味方した「某」(※3,※4)である。その結果、今度は逆に幸千代が追放され、富樫政親が加賀一国の守護に収まり、本願寺派の勢いが増大した。これを「一揆」と呼べるのか? 「地侍、国人、名主を中心とする惣村的結合のもとに、一向宗の教団組織の強化」(『ブリタニカ国際大百科事典』)がより一層進んだと見て間違いないだろうが、疑問である。

 仮にそうであるなら、「加賀の一向一揆蜂起」(山川出版社)も、必ずしも間違いと言えない。しかし誤解を招く(「(加賀の一向)宗徒(蜂起)」としたい)。そして、「加賀一向宗徒が蜂起、守護富樫政親の兵と戦う」(東京堂出版)などは論外であろう。次が、この項における第一次結論(辻褄合わせ)。


[(加賀一向宗徒が蜂起、)元(守護富樫政親の兵と)して(戦う)]或いは、

[(加賀一向宗徒が)分裂(蜂起、守護富樫)幸千代側と(政親)側(の兵と)して(戦う)。政親、加賀一国を得る]


 如何様にも書けるが、「年表」に合わせ、なるべく簡潔に記せばこうなる。

 当時の富樫政親は守護ではない。また、「兵と(共に)」という解釈の余地もあるが、無冠の政親が兵を携えていたとは考えにくい。「本願寺派」と「高田派」の対決と捉えても(※3,※4)、「(守護)富樫幸千代」を擁立した側が最初に「蜂起」する訳がなかろう。明らかに本願寺派の蜂起と言える。そうして富樫政親が守護に返り咲いたのであるから、「一揆」と呼ぶのは相応しくない。

 政親はその後、戦費捻出の為に重税を化し、一向宗弾圧に転じて民衆を苦しめる。それが仇となり、大叔父の富樫泰高が再び担ぎ出され、自決する羽目になる——長享2年(1488)の「加賀一向一揆」が引き起こされた。「傭兵」のように人々を使い、捨てる権力者は数多い。だが、泰高の場合は名目上の「守護」(お飾り)だったようである。無論、歴史をねじ曲げる訳にはいかない。「断じ」て、主張するような、誤りは避けたい。けれども、愚かな私でも納得ゆかない「史実」がそこにある。

 あなたなら、どちらを信じますか?


——そう書いてしまってから、ふと不安になる。

 「お飾りの守護」……それは守護ではない。かつて朝倉孝景が越前守護となったのは、主君斯波氏への裏切りに拠る。本来なるべきは、家督を継いだ斯波義敏である。しかし実権は甲斐常治にあり、義敏は8代将軍・足利義政の不興を買って追われ、義廉が継ぐ…再び義敏が継ぎ…対立は激化(内紛)、応仁の乱の一因となる。詳細は省く。家督や実権はともかく、朝倉孝景は、将軍・足利義政名義により「守護」に補任(ぶにん)された(かつて足利姓でもあった斯波家は衰退、1561年、信長の怒りに遇った斯波義銀の代で滅ぶ)。

 「補任」の実態がない「守護」は守護ではない。富樫政親は、解任されない限り「守護」である。或いは、既に戦う前に「守護」として復権していたら(頂点に立つ幸千代が実態のない「守護」なら)、事情は違ってくる。

[文明6年(1474)11月、加賀一向宗徒が蜂起、守護富樫政親の兵と戦う]

 「(追放されていた)守護」の「富樫政親の兵」が相手なら、蜂起して戦ったのは「高田派」「三門徒派」らの「反本願寺派」でなければならない。けれども、曲がりなりにも実権は、「異端」の一向宗徒が支えていた「富樫幸千代」にあった。そうして、「一向宗徒」対「一向宗徒」の戦いは、「一揆」や「蜂起」の性格を歪めている。この史実の要件は、

①追放された富樫政親が幸千代を逐い、加賀(一国)守護として支配

②「(蓮如・本願寺派の)一向宗徒」が政親と共に戦い、「(反本願寺派の)一向宗徒」が「幸千代体制」を守って戦い、敗れた(追放された)

これを一行で表すのは至難の業に違いない。


[蓮如、富樫政親と結び、幸千代・反本願寺派と戦う。加賀守護に政親]


〈注(※1)加賀南半国について「【富樫政親】…加賀半国守護。嘉吉の内紛ののち加賀北半の守護職は政親の父成春が、同南半の守護職は成春の叔父泰高がえた。前者は一時赤松氏に奪われたが(※¹)、政親はこれを回復して泰高と対立、応仁・文明の乱では東軍、泰高は西軍に属した。1474年(文明6)には弟幸千代と争いこれを破った。75年一向一揆と交戦。87年(長禄元)将軍足利義尚に従って近江に出陣したが、留守中に一揆の活動が熾烈となり、帰国して高尾城(現、金沢市)に拠った。翌年6月同城を攻め落とされ自殺」(『山川 日本史小辞典』)とあるが、「【富樫政親】…1462年(寛正3)北半国守護であった父成春(しげはる)の死去で家督を、1464年大叔父富樫泰高(やすたか)の隠居で南半国守護職を継承」(『日本歴史大事典』小学館)や「寛正5(1464)泰高(政親の大叔父)から加賀の南半分を譲られた…」(『ブリタニカ国際大百科事典』)と大きく食い違う。問題が逸れるので、それ以上深入りしない〉

〈注(※¹)この「赤松氏」は、嘉吉の乱(3国守護・赤松満祐が将軍・足利義教を殺害、満祐と一族家臣数十人自害/1441年)後に中絶の赤松家を再興した東軍方・赤松政則と思われる。「【赤松政則】…赤松家再興が許され、家督を相続。加賀国半国守護となる。…応仁・文明の乱では妻の父細川勝元の東軍に属し、赤松氏の旧領播磨・備前・美作3か国の守護職を回復」(『日本歴史大事典』小学館)〉

〈注(※2)本願寺の擁立について「【加賀一向一揆】…一般には民衆のコミューンとしてのイメージが強い。しかし実態は、江沼郡、能美郡、石川郡、河北郡の加賀四郡を単位とする一揆で、国人、地侍など侍門徒が指導者として門徒大衆を組織しており、国一揆に通じる側面をもつ。四郡一揆は、1474年(文明6)本願寺門徒が富樫政親を擁立し、守護富樫幸千代を追放した頃から、公家、寺社の所領を安堵する勢力として史料に登場する」(『日本歴史大事典』小学館)〉

〈注(※3)「某(なにがし)」は、真宗10派の一つ「高田派」などと考えられる。「【蓮如】…加賀で盛んだった高田派との対立が激化、高田派が守護富樫幸千代と結んだため、本願寺派は幸千代と対立していた富樫政親を擁立し、1474年幸千代を追放した。翌年、蓮如は加賀国内の抗争を避けて北陸を去り、京都山科に本願寺を建立…」(『日本歴史大事典』)〉

〈注(※4)ことの「真相」について:越前の義廉側(西軍方)に付いていた朝倉孝景が寝返って東軍方についたのが1471年。それを念頭に次の引用文(1474年頃)を読んで頂きたい。ここに突如登場する「甲斐常治」は、斯波義敏(東軍方)を擁立して越前守護代となり、実権を握るが故に義敏と対立、和議成立の翌年の1459年、義敏の不意打ちで常治は没する。だから[1471年寝返った朝倉孝景の為窮地に陥る1459年死んだはずの亡霊・甲斐常治が加賀に逃げた…]と読める内容は、どう考えても辻褄が合わない。この「甲斐常治」が誰であるのかは不問に付して、「こと」(内紛、東軍対西軍、本願寺派対高田派、一揆の性格)の本質は的を射ていると思われる為、敢えて以下に引用する(尚、蓮如の吉崎退去は1475年8月)。

[以下、引用]

