第2話 鼠小僧のお墓は二つある

1)鼠小僧次郎吉のお墓は二つある

①回向院

ブルーガイドパック(50)『東京下町』〈実業之日本社/1993年発行〉を読むと、

【両国・亀戸】のページには、

「回向院(※)/明暦3年(1657年)の振袖火事の焼死者10万8000余人の菩提を弔うため建立された浄土宗の寺で、その後、安政・大正の震災や牢内病死などの無縁仏も葬られている。江戸時代に境内で勧進相撲も行なわれたという」「境内に明暦大火焼死者、安政と大正大地震犠牲者の各供養碑のほか、竹本義太夫、戯作者山東京伝、鼠小僧次郎吉らの墓もある」とあり、

【千住・西新井】のページには、

「小塚原回向院/寛文7年(1667年)両国回向院(※)の別院として住職弟誉義観が小塚原縄手に堂宇を建てたのが始まり」「もと小塚原刑場跡で、…ここに寛保元年(1741年)刑死者供養のため建立された」「小塚原の受刑者・安政大地震の犠牲者ら20数万人を葬り、勤王の志士橋本左内、相馬大作、関良助はじめ鼠小僧次郎吉、直侍の片岡直次郎、毒婦高橋お伝らの墓がある」とあった。

〈注※「回向院」は通常「両国回向院」を指す〉


つまり、安政大地震の犠牲者と鼠小僧次郎吉には、両国回向院と小塚原回向院との、2つの墓があると読める。安政大地震犠牲者の供養碑・無縁仏は両国の回向院にあり、(その他の?/身元判明の?)犠牲者の墓は小塚原の回向院にある、と読めなくはないが、

少なくとも「鼠小僧次郎吉の墓」については、両国と小塚原にある、ということであろう。しかし、

えっ「墓が二つ」? そんなことがあるのだろうか?


②鼠小僧のお墓は二つあった!

「次郎吉の墓/本所の回向院に入って左手奥に建つ」〈江戸時代年表/小学館〉とし、お墓の写真も掲載している。これを見る限り、一つは(両国の回向院)にある筈で、

さらに〈大江戸ものしり図鑑/主婦と生活社〉によれば、

「鼠小僧次郎吉の墓が小塚原回向院と両国回向院とに二つあるのは、往年の人気のほどを物語る」とある。


③明暦の大火(振袖火事)と回向院〈江戸時代年表〉

明暦3年(1657)

 1月18日 明暦の大火。

 1月20日 幕府は、江戸市中6か所で大火被災者への施粥を開始(2月12日まで)。

 2月29日 本所に万人塚を築く(のちの回向院)。

宝永3年(1706)

 1月 回向院で「明暦の大火」焼死者50年忌。


④地名などの再確認

鈴ヶ森

 東京都品川区南大井二丁目付近の旧称。小塚原とともに,江戸時代の刑場として有名。

小塚原

 荒川区南千住五丁目付近にあった江戸時代の刑場。

回向院(両国回向院)

 墨田区本所地域内に所在していることから「本所回向院」とも呼ばれている。

南千住回向院

 荒川区南千住五丁目にある寺で、過去は両国回向院の別院。現在は独立して正称は豊国山回向院。小塚原回向院とも。


2)鼠小僧の処刑はいつ何処でなのか?

〈読める年表日本史/自由国民社〉の「年表」では、「鼡小僧次郎吉が処刑された(1832年3月)」と題しておきながら、その説明では「8月19日、引廻しの上、獄門になったが、庶民には義賊として人気が高かった」と、矛盾した全く違う「日付」を載せている。

ところが、さらに詳細な同「世相トピックス」では、「鼡小僧略伝」と題して、

「天保3年3月処刑された」と、問題をぶり返している。

〈江戸時代年表〉によれば「3月」ではなく、天保3年(1832)8月19日。


◆鼠小僧が生まれたのはいつか?

◆磔(はりつけ)と獄門、だったのか?

◆刑場は小塚原と鈴ヶ森、どちらなのか?

