第4話 鼠小僧は「義賊」だった(その2/完結編)

鼠小僧は「義賊」だった(その2/完結編)


3)「小塚原」と「鈴ヶ森」の違い(次郎吉はどちらで刑死したのか?)

◇〈江戸300年の舞台裏/青春出版社〉によれば、

「家康が江戸に入府する前、処刑場は日本橋本町4丁目にあった」が「のちにこの二カ所(鈴ヶ森と小塚原)に移された」

「一つは、まず本材木町に移され、これが芝田町、最後に鈴ヶ森へと移された」

「もう一つは、浅草鳥越に移され、次に日本堤下に移されたあと、小塚原へ移された」

「鈴ヶ森は、江戸への西からの入り口付近にあり、小塚原は東からの街道付近にある。処刑場を江戸の入り口につくることで、新たに江戸に入ってくる者たちに、処刑された者の姿が見えるようにした(警告の意味)」

「どちらで処刑されるかは、当初はどちらが犯行現場に近いかで決まった。のちに、日本橋より北に生まれた者は小塚原…南に生まれた者は鈴ヶ森で処刑されることになった」

◇〈江戸博覧強記/小学館〉によれば、

「死刑のなかでも磔・獄門・火罪は、鈴ヶ森(品川)と小塚原(浅草)の刑場で処刑された」

「刑場は、受刑者の犯行場所、あるいは江戸出生の人については出生地に近い方が選ばれた」

「小塚原刑場では獄死者・刑死者などの埋葬も行われた」


 次郎吉最後の犯行現場が「日本橋浜町」である。日本橋の少し北。父親が勤めていた歌舞伎小屋の『中村座』も日本橋近辺(当時は堺町)にあった。次郎吉の出生地は特定出来ないが、「江戸の日本橋付近」が最有力(※)。押し入った武家屋敷(「有名な大名屋敷の殆ど」とも言われる)は江戸城を中心に半円状に広がっていたが、南は北品川宿辺りまでで、鈴ヶ森はその遙か南に位置していた。犯行場所から推定されるのが「小塚原」である。しかしそこには、埋葬された可能性が残るものの、「お墓」はあるが遺体はない。

 『中村座』が開設されたのは、その前身『猿若座』として元和10年(1624)である。江戸大火で幾度か焼失し、「赤穂浪士」切腹直後に上演された演目『曙曽我夜討』が僅か3日で禁止されるなど、老舗らしい話題も多くある。父親がその近辺に住み、次郎吉がそこで生まれたならば、やはり「小塚原」と考えられる。

 しかし「愛知(三州)」生まれ説もある(※)。その場合は「鈴ヶ森」という可能性も否定できない。結論(推定)として、「判決文」にあり(「浅草に於て獄門」)、お墓もある「小塚原」以外考えられないのだが、両説併記や、かなりの頻度で「鈴ヶ森」と断定されてもいる。典拠が何もなければ「噂」さえ出ないだろう。

 「鈴ヶ森」と断定する根拠……それは一体どこにあるのか?


〈注(※)江戸日本橋or(元)大坂町や愛知県蒲郡市生まれという説がある。「今の東京都中央区・大伝馬町と富沢町の境あたりで生まれた」〈裏ネタ日本史/宝島社〉や「元吉原(現在の日本橋人形町)に生まれる」〈ウィキペディア『鼠小僧』〉とも。また、「天保三年(1832)に処刑された鼠小僧次郎吉の家が、(長谷川町、現在の中央区日本橋掘留町二丁目)三光稲荷と同じ路地(三光新道)にあり、次郎吉の母親と妹が住んでいた・・・次郎吉より…若かった…祖母の祖母は近所に住んでいて、次郎吉の姿も間近で目撃して」いたという記事も見かける〉


4)「市中引き回し」について(次郎吉の最期)

◇「処刑当日、馬の背に乗せられた次郎吉は、牢屋の裏門から表に出た…薄く化粧をし、口に紅をさしていたという。死装束は白の長襦袢に縮青梅の羽織、黄色の帯に黒の腹巻き姿だった。まるで歌舞伎役者だ。牢役人の配慮であろうか。次郎吉のうわさは、江戸じゅうに広まっていたようで、人々は一目、次郎吉の姿を見ようと周囲に詰め掛けた」〈日本史の雑学事典/日本実業出版社〉

◇「(鈴ヶ森で磔になったが、)次郎吉は薄化粧をしていたという」〈読める年表日本史/自由国民社〉

◇「処刑当日は女装していたそうである」〈裏ネタ日本史/宝島社〉


 有名な『甲子夜話』には次のような記述がある(らしい)。文政4年(1821)から天保12年(1841)没するまで、隠居した平戸藩主が綴ったこの随筆には「定評」があり(※1)、奇しくも次郎吉が「活躍」し刑死するまでの年間を挟んでいる。飽くまでも一個人の「見聞」に過ぎないが、ここで問題にしたいのは、松浦静山が何故こうまで詳しく鼠小僧の「(同時代)情報」を知ることができたのか、(多くの人が援用している)その内容は正確な情報だったのか、である。


