間違いだらけの日本史

第1話「半ドン」について

「半ドン」について(「ドン」はオランダ語か、「号砲」か?)


「明治4年(1871年)9月9日から、江戸城本丸(※)で午砲(ドン)を打つ」〈読める年表日本史/自由国民社〉

これを読んで「半ドン」の語源と思う方も多いかも知れないが、


「東京では1871(明治4)年5月1日から市中3カ所で正午を知らせるサイレンが鳴らされたが、太政官の達しにより9月9日からは江戸城旧本丸跡(※)におかれた大砲で正午の号砲が発せられた。これを『ドン』と呼んだが、大砲の発射音から来た名称である。…土曜日はドンが鳴って半休日になるから、『半ドン』の語が起こったと思いがちだが、そうではない。休日を意味するオランダ語の『ゾンターク(Zontag)』がなまって『ドンタク』、その半分の休みなら『半ドンタク』ということになった。『博多どんたく』の語源でもある」〈日本史こぼれ話/山川出版社〉

天下の「山川」である。これに代表される「オランダ語」説が殆どなのである。しかも全てが「断定」だ。

〈注(※)江戸城本丸は文久3年(1863)11月15日の炎上を最後に、焼失している〉


その他の例。

1)「明治時代、日曜日・休日のことを、オランダ語のzondagからドンタクと言ったが、土曜日のように半日が休みの場合について、半分のドンタクという意味で、『半ドン』と称した」〈暮らしのことば語源辞典/講談社〉

2)「半ドン/〔ドンタク(=日曜日)の半分の意〕土曜日。また、半日休みの日」〈大辞林〉

3)「半ドン/(半ドンタクの略)午後が休みの日。土曜日」〈広辞苑〉

4)「はんドン/(中国語)土曜日。仕事を半日しかしない日。『雇人等の半ドン』片山潜【自伝】1920(年)/『現今、府下の婦人小児は、土曜日を半ドンという。これ、日曜休日をドンタクといい、土曜日は半日休なればなり』石井研堂【増訂明治事物起源】1926(年)」〈外来語辞典/あらかわそおべえ著・角川書店〉


しかし私は、「午砲説」を昔から固く信じてきた一人なので、次の一文に縋る。

「ドンタク/…半ドンのドンはこの語の略とする説もある」〈カタカナ語8000早わかり事典/主婦と生活社〉

「…とする説もある」ので、少し救われた。


そもそも、オランダ語のドンタクが、博多や知識人の間でならイザ知らず、東京では一般的・庶民的な言葉だったのかどうか? 江戸時代に一部浸透したオランダ語が、果たして新生明治時代にも受け継がれ、かくも庶民の間で流行り定着するものなのか?(※)

〈注(※)1874年(明治7年)の「時勢をあらわすはやり唄」に「おいおいに開け行く、開化の御代のおさまりは・・・日の丸クラブや牛肉屋、日曜、ドンタク、煉瓦づくりの石の橋」があったという。『読める年表日本史』より〉


明治4年前後の歴史を色々調べてみても、何故「半ドンタク」なのか全く分からない。面白いのは、号砲を放ったとされる前日の9月8日には、海軍条例が施行され、海軍部が設置されていることだ。(同年7月28日には陸軍条例施行・陸軍部設置)


午砲(どん)の意味を調べる。

「午砲/正午を知らせる号砲。どん。1871年(明治4)以降1922年(大正11)まで行われた」〈大辞林〉

「午砲/正午を報ずる号砲。→どん」「どん/正午を知らせるために空砲を発したもの。東京では1871年(明治4)に始まり1929年廃止。午砲」〈広辞苑〉

何と、「廃止の年」が7年も違うではないか?

又頭が痛くなってきた。しかし思い直して、〈大辞林〉でも同じ「どん」を調べた。

「どん/正午に鳴る号砲。明治初期から1929年(昭和4)まで、東京丸の内で、空砲を鳴らして正午の時報としたもの」〈大辞林〉

何度も目をこすりながら読み返した。「1929年(昭和4)」とあるではないか! では一体、同じ〈大辞林〉※の「午砲」の説明は何と解釈すべきだろう?