◎「仏法領国の成立—加賀の一向一揆/★一向宗門徒の武装蜂起…文明年間、越前の吉崎御坊を本拠とした蓮如の北陸布教活動にともない、一向宗門徒は急速に増加していった。そして蓮如による北陸門徒の統合が進展したころ、応仁・文明の大乱が北陸地方にも波及した。/西軍優勢下のこの地方で、細川勝元が朝倉孝景に守護職を与えて東軍に寝返らせた。そのため、窮地に立たされた甲斐常治は加賀に逃れ、富樫幸千代を頼った。幸千代は、富樫家の内紛で東軍の富樫政親と対立していたから、ここに幸千代・常治対政親・孝景の争いとなり、門徒勢力が軍事的に巻き込まれることとなった。/孝景・政親らが門徒の武力を見込んで蓮如に援助を要請すると、幸千代は蓮如が異端としていた高田派門徒を味方とし、本願寺門徒に対する武力攻撃を行わせた。やがて文明6年(1474)7月、両畠山軍すなわち加賀の守護方と本願寺派門徒との武力衝突が起こった。一揆勢は、〝無碍光宗〟と号して幸千代の拠点を次々に襲い、守護代のこすぎ某を討ち取って圧倒的勝利をえた。/★蓮如の制止を無視する…翌年、加賀門徒は一転して共同戦線をはった政親との対決姿勢を鮮明にした。門徒の最高指導者の蓮如は、7月、〝御文〟を発して神社・仏寺・他宗の排撃を禁じ、現世の支配者との対立を戒め、正統の仏法にしたがって他力信心を深くせよ、という六カ条の篇目を定めた。だが、門徒の現世の権力に対する反抗の姿勢は動かしがたかった。守護に対する年貢の納入を拒否しだした農民と、領主への上昇を志向した地侍的門徒指導者の坊主は、新たな支配関係をうみだしながら、守護支配にかわる〝仏法領〟の実現をめざした。結局、王法思想を本としながら、門徒の急進化を阻止できなくなった蓮如は、8月、吉崎を退去して河内の出口に移った。」(『読める年表日本史』自由国民社)〉



Ⅳ【「蓮如」(浄土真宗/一向宗/真宗)について】

 浄土真宗(一向宗)の開祖は言わずと知れた親鸞である。建永2年(1207)2月(※¹)、幕府が「専修念仏」を禁止して、親鸞は越後に流される。その後赦されたが、親鸞の主著『教行信証』が世に出た貞応3年(1224)(※¹)、その年の8月に再び「専修念仏」が禁止された。この主著が、浄土真宗の「開宗宣言」と見られている。

 「親鸞の没後、末娘の覚信尼が東山大谷に建てられた廟堂を守り…孫・覚如の時、門弟と対立して決別し、廟堂に本願寺という寺号をつけて独立しました。この本願寺は、八代・蓮如(1415〜1499)の教化によって大発展を遂げましたが、十一代・顕如の時、織田信長との対立が原因となって父(顕如)と子(長子・教如)が不和となり…顕如の跡目を末子の准如が継ぐと徳川家康が教如を支援し、本願寺は准如の系統(本願寺派、本山・西本願寺)と教如の系統(大谷派、本山・東本願寺)に分かれました。現在に続く分派である本願寺派、大谷派、高田派、興正派、仏光寺派、木辺派、山門徒派、出雲路派、山元派、誠照寺派を真宗十派と呼び…念仏すること自体、阿弥陀如来の本願力によるという絶対他力の念仏を説いています」(『この一冊で「宗教」がわかる』大島宏之/三笠書房)

〈注(※¹)それぞれ「承元1年(1207)」、「元仁1年(1224)」とも記される。「承元」改元は建永2年10月25日、「元仁」改元は貞応3年11月8日で、各年2月・8月は改元の前である。元号の付け方として、各の「元年」は正しいのだが、得てして歴史の流れを見落としかねない。尚、『教行信証』は、その年の「1月」とする向きもあるが、実際の成立年月日は定まっていない〉


1.[本願寺派の歴代法主(ほっす)](⑧〜⑬は就任年。⑧〜⑩は生没年も記す)

①親鸞(1224年『教行信証』なる)、②如信、③覚如、④善如、⑤綽如、⑥巧如、⑦存如、⑧蓮如(1457年-1489年隠居/1415-1499)、⑨実如(1489年/1458-1525)、⑩証如(1525年/1516-1554)、⑪顕如(1554年)、⑫教如(1592年・大谷派)、⑬准如(1593年・本願寺派)


2.[蓮如は何故越前に赴き、道場を開いたか?]

 一般的には「比叡山衆徒の襲撃に遇い、京都東山大谷を出て1471年(文明3)越前吉崎に赴き,北陸地方を教化」(『広辞苑』岩波書店)と言われる。「東北各地の旅ののち…越前の吉崎に」(『ブリタニカ国際大百科事典』)とか、「比叡山のねたみをかい、大谷の御影堂が襲われたため、親鸞の尊像を奉じて、北陸・東北の諸国を巡錫」(『百科事典マイペディア』)とか、「近江門徒の掌握を行ったため比叡山との関係が悪化し、(14)65年(寛正6)本願寺の破却にあった。三河地方の教化ののち、71年(文明3)越前吉崎に坊舎をたてた。吉崎には門前町が形成され大いに栄えたが、富樫氏の攻略にあい退去」(『山川 日本史小辞典』)などとあるが、何故「吉崎」だったのか(※1)、実のところ分からない。それはともかく、分かりやすい「御文(おふみ)」(西本願寺では「御文章(ごぶんしょう)(※2)」と言うらしい)で説いたこと(1461年が初見。吉崎頃から頻発)、他にも拠点(山科本願寺、石山本願寺)を建てたことが功を奏したと言える。『吉崎御坊跡』は現在の福井県あわら市にある。福井と石川の県境にあたり、主に越前と加賀を悩ませたのは頷ける。

 一向宗は、一向(ただひたすら)に阿弥陀仏(如来)を念ずるところからきた言葉。他宗での通称とされるが、「一遍の時衆(じしゅ)、その系統を引く一向俊聖(しゅんじょう)の一向派、親鸞の真宗がそれぞれ一向衆とよばれていた。それらは混同されていたが、14世紀初め頃から真宗を一向宗と呼ぶことが定着し始めた。蓮如はこの呼称を嫌い、親鸞が用いていた浄土真宗を称することを主張した。…近世に至り、東西本願寺は宗名を浄土真宗と改称することをしばしば幕府に願いでたが許可されなかった。その後、1872年(明治5)大蔵省から真宗と称すべき通達がだされ、宗名問題は解決した」(『山川 日本史小辞典』)といわれる。


3.[蓮如(兼寿)の正妻5人・子供27人が「キーワード」]

(応永22年〜明応8年/1415.2.25-1499.3.25)

 父・存如(ぞんにょ)は、幕府有力者の日野氏や将軍側近の伊勢下総守家と姻戚関係を結び教団の地位向上をはかったが、蓮如もそれを引き継いだ(正妻・如円尼は実子・応玄を後継者に推したが、蓮如が継ぐ)。蓮如は、多くの子女を門末統制のため重要な地方寺院に配した。そのことが、教団の組織強化・発展拡充に功を奏して、「一揆」を強固なものとして支えたが、却って後の「内紛」を生み出すことにもなる。

 文明3年(1471)7月、蓮如は越前吉崎に坊舎を建てた(同年5月、既に朝倉孝景が越前守護となっている)。吉崎は交通の要衝であり、後の江戸時代に北前船で栄えた「三国湊(みなと)」もほど近い、越前と加賀の国境という、絶妙な場所だった。