—引用文例『松浦静山 甲子夜話』〈高野澄編訳/徳間書店〉より

「鼠小僧という盗賊のことは以前から耳にしていたが、最近詳細を知ったので記しておく。…金に困らぬ鼠は何人かの女を囲っていた。…この女どもを捕らえようと町方同心が駆けつけたが、どの女も『私は先日離縁されました』と離縁状を見せ、関係ありませぬ、とまるで相手にならなかった。変事を予測した鼠が離縁状を渡しておいたに相違ないが、盗人にはそれなりの仁義があるものと考えられる(※2)。…吟味では泰然とし、怖れる風はない。『天罰、不服はなし。どのような高塀でも難なく飛び越えて来たこの鼠、捕まった姿の情なさ、運の尽きであろう』。…十七年にわたる盗みだ、最近十年の盗みが約三千両と記憶はあるが、それ以前は覚えていないと言っている。ふだんの鼠は、博奕を別にすれば実直な人柄、冬にも袷一枚着るだけ、これといった贅沢は見せなかった。…武家風というわけではなく、実直な職人の風。派手な縞をうまく着こなしていた。長唄が上手で、人に招かれて歌ったことも多い。旗本の家に行ったこともあるという。吟味拷問には少しも臆さなかった。市中引回しには大勢の見物人だったが、鼠は見物人を見て笑いながら引かれて行った」


〈注(※1)「松浦静山が著した随筆『甲子夜話』の一節に、町方の人口は57万人、これに対して、武家の人口は2億3658万人余という途方もない数字がしるされている」〈大江戸知れば知るほど/実業之日本社〉——書籍の監修が『江戸東京博物館長』なので本当なのだろう・・・松浦静山の「見識」とはこの程度だったのか? という落胆が私を『甲子夜話』から遠ざける〉

〈注(※2)「搦めとは、個人の責任だけで済ませず、家族・親族から五人組という近所の人まで巻き込んで、連帯責任をとらせる家族刑(縁坐)、近所仲間のお附合い刑(連坐)を指す。幕末、この縁坐・連坐は大きく制限されたものの…」〈大江戸知れば知るほど/実業之日本社〉〉


【(次郎吉の)辞世(と言われる一句)】

「天の下 ふるきためしは白波の みこそ鼠とあらはれにける」

「天が下 古き例(ためし)は しら浪の 身にぞ鼠と 現れにけり」

など諸説あり、漢字や平仮名が入り乱れている(後世の創作という説も)。

 

 「辞世」の原文らしき一文が、私が見たのは画質がとても悪い画像で、かつ草書が苦手なのでハッキリ読めない。敢えて無理に読もうとすれば(漢字と平仮名の区別はある程度分かる。以下は恐らく間違いなので、くれぐれも鵜呑みにせぬようご用心)、

「天カ下○るきためしよ(ハ?)志ら波の

 身○○鼡とあら○れるな(け?)り」

かな?

 辞世の「鼡」は「鼠」に見えなくもない。他方明快な新発見は、例の「判決文」にある「異名鼠小僧事」という引用で、画像を再度見直したら、これも「(異名)鼡(小僧事)」と読めたこと。「鼡」は鼠の俗字である。

 引用の古文書『鼠小僧次郎吉盗入候御名前并金高及仰渡』でも気になったことが、例えば20両は「二十」「廿」「弐拾」「二拾」の四通りで記載されている統一性の無さ。私が仮に当時「公文書」を書く立場なら、漢字の不統一などあり得ないし、俗字も使わない(仮に「俗字」を使うなら俗字で統一する)。


5)次郎吉の「お墓」は5つ以上あった!

 次郎吉の墓は東京に二つ。これは私が実際に見て確かめたから間違いない。前回「二つあった」と書いたのだが、さらに西之郡村(愛知県蒲郡市)出生説によりその地に一つ(『委空寺』にあるという)、その他愛媛県松山市、岐阜県各務原市等にも「義賊に恩義を受けた人々が建てた等と伝えられる墓がある」〈ウィキペディア『鼠小僧』より〉らしい。

 両国回向院にある墓石の裏は残念ながら見忘れたが、「裏面には『大正十五年十二月十五日 建立』、(裏面)左側には『永代法養料金 五拾圓也 細川仁三』と刻まれている…明治十二年一月の『朝野新聞』によると歌舞伎の市川一門の一人である市川団升が、狂言が当った礼として碑と永代供養料十円の寄付を行うほどの熱の入れようであったと伝えており、施主として刻まれ、墓の横にも石灯籠を寄進している。細川仁三とは市川団升のことであるとみる説もある」〈墨田区史より〉に従えば、お墓の建立は1926年(大正15年)とかなり新しい。明治12年(1879年)は次郎吉の刑死から47年後だが、既に(石)碑があったと読める(※)。

 歌舞伎や講談が史実を誇張し創作するのは当然だろう、「当たれば」お返しもする。古くなり消失した墓が建て直されることもある。身内なら、遠い故郷にもお墓を建てたいと願うもの。墓が複数あることは別に珍しいことではない。しかしそれが「義賊に恩義を受けた人々が建てた」としたならば、話は別だ。


〈注(※)「墓を建てたのはヒーロー好きの商人・伊勢屋四郎兵衛と伝えられている」〈或るネット情報〉もある〉


6)鼠小僧が(最後に)捕まったのは、いつだろう?