・・・「誤報」か?

〈注(※)『大辞林』三省堂はいずれも第二版新装版1999年10月1日発行。20年も前なので、現在の内容は訂正されている可能性がある=要確認〉


さらに、幾つか見られる「東京では」という謂いが気になる。

果たして東京以外の地方にもあったのか? あったとしたなら、何処にあったのか?


ついでだが、

「チャリンコ(チャリ)」の語源も気になる。最有力な「自転車のベルの音」や、チャーリーというアメリカの警官が乗るから、など諸説あるが、本当の所は不明だ。

しかし、こちらは断定を避けている。

私の子供の頃には聞いたことがない「愛称」だが、その発生時期を明確にした話も聞かない。これも「歴史」の一部と思う。が、「違う」から軽視され、究明されないでいる事柄なのか?

いつの頃から「チャリ」が使われるようになったのだろう?

「チャリ〔(中国語)阿闍梨〕おどけた文句。」〈外来語辞典/あらかわそおべえ著・角川書店〉/「阿闍梨場…‘チャリ場’と転訛…チャリ…道化滑稽…上方劇界に通用し、遂に上方の普通語となった」〈『日本文学大辞典』1963(年)〉

「チャリオット(ラテン>フランス>英語)二輪馬車。戦車。花馬車」「二輪車(チャリオット)」〈外来語辞典/あらかわそおべえ著・角川書店〉


・・・話を元に戻そう。

1)「1876(明治9)年3月12日、官庁、日曜を休日、土曜を半休とする」〈日本史年表/東京学芸大学日本史研究室編/東京堂出版〉

2)「(1875年/明治8年)女子師範学校の開校に先立ち、門番に50歳以上の老人2人を募集したところ、160人の応募があった。月給はたった5円。ドンを鳴らす外人技術者の月給は300円」〈読める年表日本史〉


〈学校では教えない歴史/永岡書店・2002年2月10日発行/フリーランス歴史研究会編著〉に次の記述があった。

「明治の文明開化を迎え、大きく変わったものに、時刻制度がある。…江戸時代、人々は日の出と日の入りを堺に、それぞれ昼と夜を6刻、計12刻に分けていた…不定時法を改め、一挙に西洋式の定時法に改めた。…切り替えに当たって、大砲を打った。東京では明治4年(1871)9月9日から正午になると、旧江戸城本丸から『ドーン』と砲声をとどろかせたのである(大阪では、前年の明治3年から)。…海軍士官が時刻の指示に当たった。海軍士官が時刻の管理を委ねられたのは、測時法が近代航海術に不可欠であったからである。…東京市民は正午の『ドーン』を聞くと、時計を正午12時に合わせ、定時法という新しい『西洋時間』の時代になったことを実感する…明治14年になると、もっと遠くまで響かせるために、新しい大砲が鋳造されている。…昭和4年(1929)…号砲は費用がかかるのみならず時刻が正確を欠くという理由で、サイレンに変更された。…砲声は止んだが、サイレンの音を聞いても、東京市民は『ドンだから昼飯にしよう』といったものだった」


これで海軍との関連が分かり、号砲の導入理由も分かり、東京の他大阪でも前年から行われたことが分かった。非常にもっともらしい解説だ。

広辞苑や大辞林やその他諸々が束になって何を言おうが、半ドンは半ド〜ンだ!!

と、自信を持とう。

「1921年(大正10)3月22日、正午をしらせるドンが鳴らない。雷管を充填できなかったためだが、これは明治4年9月9日ドン開始以来はじめてであった」〈読める年表〉


人は常に自分の思う所に引き付けてその同じ理屈を見い出し賛同を得ようと藻掻く凡人に過ぎない。


「1894年(明治27年)・・・京都で時報のドンに苦情が多く、知恩院の鐘を鳴らそうとの説もでる。山が多くてきこえにくい、近いところでは音が強すぎて棚の物がおちるなどの被害がでたため」〈読める年表〉


私は他人がどう言おうが、今でも「号砲」説を固く信じて疑わない。

これぞ、大「どん」でん返し?

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