 文明6年(1474)11月(7月〜?)、加賀を追われて越前にいた富樫政親を扶け、政親を守護に返り咲かせる。戦った相手は政親の弟・幸千代であるが、それを支えたのが「高田(専修寺)派」である(※3,※4)。蓮如は本願寺以外認めず、悉く「異端」と見做していた。元々越前で「山門徒派」が起こり、加賀では高田派が強かったらしい(※4)。そこに、本願寺派が割り込んだ。拠点を得た蓮如の布教活動はめざましい。その飛躍ぶりに、「白山(はくさん)信仰」と結びつける者もいるが、要は「飛躍した」ということだ。そしてついに、一向宗徒が守護家・冨樫の内紛に乗じ、敵味方として戦った——それを「加賀一向宗徒が蜂起」と言えなくもないが、「加賀の一向一揆蜂起」と言えるかどうか、とても怪しい。ところが、本願寺派は突如、翌文明7年(1475)、一転して「富樫政親」と対立したのである(※5)。本願寺派(蓮如ら)の力を恐れた政親が弾圧したとも言われているが、8月、蓮如は吉崎を去る(※5)。


4.[本件関連の法主は蓮如の他、次の2名である]

❶【実如(光兼)】(長禄2〜大永5年/1458.8.10-1525.2.2)

 蓮如の第8子で5男。長兄順如の死後法嗣となる(応仁2年/1468)。蓮如が延徳1年(1489)に隠居し、法主を継いだ(9世)。大永1年(1521)青蓮院脇門跡となる(「本願寺門跡」のはじめ)(※¹)。永正3年(1506)細川政元の要請で門徒に河内誉田(かわちほんだ)城の畠山氏攻撃を命じたが反発され、以後平和路線を守るようになったという。北陸門徒に対して、一揆禁止など3カ条の戒めを発布し(1518年頃)、本願寺一族を一門衆(嫡男)と一家(いっけ)衆(次男以下)にわける一門一家制を設置した(永正16年/1519)。蓮如の文書から80通を選んで「御文(おふみ)」(※2)として流布させるなど、父蓮如のときに膨張した本願寺教団の整備と護持に努めた。

〈注(※¹)「門跡(もんぜき)…平安時代以降、天皇家や摂関家の子弟などが代々入寺する特定寺院またはその住職。本来は『一門の祖跡』、祖師の法統を継承する寺もしくは僧侶の意」「1559年(永禄2)本願寺が門跡になる」(『日本歴史大事典』)〉

❷【証如(光教)】(永正13〜天文23年/1516.11.20-1554.8.13)

 蓮如の曾孫、実如の子円如の長男。大永5年(1525)、祖父・実如の死で本願寺10世となる(10歳)。母および外祖父・顕証寺蓮淳の補佐を受けた。加賀の一向一揆の内紛調停を通じて加賀を本願寺領国とした。一向一揆を率いて細川晴元や法華宗徒と戦う。天文1年(1532)山科本願寺が焼かれて、石山本願寺(大坂)に移った。その後、畿内・越前などの領主(細川晴元や朝倉孝景など)と友好関係を結び(和解)、本願寺の体制固めや地位向上に努めた(門徒や一揆の将に対して破門権を行使する一方、加賀に所在する荘園の年貢を京畿の寺社や公家に保証した)。


〈注(※1)吉崎について「吉崎(よしさき)…現在は一般に〈よしざき〉という。古くは奈良興福寺領(春日社一切経料所)越前国河口荘細呂宜(ほそろぎ)郷に属し…蓮如が当地を選んだ理由として、細呂宜郷の領主興福寺大乗院門跡経覚と蓮如との血縁関係、細呂宜郷別当和田本覚寺(現福井県永平寺町)の勧誘などが考えられる。」(『百科事典マイペディア』)/尚、「興福寺別当の経覚は、朝倉孝景の押領に対抗するため、延暦寺に追われていた親戚の本願寺八世法主・蓮如を自領の吉崎に匿い、代官の役目を負わせつつ浄土真宗の布教を許した。これが後に朝倉氏歴代を悩ませる一向一揆の温床となった。」〈或るネット情報〉ともあるが、真偽の程は不明(「門跡」と「別当」は違う)。思想的には、

「蓮如が生まれたのは、本願寺が衰微の極にあった1415(応永22)年であった…1471(文明3)年、57歳にいたって、当時真宗の最大の発展地帯であり、しかも最も激しく異端の教説が渦巻いていた北陸の地を戦いの場として選んだ。かれは、加賀と越前の国境にあたる河口荘細呂宜郷の吉崎に道場を構え、ここを拠点として、御文をつうじて本願寺派の主張する正統の教説を説き、異端へのきびしい批判をはじめた。しかし…妥協を許さぬほどの激しい異端の否定ではなかった。…戦国期の門徒が求め、しかもそれまでの本願寺が拒否しつづけていた異端の教説を、蓮如が布教手段のなかにとりいれたことは、真宗諸派の本願寺派にたいする優越性を一挙に奪い去ってしまったのである。そのうえ、本願寺法主は親鸞の血統と祖廟を受けついでいるのである。ここに、真宗諸派の門徒は、坊主ぐるみ本願寺派へ転派してきたのである。」(『日本歴史 中世3(「新仏教教団の発展」4真宗の発展)』笠原一男/岩波書店)この解説が尤もらしい〉

〈注(※2)『御文(おふみ)』について:『蓮如上人御文章』——「それ当流の安心(あんじん)のおもむきといふは、あながちに我身の罪障のふかきによらず、ただもろもろの雑行(ぞうぎょう)をやめて、一心に阿弥陀如来に帰命して、今度の一大事の後生たすけたまへとふかくたのまん衆生をば、ことごとくたすけたまふべきこと、さらにうたがひあるべからず。……」(明応7年(1498)2月25日)

「彼(蓮如)の布教の成功は、平等の意識と〝門徒に養われる〟という考えに基づく門徒への対応、それに簡潔に要約された御文による説教であった。真宗の真髄を、『千の物を百にえらび、百の物を十に、十の物を一につづめた』という、わかりやすさがもっとも有効な武器となった」(『読める年表日本史』自由国民社)〉

〈注(※3)富樫政親と高田派について「(冨樫)政親は父成春の女某が、専修寺に嫁娶している関係から、当然専修寺に加勢した…(冨樫)泰高は…蓮如を我館に迎えて留錫(※¹)せしめ、自ら吉崎道場の施主となった。…(富樫)政親…(文明)六年…同年五月二十八日吉崎御坊を火攻し国に帰りて、本願寺支院を毀破し、主なる悪漢は緇素(※²)の別なく悉く戮殺した」〈或るネット情報〉との記述に首をかしげる。そうであるなら、この時本願寺は政親と結ぶ筈がなく、或いは、政親が後(1488年)に本願寺派を敵に回して共に戦う「高田(専修寺)派」と同盟した「理由」に必ずしもならない。「吉崎御坊」は、確かに文明6年(1474)「失火」に遇う。無論「放火」もあり得るが、仮坊舎も文明7年(1475)、朝倉経景に焼かれた。完全に破壊したのは永正3年(1506)、越前の朝倉貞景である〉

〈注(※¹)留錫は「りゅうしゃく」と読む。行脚中の僧が一時他の寺院に滞在すること〉

〈注(※²)緇素は「しそ」と読む。「緇(し)」は「黒(衣)」を意味し、「素」は白衣。なので「緇素」とは、僧侶と俗人のこと〉

〈注(※4)高田派と三門徒派について「…この地(加賀の江沼)の時衆は、一向宗と呼ばれた浄土真宗が盛んになる戦国時代に入ると、ほとんど姿を消しました。/時宗に次いで念仏の教えを広めたのは親鸞を開祖と仰ぐ浄土真宗でしたが、最初に真宗の念仏を江沼に伝えたのは本願寺の系列ではなく、親鸞に教化され関東の門徒たちが直弟子の真仏を中心に結集した高田派でした。この法系を引く三河門徒団が、尾張・美濃を経て越前大野郡に進出しました。その中心人物が越前大野に専修寺を開いた如道で、この越前に展開した門徒団を総称して三門徒派といい、室町初期までに越前で強い勢力をもつようになりました。やがて江沼郡にも教線をのばし、その分派が江沼に移って、後の月津の興宗寺、小松の本覚寺、山代の専光寺となりますが、これらの諸寺はいずれも本願寺8世蓮如の布教後に転派し、本願寺派となっていきました。…数少ない本願寺派の寺院は孤立した存在となっていました。… これらが本願寺系として勢力を拡大していくのは、本願寺7世存如が宝徳元年(1449)に河崎専称寺へ『親鸞絵伝』を下し、蓮如を伴って越前から加賀に入り、布教活動を開始してからのことで、それ以降、高田派と本願寺派は加賀・越前において激烈な抗争に入っていくことになります」(『加賀市歴史文化学習帳Ⅰ』)〉