◇「1832年5月4日、浜町(中央区日本橋浜町)にある上野国小幡〈おばた〉藩(群馬県甘楽〈かんら〉郡)・松平宮内少輔〈くないのしょう〉(※)の屋敷に忍び込んだところを、ついに同心の大谷木七兵衛に捕らえられた」〈日本史の雑学事典/日本実業出版社〉

◇「天保3(1832)年5月5日、江戸浜町(中央区)にある松平宮内少輔〈くないのしょうゆう〉(※)の屋敷外で、塀を乗り越えてきた盗賊が町奉行配下に捕縛された」〈面白いほどよくわかる江戸時代/日本文芸社〉

◇「天保3年(1832年)5月8日、鼠小僧次郎吉、松平忠恵〈ただしげ〉邸で捕縛」〈江戸時代年表/小学館〉

◇「天保三年(1832)5月9日、日本橋浜町の松平宮内少輔宅に忍び込んだ処を見つかり逮捕されました」〈或るネット情報〉

〈注(※)宮内少輔は「くないのしょうゆう」「…しょうふ」とも読むが「くないのしょう」が一般的。尚、「(浜町の松平宮内)大輔(の屋敷に潜入したところを、近習の侍にとり押えられ、町奉行の手のものに引渡された)」〈読める年表日本史/自由国民社〉という記述もある。「大輔〈たいふ〉」は「少輔」の一つ上の位だが、恐らく誤りだろう〉


 次郎吉が捕縛されたのは、天保3年(1832)5月4日〈日本実業出版社〉、5月5日〈日本文芸社〉、5月8日〈小学館〉、5月9日〈或るネット情報〉と、見事に違う4件が出揃った。何じゃこりゃ?(探せばまだ他にあるかも知れない。私の力量では特定できないが、5月8日が最有力とみる。何故なら、その『江戸時代年表』監修が、信頼する山本博文-東京大学史料編纂所教授-だからという個人的理由)。いや、待て、「1832年4月(天保3年)ねずみ小僧は、ついに捕らえられ」〈或るネット情報〉もあった!

 生年月日のあやふやは良くある話。逮捕日が特定されないのは、おかしい。


7)鼠小僧は二度捕まった!(最初も10両以上盗むが「死罪」じゃない)

◇「次郎吉は過去に一度、1825年に盗みの疑いで検挙されたが、このときはうまく言い逃れ、中追放(※1)と入れ墨刑だけで済んでいる(※2)」「その後も偽名を使って江戸に舞い戻り…腕の入れ墨は、上から彫り物をしてごまかした」〈日本史の雑学事典/日本実業出版社〉

◇「1825年、義賊?コソ泥?鼠小僧次郎吉捕まる!追放刑に」〈歴史Web/日本文芸社〉

◇「(天保3年/1832年に処刑された)その10年前、28か所の武家屋敷に計32回盗みに入り、計751両を奪い、捕らえられている」「江戸時代は10両以上を盗むと死罪が原則であったが、この際はなぜか死罪を免れ(※2)、腕に入れ墨をほどこされ、追放されている」「それでも懲りず、やけどや切り傷で入れ墨を消し」〈学校では教えない歴史/永岡書店〉


〈注(※1)「中追放/武蔵・山城・摂津・和泉・大和・肥前・東海道筋・木曽路筋・下野・日光道中・甲斐・駿河から追放。主人の娘と密通した人などに適用」〈江戸博覧強記/小学館〉〉

〈注(※2)時代は遡るが、「享保期といわれる8代将軍吉宗の時代には貨幣価値が下落、実情に合わぬため、本来、10両に相当する物を盗めば死罪であるが、御定書通りに適用すればむやみに死罪が多くなるため、町奉行大岡越前守忠相は、10両以上の被害のあった者の盗難届を、あえて9両3分2朱と書き出させ、死罪を免れさせたといわれ、古川柳にも、『何(ど)うして九両(くれよう)三分二朱』と、被害者の不満が皮肉をこめて記されている」「その後…白昼、戸締まりを怠った家に空巣に入ったり、路上で財布を掏り取ったり…胡麻の蠅…枕さがし…このような類の事犯は、被害者の方に油断・落度があったと判断され、泥棒は10両以上の品を盗んでも死罪どころか敲(たた)きといった軽い罪で済まされる」〈大江戸知れば知るほど/実業之日本社〉〉


 「うまく言い逃れ」たのであれば「追放」だけで済んだかも。「751両を奪」ったのであれば、死罪は免れない。「なぜか死罪を免れ」た理由を探るのが筋というもの。前掲注(※2)を読めば少し分かる気もする、そういう「情状酌量」の余地に思いを馳せたい。「初めて屋敷に入ったが何も盗んでいない(初犯)」との言い訳が流布しているが、それなら逆に「中追放」は重すぎる。「盗みについては口を割らず、博打だけ白状して入れ墨追放に処せられた」〈或るネット情報〉も取るに足りない。「判決文」には確かにそう書いてある。しかし、「盗む理由」として口が滑ったのなら自家撞着、無関係な「博打」をわざわざ口にする必要は全くない。

 「判決文」は、疑う必要がある。


8)鼠小僧の生い立ち・盗みの動機は?