以上をまとめて書籍別に見てみよう

〈歴史新聞/日本文芸社〉によれば、

 「引き回しのうえ小塚原でさらし首になった」

 「寛政7年(1795年)生まれ・享年38歳。(1823年頃・29歳から泥棒家業)」

〈面白いほどよくわかる江戸時代/日本文芸社〉では、

 「市中引き廻しの上、小塚原で磔・獄門」

 「寛政7年(1795年)生まれ・享年38歳。(文政6年/1823年・29歳から泥棒家業)」

〈読める年表日本史/自由国民社〉では、

 「鈴ヶ森で磔」

 「寛政7年(1795年)生まれ・享年38歳。」

〈江戸時代年表/小学館〉では、

 「市中引きまわしのうえ獄門」

 「寛政9年(1797年)生まれ・享年36歳。」

〈日本史の雑学事典/日本実業出版社〉では、

 「市中引き廻しのうえ、獄門…鈴ヶ森の刑場に露と消えた」

 「寛政9年(1797年)生まれ・享年36歳。(1823年・27歳から泥棒家業)」

〈大江戸ものしり図鑑/主婦と生活社〉では、

 「鈴ヶ森で獄門」

〈江戸300年の舞台裏/青春出版社〉では、

 「小塚原で処刑された」

〈学校では教えない歴史/永岡書店〉では、

 「市中を引き回され、死刑…36歳ないしは38歳」


・・・よく読み比べて欲しい。

小塚原で処刑(※恐らく「磔」)

小塚原でさらし首(※「獄門」=さらし首)

小塚原で磔・獄門

鈴ヶ森で磔

鈴ヶ森で獄門

(獄門)鈴ヶ森の刑場に露と消えた


たとえお墓が二つあろうとも、刑場二つはあり得ない。

然るに、「小塚原で磔・獄門」と「鈴ヶ森で磔・獄門」とに分かれた。

享年も36歳と38歳に分かれるが、刑死は天保3年(1832)で一致した。


〈東京大学史料編纂所データベースより〉

【史料群名】 東京市史稿 37巻626頁 【和暦年月日】 天保3年8月19日(18230080190) 2条 【綱文内容】 〔附記二〕鼠小僧次郎吉、捕らえられ引廻しのうえ獄門を申し付けられる、 【出典名】 泰平年表・巷街贅説


〈判決文〉

辰(※1)八月十九日町奉行榊原主計頭様被仰渡(おうせわたされる)

                            異名鼠小僧事

                             無宿入墨

                           次郎吉 三十六歳

(中略)

・・・不届ニ付挽回し之上浅草(※2)に於て獄門申付

  辰(※1)八月十九日

〈注※1:天保3年(1832)は干支の「壬辰」の年。「辰」は十二支。※2:「浅草」「千住」は、「小塚原」に同じ〉


以上2件より今のところ分かったことは、

 (恐らく、)天保3年(1832)8月19日、鼠小僧次郎吉は36歳で、市中引き回しの上、浅草(小塚原)で刑死(獄門=さらし首)したことになるが、「磔」については触れていない。


3)両国回向院と小塚原回向院に行ってみたが、悩みは尽きない。

両国回向院の墓には、

「天保二年八月十八日 俗名中村次良吉之墓 教覺速善居士」

小塚原回向院の墓には、

「天保三年八月十九日 源達信士 俗名鼠小僧」

と刻まれており、何と没年が、一年と一日も違っていたのだ。

また、首は両国回向院にあり、胴体は小塚原回向院にあると、一部ネット上ではまことしやかに伝えている者もいるが、

小塚原回向院の職員の説明では、少なくとも「遺体」は墓(小塚原)には存在しないとのこと。さらに、小塚原で処刑されたかどうかも定かでないとの説明を受けた。

ところで「判決文」が正しいなら、小塚原回向院の没年と完全に合致している。他方、「本家」の両国回向院は全くの間違いとなるのだから頭が痛い(「別人」とも考えられるが、それもおかしい)。小塚原回向院が発行した小冊子(平成19年5月12日初版第1刷)にある「磔、獄門」も、どうなの? と考え込んでしまう(判決文では、「浅草に於いて獄門」とあるが、「磔」については触れていない)。


(「鼠小僧次郎吉」はまだ続く・・・かも?)


〈以下、余談〉

 ネット上では、(両国回向院について)「天保三年八月十八日、俗名中村次郎吉之墓 その墓石には、はっきりと刻まれていました」という書き込みも見かけるが、没年(天保二年)も名前(次「良」吉)も違っており、実際に見て書いたとは思えないことをあたかも「事実」として発信する無責任が目立つ。

 また別の書き込みでは、(両国回向院の墓石上)「没年は天保二年のように見える」との表現も気になっていたが、正しく「天保二年」以外に読みようがなかった。刻印が薄くて読めない、棒がもう一本(「三」にも見える)あるのかないのか、といった事態を期待したが、期待はずれ。だから尚更悩むのだ。

 尚付け加えると、名前に「中村」が冠されているのは、父親が「中村座」の関係者だったからだろうと思われる。


 百聞は一見に如かず。

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