〈注(※5)蓮如の吉崎退去理由について「【吉崎】…(蓮如は)加賀国の武士勢力に押されて(14)75年に退去」(『山川 日本史小辞典』)は最も無難で頷ける理由だが、「【蓮如】…冨樫氏の攻略にあい退去」(同上)ともあり、同じ辞典なのに、かなりニュアンスが違っている。或いは、「加賀国内の抗争を避け」たとか「門徒の急進化を阻止できなくなった」からとか、「一揆を差配しているとの誤解を与えていないことを周知させるため」とか諸説ある。前掲(※4)の『加賀市歴史文化学習帳Ⅰ』によれば、「守護富樫政親は門徒を弾圧する方針をとるように」なり、この「対決(蜂起)」が、「文明7年(1475)3月」としている。元々、いずれも相手方を利用したとしか思えない素早い対立であった。「吉崎も反政親派の拠点として政親の圧力をうけることになり、結局、蓮如は、同年8月吉崎を退去しました」ともある。尚この情報は、文化庁(平成26年度文化庁文化芸術振興費補助金)も絡む「加賀商工会議所」などの『加賀ふるさと検定』文書なので、信憑性は高いと思われる〉



Ⅴ【「蓮如」と本稿関連の年表】

[注意:▲は『日本史総合図録』山川出版社、簡易で重要度が高い。その他の詳細、◇は『日本史年表』東京堂出版、ほか。月は旧暦]


1262年 弘長2年11月、親鸞没(◇)

1272年 覚信尼、父親鸞の墓を京大谷に移し、御影堂を建立(本願寺の初め)(▲)

(〜中略〜)

1457年 蓮如、本願寺8世となる〈『詳説日本史図録』山川出版社〉

1461年 蓮如、最初の「御文」を書く(▲)

1465年1月 延暦寺衆徒、蓮如の東山大谷の坊舎を襲撃。蓮如、近江国竪田に逃走(◇)

1467年5月 応仁の乱起る(〜77年):細川勝元・畠山政長・斯波義敏ら(東軍)と山名持豊・畠山義就・斯波義兼ら(西軍)、両軍京都で激戦(▲)

1468年 近江堅田本福寺、延暦寺の襲撃をうける〈『詳説日本史図録』山川出版社〉

1471年5月 朝倉孝景、東軍に降り、越前守護となる(◇)

   本願寺如連、越前吉崎道場建設(▲)

1473年3月 山名持豊(宗全)死去(70歳)(▲)

   5月 細川勝元死去(44歳)(▲)

   加賀一向一揆盛んとなる〈『日本史年表・地図』吉川弘文館〉

1474年11月 加賀の一向一揆蜂起(▲)

  (11月 加賀一向宗徒が蜂起、守護富樫政親の兵と戦う(◇))

1475年8月 加賀一向一揆のため蓮如、吉崎を退去(◇)

1477年11月 応仁の乱ほぼ鎮まり、諸将多く国に帰る(▲)

(異説:1478年 京都山科本願寺を建立〈『詳説日本史図録』山川出版社〉/【本願寺】…1478年(文明10)より蓮如が京都山科に再興『広辞苑』岩波書店)

1479年 蓮如、山科本願寺を創建(▲)

1480年 越中の一向一揆〈『読める年表日本史』自由国民社〉

   ○農民の疲弊甚だしく、連年各地に一揆起る(▲)

1484年11月 加賀の一向一揆、甲斐八郎に応じ、朝倉氏景を襲撃せんとする(◇)

1485年12月 山城の国一揆:南山城の国人・百姓ら、抗争中の両畠山軍の国外退去を要求、国人・百姓らの自治をしく(〜93)(▲)

1486年2月 山城の国人、宇治平等院に会合して「国中掟法」を定める(▲)

1487年12月 加賀の一向一揆おこる。富樫政親、高尾城に籠り一向一揆と闘う(◇)

1488年6月 加賀の一向一揆:守護富樫政親を攻め自殺させ、国中を支配(〜1580年)(▲)

   蓮如、一揆の指導者に厳しい叱りの手紙を送る〈『読める年表日本史』自由国民社〉

1489年 蓮如、隠居〈『詳説日本史図録』山川出版社〉

1490年 一向宗の門徒一揆は…能登で守護の畠山義統を倒す武装蜂起が計画され、越中でも…守護代クラスの在地領主をつぎつぎに越後に追放するまでに拡大した〈『読める年表日本史』自由国民社〉

1493年9月 古市澄胤山城国相楽・綴喜両郡を鎮圧(山城の国一揆崩壊)(▲)

1494年 加賀の一向一揆、越前を攻め、朝倉方と戦う〈『読める年表日本史』自由国民社〉

1496年 蓮如、大坂石山別院を築く(石山本願寺)(▲)

1499年 蓮如死去〈『詳説日本史図録』山川出版社〉

1503年「【朝倉孝景】…文亀3年(1503)越前の一向一揆をしりぞけ」(『精選版日本国語大辞典』小学館)

1506年7月 加賀・能登・越中の一向一揆、越前に入るが守護朝倉貞景に敗れる(◇)

  (加賀一向一揆、再び蜂起〈『日本史年表・地図』吉川弘文館〉)

   8月 越前朝倉貞景、一向宗徒を撃退し吉崎道場を破壊(▲)

   9月 越後守護代長尾能景、一向一揆と越中で戦い、敗死(▲)

1521年2月 越後守護代長尾為景、一向宗を禁止(◇)

1531年10月 越前守護朝倉教景、一向一揆を破る(▲)

  (10月 加賀の一向一揆蜂起。朝倉教景、これを湊川に破る(◇))

  (異説:一向一揆、越前朝倉教景を破る〈『日本史年表・地図』吉川弘文館〉)

1532年6月 本願寺光教、細川晴元の求めにより畠山義宜を河内飯盛城に破る。ついで三好元長を和泉堺に攻め、自殺させる(◇)

    7月 大和の一向宗徒、興福寺衆徒と戦う(◇)

    8月 光教、晴元を堺に攻める。摂津の一向宗徒、池田城を攻める。六角定頼ら、法華宗徒を率いて山科本願寺を焼く。光教、大坂に逃れる(◇)

    12月 晴元の兵、摂津教行寺を焼き一向宗徒を殺害(◇)

1533年2月 細川晴元、一向宗徒と堺で戦い淡路へ敗走(◇)

    3月 木沢長政、法華宗徒を率い一向宗徒を摂津伊丹に破る(◇)

    4月 晴元の兵、法華宗徒と共に本願寺光教の兵を堺に破る(◇)

    6月 晴元、光教と和睦(◇)

1534年8月 木沢長政ら、一向宗徒を山城谷山城に攻める(◇)

1535年6月 細川晴元の兵、本願寺光教の兵を大坂に破る(◇)

   この年、細川晴元、再度本願寺光教と和睦(◇)

1536年1月 本願寺光教、道場を山科に再興(◇)

    8月 足利義晴、光教の罪を赦す(◇)

1548年3月 朝倉孝景没(56)(◇)

1554年8月 本願寺光教(証如)没(39)(◇)

1555年7月 朝倉教景、加賀の一向一揆と戦う[宗滴,加闘](◇)