【生い立ち】

◇「怪盗鼡小僧次郎吉は堺町中村座の木戸番定七の長男として寛政7年に生まれた」「はじめ建具師に奉公していた」〈読める年表日本史「世相トピックス」/自由国民社〉

◇「江戸の堺町(中央区日本橋)にある歌舞伎の中村座の木戸番である定七の長男として生まれた」「初めは建具職人としてまじめに生計を立てていた」〈日本史の雑学事典/日本実業出版社〉

◇「歌舞伎中村座の木戸番の長男として、今の東京都中央区・大伝馬町と富沢町の境あたりで生まれた…若い頃の次郎吉は建具職人や鳶人足として働くが…父親から勘当」〈裏ネタ日本史/宝島社〉

◇「武家屋敷に奉公した後、鳶人足などを勤めた」〈面白いほどよくわかる江戸時代/日本文芸社〉

◇「職を転々とした」〈歴史新聞/日本文芸社〉

◇「星十兵衛の下で建具職人(松平讃岐守殿)、町火消し一番ろ組の頭取丑右衛門の世話で町方の鳶人足」〈「三田村鳶魚」説を引用したらしい、或るネット情報〉

◇「十三歳で本郷元町松平讃岐守様のお抱え指物師星十兵衛の弟子となり一時は町方鳶の仲間に入ったが」〈或るネット情報〉

◇「十五六まで松平讃岐守御抱え建具屋、星十兵衛の徒弟をつとめあげ」〈或るネット情報〉

◇「建具職人から鳶人足(火消し)に成る」〈或るネット情報〉

◇「出自にも諸説があり、木挽町の船宿の息子、中村座の木戸番の子、柳島妙見の堂守の子などいろいろ言い伝えがある。武家の足軽奉公をしているうちに

身を持ち崩し、つい盗みの道に入ったという来歴だ」〈或るネット情報〉


 何処の馬の骨とも分からぬ者が、最初は武家屋敷に奉公したと同時に建具師としても働き、指物師、鳶人足、町火消しなど職を転々としていた挙げ句父親に勘当され盗人となる。・・・これに「飲む、打つ、買う」が加わるお決まりのコースなのだが、殆どが次なるゴシップ記事のようになるので、無駄な詮索はここらで止めておく。


【動機】

◇「博奕にとりつかれ深川辺を遊び歩くようになったのが、悪の道に踏み込む第一歩」「町方の方がよほど用心厳重で、大名屋敷の潜入は至って簡単、だから大名屋敷ばかりを狙ったのだという」〈読める年表日本史「世相トピックス」/自由国民社〉

◇「ばくちの小遣い銭ほしさに盗みを始め」「幼い頃から高いところに登るのが得意で、身のこなしの軽いのを生かし」〈歴史新聞/日本文芸社〉

◇「奉公の経験と持前の身の軽さを活かし、盗賊家業に足を踏み入れ」〈面白いほどよくわかる江戸時代/日本文芸社〉

◇「やがて博打に手を染め…ついには借金で首が回らなくなり、27歳のとき、泥棒に転身する」〈日本史の雑学事典/日本実業出版社〉

 このような、あたかも見てきたような異口同音が非常に気になる。


9)忍び込んだ屋敷数や回数・金額は?(額に約3千両と1万2千両説あり)

①約3,000両説(最小額から順に列挙)

◇「盗みに入った武家屋敷98か所」「盗んだ金は3000両以上」〈江戸時代年表/小学館〉

◇「計96の武家屋敷で窃盗」「武家屋敷の数は96だが、回数にすると、122回。盗んだ金額は3千両を超えた」〈学校では教えない歴史/永岡書店〉

◇「武家屋敷ばかり百軒近くで」次郎吉が盗んだ現金は「3千両以上」〈歴史新聞/日本文芸社〉

◇「主だったもの120ヶ所のうち、99ヶ所は大名旗本の屋敷だった、記録に残る金高は三千八十五両(3085両)と銭十貫余り…上野図書館に記録がある(辰五月十日、422両の戸田采女正奥蔵を筆頭に99ヶ所)」〈或るネット情報〉

◇「武家屋敷99ヶ所に120回盗みに入り、計金3100両余」〈或るネット情報〉

◇「通算で99ヵ所122度も屋敷に忍び入った」「被害総額は3千120両(約3億1千200万円※)。ほとんどが酒食と博打に使われた」〈面白いほどよくわかる江戸時代/日本文芸社〉