    9月 朝倉教景没(80)[加闘,朝記,朝系](◇)

1556年4月 越前守護朝倉義景、加賀の一向一揆と和睦(◇)

1560年10月 武田晴信、北条氏康と謀り本願寺光佐に加賀・越中の一向一揆を越後に侵入させることを要請(◇)

1563年 この秋、三河の一向一揆蜂起し家康の諸将これに加わる(◇)

1564年2月 松平家康、三河の一向一揆を破る(◇)

1566年10月 北条氏政、一向宗徒が他宗と宗論することを禁止(◇)

1567年11月 朝倉義景、加賀の一向一揆と和睦(◇)

1568年9月 織田信長、足利義昭を奉じて入京(▲)

1570年6月 姉川の戦:信長、浅井長政・朝倉景健を破る(▲)

   9月 本願寺、信長に対抗(石山合戦始まる)(▲)

   11月 伊勢長島の一向一揆、織田信興を殺す(〜74)(▲)

1571年9月 信長、比叡山を焼討(▲)

1572年8月 謙信、越中に出陣し一向一揆を攻撃(◇)

   摂津石山の一向一揆(『読める年表日本史』自由国民社)

1573年2月 足利義昭、武田・浅井・朝倉・本願寺と信長討伐を謀る(▲)

   7月 信長、将軍義昭を追う(室町幕府滅亡)(▲)

   8月 信長、浅井・朝倉両氏を滅ぼす(▲)

   9月 信長、伊勢の一向一揆を攻める(◇)

1574年4月 本願寺光佐、大坂に挙兵し信長の属城を攻める(◇)

   9月 信長、伊勢長島の一向一揆を滅ぼす(▲)

(「信長は…8月2日…男女千余人を殺害し…9月29日、兵粮がつき降伏を願い出た長島城をも開城させ、門徒をことごとく追放…しかし一揆の抵抗はすさまじく…最後まで頑強に抵抗した中江・屋長島の砦…四方より放火して男女二万余人の一揆勢をすべて焼き殺した」『読める年表日本史』自由国民社)

1574年(天正2)泰高の孫(冨樫)泰俊も一向一揆に討たれ(冨樫氏)滅亡〈『山川 日本史小辞典』〉

(異説:「元亀元年(1570)守護冨樫春貞は金沢市伝燈寺で一向宗門徒に討死され、冨樫氏は滅亡する」〈或るネット情報〉)

1575年8月 信長、越前の一向一揆を鎮圧(▲)

1576年4月 本願寺光佐、義昭と通じ摂津石山城を拠点として信長に反抗(◇)

   7月 毛利水軍、木津川口に織田水軍を破り、石山本願寺に兵粮米を入れる(▲)

1580年閏3月 信長、本願寺の光佐(顕如)と和す(▲)

   4月 光佐、石山を退く(石山合戦終る)(▲)

  (9月 柴田勝家、加賀の一向一揆を制圧(◇))

   11月 柴田勝家、加賀の一向一揆を鎮圧(▲)  

1582年6月 本能寺の変:明智光秀、信長(49)を殺す(▲)

1583年4月 賤ヶ岳の戦:秀吉、柴田勝家を破る。勝家(62歳)、越前北庄城(福井)で自殺(▲)

   8月 秀吉、石山本願寺跡に大坂城の築城を開始(▲)

   12月 家康、領国中の一向宗を復活させる(◇))



Ⅵ【朝倉教景は「誰」なのか?】

 『山川日本史小辞典(新版)』には[朝倉教景]の項はない。関連する[朝倉氏][朝倉孝景][朝倉孝景条々][朝倉敏景][朝倉義景]あるのみ。[朝倉氏]本文にも「教景」は出てこない。「朝倉敏景」が孝景の別名として判明するものの、1533年生まれの朝倉義景は「孝景の子」とあるのみ。その「朝倉孝景」が1481年没なので、「孝景の子」が宙に浮く。『コンサイス日本人名辞典[第5版]』には[朝倉教景]の項がある。他に[朝倉宗滴=朝倉教景][朝倉孝景][朝倉敏景=朝倉孝景][朝倉義景]もある。ここでも義景が「朝倉孝景の子」とあるが、50年以上も前に死んだ「孝景」の子として生まれる筈がない。肝心な「(朝倉)教景」であるが、1474年か77年生まれ、やはり「朝倉孝景の子」とある。こちらは、孝景47歳or50歳(享年54)の子として納得がゆく。法名は「宗滴」。「惣領朝倉貞景・義景を補佐し、加賀・越前の一向一揆と戦った。生涯の合戦経験を筆録させた『朝倉宗滴話記』は戦国武将の戦術書・教訓書として著名」というが、「守護(惣領)」とは見做さない。この二つの辞典から少なくとも「朝倉孝景」が二人いることは分かるが、「言いっ放し」で無責任と思わざるを得ない。本件の問題の一つが、「享禄4年(1531)10月 越前守護朝倉教景」の検証だった。もう一人の「朝倉孝景」その人が、越前守護であり、「教景」とも呼ばれていたのではないか、という期待に賭けてみよう。


 襲名など別に珍しくない。例えば「クレオパトラ」は7人いた。カエサルの愛人は「クレオパトラ7世」であるが、私たちは単に「クレオパトラ」として記憶に留め、7人もいたことなど思いも寄らない。別に困らず、混乱もしない。それ程の「有名人」に比べ、取るに足りない「朝倉」の名前は、けれども私を混乱させ、苦しめる。せめて「越前守護」とされた朝倉教景が「何代目の何者」なのか、そこが知りたい(「(朝倉)教景」が子を含め「5人」いるらしいことを後日知る)。


[越前・朝倉家当主の別名と生没年(異説あり)]

(注意:⑴〜⑼の名前は『山川日本史小辞典(朝倉氏略系図)』による)

①⑴朝倉広景(1255-1352/享年98)

②⑵朝倉高景(正景)(父60歳/1314-1372)「足利高氏(尊氏)」より

③ 朝倉氏景(父26歳/1339-1405)「足利高氏(尊氏)」より

④ 朝倉貞景(為景)(父20歳/1358-1436)

⑤⑶朝倉教景(父23歳/1380-1463)「6代将軍足利義教」より

⑥⑷朝倉家景(教景・為景)(父23歳/1402-1450/51)

⑦⑸朝倉孝景(教景・敏景・英林孝景)(父27歳/1428〜1481)「斯波義敏」より

⑧⑹朝倉氏景(父22歳/1449-1481/86)

⑨⑺朝倉貞景(父25歳/1473-1512)

⑩⑻朝倉孝景(宗淳孝景)(父21歳/1493〜1548)

⑪⑼朝倉義景(延景)(父41歳/1533〜1573)「13代足利義藤(義輝/54年改名)」より

◎朝倉教景(宗滴)(父⑦47歳-50歳/1474/76/77-1555/享年79-82)


 朝倉宗滴は、⑨貞景・⑩孝景・⑪義景を補佐してきた重鎮(敦賀郡司)で、勇猛果敢な名将と言われてきた。「宗滴は貞景・孝景の時代から事実上の朝倉家の当主であった」と見る向きは多い。天文1年(1532)12月25日付『六角・朝倉同盟を示す朝倉教景(宗滴)書状』が残されており、外交面でも活躍していたという「証拠」になる。しかし内実はどうあれ、朝倉家の「当主(越前守護)」とする訳にはいかない。⑦朝倉孝景の8男(末子)が◎朝倉教景(宗滴)である……と多くの人が指摘する。

 越前守護・斯波家に仕えていた朝倉家だが、⑦朝倉孝景(たかかげ)が守護に成り上がったことで、彼を初代朝倉孝景と言う。従って、第10代当主の⑩朝倉孝景は4代孝景と言われる。6代将軍足利義教から「教」の一字を頂き「教景(のりかげ)」を名乗った⑤朝倉教景より以降、三代続けて「教景」と称した。その三代目の⑦朝倉孝景も初め「教景」だったが、主家・斯波義敏(越前・尾張・遠江3国の守護)から「敏」の一字を戴き「敏景(としかげ)」を名乗ったとされる(『朝倉始末記』など)。しかし、西軍方として斯波義敏(東軍方)と戦い、後に東軍方に寝返り越前一国を奪い盗ったので、「敏景」という名は恐らく使いづらかっただろう。尚、⑦朝倉孝景は、法名が「英林宗雄」なので、「英林孝景」として、「宗淳孝景(法名「大岫宗淳」より)」の⑩朝倉孝景とは区別されている。

 件の越前守護が、⑩朝倉孝景(宗淳孝景)であったことは間違いない。この時39歳である。方や、朝倉教景(宗滴)は58歳(異説あり)、まだまだ十分に守護を補佐出来たと思われる。そこで問題になるのが、⑩朝倉孝景も「朝倉教景」を名乗っていたのか? である。残念ながらその確証は全く見当たらなかった。しかし、朝倉家の最期(系統は徳川家康に安堵されていたが)となる⑪朝倉義景が初め「延景」を名乗ったが、後に将軍・足利義輝(義藤)の「義」を戴き「義景(よしかげ)」と改めて自称したことを思えば(※)、直前の⑩朝倉孝景まで代々「教景」と称した可能性は残っている(信長に滅ぼされた朝倉氏がその名にあやかった6代将軍義教と13代将軍義輝が、足利(室町時代)15代中の、暗殺された唯二の将軍というのも歴史の皮肉だ)。


〈注(※)朝倉義景と足利義輝・義昭の関係:永禄8年(1565)第13代将軍足利義輝が自害に追い込まれると、弟の一乗院覚慶(のち義昭)は朝倉義景を頼った。後に義昭が願う上洛を朝倉義景は拒み、引き受けて上洛を果たした織田信長が天下に近づき、越前朝倉は攻め滅ぼされた、という構図になる。歴史に「もしも」はあり得ないが、「その時上洛を引き受けていたなら?」と考えてしまう。残念である〉



Ⅶ【年表疑惑の解明-手がかり-】[「享禄の錯乱(大小一揆)※¹」]

「[加賀一向一揆]…1531年(享禄4年)には享禄錯乱といわれる内紛があり」(『百科事典マイペディア』)、「加賀一向一揆の主導権をめぐって、賀州三カ寺(本泉寺・松岡寺・光教寺)と越前から亡命していた超勝寺が抗争し、本願寺の支援を得た超勝寺が勝利を得ました。加賀・能登・越前の守護勢力をも巻き込んだ…」(石川県立図書館情報)

〈注(※¹)一体誰がそう名付けたのか、享禄(きょうろく)の「錯乱」や「大小」の意味が分からない。対立する「大小」を逆に指す場合もあり、混乱を来す〉


 越前では、これに先立ち、

「永正3年(1506)7月、加賀・能登・越中の一向一揆、越前に入るが守護朝倉貞景に敗れる。8月、貞景、吉崎道場などを破壊」(『日本史年表』東京堂出版)

——という大事件があった。先ず越前の本願寺派が蜂起して他国の一揆勢「約30万人」が呼応したという話も聞くが、その事情は定かでない。因みに、加賀守護を倒した時の「一向一揆(1488年)」勢は「20万人」といわれるが(※1)、この手の「数」はあまり信用しない方が良い。それはともかく、永正3年(1506)の一揆は、加賀から越前に侵攻した一揆として理解できる。しかし、加賀一国を支配していた筈の享禄4年(1531)に、何故、その支配国内で再び一向宗徒が「蜂起」しなければならなかったのか? とても不思議でならなかった。その答えのカギが、それ以前の、この「加賀・能登・越中の一向一揆、越前に入る(1506年)」ことで起きた交戦であり、その結果として、越前から閉め出され、逃げ延びた一向宗徒を軸として引き起こされた、加賀国内の「内紛」=「享禄の錯乱(1531年)」であったことが、ようやく理解できたのである。

 先を急ごう。


[お断り:以下は、越前・加賀など長年に亘る因果関係が錯綜し、諸々の情報に錯誤など多い為、一々論拠などを示さず、単に「私が納得した」形でまとめた]

 「享禄の錯乱(1531年)」の25年前、永正3年(1506)——本願寺派中興の祖・第8代法主蓮如は、亡くなる前に隠居した。子の実如が跡を継ぎ(1489年)、暫くして蓮如が逝く(1499年)。ひ孫の証如が第10代法主(1525〜1554年)となり、「本願寺派」が移りゆく時代——実如49歳、証如はまだ生まれてもいない。この戦いは、「九頭竜川大会戦(九頭竜川の戦い)」と呼ばれている。

 九頭竜川は越前北部に流れる大河である。迎え撃つ越前・朝倉方の総大将が朝倉宗滴(教景)であった(宗滴30歳頃)。こちらの兵は僅か「1万2千(約1万)」といわれる。30万対1万人。それほどの「大会戦」でありながらあまり話題に上らない。「一乗谷(朝倉氏の拠点)」は九頭竜川の南に位置する。その九頭竜川寄りに有名な曹洞宗大本山「永平寺」がある。

 それが「一揆」であったことは間違いないが、ここで問題にしたいのは次の2点。この年表では、「守護(朝倉貞景)」が一向一揆を破ったとある。大将の「教景(宗滴)」ではない。この防衛戦以降、越前から一向宗徒が閉め出された問題、そのことが「年表から読めない」ことである。


 北陸七道とは、佐渡・越後・越中・能登・加賀・越前・若狭をいう。加賀の大元は越国(こしのくに)である。それが越前・越中・越後に分かれ、越前はさらに越前・加賀・能登の三国となった。この頃の加賀は、南北(江沼郡・加賀郡)から分立した江沼郡、能美郡、石川郡、河北郡(加賀郡)の四郡で成り立っていた。この歴史が北陸の関係性であり、加賀の「南北」であり、当時の「惣村」の四つのまとまりであった。後に浸透し、宗派の勢力図を塗り替えていく加賀の一向宗徒(本願寺派)も、山田光教寺(江沼郡)、波佐谷松岡寺(能美郡)、若松本泉寺(石川郡・河北郡=元加賀郡)という三寺=「加賀(加州,賀州)三ヶ寺」を中心に組織され(※2)、加賀一国の支配が保たれていたとされる(石川・河北郡の清澤願得寺を含めて「加賀四ヶ寺」と言う人もいる)。

 加賀三ヶ寺は初め、それぞれ蓮如の次男以下が治めていた。山田光教寺(1474年頃「山田坊」→1486年頃)は蓮誓(※¹)(4男)、波佐谷松岡寺(1478年頃)は蓮綱(3男)、若松本泉寺(1487年頃移転)は蓮悟(7男)で、清澤願得寺(1478年頃「古橋御坊」)=若松本泉寺の支坊は蓮悟(7男)→実悟(10男/第23子)が焼失後河内で再興。二俣坊(河北郡)と越中の井波瑞泉寺が蓮乗(2男)である。

 蓮如の男児は13人だった。長男・順如(後死去)と5男・実如(後の9代法主)は手元に置いていたらしいが、加賀は4人-2男・3男・4男・7男(前述の4人-蓮乗、蓮綱、蓮誓、蓮悟)、摂津・河内などに6人-8男、実賢(9男/蓮如最後の妻・蓮能—兄は能登・畠山家俊—の長男/1505年「河内国錯乱」で追放)、実悟(10男/清澤願得寺→河内・願得寺/廃嫡?)、実順(11男/「河内国錯乱」で失脚?)、12男(「河内国錯乱」で失脚?)、実従(13男/「河内国錯乱」で失脚)であり、重要な役割を果たす蓮淳(6男)は、近江顕証寺(「願証寺」?※²)を任された。