〈注※1両=10万円で計算しているようだ〉

◇「十年間で入った屋敷は95ヶ所 回数にして839回 盗んだ金額は3121両(今の現金に換算すると1億3000万円※)が記録として残っています」〈或るネット情報〉

〈注※1両=約4万2千円で計算しているようだ〉

◇「押し入り箇所・九十九ヶ所、その回数・百二十度、盗んだ金子・約3122両」〈或るネット情報〉

◇「盗みにはいったお大名屋敷が七十六軒、盗んだ金が三千百八十三両二分」〈芥川龍之介「戯作三昧」より、らしい或るネット情報〉

◇「約十年の現役時代76軒の屋敷に入り込み、3,200両」〈或るネット情報〉

◇「前期には武家屋敷に忍ぶこと、28ヶ所、度数32度、盗んだ金が751両1分、銭7貫600文、後期に入って長大足の進歩をとげて、武家屋敷71ヶ所、度数90度、盗んだ金は2,334両2分、銭3貫372文、銀4匁3分、右いずれも塀を乗り越え、あるいは通用門から紛れ入り、主として奥向へ忍びこんで、錠前をこじあけたり、土蔵の戸を鋸で引切ったりして盗み出したもので、そのうち3,321両2分、9貫260文、銀4匁3分、銭700文は衣食住の贅沢につかい。その他は酒色遊興、または博奕のもとに使い、際立って貧民にほどこした形跡はない」〈「江戸から東京へ(四)本所(上)/矢田挿雲」より引用らしいが意味不明な、或るネット情報〉

◇「御三家、御三卿をはじめとして、名だたる武家の屋敷のみをねらった。武家屋敷は120邸、150回以上にのぼり、盗んだ金額は4000両とも、それ以上ともいわれている」〈或るネット情報〉


②約12,000両説(最小回数から順に列挙)

◇「盗んだ金額は一万二千両に及んだが、被害にあった武家屋敷からは一件の被害届もなかったという」〈或るネット情報〉

◇「10年で100回、1万2000両(1両約20~30万円)※」〈或るネット情報〉

〈注※1両=20〜30万円で計算している〉

◇「百回余、およそ1万2千両の金を盗んだと次郎吉は具体的に白状した」〈大江戸ものしり図鑑/主婦と生活社〉

◇「侵入した大名屋敷は百を越え、盗みだした金額はおよそ1万2千両に及んだ。むろん、これは捕えられた次郎吉の自白に基づくものである」〈読める年表日本史「世相トピックス」/自由国民社〉

◇「(次郎吉は罪状をすべて白状した)盗みに入った大名屋敷は、本人が覚えているだけで99か所、122回を数え」「盗んだ現金は推定1万2千両ほど(最低でも6億円は下らない※)。ことごとく博打と女に費やした」〈日本史の雑学事典/日本実業出版社〉

〈注※1両=5万円で計算しているようだ〉

◇「白状しただけでも侵入すること百三十九回以上、盗んだ総額一万二千両余」〈或るネット情報〉

◇「12000両前後、大名旗本150ヶ所」〈「三田村鳶魚」説を引用したらしい、或るネット情報〉

◇「講談などでは、鼠小僧が白状したものだけでも、侵入すること400回、盗んだ総額一万二千両」〈或るネット情報〉


③その他の裏ネタ

◇「妹の奉公先である加賀屋敷にだけは一度も入らなかった」〈裏ネタ日本史/宝島社〉


 詰まるところ正確な数値は分かっていない。当たり前と言えば当たり前。しかし、人を処罰するには、しかも「死刑」である、諸説あっては困る。


10)「元ネタ」の怪

 鼠小僧次郎吉についてあれこれ言われているが、大筋は以下二つの、疑問が多い「史料」に尽きる。押し入った屋敷の名前と金額(回数)が分かる『鼠小僧次郎吉盗入候御名前并金高及仰渡』と、行状及び刑罰が分かる『辰八月十九日町奉行榊原主計頭様被仰渡』(判決文)である。それらは矛盾に満ちている。


①『辰八月十九日町奉行榊原主計頭様被仰渡』(判決文)

 全文を意訳するとこうなる(筈)。

 「天保3年(辰)8月19日を遡ること10年、次郎吉は文政6年(未)以来、武家屋敷に28ヶ所、32回塀を乗り越え又は通用門より紛れ込み、女房部屋(長局)や奥座敷(奥向)等へ忍び入り、錠前をこじ開け、或いは土蔵の戸をノコギリで引き切り、金751両1分、銭7貫500文ほど盗み取り、使ってしまった。この時、武家屋敷へ入ったところを見つかり、数ケ所で(原文も「数ケ所ニて」)盗みを働いたことは隠し通して、博奕を何度かしたことを白状したので、入れ墨の上「中追放」となった。しかし入れ墨を消して誤魔化し、再び武家屋敷71ヶ所、90回、同様の手口で長局・奥向等へ忍び入り、金2,334両2分、銭372文、銀4匁3分を盗み取る有様にて、処罰(仕置)前後に99ヶ所、122回、屋敷の名前を忘れ又は覚えておらず、盗めなかった所もあるが、金高にして約3,121両2分、銭9貫260文、銀4匁3分、この内金5両、銭700文を除き、その他は全て酒食・遊興又は博奕を生業のようにして、残らず使ってしまう始末、許しがたく(不届)、引き回しの上、小塚原(浅草)で獄門に処すことを申し付ける」