 第10代法主証如(蓮如のひ孫/5男実如の子円如の長男)の母は、蓮淳の娘であり、超勝寺・実顕の妻とは姉妹である。僅か10歳で法主となった証如(光教)は、母と外祖父・蓮淳の補佐を受けていた(証如の「後見人」)。

〈注(※¹)「顕誓」も散見するが、蓮誓の長男(3男?)なので、この場合は「蓮誓」が妥当。但し、「享禄の錯乱」時の当事者は子の「顕誓」〉

〈注(※²)近江「顕証寺」は長男・順如→死後蓮淳が住持。願證寺は近江に実在するが、伊勢「願証寺」を指す。共に蓮淳住持の浄土真宗本願寺派(因みに近江の願證寺も本願寺派)だが、近江を拠点として見るなら、「顕証寺」が妥当〉


1.[一向宗徒の対立、その直接の原因]

 元管領の細川高国が自刃した(享禄4年6月)。「6月4日、(三好)元長は全軍をもって一挙に天王寺の高国陣営を襲撃…6月8日、尼崎の大物の広徳寺(※¹)で(高国は)自害…(12代将軍足利)義晴の亡命政権にかわって新たに足利義維を擁立した細川晴元の政権、いわゆる〝堺公方府〟が三好元長らの軍事力を背景に機能しはじめる」(『読める年表日本史』)。そして、「(高国を逐い、堺にいながら京都を支配した…細川晴元は、三好)元長の強大化を嫌い、一向一揆を動かして自刃させる(※3)」(『山川日本史小辞典』)。

 細川晴元は、北陸にある細川高国方荘園の押領を、本願寺(法主・証如)に求めた。その実務を蓮淳が甥の超勝寺・実顕らに任せたが(※²)、「賀州三ヶ寺に相談なく、荘園代官を超勝寺門徒に交代させた」ことに対し、賀州三ヶ寺は抗議した。それが直接の原因として両派の交戦が始まった、とされる(※³)。

〈注(※¹)「(摂津国)応徳寺(で自刃)」(『コンサイス日本人名辞典』)とあり、「広(徳寺)」ではない〉

〈注(※²)本願寺の事務総長格・下間筑前頼秀と下間備中頼盛兄弟も関係しているらしい〉

〈注(※³)蓮悟と蓮綱を「両御山」と言う。超勝寺・実顕が、「両御山」の主導権を否定する代官命令を出して反感を買ったという説もあるが、本件との関連は不明。さらに、「九頭竜川の戦い(敗戦)」で越前を追われたことを根に持つ「本覚寺」蓮恵が、蓮悟の責任を追及し、却って「破門」されたことが挙がる。また、「細川政元の養子澄元、澄之の争いが飛び火したもの」と見る向きもある。〉


 賀州三ヶ寺は加賀の門徒を率いて超勝寺を攻撃(「小一揆」加賀門徒派の蜂起)。蓮悟に破門されていた本覚寺(蓮恵)や反発していた越中・三河などの門徒は超勝寺を支援した。蓮淳は、法主・証如の名の下に、賀州三ヶ寺の討伐を命じた(「大一揆」本願寺派の決起)。それ故に、賀州三ヶ寺側の寝返りが相次ぎ、松泉寺と本泉寺が落ちた。願得寺も焼失。

 この敗色が濃い「小一揆派」を支援したのが、能登の畠山軍(畠山家俊ら)と加賀の名目上守護・冨樫稙泰(富樫泰高の孫)である。そこに、越前・朝倉氏(朝倉孝景)も加わった。


2.[高田派と加賀三ヶ寺(※2)]

 現在真宗10派のうち、本願寺派は「浄土真宗」、他派は「真宗」を用いているそうである。元々加賀で根を張っていた高田(専修寺)派は、蓮如から「異端」として非難されていた。

 親鸞は弟子や教団をもたなかった。私見として、その親鸞の理念からすれば、本願寺第8代法主・蓮如が強力に推し進めて確立した「三代伝持」(法然・親鸞・信如の三者を経て真宗の法流は覚如が受け継ぐ)こそが、寧ろ「異端」と思われる。真宗の真髄は「専修(せんじゅ)念仏」なのである。親鸞の祖廟を守る人の「血統」は大切であるが、宗教(思想)と何の関わりもない。だから「血統」を重んじる系統が民衆(農民)の支持を得られなくなったとしても不思議ではない。そうして親鸞の「墓守(本願寺派)」が没落し、「異端」が隆盛を極めていく。その一つが「高田(専修寺)派」(本山『専修寺』三重県。1225年頃親鸞が下野国(現栃木県)高田に創建と伝え、真慧〈しんね〉が1465年伊勢に移す)である。高田派は、初期真宗教団中の最大勢力だったらしいが、一向一揆では当然のごとく常に「反本願寺」側に立っていた。さらに越前に拠って立つ、「仏を拝む必要がない」とまで説教した「三門徒」派も、異端の最たるものであろう。

 高田派は、文明6年(1474)の「加賀一向一揆」で守護・冨樫幸千代に味方して、兄・富樫政親に加担した本願寺派に敗れた。長享2年(1488)の「加賀一向一揆」では、逆に、守護・富樫政親に味方して、守護を自害に追い込んだ「本願寺」派に破れた。高田派は、常に「体制派」だったと言い換えることもできる。蓮如登場を契機とし、加賀での一連の「事件」を通じて、その多くが「本願寺」に転宗した。追放され、衰退した彼らは、何処へ行ったのか?

 永正3年(1506)の「一向一揆」は、加賀・能登・越中の衆徒が大挙して越前に攻め入った。この時も、加賀から逃れた人も多くいたであろう「高田派」や越前「三門徒派」が、越前守護・朝倉貞景に味方している(九頭竜川の戦い)。「加賀一向一揆」の勢いは九頭竜川で食い止められて、今度は逆に、越前から「本願寺派」が追放されてしまったのである。そうして、残された「本願寺派」が高田派に転宗するなど、越前で勢いを取り戻す。その前年、永正2年(1505年)には、本願寺派の法主交代騒ぎ(「河内の錯乱」)も起きていたが(※4)、高田派内部でも相続争いがあったようである。

 享禄4年(1531)に加賀で持ち上がった「享禄の錯乱」では、越前の守護・朝倉氏や三門徒と共に、高田派は「賀州三ヶ寺」に味方した。何とも言いがたい複雑な真宗事情であるが、「反本願寺派」という点で旗幟鮮明であったのが高田派。然るに、本願寺を支えるべく配置された蓮如の息子達が、加賀一国を担っていく中で、「反本願寺派」として戦う羽目になるのは皮肉だ。逆に言えば、そういう存在でなければ、一国を治め維持するなど、できなかったとも考えられる。

 敢えて言わせて貰えば、高田派と本願寺派は別物である。そうして、本願寺の「内紛」と捉えることが出来ない、単なる主導権争いに過ぎない。実権がなかったと言われるが、「守護」を戴かなければ成り立たない「自治」とは何であろうか? そこには「起ち上がった民衆(農民)」が見えてこない。彼らの喜ぶ姿も、私には見えない。「天皇陛下万歳」と叫ばず処刑された北一輝-2.26事件の理論的指導者と慕われた-その「顔」が目に浮かんだ。


3.[「享禄の錯乱」の推移]

[注意:以下は、『朝倉始末記』に拠ると思われる情報などを含む「月日」の記事としてまとめたもので、月日は目安であり信憑性は未確認=不明]


★小一揆側:加賀三ヶ寺(松岡寺・蓮綱/3男、光教寺・顕誓=亡き蓮誓/4男の子、本泉寺・蓮悟/7男)+願得寺・実悟/10男、加賀門徒衆、高田派、三門徒派、加賀守護・冨樫稙泰、能登・畠山家俊、越前・朝倉教景(宗滴)、越中・守護代(遊佐・神保)

☆大一揆側:本願寺派・蓮淳/6男「後見人」(法主・証如/曾孫15歳)、超勝寺(越前の加賀亡命大寺)・実顕、本覚寺(越前の加賀亡命大寺)・蓮恵、越中・飛騨・尾張・美濃・畿内・三河門徒衆、白山本宮


享禄4年(1531)

 5月 小一揆派が先制攻撃(「決定」されただけ?/閏5月9日?)