【侵入箇所数と回数、金額を抽出してみる】

⑴1回目の捕縛(2回目の捕縛で判明)

 28ヶ所 32回 金751両1分、銭7貫500文

⑵2回目の捕縛

 71ヶ所 90回 金2,334両2分、銭372文、銀4匁3分

⑶通算(本文中の記述)

 99ヶ所 122回 金3,121両2分、銭9貫260文、銀4匁3分

⑷実際の合計(1回目⑴+2回目⑵)

 99ヶ所 122回 金3,085両3分、銭7貫872文、銀4匁3分

→侵入箇所数と回数は合致するが(⑴+⑵=⑶or⑷)、合計金額(⑶と⑷)が合わない。

⑸次郎吉の手元に残された金額

 金5両、銭700文(⑶の判明した全盗難金「3,121両以上」の残り)


②『鼠小僧次郎吉盗入候御名前并金高及仰渡』が解読できない

 ここで屋敷名(盗入候御名前)が挙げられているのは96邸を数える。その他「仁賀保彦殿」を含めて計「97邸(殿)」となる。

 しかし、判決文①の「99ヶ所」とは相違する。


〆凡三千三拾八両程 一本三千弐百六拾何程

   此金高之三千弐拾五両壱朱也

   (右之外 八拾両 仁賀保彦殿)


アラビア数字等に直すと、

「総額約3,038両 1本約3,260 この金高3,025両+1朱(1/16両)その他80両(仁賀保彦邸)」


 仮定として、判明分のみで計算してみよう。3,038両(総額)+80両(その他)=3,118両であり、これなら「3,120両説」辺りとほぼ一致する。判決文の本文①-⑶「金3,121両2分、銭9貫260文、銀4匁3分」とも酷似するが、ともに合致しない。

 そうして、残る「1本約3,260 この金高3,025両+1朱(1/16両)」はお手上げ状態。「1本」とは、通常「銭差し1本100の単位。100文(1文銭)や400文(4文銭)」を指す。但し、「①四文銭の一つなぎ。…一文銭の百つなぎは一筋という」「②金百両・一包みともいう」〈江戸語の辞典/講談社学術文庫〉らしいのでややこしい。

 1,000文で1貫である。1本を4文銭100枚とすると、「1本約3,260」は約13貫(以上)となり、金約2両相当で大した金額ではない(下記「公定(※)」参照)。内訳で1本が付くのは2件のみ、「二十五両 一本二十両 板倉甲斐守様」と「拾両 一本百両余 土井能登守様」。この2件には「両」が付くので「一本」は無視して計算したが(回数はともに2回)、益々分からない。

 「一本」はやはり無視し、「3,260…この金高3,025両+1朱(1/16両)」と解釈した場合は、3,038両(総額)+80両(その他)+3,025両+1/16両=6,143両+1/16両だが、これは誰一人として主張しない金額である。


 江戸時代の貨幣交換レートは「ほぼ毎日変動していた」〈お江戸の経済事情/東京堂出版〉ので、仮に「天保13年(1842)には、銭相場の下落を受けて、金1両=6貫500文に公定される(※)」〈同上〉を採用したとしても、「銭10貫余」は2両に満たず(約1.54両)、如何ように計算しても、「3,085両(+銭10貫余)」(「上野図書館」に記録があるとするネット情報)と合致しない。しかし判決文①-⑷「実際の合計」とほぼ同じ額である。


【内訳の合計額を実際に計算してみた(「余」は除外)】

「3,091両+18分(4両2分)+80両(仁賀保彦殿)=3,175両2分」

「3,106両+18分(4両2分)+80両(仁賀保彦殿)=3,190両2分」

「3,133両+18分(4両2分)+80両(仁賀保彦殿)=3,217両2分」

「3,152両+18分(4両2分)/96件+80両(仁賀保彦殿)=3,236両2分」

「3,182両+18分(4両2分)+80両(仁賀保彦殿)=3.266両2分」

 何度合計計算しても参照した複数文書の数値が合わない。計算違いもあるだろう。見間違いや写し間違いも恐らくあるが、

 例えば「戸田采女正様」の場合、「最多額」なのだが回数は1回、しかし参照した金額は「400両」「420両」「422両」の三通りあった。その他、多数の屋敷で盗られた回数や金額も違う。更に、②で挙げられた武家屋敷とは別に、「(豪商の)伊勢屋四郎左衛門、八百屋善知四郎、安藤小左衛門など11軒がやられた。…西本願寺の用部屋では、信者の供養金が450両も盗られていた」という記述もある(つまり、最多額は「西本願寺」になる)。

 これらの論拠は殆ど見当たらず真偽の程は不明。だが、豪商も「11軒」入られたとしたら、「町家は警備が厳重で狙わず、大名屋敷は入りやすかったからで、義侠心からではない」という理由の一角が崩れる。


 方や、「12,000両」説は一律で、全て次郎吉の『自白調書』なるものに依るらしい。この資料にある個別金額(内訳)を全て足せば3,000両以上にはなるが、1万両を超える額はとてつもなく大きい。残念ながら私はその巨額の内訳を見たことがない。

 江戸時代の金額を現代に換算する時、1両=5万円~10万円と一般に言われる。例えば、その意義などが誤解されている「生類憐れみの令」による「犬小屋」の維持費も、9万8千両(=98億円)とする者は多く、間を取って、「1両=7万5千円」で計算する者もいる。まあそれだけ「いい加減」ということだが、それはともかく、3千両と1万2千両の違いをどう見るか?

 この時期、「文化〜文政期(1804〜29)は、宝暦〜天明期(1751〜88)以来の好景気だと指摘されている。…幕府が町年寄を通じて盛んに江戸の町人に対して資金を貸し付けていたことも、大きな特徴である。…このシステムは、寛政の改革の際いったん中止されていたが、文化11年(1814)から再開され、化政期にはより一層貸付額が増加している。…文政2年(1819)には金1万両、3年は金1,831両であったが4年になって金1万両に復活、7年には最高額の金5万両に達する」〈お江戸の経済事情/東京堂出版〉というから、次郎吉が「泥棒稼業」に入って刑死3年前までの時期である1万両以上の「重み」はとても大きいので、その「事実」を俄に信じることができないでいる。


11)次郎吉は庶民の味方か?(大名は好意的だったのか?)

◇「(次郎吉は)庶民の味方ではなく、むしろ大名から特別の感情をもって迎えられていたようである」「捕縛した日本橋浜町に屋敷を構える松平忠恵(ただしげ)は、捕らえた泥棒が鼠小僧であることを知ると、『評判の鼠小僧と知っていたら捕らえたりはしなかったのに』と残念がっていた」「2度も鼠小僧にねらわれた平戸藩も決して恥とは思わず、逆に被害にあったことを楽しんでいる風潮すらみられた」〈江戸時代年表/小学館〉

◇「盗みに入られた武家からは、面目を重んじ一件も盗難届けが出されていなかった」〈大江戸ものしり図鑑/主婦と生活社〉


①「義賊」説(「噂」を含む少数意見=「同書」で真逆の解説あり)

◇「10年もの間捜査当局の追及をかわし続けていた」が、「盗んだ金品を人々に分け与えることもあったため、義賊として町人のあいだで人気が高かった」「一部は町民にも渡していたので、かわら版などでも義賊としてたびたび登場しており、その生涯を講談や芝居にしようという戯作者もいる」〈歴史新聞/日本文芸社〉

◇「盗んだ金を貧乏人にくばった義賊」〈大江戸ものしり図鑑/主婦と生活社〉

◇「(引廻しの上、獄門になったが、)庶民には義賊として人気が高かった」〈読める年表日本史/自由国民社〉

◇「盗んだ金を貧しい人々に与えたり、一度盗んだ物の、事情を聴いてはまた元の所に戻したなどと伝えられている」〈或るネット情報〉


②「義賊」否定説(大半の見解)

◇「史実の鼠小僧次郎吉は、義賊(正義の泥棒)などとは程遠い人間である」〈日本史の雑学事典/日本実業出版社〉

◇「かくて鼠小僧『義賊』説は確実に嘘である」〈間違いだらけの歴史常識/新人物往来社〉

◇「世にいう義賊ではない」〈読める年表日本史「世相トピックス」/自由国民社〉

◇「幕末の不穏な空気が、一介の盗賊を庶民の英雄とした」〈面白いほどよくわかる江戸時代/日本文芸社〉

◇「盗んだ金を庶民に配ったというのは作り話で、じつは博打や酒に使い果たしたという」〈江戸時代年表/小学館〉

◇「いわゆる義賊鼠小僧は、徹頭徹尾、紙の上と舞台の上の想像物で、実物の鼠小僧は義賊でも何でもない」〈或るネット情報〉

◇「そもそも、鼠小僧自身、自分が義賊であるとは言っていないし、町中にお金を恵んでくれたという噂もない」〈或るネット情報〉


③先輩(?)のお陰で「義賊」伝説

⑴木鼠(きねずみ=リス)小僧

「木鼠小僧の義挙…木鼠長吉はやや早く享保年間(1716〜35)の泥棒だが、こちらは両国橋で実際に人助けをした。娘を売った五十両をスリに取られた老人が橋上から身を投げようとするのを抱き止め、盗んだ金をそのまま持たせて上州へ帰した。このことが大岡越前の耳に入り、軽罪の扱いで釈放された。この話が鼠小僧へ持ちこまれたのだが、肝心の木鼠自身その存在も怪しい」〈間違いだらけの歴史常識/新人物往来社〉