 6月 本願寺派の門徒衆が、飛騨から加賀入り(閏5月?)

 7月下旬 大一揆派反撃(本願寺派支援)。若松本泉寺を焼き払い、波佐谷松岡寺を攻撃

 (小一揆派、越前・朝倉氏に援軍要請)

 8月19日 先鋒隊の朝倉方が大聖寺到着(大将堀江景忠)。能登の畠山、越中の遊佐・神保の救援

 10月26日 朝倉宗滴、湊川(手取川)を越え石川郡へ、大一揆側敗走(越前の勝利)(9月26日?)

 10月28日 越前陣地側に戻った朝倉宗滴ら、大雨のため渡河できず

 11月2日 大一揆側が小一揆と能登・越中軍勢を蹴散らす。畠山家俊の敗死(「太田合戦」大一揆側の勝利)

 11月7日 朝倉宗滴の撤退(手取川まで軍を進めるも、能登軍勢が壊滅したため撤退)。以降、本願寺派の増大・一元支配、加賀三ヶ寺の没落(光教寺も敗れ、大一揆側の勝利)(※5)


〈注(※1)20万人について「其以前越前合力勢賀州に赴く。然りといえども一揆衆二十万人、富樫城を取回く(とりまく)」『蔭涼軒日録』〉

〈注(※2)加州三ヶ寺について「蓮如が吉崎に進出する以前に、河北郡二俣の本泉寺を蓮如の次男蓮乗が嗣ぎ、3男蓮綱は能美郡波佐谷の松岡寺を開いていました。そして、江沼郡の山田に山田坊が開創され、そこに文明18年(1486)頃に蓮如の4男蓮誓が江沼郡の門徒から取り立てられて入り、光教寺と号することになりました。この蓮如の子が住持する寺を「加州三ヶ寺」、蓮乗・蓮綱・蓮誓の3兄弟を「三山の大坊主」といいます。蓮如の後を継いだ本願寺9世実如は5男で、この三ヶ寺は加賀で本願寺と最も血縁の濃い一門でしたから、長享一揆以降、加賀の一向一揆はこの三ヶ寺によって統制される、いわゆる「加州三ヶ寺体制」がしかれました」(『加賀市歴史文化学習帳Ⅰ』)

「山田光教寺は、文明年間に吉崎御坊にあった蓮如によって開かれ、文明18年頃に蓮如の四男蓮誓が入寺した。享禄4年の『享禄の錯乱』で越前超勝寺方に攻められ、破れた蓮誓の子顕誓は越前へ逃れ、寺は廃寺となった」(光教寺)〉

〈注(※3)細川晴元の支援について「本願寺派が細川晴元を支援(1532.6)/晴元の来援要請を受けた本願寺光教(証如)は、6月15日、木沢長政の居城河内の飯盛を包囲していた同国の畠山義宣を攻め、自殺させた。ついで20日には、長政らとともに晴元と義絶した三好元長を和泉の堺南荘に攻め、元長をも自殺させた」「(元長打倒によって門徒の一揆が一挙に急進化した)一向一揆の反抗を阻止するため、晴元方は京都の法華宗信徒の力を借りた。が、今度はその法華宗信徒の暴走を招く結果になった。ついには両教徒間の決戦となり、敗れた法華宗信徒が京から追われたのである」(『読める年表日本史』自由国民社)〉

〈注(※4)河内国錯乱について「1505年、法主・実如は、細川政元の要請を受けて河内の門徒に守護畠山家への攻撃を命じた。しかし、蓮如の最後の妻蓮能が畠山家出身であったことから、河内の門徒はこの命令に反発し、蓮能の長男で蓮如9男・実賢を担いで法主の交代を求めた。攻撃は中止されたが、蓮能と息子らが捕縛、追放された。河内国錯乱という」(或るネット情報より)。尚、養子二人を抱えた管領・細川政元は、その対立から、二年後に暗殺された〉

〈注(※5)大小一揆の結果(粛正)「小一揆側では、蓮如三男の蓮綱と子蓮慶が処刑され(※¹)、七男蓮悟、十男実悟は逃亡、冨樫稙泰は追放…加賀は本願寺の蓮淳らが直接収めるところとなる。1546年に支配拠点の尾崎御坊(※²)が建てられ、寺内町が現代の金沢となる」(同上の或るネット情報より)〉/「洲崎氏など加賀一揆の有力指導者たちも多数越前や能登へ亡命。この錯乱の結果、加賀支配権は超勝寺・本覚寺が掌握する」(或るネット情報)〉

〈注(※¹)「蓮綱」は、幽閉後に死去したとの有力な説あり〉

〈注(※²)「尾崎」は恐らく誤り。「【金沢】…1546年(天文15)に建設された一向宗の金沢御堂〈みどう〉(尾山御坊〈おやまごぼう〉)の寺内町〈じないまち〉として始まった」(『日本歴史大事典』小学館)や「【金沢】…1471年一向宗徒の道場(御山〈おやま〉御坊)の寺内町から出発。1580年一向宗徒を討った佐久間盛政が同地に尾山城を築城…」(『日本史事典 三訂版』旺文社)の解説は相違するが、両説は「尾崎御坊」ではない。尚、大阪に「尾崎御坊」と言われる『西本願寺尾崎別院』がある〉



Ⅷ【年表の結論】

初めに戻ろう。次の年表(特に⑴⑵)が相反するので問題としていた。

⑴「(享禄4年)1531 一向一揆、越前朝倉教景を破る」(吉川弘文館)

⑵「…10月 越前守護朝倉教景、一向一揆を破る」(山川出版社)

⑶「…10月 加賀の一向一揆蜂起。朝倉教景、これを湊川に破る[宗滴、加闘]」(東京堂出版)

⑷「…越前の守護朝倉教景が、加賀の一向一揆を同国の湊川に破った」(自由国民社)


 大筋で、駒は出そろった。以下、簡単なストーリー。

 朝倉教景は守護ではない。小一揆派(加賀三ヶ寺)の要請を受け派兵した越前守護朝倉孝景(宗淳孝景)も「教景」と称した可能性が残るものの、この朝倉教景は「朝倉宗滴(教景)」である。そうして、一向宗徒は蜂起したが「一揆」ではない。明らかな「内紛」で、加賀の支配権を巡る権力闘争であった。享禄4年(1531)10月、宗滴(教景)は湊川(加賀の手取川)に侵攻し、大一揆(本願寺派)を撃退する。しかし翌月に入ると能登勢が総崩れ、朝倉方は撤退して、「本願寺派」の圧勝で終わる。以降加賀は、本願寺の直接支配下に置かれた。


 戦いに勝ち負けはつきものだ。「一騎打ち」で有名なあの「川中島の戦い」も五度起きたが、勝敗は決さなかった。実際の戦は、もっとあるが、それを一々記すようなことは凡そ趣味の領域でしかない。故にその時「破った」とするのも「破られた」と見るのも間違いではなかろう。しかしやはり重要なのは、そして何が変わったのか、ではあるまいか。

 宗滴が一向宗を破ったとしても、この場合さほど重要ではない。一向宗徒が他国の侵略から加賀を守り抜いたのだ。本願寺の支配が確立した訳である。しかしながら、加賀三ヶ寺に味方した冨樫稙泰(たねやす)を追放しても、別の「守護」を据えた。そういう自治の実際の有り様を探っていきたい……が、時間切れ!

(えっ? 結局何が正しかったのかって訊きたい? 答え:全て間違い!)

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