⑵稲葉小僧

◇「次郎吉が〝義賊〟とされたのには訳があった」「50年ほど前の天明5(1785)年に捕縛・処刑された稲葉小僧という先輩がいた」「武家屋敷を中心に狙い、こちらは実際に貧しい人々へ施したこともあったらしい」「この先例があったから、江戸庶民は、道端に金が落ちていようものなら『鼠様の御恵みだ』とばかりに懐へ入れていた」「後、彼と稲葉小僧のキャラクターを混ぜ合わせた実録本『鼠小僧実記』が出版されると、鼠人気は再燃し、二代目・松林伯円の講談や歌舞伎も出て大ブームとなった」〈面白いほどよくわかる江戸時代/日本文芸社〉

◇「実録本が稲葉小僧の話とないまぜにして義賊に仕立てあげ、白浪物を得意とする講釈師松林伯円が高座にかけ、河竹黙阿弥が歌舞伎化『鼠小紋東君新形』(ねずみこもんはるのしんがた)として安政4年(1857年)に市川小団次主演で幕をあけ、同時に同題名の合巻が出版されて、一躍、幕末の鼠小僧ブーム」〈大江戸ものしり図鑑/主婦と生活社〉


12)「義賊」とは何か?(次郎吉の場合)

〈日本史の雑学事典/日本実業出版社〉によれば、義賊に祭り上げられた「理由」として、

1.「大名相手に莫大な金を奪」い「庶民が溜飲の下がる思いを持った」

2.「人を傷つけたり、殺したりしなかった」

3.「鮮やかな死に方」

の三つを挙げている。

 その他、「次郎吉は女房や妾に離縁状を渡しておき、悪事露見に備えていた」〈大江戸ものしり図鑑/主婦と生活社〉ので、既に親から勘当されていた(「無宿」と見做される)こととも相俟って、「身内に迷惑をかけなかった」という点も挙げられる。

 しかし、「町人の味方」かどうかは疑問視され、多くが否定する。「後世の歌舞伎のような庶民の味方ではなく」〈江戸時代年表〉、単に「義賊伝説化し」〈日本史の雑学事典〉、「大名から奪った金を貧しい家々に投げこんだという尾ヒレまでついた」〈学校では教えない歴史〉と。だが私は逆に、次郎吉は伝説化の前に既に「義賊」であったと思うようにしている。


◆次郎吉は、義賊だったと私は思う◆

 私は所謂「悪徳商人」や「悪代官・悪大名」の類いは一切信じない。町方には入らず大名屋敷に忍び込んで大金を盗むことにも共感を覚えない。

 この時代に「幕末の不穏な空気」を庶民が感じていたなども信じない。地方では確かに景気が悪く治安も悪かったようではあるけれど、江戸の町はそれほどでもなかった。寧ろ景気が良かった時代に当たる。まあ、そういう分析は専門家にお任せするとして、「悪い者は悪い」という極めて一般的な常識は健在だったと思われる。


 「判決書には『盗んだ金は残らず酒食遊興に費し、あるいは博奕を仕事同様にして、全部使い捨てにした』と書かれた。少なくとも、貧しい庶民に分け与えることはしなかったのである」〈学校では教えない歴史〉と結論づけている者がほとんどで、勿論肝心の「判決文」に一切「貧しい庶民」は出てこない。だが逆に、自分一人で浪費したと「判決文」にわざわざ書くことで、暗に「貧しい庶民に分け与えることはしなかった」と匂わし強調することにこそ、私は「疑念」を抱く。

 10両盗めば死刑になった時代である。大胆不敵にも大大名屋敷に幾度も忍び込んだ盗人である。仮に貧しい庶民に与えたからと言っても「情状酌量」の余地はない。その金子がどのように使われたのか、実際それらはどうでも良い話であろう。ましてや「英雄扱い」する訳がなく、徹頭徹尾「罪人」として扱う。それでも、「人殺し」や「傷害」や「脅し」などをでっち上げることは出来なかった。

 「判決文」に「長局」と書いてあるだけで飛びつく輩は胡散臭い。女が居る所は狙いやすく逃げやすい、などと言いふらしているが、例えば「土蔵」に忍び入ったことには触れない。そういう類いのゴシップにも尾ヒレが付き誇張され拡散していく。

 庶民は、金持ちからカネを奪ったということだけでは決して喜ばない。注目は集めるだろうが賞賛しない。「義賊では無かった」という当時の「かわら版(※1)」の一つや二つでも出してみれば話は別であるが、私は見たことや読んだこともない。


 私は、人々が言い伝えている良心的な「噂」の底にある核心に共鳴する。

 鼡小僧次郎吉は、正真正銘の義賊であった。


〈注(※1)「かわら版のはじめ/元和元年(※2)大坂夏の陣の様子を描いた『瓦版』の二枚が現在伝わっているが、これが『瓦版』の第一号と考えられている。一枚は『大坂安部之合戦之図』、もう一枚は『大坂卯年図』と題されたもの」〈読める年表日本史/自由国民社〉〉

〈注(※2)元和元年(1615)は慶長20年7月13日に改元された。大坂城の落城が5月8日。慶長20年/元和元年の干支は乙卯〉

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